平田大壑先生の道書は次の通り。
「神仙の古説にて、神州の神世の有状を伝へし説なれば、古学の古眼をもて見るべし。俗学の今眼を以て見ること勿れ」。 |
「苟くもその門を得て入らざる者は、之を示さず矣。苟くも之を示さば、必ず天老を輕んじ、天機を漏らし、天藻を慢するの罪を逃がるところなけむ矣。豈にたゞにその□[門+困]域を窺ふこと能はざるのみならむや」。 |
贈從四位・越前參政・雪江中根靱負平師質翁の『三五本国攷の序』は次の通り。
「質(雪江翁)、かって本居先生の『古事記伝』を読み、古道を崇信す。その後『霊の眞柱』を読み、始めて世に平田先生有るを知り、心に竊かに之に嚮往す。天保戊戌の夏、江府に祗役し、遂に贄を執り、先生を気吹舍に謁す。先生、欣然としてつぐるに、『古道の原始を以てす』。その学的を與へて曰く『荒鴻の時、参神、造化の首めを作し、二霊、群品の祖と爲りたまふ。これより以來、神聖、迭ひに興り、天地を經緯し、四方を綱紀したまへり。神皇之道は、自らその中に存す。彼の赤縣の、聖に擬し、いわゆる聖人之道を擬造するが如きに非ず。故に古道を学ばんと欲すれば、その古始を知らざるべからず。而して皇朝の神典は、幽深玄遠、窺測し易からず。是を以て世儒俗士、目するに荒唐不經と爲し、之を高閣に束ね、力をその間に用ゐる者なし。余、自ら斯道に志して、心を神典に潛め、先哲、未だ発せざる所を発す。故に立論の間、世を駭かし詆りを取る者、少なからず。而して及門の士と雖も、余が説を聴き、余が書を読み、暗通默契、説(よろこ)ばざる者なきに非ざれば、則ち與に共に語るべからざる也。吾子、それ勉旃(つと)めよ』と。文久二年六月、越前・中根師質、謹みて撰す」。
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六郷政鑑翁『赤縣太古伝の序』。
「太上は徳を立て、その次は功を立て、その次は言を立つ」と。言を立つるは、功を立つる所以、功を立つるは、徳を立つる所以ん也。我が大壑翁(平田篤胤先生)、古典を正し、古義を明らめ、学者を適従する所を知らしめて、その言の波及する所、異端の道と雖も、亦た皆なその情を遁るゝこと能はず。
けだし上皇太一(天之御中主大神)は、混成の神、無窮の先より、天極紫微宮に居し、無爲の玄徳を以て、盤古眞王夫妻(皇産靈大神)を生ず。即ち大元の神気、化して混沌たる一物を生ず。而して万八千歳甲子冬至、天地開闢す。是に於て天皇太帝(伊邪那岐大神)出で、元を斟み樞を陳ね、四維を張りて、之を運すに斗を以てす。これより神眞相継ぎ、□[獸偏+巨]神氏の百四十一年に至りて、月始めて分判運行し、日月五星、倶に牽牛初度に起る。而して大昊伏羲氏(大國主大神)の作れるや也、仰觀俯察、以て神明の徳に通じ、蠢化蠕動の民をして、倫理教養有らしむ焉。唐・虞の際に及びて、五帝の徳、稍々陵遲す。夏后氏、獨り其の徳に恥ぢず、民も亦た素朴なり。而して猶ほ能く此の道に率ひ、此の教へに由る。夏后氏亡びて、斯道、遂に衰へ、譎詐放伐の風、大いに行はる。秦・漢以來、諸氏百家の説、紛紜、一ならず。上古の言に至りては、則ち以て荒唐と爲して、一りも講究する者有ること無し。是に於て異端の教へ、益々隆んなり。莊生が所謂る「道術、天下の爲めに裂くる」者に非ずや。
