葛城氏考

 (最新見直し2013.03.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、大和の豪族の一つである葛城氏について確認しておく。大和王朝創建時、ヤマトで最も力を持っていた豪族は葛城氏だった。その葛城氏の位置づけができていない。邪馬台国論の混乱と同様の諸説が入り乱れている。そこで、れんだいこなりの所論を得たいと思う。注目すべきは、葛城氏がヤマトのそもそもの在地豪族だったのかと云うところである。次に、その葛城氏と出雲王朝の事代主の関係如何を問いたい。仮に事代主系葛城氏が誕生したとして、それと邪馬台国との関係、大和王朝との関係を問いたい。このように位置付けなければ解けないと思うからである。邪馬台国九州節の立場から葛城氏論を説くのは無駄な営為だと思う。2013.3.13日現在、こういう感覚で捉えている。今日より本稿に取り組むことにする。

 「大和朝廷の母体となる三輪王朝の前に存在した葛城王朝」、「2.「葛城氏」論考」、「高校生のためのおもしろ歴史教室 > 日本史の部屋」、「真説日本古代史 本編 第三部」、「葛城の古代」等々を参照した。宗教民族学者で大阪教育大学名誉教授・鳥越憲三郎(2007年3月23日に永眠)著『神々と天皇の間』(朝日文庫、昭和45年(1970)5月)

 2008.4.10日、2013.03.14日再編集 れんだいこ拝


【古代豪族の雄としての葛城氏考】
 葛城につき、「葛城の古代」が次のように記している。

 二上山、葛城山(鴨山、戒那山)、金剛山(高間山)の麓の北側、東側、曽我川の西側。現在の地名では、當麻町、新庄町、大和高田市、河合町、広陵町、王子町、上牧町、香芝町、御所市の範囲となる。上記の地図では緑の枠の中。『神武紀』 高尾張邑に土蜘蛛がいて、身の丈が短く、手足が長かった。侏儒に似ていた。皇軍は葛の網を作って、覆いとらえてこれを殺した。そこでその邑を葛城とした。要するに、高木と葛のつるで覆い尽くされたような原野が広がっていたのであろう。


 奈良盆地西南部の葛城郡一帯の葛城山麓は要衝の地である。葛城山、金剛山、二上山(ふたがみやま)、畝傍山(うねびやま)、甘樫丘が「お山」である。南は紀伊、北は三輪、東は墨坂、吉野、伊勢、西は大坂、大阪から瀬戸内と繫がり山間をぬって往来ができる。この地を支配して居たのが葛城氏であり、大和朝廷草分け期に於いてヤマトで最も力を持っていた豪族であった。実在が確認できる日本最古の豪族である。三輪山を中心とする三輪王朝との絡みで葛城王朝を説く史観もある。この一族を歴史系列で見ると葛城氏、平群氏、蘇我氏、巨勢氏、紀氏へと列なっている。元々高天彦(たかまひこ)神社に祭神として祀られている高皇産霊尊( たかみむすひのみこと )を祖神とする一族とされる。 出雲王朝系の事代主、一言主とも絡んでいる。葛城氏は、その後の日本の歴史に陰に陽に影響を及ぼす種を蒔いた豪族であった。大和王朝史を見る時、この葛城が常に騒動の地となり「反骨の山」となっていることで注目される。

【葛城氏と事代主、一言主との関係考】
 葛城氏と事代主の関係が深い。事代主と日本書紀の雄略紀に登場する「葛城の一言主神」との関係も深い。

【葛城氏と赤銅のヤソタケル(八十梟帥)との関係考】
 神武天皇東征神話譚のヤマト攻略に於ける「ヤソタケル攻略譚、ワケミケヌの命の神夢譚」で、オトウカシの奏上として「倭の国の磯城邑に磯城のヤソタケル(八十梟帥)がいます。葛城邑にも赤銅のヤソタケル(八十梟帥)がいます。この者らも皆、皇軍に逆らい戦おうとしています」がある。ここに葛城邑が登場している。これによれば、「葛城邑を統治する赤銅のヤソタケル(八十梟帥)」がいたことになる。このヤソタケルと事代主の関係がはっきりしないが、深い関係にあったことは容易に推定できよう。

