大祓詞(おおはらいのりと)考

 更新日/2016.04.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、祝詞を解説する。その重要性が軽んぜられていると思うからである。「ウィキペディア大祓詞」その他を参照する。れんだいこに云わせれば、神道の大祓詞(おおはらいのりと)は仏教の般若心経に相当する。どちらも日本原思想として受肉化されており有益な思想であるからして復唱誦読すべきであろう。般若心経については、「仏教」の項目に記している。

 2009.3.4日 れんだいこ拝


【大祓詞考】

Re::れんだいこのカンテラ時評547 れんだいこ 2009/03/04
【大祓詞(おおはらへの言葉)「宣命書き」読み下し文】

 高天原(たかまのはら)に神留(づま)り坐(ま)す。皇親(すめらがむつ)神漏岐(かむろぎ)、神漏美(かむろみ)の命(みこと)以(も)ちて、八百万(やおよろづ)の神等(たち)を神集(つど)へに集へ賜(たま)ひ、神議(はか)りに議り賜ひて、我(あ)が皇御孫命(すめみまのみこと)は 豊葦原水穂國(とよあしはらのみづほのくに)を 安國(やすくに)と平(たひら)けく知ろし食(め)せと 事(こと)依(よ)さし奉(まつ)りき。

 此(か)く依さしりし國中(くぬち)に、荒振る神等をば、神問はしに問はし賜ひ、神掃ひに掃ひ賜ひて、語(こと)問ひし。磐根(いわね)、樹根立(きねたち)、草の片葉(かきは)をも語止(や)めて、天(あめ)の磐座(いわくら)放ち、天の八重雲(やへぐも)を伊頭(いつ)の千別(ちわ)きに千別きて、天降(あまくだり)し依さし奉りき。

 かく依さし奉りし四方(よも)の國中(くになか)と 大倭日高見(おほやまとひだかみのくに)を安國と定め奉りて、下(した)つ磐根に宮柱(みやはしら)太敷(ふとし)き立て、高天原に千木(ちぎ)高知(たかし)りて、皇御孫命の瑞(みづ)の御殿(みあらか)仕(つか)へ奉りて、天の御蔭(みかげ)、日の御陰と隠(かく)り坐して、安國と平けく知ろしめさむ國中に成り出(い)でむ。天の益人等(ますひとら)が、過(あやま)ち犯しけむ種種(くさぐさ)の罪事(つみごと)は、天つ神、國つ罪、許許太久(ここだく)の罪出でむ。

 かく出でば 天つ宮事(ごと)以ちて 天つ金木(かなぎ)を本(もと)打ち切り、末打ち断ちて、千座(ちくら)の置座(おくきら)に置き足(た)らはして、天つ麻菅(すがそ)を本刈り断ち、末刈り切りて、八針(やはり)に取り辟(さ)きて、天つ祝詞(のりと)の太祝詞事(ふとのりとごと)を宣(の)れ。

 かく宣らば 天つ神は天の磐門(いはと)を押し披(ひら)きて、天の八重雲を伊頭(いつ)の千別きに千別きて 聞こしめさむ。國つ神は高山(たかやま)の末、短山(ひきやま)の末に上(のぼ)り坐して、高山の伊褒理(いぼり)、短山の伊褒理を掻(か)き別けて聞こしめさむ。

 かく聞こしめしてば、罪と言ふ罪はあらじと 、科戸(しなど)の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、朝(あした)の御霧(みぎり)、夕(ゆふべ)の御霧を朝風夕風の吹き拂(はら)ふ事の如く、大津邊(おほつべ)に居(お)る大船(おほふね)を舳解(へと)き放ち、艫解(ともと)き放ちて、大海原(おほうなばら)に押し放つ事の如く、彼方(をちかた)の繁木(しげき)が本を、焼鎌(やきがま)の敏鎌(とがま)以ちて打ち掃ふ事の如く、遺(のこ)る罪はあらじと祓へ給ひ清め給ふ事を高山の末、短山の末より佐久那太理(さくなだり)に落ち多岐(たぎ)つ。

 速川(はやかわ)の瀬に坐す瀬織津比賣(せおりつひめ)と言ふ神、大海原にも出でなむ。かく出で往(い)なば、荒潮(あらしほ)の潮の八百道(やほぢ)の八潮道(やしおぢ)の潮の八百曾(やほあひ)に坐す。速開都比賣(はやあきつひめ)と言ふ神も加加呑(かかの)みてむ。 

