れんだいこ解説

 更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和2).2.2日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、竹取物語かぐや姫譚を解説しておくことにする。始めは軽く確認しておくぐらいのつもりだったが、下手な政治談議よりよほど面白く、奥行きの深さに連れられて次第に入りこんで行くことになった。今後どんどん書き換えられることになると思うが、今現在時点での解説をしておく。

 2008.8.10日 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評686 れんだいこ 2010/03/20
 【竹取物語かぐや姫譚解説その1】

 ここに、れんだいこ意訳文の竹取物語かぐや姫譚を世に送ることにする。その意は、あまねく知られている割には全文を読んだことがない者が多過ぎる故にである。れんだいこもその一人であった。最近の或る時、漠然とながらなぜだか急に読みたくなった。その意味する顛末は以下の通り。

 竹取物語の作者は不詳である。よほどの文の名人と思われる。文体、語彙、語法、構成、難題の品などから、古代よりの伝承に造詣の深く、且つ和歌に秀で、且つ中国などの仏典、漢籍に深く通じた大陸文化に造詣の深い教養人でもあった文化教養人であると推定できる。

 これによると、源順、嵯峨天皇の皇子で臣籍に下った源(みなもととおる)融、三十六歌仙の一人で古今和歌集の編纂者の一人にして土佐日記の執筆者として知られる紀貫之(きのつらゆき)、今昔物語集の編者である源隆国(みなもとのたかくに)、和歌の六歌仙の一人にしてその作風から僧正遍照(そうじょうへんじょう)、漢文体「竹取物語」の出来栄えから空海(くうかい)、漢学者で大学頭の紀長谷雄などが取り沙汰されてきた。しかしながら確定できない。

 いつ頃作品化されたのかも定かではない。但し、紫式部が源氏物語絵合巻(絵合せの帖)の中で竹取物語に触れ、「物語の出で来はじめの祖(おや)」と述べており、日本最初の「物語」(「昔話」など口承・伝承的なものではない作り物語)と評されている。源氏物語には多くの「かぐや姫」的な女性たちが登場する。してみれば、紫式部の時代に既に読まれていたということになる。原形として万葉集に「竹取翁の物語」があるとのことである。してみれば、相当古くよりの物語り伝承であり、次第に形を整えてきたということになる。通説は、平安時代前期の貞観年間 - 延喜年間、特に890年代後半に書かれたとする。10世紀の大和物語に竹取物語にちなんだ和歌が詠まれて以降、宇津保(うつほ)物語の女主人公「あて宮」の造型に強い影響を与えている。11世紀の栄花物語、狭衣物語、12世紀の今昔物語集などにも竹取物語への言及ないしは影響が認められる。

 またこの説話に関連あるものとして丹後国風土記、万葉集巻十六、今昔物語集などの文献、謡曲「羽衣」、昔話「天人女房」、「絵姿女房」、「竹伐爺」、「鳥呑み爺」などが挙げられる。当時の竹取説話群を元にとある人物が創作したものと思われる。

 竹取物語かぐや姫譚を評するのに、世の研究者の常として、外国からの輸入品として位置づけ、外国説話との関連を問う癖がある。しかし、れんだいこは違うと思う。関連づけるのは良いとしても、それはそれとして窺うべきであり、基本的には国産オリジナル的なものを嗅ぎとる方が為すべき研究態度ではなかろうかと思っている。似た説話は似た説話どまりであり、一事万事同時並行的に発生することも又よくあることではないかと思っている。

 竹取物語かぐや姫譚はいつ頃書かれたものなのだろうか。登場人物から推定するに、7世紀後半の壬申の乱から天武―持統朝の藤原京時代に政治風刺的に作品化されていたように思われる。作中に登場する求婚者は相互に対比的に描かれている。中でも、車持の皇子は藤原不比等をモデルにしている風があり、批判的見地からの辛辣な文意よりして、藤原氏に怨みあるいは反感を持つ作者の眼が感ぜられる。

