修験道の歩み

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).9.7日

【役行者昇天後の修験道の歩み】
 役行者の入寂によって修験道は滅びなかった。役行者を慕い続く山伏が続々列なりますます盛んになり、吉野、熊野を拠点とする金峯山寺(きんぷせんじ)を主霊場として参集するようになった。この当時は、仏教派ばかりではなく、道教的な神仙術派、日本古神道派も修業していた。

【行基の修験道活動】
 奈良時代の名僧として知られる行基(668-749.2.27日)が役行者と深く関っている。これを確認する。681年に出家し、官大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。704年、生家を家原寺として居住した。

 ところが、民衆を煽動する人物であり寺外の活動が「僧尼令」に違反するとし、養老元年.4.23日詔をもって糾弾されて弾圧を受けた。731(天平3)年、禁圧が緩まり、741(天平13).3月、聖武天皇が直々に会見し、同15年、東大寺の大仏造造営の勧進に起用されている。745(天平17)年、朝廷より日本最初の大僧正の位を贈られた。
 大阪府岸和田市の祭礼だんじり祭りでは、行基が開山した龍臥山隆池院久米田寺に周辺地区のだんじりが集結する。これは、久米田寺の前に位置する久米田池を行基が掘削指導し、田畑の開墾や周辺住民の生活向上へ寄与し、その他の遺徳を顕彰する「行基参り」と呼ばれている。

 日本全国には、行基が発見したとされる温泉が数多くある。ただし、これらの中には開湯伝説を作った際に名前が使われただけのものもあるとされる。めぼしいところは次の通りである。作並温泉、東山温泉、芦ノ牧温泉、草津温泉、藪塚温泉、野沢温泉、渋温泉、湯田中温泉、山代温泉、山中温泉、吉奈温泉、谷津温泉、蓮台寺温泉、三谷温泉、木津温泉、関金温泉、塩江温泉。他にも、有馬温泉、湯河原温泉などにも行基にまつわる伝承が残っている。

 この行基が、役行者修験道を行じ、役行者が山上蔵王堂を建立したのに対し、下山の吉野の蔵王堂に三世三体の蔵王を造り安置したと伝えられている。金峯山寺の寺伝では、山下蔵王堂は役行者が開基し、行基が増修したとされている。

【道鏡の修験道活動】
 道鏡(700-772.5.13日)も然り。物部氏の一族の弓削氏の出自で、俗姓が弓削連であることから、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。奈良時代の法相宗の僧で、葛城山に篭り、苦修練行の末に密教的宿曜秘法を習得したとも云われる。

【平安時代、密教と習合】
 平安時代に入ると、唐から帰朝した空海(弘法大師、真言宗開祖、比叡山)、最澄(伝教大師、天台宗開祖、高野山)の日本仏教上の二大開祖が出現し、即身成仏と鎮護国家の二面から日本仏教を開花せしめていく事になる。空海も最澄も修験道と深く関わり、山岳仏教を護持した。

 空海(774-835)は、讃岐国の出身で、青年期に阿波の大滝岳、土佐の室戸岬、入唐前の791(延暦10)から数年間、大和の金峯山で修行し、さらに勤操の下で虚空蔵求聞待法を修得する。31歳で入唐し、恵果から密教の潅頂を受け、秘法を授けられて帰国する。816(弘仁7)年、高野山を開く。823(弘仁14)年、東寺を勅賜される。この間、真言宗を創始し、その教義を真言密教(東密)と云う。

 最澄(767-822)は、近江国の帰化人を祖としており、入唐して天台の付法を受け、帰国後、比叡山で天台宗を興した。818(弘仁9)年、「山家学生式」を定め、比叡山の大乗戒の受戒者に12年間の籠山修行をさせた。空海から密教を学び、弟子の円仁(794-864)を入唐させ密教を習得させた。この天台密教(天密)はその後、義真の弟子・円珍(814-891)により確立される。教内が次第に円仁派と円珍派に分かれてきたところから、円珍は再興させた旧大友氏の氏寺であった円城寺(三井寺)に移り、寺門派を樹立する。

 帰朝した空海、最澄は密教を持ち帰り、大日如来思想、金剛界・胎蔵界の曼荼羅思想(両界曼荼羅教)を導入した。曼荼羅は宇宙そのものを大日如来の圏域として捉え、これにより吉野から熊野に至る大峯山系の吉野側が金剛界曼荼羅、熊野側が胎蔵界曼荼羅になぞられることになった。

【平安時代、修験神道】
 役行者式修験道が仏教系密教修験道化して行った他方で、神道系修験道化も始まる。大神大社信仰周辺に三輪流修験神道が生まれ、伊勢神宮信仰周辺に両部修験神道(御法流神道)が派生する。
 「美濃禅定道〜修験の道〜」。

 『白山長瀧寺』の裏山からは、一般の登拝道とは異なる、修験者が【行を行う為の登拝道】があり、【長滝十宿】と呼ばれた。今でも裏山には『一の宿』、『ニの宿』、『三の宿』跡があり、境内にはその当時の面影を残す跡地や、お堂が残されていました。(鎮座地:白山長瀧寺/長滝白山神社境内)