 かく加加呑みてば 気吹戸(いぶきど)に坐す気吹戸主(いぶきどぬし)と言ふ神、根国(ねのくに)、底国(そこのくに)に気吹き放ちてむ。

 かく気吹放ちてば、根国、底國に坐す速佐須良比賣(はやさすらひめ)と言ふ神も、佐須良ひ失ひてむ。かく佐須良ひ失ひてば罪と言ふ罪はあらじと祓へ給ひ清め給ふ事を天つ神、國つ神八百萬神等共に 聞こしめせと白(まを)す。
 (れんだいこ読解意訳文、現代口語訳)

 その昔、原日本には八百万(やおよろず)の国津神の住む豊葦原の瑞穂の国と云われる中国が在った。高天原王朝は、豊葦原の瑞穂の国を治める出雲王朝に国譲りを仕掛けた。度々の使者を送ったがらちが開かず、遂に軍事戦と談判により投降させることに成功した。その国譲り戦で勝利したフツヌシとタケミカヅチが高天原に凱旋してきた。

 高天原を治めるカムロ「ギ」の命(みこと)とカムロ「ミ」の命の発令により、高天原系の八百万の神々が天の安の河原に集まった。出雲王朝の支配者であり、豊葦原の瑞穂の国の盟主である大国主命の国譲りの件が報告され、議論に議論を重ねた結果、いよいよ豊葦原の瑞穂の国の平定に乗り出すことに評定が決着した。

 アマテラスは、オシホミミの命に、葦原中国を統治するよう命じた。オシホミミの命は、息子の天津彦火のニニギの命に役目を譲った。アマテラスは、オシホミミの命の進言を受け入れ、「ニニギの命よ、そなたに葦原中国の支配を任せます。さっそく取り掛かるように」と命じた。こうして、アマテラスの命で、ニニギの命が天降ることになった。

 アマテラスは、出発に当り、ヤタの鏡と草薙の剣と八坂の勾玉(まがたま)を授け、これをお守りとして祀るよう言い渡した。これを三種の神器と云う。最後に稲穂を渡し、豊葦原の瑞穂の国の食物とせよと命じた。オモヒカネには祭事と政事を執るよう言い渡した。他にアメノコヤネ(中臣氏の祖神)、フトダマ(忌部氏の祖神)、アメノウズメ(猿女氏の祖神)、イシコリドメ(鏡作の祖神)、タマノオヤ(玉作の祖神)が従った。他にアメノオシヒ(大伴氏の祖神)、ヒコホノ二ニギ、アメノイワトワケ、タジカラヲ、アメツクメの各命が随伴した。これを仮に天孫族叉は高天原軍と命名する。

 ニニギの命は、国津神の神々に使者を送り、大国主命の国譲りの件を伝え、豊葦原の瑞穂の国の統治権を渡すよう迫った。国津神系は大混乱に陥り騒々しくなったが、拒否して一致共同して抗戦する旨伝えてきた。抗戦派の荒ぶる神々は大倭日高見の国を盟主として抵抗の構えを見せた。

 高天原軍は遂に討伐に向かうことになった。ニニギノ命一行は、「東に美(う)まし國ありと聞く。我いざこれを討たん」と宣べ、幾重にも折り重なった分厚い雲を掻き分けに掻き分けて、日向の高千穂の峰に天降った。この地に堅い基礎に太い宮柱を建て、屋根は千木に高く聳え立つ豪勢な宮殿を建て、国津神を威圧した。稲作を進め、国津神の蒙を開き、高天原の征服事業は着々と進展した。

 しかし、完全制圧できず、国津神軍との抗争が続いた。高天原は業を煮やして、徹底した軍事行動による殲滅を宣言した。残虐非道の掃討戦が始まった。それでも国津神は降伏せず、地の利を生かして各地の高い山低い山に立て篭もって抵抗し始めた。高天原は手を焼いた。

