れんだいこの日本神道論

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).8.10日

 (れんだいこのショートメッセージ) 
 ここで、れんだいこの日本神道論を書き付けておく。「神道一般概説」等を参照する。これは検索で見つけた。まだ読んでいないが、れんだいこの関心に沿ったガイドのような気がする。

 2005.7.8日 れんだいこ


 れんだいこのカンテラ時評№1188  
 投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年11月29日
 日本神道考その1
 ここで、日本神道を考察する所以は、現下の政治情勢が意図的故意の国際ユダ邪の陰謀によって日本及び日本人の国家的社会的自然的共同体としての紐帯をあらゆる角度から解体せんとしていると思われるからである。以下、この共同体を仮に「国體」と命名する。従来に於いては「国体」と表記されているが、体育絡みの「国体」と混同されるのを避けるために旧字の「體」を宛てることを考案した「れんだいこ熟語」である。日本語が言霊を帯びている以上、その表記にも神経を使わねばならない。近年、その共同体の解体がかなり性急に仕掛けられている。傍観する能わずの感がある。これは国體の危機であり、もっと真剣に防衛せねばならない。それはどういう理由によってかを説くのは別の機会に譲り、ここでは国體擁護の観点から論考したいと思う。

 これを為すには政治、経済、文化、精神、言語の各域からの考察が不可欠であるが、話しが拡散するので、ここでは日本独特の宗教的形態である日本神道に絞って論じたいと思う。日本神道とは、世界の宗教がそうであるように民族又は国家の原基を為すものであり、日本の国體の基盤即ち要(かなめ)ちゅうの要を形成しているものである。西欧語ではアイデンティティーと表現されているが、アイデンティティーちゅうのアイデンティティーと言い換えても良い。こういうものを放棄して一向に差し支えないとする左翼理論があるが、それは理論の間違いであり、左翼理論が国體論を放棄してよいと云うのは国際ユダ邪により加工され捻じ曲げられた無国籍型国際主義に拝跪する故のものでしかない。

 本来、右翼であろうが左翼であろうが、それぞれの国の国體は第一義的に擁護されなければならない。その基盤の上に国際主義が花開くものであり、国際主義と国體主義を鋭角的に対置させ選択を迫るのは、国體主義が排他的独善的なものである場合に於いてであり、日本神道の御教えのように諸国民共和的な場合には通用しない、馬鹿げた問答でしかない。これは言語論にも云える。当然、政治、経済、文化、精神論にも云えることである。

 それでは、そろそろ日本神道とはどういうものであるかについて開陳しておく。結論的に述べれば、日本神道とは、国際ユダ邪の信奉するネオシオニズム宗教が「選民による、選民の為の、選民独裁政治及び社会」を目指すのに対し、対極的な「諸国民による、諸国民の為の、諸国民共和政治及び社会」を目指す「日本式の祈りと祀りの型」である。この「日本式の祈りと祀りの型」は、ネオシオニズム宗教が自然を敵視し支配征服の対象としているのに対し、自然と順応し調和共存の対象としていることにも違いが認められる。分かりやすくいうと、自然は支配するものではなく、自然の中に神の摂理を観て畏敬し調和するものとしていると云う違いがあるということである。

 ネオシオニズム宗教が唯一的、超越的、絶対厳命主義的最高神を戴くのに対し、日本神道の神は多神的、神人和楽的、合議主義的最高諸神を戴いている。ざっとこのような違いがある。国際ユダ邪式学問によれば、唯一的、超越的、絶対厳命主義的最高神こそが最高発展段階の宗教であり、日本神道的な多神的、内在的、神人和楽の合議主義的最高諸神は汎神論的アニミズム宗教として下位に位置づけられている。しかしそれは、ネオシオニズム宗教派の得手勝手な物言いに過ぎず、唯一神的宗教が汎神論的宗教に優越する論拠はどこにもない。本来、それは「祈りと祀りの型」の違いとして等位的に共存すべきであるところ、ネオシオニズム宗教派が勝手にランクづけしているに過ぎない。

 史上、20世紀の急速な国際交流化を経て、その流れがますます強まる21世紀を迎えているが、この時代にあってはむしろ、国際ユダ邪の信奉するネオシオニズム宗教の限界こそが表沙汰になりつつある。ネオシオニズム宗教を原基とする政治、経済、文化、精神論ないしは施策が形成した世界秩序は、それらのものを究極まで開花させることにより、むしろ弊害をもたらしつつある。これを逐一述べてもキリがないので、ここでは原発を論ずる。

 原発とは、自然素材のウランを異常化学的にウラニウム化させ爆発させることで電気を起こさせるものであるが、異常化学であるが故に稼働中も危険極まりなく、燃焼後の核灰物の処理がこれまた厄介極まりないと云うリスクを抱えている。後先を考えれば、このような発電装置を手がけるべきでないところ、国際ユダ邪は目先の利益に幻惑されてか、後は野となれ山となれ式の無責任経営をして今日まで至っている。日本神道の弁えでは、そのような発電装置には手をつけない。そういう悪魔科学性のものは忌避し、環境適応型の自然諸力応用発電装置を創造する方向に営為する。要するに頭脳の働かせ方に違いがある。原発事故後、世界の趨勢となりつつあるエコエネ発電は日本神道の指し示す道である。宗教の「祈りと祀りの型」の違いにより、こういう風に世界が変わることが分かる。

 一端だけ述べても、ネオシオニズム宗教と最も対比的なかくも素晴らしい日本神道の叡智を今こそ紐解かねばならない。これが、れんだいこの日本神道論の構図である。その日本神道は何も堅苦しく厳(いかめ)しい神社作法によって学ばなくても良いようにも思っている。それは知れば良いし、そのお陰を受ければよい。それにより感応するものがあるに違いないとも思う。ただ、れんだいこの日本神道論は少し違う。日本神道の極意は言葉の中に宿っていると思っている。日本語の中には丸ごと宿っているが何も日本語だけではない、世界の言葉と云う言葉の中に日本神道が宿っていると思っている。それはどういうことか。