【修験道に対する規制】
 修験道に対する規制も頻繁に出されている。これを確認しておく。

 702(大宝2)年、大宝律令が制定され、僧尼令は、吉凶を占ったり、「小道巫術(ふじゅつ)」にを用いて治病したり、妄りに罪禍を説く僧尼を還俗させるとしている。

 元正紀の717(養老元).4月、次のように詔したている。(「優婆塞役小角」参照)
 概要「官職を設け、有能な人物を任命するのは、愚かな人民を教え導くためであり、法律を設け禁制をつくるのは、悪事を禁断するためである。この頃人民が法律に違反し、欲しいままに自分の気持次第で、髪を切ったり鬢(びん)を剃って、たやすく道服を着たりする。みかけは僧侶のようであるが、心によこしまな盗人の気持を秘めている。こうしたことから偽りが生まれ、みだらで悪いことはここから起こる。これが問題の一つである。

 およそ僧尼は、しずかに寺の中にいて、仏の教えを学び、仏の道を世に伝えるのがつとめである。僧尼令によれば、次のように述べられている。乞食をする者があれば、三綱(寺院の取締りに当る三種の役僧)が連署して届出、午の刻以前に托鉢して食を乞え。このことによって別に他の物を乞うことは許されない。いま小僧の行基とその弟子たちは、道路に散らばって、みだりに罪業と福徳のことを説き、徒党を組んでよくないことを構え、指に灯をともして焼いたり、臂の皮を剥いでそれに経を写したりして、家々をめぐり、よい加減なことを説き、むりに食物以外のものを乞い、いつわって聖道であるなどと称して、人民を惑わしている。このように僧侶も俗人も乱れさわぎ、各層の人民は生業をおろそかにし、一方では釈迦の教えに違反し、他方では法令を犯している。これがその二つである云々」。
 概要「呪文や湯薬で治療を行うことは許すが、巫術によって吉凶を占う事を禁ずる」。

 この間、大和朝廷は度々禁止令を発布している。元正紀によると、718(養老2).9月、太政官が僧綱に対して次のように告示している。(「優婆塞役小角」)
 概要「(前略)仏徒が道をふみ外し、天皇の定めた法を軽んずることは、令の規定が固く禁止していることである。僧綱はよく見極めて、正しい論議を行わせるようにすべきである。また僧侶が寺に住まず、修行の法に背いて気ままに山に入り、たやすく庵や岩屋をつくることは、清浄な山河を汚汚し、霧や霞の美しさを、人間の汚れた煙でけがしてしまうことになる。また経典にものべられているように、のたぐいは市井に雑居し、心には和光を求めているとも、その姿は窮乏した乞食とかわりがない、と。このような輩には、説論を加え禁制せよ」。

 720年、仏教本来の教えから外れて勝手に法を編み出す事を禁ずる。

 聖武紀の729(神亀6、天平元).4月、次のように詔した。(「優婆塞役小角」参照)
 概要「内外の文官・武官と全国の人民のうち、異端のことを学び、幻術を身につけ、種々のまじない、呪いによって、物の命を損ない傷つけるものあれば、主犯は斬刑に、従犯は流刑に処する。もし山林に隠れ住み、偽って仏法を修行するといい自ら教習して業を教え伝え、呪付を書いて封印し、薬を調合して毒をつくり、様々のあやしげなことをして、勅命の禁ずることに違反する者についても、その罪は同罪である。その妖術・妖言の書物については、この勅がでてから五十日以内に自首せよ。もし期限内に自首せず、後になって告発された場合は、主犯・従犯を問わずすべて流罪にするであろう。その告発した者には絹三十疋を賞として与えるであろう。その絹は罪人とされた家から徴発する」。
 概要「仏教を私的に伝授したり、道教の霊符を操ったり、薬を調合し毒を作るなどの邪法を行った場合、首領は斬首、他は流刑に処す」。

 833(天長10)年、令義解の僧尼令の禅行条に、山居をする僧尼の規定が示されている。それによると、僧尼は朝廷の厳重な統制下に置かれ、山林修行は奨励されたものの、官の許可が必要であり、修行の場を自由に変更することができなかったことが判明する。

【平安時代、末法思想、浄土信仰と習合】
 平安時代中期、源信(942-1017)の「往生要集」が著された。この頃、1052(永承7)年から末法に入るとされ、浄土信仰が盛んになった。浄土に往生して弥勒下生を待つ弥勒信仰が盛んになった。吉野の金峯山が弥勒下生の地とされ、吉野参りが盛んになった。

 修験道も含む日本仏教は、末法思想、浄土信仰などを更に融合させて行き弥勒菩薩教義を生み出し、平安時代末までに体系化されることになる。修験道は次第に、神道的な鎮魂帰神、道教的な修法、方術、仏教の密教的な加持祈祷術を編み出し、薬草医学、鉱山学、温泉湯治学等をも生み出していった。

