吉田家神道 |
(最新見直し2010.09.29日)
【吉田家と白川家の由来 】 |
江戸時代に吉田家と白川家が神社の神職などにその資格を与える事が出来たのは古代の律令制での神祇官という制度に由来します。 神祇官は朝廷の祭祀を司る官であり、諸国の官社を総轄しました。長官は神祇伯。平安時代初期までは律令制の原則が守られたため、 伯の職も独占ではなかったのですが、のちに花山源氏白川家が神祇官の長である神祇伯に代々就任するようになりました。神祇伯に なったものは実際は臣下でも王を称したので、白川伯王家などともいわれます。 吉田家は神祇官の下級技術吏ト部に出自を持ち、神祇大副(神祇官次官)を最高位とする公家で、吉田神社の神主でした。15世紀の 後期に吉田家の当主になった吉田兼倶は「唯一神道」と呼ばれる吉田神道を作りました。兼倶は、「神祇大副」の他に神祇伯と対等の席 を占める「神祇管領長上」という肩書を持ち、吉田家は幕末まで神道界に大きな勢力を誇りました。 |
【両家の権威の前提になる江戸時代の法令】 |
ここではまず、吉田家と白川家が神職等の獲得合戦を始める前提となる江戸時代の法令を確認しておきます。江戸時代初期には神職 の資格を与える権威は各地の大社や吉田家、伊勢神宮、修験道の本山など複数が存在しました。これでは統一政権である江戸幕府に とっては神社、神職の把握などが一元的にできないという問題がありました。そこで、寛文五(1665)年に「諸社禰宜神主法度」という法律 を制定しました。これは由緒のある大きな神社などは別にして、それ以外の神職は吉田家から資格などを受けるようにと決めたものです。 ところが、別扱いにならなかった大社などから苦情が出てきます。そこで幕府は延宝二(1674)年に法令を一部修正し、「伝奏無き社家も 吉田執奏に及ぶべからず」としました。「及ぶべからず」ということで、必ずしも吉田家には限定されない、他の公家であってもよいと条件 を緩和しました。 ここで出てくるのが白川家です。吉田家の権威は神祇官の次官である「神祇権大副」であり神祇伯と対等の席を占める「神祇管領長 上」という肩書があるからです。とすれば、神祇官長官である「神祇伯」を世襲する同家は吉田家と同等かあるいは上位にあるわけで、吉 田家と同様に神職等の資格を与えることが出来ることになります。 |
【吉田神道(よしだ‐しんとう)】 | |
吉田神道(よしだしんとう)は、室町末期、京都( 卜部氏は古代に神祇官の亀卜をつかさどった家系である。吉田家は神祇官としての実権を握っての家学にみるべきものがあり、また諸社のことにも関与して指導的立場にあった。平安時代には平野・吉田両社の神官となり、鎌倉時代中期に吉田兼方が「釈日本紀」を著している。「旧事本紀玄義」の著者慈遍をはじめ多くの学者を出し、吉田・平野両流ともに古典研究の家として認められた。平安時代以来神祇の方面では神祇官の長官である伯を世襲する白川家の権威が高かったが、伝統的な権威が崩れた室町時代に出た兼俱は、卜部氏が蓄積してきた神祇の専門知識を集約して独自の説を掲げ、白川家に代わる権威を築こうとした。 兼俱は,その教理を、 日本古来の 兼俱はこうした教説を具体化するために、1484(文明16)年、吉田神社に大元宮と称する神殿を建て斎場を作った。八角形の本殿に六角形の後殿を接続させたその奇妙な神殿には、すべての天神地祇、全国3000余社の神々を勧請し、兼俱は神祇長上(神祇管領長上、神道長上、神祇統領などともいう)を自称して白川家に対抗した。兼俱は、神祇長上を権威づけるための様々な策謀をめぐらして吉田家の力を伸ばし、宗源宣旨と称する文書を発行して全国の神社に位階を授け、神号を認め、神殿や祭礼に関する認可を与えるなどのことを行った。「宗源宣旨」は次のように記している。
室町時代後期以降の統一的な権威を求める歴史の流れに乗った吉田神道は、戦国大名の中にも受けいれる者が多く、兼俱の孫兼満、その嗣子兼右(かねみぎ)らの活動を経て近世にはさまざまな免許状の発行を通じて全国の神官のほとんどを傘下におさめるようになり、近世に広く浸透し権勢を振るった。 「神道大意」、「唯一神道名法要集」を基本教義書としている。そこでは従来の神道を、本迹(ほんじやく)縁起神道(社例伝記神道ともいい、古来の神社神道をさす)と両部習合神道(仏教と習合した神道)の二つに分け、その二つに対して天児屋命の後胤である卜部氏のみが伝えてきた唯一至高の神道が、元本宗源神道であると説く。 いわゆる神道を分けて (1) 本迹縁起または社例伝記、(2) 両部習合、(3) 元本宗源の3家となし、そのうち第3をもって、真意にかなった正統的伝統であり、アメノコヤネノミコトの神託によって世々吉田家に伝来し、ほかはその末流とする。根本道場を吉田山上の斎場所におき大元宮を全国諸神社の総本山とし、神官の大多数を支配した。 この神道の所説は、万物はすべて神の顕現であり、人間も等しくその心に神を宿す。心はすなわち神である。釈迦や孔子の説く教えも神道と密接な関係を有し、一樹に見立てれば神道は根、儒教は枝葉、仏教は花実に相当する(この説の原形は兼倶より1世紀前の天台学僧慈遍(じへん)の説にみえる)とする。これは「三教根本枝葉花実説」として近世に多く用いられた。 天地の根元、万物の霊性の顕現であり、無始無終、常住恒存の存在である大元尊神(古典の国常立神)に発する。その教理は顕露教と隠幽教の2面をもつ。顕露教は,先代旧事本紀、古事記、日本書紀に依拠する神道であるが、隠幽教は天元神変神妙経、地元神通神妙経、人元神力神妙経によって立てられた窮極秘奥の教えであるという(この三部の経典は実際には存在しない)。こうした教説にもとづいて十八神道三元三妙三行の加持が考えられ、それを実践して内外の清浄を実現すると主張した。 行法面では神道護摩(ごま)、三才九部妙壇十八神道、神道灌頂(かんじょう)、安鎮法等々を唱道し、神秘奥伝授受を行った。宣教運動も活発で吉田山に神道の総本山と称して大元宮を創建、朝廷や幕府に取り入り、従来の白川家をしのいで神職の任免権を得、全国的に多くの神社・神職をその勢力下に収めた。 兼俱は、儒教、仏教、道教の三教に対する神道の唯一純粋性を主張した。但し、実際の教説は、仏教、老荘、道教、陰陽道(おんみょうどう)五行説をはじめ、室町時代にあったさまざまな教説や信仰を陰陽道などさまざまな教説を自在に融和混交させている。結果的に神道の教理的発達普及に役割を果たした。吉田神社の大元宮を根本道場とした。 |
【権現】 | |
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【三社託宣】 | |
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【神道講釈】 | |
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【兼見卿記】 | |
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(私論.私見)