大峰山修行考

 更新日/2024(平成31→5.1栄和改元/栄和6).1.24日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、役行者が開教した修験道について確認する。修験道はその後、仏教修験化を主流としつつ神道修験化の両方向へ分岐して行くので、役行者段階の修験道を役行者式修験道として識別する事にする。これが神仏習合の原修験道であると思われる。

 2008.7.28日 れんだいこ拝


Re:れんだいこのカンテラ時評437 れんだいこ 2008/07/29
 【役行者式修験道の特徴その1、金剛蔵王権現】

 役行者が切り開いた大峯山の山頂には、日本で一番高い所にある木造建築物にして国重要文化財である大峯山寺本堂がある。山麓の吉野山には金峯山寺蔵王堂がある。国内では東大寺に次ぐ日本で二番目に大きい木造建築になっている。本尊は、三体の金剛蔵王権現で、不動明王を中心に蔵王菩薩、金剛童子が配置されている。現在の堂宇にあるのは本地仏の釈迦如来(過去世)、千手観音(現在世)、弥勒菩薩(未来世)とされているが、本来の金剛蔵王権現の姿であるかどうかは疑わしい。

 本来の金剛蔵王権現は、神格仏とも云うべきご神体にして仏である。仏教にはない権現を敢えて神格仏にしているところに意味があり、役行者が切り開いた修験道の原点はここにあると云うべきだろう。後年、修験道が仏教化を強めるに及び、釈迦如来でも阿弥陀如来でも弥勒菩薩、観音菩薩でもなく、それらが合体したものと考えられるようになった。こう理解しないと解けないのが権現であり、してみれば役行者は極めて日本的な神格仏を生み出したことになる。

 三体の金剛蔵王権現の中心を為すのは不動明王である。「不動金縛り」に使われる不動であり、験力を表象している。その像容は、火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開いて忿怒の相を表わし、片足を高く上げて虚空を踏んでいる。作者は不明であるが、役行者式修験道の核心を捉えた質の高さを示す彫刻像になっている。

 役行者式修験道の不動明王は何ゆえかく「忿怒の相」で刻まれたのか。れんだいこは、ここに役行者式修験道の本質があるように思う。これを説き明かす役行者論が為されているだろうか、れんだいこは知らない。よって、れんだいこが次のように窺うものとする。

 役行者は獲得した修験力で、単に精神的世界を渉猟するのみならず、世の変革にも立ち向かった。当然、政治に深く関わり、それは単なる利権に於いてではなく、悠久の歴史を見つめており、出雲王朝の国譲り以来の歪みと、大和王朝的政治の諸施策の政治貧困に対して不正を質した。あるいは王朝史をも質そうとしたのかもしれない。他方で人民大衆の生活基盤の擁護、善導即ち衆生済度に向かった。不動明王の「忿怒の相」は、そうした役行者の烈火の怒りと深い慈愛、透徹した眼力を表象しているのではなかろうかと窺う。

 かく捉えれば、金剛蔵王権現信仰は役行者式修験道のエートスであり、これを抜いては成り立たない。そういう重要な教義であろう。これある限りに於いて役行者式修験道が生きていると云えよう。まずはこのことを確認しておきたい。

 2007.7.28日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評438 れんだいこ 2008/07/29
 【役行者式修験道の特徴その2、神仏習合】

 役行者は、一冊の書物も著していない。れんだいこは、「修験道の奥義は以心伝心により感応体得するもの。云うに云われず、著して著しきれないところに真理が有るゆえ著さない」とする弁えによっていたのではなかろうかと拝察する。役行者の実際の理論的質の高さについて、霊異記は次のように伝えている。
 概要「百済滅亡に際して日本に渡った百済人で難波の百済寺に入った義覚という高僧が『大日経』や陀羅尼などについて小角に尋ねたところ、その明確な返答に感動して弟子入りした」。

 信憑性は分からないが、この逸話は、役行者の教義能力の高さを逸話していることになろう。

 堂宇にはその後、三体の金剛蔵王権現の廻りに仏教の千手観世音菩薩、弥勒菩薩、釈迦牟尼佛、 阿弥陀佛、 毘遽謝那佛(大日如来)を配するようになった。それは、役行者式修験道の神仏習合的性格よりする自然派生であったと思われる。ここに修験道の特徴が認められる。この流れを確認する。