 誰が何故に書き著したのかは分からない。分かるのは、相当な文筆の達者の手になる作品であると云うことである。その後何度か書き換えられているようにも思われる。写本の形で流布され、その際に若干の書き換えが為されている。原典版は存在せず、現存の写本は16世紀頃に書き写されたものがもっとも古いとされている。

 この時代には今日と違って著作権などと云うものはない。世の良いことの共通として、現代人のように作品が真似られた、取った取られたなどと自己顕示売りしない。作品が広まり伝わることのみに関心を持ち、人口に膾炙し、より練られることをのみ本望と思っている風が感ぜられる。確かイエスもそういう風なことを云っていた。中山みきも云っている。世の聖人のスタンスは、こういうところが共通している。これを思えば、この善良な伝統に棹差し、万事金権化せんと悪巧みの風潮には逆に棹差し返さねばなるまい。これを推進する例の狂人石工組合の流れの者とは闘うしかあるまい。

 もとへ。竹取物語の原文は漢文と思われる。作者がかくも自由闊達に漢文をこなしていたことに感心させられる。恐らく、これを書いたのが漢人と云うのではなく、日本語古語によほど習熟している者が、それを下地にして漢文を咀嚼吸収し、かくなる名文をものしたと窺うべきではなかろうか。その出来栄えは驚くべき技と云う他ない。これを思えば、外国語吸収には、その前提として母国語の習熟が必要であり、日本語は太古の昔よりそれに耐える秀逸な言語足り得ていると思う。

 幕末維新期の志士、書生が、現代人の我々よりも欧米語の吸収を能く為し得たのは、母国語の習熟を下地にして外国語である漢文を先行してこなしていたからであり、この能力を欧米語に振り向けたからではないかと思われる。それほど国語を重視する必要があると思う。これを思えば、昨今の英米語の早期学習は、それ自体は悪くないにしても母国語の軽視とセットして行われるべきものではなかろう。母国語の軽視に向かわせるのは、例の狂人石工組合の差し金であろう。

 もとへ。竹取物語かぐや姫譚は、そういう名漢文を原典にしていることにより、現代人の我々が、これをそのままに読むのは困難である。そういう訳で、原文たる漢文を日本語古語で和訳した古文の竹取物語を読むことになる。但し、それでさえ、現代人の我々が読むのは困難である。

 その困難さには別の理由がある。困ったことに日本語古文は、漢文の竹取物語ほどには情景を生き生きと描写していない。竹取物語のあらましの筋を伝えているが、漢文に読みとれる生き生きとした情意の部分が殺がれている。よって値打ちを損ねており、これが読む人を遠ざけている原因の一つとなっているように思われる。良くできてはいるが漢文には見劣りするという意味である。

 更に困ったことがある。実は古文はまだ良い。現代文竹取物語となるともっと酷いものに化けてしまっている。多くの訳者が居るように思われるが、れんだいこの評するところ、伝えるのはあら筋ばかりで、情意の部分は全く殺がれている。よって、読んでも面白さが伝わらない。これが竹取物語を堕作にしてしまっており、特段に読まねばならないほどのものではないものにしているように思われる。実に、竹取物語の面白さは、原文の漢文物語から古文物語、古文物語から現代文物語へと転じるほどに愚作になっている。

 このことを知ったので、れんだいこが現代文で竹取物語の粋を再確認することにした。但し、一字一句忠実に訳せないことと、仮に訳してもあまり意味がないと思うことにより、現代感覚に合うように多少意訳した。そのでき栄えは、読まれた方の評に託すしかない。れんだいこ文は今後更に手直しされ、推敲される。永遠の未完になると思う。そういうものであるから著作権には馴染まない。どなたでも良い、自由に活用して下されば良い。

 なぜ竹取物語を読むべきなのか。それは、日本人つまり日本文化が過去に於いて生みだした古典文学の傑作品の一つであり、そのやり取りを知ることが現代人の薄っぺらにされた脳を鍛え直してくれると思うからである。こういう優秀作品を知らぬまま死んでいく現代人が多い。これはとても残念なことであると思う。そういうことに気づいたので、れんだいこが、みんなが読み易く、且つ原文に忠実且つ原文通りに面白い竹取物語を創作した。これを天下に公開しておくことにする。