 高天原軍は遂に軍事による徹底殲滅方針をあきらめ、武装解除し恭順するならば反逆した過去の罪を問わず制裁処罰しないこと、過去を祓い給い清め給いきれいさっぱり清算して公平な人材登用を進め、共に和して新日本を創建することを明らかにした。反逆徒が立て篭もる各地のアジトへ使者を送り、出向いて告げた。

 これにより、或る神達は豊葦原の瑞穂の国から立ち去り大航海に出向いた。或る神達は投降し始めた。豊葦原の瑞穂の国は溶解状態に陥り、投降相次ぐ事態となった。豊葦原の瑞穂の国の皇統を為す根の国、底の国の代表が高天原軍と協議を行い、制裁処罰されず公平な人材登用を行うなことを条件に帰服した。これが、高天原と豊葦原の瑞穂の国の合意となって、その後の日本が開かれた。

 祝詞(のりと)は、この経緯を確認するために遺す奏上文である。この国の成り立ちに於ける「抵抗の罪を問わず、過去を洗い流し、祓い給い、清め給い、天津神と国津神の八百万の神々が相和して新日本を創ることを申し合わせて、国が開かれた」と云う史実の重みを子々孫々に伝える為のものである。
 【大祓詞(おおはらへの言葉)考】

 以上、「大祓詞(おおはらへの言葉)」をれんだいこ式に解読した。既成の下手にして拙い解読よりよほど値打ちがあるだろうと自負する。れんだいこが、「大祓詞(おおはらへの言葉)」に注目するのは、そこに大和王朝創建時の歩みと確認事項、国づくりの理念及び精神が格調高く濃密に詠われていることを認めるからである。事実、「大祓詞(おおはらへの言葉)」は、永らく日本政治の原理として踏襲伝統とされてきた。今この価値が忘れられようとしている。

 他方で思うのは、パレスチナに於けるイスラエルの飽くことなき徹底殲滅思想である。これを思えば、「大祓詞(おおはらへの言葉)」の価値が際立つ。そういうメンタリティーから急きょ、「大祓詞(おおはらへの言葉)」を解読することになった。現代は、イスラエル軍の徹底殲滅思想とハーモニーするような政治、経済、文化、学問が幅を利かせている。が、れんだいこは、これらを推進する国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの頭脳は案外賢くないのではなかろうかと思っている。もっと云えば、中身が空疎な狂人思想ではなかろうかと思っている。

 そういうものなら我らが学ぶに値せずである。そうとならば、我々の政治、経済、文化、学問システムを我らなりに再度創出せねばならないのではなかろうか。既成のインテリはここが分かっておらず、今もひたすらネオ・シオニズムイデオロギーの捕囚に甘んじ、これを良しとしている。ウヨサヨはとてつもない腐敗した知性の汚濁のなかに在る。共に著作権狂いしているが、定向進化の法理によりもっと狂って盛んに小難しい社会へと誘い、終いには自分で自分の首を絞めて恍惚するところまで向かうであろう。

 そんなこんなを確認するための「大祓いの祝詞考」となった。
「大祓いのりと考」
(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/nihonshindoco/noritoco/no
ritoco.htm)

 2009.3.4日 れんだいこ拝
 前口上 祓詞(はらえのことば)
 かけまくもかしこき いざなぎの大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 御禊(みそぎ)祓へ給いし時になりませる 祓戸(はらえど)の大神たち 諸々のまがごと 罪 穢れあらむをば 祓へたまへ清めたまへとまをすことを きこしめせと かしこみかしこみもまをす
 六月晦(みなづきのつごもりの)大祓(おほはらひ) 〔十二月も此に准(なら)へ〕
 集侍(うごな)はれる親王(みこたち) 諸王(おほきみたち) 諸臣(まえつきみたち) 百官(もものつかさ)の人等(ひとたち) 諸(もろもろ)聞食(きこしめ)せと宣(の)る。