それ我が天孫降臨、顯幽分界、爾來四千九百年、皇統緜緜、天地と共に窮りなき者は、他なし、惟神、三才を御し、幽には則ち顯を護り、顯には則ち幽に事へ、祭政、二つ無き所以ん也。然るに中葉以降、紀綱、漸く弛み、操觚の士、名義を誤る者も、亦た鮮からず焉。方今、海内、鼎に新たに、車書、軌を同じうす。夫の蠢爾、菽麥を弁へざる者の若きも、なお赫赫たる天統、三本爲る所以を知らざる者なし。我が大壑翁の出づるに及びて、諸学を研究して、各々その淵源に原き、先哲未発、万古、易ふべからざるの言を立つ。裁成輔相の才と謂ひつべし。老子のいわゆる「能く古始を知り、道紀を以て、自ら任と爲し、而して言を立て功を立て徳を立つる」者也。遂に書して、以て序と爲す。明治三年庚午仲春、從五位・藤原朝臣の六郷政鑑、謹みて識す。 |
矢野玄道翁『赤縣太古伝の序』。
菅公の謂く、「国学の要は、倭魂漢才に非ざれば、その□[門+困]奧を窺ふこと能はずか」と。大なるかな、言(こと)。けだし倭魂なる者あり、漢才なる者あり。我に在る者あり、彼に在る者あり。それ人、我に在るや、彼に亡し、彼に在るや。我に亡し、我に在る者は、以爲はく、彼れ取るに取らざる也、と。彼に在る者は、以爲はく、我れ言ふに足らざる也、と。苟くも倭魂ありて、漢才なきときは、則ち以て言ふべく也、以て道に適すべく也、以て爲すことあるに足らざる也。苟くも漢才ありて、倭魂なきときは、則ち以て取るべく也、以て見るべく也、以て道に適すべからざる也。故に以て見るべく、以て取るべく、以て道に適すべく、以て爲すことあるべき者は、それ惟だこの二の者を兼ね有ちて、後に之を能くせむ。是を以て之を兼ね有つこと、難し矣。之を兼ね有つこと易くして、その□[門+困]奧を窺ふこと、難し矣。その□[門+困]奧を窺ふこと易くして、その奧室を極めて、之に安處悦樂すること、難し矣。
嗚乎、公の聖の、徳の大なるに非ざるよりは、それ孰れか能くこれを発せむ。有徳の者は、必ず言へることあり。果して信なり矣。而して吾が大壑先生の学は、焉れを取れり。而してそのいわゆる学とは、常学に非ず也。神習を言ふ也、道を学ぶ也。道とは、常道に非ず也。惟神の道を言ふ也。その道爲る、泰初の時、皇祖天神、高天に在り。親躬ら之を以て、諸れを我が天孫に伝へ、以て葦原の中つ国に照臨せしめたまふ矣。是に於て天孫、襲の嶺に天墮したまひ、宸極を高千穗の宮に正しうし、恭しく天の休命に順ひ、天地の大道を裁成したまふよりの後、神子・神孫・列聖相承け、加ふるに皇子・諸王・臣・連・伴の造の良弼輔相を以てし、世々天職に供し、以てその上に奉ず。歴世、墜つることなく、无爲にして治り、无言にして化し、言つて方なく、令せずして行はれ、行ひて迹なし。皆な未だ斯の道に由らざること莫き也。
豊明の宮に御□[ウ+禹。あめのしたしろしめ]し天皇の朝に至る迄で、皇祖天神、詔有りて、諸藩に錫ひて、我に臣属せしめたまひ、然して后ち四夷歸嚮し、八荒朝貢す。ここに於て異教の来る、因りて漸きことあり矣。是の故に先聖、之を漢に竺に執ることあり。また未だ蒭□[艸+堯]に詢ひ、異聞を廣め、九州を統馭し、万国を覆□[巾+壽]し、以て我が神風の微意を扇動せむと欲するに過ぎざるのみ焉爾。而して独り禍と福と相倚り、善と惡と相踵くことを奈むせむ。皆な天理の寓する所にして、斯れその末弊、勝げて言ふべからざる者あるに至る。これ、豈に先聖の情ならむ也哉。それ惟みれば、裁成輔相、一に先聖の道に循襲せる者、未だ菅公より盛んなるは有らざる也。