 付言すれば、この思いは、「共産主義者の宣言」の時もそうだった。れんだいこは若かりし頃、既存の市井本を幾ら読んでも物足りなかった。重要な個所でピンとこなかった。そういうものを読んで、読んだ気になって来られた共産主義者に脱帽するしかない。れんだいこは、そういう連中に比して頭が良くないので、得心行くよう原文から読み直した。もっとも本当の原文であるドイツ語訳に当たるのは今後の課題として、とりあえず英訳を下敷きとして、その転訳としての日本語訳に取りかかった。マルクス在世中に英訳が出ており、書いた本人が目を通しているはずだから、英訳にはさほど問題がなかろうと思っている。

 その英文訳と既存の日本文訳を比べると、明らかに日本文訳の方が見劣りする。意図的故意の改悪訳の箇所が多過ぎる。それを疑問もなしに読み終えることのできた安上がりの共産主義者に脱帽してしまう。それではれんだいこの性が得心できないので、れんだいこ訳を作った。さほど注目されていないが、れんだいこ訳の方がよほど原文に忠実で、原文の意味がより良く通じていることを自負している。これを復読三省するよう期待したい。いつか、既成訳とれんだいこ訳を参照させてみたいと思っているが、本業ではないのでそのままにしている。どなたかやってくれればよい。サイトは次の通りである。

 共産主義者の宣言考
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/
gensyokenkyuco/kyosansyugisyasengenco/
 kyosansyugisyasengenco.htm)

 もとへ。竹取物語も同じである。「共産主義者の宣言」は政治もの、竹取物語は文学作品と云う違いはあるが、文量が適当で本来読みやすいにも拘わらず悪訳により価値が殺がれている点で同じである。どちらも読むべき読まれるべき語り継がれるべき名作であるのに、ないがしろにされていると云う点でも共通している。

 竹取物語の要旨は次の通りである。竹藪で拾われたかぐや姫がその後すくすく成長し、世に並ぶもののない美人の誉れを噂されるようになる。このかぐや姫に求婚するものが殺到し、最後に五名の貴人が残る。この者たちに結婚の条件としてお題が与えられ、それぞれが悪戦苦闘する。この活劇描写が格段に面白い。最後に帝が登場し、恋愛劇の総まとめに向かう。しかし、帝さえ思うようにならないまま八月十五日の満月の夜に天より迎えの者が来て、かぐや姫も去って行く。この道中での、翁のかぐや姫、五人衆、帝とのやり取りも面白い。全体が政治風刺のパロディーにもなっており、その意味するところは未だ分からない面もあるがとにかく比類なき面白い。

 れんだいこ文は、これを現代文で当初の漢文レベルの面白さで再現しようと試みている。繰り返すが、原文に忠実に訳すより、その意味するところを汲みとり意訳した。もし面白くないとしたら、れんだいこの一人豪語ということになる。それでも良いと思っている。これをきっかけに誰かが注目し、別訳のもっと面白いものを生み出してくれれば本望であるからである。その間を惜しみなく貰い、惜しみなく与えようと思う。川端康成氏の訳本があるとのことなので、これを今取り寄せている。読んで更に推敲しようと思っている。

 竹取物語考
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/
taketorimonogatarico/top.html)

 2010.3.20日 れんだいこ拝

【竹取物語かぐや姫譚解説その2】
 「竹取物語かぐや姫譚解説その2」として、内容に関わる吟味をしておく。「ウィキペディア竹取物語」その他を参照する。

 まず、冒頭の「今は昔」とあるが、それがいつの頃を想定しているのだろうか、「竹取の翁」が居たのはどの辺りなのか、翁の名が何故に「讃岐」なのか、疑問を覚えれば次から次へと広がるも、どれもはっきりしない。一見どうでも良い詮索のようにも思われるが、これらはいずれも何か重要なことをメッセージしていると窺いたいので、これらを推理することにする。