 結論から言えば、世界、自然、社会に在るものを如何に眺め、了解し、対応し、共認し、教訓化し、折り合いを取って行くべきかの教示的モデルを示しているのが日本神道であり、故にこれを逆から云えば日本神道とは日本だけのものではない、世界じゅうにある気づきの御教えの体系である。れんだいこはかく解している。その体系が、ネオシオニズムとは真逆の気づきを教えているところが面白い。日本神道が日本神道であるのは、それを「日本的な祈りと祀りの型」に高め精錬したところに認められる。かく解している。

 そういう意味で、日本神道の扉を開け、その薀蓄に身と心を洗われてみたいと思っている。その修行法は至るところにある。何しろ言葉の中に生きているのだから日常の中に在ると云っても良い。天理教の御教えの中に「山の仙人、里の仙人諭し」があるが、そう我々は誰しも里の仙人である。これを磨くか磨かないかだけの違いである。

 日本神道は書のない不文律と云われる。これはどういうことか。律法書がないのではない、あらゆる事象が法になり、逐一説くには及ばない、説けばキリがない万冊の文になる故に逐一記せない、記すより体感で眼力を養いコツを会得した方が早いとする故の不文律と解するべきと思っている。こういうことが総合的に関係して日本神道は戒律のない世界に珍しい宗教になっている。

 とりとめのない思いつき話しになったが、これをとりあえずの「れんだいこの日本神道考その1」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。

 れんだいこのカンテラ時評№1189  
 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年12月 2日
 日本神道考その2
 「日本神道考その1」では、国際ユダ邪の護教する一神教ネオシオニズムに対する日本神道の汎神論的叡智を窺った。ここでは、日本神道の内部構造について確認したい。以下、れんだいこの仮説を大胆に披瀝する。

 一口に日本神道と云っても、その内部には古神道と新神道の画然とした違いが認められる。故に、両者の識別及び相関関係を踏まえねばならない。古神道と新神道の違いは歴史的に発生したものであり、それはどうやら古代史上の政変と関係している。日本神道は、出雲王朝の国譲り政変以降、勝った官軍派の渡来系新神道と、負けた賊軍派の古神道の両派に分かれ、新神道が顕界、古神道が幽界を主宰すると云う折り合いの下で両者が鼎立しつつ護持発展していくことになった。このことを深く知るべきである。

 この両派は表見上は親睦するが根底では相容れざるものがあり、この大人の関係がはるばる今日まで続いていると知るべきである。特徴的なことは、諸外国のそれと違い暗闘しつつも平和共存体制下で棲息していったことであろう。日本型政治の特質が宗教的精神界にも通じていることになる。あるいは逆に日本精神界、宗教界のこうした特質が日本型政治に反映して日本政治に止めを刺さない手打ちが特徴となっているのかも知れない。

 ちなみに、「勝った官軍派の渡来系」は、古事記、日本書紀等の史書で皇統譜を正当化している。「負けた賊軍派の出雲王朝」を国津神系、手前たちを高天原系と自認する構図で説き分けている。が、ここに大いなる詐術があると知るべきである。何とならば、出雲王朝系の史書を下敷きにしたと思われるホツマ伝え等の史書によると、天照大神を最高神とする神話は元々国津神系神道に取り込まれており、聖域的王権物語として権威づけられていたことが分かる。とすれば、国津神系と天照大神の治める高天原系は対立するものではない。それを、「勝った官軍派の渡来系」が、国津神系神道が温めていた天照大神信仰の権威を横取りし、我こそが高天原王朝の正統な嫡孫であると僭称することで、国津神系諸豪族にイデオロギー的攻勢を仕掛け、様々な利益誘導的懐柔策で手なづけて行った形跡が認められる。

 よって、国譲り譚、天孫降臨譚、神武天皇東征譚とは、渡来系及びこれに同盟した国津族と、これに抗した出雲王朝系国津族との天下分け目の王権戦であったと考えられる。れんだいこは、これに邪馬台国が関係しているように了解している。これによれば、神武天皇東征軍に抗した国津族とは出雲王朝系と邪馬台国系の在地土着系諸部族の連合軍であったと解している。この系が敗北したことにより国津族系王朝の痕跡が一切解体されたと思っている。

 この古代史解析構図は既に何人かが唱えている。れんだいこもその一人として「れんだいこ史観の白眉な指摘の一つ」であると自負している。これまで、このことが分からぬ為、古代史研究の多くの研究者が道に迷っていることを思うとき、これを訂正し研究の本来の軌道に据え直した功績があると自負している。誰も言ってくれないので手前で褒めておくふふふ。

 実際、かく構図し直すことにより日本古代史、上古代史の暗雲が去り視界が大きく広がる。これによると、古事記、日本書紀等の史書に基づく国津神系対高天原系の戦いなる記紀神話構図は歴史の詐術であり、元々国津神系対渡来系の戦いであり、渡来系が天照大神の治める高天原神話を剽窃して高天原系として打ち出すことで対決構図を曇らせているとして正しく位置づけなおさねばならないことになる。これによると、国津神系対高天原系の戦い構図をそのままに継承し、国津神系を賊軍、高天原系を官軍的に描き、官軍の聖戦イデオロギーを煽る近代天皇制擁護の皇国史観は、記紀神話の歴史詐術を盲信させる方向に強めた悪しきものに過ぎないと云うことになる。

 戦前の皇国史観批判の構図はかく定められねばならない。実際には、津田史学的荒唐無稽論で批判したつもりになっているが、そのような批判は外形的なものでしかない。戦後史学は、津田史学的荒唐無稽論の見地からではなく、れんだいこの指摘する記紀神話構図批判に向かい、古史古伝各史書の精査も含めて古代史、上古代史の実態解明に向かわねばならなかった。残念ながらそうはならず、この方面の研究は個々の学者がまさに個々に研究し個々に発表しているに過ぎない。こういう寒い状況にあることが知られねばならない。