故にその眞誥に之れあり。曰く、「国を治むる者は、神国の玄妙を以て、之を治めむと欲す。神国の玄妙、豈に他有らむや」と。而して吾が大壑先生の学は、焉れを宗とす。それ国家の盛衰は、必ず道に期つことあり。而して道の汚隆は、必ず人に期つことあり。道は人に因りて行はれ、政は道に因りて挙がる。政挙がりて後、无爲の教・无爲の化、以て成ることあるべし。これ勢の自然なる所にして、菅公の聖を以て、延喜の際に容らるゝこと能はず。則ち道の汚隆興廃と、国家の成敗盛衰と、実にこれに係れり。未だ必ずしも知士を待ちて、後に知らざる也。蓋し公の陟するより、而して后ち千余年所に庶幾し矣。漢・竺の学は、臠卷□[人+倉]嚢、天下に盈溢す。天下の人、仏に帰せざれば、則ち儒に帰す。儒に帰せざれば、則ち道に帰す。道に帰せざれば、則ち神に帰す焉。その神と云ひ道と云ふ、皆な儒仏の糟粕に沈湎せざるはなし。而して神、神ならず、道、道ならざるときは、則ち神州の人、殆んどそれ戎狄ならざらむ乎。之を皇祖天神、磐窟を□[門+必]ち、而して□[日+昏]昧、長夜の若く、暴賊姦鬼、猖獗、自ら恣なるに譬ふ。大哀と云わざるべけむや。
輓近に至りて、荷田・賀茂の二翁あり。首めて国風を唱へ、古道復興す。本居翁の作るに及び、盛りに惟神の道を閑り、□[示+夭]気を歐り、獰鬼を屠り、異端を闡き、邪説を迸らす。これに於て天下の人、始めて盛昜の光を望むことを得たり矣。而してそれ五石を煉り、鼇足を断ち、天柱の缺を補ひ、地維の傾くを正すの功の如きに至りては、則ち独り我が大壑先生を待つこと有り焉。先生、克く翁の志を継ぎ、玄鏡幽鑑、環朗洞照、倭魂の□□[糸+因。糸+温の右]たる、□[艸+宛]として五嶽の崔嶷の若く、漢才の□[三水+弘]邃なる、混として尾閭の底なきに似たり。故に能く九霄に逍遙し、八隅に籠□[買の上+卓]し、窈冥汗漫の原に出入す。ここに深く天朝の金匱玉版、神典の錯亂を憂ふることあり。神聖を祖述し、眞誥を憲章し、始めて神史を整齊し、古史の伝を脩む。また赤縣の史籍、久しくその眞を失ふこと有ることを憾みて、『赤縣太古伝』十又二卷を作る。上は天地剖判より昉めて、下は夏禹氏の世に終はる。その志は、けだし云う、今の天地は、なお古への天地のごとし也。古への日月星辰は、なお今の日月星辰のごとし也。而して我が神州の戴く所の日月星辰と、彼の諸藩の戴く所の日月星辰とは、未だ始めより二つあらずして、一爲るときは、則ち彼と我とは、上古の載(こと)、齊しく一に出づるや也、また論なし。是の故に我が正を以て、彼が訛を辨し、彼が醇を擇びて、我が逸を補はむこと、それ將た庸(も)て何ぞ傷まむ乎。是を以て赤縣の子・史・遺逸・舊聞を罔羅折衷し、取る可きは則ち取り、刪るべきは則ち刪り、推して之を討し、引きて之を衍し、紊るゝ者は之を貫き、離るゝ者は之を属し、疏して之を□[淪+口三]し、燭して之を明かにし、悉く諸れを我が神典に徴し、一たび成して純なり。豈に諸れを天地に建てゝ悖らず、千載、以て聖神を待ちて疑はざる者に非ずや。