 まず、「今は昔」の時期について確認しておく。この時期ははっきりしない。単純に「昔」と理解してさほど問題ないように思われるので考察を省くことにする。

 次に、竹取物語の舞台につき詮索しておく。翁が居たのはどの辺りだったのだろうか。少なくとも、かぐや姫に求婚をした5名の貴公子が住んでいたと思われる藤原京から近過ぎるでもなく遠過ぎるでもない、それなりに通える距離の地を比定する必要があろう。この条件に合う地域であれば問題はなかろう。

 通説は、讃岐国の氏族の斎都氏が移り住んでいた大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷(現奈良県北葛城郡広陵町三吉、又は散吉郷廃存済恩寺村、現在の北葛城郡広陵町大字三吉の斉音寺集落付近)とする説が有力とのことである。この地は「藪/下」、「藪口」、「竹ヶ原」という地名があり真竹孟宗竹等の竹林が多数残っている。三吉の北部には讃岐神社が鎮座している。「延喜式」に「広瀬郡の讃岐神社」として登場しており、同神社は「竹取物語ゆかりの神社」と称しているとのことである。

 京田辺市も比定されている。この地域は、奈良、京都、大阪の中間に位置し、古くから文化が栄えた所である。継体天皇が筒城宮を置き、また仁徳天皇や神功皇后にまつわる話など、様々な伝承や伝説が語りつがれている。他にも比定地は考えられよう。岡山県真備市、京都府向日市、鹿児島県宮之城町、静岡県富士市、香川県長尾町、広島県竹原市などが候補地に挙がっている。

 問題は、敢えて何故に「讃岐」の翁を登場させたのかの考察にこそある。従来、このことに言及する面が少ないのではなかろうか。思うに、翁が居た地域の詮索はそれほど重要ではなく、翁が「讃岐の翁」として登場することの意味こそ窺うべきではなかろうか。研究者が、これを問わないのは怠慢と云うより、肝心なことを問わず周辺のことを難しく語りたがるいつもの癖ではなかろうか。私見は、「讃岐の翁」は、竹取物語かぐや姫譚全体の構成に大きく関係していると考える。伯耆、筑紫、吉備等々でない「讃岐の翁」としたことには重要な意味があると考える。ここでは、これぐらいの言及にとどめておくことにする。

 ちなみに、「讃岐」なる姓をもった人物は古事記上巻に登場する。第九代開化天皇の項に、天皇の孫に「讃岐垂根王」の名前を見つけることができる。更にこの讃岐垂根王の姪に「迦具夜比売命」なる名も見つけることができる。

 次に、かぐや姫が何故に竹の中で発見されたのかが問われねばならない。桃太郎譚のように桃、あるいはその他その他のように他のものではなぜいけなかったのか、ここにも何らかのメッセージが込められているように思われる。これも推理せねばならない。私見は、古来より竹の子の産地として阿波が有名である。このことと讃岐と合わせて考えると、この説話が四国と大いに関係していると思われるが如何だろうか。ここでは、これぐらいの言及にとどめておくことにする。(「竹」について隼人(海人族・海神族・南九州)の竹文化(竹民俗)との関連も指摘されているが一説に過ぎない)

 次に、「竹取の翁」とは何者か、その素性について詮索しておく。山椒魚先輩の教示によると、「万葉集巻十六の第三七九一歌」には、竹取物語の書き出し同様の「竹取の翁」が登場しており、竹取物語との関連が指摘されている。次のような読み下し文になっている。
 「昔、老翁ありき。号(な)を竹取の翁と曰(い)ひき。この翁、季春の月に丘に登り遠く望むや、忽(たちまち)に羹(あつもの)を煮るや九箇(ここのはしら)の女子(おとめ)に値する。(この者ら)百嬌たぐひなく、花容止むことなし。時に、娘子等(をとめら)老翁を呼び嗤(わら)ひて曰く、叔父来るかや、この燭(そく)の火を吹けといふ。これにより翁唯唯(をを)と曰(い)ひて、漸く赴き徐く行きて座の上に接(まじは)る。良久(ややひさ)にして娘子等皆共にえみを含み相推(おし)譲りて曰く、阿誰(だれ)かこの翁を呼べるかな。すなわち竹取翁謝して曰く、非慮之外偶逢神仙 迷惑之心無敢所禁 近狎之罪希贖以歌 即作歌一首[并短歌」。