 これを分かり易く云うと日本の真の国胎史の解明と云うことになる。国胎論は北一輝その他が言及しているが、北一輝のそれも含め既存のそれは皇国史観に馴染んだものでしかなく、れんだいこから見て真の国胎論にはなり得ていない。れんだいこ式真の国胎論によれば、凡そ皇国史観とは真逆の神人和楽的王朝楽土論に行き着くはずである。それは本質的に世界諸国民との共和思想を奏でており好戦イデオロギーを振りまくようなものでは決してない。

 してみれば、幕末維新は、古神道の御教えに適う方向と後の皇国史観に通ずる方向との相克でもあったことになる。史実は権力者は後者の道を選択し、上から皇国史観を鼓吹しぬいていくことになる。大衆は、皇国史観を受容しながらも古神道の恵沢にも与っていた。戦後は、古神道の御教えに適う方向の復権の道もあったが、皇国史観の座を国際ユダ邪のネオシオニズムにすり替えた道へ向かったに過ぎない。ネオシオニズムの暴力性は、権力者の篭絡は無論のこと、大衆が与っていた古神道の恵沢をも奪おうとしている。ここに戦後の思想的課題の本質がある。かく解している。これをとりあえずの「れんだいこの日本神道考その2」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。

 れんだいこのカンテラ時評№1190  
投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月3日
 日本神道考その3
 日本神道考その1に比して日本神道考その2の評判が良くない。しかしそれは、れんだいこにとっては心外で、日本神道考その2の方こそ驚天動地の指摘をしていると自負している。この慧眼が認められるには驚天動地故にもう少し先のことになるかも知れないと受け流している。それはともかく、出雲王朝系の古神道(以下、出雲系古神道と命名する)にも旧古神道と新古神道の識別が必要なように思われる。れんだいこは、古神道内のこの変遷史を見ない傾向に不満である。

 古神道内に旧と新を持ち込むと、古神道と新神道の識別と重なって非常にこんがらがってくる。そこで、識別する為に仮に出雲系古神道の旧古神道を熊野系古神道、新古神道を大国主系古神道と命名する。熊野系古神道のより古さを際立たせる為の識別である。れんだいの解析によると、出雲系古神道は、国引き譚で知られるヤツカミズオミヅの命を始祖とする熊野大社(祭神・熊野大神)、佐太神社(祭神・佐太大神)、能義神社(祭神・野城大神)系から始まる。これを熊野系古神道と命名する。その熊野系古神道を継承しながら、スサノウの命を始祖とし大国主の命を大成者とする大国主系古神道が生まれる。出雲大社(杵築大社とも云う。祭神・大国主の命)を本所とする。この経緯は出雲王朝内の政権変動に関わっているように思われる。両者は微妙に違うと云う見立てが欲しい。この大国主系古神道は熊野系古神道の否定ではなく、まさしく出藍的に大成されているところに特徴が認められる。(「出藍」も「れんだいこ熟語」である。ドイツ語のアオフへーベンの訳であり、従来は「止揚」とか「揚棄」と記されている。それらよりも「出藍」の方が適訳と自負している) これを踏まえて古神道と云われていることが知られねばならない。れんだいこには、古神道内のこの識別をしない古神道論ばかりであるのが不満である。

 且つ日本神道では、出雲系古神道の総領神社を「大社」、渡来系新神道の総領神社を「神宮」と書き分けて識別していることが知られねばならない。これは重要な識別で、祭神も、出雲系古神道に関わる「ミコト」は「命」、渡来系新神道に関わる「ミコト」は「尊」と表記替えして識別していることが知られねばならない。日本書紀ではなべて「尊」、古事記ではなべて「命」と表記しているが、「命」と「尊」の差はそのようなものではない。本来は出雲系古神道に関わる「ミコト」が「命」、渡来系新神道に関わる「ミコト」を「尊」として識別理解するのが正解であると思われる。これも重要な指摘である。但し、諸書ではこの認識がなく混乱したままに使用されている。

 ちなみに「ミコト」とは「御言」を宣べる者であり、「スメラミコト」とは、「御言」を「統(ス)べる者」と云う意味のように思われる。「統(ス)べる者」は、出雲王朝では「王」とか「君」で表記され、「大」が冠詞されて「大王」、「大君」となり「オオキミ」又は「スメラミコト」と読まれる。大和王朝では「皇」と表記され、この「皇」に「天」が冠詞されて「天皇」となり、これも「スメラミコト」と読まれる。

 ここで、「大社」を確認する。良く知られている順に出雲系で出雲大社(島根県出雲市)、熊野大社(島根県松江市)、諏訪大社(長野県諏訪市)、住吉大社(大阪府大阪市住吉区)、春日大社(奈良県奈良市)、熊野本宮大社(和歌山県田辺市)、松尾大社(京都府京都市西京区)、三嶋大社(静岡県三島市)がある。神社ではあるが、大和の大神神社はよほど格式が高く出雲大社と同格的な地位にある。本来は大神大社となるべきであろうから、ここに収録しておく。

 繋がりが分からないが他に伏見稲荷大社(京都府京都市伏見区)、多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町)、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)、気多大社(石川県羽咋市)、日枝(吉)大社(滋賀県大津市)、宗像大社(福岡県宗像市)、高良大社(福岡県久留米市)、熊野速玉大社(和歌山県新宮市)、熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)、大島大社(大阪府堺市西区)、梅宮大社(京都府京都市右京区)、南宮大社(岐阜県不破郡垂井町)、多度大社(三重県桑名市)、建部大社(滋賀県大津市)、龍田大社(奈良県生駒郡三郷町)、廣瀬大社(奈良県北葛城郡河合町)がある。

