天皇陵

更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).2.24日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 
 2006.12.3日 れんだいこ拝


 垂仁天皇陵
 垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月14日)は第11代の天皇。在位は垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月14日。活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊等と称され、古事記には「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」、常陸国風土記には「伊久米天皇」、令集解所引「古記」に「生目天皇」、上宮記逸文に「伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王」と見える。崇神天皇の第3皇子。生母は御間城姫命(みまきひめのみこと)。御陵は、古事記に「御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」、日本書紀に「菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)」、続日本紀には「櫛見山陵」として見える。現在、同陵は奈良県奈良市尼辻西町の宝来山古墳(前方後円墳、全長227m)に比定される。

 崇神天皇陵
 崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年(紀元前148年) - 崇神天皇68年12月5日(紀元前29年1月9日)は、記紀に記される第10代の天皇(在位:崇神天皇元年1月13日(紀元前97年2月17日) - 同68年12月5日(紀元前29年1月9日))。和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。現代の日本の学術上、実在の可能性が見込める初めての天皇であるともいわれる。都は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社が伝承地)。

 奈良県天理市柳本町字行燈にある治定・崇神天皇山辺道勾岡上陵。墳丘長242m、4世紀前半の築造とされる前方後円墳。龍王山麓から西へ伸びる丘を利用して造られており、周濠から銅板、金銀細工品、土器などが出土している。当墳の西側には陪塚とされる古墳が3基ある。柳本古墳群ではすぐ南にある治定・景行天皇山辺道上陵に次ぐ規模になる。

 大神神社より檜原神社と纏向遺跡、景行天皇陵を経て、前方部の前を走る石畳の道から、御陵を半周する形で、崇神天皇陵拝所前に辿り着く。景行天皇陵と区別するためか古事記の陵名が刻まれた石碑と鳥居がある。拝所前の高い土堤と階段は幕末の文久時の修理により増設された。

 景行天皇陵
 景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年(紀元前13年)- 景行天皇60年11月7日(130年12月24日))は、古事記、日本書紀に記される第12代の天皇(在位:景行天皇元年7月11日(71年8月24日) - 同60年11月7日(130年12月24日))。和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)。常陸風土記には大足日足天皇。播磨風土記には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父。垂仁天皇の第三皇子、母は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)。

 西乗鞍古墳
 西乗鞍古墳全体が史跡公園として整備されている。全長128mの中型の前方後円墳。 主軸は南北に置き、埋葬施設がある後円部が北、前方部が南。 後円部径72m、後円部高15.5m、前方部幅78m、前方部高16m。築造;古墳時代後期・6世紀前半。所在地;天理市杣之内町乗鞍。杣之内古墳群では西山古墳に次ぐ規模。

 ※神社の品格(式内社):式内社(しきないしゃ)は、延喜式(延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)とは、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」とされていた全国の神社一覧)がまとめられた10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社であり、その選定には政治色が強く反映されている。当時すでに存在したはずであるのに延喜式神名帳に記載されていない神社を式外社(しきげしゃ)という。延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社であり、そこに鎮座する神の数は3132座である。但し、延喜式神名帳に記載されていない神社を式外社(しきげしゃ)というが政治的なものや神仏習合、廃仏毀釈などで、単に式外社が粗末と言う訳でもない。熊野那智大社のように立派な所もある。

 黒塚古墳
 33枚もの多数の神鏡を始め多くの発掘物で知られる黒塚古墳。現地に資料館に発掘物が展示されている。黒塚古墳の建設は崇神天皇陵より更に古く、崇神天皇陵の被埋葬者に仕える人物の古墳であるとされる。古代、疫病を鎮めるための神事が行われていたと記紀が記す。

 桜井茶臼山古墳
 奈良県桜井市外山(とび)にある桜井茶臼山古墳。磐余の東側、初瀬川左岸の丘陵の末端を切断して築造した、3世紀末~4世紀初のものとされる墳丘長207mの前方後円墳。石室の発掘調査で、朱塗の竪穴式石室と割竹形木棺、碧玉の玉杖、多数の銅鏡破片等々多数の出土品。副葬された銅鏡は80面以上あったと判明し、国内の大量副葬の枚数第一位です。残された副葬品は多く当地の王墓とみられている。饒速日、或いは長髄彦の墓とする伝承もある。桜井市内には分かっているものだけでも大小約5000基の古墳がある。箸墓と並んで特筆されるものかもしれません。




(私論.私見)