 同書486頁の補注よれば竹取りの訓み方には諸説ある。普通には「タケトリ」と読み、私見もそう解するが、「タカトリ」と読む説もあるようである。精選本に「大和国十市郡に鷹取山あり。昔は竹取と書けりと云えば、この翁彼処に住けるにや」との解説があり、古来よりかなり有力視されている。思うに、、竹取はやはり「タケトリ」と読みべきで、「タカトリ説」は参考程度にとどめるのが良かろう。なぜなら、竹取物語の諸内容と整合しないからである。「タケトリ」の方がよりピッタリするのに敢えてわざわざに「タカトリ」と解する必要はなかろう。他にも、竹を仙人の食するキノコだとする説もある。神仙思想と繋げようとする読みとり方であるが、何でもかんでも外来経由の思想と結びつける必要はなかろう。そういう意味で、ややオーバーランの読み取りではなかろうか。この場合は相応しくないと思う。

 次に、「竹取の翁」の正体について詮索しておく。これも諸説ある。普通には、竹を生業とする翁と読み、私見もそう解する。これに対して、竹が上代人にとって神秘力を持っている樹草木であることに注目し、「竹取の翁」を「神仙に近いことをする職の者」と解する説もある。かく解しても特段の問題はないが、そう解する必要もなかろう。他にも、竹取り生業をもっと深く推測して、「サンカ的な竹を生業にしている職業団体にして諸国を渡り歩く説話の語り部とする説」もある。これは微妙である。かく受け取れない訳ではない。しかし、そこまで深読みする必要はないと思う。私見は、当たらずとも遠からずの説と窺う。

 次に、「かぐや姫」の正体について詮索しておく。これも諸説ある。架空の人物と考えれば詮索不要であるが、歴史上の人物になぞらえている面がなきにしもあらずと窺うべきではなかろうか。そういう目で見ると、大和の「天の香具山」(奈良県橿原市)との絡みが考えられる。これによると、「香具山の姫即ちかぐや姫」と了解することになる。私見は、こういう受け取りようもあると考える。

 あるいは、古事記の垂仁記に妃ととして「大筒木垂根王之女、迦具夜比売命」との記述がある。日本書記では、迦具夜比売命は垂仁天皇の妃となっている。この迦具夜比売命とかぐや姫が同一人なのか偶然一致の架空名称なのかは分からないが、垂仁天皇妃に登場する迦具夜比売との絡みは当然考えられる。更に、赫夜姫という漢字が「とよひめ」と読めることからから豊受大神との線が浮かび上がってくる。私見は、これらは無視できないと思う。

 瀬織津姫との関連を問う説もある。瀬織津姫は「大祓いのりと」に登場する歴史的に意味を持つ姫である。広瀬神社の祭神は和加宇加之売命他とされるが、地元の古文献には、天照大神の荒魂で瀬織津姫と同体であると記されている。この広瀬の大忌神、天照大神の荒魂瀬織津姫が勧請されて伊勢の荒祭宮に祭られたという説がある。瀬織津姫は、穢れ祓いの神と共に水の神であり桜の神である。瀬織津姫の誕生は、伊邪那岐命が黄泉の国から戻って「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は瀬弱し」と言い放ち、中の瀬に下りたって禊祓いをして初めて誕生したのが八十禍津日神であった。「倭姫命世記」に「荒祭宮一座、皇大神荒魂、伊邪那岐大神所生神、名は八十禍津日神也、一名瀬織津姫神是也」とあり、この神が瀬織津姫とされている。同書では、伊勢神宮に祓戸の大神のうち瀬織津姫尊、速秋津姫尊、気吹戸主尊の三神が祭られているという伝承が載せられている。

 これらのうち、どの説を採用すべきかは分からない。了解すべきは、いずれにせよ、「かぐや姫」を架空の人物名と云うより何らかの歴史的に意味ある名として受け取ろうとするのが良いと思われるということであろう。