 天皇(すめら)が朝廷(みかど)に仕(つか)え奉(たてまつ)る 比礼(ひれ)挂(か)くる伴男(とものを) 手襁(たすき)挂くる伴男 靫(ゆぎ)負(お)ふ伴男 剱(たち)佩(は)く伴男 伴男の八十伴男(やそとものを)を始めて官官(つかさづかさ)に仕奉る人等(ひとども)の 過(あやまち)犯しけむ雑雑(くさぐさ)の罪を 今年の六月(みなづき)の晦(つごもり)の大祓(おおはらへ)に祓ひ給ひ清め給ふ事を 諸(もろもろ)聞こしめせと宣る。
 本口上 大祓詞(おおはらえのことば)
 高天原(たかまのはら)に 神(かむ)づまり坐(ま)す 皇(すめら)が親(むつ) 神漏岐(かむろぎ) 神漏美(かむろみ)の命(みこと)もちて 八百万(やほよろづ)の神等(たち)を 神集(つど)へに集へたまひ 神議(はか)りに議りたまひて 我(あ)が皇御孫(すめみま)の命は 豊葦原(とよあしはら)の水穂の国を 安国(やすくに)と 平(たひら)けく しろしめせと ことよさしまつりき。

 かく よさしまつりし 国中(くぬち)に 荒ぶる神たちをば 神問(と)はしに問はしたまひ 神はらひにはらひたまひて 語(こと)問ひし。いはね きねたち 草の片葉(かきは)をも こと止(や)めて 天(あめ)の磐座(いわくら)放ち 天の八重雲(やへぐも)を いづの ちわきにちわきて 天降(あまくだ)りし よさしまつりき。

 かく よさしまつりし 四方(よも)の国中(くになか)と 大倭日高見之国(おほやまとひたかみのくに)を 安国と定めまつりて 下(した)つ岩根(いはね)に 宮柱太(ふと)しき立て 高天原に 千木(ちぎ)高しりて すめみまの命の みづのみあらか つかへまつりて 天のみかげ 日のみかげと 隠(かく)りまして 安国とたひらけく しろしめさむ国中に なりいでむ。
 天つ罪、国津罪 許許太久の(ここだく)罪出む 
 天つのますひとらが 過(あやま)ち犯(おか)しけむ 種々(くさぐさ)の罪ごとを法(の)り別(わ)ける。
 畔放(あはなち) 溝埋(みぞうめ) 樋放(ひはなち) 頻蒔(しきまき) 
 串刺(くしざし) 生剥(いけはぎ) 逆剥(さかはぎ) 屎戸(くそへ) 
 国つの益人等(ますひとら)が 過(あやま)ち犯(おか)しけむ 種々(くさぐさ)の罪ごとを法(の)り別(わ)ける。
 生膚断死(いきはだたちし) 死膚断死(しにはだたち) 白人胡久美(しろひとこくみ) 
 己(おの)が母犯せる罪 己が子犯せる罪 母と子と犯せる罪 畜(けもの)犯せる罪 
 毘虫(はうむし)の災(わざはひ) 高つ神の災い 高つ鳥の災い 
 畜倒(けものたお)し 蟲物(まじもの)為(な)せる罪。
 かくいでば 大中臣おおなかとみ 天つみやごともちて 天つかなぎを もと打ち切り 末打ち断ちて 千座(ちくら)の置座(おきくら)に 置きたらはして 天つすがそを 本(もと)狩り断ち 末刈り切りて 八針(やはり)に とりさきて 天つ祝詞(のりと)の祓へ清めの 太(ふと)のりとごとを 宣(の)れ。

 かく のらぱ 天つ神は 天のいはとを 押しひらきて 天の八重雲(やへぐも)を いづのちわきにちわきて きこしめさむ。国つ神は 高山(たかやま)の末 ひきやまの末に のぼりまして 高山のいぼり 短山(ひきやま)のいぼりを かきわけて きこしめさむ。かくきこしめてば 皇御孫(すめみま)の命の朝廷(みかど)を始めて天下(あめのした)四方(よも)の国(くにぐに)には 罪といふ罪はあらじと。


 しなどのかぜの 天のやへぐもを ふきはなつことの如く 朝(あした)のみぎり 夕(ゆふべ)のみぎりを 朝風 夕風の 吹き払ふことのごとく
 おほつべにをる 大船(おほふね)を へとき放ち ともとき放ちて 大海原(おおうなばら)に 押し放つことの如く 彼方(をちかた)の 繁木(しげき)が本を 焼きがまの 利鎌(とがま)もちて 打ち掃(はら)ふことの如く 遺(のこ)る罪は あらじと 祓へたまひ清めたまふことを 高山の末 短山の末より さくなだりに おちたぎつ。