不敏、玄道の如き、幼くして父の訓へを奉じ、篤く古道を信ず。先生の書に於て、悦ばざる所ろ靡し。而して志を赤縣の史に惑はすこと有ること、久し矣。この書を受けて、之を読むに及びて、然して后ち、昔日の曖昧なる乎、恍の如く夢の如き者、渙然として冰のごとく釋け、殆んど手の之を舞ひ、足の之を蹈むことを知らざる也。欣然として髀を拊て曰く、圖らざりき、玄鑑洞照の、斯の極に至らむとは也。倭魂漢才の士、苟くも能く此れに就いて学ばゞ、則ちその宗を失はず、固・我・□[言+剪]陋の弊有ることなくして、その□[門+困]奧を極むること、何の難きことか之れあらむ。然もまた徒に我と彼とにある者の、得て知る所に非ざる也。嗚乎、大いに先聖の鴻徳を著はし、遙かに菅公の烈績を承く所の者は、先生に非ずして、それ誰ぞ。我、庸□[言+巨](なん)ぞ皇祖天神の、篤く先生を生じ、大道を裁成し、皇極を輔相し、以て道紀を、將に墜ちむとするに建つるに非ざるを知らむや哉。嗟々、斯の書爲る、皆な宗あり、君あり、片語も苟かもするところあることなし。而して庸人をして、之を見せしめば、則ち□[口+去+皿]然として、之を笑はずんば、□[厥+足]然として惑うて、逢□[人+吾]□[馬+戒]世と謂はざる者、幾んど希なり。之を井に坐して、蒼天を見、螢を抱きて、昜光を疑ふに譬ふ。何ぞその見の小なる也。老子の曰く、「下士は、道を聞きて、大いに之を笑ふ。笑はざれば、以て道と爲るに足らず」と。先生も、また固より曰く、「大丈夫、知己を千載に期つ。豈に信を不信の人に求めむや」と。これ、道の貴き所以のみ而已矣。また我に亡き者と、彼に亡き者と、得て知る所に非ざる也。
嗚乎、碩膚を遜りて、西に遷る。菅公と雖も、尚ほ未だ或は之を免るゝこと能はず。而して百世の下、聖徳洋溢し、昭□[日+折]□[虞の上+乎]として、日月と光を爭ひ、天朝、之を饗し、公孫、之を享し、上は公・侯・士・大夫より、下は庶人・孺子に至るまで、尚ほ尊崇思慕することを知らざることなし。玉帛、これ奉じ、□□[艸+頻。艸+繁]、是れ羞むるが若きに至りては、公と先生と、それなお或は相似たるがごとし。而して道の汚隆廢興は、我が徒の、敢へて知る所に非ずと雖も、然れども万世の後をして、蓋し聖神ありて、下土に照臨し、天地を裁成し、万国を朝宗し、九州を統御し、上古の治に復せしめば、則ち道紀を先生に執るに非ずして、何ぞ。先生輔相の志、是に於て大成すること有り矣。それ諸れ旦暮、之に遇せむ也。且つ夫れ道徳の貴き、未だ必ずしも貴賤高下に在らずして、之を然りとすること莫くして、自ら然り。天使、屡々公の祠に事ふることあるが如き、以て知るべし。則ちこの時に当りてか、天朝の、先生の大勳労に答ふる所の者は、果して公の若き者有りや。公・侯・士・大夫の、尊崇思慕して置かざる所は、果して公の如き者有りや。列国宗廟、及び子孫の奉饗する所、庶民・孺子の、奔趨稽□[桑+頁]する所、果して公の如き者有りや。吾れ又た未だ之を前知すること能はざる也。然れども玄道、業、已に先生の頼に憑り、先生の賚ものを拜することありて、その□[門+困]奧を窺ひ、以て私淑するを樂しむ。又た倭魂漢才の士を友として、之を言ふを樂しむ。また天下後昆、爲すあるの徒と、以て道に適するを樂しむ焉。故に罷めむと欲して能はず、敢へて我が志を書し、諸れを卷端に弁し、以て□[木+賣]底に□[門+必]す。苟くもその門を得て入らざる者は、之を□[目+示]さず矣。苟くも之を□[目+示]さば、必ず天老を輕んじ、天機を漏らし、天藻を慢するの罪を逃がる所ろ无けむ矣。豈に翅に其の□[門+困]域を窺ふこと能はざるのみならむや也已哉。
嘉永二年己酉冬十二月念五日、伊豫國小民、平の矢野玄道、敬みて撰す。 |
藤田徳太郎翁『平田篤胤の國學』(昭和十七年三月・道統社刊)は次のように記している。