 次に、「かぐや姫」の命名の親である「三室戸の齋部の秋田」について詮索しておく。これにも何らかのメッセージがあるように思われる。「三室戸」、「齋部」、「秋田」には、それぞれ当時に於いては聞く者が聞けば聞くだけでピンと来る筋のものであったと思われる。


 次に、かくや姫の求婚者について詮索しておく。求婚者は5名、帝も合わせれば6名登場するが、これらの登場人物も何かの隠喩であろうと思われる。特定の人物なのかどうかは別として、当時の読者にはピンとくるそれぞれの名家を隠喩しており、その御曹司をモデルにしているように思われる。そういうメッセージ性があるように思われる。

 解説本によると、石作皇子は右大臣の多治比嶋(多治比真人島、701年没)、車持皇子は朝臣の藤原不比等(720年没)、阿倍右大臣は実在の大納言の阿倍御主人(703年没)、大伴大納言は実在の大伴御行(大伴宿禰御幸、701年年没)、石上中納言は実在の石上麻呂(717年没)と推測されている。いずれも672年の壬申の乱とその後の天武―持統朝廷下で活躍した功臣たちと云うことになる。作者は、この者たちを政治風刺的に戯画化していることになる。この辺りを嗅ぐことがより面白さを増すことになろう。

 8世紀のこの時代、他の豪族を押しのけて藤原氏が「我が世の春」を謳歌し始めていた。それは、大和王朝政権下での諸豪族間のめくるめく抗争の最終決着として藤原氏が覇者になったことを意味する。竹取物語かぐや姫譚は、そのことを踏まえており、藤原政権時代の空気を上手に皮肉っている面が感じられる。

 石作皇子と車持皇子の二人の皇子、阿部家の安倍右大臣、大伴家の大伴大納言、石上家の石上中納言を登場させている裏には、藤原政権の主流派の面々を列挙しているメッセージが込められているのではなかろうかと思われる。しかも、そのどれもが求婚に失敗するが、その失敗よりも失敗の様をからかっている風がある。滑稽にしてブザマに設定しており、このことは藤原政権主流派の人物識見の貧相さをからかっているように思われる。竹取物語かぐや姫譚が、文学を通じての巧みな政治風刺になっている面を見なければなるまい。

 次に、帝の詮索をしておく。5名の求婚者が歴史上の人物になぞらえられるのに比して、帝の比定は難しい。つまり、5名の求婚者時代の帝ではない人物像が描かれているということになる。かぐや姫と契るには至らなかったが、こまやかな情を通わせた帝という想定になっている。この辺りは文学作品故と受け止めて良いように思われる。

 次に、「月の都の人」を詮索せねばならない。かぐや姫が月の都の人であることが知らされるが、この場合の月は、天空の日月の月と受け取るのは自然過ぎよう。月も何らかの隠喩であるとも考えるべきではなかろうか。私見は、渡来系大和王朝前の支配政権者であった旧王朝政権を表象しているのではなかろうかと窺う。これには「記紀」の記す国譲り譚が関係していると思われる。或いは讃岐―阿波の四国が関係しているように思われる。ここでは、これ以上は問わないことにする。

 こう窺うと、「都の人」とは、出雲―三輪王朝又は讃岐―阿波の旧王朝政権の政権中枢の人と云うことになる。つまり、かぐや姫は、旧王朝政権中枢の皇族の由緒正しき身分の末裔の娘にして「わけあって」讃岐の翁に預けられたと云うことになる。文中に「翁がその子を得た頃より不思議なことに、山へ上り竹を取るのに、筒の中に黄金(こがね)の有るのがしばしばとなった。翁の暮らしは次第に裕福になっていった」とある裏の意味は、相応の養育費が賄われたと云うことであろう。

 これが如何に重要な推測であるかは、邪馬台国論に関係する故にということになる。邪馬台国は「幻の邪馬台国」となっているが、大和王朝に接続しない日本史上の真の初王朝という意味においてこれからの探索課題である。従来、邪馬台国を畿内説、九州説、その他説の三すくみで議論百出させているが、その多くはいずれも大和王朝に陸続させての比定地論争となっている。そうではなく、大和王朝に陸続しない、むしろ意図的故意に痕跡を消された、その故の幻の邪馬台国論と座標を定めねば真相が見えてこないのではなかろうか。竹取物語かぐや姫譚は、このことをメッセージしているのではなかろうか。