 修験者はこれらを身につけることにより、除災招福、怨霊退散等々衆生の要請するままに霊能を使い身すぎ世すぎとするようになった。

 峰入り修行を終えた修験者は、峰中で獲得した験力を示すために火渡り、刃渡り、護法や動物霊を操作するなどの験術を行った。これを「験競べ(けんくらべ)」と云う。羽黒山の烏とび、吉野の蛙飛びなどがその例である。またその験力を用いて小祠の祭、加持祈祷、卜占、巫術、調伏、憑きものおとしなどの多様な現世利益的活動を行っていくことにもなった。

【皇家、尊顕の参詣】
 平安時代に入ると、皇族、貴族などの金峯山参詣が相次いだ。900(昌泰3)年、905(延喜5)年の宇多法皇。1007(寛弘4)年の関白の藤原道長。藤原道長は、自ら筆写した法華経三部経、阿弥陀経、弥勒経などを金剛蔵王権現に献じ、山上の蔵王堂付近に金峰山経塚を造営した。日本最古の経塚として知られている。1049(永承4)年の関白左大臣の藤原頼通、1088(寛治2)年、1090(寛治4)年の関白左大臣の藤原師通、1092(寛治6)年の白河上皇などがいる。この時、左大弁・大江匡房らが随行している。

【当山派と本山派に分流する】
 平安末期、修験道は二派に統制されるようになった。熊野側では本山派が形成された。天台宗系で、園城寺(三井寺)の智證大師・円珍(814-891、天台の第5代座主)を開祖とする。これが三井修験道の始まりとなる。総本山は天台宗寺門派(園城寺傘下)の聖護院(京都市左京区)である。本山派は、熊野から大峯へ入るを通例とし、これを順峰と云う。「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」と言われるほど、熊野詣は盛んになった。

 これに対し、吉野の大峰山の金峯を主要な修行場として当山派が形成された。金峯山の奥に位置する小笹に拠点を置く。真言宗系で、理源大師・聖宝(832-909)を開祖とする。聖宝は、天智天皇の皇子・施基(しき)王の子孫である。総本山は聖宝が創建した醍醐寺三宝院(京都市伏見区)であった。当山派は、大峯から熊野へ入るのを通例とする。これを逆峯と云う。

 聖宝は、宇多天皇の勅令により長らく廃れていた役行者修行の旧跡を再興して修験道を大いに鼓吹した。金峯山寺は山上・山下に多くの子院をもち、多くの僧兵(吉野大衆と呼ばれた)を抱え、その勢力は南都北嶺(興福寺と延暦寺の僧兵を指す)にも劣らないといわれた。

 このほかに全国各地の例えば羽黒山、日光、白山、立山、富士、木曾御岳、伯き大山、石鎚山、彦山などでも修験グループが生まれ全国に群居した。

 このニ派が主流で、地方的組織として備前児島の五流滝尊院、出羽三山、日光ニ荒山、彦山などをはじめとして霊山と呼ばれている全国各所で修験道の各派が生まれた。

 平安時代末期、西行も大峯に入ったとの伝承がある。西行は、吉野山とその桜花を愛し、愛染の辺りに庵を結んだと伝えられ、多くの歌を遺している。

 奈良県大和郡山市にある真言宗醍醐派「大和松尾寺(やまとまつおでら)」。松尾寺は養老2年(718)に、舎人親王(とねりしんのう)が日本書紀の完成と、自らの42歳の厄除けを祈願するために創建したと伝わり、厄除けの寺としては日本最古と言われている。例年「松尾山修験道まつり・柴燈大護摩奉修行」が日本最古の厄除霊場・松尾寺で行われる。本堂の御本尊は千手観音(厄除観音)。

【南北朝時代】
 南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に移り、南朝を興した。南朝政権は金峯・大峯・能野一帯に立て籠った。北朝との間にしばしば山岳戦が繰り返され、そのため修験者もこれに動員され、劣勢な南朝側に立って活躍した。南北朝時代を経て山伏の活動は一段とさかんになり、修験道の組織化が進んだ。この頃、「役行者俵末秘蔵記」、「役君形生記(えんくんぎようしようき)」、「役行者講私記」、「役行者本記」をはじめ、役行者に関する数々の書が修験道の教典として作られている。

【室町時代】
 修験道は、室町時代末になって、定式化された教義、儀礼、組織を持つ教団として確立された。修験道の遥拝する全国各地の霊山の縁起が作られ、起源、開山の伝承、山中の霊所などが整備された。

【戦国時代】
 現存する本堂の蔵王堂は、1592(天正20)年頃に再建されており、重層入母屋造りの桧皮葺きの建物で国宝になっている。東大寺大仏殿に次いで大きい木造の大建築物檜で、皮葺の建物としては世界一の大きさを誇る。秘仏本尊・金剛蔵王権現が3体安置されているほか、多くの尊像がある。堂内は自然木をそのまま使った柱が68本林立していて豪壮。金箔張りの化粧柱や須弥壇は豊臣秀吉が吉野の花見の際に寄進したものといわれ、桃山建築の美しさを伝えている。