【葛城氏と鴨神の関係考】
 大和の葛城地方には鴨神がたくさん祀られている。鴨神は鴨氏が奉際していた稲作の神である。、延喜式神名帳に載る「名神大社」クラスの4つの鴨神のうち3つまでが出雲系神々との合体であり、葛城族と鴨族との結びつきが深いことが判明する。これを窺うのに、出雲王朝の有力後継者候補であった事代主の根拠地であった可能性が強い。一言主は事代主の系譜であるように思われる。この家系図上に蘇我氏が位置しており、葛城の地は蘇我氏の産土の地と云うことになる。645(皇極天皇4)年の蘇我蝦夷斬殺事件後、推古天皇のとき聖徳太子と蘇我馬子が協力して編纂したとされる「天皇紀」「国記」などの史書が焼失せしめられている。もし現存すれば葛城氏の伝承が記述されていたはずであろう。

 葛城山麓に「葛木坐火雷神社」(かつらぎにますほのいかずちじんじゃ)がある。祭神は「火雷神」(ほのいかずちかみ)。この神社は尾張氏の祖神を祀る神社でもある。籠神社の宮司・「海部氏」が、京都市の「賀茂別雷神社」の祭神「賀茂別雷神」(かもわけいかずちのかみ)と、ホアカリとは異名同体であると述べている。ここの祭神は「別雷神」である。「雷神」は尾張氏の神のことであり、ホアカリである。

 鴨氏が奉際していた神はもう一神おり、葛城山麓の「高鴨阿治須岐詫彦根命神社」(たかかもあじすきたかひこねじんじゃ)で祀られている。祭神は「味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと、以下、アジスキタカヒコネ)」である。別雷神を祀る賀茂別雷神社は俗に上賀茂神社と云われている

【葛城氏と草分け期の大和朝廷皇室との関係考】
 大和朝廷草分け期に於ける葛城氏の皇室との繫がりがとりわけて深いことが判明する。大和王朝初代の神武は、事代主命の子でもあるヒメタタライソスズヒメを、二代目の綏靖は媛踏鞴五十鈴媛命の妹の鈴依媛(すずよりひめ)を、三代目の安寧は事代主神の孫である「鴨君の女」を、四代目の懿徳は事代主命の孫の「鴨君の女」の娘を后妃にしていることから見ても分かるように、大和王権の初期はに出雲王朝の事代主系の后妃が次々に立っている。神武、綏靖、安寧、懿徳の初期4代の墳墓は畝傍山の山麓に集められていることも注目される。これを確認しておく。

 日本書紀によれば、後に神武天皇となる彦火火出見(ひこほほでみ)が大和の地を征服後、国中を一つに統べる都を造る場所を物色した時、「見れば、かの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の真ん中である」と宣べ、「畝火の白檮原(かしはら)の宮」を造営している。辛酉(かのととり)の年の春1月1日(西暦の紀元前660年)、彦火火出見は、新装なった白檮原(かしはら)の宮で初代神武天皇として即位した。初代神武天皇は、鴨族が祖神とする事代主神(ことしろぬしのかみ)娘の媛踏鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を娶って皇后としている。(古事記では、この説話を三輪伝説に引きつけて潤色しており、三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)が見初めた女に産ませた娘を媛踏鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)が神武の皇后になったとしている)。

 橿原宮で辛酉(かのととり)の年に即位して以来、神武天皇の治世は76年続いた。日本書紀はその間の業績として、神々の祀りの場を鳥見山に設けて高皇産霊尊( たかみむすひのみこと )を祀ったこと、脇上(わきがみ)の■間(ほほま)の丘に登って国見をしたことを記述している。治世76年、神武天皇は橿原宮で崩御した(亨年127歳)。日本書紀は、翌年、「畝傍山の東北の陵に葬る」と記述している。古事記は「御陵は畝火山の北方、白檮(かし)尾上にある也」と記している。