 ということは、帝も含めた6名の求婚者とは、かぐや姫に邪馬台国時代の旧王朝政権の皇室香気を嗅いで群がり、契りを得ようとしたことになる。それは、単に契り目当てというより、新王朝と旧王朝の和睦同盟化を意味する。しかし、それはできなかった。なぜなら、月の都の人が迎えに来たからである。こう拝察すれば、かぐや姫譚はなかなかに味わい深い物語になる。

 次に、かぐや姫が月の都から下界して来た理由を詮索せねばならない。文中では、かぐや姫は「訳あってこの世に下り」と述べ、月の都の迎えの主は「かぐや姫は罪をつくったので、かく賤しきおのれが許にしばしの間居ることになった。しかし今罪の期限が来たので迎えに来ている」と述べている。どういう訳なのか、罪を為したのかは語られていない。これは単なる文学的筋書きなのか、深い意味があるのかは分からない。


 次に、「月の都の人」が常用する不老不死薬を考察せねばならない。物語の設定では、「月の都の人」は、不老不死薬を服用することにより不老不死もしくは長命であることが知らされる。文中では、「月の都の人は容貌端麗にして不老不死、憂苦がありません」とある。これを架空と受け止めても良いが、旧王朝時代の特質として「容貌端麗にして不老不死、憂苦がない」社会であったことを暗示していると思えないこともない。

 次に、「月の都の人」が、この世を「きたなきところ」と蔑視している様が伝えられる。これも詮索せねばなるまい。この世を「きたなきところ」とする事情として、自然現象的なものを指しているのか政治的な意味合いで述べているのかまでは分からないが、恐らく藤原氏により支配されてしまった世の常態が旧王朝時代のそれと悉く劣化しているという認識の下で、更に政治的権謀術数渦巻く藤原時代に対する間接的な批判の意が込められているのではなかろうか。

 次に、「天の羽衣」について考察せねばならない。推測するのに、旧王朝時代の重要な政治的儀式として「天の羽衣」の着用があったのではなかろうか。これについては、大和王朝以降の皇室も、この伝統を受け継ぎ、天皇の即位後に行う大嘗祭で、沐浴時に「天の羽衣」を着る儀礼習慣があるとのことである。文中では、かぐや姫をして「羽衣を着てしまうと、人の心が消えてしまう」と語らせている。「天の羽衣」には、そういう神秘力が宿されているということになる。「天の羽衣伝説」は近江国風土記、丹波国風土記などに数多くあり、いずれも旧王朝時代の伝説であり、それぞれ何らかのメッセージが宿されているように思われる。

 次に、駿河の国の不死の山即ち後の富士山を登場させている。富士山は単なる「天に一番近い山はどの山か」から導き出された山なのか、何らかの重要な裏メッセージが込められているのかどうか分からない。私見は、後者の意味にとる。具体的には分からない。云えることは、富士山は古代に於いても日本随一の霊峰であり尊崇されていたということであろう。

 最後に、文中多用されている和歌について考察せねばならない。思うに、和歌は、大和王朝前の旧王朝時代からの伝統的な嗜みであり、竹取物語かぐや姫譚の作者が旧王朝時代の能吏であることを問わず語りしているのではあるまいか。ならば作者は誰かということになるが、昔の人は慎み深く「我が作者である。著作権料出せ」とは云わないので分からない。れんだいこが感じるのは、旧王朝時代の能吏の確かな眼、文章力である。日本古典作品の名作足り得ている。凄いと云わざるを得ない。 

 補足として、海外の類話を確認しておく。竹取物語に似た民間伝承は諸外国にも見られる。例えば中華人民共和国四川省のアバ・チベット族に伝わる「斑竹姑娘」(はんちくこしょう)物語の内容は、竹の中から生まれた少女が、領主の息子たち5名から求婚を受けたが難題をつけて退け、かねてより想いを寄せていた男性と結ばれるという筋書きになており、中でも求婚の部分は宝物の数、内容、男性側のやりとりや結末などが非常に酷似していると云う。