【徳川政権の修験道法度】
 1603(慶長8)年に刊行された「日葡辞書」には、「五鬼。役の行者という名前のある山伏が打ち負かし服従させた五匹の悪鬼」とある。

 1613(慶長18)年、幕府は広くは宗教統制、直接的には修験道統対策として修験道法度を定め、諸国の修験者を聖護院を本山とする本山派と醍醐三宝院が統括した当山十二正大先達衆を中核とする当山派の両派に分属させた。この段階で、役行者の修験道の開祖という地位が確定した。

 1614(慶長19)年、徳川家康の命により、天台宗の僧である天海(江戸・寛永寺などの開山)が金峯山寺の学頭になり、金峯山は天台宗(日光輪王寺)の傘下に置かれることとなった。

【真言宗醍醐派別格本山/龍泉寺再建】
 1711-16(正徳年間)年、時の住職・英尊が、聖護院、三宝院、当山十二先達、本山二十七先達の協力を得て、真言宗醍醐派別格本山である洞川(どろがわ)の里にある龍泉寺を再建した。

【登拝講の隆盛】
 江戸中期の頃、大峯山、出羽三山、富士山、木曾御岳、英彦山などで庶民の登拝講が輩出し、盛行し始めた。

【役行者の復権】
 役行者が国難期に復活する。

 1799(寛政11)年正月、役氏正統の聖護院宮盈仁親王が、光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表した。同年、正月25日、光格天皇は、烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わして、役行者の偉大な功績を称賛し、「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」の諡を贈った。菩薩とは、上求菩提下化衆生の菩薩道を実践し、六波羅蜜行、自利利他円満の修行徳目を行じる人を云う。勅書は全文、光格天皇の御真筆による。聖護院に寺宝として残されている。

【幕末期】
 「しばやんの日々」の「明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった」参照。

 仏教学者・五来重氏の著「山の宗教 修験道案内」p.9、角川ソフィア文庫)が次のように記している。
 「神社にはそれぞれ別当がおり、別当の方が優越して、神主というのは、ただ祝詞(のりと)をあげるときだけ頼まれるというのが実態でした。経済的なものはすべて別当か神宮寺が握っており、神主はあてがい扶持だったのです。しかし歴史的には、中世の中頃から神主側の巻き返しがあり、いわゆる伊勢神道というのができ、あるいは唯一神道、吉田神道というものになり、江戸時代に入って復古神道でもって仏教の地位を落していく。それが結果として明治維新の排仏毀釈になったので、山伏も一時なくなる」(。

 和歌森太郎氏の「山伏」(中公新書)が次のように記している。
 「…江戸時代の山伏にもピンからキリまであったのであって、なお中世的な果敢な山岳修行にいそしもうとする、修行本位に生きる山伏もいたとともに、祭文語りからごろつきに転化したようなものまで、種々のタイプがあったのである。全体的にいえば、町や村のなかに院坊をもって、その近在の民家を檀家とし、招かれて祈禱に出かける、あるいは遠方への山参りなどの代参をしたり、代願人になる、そうしたタイプのものが、江戸時代には最も支配的だったのである。…江戸時代の山伏は、…中世的な修行者という意味での行者ではなくて、祈禱者としての行者であった。だから平安朝以来、漸次民間にも浸透してきた陰陽師が、そうとうに祈禱者的な面をもっていたので、彼らの伝える陰陽道を、山伏も自然に受け持つほどになっていた」(p.21-22)。
 「村の人にとって、その生業が豊かであることは絶対の願望であったから、稲作を中心にこれを妨げるような虫送りをするとか、水を迎えるための雨乞いをするとか、また天気祭りをするとか、いろいろな行事が臨時にも行なわれたが、その中心を占めるのはほとんど山伏であった。ことに雨乞いは古い信仰のなかに、山に入って大きな音を立てるとか、火を焚くとかいうことによって天に響かせ、その結果、雨を呼び起こすという観念があったから、最も山伏のかかわりやすいものであった」(前掲書 p.172)

 厳しい自然をともに克服しながら、地域の人々とともにみんなが豊かで幸せに暮らせることを祈る山伏が、地域の人々同志の連帯感を強めて、地域を住みやすくすることに役立っていたといえば言い過ぎであろうか。明治維新以前には全国で17万人もの山伏がいたと云う。内閣統計局が昭和5年に公表した『明治5年以降我国の人口』によると、明治5年の人口数は3480万6千人だという。山伏は全員男性なので、単純に考えると、当時のわが国の男性のうち約100人に1人が山伏であったという計算になる。江戸時代のわが国においては、山伏は地域の人々の生活に欠かせない存在であったことは確実だ。
 http://hiyoshikami.jp/hiyoshiblog/?p=66
 http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14167501.pdf