 速川(はやかは)の瀬にます せおりつひめといふ神 大海原に 出(い)でなむ。かく いで往(い)なば 荒潮(しほ)の潮の八百道(やほぢ)の 八潮道(やしほぢ)の潮のやほあひにます はやあきつひめといふ神 かかのみてむ。かくかかのみてぱ 氣吹(いぶき)戸にます 氣吹戸主(ぬし)といふ神 根の国 底の国に 氣吹放ちてむ。かく いぶきはなちてば 根の国 底の国にます はやさすらひめといふ神 さすらひうしなひてむ。かく さすらひうしなひてば 今日より始めて 罪といふ罪は あらじと。

 高天原に耳振り立てて聞く物と馬牽立(ひきたて)て、今年の六月の晦(つごもの)の日の 夕日の降(くだち)の大祓(おおはらひ)に)
祓へたまひ清めたまふことを 天つ神国つ神 やほよろづの神たち 共ににきこしめせと 
恐(かし)こみ恐こみまをす。
 後口上 卜部詞(うらべのことば)
 (四国(よくに)の卜部(うらべ)等(ども)大川道(ぢ)にも退出(まかりいで)て祓ひやれと宣る)

【「大祓詞(おおはらへののりと)」れんだいこ解析】
 
 「大祓詞(おおはらへの言葉又はのりと)」につき、2009.3.4日付け「れんだいこのカンテラ時評547、大祓詞(おおはらへの言葉)読み下し文」で読み方の確認した。ここでは「大祓詞」の歴史的意味を論考する。これを為す理由は、戦後日本が占領軍GHQの巧妙な統治政策により日本の国体意識、共同体的な絆を解体し、それが為に現下の日本が様々な隘路に陥っていることを思うからである。今や日本の国体意識、共同体的な絆を復権することが必要であり、且つそれを戦前的な偏狭なる皇国史観によって為すのではなく本来の姿において確認せねばならないと考える。この時、「大祓詞」こそが基礎中の基礎とも言うべき元一日となっており、ここに立ち返らずしては為しえないと思う。そういう意味で、「大祓詞」の歴史的意味を論考する。

 しかしながら「大祓詞」を理解するには、これが生み出された時の背後の歴史的事情を理解せねばならぬ。爾来、この歴史的読み取りを捨象して言霊的呪文的に詠む作法が一般的であるように思われる。確かにこの方面でも価値があり、「その大和言葉で書かれた言霊(ことだま)の美しさ、内容の素晴らしさ、リズムと品格に一切の罪穢れが浄められ、神氣が身体にしみ込む。読誦することにより直く、正しく、清々しい元気な気分になれる。気枯れをふり払い 病気や諸々の禍いを 遠離おんりする」との評がなされている通りである。しかし、この程度では一知半解なものにしかならない。実はもっと凄い。このことを明らかにしたい。以下、「大祓詞」の背後にあった歴史的事情を確認しておく。

 れんだいこ史観は、日本史上の出雲王朝-邪馬台国連合政権御代までを上古代史とし、この頃までの日本を「原日本」と命名している。邪馬台国滅亡後に創建された大和王朝以降の日本を「新日本」と命名し区別している。なぜなら政体的にも文化的にも民俗学的にも明らかに質が違うからである。これは「原日本」と「新日本」との間の皇統譜が遮断されていることに起因するとしている。この史観を「原日本新日本論」と命名している。

 但し、この新日本の時代は、第一次国譲り政変の出雲王朝の大国主の命の国譲り、第二次国譲り政変の邪馬台国の国譲りの解析で明らかなように原日本は政権を譲り国譲りの手打ちをしたのではあるが抹殺されたのではなく、いわば地下に潜る形で並存し、表向きの支配権を譲っただけの新日本と原日本の鼎立社会であった。以降も和解の裏で両者の抗争と暗闘が続いた。この間、大和王朝の王権は次第に出雲王朝-邪馬台国連合政権御代のものと融合して行った。それは国譲りの際に原日本の有力者を取り込んだことによるが、その最大の理由は、出雲王朝-邪馬台国連合政権御代のものが高度に洗練されており、その伝統が歴史的に存続するに値するものだったことにあるように思われる。