 役行者式修験道は、在来の古神道に立脚しつつ、伝来の仏教的教説の精髄を嗅ぎ取り、これを調和的に習合させ、古神道的道教的山岳神仙修行と仏教的菩薩修行を総合させているところに意味がある。ここに、役行者型修験道の第二の特徴があると見立てたい。

 爾来、古神道では、宇宙、自然、生物と云う森羅万象の即自的在り方そのものの中に生命を認め、その循環摂理を知り、人智を超えた神秘なる調和を嗅ぎ取った故に、そのそれぞれに神名を被せて神格化させ尊崇してきた。それは、豊葦原の瑞穂の国と云われる環境的恵みから生まれた自然発想のような気がする。

 日本の地勢は、内陸から海岸まで世界的に珍しいほど高山低山に囲まれている。その水系は、山岳を源流として河川、地下水となり、海へ流れ込むまで山野海域に恵みを与えている。れんだいこが思うに、森羅万象との共生観を本質とする古神道は、万物に恵みを与える「お山」の果たしている役割を的確に神道科学的に捉えていたのではなかろうか。それは或る意味で、近現代科学よりも本質的により科学的であるとさえ思う。

 これが「お山信仰」を生みだすルーツではなかろうか。かくて古神道に於いては、霊山は祖霊の鎮まるところでもあり且つ生命の始原と云う意味に於いてもお陰を感ずべき対象として位置づけられてきたのではなかろうか。「お陰思想」は古神道の基本概念であり、こういうところからもたらされているのではあるまいか。

 それらの諸山の中で、いわばその地域を守護する霊力の強く、且つ眺望のよい主たる山を見出して霊山とし、風水的なイヤシロ地に神社を創建し祀ると云う霊山信仰を培ってきた。霊山には諸神や祖霊が宿っているのみならず、他の小山にも増して清澄な空気、自然、樹木、巨岩、清水、滝、風光明媚があることで共通している。結果的に金銀銅鉄脈を埋蔵する鉱山系の山が選ばれていることでも共通している。そこへ住む生物も愛護され、徒に狩られることはなかった。「神聖禊観」は古神道の基本概念であり、こういうところからもたらされているのではあるまいか。

 この霊山信仰は、採集経済を基調とする縄文時代も水稲耕作を採り入れた弥生時代に入っても続いた。信仰原理を変える必要がなかったからであると思われる。かくて霊山信仰は古神道の原形として保持されてきた。いつの頃からか、こうした霊山で山岳修行する事で大自然の神的霊気に感応し、霊能力が磨かれるとする行法が生まれた。役行者に先立つ先達が歴史的に綿々と修法してきたであろう。

 役行者も叉その一人となった。ただ役行者ならではのこととして、役行者は超傑出した験能力を獲得した異能の士となった。その能力のこまごまは略すとして、衆生救度、社会善導を目指す実践的な宗教を開闢する身となった。その教義は、日本古来の山岳信仰をベースにそれまでの古神道的生命観、神祇信仰、シャーマニズム的託宣作法を受け入れ、これに加えて伝来の仏教、陰陽道、道教、儒教を習合させたところに特徴が認められる。その道筋を創ったのが役行者であり、この修養法を修験道と云う。こうして役行者は修験道の開祖となった。修験の由来は、「修行により験力をあらわす」を約して造語されている。

 ここで留意すべきは、役行者の特殊能力に負うところ大なるものがあるにせよ、役行者型修験道開闢に当たっては古神道の柔構造がそれを可能にしたと云うことではなかろうか。日本神道にはそういう能力、魅力があることが知られねばならないと思う。考えてみれば、神道には他の世界宗教の如くな大冊の経典はない。その精髄は、体得で感応し、口伝していくことにある。厳罰を招く戒律もなく、あるのは作法ばかりである。その作法も絶対遵守が強制される命令的定言的なものはない。