【明治政府の修験道弾圧】
 近代に入って修験道の信仰は大きな打撃をこうむることとなった。これを確認しておく。次のURLに神仏分離に関するすべての布達等の原文が掲載されている。
 http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm
 ◎慶応4年(1868)3月17日 神祇事務局達
 神社において僧形で神勤している別当・社僧は復飾せよ。つまり僧侶の身分を棄てて還俗することを命じて、その際に差支えがある場合は復飾のうえで神職となり、浄衣を着て神勤すること。
 ◎慶応4年(1868)3月28日 神祇官事務局達
 ○○権現・牛頭天王などといった神仏混淆的な神号を一掃し、神号の変更を行なうこと。また、仏像を神体としている神社は、仏像を取り除いて神体を取り替えること。また神社から仏具である鰐口や梵鐘などをすべて取り除くこと。
 1868(明治元)年、神仏分離令が発布され、長年吉野山で行われてきた神仏習合の信仰が禁止され、寺院は廃寺になるか、神社に名を変えて生き延びるほかなかった。これは修験道にも受難であった。修験道絡みの建物や文化財の多くが破壊された。中でも石上神宮の神宮寺であった内山永久寺や、琵琶山白飯寺(現天川弁財天神社)が徹底的に破壊された。
 1872(明治5)年、9.5日、神仏分離令に続いて太政官布達第273号をもって「山伏の道、修験道は今後いっさい廃止する」とする修験道廃止令が発布された。本山派修験、羽黒修験は天台宗に、当山派修験は真言宗に所属するものとした。「修験道廃止令」以降、公には山伏は存在しなくなり、真言宗、天台宗のいずれかに属するか、神官となるか、帰農するしかなくなった。さらに追い打ちをかけるように明治政府は、山伏の収入源であった行為を禁止する命令を相次いで出している。これにより、修験道は一宗としての活動が禁止された。明治政府は、このように山伏修験道を弾圧した。これにより凡そ17万人とも18万人とも云われる山伏たちは帰俗を促され、あるいは天台、真言の僧侶、神職に転ずることを余儀なくされた。
 ◎明治6年(1873)1月15日に出された教部省達第2号
 狐憑きを落すような祈禱をしたり、玉占いや口寄せを業としている者が庶民を幻惑しているので、そのような行為を一切禁止する。
 ◎明治7年6月7日 教部省達第22号別紙教部省乙第33号
 禁厭、祈祷等を行ない、医療を妨げ、湯薬を止めることの禁止。
 1874(明治7)年、中心寺院の金峯山寺が廃寺に追い込まれた。熊野 ,羽黒,白山,立山,英彦山などの修験霊山は神社化させられた。修験者や僧侶は強制的に還俗させられ農民や氏神鎮守の神職となった。本山派は天台宗に、当山派は真言宗に組み込まれるかたちとなった。富士講は扶桑教、実行教に、御岳講は御岳教と云うように教派神道として公認された。 その背景には、修験道が「文明開化」の流れにもっともなじまない抵抗勢力であったことによるものと思われる。
 ◎明治13年7月17日 太政官布告第三十六号 … 旧刑法第427条第12号
 妄りに吉凶禍福を説き、又は祈祷、符呪等を為し、人を惑わして利を図る者を拘留または科料に処す
 ◎明治15年7月10日 内務省達乙第42号別紙戊第3号
 禁厭、祈祷等を行なって病人の治療、投薬を妨げる者がいれば、そのことを当該省に報告すること
 1886(明治19)年、修験道側からの嘆願により、「天台宗修験派」として修験道の再興が許され、金峯山寺は寺院として存続できることになった。但し、山上の蔵王堂は「大峯山寺」として、吉野の金峯山寺とは分離され現在に至っている。
 1890(明治23)年、11.29日、帝国憲法が施行された。帝国憲法第28条で「信教の自由」が「安寧秩序ヲ妨ゲズ」、「臣民タルノ義務ニ背カザル限ニ於イテ」認められた。
 1941(昭和16)年、政府が、一宗祖一派の建前による仏教諸宗派の合同を促した。これにより、天台宗三派は天台宗に、真言宗八派は真言宗に一括された。

(私論.私見) 明治政府の山伏修験道徹底弾圧考

 知られていないことだが、明治政府は山伏修験道を徹底的に弾圧している。なぜここまで叩いたのか。その理由、事情を考察せねばならないのではないのか。政治運動で事足り派には理解不能であろうが、精神界の抗争も実は立派な政治運動である。と云うか、最も根源的な政治運動と云うべきかも知れない。と云う観点から、明治政府の山伏修験道弾圧事情を解析しておく。本稿は現代政治に何がしか有効と思われるからである。

 明治政府の山伏修験道弾圧事情に、明治新政府に忍び寄った国際ユダ邪の陰を見て取るべきではなかろうか。明治維新政府とそれ以降の日本政治には国際ユダ邪に操られている線が窺われる。巧妙に隠されているが、それは国際ユダ邪の統治手法としてのスティルス術によるものであって、我々はこの線を手繰り寄せて洗うべきではなかろうか。明治維新政府が、「中央集権的国家の確立を目的として、天皇を中心とした祭政一致国家の建設をはかろうとした」のは、実は近代化でもなんでもなく、実際は日本の国際ユダ邪植民地化上に都合の良い政体だったからではないのか。そういうもの以外の何物でもなかった。これに合わせて形成された近代天皇制国家神道も然りで、表見は幕末の国学や尊王思想の流れで生み出されたもののように見えるが、その実は国際ユダ邪の好む政策物でしかない。国学や尊王思想の流れを逆手取りして生み出した狡知術によるものではないのか。山伏修験道排撃も然りである。山伏修験道排撃は、山伏修験道が日本神道、日本精神形成に奥深く食い込んでおり、これを排撃せずんば彼らの統治が首尾よく進展しないことを熟知してのものではなかったか。してみれば、国際ユダ邪の正面の政策が記紀神話にも依拠する近代天皇制国家神道であり、裏のそれが山伏修験道排撃であると、こう構図すべきではなかろうか。近代天皇制国家神道と山伏修験道排撃とはかように裏合わせの関係になっている。

