日本書紀編纂考

 (引用先失念、折をみてれんだいこ記述に改める予定、暫しご容赦を)

 (最新見直し2006.11.22日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


【日本書紀編纂考】
 681(天武紀10)年、三月十七日、天武天皇が、川嶋皇子以下十二名に「帝紀」と「上古諸事」を記定せしめたまうとあって、これが日本書紀修史事業の始まりとされている。

 書紀の修史事業は粘り強く進行し、朝廷はその材料として691(持統5)年、八月、大三輪氏、大伴氏、平群(へぐり)氏など十八の大豪族に先祖の事績を述べた墓記(おくつきのふみ)を提出させている。「同年九月と翌六年十二月には書紀の撰述を促すために唐人の続守言(しょくしゅげん)と薩弘恪(さつこうかく)を授賞したり、あるいは両氏死去後には文章学者の山田史(やまだのふひと)御方(みかた)に撰述を担当させ、述作を促すために慶雲四年(707)六月には学士として授章している」(森博達(もりひろみち)著「日本書紀の謎を解く」中公新書)。

 714(和銅7)年、紀清人(きのきよひと)、三宅藤麻呂が国史編纂メンバーに追加的に参加する。

 720(養老4)年、古事記献上から8年後、天武天皇の第3皇子である舎人親王等が日本書紀30巻、系図1巻を上宰し、元明女帝の皇女・元正女帝に献上した。日本書紀の完成を最も喜んだのは藤原不比等であったと思われる。701年に「大宝律令」を制定、710年に平城京遷都を主導し、我が子の宮子を持統天皇の孫にあたる文部天皇に嫁がせた不比等は、先行した古事記を踏まえつつ皇室の万世一系の系譜と由来を完成させ、現王朝の正統性を引き出すことに腐心していた。

 日本書紀には、壬申の乱で敗北した天智天皇の娘でありながら勝者の天武天皇の后となった持統天皇の秘めた願いが込められていた。天武天皇の死後、皇太子である子の草壁皇子のためにライバルと目された天武系の大津皇子を抹殺したが、草壁皇子が若くして病死するという悲運に見舞われた。そこで自ら即位し持統天皇となった。持統天皇は、その後継者として孫の軽皇子の擁立を藤原不比等とともに図って文部天皇として即位させ天智系の復活を実現させた。その勝者の立場で書かれたのが日本書紀であった。

 日本書紀は古事記に続く国史書となったが官撰的地位を持つ。大安万呂(おおのやすまろ)の子孫である多人長(おおのひとなが)の著書「日本紀弘仁私記」の序文には、大安万呂が日本書紀の編纂に加わっていたと明記している。つまり、古事記を編纂した大安万呂が、古事記完成の僅か8年後にそれと異なる日本書紀を正史として新たに作り上げた、ということになる。

 古事記同様に序文があったと思われるが失われており、編纂の経緯や携わった人物など編集の仔細が分からない。古事記も日本書紀もいわゆる神代時代から始まって、古事記は第33代推古天皇まで、日本書紀は第41代持統天皇(在位690〜697)までの事跡を年を追って事件を記す編年体で綴っている。古事記は前半部分の方が詳しく、日本書紀は後半部分の方が記事が詳しい。読み比べればどこを訂正しているか歴然とするのであろうが、れんだいこにはその能力も時間もない。

 古事記と日本書紀は「記紀」と総称され、古事記も日本書紀も和漢混交体と云われる、和語を生かして万葉仮名にして、それに漢字を当てて記すという独特の文体を採用している。その際の漢字の当て字は、音訳と語義の両面から極力相応しい漢字を求めて当て字するという高度な手法が用いられている。但し、古事記と日本書紀では表記が悉く異なっている。そのそれぞれが何らかの適切な意味を持たせて当てられており、当てられた和語の客体を洞察するのに相応しいものとなっている。敢えて言えば、語彙を生かすことに於いて、古事記の方が古くからの言葉をそのまま残そうとしており、現在では母音はあいうえおの五つしかないが、古事記は当時八つあった母音を異なる漢字で書き分けている、とのことである。

 いずれにせよ、古事記、日本書紀に於ける和漢混交体文は、これを記した当時の文官の能力と日本の国家ないしは民族の主体性を示して余りあると云えるだろう。この点がもっと指摘され注目されても良いだろう。

 2006.12.4日 れんだいこ拝
 『弘仁私記』や一部の『書紀』古写本に、『書紀』の最初の講義が行われた養老五年(721)にその講義をした博士は太安万侶とされている。『書紀』が奏上される八年も前に撰上された『古事記』。『古事記』は第三十三代推古天皇の時代までを記しているが歴史の記述は第二十三代の顕宗(けんぞう)天皇(在位485〜487年)の頃までで、それ以降の天皇については系譜を示すのみで歴史は扱っていない。書紀は第四十一代持統天皇(在位690〜697年)までをみっちり扱っており、むしろ後半になればなるほど歴史の内容が濃くなっている。ちなみに、『書紀』全三十巻のうち、神代から顕宗天皇までは十五巻で、従って『古事記』は『書紀』のちょうど半分しかカバーしていない。







(私論.私見)