和邇氏考 |
(最新見直し2008.8.29日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、大和の豪族の一つである和邇氏について確認しておく。「驚きの和邇氏系図」その他を参照する。 2008.4.10日、2010.4.17日再編集 れんだいこ拝 |
和邇(わに)氏は古代大和の有力豪族である。和爾、和珥、丸、丸邇などとも表記される。五代孝昭の皇子、天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと、天押帯日子)を祖とする、とされている。妃は宇那比姫である。 太田亮(おおたりょう・1884〜1956)氏の「日本姓氏家系大辞典」に宇那比媛(うなびひめ)が登場する。「押媛命(一に忍鹿比売命、母は建田背命の妹、宇那比媛命也)」とある。宇那比媛を建田背命の妹とするから、尾張氏系図に登場する宇那比姫で間違いない。尾張氏や同族の海部氏とはまったく異なる和邇氏系図に、宇那比姫命が登場していることになる。太田氏は、この系図の冒頭で、「駿河浅間大社(するがせんげんたいしゃ)の大宮司家は和爾部姓にして系図を傳ふ」とする。太田亮がこの系図の出典を何によったのか不明である。が、「日本姓氏家系大辞典」に掲載されている和邇部系図は、まちがいなく存在する。 建田背命や宇那比姫(宇那比媛)が、先代旧事本紀、尾張氏系譜と勘注系図、海部氏系譜にこの和邇氏系譜が登場する。和邇氏系譜は尾張氏系譜と密接に関係する。和邇氏系図は「押媛命(一に忍鹿比売命、母は建田背命の妹、宇那比媛命也)」とする。尾張氏の建田背命や宇那比姫が和邇氏系譜に登場する。
尾張氏系図には、天忍男(あめのおしお)という人物が親子二世代にわたって登場する。建田背の妹宇那比姫が天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)と同世代であることを理由に、世襲足媛の父親は二世代目の天忍男として作図している。それでなければ和邇氏系譜と尾張氏系譜の間で整合性がとれないからである。 記紀伝承によると、九代開化の皇子、彦坐(ひこいます)は、母親の妹、袁祁都比売(姥津媛・おけつひめ)を妃にしたとする。すなわち叔母を妃にしたという。ちょっと信じ難い伝承である。ところが和邇氏系譜によれば彦坐の妃は、彦国姥津(ひこくにおけつ)の子、意祁都依比売(おけつよりひめ)で、彦坐と同世代の女性である。こちらの方がよほど信じられる。この事からも、和邇氏系譜は偽作ではない。
|
||||
和邇氏の本拠地は現在の奈良県天理市である。この天理市に東大寺山古墳と呼ばれる全長140mの前方後円墳がある。この東大寺山古墳の発掘調査が1961年から62年にかけて、天理大学の金関恕(かなせきひろし)氏らによって行われた。その発掘調査で、おびただしい量の鉄剣、鉄刀、槍先、鏃(やじり)、甲(よろい)などが出土した。その中の鉄刀の一つに、銘文が象嵌されていた。銘文は刀の背に金で象嵌されている。腐食が激しく一部読めない部分があるが、研究者によって次のように判読されている。「中平□□五月丙午造作文刀百練清□上應星宿下辟□□」。おおよその意味は、「優れた刀で天の意にかない災いを避ける」というような意味である。注目されるのはその「中平」という年号である「中平」とは後漢の年号で184年から189年の事である。中平年という184年から189年といえば、卑弥呼が邪馬台国の女王として王位に就いた初めの頃である。したがってこの刀が卑弥呼の遣使に贈られた可能は極めて高い。
この刀を発掘調査した金関恕氏は次のように推理する。鉄刀に刻まれた銘文の字体は、後漢の官営工房の字体とは異なる。後漢の官営工房の字体は様式化が進み整った隷書体である。この刀に刻まれた字体は稚拙ではないが、様式化が進んでいない。したがって銘文が刻まれたのは、後漢の官営工房以外の地ではないかと推理する。 |
||||
和邇氏は春日臣、大宅臣、栗田臣、小野臣、柿本臣、壱比葦臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣等16氏に発展する。物部氏と併存していたことになる。 |
(私論.私見)