 思えば、明治維新政府による廃仏毀釈運動の本質は、山伏修験道をターゲットにしていた感がある。しかもそれは、戦国期に侵入したキリスト教イエズス会の宣教師バテレン活動によるキリシタン大名を唆(そそのか)しての神社、寺院の焼き討ち史と重なっている。戦国期の神社、寺院の焼き討ちが明治初期にも起り、これが「廃仏毀釈運動」の正体であったと解するべきではなかろうか。なぜなら、幕末の国学や尊王思想の線から仮に近代天皇制国家神道が生まれたとした場合に、神仏分離令までは出しても、日本神道、日本精神からは寺院や仏像等の破壊焼却までは起り得ないからである。「廃仏毀釈運動」はそれとは別の奥の院指令と窺うべきではなかろうか。なぜなら、本来の日本神道は、自然現象を敬い、その摂理から学ぶ八百万の神を見出す多神教であり、神仏共生で一向に構わないからである。あのような暴力は、それをやらせた司令塔が別に居たと考えるべきではなかろうか。

 近代天皇制国家神道は、現天皇を現人神として崇拝し、天皇による祭/政/軍を一体化した国家体制を目指したが、その理論構図が奇しくも国家による一神教化となっている。こういう一神教化は八百万の神々の共存共生を前提としている日本神道、日本精神と合致していない。近代中央集権国家も近代天皇制国家神道はやはり外来物でしかない。正しくは、国際ユダ邪好み中央集権国家、国際ユダ邪好み近代天皇制国家神道と見なすべきだろう。ここをこう捉えないような学問や政論ばかりが流され、その理解が宜しければ人材登用される道筋が確定しているが、それによって出てくるのはいつも決まって「地位に不似合いなお粗末権力者」ばかりである。

 2015.11.5日 れんだいこ拝

【戦後の修験道】
 1946(昭和21)年、真言宗醍醐派別格本山である洞川(どろがわ)の里の龍泉寺の本堂が焼失した。1960(昭和35)年、再建される。
 1948(昭和23)年、天台宗から独立して大峯修験宗が成立した。1952(昭和27)年、金峯山修験本宗と改称、金峯山寺が同宗の総本山となっている。
 一時は歴史の隅に追いやられてしまったが、現在でも奈良県吉野山の金峰山修験本宗、旧本山派は京都市左京区の聖護院を中心とする本山修験宗、当山派は京都市伏見区の醍醐寺を中心とする真言宗醍醐派の三派を主流として信仰が行われている。他にも羽黒山修験本宗、石槌本教など数多くの修験道教団が独立した。更に真如苑、解脱会など修験系の新宗教も成立した。叉、出羽三山神社、英彦大神宮など修験霊山の神社においては峰入りなどの修験道的な行事を行っている。

 2019.7.28日、「民衆信仰「修験道」の過去・現在・未来(中)」。フォーサイト編集部/森休快。
 ―本(宮城泰年・田中利典・内山節『修験道という生き方』新潮選書)の中で内山節先生が書いておられましたが、修験と密教との親和性でいうと、そもそも日本における密教の大成者である弘法大師空海が山の修行者であった、というところが非常に面白いですね。

 田中:以前、弘法大師の高野山開創1200年(2015年)が近づいていたころに、その記念事業として「弘法大師高野山開創の道プロジェクト」というのが計画されます。ちょうど、当時の高野山真言宗の内局で村上保壽さんという私と同郷の教学部長がおいでになって、世界遺産シンポジウムでご一緒したときに、「田中君、開創1200年で、今、弘法大師が高野山に至った道を探しているんや」と言われました。

 ■「弘法の道」と「世界遺産」

 田中:これは、弘法大師の『性霊集』とか嵯峨天皇への上表文の中で、弘法大師自身がお書きになっている文章があって、「吉野から南に1日、西に2日行きて幽玄の地を見つける。名づけて高野という」と書き残している。村上さん曰く、「つまり、お大師さまは吉野から高野に入られたんや。この道を今探していて、高野から天辻峠まで和歌山県側の踏査は終わったけど、その先は全部奈良県やから、お前手伝え」と言われましてね。それで県に掛け合って、奈良県の事業として調査してもらい、7年がかりで最終的にこのルートだろう、という道を確定しました。ただ道というのは、人が使わないと消えてしまいますから、このルートを使った「Kobo Trail」という、金峯山寺~金剛峯寺間約55キロのトレイルランレースを年に1回開催しています。

 弘法大師は讃岐から奈良に勉強に来て、ドロップアウトして優婆塞(うばそく=編集部注・在家の仏教信者)になった。そして大峯にも入ったわけです。すでに当時から、役行者以来の大峯は修験のある種の聖地性を持ちつつあったわけです。