「(篤胤は)一度思ひ立つと、滿身の精力をこめて、その仕事に熱中する。著述のごときも、一度執筆にとりかゝつたら、二十日でも三十日でも、殆んど睡眠することなく、勿論人にも面会せず、ひたすらその事に從つて、渾身の情熱を傾ける。睡くなれば、机によりかゝつて睡眠し、食事も机の上において、書見しながら執るといふ風で、少しも他の事を考へない。さうして疲れて寢るときは、又た二日でも三日でも、食事もせずにぐつすりと寢るのである。篤胤は、まことに異常な精力家であつた。それで後年にいたるまで、篤胤が床に入つて就眠するのは、月の中、六齋日だけで、他の日は、大抵袴をつけて机によつてをり、時々机にすがつて假睡するにとゞまつたといふ。このやうな比倫を絶した勉強努力から、篤胤の大著と事業が生れて來たのである。そのため、左腕の机にあたるところは、肉が削げて爛れたので、その机の左腕のあたるところを削りとつて、軟らかい革を縫ひつけ、その苦痛を軽減するやうに工夫したとも伝へられる。尤もこれは、篤胤が神経痛のやうな病氣で、手の痛みわ覚えたために、さう取り計つたのであらう。左腕痛と痔とが、篤胤の持病で、篤胤使用の机が、このやうに左腕の當るところは、半月形に繰り拔かれ、そこに麻絲の網を釣り、それに肘突を入れて、左肘が柔らかく机に當るやうにしてあつた事は確かである(『文學遺跡巡禮』)。とにかく昼夜、机によつて離れることのない刻苦勉勵が、篤胤の一生を貫いてゐた習慣であつた。
恰度、著述に專心してゐた頃の事であらうか、「この頃、夜なか・あか時と云はず、勤しみつゝ、学びの業のいとまなき折なれば」と註された歌に、書齋の窓かきの梅に來て鳴く鶯の聲にさへ、わが心から忙がしげに聞きなされたからとて、我が庭に 來鳴く鶯 汝(なれ)さへに など其の聲の いそがしげなると詠んだものがある。常に学問と道のために、心せわしい生活をしてゐたのである。その書齋に掲げられてゐたといふ口上の貼札の文章は有名なものであるが、
口 演
この節、別して著述取急ぎに付き、学用窮理談の外、世俗無用の長談、御用捨下さるべく候ふ。塾生と雖も学事疑問の外、呼ぶことなくば、來べからず。道義弁論の事に於ては、終日終夜の長談なりとも、少か厭ひ之れなく候ふ事。未五月 篤胤
と記してあつた。この文面にも、ひたすら学問と道に殉じようとした篤胤の氣魄が明かに認められる。かくした努力から、あの厖大な著述がつくられ、又た神代に関する典籍の文章なら、すべてを暗誦して、少しも遺漏なく、浩瀚なる一切經を三度も通読して、よくその内容に精通したといふ学識が蓄へられたのである。‥‥
このやうに一図に勉学を励精した篤胤であつたから、酒のごときも、また嗜まなかつた。それゆゑ酒を好む人からは、篤胤を飽き足らぬ者に云はれたこともあるらしい。併し篤胤は性得の下戸で、まだ若く秋田にゐた時分などは、酒の粕漬のやうなものをたべても、顔は眞赤になり頭が痛むほどであつたといふ。ところがその後、次第に交際の席において、酒を飲む習慣もついて、人竝みに酒宴の仲間にも入れるやうになつたが、篤胤は酒に醉ふと、非常に癖が惡かつたらしい。殊にその一徹な氣質からして、醉へば人と争い、喧嘩口論をした。ある時、醉つたまぎれに、手もとに使つてゐた下男に氣にくはぬことがあつたので、手足も折れるほどに擲り、方輪同樣にしてしまつたのを、醉ひが覚めて後、父母にも叱責せられ、みづからも非常に後悔して、遂に禁酒したのである。醉へば陶然たる人もあるが、篤胤のごとき性質の人は、酒をやめた方が、確かによかつたに違ひない。とにかく篤胤自身が、二十八歳の時に記した、かう云ふ話の中にも、人を容謝しない篤胤の一徹な気質がうかゞはれる。後年の篤胤の歌の中には、酒徒を詈る歌もある一方、菓子は好んで食したのである。篤胤は、生れつき大の下戸であつた。