 次に「神宮」を確認する。良く知られている順に伊勢神宮(三重県伊勢市。内宮の皇大神宮、外宮の豊受大神宮)、鹿島神宮(鹿児島県霧島市)、香取神宮(千葉県香取市)、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)、石上神宮(奈良県天理市)、熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)。繋がりが分からないが他に鹿児島神宮(鹿児島県霧島市)、伊弉諾神宮(兵庫県淡路市)、國懸神宮(和歌山県和歌山市)、日前神宮(和歌山県和歌山市)、鵜戸神宮(宮崎県日南市)、英彦山神宮(福岡県田川郡添田町)。創建が新しいものとして平安神宮、明治神宮がある。

 大社と神宮の違いは、大社が出雲王朝系の護持、神宮が渡来王朝系の護持と云う役目を帯びて祈願していることにある。上記の神社を見れば何がしか国譲り、天孫降臨、神武天皇東征の古代史政変に関係しているような気がする。他にも神社、宮の名で著名なものも数多くある。ここでは逐一取り上げないが、各地の総社、一の宮とされている神社、宮は注目されるべきだろう。これらが綿密に大社系、神宮系に系統分けされていることが理解されねばならない。元々の祭神が大社系であり応法的に神宮系になったものもある。こういう場合、大社系としてみなすことも必要であろう。

 かく日本神道は内部構造されている。以上を「れんだいこの日本神道考その3」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。

 れんだいこのカンテラ時評№1191 
 
投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月 3日
 日本神道考その4
 興味深いことは、出雲大社を総領とする大社系古神道と伊勢神宮を総領とする神宮系新神道では祭祀様式が違うことである。恐らく意図的故意に何から何まで対比的になっている。これを確認しておく。

 祭神の違いは当たり前である。即ち、出雲大社はスサノウ命を含めた大国主命を祀る。伊勢神宮最高格の内宮は天照大御神を祀る。両社では神社の建築様式が違う。出雲大社は大社造り、伊勢神宮は唯一神明造り、住吉大社は住吉造りとなっている。大社造りの構造は掘建柱・切妻造・妻入であり、屋根には優美な曲線が与えられている。直線的な外観の神明造りや住吉造りと大きく異なっている。出雲大社は入り口が向かって右にあるのも大きな特徴である。

 注連縄の巻き方も違う。出雲大社の注連縄は左巻き、伊勢神宮の注連縄は右巻きである。拍手の打ち方も違う。出雲大社の礼拝の仕方は「二礼四拍手一礼」であるが、伊勢神宮の礼拝の仕方は「二礼二拍手一礼」である。礼は拝とも云う。れんだいこはこの程度しか知らないが、細かいところでも様々に違いが認められるはずである。祝詞(のりと)も大祓祝詞は共通していると思われるが、それ以下の事情祝詞は文意も違うのではないかなと思っている。式年遷宮が出雲は60年、伊勢は20年と云う違いもある。参道から本殿に至る感覚も、出雲は暖かく母親に抱かれる感があるのに対し、伊勢では厳かで父親に相対する格式を感じる。

 その他、境内地に於ける巨木植栽は共通しているが霊山、巨岩、奇岩は出雲系の特徴のように思われる。出雲系の本質が神体山信仰から始まってきたことの証拠と思われる。この神体山信仰は、仏教伝来後は山伏修験道を生み出し、古神道と新神道のみならず仏教とも折り合いをつけて行くことになる。

 ところで、出雲大社は出雲系単独の本殿、摂社、末社その他の社で一系的に構成されるのに対し、伊勢神宮は皇室の祖神とされる天照大御神を祭神としている新神道系の内宮を核とするも、豊受大御神を祭神とする古神道系の外宮をも正宮(しょうぐう)として鼎立させている。即ち新神道と古神道の組み合わせから成る珍しい神社となっている。更に、それぞれが別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を擁し合計125社からなっている。所在地は三重県内の4市2郡に分布する。

 留意すべきは、三重県志摩市磯部町上之郷にある伊雑宮(いざわのみや)の存在である。伊雑宮こそがこの地の元々の一の宮であったと思われる(鳥羽市の伊射波神社(いざわじんじゃ)とする異論もある)。伊雑宮は現在は内宮の別宮となっているが、伊雑宮こそ元々の在地神社であり、そこへ内宮、外宮が乗り込んできたと云うのが史実である。伊雑宮は「天照大神の遙宮(とおのみや)」と呼ばれ、祭神として天照(坐皇)大御神御魂 (あまてらします(すめ)おおみかみのみたま)を祀っている。境外所管社として五穀豊穣の神とされる大歳神(おおとしのかみ)を祭神とする佐美長(さみなが)神社を持つ。伊雑宮の周囲には浦島太郎や海女が龍宮へ行ったという伝説がいくつかある。古神道由緒を示していることになる。

 これらを踏まえると、伊勢神宮は、元々に於いて旧古神道系の伊雑宮があり、そこに新神道系の内宮(皇太神宮)が設けられ、続いて新古神道系の外宮が設けられと云う風に三位神社群から構成されていることになる。分かり易く云うと旧古神道(熊野神道)、新古神道(出雲神道)、新神道(伊勢神道)の総領宮から成る神社デパートと云うことになる。これが伊勢神宮の所以たる特徴である。且つ内宮が大和王朝来の歴代天皇制の護神的役割を果たしているところから日本神道の総元締めとして君臨している。

 但し付言しておけば、出雲系が一社で構成されていることが伊勢神宮の三派構成に比して格下と云う訳では決してない。却ってすっきりしていると云う面もあるので一長一短であろう。ここは留意を要するところである。

 かく日本神道は大きく見て出雲系と伊勢系が平和共存体制下で営為しつつ今日に至っている。これが日本式宗教界、精神界の特質である。以上を「れんだいこの日本神道考その4」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。

 れんだいこのカンテラ時評№1192  
 投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月 3日
 日本神道考その5
 次に、和暦と日本神道との関わりを見ておく。日本人の生活が如何に神道と深く関わりながら和暦を生み出し、日、月、年を経ているかが分かろう。

