石上(いそのかみ)神宮 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和5).7.16日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「石上(いそのかみ)神宮」を確認しておく。 2006.12.3日 れんだいこ拝 |
【石上神社(いそのかみじんじゃ)】 |
天理市瀧本町483。布留川上流の清流沿いに鎮座。祭神/ 石上大神。摂社/天照大神、春日大神、住吉大神、 天水分神、八幡大神。
巷では石上神宮の元社といわれるが真偽は不明。神奈備山・布留山を挟んで石上神宮と反対側にあるが、宮は、すぐ北側の桃尾の滝、あるいはその奥の大国見山を拝する向きにある。 |
【桃尾の滝(ももおのたき)】 |
天理市滝本。 桃尾の滝は、大昔には石上神社の信仰地だったのだが、その後、和銅三年創建の龍福寺の境内地だったとのことで、一帯は磨崖仏を含む多くの仏像がある。ここから、大国見山に登ると、山頂付近には磐座と思しき巨石群と「御嶽大神」の祠がある。おそらく、石上神社と関連した磐座なのだろう。神社ー滝ー巨石のセットは、出雲や今治の多岐神社に似た感じ。 石上神社〜桃尾の滝(白龍大神)〜龍福寺跡 |
【石上神宮(いそのかみじんぐう)】 | ||
奈良県天理市布留町384。式内社(名神大社)。 古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。旧社格は官幣大社(現在は神社本庁の別表神社)で中世には二十二社の中七社のひとつとされた。 紀元前91(崇神天皇7)年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、石上大神として祀ったのが創建である。別名、石上振神宮、石上坐布都御魂神社、石上布都御魂神社、石上布都大神社、石上神社、石上社、布留社、岩上大明神、布留大明神等。尚、日本書紀に記された神宮は伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば日本最古設立の神宮となる。飛鳥時代の豪族・物部氏の総氏神とされ、古くから健康長寿や除災招福、百事成就の守護神として信仰されている。 主祭神として布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)叉は布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)、布都斯御魂大神(ふつしみたまのおおかみ)。配祀として五十瓊敷命(いにしきのみこと)、布留の長男の宇摩志麻治命(うましめじめみこと)、白川天皇、木事命(コゴトノミコト)、市川臣命(いちかわのおみのみこと)と八神おられ、この八神を鎮魂する為に、1081年に、白川天皇がじきじき参拝し始められた。鎮魂するということは祟りを恐れているから鎮魂する訳であるが、何故にこの八神の祟りを恐れたのかはっきりしない。 布都御魂大神の御神体として神武天皇の国土平定に偉功をたてた神剣「布都御魂剣」(ふつのみたまのつるぎ、韴霊)、鎮魂にかかわる神宝「天璽十種瑞宝」(あまつしるしとくさのみづのたから)、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した神剣「天十握剣」(あめのとつかのつるぎ)が祀られている。 奈良時代の末期に編纂された4500首にのぼる万葉集の歌の中で、「袖ふる山」として歌われている。聖徳太子と蘇我馬子によって滅ぼされた物部氏の本拠地であったと伝えられている。鳥居の前、向かって左に柿本人麻呂の歌碑がある。
古事記、日本書紀に、石上神宮、石上振神宮との記述がある。神武天皇が大和朝廷を開く前にこの地を治めていた大王であったニギハヤヒ-ナガスネヒコ王朝の古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。 古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。 また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮」(いそのみや)と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのか興味深い。 武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣とされている布都御魂剣が奉納されている。この剣は、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、天津神から高倉下の手を通して天皇の元に渡った。その後、物部氏によって宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀った。 |
【七支刀(しちしとう、ななつさやのたち)考】 | ||||||
石上神社は大和朝廷の武器庫として知られ、物部氏(もののべうじ)ゆかりの日本最古の神社。神庫に御神宝の国宝・七支刀(しちしとう、ななつさやのたち)。七支刀に刻まれた銘文は我国と4世紀の大陸や半島との外交を考えるうえで逸することのできない重要な史料である。銘文の中に369年に当たると推定される「泰和四年」の年紀が刻まれ、刀はその頃に百済で製作されたと考えられている。七支刀は、大王家に仕えた古代の豪族物部氏の武器庫であったとされる奈良県天理市の石上神宮に六叉の鉾(ろくさのほこ)として伝えられてきた鉄剣。 全長74.8cm、刀身65cm。両刃の鉄剣で、刀身の両側から枝が3本ずつ互い違いに出ている。特異な形から七支刀の名があり、実用的な武器としてではなく祭祀的な象徴として用いられたと考えられる。日本書紀には七枝刀との記述があり、4世紀に百済から倭へと贈られたものとされ、関連を指摘されている。百済が倭と同盟して新羅を攻め、加耶諸国を守ったのを記念して、七支刀一振と七子鏡一面を倭王に献上したものという説がある。 