 これを踏まえて、伊藤清司氏は、「かぐや姫の誕生―古代説話の起源」(講談社、1973年)で、原説話が日本とアバ・チベット族に別個に伝播翻案され「竹取物語」と「斑竹姑娘」になったと推測しているとのことである。れんだいこは、「斑竹姑娘」の研究に着手しておらぬ為、後日に言及したいと思う。

 他にも、中国の後漢書には竹の中から人が生まれるという内容が記されている。思うに、これらは意識の共有化事象として了解すべきで、ルーツを訪ねる関心まで寄せる必要はないのではなかろうか。そういう作法がまま見られるが、訪ねねばならない場合もあるし不要の場合もある。のべつくまなく外来化させるのではなく逐一判断が問われていると思う。


 2010.4.3日 れんだいこ拝

 2020.2.4日、馬場紀衣かぐや姫&翁の禁断愛⁉︎「竹取物語」に隠された許されざる恋物語とは」参照。

 昔話『竹取物語』は、仮名で書かれた日本で最初の物語である。この話は、単に日本の昔話やおとぎ話と片付けてしまうことのできない強烈な隠喩で読者を惹きつけている。タイトルを『かぐや姫』とした絵本もある。『金太郎』や『桃太郎』のように鬼を討ち、宝を持ち帰るという手柄話的な展開に比べると、竹取物語はとてもロマンチックで幻想的である。5人の求婚者に与えらえた難題とかぐや姫の交渉も面白い。
 竹を採って暮らしている竹取の翁は、古くは万葉集にもその姿を現している。奈良時代にも翁の歌とともに竹取翁譚が記録されており、翁と天女しか登場しない。そこには、竹取翁のべつの姿が描かれている。翁は丘の上で天女たちに遭遇し、その座に加わり「これでも若い頃は」といった調子に長唄を詠む。天女たちもまた各自一首ずつ歌うが、その歌の終わりは必ず「貴方に身を委せませう」という語で終わる。
 竹取物語の翁はかぐや姫の養父以外の何者でもない。「翁心地あしく、苦しき時も、この子を見れば、苦しき事もやみぬ、腹立たしきことも慰みけり」と述べている。竹取物語の中には、「翁、今年は五十ばかりなりけれども」との記述もある。姫が天へ迎えられる場面には「かぐや姫を養ひ奉ること二十年あまりになりぬ」と記されているから、翁が初めてかぐや姫を竹の節に見つけた年齢を逆算すると二十代の頃になる。
 竹取物語が神話・伝承の世界に根差すものであることは、民俗学者・柳田国男をはじめとする多くの民俗学的アプローチで明らかにされてきた。翁とかぐや姫は父と娘の関係を超えたシャーマニックな姿を浮かび上がらせる。「あきた、なよ竹のかぐや姫とつけつ」――翁はかぐや姫の名づけの親でもある。翁は、いったいどんな人物だったのか?竹の中にかぐや姫をみつけた時「子となり給ふべき人なめり」――と記されていることからも、老夫婦が祈願して子を授かるという(昔話にありがちな)伝承的なモチーフを読みとることができる。やがて「かくて翁やうやう豊かになり行く」。かぐや姫を見つけたのち、翁は竹の節に金を発見するようになり幸運にも貧乏暮らしを脱却する。「翁」と呼ばれるこの男は、物語がはじまってすぐに「さかきのみやつこ」と紹介されている。江戸時代の国学者・加納諸平の「竹取物語考」以来、祭祀とのつながりを読む「さかきのみやつこ(讃岐造)」説が有力とされていることからも、竹取の翁には、祭祀をつかさどる血脈を感じさせる。物語のキーワードにもなる「竹」は、翁とかぐや姫が出会うためのただの小道具だったわけではない。竹が呪術的な意味をもっていることからも、竹取翁はただの竹をとる貧しい者ではなく神と神を祀る者との構造が浮かび上がってくる。





(私論.私見)