 この不毛の対立を解消する時がやって来る。日本史は、それまでの原日本と新日本の抗争に終止符を打ち、両者を和合せしめ「新々日本」形成に向かった。「大祓詞」とは、この時に作成された歴史的宣明祝詞(のりと)である。ここに「大祓詞」の特大級な値打ちがある。要するに、「大祓詞」が日本と云う国の国体を説き明かす元一日となっている意味を持つ。「大祓詞」を、このように説き明かす論があるのかないのか知らないが、なければれんだいこの功績となる。以下、日本古代史の秘密を確認する。
 日本のその昔の「原日本」時代、判明することは、日本列島津々浦々に凡そ百余国よりなる八百万(やおよろず)の国津神が豊葦原の瑞穂の国を形成していた。この時代は、それら小国家を連合政権的に纏めた出雲王朝の創出をもって最高段階に達していた。文字通りの意味での王朝楽土を形成していた。この御代に於いて、今日の日本に列なる原基的日本がことごとく形成されていた。これが日本の伝統となり今日に継承されている。そこへ外航族が侵入し、後に大和王朝を創建することになる。この経緯は記紀神話で確認することができる。但し、外航族は自らを高天原王朝と名乗ったことになっているが、高天原とはそもそも出雲王朝政治思想及び信仰上の最高神である天照大神の収める聖地である。外航族は、その天照大神より最高王権を授与されているとの触れ込みで天孫族と名乗り来航している。こういうイデオロギー攻勢で豊葦原の瑞穂の国の支配権を狙い、豊葦原の瑞穂の国を治める出雲王朝に国譲りを仕掛けた。度々の使者を送ったがラチが開かず、遂に軍事戦と談判により投降させることに成功した。この顛末は「れんだいこ撰日本神話譚その4、国譲りの神話考」に記す。

 その国譲り戦で勝利したフツヌシとタケミカヅチが凱旋報告する段になった。外航族系の神々が天の安の河原に集まり、大国主命の国譲りの件が報告され、いよいよ邪馬台国の治める豊葦原の瑞穂の国の平定に乗り出すことに評定が決着し、東征計画が練られた。準備万端整い、アマテラスがオシホミミの命に葦原中国を統治するよう命じた。既に述べたように天照大神は出雲王朝御代の最高神である。よって、記紀神話はアマテラスの言としているが、要するに外航族の最高権威者の言と窺えば良い。以降記すところのアマテラスはそういう意味でのアマテラスと解する。命を受けたオシホミミの命は、タカミムスヒの娘のヨロヅハタトヨアキツシ姫の命との間に生まれ成人していた子の天津彦火のニニギの命に役目を譲った。アマテラスは、オシホミミの命の進言を受け入れ、「ニニギの命よ、そなたが葦原中国を支配することを委任いたします。さっそく天降るように」と命じた。こうして、アマテラスの命でニニギの命の一行が天降ることになった。

 アマテラスは、出発に当り、ヤタの鏡と草薙の剣と八坂の勾玉(まがたま)を授け、これをお守りとして祀るよう言い渡したとされている。これを三種の神器と云う。しかしこの神話は眉唾である。なぜなら鏡と剣と勾玉(まがたま)は既に出雲王朝の三種の神器である。これを思えば記紀神話上で捏造された神話譚と思われる。この時、稲穂を渡し豊葦原の瑞穂の中つ国の食物とせよと命じたのは事実のように思われる。オモヒカネには祭事と政事を執るよう言い渡した。アメノコヤネ(中臣氏の祖神)、フトダマ(忌部氏の祖神)、アメノウズメ(猿女氏の祖神)、イシコリドメ(鏡作の祖神)、タマノオヤ(玉作の祖神)の要職部族、他にアメノオシヒ、ヒコホノ二ニギ、アメノイワトワケ、タジカラヲ、アメツクメの各命が随伴した。記紀神話上、天孫族の降臨とされているが正しくは外航族の降臨であろう。ニニギの命一行は、幾重にも折り重なった分厚い雲を掻き分けに掻き分けて、日向の高千穂の峰に天降った。この地に堅い基礎に太い宮柱を建て、屋根は千木に高く聳え立つ豪勢な宮殿を建て、国津神征服事業を着々と進展せしめた。