 大和王朝前、即ちれんだいこ史観による出雲王朝-邪馬台国時代、暦がなかった訳ではない。下手に学問すると、この時代には文字も暦もなかったなる愚論に汚染されてしまう。それは丁度、幕末の黒船と共にネオシオニズムが入り込んで来て、いわゆる西欧学を教えられるまでの間、日本にはろくな学問がなかった、民主主義のない文明的に未開の封建主義の国に過ぎなかったとする見地に通じている。良いものは何でも外国輸入としたい訳である。これを外国被れと云う。被れるのは良いのだが、日本には日本の世界に冠たる学問も宗教も言語も政治も経済も文化も精神もあったと承知していなければならない。この見地を失って学び過ぎると学んで却って阿呆になる。一々誰それの名を上げないが迷惑この上ない連中が跋扈し過ぎていよう。

 当然、日本には素晴らしく高度な天文学があった。邪馬台国女王卑弥呼は日弥子とも記されており、これによれば天文を観る霊能力者ではなかったかと思われる。そういう天文霊能士が部族、国毎に育成されていたのではないかと思う。もとより天文だけを観たのではない。そこから宇宙、自然、諸国の動向、社会のあるべき姿を探り、生起する諸事に対する的確な指示を為していたのではなかろうかと思われる。これが魏志倭人伝には鬼道と記されているが、何も鬼であったり鬼がいたと云うのではない。中国式学問とは一味違う日本独特の処方が確立されていたということに対する中国史家の表現であろう。そういう者たちにより生み出された暦を和暦と云う。

 それによれば、一日を朝昼夕夜の四時に分け、12支の時刻で2時間毎に区分している。その2時間を更に初刻、二刻、三刻、四刻の30分ごとに仕分けしている。これによれば、子(ね、鼠)刻/午前0時、丑(うし、牛)刻/午前2時、寅(とら、虎)刻/午前4時、卯(う、兎)刻/午前6時、辰(たつ、竜)刻/午前8時、巳(み、蛇)刻/午前10時、午(うま、馬)刻/午後0時、未(ひつじ、羊)刻は/後2時、申(さる、猿)刻/午後4時、酉(とり、鶏)刻/午後6時、戌(いぬ、犬)刻/午後8時、亥(い、猪)刻/午後10時となる。2時間単位になっているが、30分単位の四刻で仕分けしている。これを午(うま)の刻で説明すれば、初刻が午後0時で、これを正午とも云う。二刻が午後0時半、三刻が午後1時、四刻が午後1時半となる。大雑把であるが要点を心得た時間感覚ではなかろうか。

 一日はそのように仕分けされている。次に月を確認すると、月の満ち欠けのサイクルを1ヶ月として、これが12ヶ月に分けられている。これは四季の廻りの区分に合わせているように思われる。木の芽立ちから葉落ち、その後雌伏して木の芽立ちを迎えるまでを一年としているように思われる。日月の運行法則に従うと丁度一年が12ケ月区切りになるのかも知れない。かく四季折々の循環に合わせて暦が作られていることを知るべきで、日本思想が獲得した相当に深い叡智ではなかろうか。中国暦、西欧暦と並行して独自の和暦を生み出していたことを知るべきである。これは言語にも同じことが云えよう。

 それによると、一月(ひとつき)は無(隠れ)月から月の始まり(新月。これを朔とも云う)から始まる。この日を1日(ついたち、月立ち)とする。やがて三日月から半月(これを上弦の月と云う)を経て満月(これを望と云う)に向かう。ここまでを前半の15日とする。故に「十五夜満月」となる。今度は逆に満月から半月(これを下弦の月と云う)を経て月隠れまで向かう。これを後半の15日としている。これにより一月が30日となる。このように月の満ち欠けを基準にして一ケ月を定める暦を太陰暦と云う。現在の我々が使用している暦は太陽暦であるので月の満ち欠けとは関係ないが、太陰暦には太陰暦独特の良さがあるように思われ捨て難い。

 次に一年を確認する。一年は一巡りの春夏秋冬の四季を区切りとして識別されている。四季は更にそれぞれを六期に分けられる24節気で区分されている。この間、太陽黄経度により春分(0)、夏至(90)、秋分(180)、冬至(270)の節目が入れられている。その間に、春のひがん、八十八夜、二百十日、秋のひがん等が入っている。この区分法で、季節の移り変わりが克明に記され農作業等の手引きとなっている。24節気と太陽黄経度による節目を順に確認すると、立春、雨水、啓蟄(けいちつ)、春分、清明、穀雨の春。立夏、小満、芒種(ぼうしゅ)、夏至、小暑、大暑の夏。立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降(そうこう)の秋。立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒の冬となる。

 これによると日月(にちげつ)の運行法則により日、月、年を区分し、これを季節、節季で更に区分し、生活をこれに即応させていることが分かる。こういう和暦は西欧暦とは一味違う暦になっているが、もっと大事に味わうべきではなかろうか。これによると、暦の正しい受け止め方は和暦を捨てるのではなく、和暦を踏まえつつ西欧暦をも取り入れるという並存が望ましかったということになる。本来かくあるべきところ無理矢理に西欧学問の浅知恵でもって日本学の深知恵を排斥した経緯ばかりが残されている。

 いわゆる和式の度量法、尺貫法然りである。これによれば、長さ・距離は尺法により寸、尺、丈、歩、間、町からなる。面積は坪法により帖、坪(歩)、畝、反(段)、町からなる。体積は升法により勺、合、升、俵、斗、石からなる。重量は貫法により匁、両、斤、貫からなる。分量単位として分、厘、毛もある。和法が伝統的に育んだこういう知恵は残されるべきところ、政治的に排斥してきたのが西欧化であったことを批判的に確認せねばなるまい。西欧学を取り入れるのは良い、だがしかし日本学を捨てるには及ぶまい、とするのがれんだいこ史観である。

 こういう和暦、和式算術法、度量法は日本神道と通じている。日本神道により生み出され、次第に豊かにされ江戸幕末期まで日常的に利用されてきたものである。今にして捨てるに惜しいと思う。薄っぺらな西欧学に媚を売る暇があるなら、日本学をこそしっかり学び、その教えるところに合わせて生活しておけば良かったとも思う。以上を「れんだいこの日本神道考その5」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。

