大和神社

更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).3.30日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2006.12.3日 れんだいこ拝


【大和神社】

 日本書紀その他古記録によれば次のように記している。

 概要「(創建は古く崇神天皇の時代まで遡り、)大和王朝創建以来、大和(倭、日本)大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は天照大神と共に宮中に並斎されていたが、崇神天皇5年、国内に疾病多く、死亡者が続出した。崇神天皇6年、天皇は、二神が同床にあるのは畏れ多いこととして、天照大神を倭の笠縫村に移し、磯堅城(しかたき)の神(ひも)ろぎを立てて豊鍬入姫(とよすきいりひめ)に祀らせた。大和大国魂神を皇女・渟名城入姫を斎主として祀らせた(「大倭神社注進状」では、穴磯村に祀らせたとある)。しかし、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。

 崇神天皇7年秋8月、穂積臣(ほづみおみ)の遠祖・大水口宿禰(おおみなくちのすくね)ら3人の夢に貴人が現われて、『太田田根子を大物主の祭主とし、市磯長尾市をもって倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ』との神託を授けた。叉同年11月にも同じようなことが起こり、大倭直の祖・市磯長尾市を祭主として、神地、神戸が定められ鎮座、創建された。これが大和神社の創起となる。これにより国内は静かになり、五穀は実ったと云う。当初の鎮座地は、現在の鎮座地の東方の山麓であるとみられ、後に現在地に遷座したとされるが、遷座の時期ははっきりしない。一説には現在の長岳寺の位置であるという。平安初期までに、天照大神を祀る伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、朝廷の崇敬を受けて隆盛した。しかし、平安京への遷都や藤原氏の隆盛などにより衰微し、中世には社領を全て失っていた」。
 社伝で、日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)で、第十代崇神天皇が営んだ磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、崇神天皇6年に天皇が神威をおそれ、天照大神を皇女豊鋤入姫命をして倭の笠縫邑に移されたとき、皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して、市磯邑(大和郷)に移されたのが大和神社の創建であり現在に至っていると伝えられている。
 692(朱鳥6)年、持統天皇は藤原京の造営にあたって、伊勢・住吉・紀伊の神とともに当社に奉幣し伺いを立てた。897(寛平9)年、最高位である正一位の神階が授けられた。延喜式神名帳には「大和国山辺郡 大和坐大国魂神社 三座」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。後に十六社・二十二社の一社ともなった。
 先の大東亜戦争時には、世界最大最強を誇る「戦艦大和」の守護神ともされ、大和神社の祭神の分霊が艦内で祀られていた。1945(昭和20)年、戦艦大和は沖縄沖で沈没したが、そのときに亡くなった第二艦隊司令長官伊藤整一命外、2,736柱と護衛艦の方々の英霊が末社・祖霊社に合祀されている。

【大和稚宮神社、歯定神社】
  御旅所坐神社(大和稚宮神社)、歯定神社は奈良県天理市の大和神社(おおやまとじんじゃ)の境外摂社で、例年4月1日に行われる「ちゃんちゃん祭り」の御旅所坐神社として中山町にある。境内には右手に大和稚宮神社、左手には歯定神社がある。平成30年、県指定無形民俗文化財に指定されている。

 御祭神主祭神は、日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ、大地主大神 (おおとこぬしのおおかみ)。








(私論.私見)