 役行者は、この古神道を基盤に修験道を生み出した。日本古来の霊山信仰を縦糸とし、仏教、その密教、道教、陰陽道等々が横糸の役目を果しつつ、神仏習合的修験道と云う布を織り上げた。この教義は次第に神を垂迹神(すいじゃく神)、仏様を本地仏(ほんち仏)とする本地垂迹説を創造するに至る。役行者型修験道教義の発展系なのか飛躍なのかは、役行者の教義が今ひとつ定かでないので評するに難しい。

 本地垂迹説とは、 神道の神をして仏教の仏が仮(権)の姿で現れたものだとする考え方を云う。本地垂迹説は更に神道と仏教のどちらに重点を置いて理解するのかによってニュアンスの差が生まれることになる。仏主神従説、神主仏従説、それらの玉虫色説等々様々な理論が登場することになった。それはともかく習合理論と云う点では一致している。

 その元一日の地歩を固めたのが役行者であり、考えようで、伝来された外来宗教や思想を見事なまでに、汎神論的な生命思想を持ち開放的な古神道的教義世界の中に組み込み、新たな宗教を創造したことになるのではなかろうか。関裕二「修験道がつくった日本の闇」(ポプラ社、2009.2.16日初版)の41P「出雲神と修験道は、目に見えない糸で結ばれているのではないかと思えてならない」は、この流れを踏まえれば正しい推論であろう。

 興味深いことは、この定式が権現信仰同様にその後の日本仏教に脈々と息づいていくことである。その後の宗祖となる空海も最澄も法然も親鸞も日蓮も道元も栄西、役行者が定式化した権現信仰及びこれに基く神仏習合を否定することはできなかった。ここに日本仏教の特質がある。これを思えば、役行者の偉大さは時空を越えたものであることが確認できよう。このような習合理論はユダヤ-キリスト教圏内には見られないことであろう。これを語れば叉別の話しになるので割愛する。ここでは役行者式修験道の習合理論性を確認して意義を認めることにする。

 2007.7.29日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評439 れんだいこ 2008/07/29
 【役行者式修験道の特徴その3、在家、自律共生信仰】

 役行者式修験道は、「野に伏し、山に伏し、我、神仏とともに在りと修行する役行者世界」を創出した。山伏はこれに由来する。修験道は一宗一派に片寄らず、体験体得的悟りの修験で以心伝心的に宗祇を開く道である。

 修験道の特異性は、役の行者を開祖とするが教祖ではないところに認められる。特定教祖の教説にもとづく創唱宗教とは違い、先師の教えに導かれ、各々が山岳修行による霊力を磨き験力を高めることを旨としている。

 修験道は、在家で誰でも参加でき良き先達指導者のもとで野性的な荒行を修行し、霊性の啓発と呪術能力を磨く。森羅万象万物に生命を認め、これらを神仏の化身とみなして大切感謝し、お陰思想に基く人格、霊格の浄化と向上を図り、自身の生命のいやましの活性充足と社会への恩返し的献身貢献を目指す。

 それは叉、宗旨に拘束されず、神道から仏教各派をそのまま受け入れ且つ共存共生競合せしめているところに特質が認められる。在俗中心の宗教で有り続けているところにも特徴が認められる。本質的にどこかで日本精神の琴線に触れているのだろう、全国各地の霊山については既述したが、修験道はそのどこの霊山に於いても現在に至るまで今も脈々と息づき受け継がれている。

 但し、結界門から山中は長らく女人禁制となってきた。妻帯禁止ではないが、相撲の土俵内への立入りを許さないのと同じ不浄観でもあるのだろうか。れんだいこは、戦後民主主義の男女同権思想の中で育ってきたので、これについては何とも云えない。ただ、永らく護られてきたものはよほどの事が無い限り事情変更せぬが善かろうぐらいには思っている。

 2007.7.29日 れんだいこ拝

【役行者式修験道の特徴その4、忍者の祖】
 修験者は山中の地理に詳しく、敏捷壮健だったこともあって武術家集団としても重視された。義経と弁慶に於ける弁慶の立ち働きは修験者そのものであろう。こういう例は無数に刻まれていると思う。