伴信友は、若狹の生んだ一世の碩学であるが、篤胤はこの人と、始め水魚のごとく、後には犬猿のやうな間がらになつてしまつた話は有名である。それは信友が穩厚な人物であるからか、むしろ表面おとなしくて、内面はどこか陰險なところのある人でもあつたやうに思はれるが、とにかく我武者羅な篤胤の野人的な性質とは、相容れないものがあつたやうで、さういふところから二人の間に間隙が出來、次第に溝が深くなつて、遂には兩端に立つて敵對するやうな態度にも立ちいたつたのであらう。さういふ二人の傾向は、かつて伴信友が、短册二枚に手紙を附け添へて、篤胤に、知友の歌を集めて枕屏風に貼りつめ、行く末の樂しみとしたいからと染筆を頼み、更にそれに書き添へて、例の道々しき歌ではなく、世の歌人風の、みやびやかな歌を願ひたいと云つてよこしたので、篤胤は、思ひきや 我がふみ習ふ道ならで うき世の歌を 乞はるべしとはと書いてやつたといふ話にも、その性質の相違がはつきりとわかるであらう」と。 |
生田国秀翁『大壑平先生著撰書目の序』(谷省吾翁『平田篤胤の著述目録――研究と覆刻』昭和五十一年八月・皇学舘大学出版部刊に所收)に曰く、
「昆侖の高きに上れば、則ち蟻封の卑きを見、暘谷の深きに臨めば、則ち雨潦の淺きを覚ゆ。これを以て皇神の道を学ぶ者は、仁義を以て小なりと爲し、眞僊の教を奉ずる者は、智慧を以て僞と爲す。我が師・大壑平先生、学は幽明の故に通じ、量は穹壤の外を容れ、窮覽の博きこと、万古比ひなく、著述の富めること、千載倫ひを絶す。神典・僊經より以下、諸氏百家の書に至るまで、目に触れば、則ち是非を毫末に剖ち、口に誦めば、則ち異同を筆端に弁ふ。衆紛冰のごとく釈け、群疑霧のごとく消ゆ。精粹これ採り、英華これ□[手+庶。ひろ]ふ。離婁も共に見ること能はず、子野も共に聞くこと能はず、齋諧も共に悟ること能はず、蘇秦も共に言ふこと能はず。その筆を揮ふこと流るゝが如く、文を属すること涌くが如し。草稿の本は万卷に近く、繕寫の卷は百部に垂れんとす。これ咸な深く皇神の典に徴し、弘く眞僊の經に質さゞる者なし矣。蓋し悠遠に趨きて、切近に忽なる者あり焉、枝葉に滯りて、根本に疎き者あり焉、該博に力めて、□[糸+眞]密に薄き者有り焉、訓詁に明かにして、玄妙に闇き者あり焉。兼ねて之を併せ、卷きて之を懷にする者は、それ惟だ我が先生か與。先生の前に、未だ先生あらず、先生の後、豈に先生あらむや哉。先生も亦た未だ一頭・四肢、六尺の長け、方寸の思ひに過ぎず。而してその高きこと蒼穹の上に出て、その深きこと淵泉の下に入る。これを以て之を觀れば、則ち昆侖なお卑く、暘谷尚ほ淺しと云うべき也。