 ――そして山岳修行のときに、高野山を「発見」する。

 田中:当時、吉野から下って大峯山までは至らずに大天井ヶ岳あたりでぎゅっと曲がり、天辻峠を超えて高野山に行ったルートだろうという推定です。これは弘法大師がまさに山岳修行者で、優婆塞であり、修験者であった1つの証になるのではないかというので、私もお手伝いをさせていただくことになり、見事にそのルートができたわけです。

 もっと面白い話があります。2004年にユネスコ世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」ですが、私は最初、吉野・大峯で登録してもらおうと手を挙げていました。ところが熊野と高野はすでに先に話を進めておられて、「あちらが先行しているから急がないとだめだ」と聞いたのです。

 ちょうどその頃、奈良・三重・和歌山の県知事が集まる常設の3県知事会議というのがあり、そこで世界遺産登録を提案してもらい、3県合同でできるんじゃないかということで、そこからトントン拍子に正式登録まで話が進みました。

 この「紀伊山地の霊場と参詣道」は具体的には吉野、熊野、高野なんですが、そのうち吉野と熊野は大峯奥駈道でつながっているし、高野と熊野は熊野古道でつながっているんです。ところが、吉野と高野をつなぐ道はなかった。ところがそこに「弘法大師の道」をつけることによって、みごとにトライアングルに繋がったのです。弘法大師の道が、いわば1200年も前から用意されていた完結編だった。

 ■「民衆信仰」「風土」を取り込んだ空海

 ―その弘法大師が日本に持ち込んだ密教が、日本人との親和性が高かったんですね。

 田中:空海さんという人は、大胆にいうと、私は真言密教の創始者というか、自分で創造したところがたくさんあるのですね。もちろん直接の師匠である中国の恵果阿闍梨から伝えられた密教だし、不空、金剛智といった真言祖師の教えというさまざまな前提があったにしろ、空海の書物には、引用の出典が自分の書いたものだったりする。そんな人はあまりいないですよ。ということは、自分で創造した真言密教の部分が、私はあると思う。しかもそれは極めて日本的、日本ナイズされているという気がするんです。

 ―それは、弘法大師が若いころにいわゆる山岳宗教を十分にやっていたからなのかもしれないですね。

 田中:日本の山林での鍛錬が、恵果阿闍梨から習った密教をビジュアルに体現させたんでしょうね。

 ―その意味では、まさに最初に話題にした風土性というものを、弘法大師は充分に身につけた段階で唐に行って、密教を持って帰った。

 田中:どうしても高野に自分の曼荼羅道場をつくりたかったのは、まさに高野の風土が、自分が学んだ密教の世界に合致する場所として若いころに刻まれていたんでしょうね。

 ―そもそも曼荼羅自体が総合性なわけで、ヒンズー教の神様でも何でも全部そこに取り入れている。そして「一即多・多即一」の世界をつくっちゃっているということを考えると、それはまさに日本人がずっと持ってきた修験的なものとものの見事に合致していく。

 田中:中国での段階で、曼荼羅にはヒンズーの神様とか、いろんな神様を取り込んでいて、それが日本に来るとさらに真言曼荼羅だけではなく、浄土曼荼羅とか吉野曼荼羅とか参詣曼荼羅といった展開をして、神様をどんどん取り込んでいきますからね。

 ―その意味では、真言密教はそのベースに民衆宗教の流れをかなり吸い込んでいる。

 田中:内山先生もお書きになっていますけれども、空海が出たとか法然が出たとか言うけれども、それを支える民衆がなかったらそんなものは後世に残りはしない、というのはまさにそのとおりだと思います。どうしても体制側、学問側の研究で言うと、平安時代に最澄と空海が出て、鎌倉時代に誰と誰が出てみたいなことになるけれども、そこを支えるベースの民衆側の論理というのを、もっと見ていかないといけない。

 ■「体を使う」ことの重要性

 ―その意味で、本の中では「風土への帰属」ということについて意識して発言されていたように思います。帰属するとは何か。帰属先は何なのか。いまわれわれは、その帰属先を失っているんだと。

 田中:山尾三省さんに言わせると、帰属先は土や、ということです。やはり大地に戻らないといけないのではないか。

 だから、私は講演でよく大峯奥駈修行の写真を見ていただくのですが、その理由は、現代人がおにぎりを3つ持って1日10時間以上も山の中を修行として歩く姿の中に、何かを取りもどしているということを感じてもらえるのではないか、と思ってのことなんです。

 ―おかしかったのは、この本の中で「僕は山が特に好きではない」と何度も……。

 田中:というか、嫌いですよ。鼎談した宮城泰年さん(聖護院門跡門主)は、好きなんですよ。いまだにチベットの高山に行かれたりしていますからね。私は全然嫌で、膝も悪いんですが、でも修行だから行っている。行くと学ぶことはたくさんあるわけで、それを皆さんに紹介しています。