 第二代天皇は神武天皇第3子の神渟名川耳尊が即位している。これを見るに、媛踏鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)が、庶兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)が腹違いの弟たちを害そうとしていたのを歌で詠み、これを察知した同母兄の神八井耳命(かむやいみみのみこと)と弟の神渟名川耳尊が手研耳を襲い討った。その時、兄の神八井耳は恐怖で手足が震えおののいて矢を放てず、代わりに弟の神渟名川耳が矢を射て手研耳命を殺した。神八井耳は二代天皇の地位を弟に譲り、神渟名川耳が天皇として即位することになったと伝えている。これにより第二代綏靖天皇の御代となる。綏靖天皇は、葛城に宮を築き、これを高丘宮(たかおかのみや)といった。媛踏鞴五十鈴媛命の妹の鈴依媛(すずよりひめ)を后として迎えている。治世33年、天皇は病気で崩御された。日本書紀は享年84歳と記す。大和の桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのうえのみささぎ)に埋葬された。

 第三代安寧天皇は、翌年、宮を片塩に遷した。これを浮孔宮(うきあなのみや)という。安寧も事代主神の孫に当る鴨族の娘「鴨君の女」を后としている。鴨族との政治的結合ぶりが分かる。葛城山麓に都を定め治世38年で崩御した。日本書紀は享年57歳と記す。畝傍山の西南の御影井上陵(みほどのいのうえののみささぎ)に埋葬された。

 第四代懿徳天皇は安寧天皇の第二子。即位の翌年、宮を軽の地に遷し、これを曲峡宮(まがりおのみや)という。古事記には「軽之境岡宮(かるのさかいおかのみや)」と記す。治世34年に崩御され、畝傍山の南山麓に埋葬された。

 第五代孝昭天皇は、即位の年に宮を掖上(わきがみ)に遷した。日本書紀はこの宮を池心宮(いけのこころのみや)、古事記は「葛城掖上宮」と記す。伝承によると掖上池心宮は「よもんばら」 あるいは「よもぎ原」という場所にあったとされる。治世83年で崩御され、掖上博多山上陵に埋葬された。日本書紀はその時期を治世38年目と記す。

 第六代孝安天皇は孝昭天皇の第2子である。即位の翌年に宮を室(むろ)に地に遷した。これを室秋津島宮(むろのあきつしまみや)という。玉手丘上陵(たまてのおかのうえのみささぎ)に埋葬された。

 第七代孝霊天皇は孝安天皇の皇太子である。宮を黒田に遷した。これを庵戸宮(いおとのみや)という。孝霊天皇は治世76年目に崩御し、片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)に埋葬それた。

 第8代孝元天皇は孝霊天皇の太子だった。宮を軽の地に遷した。これを境原宮(さかいはらのみや)という。その宮の伝承地が橿原市大軽町にある。孝元天皇は治世57年目の秋9月に崩御した。劔池嶋上陵(つるぎのいけのしまのうえのみささぎ)に埋葬された。

 第九代開化天皇は第二子。日本書紀は孝元天皇の治世22年に、年16歳で皇太子になられたと記す。しかし、孝元天皇が治世57年に崩御されたのを受けて皇位を着いたのは、それから35年後のことである。即位の翌年、都を春日の地に移された。これを率川宮(いざかわのみや)という。

【葛城国造考】
 古事記では、ヤマト周辺の国造を「倭国造」(やまとのくにのみなつこ)のみ記しているが、先代旧事本紀には、ヤマトには「倭国造」とは別に「葛城国造」が居たと記している。こうなると、三輪山―巻向を中心とする倭と,葛城山山麓を中心とする葛城が古代ヤマトの二大勢力だったと云うことが考えられる。

【武内宿禰考】
 数代の天皇に仕え、朝廷 を支えた大番頭的存在として記紀に記されている武内宿禰は葛城氏である。神功皇后と一緒になって、応神天皇の即位を助けた功労で知られている。この人物は記紀上では、数百年生きたことになっており、現在では、その実在性は全く無理で、架空の人物、記紀の想像上の人物とされている。記紀では武内宿禰以降大臣になれる氏族は、総て武内宿禰の子孫に限られると記している。