宋書では、421年、宋に朝献し、武帝から除授の詔をうける。425年、讃、使者・司馬曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる、とある。従来の解釈では、421年に宋に朝献したのは倭王・讃だと考えられているが、実は倭王・旨であった可能性がある。七支刀を贈ったのは世子19久尓辛王(420-427)ではなく、18腆支王(405-420)であったとすれば、受け取った倭王は「旨」王であった可能性が極めて高い。即ち、369年説、419年説のいずれを採ったとしても、倭の五王の前に倭の「旨」王が実在していたと言える。その人物は、七子鏡が発見された大仙陵古墳(五世紀 初頭~1/4世紀)の被葬者である。七子鏡が大仙陵古墳で発掘されたことを併せて考慮せねばなるまい。 この刀の製造年を巡って、268年説、369年説、468年説がある。同時に献上された七子鏡が大仙陵古墳(発掘された須恵器の様式から、5世紀初め築造と推定できる)で発掘されている。従来は369年説が定説と考えられる。近年になって桜田和之氏が419年説を発表した。 |
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明治時代初期、当時の石上神宮大宮司菅政友が刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見し、以来その銘文の解釈・判読を巡って論争が続いている。その裏表にあわせて61文字からなる銘文が金象嵌でほどこされている。鉄剣であるために錆による腐食がひどく、読み取れない字もある。
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略史は次の通り(出典参照は、大野七三著「古事記、日本書紀に消された皇祖神ニギ速日大神の復権」)。
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物部氏(もののべうじ)は河内国の哮峰(現・大阪府交野市?)にニニギノミコトよりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒミコトを祖先と伝えられる氏族。元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏とならぶ有力軍事氏族へと成長していった。五世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。 |
【「布留遺跡」】 |
「3. 物部氏の本拠 天理市布留遺跡 再訪 再訪Walk」参照。 |
【石上神宮と鶏】 |
「石上神宮」(いそのかみじんぐう)の境内に入ると鶏がいる。鶏は古事記、日本書紀にも登場しており、暁に時を告げる鳥として神聖視され、神様のお使いともされている。鶏たちは夕方暗くなる前に低い木々から順々に高い枝に飛び上がり、そこで一夜を過ごしている。烏骨鶏やレグホンは高く飛び上がることが出来ないため、専用の鶏舎にて夜を過ごす。 石上神宮は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られた日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されている。平安時代後期、白河天皇が当神宮を殊に崇敬され、国宝に指定されている拝殿は天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えられており、建立年代は鎌倉時代初期とみられている。ここも大神神社と同様に拝殿のみで本殿はなかったが、大正2年に本殿が造営されたという。 |
【石上神宮と山の辺の道】 |
四季折々の花が美しい長岳寺や内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)跡を過ぎると、石上神宮に出る。古代の軍事氏族・物部(もののべ)氏の氏神を祀る古社で、朝廷の武器庫としての役割も果たしていた。「山の辺の道」はこのあたりまでであるが、日本書紀には「石(いそ)の上(かみ) 布留(ふる)を過ぎて 薦枕高橋(こもまくらたかはし)過ぎ 物多(ものさは)に 大宅(おおやけ)過ぎ 春日(はるひ)春日(かすが)を過ぎ 妻隠(つまごも)る 小佐保(をさほ)を過ぎ…」という歌が残っている。恋人を殺された物部氏の娘・影姫(かげひめ)が悲しみを詠んだとされる歌で、姫は布留の地で知らせを受け、山の辺の道を駆けたものと思われる。古代の地名を並べたこの歌が、古道はさらに北へと延びていたことを示している。 |
【石上神宮の行事】 |
石上神宮 最大の祭典「ふるまつり」~
奈良県天理市布留町にある日本最古の神社「石上神宮」(いそのかみじんぐう)は式内社(名神大社)二十二社(中七社)、旧社格は官幣大社で飛鳥時代の豪族・物部氏の総氏神、健康長寿や除災招福、百事成就の守護神として信仰されている。主祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、御神体として神武天皇の国土平定に偉功をたてられた神剣「韴霊(ふつのみたま)」、鎮魂にかかわる神宝「天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)」
、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した神剣「天十握剣(あめのとつかのつるぎ)」が祀られている。
10.15日、神宮最大の祭典、村渡(たむらわたり)とも呼ばれる「ふるまつり」が挙行される。午前の例祭は、荷前(のさき・新穀の穂のついたままの稲株)が奉られ奉幣(ほうべい)の儀、午後に渡御行列が出発し田町の御旅所(おたびしょ)まで片道4Kを往還する。戻った神宮で還御祭(かんぎょさい)が行われる。 |
(私論.私見)