 ただ、とてもしんどくてきついものです。最近、文化庁の支援事業で、大峯修行の一部をドローンで撮影したのですが、その映像を見て、こんな危ないところに素人を連れて行っているのかと思った。それを見るまでは何でもなかったのに、本当に危ないことをしていると思いますね。大峯山の裏行場には平等岩とかいろんな危険な行場があるんですが、そういうところでも命綱はつけませんから、落ちたらおしまい。そんな場所に平気で人を連れて行っている。皆一所懸命だから、めったに事故は起こらないとはいえ、危なくてしょうがない。

 ―この山修行は、西洋人が始めたいわゆる近代の登山とはまったく別の概念なわけですよね。「そこに山があるから登る」というのが近代登山なら、山修行はまさに祈り。祈るために歩く、祈るために登るということになるわけですよね。

 田中:歩かせていただく、山に入らせていただくみたいな感覚ですね。

 ―その感覚は修験に限らず、日本人が持っている「何かに対して祈る」「何かを思って祈る」という心持ちがあるからなんだと思うのですが、先にお話にあったように、帰属意識がなくなっていくことによって、そうした心持ちも消えていきつつあるのでしょうか。

 田中:現代は、近代的価値観が近代的自我の増大を促すようなシステムになっています。その基盤にはキリスト教など一神教が説く自己の自我と唯一絶対の神との関係性がある。そういった近代的自我も良いのかもしれませんが、日本人は近代以前まではそういうものを持ってこなかった。1つの神様に帰依するというのは、阿弥陀信仰がそれに近いとはいえちょっと違う。日本人は集団に帰属するとか、和を何よりも尊ぶとか、周りのものが全部自分と同心円状にいるという感覚があるわけです。

 これは内山先生の言葉を借りると、祖霊や自然も含むわけですね。こういう感覚は、欧米人にはあまりないと思うんです。そのあたりは気をつけて考えていかないといけないと思います。私たちはやはりアメリカ人にはなれないわけですから、むしろ自分たちのものを取りもどすことが大事だと思います。

 ―自我の話で言うと、岸田秀さん(心理学者)などは「そもそも自我なんて幻想でしかない」と言うわけです。確立した自我などはなく、一神教的な世界では絶対的な神がバックにいるから、それに寄りかかれる自我があるだけなんだ、と。でも日本人には本来それはないわけです。

 田中:この本の中で内山先生が書いているのは、結局「真実はつながりにある」ということですね。自我があると思うと、自分とは何かとか、命とは何かと言う疑問にいきつくけれども、そもそもそんな自我はないんだと。つながりの中で自分という人があったり、夫婦というものがあったり、心というものがあったりする。つながりの側に真実があるというのは、まさにそういうことです。それはまさに仏教でいうところの諸行無常であり、諸法無我であり、まさに縁起であるわけです。そう考えていくと、近代の行き詰まりを突き崩していくには、仏教的な考え方は非常に有効な手立てなんだろうなと思いますね。

 ―そこで大事なのが、体を使うかどうかということになるわけですね。自分で体を……。

 田中:動かしてみる。体をもって生きているということから、物事をもう1回捉え直してみるみたいなことが大事なのでしょう。

 ―そういう意味では、弘法大師ではないですけれど、「身口意」とはよく言ったものです。

 田中:体を使え、言葉を使え、心を使え。

 ―だから我々がやる祈りも、声に出す、体を動かす、気持ちをそっちに持っていく。それは、恐らく日本人がずっと、縄文時代から持ち続けたものなんですね。

 田中:アニミズムという言葉は欧米人がつくったものなので多少の問題はあるとは思いますが、日本人はモノ信仰というか、モノに命が宿ると考える。お茶碗をカンと叩いた子供に、お母さんが「そんなことをしたらお茶碗が痛がるでしょう」と言うじゃないですか。本当は痛がるわけはないのですが、でもそれが、日本人のモノとか命に対する考え方であり、ありがたさを生むベースなんです。

 私は月に1台か2台、車のご祈祷をするんですよ。でも今は、自動運転さえできるような、ハイテクの塊のような車じゃないですか。それをご祈祷するなんて、本来はおかしいことなんだろうと思います。でも、それが日本人のモノ信仰、アニミズムなんですね。

 これはたぶん、ずっと消えていかないんだろうと思います。欧米人はそれを面白がっているかもしれませんが、この風土に触れている人たちは、よその国から来た人であろうとひょっとするといずれそういうことをしたがるようになるかもしれませんね。

 ―ということは日本人は、欧米人の感覚では理解できないことをやっているということになりますね。

 田中:「ともに生きている」とか「共生、共死、共苦」につながるような、同心円状の中に自分の含めたすべてのものがある、という自覚が日本人にはあるのでしょう。

 たとえば自然に対する考えもそうでしょう。欧米人は神と契約し、神から与えられた自然=ネイチャーとみますから、それをどのように切り取ってもよい。だから神に対する供養とか、神に対する贖罪はするけれども、モノとか自然に対してそういうことはしない。する必要がないわけで、それが全然違うのかなと思います。

 日本は自然が豊かだけれど、自然の恩恵と脅威が背中合わせにあり、それは一神教系の宗教が生まれた砂漠の民の風土からすると全く違うのですが、その自然に対するまなざしの違いが根本的にあると思います。(つづく)




(私論.私見)