 記紀に記されている系図では、武内宿禰は、紀国造氏(系図上は天神族)の娘と天孫族の男との間に産まれたとされている。紀国造氏が天神系であったかについては疑問がある。武内宿禰と葛城国造氏の女との間に産まれたのが葛城襲津彦である。葛城襲津彦は百済系の史料にも登場するので実在した人物と見て良い。娘;磐之媛を16仁徳天皇の后とした。17履中、18反正、19允恭の母となる。紀氏の流れから「紀橡(とち)姫」が出現する。天智天皇の子である「志貴皇子」との間に光仁天皇を産み、その子が桓武天皇となる。よって平安時代以降も、紀氏はある程度の勢力を保った、数少ない古代豪族である。紀貫之は有名。蘇我氏:武内宿禰に出自を有する後の大豪族である。「馬子」「蝦夷」「入鹿」など多くの実力者を輩出。天皇家と姻戚関係を結び、天皇の外戚となる。

 一説として、武内宿禰に始まり、その子ども葛城襲津彦―葛城葦田宿禰―葛城玉田宿禰―葛城円(つぶら)と続くとある。

葛城襲津彦考】
 葛城襲津彦(そつびこ)葛城氏の祖とされている。葛城襲津彦は、朝鮮半島でも活躍しその記録が、朝鮮の古書に記されてある。5世紀前半倭の五王の時代の人物とされている。記紀にも詳しく記されている。日本書紀の巻第九の神功皇后紀の条は次のように記している。
 「(気長足姫の)三年の春正月の丙戌の朔戊子、誉田別皇子を立てて皇太子となさった。そうして磐余に都をつくった。これを若桜宮という。

 神功紀五年の春三月の癸卯の朔己酉、新羅の王は、于礼斯伐(うれしほつ)・毛麻利叱智(もまりしち)・富羅母智(ほらもち)らを遣わして朝貢した。使者たちは、前に人質になっていた微叱許智伐旱(みしこちほっかん)をとり返そうという気持をもっていたので、許智伐旱をとおして、あざむいて、
使者の于礼斯伐・毛麻利叱智らは、私に告げて『わが王は、私が久しく帰らないので、ことごとく妻子を没収して、官奴としてしまった』と申しております。どうかしばらく私を本土に帰らせていただき、その虚実を知って御報告したい、 と言わせた。皇太后は、それをお許しになった。

 そうして、葛城襲津彦を付き添わせて遣わした。ともに対馬に至って、鉏海(さいのうみ)の水門(みなと)に泊った。 そのとき、新羅の使者の毛麻利叱智らが、ひそかに船と水手を配して、微叱旱岐を載せて、新羅に逃れさせた。 そうして蒭霊(くさひとかた;人形)を造って、微叱許智の床に置いて、偽って病気をしている人のように見せかけ、襲津彦に告げて言った。『微叱許智が、急に病気に罹って死にそうです』 と。襲津彦は、使を遣わして病人を見にやった。 そこであざむかれたことを知って、新羅の使者三人を捕えて、檻の中にとじこめ、火を放って焚き殺した。そうして新羅に行き、蹈鞴津(たたらのつ;釜山の南の多大浦)に宿泊し、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰還した。この時、捕虜を連れ帰った。捕虜達は今の桑原、佐糜、高宮、忍海などの四つの村の漢人(あやひと)らの先祖である」。

 葛城襲津彦はその後も新羅を討つべく、あるいは弓月の君を半島から大和へ導くべく派遣されている。「神功皇后紀六十二年、新羅を討たせるべく派遣されたが美女を納れて加羅国を攻めた。後、岩穴に入って死んだ」、「応神天皇十四年、弓月の民を連れ帰るべく加羅国に遣わされたが帰らなかった。十六年、本国からの応援を得て弓月の民を率いて帰国した。仁徳四十一年、百済王族酒君が無礼であったので、酒君を捕らえて襲津彦に従わせて進上した」。