それ先生の道は、即ち皇神の道也、先生の教は、即ち眞僊の教也頃日、河内盛征、道滿(生田万、菅原国秀)と共に草稿の本・繕寫の卷を受け、竊かにその十一を千百の中より拔き、その分寸を仭丈の間に約して、類編列次して、以て『書目』一卷と爲す。その鈔録して以て一書と爲し、校正して以て一帙と爲す者に至りては、則ち未だ枚挙するに遑ならざる也。この挙げや、実に先生の令嗣・銕胤君の、力め多しと爲すか。けだし將に桑梓に刻みて、以て之を天下に公にせむとする者、数十部、謹みて之を名づけて外書と曰ふ。その將に子孫に貽して、以て之を玉函に祕せむとする者、数十種、亦た之を名づけて内書(下記○印)と曰ふ。天下の士、もし善く外書全部を読めば、則ちまさに凡俗に超ゆることを得る者あるべしか。もし幸ひに内書一篇を受けば、則ちまさに金玉より貴しと爲す者あるべしか。天下、固より一部にして千卷を累する者なきに非ず、一筆にして数種を著す者なきに非ず、一人にして六芸に通ずる者なきに非ず、一書にして万人を覚す者なきに非ず。然りと雖も精金、或は純ならず、美玉、或は瑕あり。惟だ先生の書、隻字、苟くも下さず、片言、妄りに置かず、譬へばなお麗水、金を布き、昆岡、玉を散すがごとき也。嗚呼、先生の教、それ大なり矣、先生の教、それ広しか。神典を読む者、取ることあらば、則ち以て道を立て基を固くすべしか。僊經ほ奉ずる者、得ることあらば、則ち以て玄を探り幽を尋ぬべしか。史伝を誦む者、見ることあらば、則ち以て地を視、乱を察すべしか。方術を習ふ者、覽ることあらば、則ち以て丹を和し藥を煉るべしか。医方を挟む者、学ぶことあらば、則ち以て骨に肉し尸を起すべしか。天文を觀る者、訪ふことあらば、則ち以て度を測り歩を推すべしか。兵法を稽ふる者、知ることあらば、則ち以て變に應じ勝つを制すべしか。禮律を好む者、察することあらば、則ち以て古を引き今を糺すべしか。邪説を排く者、採ることあらば、則ち以て異を弁へ訛を正すべしか。奇異を探る者、考ふることあらば、則ち以て魂を銷し心を寒くすべしか。人人、まさに各々その門を得て、その学を成すべし。而して先生、既に兼ねて之を併せ、卷きて之を懷にせりか。それ將た神爲るかか、抑々亦た僊爲るかか。豈に翅に一頭・四肢、六尺の長け、方寸の思ひのみならんや哉。
銕胤君、道滿をして之に序せしむ。これに於て盛征と相議して、冠するに是の言を以てし、敢て朱批を先生の前に請ふ。先生、之を閲して誡めて曰く、『文辞、遜ならず、余を美むること、分に過ぎ、恰かも東方生の高ぶりて、自ら稱譽するに似たる也。女(なんぢ)、唯だこれあることを知りて、彼れあることを知らず、我れあることを知りて、他あることを知らざる也。天下の士、それ誰か之を偉なりと曰はむや也。女の□[木+賣。とく=櫃]に□[韋+温の右。をさ]めて、敢て以て他に示すこと勿れ焉』と。道滿、對へて曰く、「謹みて命を受く矣」と。退きて之を塾中に蔵すと云ふ。天保五年歳次甲午十一月二十五日丙戌 門人・菅原道滿、謹みて撰す」と。 |
備中處士の言。
「いわゆる国学の基盤には神道が嚴在し、その神道の奧處には、現代常識の域外、顯世の吾人では、殆んど窺ひ知ること能はざる奧伝祕域が存する。殊に平田篤胤大人の玄学の書を拝読するたびに、痛切に之を感ずる。然るに現代神道家は敬遠して述べざる所、一方、小生は、平田先聖を信じ、仙境異聞・霊能眞柱(岩波文庫刊)並びに赤縣太古伝・大扶桑国考・三神山余考・三五本国考』(『全集』第七卷・第八卷・内外書籍刊にも、既に收むる所)等の和刻本を繙くことを喜ぶ者である」。 |
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