 天孫降臨した外航族は諸国の国津神の神々に使者を送り、大国主命の国譲りの件を伝え、豊葦原の瑞穂の中つ国の統治権を得た我々に帰順するよう迫った。邪馬台国の治める豊葦原の瑞穂の国の平定に乗り出すことを明らかにし、この聖戦に味方として参戦すれば然るべき地位を与えるとの甘言で釣った。これにより国津神系は大混乱に陥り騒々しくなった。結果的に相当数の国津神系諸国家が外航族に靡き帰順したが、出雲王朝-邪馬台国系の皇統派は一致共同して抗戦する構えを見せた。この時代が卑弥呼が治める邪馬台国の御代に照応している。国津神系抗戦派の荒ぶる神々は結束し、抵抗の構えを見せ、防衛線を張り待ち構えた。「大祓詞」に大倭日高見之国(おほやまとひたかみのくに)が登場するが、邪馬台国連合国の別名であるように思われる。外航族軍は、頃合良しと見て、「東に美(う)まし國ありと聞く。我いざこれを討たん」と宣べ、東征に向かった。結果的に邪馬台国=大倭日高見の国が滅ぼされ、原日本に代わる新日本の端緒となる大和王朝が創建された。その経緯は記紀神話に詳しく記されている。れんだいこは、「神武天皇東征神話考」で確認している。

 問題は、外航族軍による国津軍完全制圧はできず、国津神軍との抗争が続き続けたことにある。徹底した軍事行動による殲滅戦にも拘わらず国津神は降伏せず、各地で抵抗し長期戦化していた。他方で原日本糸と新日本系の婚姻的な融合が進み始めていた。歴史上、邪馬台国は紀元3世紀の頃のことであるから、大和王朝創建はそれ以降のことになる。これより数世紀間、外航族は原日本攻略戦を続けたものの手を焼き、遂に軍事による徹底殲滅方針をあきらめ、恭順するならば反逆した過去の罪を問わず制裁処罰しないこと、過去の経緯(いきさつ)を水に流し、きれいさっぱり清算して「祓い給い清め給い」、公平な人材登用を進め、共に和して新々日本を創建することを明らかにした。即ち、新日本側が原日本側の抵抗に手を焼き、共倒れになることを憂いて殲滅戦争から転換し、和平を求めたことが記されている。

 このことを反逆徒が立て篭もるアジトまで出向いて告げた。これにより、或る神達は豊葦原の瑞穂の中つ国から立ち去り大航海に出向いた。或る神達は投降し始めた。或る神達は更に様子見する戦略に出た。最終的に原日本系の皇統を為す根の国、底の国の代表が新日本系の皇統と最後の協議を行い、原日本新日本を練りあわす新々日本造りに向かうことで合意し帰服した。これによりその後の日本が開かれた。これが日本国の始まりの元一日となる。

 「大祓詞(おおはらへののりと)」は、この経緯を凝縮して言挙げした名文となっている。一字一句疎かな言葉はなく吟味されていると窺うべきである。留意すべきは、記紀神話とは別の神姫を登場させていることである。恐らく、「大祓詞」の方が正しく伝えているのではなかろうかと思われる。これについては別稿で論じたいと思う。「大祓詞(おおはらへののりと)」は且つ今後の国の指針を指し示した奏上文である。この国の成り立ちに於ける「抵抗の罪を問わず、過去を洗い流し、祓い給い、清め給い、天津神と国津神の八百万の神々が相和して新日本を創ることを申し合わせて、国が開かれた」と云う史実の重みを子々孫々に伝える為の元一日を詠っているものである。「大祓詞(おおはらへののりと)」をかく解したい。
 以上、「大祓詞(おおはらへの言葉)」をれんだいこ式に解析した。下手にして拙い解読よりよほど値打ちがあるだろう。れんだいこが、「大祓詞」に注目するのは、そこに原日本→新日本→新々日本(日本)の歩みと、日本づくりの際の確認事項、国づくりの理念及び精神が格調高く濃密に詠われていることを認めるからである。事実、「大祓詞」は、永らく日本政治の原理として踏襲伝統とされてきた。してみれば、「大祓詞」は日本国体の最高憲章的地位にあり、日本精神のDNA的なものとして復唱され続けてきたものである。しかとかく承り肝に命ずるよう申し渡しておく。

