日本古代史をどう紐解くべきか考 |
(最新見直し2006.11.22日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
日本史を通覧するにつき、いわゆる奈良時代以降については検証可能であるが、それ以前の日本古代史については厚いヴェールに包まれている。まずこのことを確認しておかなければならない。この時代を記述している文献としては古事記、日本書紀、風土記の「古代史正書三書」が知られているが、それぞれが記述者の立場を反映して別の物語になっている。つまり、古代史上の史実を意図的故意に自派に都合のよいように牽強付会式に書き換えている形跡が認められる。且つ、現在に伝えられている記述が初版の記述と違う可能性があることである。原田常治著「古代日本正史―記紀以前の資料による」は、古事記の50%、日本書紀の80%が改竄されていると指摘している。ここに、「古代史正書三書」考究の限界があると云えよう。こう見立てない「史書三書考」は自縄自縛に陥り、結局古代史の解明にはならないと弁えるべきだろう。いわゆる「古史古伝」を加えても事態は変わらない。「古史古伝」が「史書三書」よりも正鵠かというと、部分記述的にはそういう面もあるが全体的にはやはり古代史の解明にはなり得ていない。そう弁えるべきであろう。 興味深いことは、「古代史正書三書」、「古史古伝」とは別に歴代的に先行する幾つかの史書が存在していたと推定できることである。これを仮に「本来の古代史正書」と命名すると、それらが散逸ないしは消滅せしめられている。その上で残存しているのが「古代史正書三書」、「古史古伝」だと考えるべきだと思う。ここに隔靴掻痒が生まれる所以がある。しかも、「古代史正書三書」に限定してみても、どちらが先行していたのかは実は定かではない。通説は、古事記、日本書紀、風土記の順で作成されたと理解する。しかし、後代順に輔弼訂正しているのではなく、共通に下敷きにした先行史書があって、それを古事記は古事記風に日本書紀は日本書紀風に風土記は風土記風に纏めているに過ぎない。学問的に、それらの比較検証も進んでいない。更に云えば、問題は、古事記、日本書紀とも当時の政治的思惑によりかなりご都合主義的記述になっていることに加え、この辺りが注意を要するであろう。 総合的に見て問題は、日本古代史書がどれも古代史の史実をそのままに記述するのではなく、何故にまわりくどい記述にしているのかにある。れんだいこは、ここに日本古代史の隠された秘密があると考える。これを仮に「日本古代史の隠された秘密」と命名する。これは恐らく誰も解けない。解くとするなら、「日本古代史の隠された秘密」が何故に仕掛けられているのか、その理由の詮索から始めねばならないであろう。日本古代史を渉猟する歴史家の使命は、ここに向かわねばならない。しかしどうやら永遠の課題になりそうである。れんだいこは、「日本古代史の隠された秘密」の解明に向かおうと思う。 2009.1.8日 れんだいこ拝 |
【「古代史正書三書」の相関関係考】 |
とりあえず、「古代史正書三書」の相関関係を確認しておくことにする。次のように要約できよう。 まず古事記について。 712年、大安万呂(おおのやすまろ)は、天武天皇の命を受け、国史として古事記(上中下3巻)を編纂し元明天皇に献上した。これが我が国初の官撰国史書となった。古事記の序文には、編集に当っての事情が記載されている。それによれば、673年、「現在散乱する我が国の歴史書は虚実入り乱れている、と聞く。そこで稗田阿礼(ひえだのあれ)が詠むところの歴史を記録し、我が国の正しい歴史として後世に伝えようと思う」という天武帝の詔(みことのり)で編纂が開始された。しかし、天武帝は完成を待たず崩御、持統、文武の時代を経てやっと元明女帝に献上された。物語風に編纂されているところに特徴がある。 日本書紀について。古事記編纂から8年後の720(養老4)年、元明女帝の皇女元正女帝の時代に、舎人親王等によって編纂に約40年を費やして日本書紀30巻が完成した。天武天皇10年の681年の条に、天皇が川島皇子以下12人の皇族貴族を大極殿に集めて、「帝紀と上古諸事の記定」を命じたとあり、これが日本書紀編纂のスタートと見なされる。 日本書紀は、中国の歴史書・史記、漢書、後漢書、三国志魏志、三国志呉志、梁書、隋書、文選、芸文類聚、最勝王経、北堂書鈔から3、191字の章句を借用している。 日本書紀が、我が国における初の官選正史の歴史書となった。古事記も日本書紀もいわゆる神代時代から始まって、古事記は第33代の推古天皇まで、日本書紀は第41代の持統天皇までの事跡を扱っている。編年体と云われる時系列で記されているところに特徴がある。 古事記は前半部分の方が詳しく、日本書紀は後半部分の方が記事が詳しくなる。又、古事記の方が古くからの言葉をそのまま残そうとしている。現在では母音はあいうえおの五つしかないが、古事記は当時八つあった母音を異 なる漢字で書き分けている。 ともかく、それぞれ研究の対象に選べば、それだけで一生費やせそうな内容を持った重要な文献である事は間違いない。この二つの書物の初めの内容はいずれも神話であり、古事記の上巻は大きく五つの部分に分かれている。 風土記について。713(和同6).5.2日、元明天皇の詔「畿内七道諸国郡郷の名は好字を著けよ。其の郡内に生ずる所の銀銅彩色草木禽獣魚虫等の物はつぶさに色目を録せ。及び土地ノ沃項、山川原野の名号の由る所、また古老の相伝ふる旧聞異事は史籍に載せて言上せよ」によって各地の風土記が撰集された。その多くはその後散逸したが、出雲国風土記のみが完本として残され、一部伝存しているのは、播磨、常陸、豊後、肥前の四風土記である。その他各国別の風土記逸文がある。 出雲風土記の勘造の日付は733(天平5).2.30日、編纂責任者は出雲国造家の祖・出雲臣広島である。広島は秋鹿郡の人で、神宅臣金太理(みやけのおみかなたり)の支援協力を得てこれを完成したと明記している。こうした事情の明瞭にわかるのは五国の古風土記の中で出雲風土記のみとなっている。 2006.11.22日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)