 れんだいこのカンテラ時評№1193  
 投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月 4日
 日本神道考その6
 日本神道は、暦のこういう大綱の中で年間行事を巧みに配置している。巧みとは、季節の循環に合わせ、人の成長の折節に合わせ、最も良かれの時期を見定め行事化し、教本によってではなく自然に感化することを言う。暫しこれを確認する。

 1月、親族が互いに往来し仲睦まじく宴をする月であるから「睦月」(むつき)と云う。新年は正月から始まる。この期間中、正月休みがとられ心身を革める。人々は神社仏閣を詣でご本尊に向かって元旦の計を誓い祈る。これを初詣でと云う。年賀状をやり取りし年始挨拶をする。この時、極力親族一同が寄り顔合わせする。戸口には門松を飾り、家中では家族一同でお屠蘇(おとそ)を頂き、お餅とおせち料理を食べる。これらにはそれぞれ深い意味が込められている。それが分からなくとも体感するように配慮されている。大人と子供それぞれに様々な正月祝い行事が用意されている。初夢、書き初めの倣いがある。正月休みが明けると御用始めとなり鏡開き、蔵開きする。新年行事を終えた頃合いの7日、七草粥を食べる。14日、成人式の日が来る。この期間、雪国ではスキーが盛んになる。

 2月、寒さのために更に着物を重ねて着るので「衣更着」の意味から「如月」(きさらぎ)と云う。3日、節分となり「鬼は外、福は内」の豆まきをする。この時分までは雪が舞い各地で雪祭りが行われる。札幌雪祭りが5日から11日まで行われる。11日、建国記念の日。14日、バレンタインデー。この時期まで雪国ではかまくらの風習がある。

 3月、草木がいよいよ生い茂る月という意味で「弥生」(やよい)と云う。雪解けが始まる。3日、桃の節句と雛(ひな)祭りを迎える。この行事には女の子のすくすくした成長を見守る気遣いがある。17日頃、春の彼岸を迎え、20日、春分となる。この日を境に日中の日が次第に長くなる。この日、ぼた餅を食べる習慣がある。中旬頃、つくしが採れ始め、梅が咲き、下旬頃、桜が咲き始める。たけのこが出回り始める。この頃より春の旅行シーズンとなる。高校生の春の甲子園野球がある。

 4月、卯の花が咲く「卯の花月(うのはなづき)」を略して「卯月」(うづき)と云う。れんげを始めとする草木が芽生え始め各地で花祭りが行われる。8日が花祭りの人なっている。学校も新学期、会社も新入社員を迎え転勤シーズンになる。中旬よりつつじが咲き、わらびが採れる時期になる。この時期から5月にかけて春の結婚シーズンとなる。恐らく子作りに向いた季節と云う意味だろう。

 5月、早苗を植える時期「早苗月(さなえづき)」を略して「皐月」(さつき)と云う。立春から数えて88日目の2日頃、八十八夜を迎える。5日、端午の節句の子供の日を迎え鯉幟りを飾る。この日、柏餅やちまきを食べる習慣がある。この行事には男の子のすくすくした成長を見守る気遣いがある。この前後に長期休暇が取られる。現在ではゴールデンウィークと云われている。中旬頃よりあやめ、さつき、下旬頃より花菖蒲が咲く。下旬頃よりホタルが飛び始める。

 6月、水の月と云う意味で「水無月」(みなづき)と云う。「無」は「の」にあたる連体助詞と解されている。衣替えとなり夏用衣服を着るようになる。半ば頃、梅雨入りする。この頃、紫陽花 (あじさい)が咲く。21日頃、夏至となる。この日が一番日中の日が長く、この日を境に次第に短くなる。下旬頃より産地のスイカが順に出回り始める。

 7月、書に親しむのに都合の良い時期であることから「文月」(ふみづき)と云う。初夏を迎える。7日、七夕飾り。行事の終りに灯篭流しが行われる。初旬頃よりせみが鳴き始める。ひまわりが咲き、海水浴が始まる。人が海に山に出かけるようになる。土用の丑の日を迎え、うなぎの蒲焼を食す習慣がある。下旬頃より白桃が最盛期を迎える。

 8月、葉が最高に生育して茂る時期であることから「葉月」(はづき)と云う。高校生の夏の甲子園野球が始まる。中旬の15日前後にお盆休暇となる。この時、いろんなお盆行事が行われる。この時期の休暇は、連日の猛暑で疲れた体の骨休みをさせよのメッセージが込められていると思われる。お盆明けより秋風が漂うようになる。下旬頃より鈴虫やこうろぎが鳴き始める。ぶどうが出回り始める。

 9月、日増しに夜が長くなるので夜長月の意味で「長月」(ながづき)と云う。夏の終りと共にせみが鳴くのが終る。9日、重陽(ちょうよう)の節句。菊祭りの季節となる。栗が出始める。秋の旅行シーズンとなる。11日頃、二百二十日となる。16日、敬老の日。20日頃、秋の彼岸を迎え、23日、秋分となる。この日、おはぎを食べる習慣がある。下旬、コスモスが咲き始める。この月から10月にかけて稲の収穫期に入り新米が取れる。この頃から10月の満月が一年を通じて最も美しく、中秋の名月の観賞が行われる。ススキを飾ると風情を増し、月見団子、栗ごはん、豆を食べる風習がある。この頃より秋の旅行シーズンとなる。

 10月、日本中の神様が出雲の国(島根県)に集まり会議を開き、他の国には神様がいなくなってしまうことから「神無月」(かんなづき)と云う。神様の集まる出雲の国では「神在月(かみありづき)」と呼ぶ。衣替えとなり冬用衣服を着るようになる。この頃、各地で神輿やだんじりが引き出される秋祭りが行われる。マッタケが出回る季節となる。魚が実入りの多い時期となる。27日より11月9日まで読書の秋にもなる。下旬頃、柿が出回り始める。この時期が秋の結婚シーズンとなる。恐らく春のそれと共に子作りに向いた季節と云う意味だろう。