 役の行者は忍者の祖とも云われている。山伏は忍者だったと云う説が古来からある。決定的な文献資料は無いが、伊賀の上忍百地三太夫が次のように述べている(「忍者と宗教」参照、)。
 「前略 ~ そもそも、忍術とは、天智天皇の御世、役の行者小角を頭といただき、天台・真言の両密教の山伏どもが、仏法を広め、守るがために始めた術じゃ。我ら忍者が、印を結び、呪を唱えるは、これみな、天台・真言からの頂戴もの。この尊い仏法に弓引く信長めは、我ら忍者にとって、天魔・悪鬼にもまさる仇敵といわねばならない」。

 これによれば、忍者、間諜も修験道と深い関係にあることが判明する。

 「サンカ(山窩)を考える」の「サンカと忍者」は次のように記している。
 「サンカに関心を持ち始めてから、忍者とサンカについて書かれた本を何冊か読みましたが、いまひとつよく判りませんでした。どちらにしても資料の少ない、謎とされた人達ですから仕方がないのかも知れません。サンカと忍者との関係ですが、サンカ共同体と忍者集団とは別 の存在であったと思います。ですが何らかの関係は確実にあったと思います。飛躍していますが、例えば、サンカ最高権威者(権力者)である乱裁道宗(アヤタチミチムネ)と忍者集団の頭領とされる人物が同一の人物であったり、極めて近い間柄であったり、また忍者集団の中にサンカ出身者が多くいた可能性など充分に考えられると思っています。忍者の持つ技術や文化は大陸からの影響が強いことなどを考慮すると難しくなりますが、やはりサンカ共同体が体制側に組み込まれなかった渡来系の人達を内包していったのではと思っています。八代将軍徳川吉宗に伝わる話しがあります。よく時代劇で、お庭番という忍者のような役職の者が出てきますが、あれは吉宗が紀州藩から隠密を呼び寄せて作ったものらしいです。その隠密ですが、根来者と呼ばれた忍者集団で、密教行者(修験道)から発し、同根には出雲熊野系と紀伊熊野系があり、(その混流の末には信州の飯綱山を発祥地とした忍術の元とも云われる飯綱遣いがある )諏訪神社(出雲系)から出た諏訪三郎兼家(甲賀忍者の祖)の忍術と融合し、さらに河内・和泉・大和・紀伊のサンカ共同体とも融合したものであると伝わっているようです。また戦国時代に信長により討伐された伊賀忍者の頭領である百地丹波が高野山に逃れ、後に根来に移りて本拠とし、信長に抗戦したとの記録があるそうですから、伊賀忍術の流れも伝わったのだと思います。その吉宗側近の根来隠密には、吉宗の生母が自分達と同族であったとの認識があったようです。父の光貞が風呂炊女を側女として源六(吉宗)を生ませたとありますが、隠密仲間の間には大和葛城の忍び(サンカ)の一族の者であると解していたようです。吉宗の剛胆さや庶民性(下々の者に対しても分け隔てなく接し、卑賎とされる者をも登用した)、また様々な障害を乗り越えて将軍の座に就いたことを考えると、闇の者とされた忍者集団やサンカ共同体の見えない形での働きがあったのかも知れません。時代が幕末から明治となり、隠密(忍者)家業の人達も職を失い、お庭番の時に磨いた植木職などを生かし、正業に就いた者も多くいたが、生活に困窮し、再びサンカ共同体へ吸収された人達もいた可能性があるとの見解もあります」。

Re:れんだいこのカンテラ時評440 れんだいこ 2008/07/29
 【れんだいこの役行者論結び】

 一気呵成に書き上げてみました。後、「その後の修験道史」がありますが、掲示板投稿は打ち切りにします。サイトを設けておりますので、全文はここでご確認ください。既に、気づき次第訂正、加筆しております。参考になる情報をご提供くだされば、補足致します。久しぶりに精神集中した三日間となりました。時にはこういうこともやってみないといけないなぁ、次は何に向かうかなぁと考えております。

 「山伏修験道考」

 お読みいただいた方有難う御座います。好評悪評すり合わせなんでも結構でございますのでご意見賜れば冥利です。

 2007.7.29日 れんだいこ拝

【大峰山行場考】
  大峰山行場(鎮座地:奈良県/大峰山・大日岳)  