 その娘の磐之姫(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となって履中・反正・允恭の3天皇を産んだ。磐之姫は、万葉集にもその歌があり、奈良時代藤原不比等の娘「光明子」が、聖武天皇の皇后になる時、皇族以外で皇后(単なる妃には過去多くの皇族以外の出身の娘がなったが、皇后になったのは、磐之姫しかなかった)になった先例にされた女性である。葦田宿禰の娘の黒媛は履中天皇の妃となり、市辺押磐皇子などを生んだ。押磐皇子の妃で、顕宗天皇・仁賢天皇の母である荑媛(はえひめ、荑は草冠+夷)は、蟻臣の娘とされる。円大臣の娘の韓媛は雄略天皇の妃として清寧天皇を儲けている。仁徳より仁賢に至る9天皇のうち、安康天皇を除いた8天皇が葛城氏の娘を后妃か母としていることになる。

【一言主考】
 雄略天皇譚に葛城山に住む一言主との次のような逸話がある。

 或る時、雄略天皇は葛城山に登り、大きな猪と遭遇した。天皇は鳴鏑を猪に向け放った。矢を射られて怒った猪は唸り声を出し、天皇の方へ向かってきた。唸り声を聞いて恐ろしくなった天皇は木の上に逃げ登った。

 また或る時、天皇が葛城山に登ったとき、お供のたくさんの官人たちはみな、紅い紐をつけた青いすりぞめの衣服を着ていた。向かいの山の尾根伝いに天皇の行幸の列そっくりに歩む姿が見えた。「この大和の国で私以外に大君はいないはずなのに、一体誰が私と同じ様子で行くのか?」。このようにお供のものと話していると、同じような内容の言葉がその山からも聞こえてきた。「無礼な!」。こういうと天皇は矢を弓につがえ、大勢の官人もみな矢をつがえた。すると、向こうの人もみな弓に矢をつがえる。「それでは、そちらから名を名乗れ! そして、互いに名を名乗ってから矢を放とうではないか」。「分かった、そうしよう。私が先に問いかけられたのだから、私が先に答えよう。私は悪い事も一言、善い事も一言で言い放つ神、葛城のヒトコトヌシの大神である」。それを聞いた天皇は恐れかしこまってしまった。「それは恐れ多いことでございます、わが大神よ。現実のお方であろうとは気づきませんでした」。そういって天皇は、自分の太刀や弓矢をはじめとして、多くの官人の着ている衣服を脱がせて、拝礼し献上した。ヒトコトヌシはお礼の拍手をして、その献上品を受け取った。そして、天皇が皇居に帰る際には、ヒトコトヌシの一行は山の頂きに大勢集まって、泊瀬の山の入り口まで送った。


【葛城氏の没落考】
 雄略天皇の御代(5世紀後半)、天皇家と並び立つ存在であった葛城氏の一族主流が滅ぼされた。これを確認する。

 時の葛城氏の族長は葛城円大臣(つぶらのおおきみ)。葛城襲津彦の孫で、父は玉田宿禰、母は不明。安康天皇の時、大臣になっていた。456(安康天皇3)年8月、仁徳の孫に当る眉輪王が安康天皇を殺害する事件が発生。安康の弟の稚武皇子(後の雄略)が眉輪王を討とうとしたところ、王は葛城円大臣の自宅に逃げた。雄略は、円の屋敷を軍勢で包囲し引き渡しを要求した。円は、娘の「韓媛」と領地7区を差し出し許しを請うた。しかし、稚武皇子は許さなかった。円大臣は、「自分を頼って来た追われ人を、なぜむざむざ引き渡すことができませう」と啖呵を切った。これにより、葛城氏一族が皆殺しにされ滅亡した。これを「眉輪王の変」と云う。(関裕二「修験道がつくった日本の闇」(ポプラ社、2009.2.16日初版)の71P「天皇家と葛城の相剋」参照)。後に韓媛は雄略の后となり清寧を産んだ。この後同族の平群氏が大臣についた。葛城氏は、5世紀末に衰退した。






(私論.私見)