 11月、霜が降りる頃であることから「霜月」(しもつき)と云う。3日、文化の日。7日頃、立冬。15日は七五三。この行事には子供のすくすくした成長を見守る気遣いがある。中旬頃、熊が冬眠に入り始める。23日は勤労感謝の日。この頃より紅葉が美しくなる。

 12月、師さえもが忙しく馳せる月と云うことから「師走」(しわす)と云う。紅葉が次第に深まり、寒冷地では雪が降り始める。22日頃、冬至となる。この日が一番日中の日が短く、この日を境に次第に長くなる。新酒が出回り始める。忘年会シーズンになる。23-25日、クリスマスを迎える。年の暮れ近くになると餅つきが行われ神棚に供える。仕事の御用納めとなり、大祓いする。大晦日の日、昔はNHKの紅白歌合戦が華を添えた。日本伝統食のそばを食べ年越しする。いよいよ新年寸前になると除夜の鐘を撞き耳目を洗う。

 このほか、十分には書ききれなかったが四季の折々、人の成長の折々に加えて様々な文化的社会的政治的意味合いの行事と休日が加わっている。但し、基本はこの四季の移ろい行事に上乗せされていると知るべきだろう。これに加えて、共通行事にはならない個人行事がある。既に記したもの以外に誕生祝い、入学祝い、元服、卒業祝い、見合い、結婚、子供の出産祝い、厄払い、葬式等がある。氏子としての用事、お見舞い等もある。

 興味深いことは、これらの行事に神道と仏教が深く関わっていることである。そしてそれぞれが住み分け的に共催していることである。これらの定着した行事は日本人が獲得した歴史の叡智と云うべきではなかろうか。人の生き死にのうち誕生-成長面を神道が、死亡面を仏教が主催し、その間をそれぞれが任意に管掌しているように思われる。これも折り合いの叡智だろう。今日ではこれに儒教、道教やキリスト教的要素のものも加えられ、これまたそれなりに和合している。これも日本教らしいところである。

 以上を「れんだいこの日本神道考その6」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。

 れんだいこのカンテラ時評№1194  
 投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月 6日
 日本神道考その7
 ここで、日本語の日常用語に何気なく秘められている日本神道の息遣い、思想、教示を確認する。これをネットで検索すると、いろいろ試みてみたが出てこない。そういう意味で手探りになる。これを諺(ことわざ)、名句、慣用句も含めて総合的に解析するのは別の機会に譲るとして、ここでは会話常用句について見ておく。

 これにつき一般に仏教思想から説明されているが、れんだいこに云わせれば日本神道隠しでしかない。仏教教説と重なる面もあるが元々は日本神道から由来していると理解すべきではなかろうか。興味深いことは、その殆どが英訳しにくいことである。これは背後にある思想の違いを抜きにしては考えられない。何気ない会話常用句の中に日本神道の精神が内在していると窺うべきだろう。

 挨拶語の全てがそうである。「おはようございます」、「こんにちわ」、「こんばんわ(お晩です)」の朝昼晩の日時挨拶語。「良い時候(天気)ですね」、「暑いですね」、「寒いですね」、「雨で嫌ですね」、「晴れて気持ちよいですね」等々の天候や時候の挨拶語。「はじめまして」、「ようこそ」、「よろしく」、「どうぞ」、「さようなら」、「行ってまいります」、「行ってらっしゃい」、「ただいま」、「お帰りなさい」、「お休みなさい」、「お疲れ様」、「お久しぶり」、「ごめんください」、「.お入り下さい」、「お上がり下さい」、「お掛けください」、「恐縮です」、「お邪魔します」、「よろしくお願いします」、「(お先に)失礼致します」等々の礼儀挨拶語。

 これらは皆な日本神道の賜物であり、日本神道が挨拶を重視していることを窺うべきだろう。自身と相手を対等にして礼儀を尽す配慮が認められることに気づく。外国語の、英語の「サンキュー」、「ハロー」、ドイツ語の「ダンケシェーン」、「ビッテ」、イタリー語の「チャオ」のような万能語はないが、それぞれの場面に応じた適切簡潔な挨拶語を用意していることに気づく。

 感謝用語がそうである。接客用語の「ようこそ」、「いらっしゃいませ」、「はい、かしこまりました」、「少々お待ちくださいませ」、「お待たせいたしました」、「かしこまりました」、「どう致しまして」、「ありがとうございます」、「又お越しくださいませ」、「申し訳ございません」、「あいすみません」等々がある。他にも、「分かりました」、「お手数をおかけしました」、「お構いなく」、「何のお構いもしませんで」、「悪しからず」、「ご遠慮なく」、「ご自由に」、「どうぞ、ごゆっくりと」、「お先にどうぞ」、「おかげさま」、「ご苦労さま」、「お世話様」、「お世話になります」、「いろいろお世話になりまして」、「(お体を)大切に」も然りで、これらは皆な思いやりを示している。これによると日本神道は相手に対する思いやり、感謝を重視していることが分かる。

 食事の際の「いただきます」、「ごちそうさま」も然りで独特のものである。これは、単に食事マナーと云うだけでなく、同席の者に対する礼儀的言葉であり、同時に食される動植物の生命に対する慰労、謝意を表現しているようにも思われる。ちなみに、食事の際は、極力家族団らんで食べるよう指導されている。職場その他皆なで食べるのも然りである。囲炉裏を囲むようにして集団で飲食し、それがおいしいと感じるのは既に日本人の遺伝子になっていると云えよう。コの字型、楕円型を囲む居酒屋風パブが隆盛しているのは、この伝統を継承していることによると思われる。