 標高1568mの大日岳の修験者にとって神聖な行場。約30mの鎖場を直登する。まさに命がけの行。
 大峯修験道を確認しておく。大峯山とは、現在の奈良県天川村洞川(どろがわ)の山上ヶ岳(1719m)を中心とした山々の集まりで、吉野山、金峰山を抱え奈良県吉野町南部一帯の連峰の聖地として信仰の聖域となっている。7世紀末に役行者(えんのぎょうじゃ)によって拓かれたと伝えられているが、古来の山岳信仰と仏教が結びついた日本独自の修験道の根本道場の地位にある。今に続く女人禁制の霊場でもある。

 大峯山には「大峰奥駈道」(おおみねおくがけみち)と呼ばれる霊場があり、「吉野・大峰」と「熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)」を南北に結ぶ修行道となっている。標高千数百mの険しく起伏に富んだ山岳地帯の道で、随所に行場がある。中でも金峰山は「金の御嶽」と呼ばれ、弥勒信仰の広がりとともにその浄土の地ともされている。金峰神社がその象徴である。山上ヶ岳山頂には大峯山寺があり、「鐘掛岩」(かねかけいわ)、「西の覗(のぞ)き」などの行場が点在する。
 大峯奥駈道の六十二靡行場、笙の窟(しょうのいわや)。大峯修験道冬籠の修行の場で、千日籠修行が行われていたとされている。日本岳中腹麓、壮大な岩壁にできた窟に祠が鎮座して不動明王が祀られている。周りは樹齢500年以上の原生林が茂り神聖なる雰囲気を保っている。大普賢岳の登山コースにある。覚悟して登らないと行けない!
 ~ 七夕に刈り取られた蓮花 金峯山寺の蓮華会・蛙とび行事 ~

 毎年7月7日の七夕の日に奈良県無形民俗文化財・大和高田市奥田の「捨篠池(すてしのいけ)蓮取り行事」が行われる。蓮取り舟に乗って行われる由緒ある蓮取り行事で、刈り取られた蓮花は善教寺に集まった修験者たちが法螺貝の音と共に福田寺・行者堂から役行者の母・刀良売(とらめ)の墓に蓮花を献じ供養する。隣接する弁天神社で護摩法要が営まれたあと、吉野山金峯山寺・蔵王堂へ向かい、祠(ほこら)に蓮切りされた貴重な蓮花を献じながら「蓮華会」、「蛙とび行事」を執り行う。蓮花はそのあと修験者により大峰山頂上の祠にお供えされる。
 「龍神温泉」(奈良県吉野郡吉野町河屋1013)

 高野山奥の立里荒神の山より太平洋が見える。役小角が発見し、その後空海が広めたと伝わる。

【大峰山修験者考】
 江戸時代を通じて民間信仰が相当な影響力を持って盛んに行われていたが、中でも大峯山を行場とする山伏、修験者はおびただしい数に上がり、彼らが行う加持祈祷の効験は、民衆の信仰心を集める上にも大きな力を持っていた。修験者とは、「兜巾をかぶり、篠懸及び結袈裟を着け、笈を負い、金剛杖をつき、法螺を鳴らし、山野をめぐり歩いて修業する者」(広辞苑、岩波書店)を云う。当時の民衆は、病気を金神(陰陽動で祭祀される方位の神のことで、嫁、養子とりの縁談、旅立ちなどの伺いに、少なからぬ影響を持っていた当時の民間信仰の神であった)、荒神、生霊、死霊などの祟りか障りと考え、こうして山伏の仕事は、病気が何のしわざかを明らかにして、これに有効な祈祷を通してその退散を願うことにあった。特に幕末のこの頃は、社会不安を背景に隆盛を見ており社会的にも信頼され重宝がられていた。

【大峰先達考】
 大和の大峰山修行で霊能功徳(くどく)を積んだ修験者(しゅげんしゃ)を尊敬していう語。その中でも特に認められた者を「大峰先達」(おおみねせんだつ)と呼ぶ。




(私論.私見)