 なお、和食は2013.12月、ユネスコの無形文化遺産に登録されたが、自然素材をそのままに旬に食べることを特徴とし且つ医食同源思想に貫かれているものである。医食同源で云えば、これを何も中国伝来の思想とする必要はない。日本でも発達し中国でも発達し、或る時に中国式医食同源思想が輸入され混ざり合ったと考える必要がある。いわゆる漢方薬に対する和方薬も昔から育まれていたことを踏まえる必要があろう。中でも温泉治療(湯治、とうじ)は和方薬の粋であろう。

 貰い貰われの際の「お粗末なものですが」、「つまらない物ですが」のへりくだりも然り。へりくだりで云えば「愚妻」も然りであろう。これは別に妻が愚かな訳ではない。良妻賢母であることを承知してなお相手方に対してへりくだり相手を立てる気持ちが認められる。何事もほどほどでにすべきではあろうが。「もったいない」も然りで、ものを大切にする日本神道思想を反映しているように思われる。「おもてなし」は言葉ではないが精神として然りであろう。他にもこの種の言葉があると思われる。

 「気」に関してかなりナイーブな使い方をしていることが分かる。「狂人」を「気違い」と云い表している。「気違い」を差別用語とみなす向きがあるが元々は「気の間違い」から来ているとする、かなり慈愛の深い用語であろう。「お元気ですか」、「お気の毒さま」、「お気をつけください」、「気落ちしないでね」、「気遣い」、「気配り」、「気配(けはい)」等々も然り。「気」に関する用語がかなり多い。「けがれ」を漢字では「汚れ」、「穢れ」と記しているが、「気枯れ」とも読める。こういう例も探せば他にもあろう。これによれば、日本語が如何に「気」を重視しているかが分かる。そこに日本思想が宿っているように思われる。「間(ま)」に対しても独特の使い方をしており重視していることが分かる。

 人の生き死に対しても日本神道の影響が認められる。妊娠-出産に対して「神様からの授かりもの」として「おめでたい」こととして喜ぶ。決して夫婦自力の技とは捉えていない。ちなみに「おめでとうございます」、「お祈り申し上げます」はいろんな場面で使われる言葉である。死に対しても本来は恐怖感を持たせていない。元々は「土から生まれ土に帰る」という自然思想を持っているように思われる。死者の霊が山、森に宿り見守り続けているとする思想もある。それらは天国、極楽、地獄思想や輪廻転生とは馴染まない。頭で考えなければ分からないようなものは日本神道の思想ではないように思われる。

 「祓え給え、清め給え」の禊思想による諸言葉もある。これより「水に流す」的様々な発想が生まれている。悪しきことに対して拭えば払われる埃(ほこり)のようなものとして捉えている節がある。「ハレ」、「ケガレ」、「忌み」の思想はあるが、仏教的因縁論、業論やユダヤーキリスト教的原罪論、罰論、悪論はない。

 歌もそう。民謡のような歌と和歌のような文の歌があるが、言葉の中に韻、リズムを重視しており、これは日本神道が天地自然の韻、リズムを踏まえており、日本語がこれを継承していることによる。「五、七、五」、「五、七、五、七、七」調子はこれより由来していると思われる。

 総評すれば、言葉の中の全体に共同体的思想、神人和楽思想が認められる。出雲の七福神思想から来る御教えなり言葉も認められる。日月に拍手を打つ拝も然りである。こういうことを諺(ことわざ)、名句、慣用句も含めて考察すれば、日本語の中に宿る日本神道精神がもっと明らかになるであろう。れんだいこが感心するのは、これらが皆な万物に聖霊が宿るとする諸神信仰から生まれているように思われることである。戦後日本が教えられ続けているユダヤーキリスト教思想にはないものである。このことは、宗教や精神を含む文明も又二者択一ではなく併用を志すべきであることを教えているように思われる。今日びのお偉い先生方の耳に届けたい話しである。(ひとまず完)

 日本神道考その8
 出雲古神道の教義的要は何か。それが見えてきたので書きつけておく。熊野系の場合は分からないが大国主系の場合は、スサノウ思想の「清清(すがすが)しい」をベースにしているように思われる。即ち、出雲古神道の始発に「清清(すがすが)しさ」を置き、世の中の森羅万象を整序する際の基準にしているように思われる。よって、「清清(すがすが)しさ」の逆のものが排斥され、「清清(すがすが)しさ」のの方向に組み立てなおされる。その際の手法が「祓い給え清め給え」である。

 日本神道考その9
 「神社は女性の体を表している!」。
 神社というのは女の人の体を表している。鳥居は、女性が足を開いて立っている姿である。神社の参道は、お産の時の産道である。女性の体には子宮があり、そこがお宮である。お神輿。本殿でお参りする事で、新しい命(使命)を頂く事が出来る。

 「注連縄」。「学習院女子短期大学講師 吉野裕子氏によると注連縄の形は『蛇の交尾』を擬したものだと云う。氏は著書『蛇 日本の蛇信仰』(講談社学術文庫)で、蛇の形体・生態から各地の信仰・風習を説き、蛇信仰が如何に日本人のなかに浸透しているかを述べている。 以下にその一部を紹介します」とあり、
 日本の蛇信仰は縄文時代の昔より引き継がれており、縄文人が蛇に寄せた思いの源は蛇の形体が男根を思わせること。蝮などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃のもとに倒す強さ。脱皮により生まれ清まる再生力。性に対する憧れ、崇拝、畏怖、歓喜、それらが凝集して神与のものと考えられ、その象徴が『蛇』として捉えられた。縄文土偶の女神の頭に蝮を戴き、有頭(亀頭)石棒を崇拝するのはその象徴である。蛇がトグトを巻いた形姿から円錐形の姿をした山が信仰へ結びついた。常陸風土記・ヌカヒメ伝承、箸墓伝承など、蛇神と交わる各地の伝承、蛇の古語『カカ』から類推し、鏡(蛇の丸い目)、カカシ(田を守る)等は蛇を見立てたもの。正月の『鏡餅』は蛇がトグロを巻いた形であり、関西に多い丸餅は蛇の卵の造型。





(私論.私見)