 特記しておけば、後段で、天孫族と国津族の手打ちの様子が記されている。その際の原理の特徴は、それまでのわだかまりを「祓い給え清め給え祓の儀式」により罪、穢れを消滅させることとしたところにある。これが大祓詞の言霊となっている、と解する。してみれば、「祓詞(はらへの言葉)」、「大祓詞(おおはらへの言葉)」は、日本古代史上の最大政変と、その政変後の和睦経緯を正確に且つ概略的に素描した歴史物語的要素が強いと云うことになる。かく認識することにより、「祓詞(はらへの言葉)」、「大祓詞(おおはらへの言葉)」の重要性が知られることになる。れんだいこはかく了解し読誦を心がけんと思う。

 「大祓詞(おおはらへの言葉)」は、当時における政治マニュフェストであり、仏説的には真言マントラであり、日本政治的には明治維新期の五箇条の御誓文に先行する古代維新期の御誓文である。その意味で日本の無形文化財足り得ている。今、この価値が忘れさられている。それは日本の冒涜であり、この事態を早急に手直しせねばなるまい。このことは戦前の皇国史観に戻すのではない。本当の日本国体の理を踏まえて正しい理解に基づく日本論を獲得せねばならない。この差が弁えられず日本国体論不要論、皇国史観的国体論のみが幅を利かしているのは愚かなことである。

 「大祓詞」を理解するにつけ思うのは、パレスチナに於けるイスラエルの飽くことなき徹底殲滅思想である。これを思えば、「大祓詞」の価値が一層際立つ。パレスチナ危機を解決するにも「大祓詞」を繰り出すべきではなかろうか。そういうメンタリティーから、急きょ、「大祓詞」を解読することになった。現代は、イスラエル軍の徹底殲滅思想とハーモニーするような政治、経済、文化、学問が幅を利かせている。が、れんだいこは、これらを推進する国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの頭脳は案外賢くないのではなかろうかと思っている。もっと云えば、中身が空疎な狂人思想ではなかろうかと思っている。

 そういうものは我らが学ぶに値せずである。逆に「大祓詞」を宣揚すべきではなかろうか。そうとならば、我々の政治、経済、文化、学問システムを我らなりに尺度で再度創出せねばならないのではなかろうか。既成のインテリはここが分かっておらず、今もひたすらネオシオニズムイデオロギーの捕囚に甘んじ、これを良しとしている。これに従うウヨサヨはとてつもない腐敗した知性の汚濁のなかにある。共に著作権狂いしているが、定向進化の法理によりもっと狂って盛んに小難しい社会へと誘い、終いには自分で自分の首を絞めて恍惚するところまで向かうであろう。そんなこんなを確認するための「大祓いの祝詞考」となった。

 2009.3.4日 2014.4.5日再編集 れんだいこ拝

【祝詞の言葉の意味考】

 「ウィキペディア祝詞」は、次のように記している。

 祝詞(のりと)とは、神道において神徳を称え、崇敬の意を表する内容を神に奏上しもって加護や利益を得んとする文章をいう。通常は神職によって独自の節まわしによる朗誦が行われ、文体・措辞・書式などに固有の特徴を持つ。現在、最も標準的とされる朗読調は、昭和天皇の玉音放送と酷似している。 

 祝詞(のりと)の語源は、「のりとごと」(宣之言・宣処言・宣呪言)であるとする説が従来もっとも一般的であったといえる。神職などの奉仕者が祭神に祭祀の意義や目的を奏上する言葉(人間が神に対してみずからの祈願するところや、神を称えるこころを表現するために記した文章)を意味するものであるが(奏上体)、古くは祭祀の場に参集した人々に宣り下される言葉でもあった(宣命体)。「のりと」の「のり」には「宣り聞かせる」という意味が考えられることから、宣命体の祝詞が本義を伝えるものであると考えることもできる。

 折口信夫は古代祝詞の用例から「~と宣る(宣ふ)」と結ぶノリト型と「~と申す」と結ぶヨゴト型の別のあることを探りだし、高位にあるものが下位にあるものへ祝福を授けるための言葉がノリトすなわち「宣り言」であり、その礼として下位にあるものが高位にあるものを称え服従を誓う言葉がヨゴト(寿詞)であると解した。

 すなわち現今云うところの祝詞は、折口のいわゆるヨゴト(寿詞)の系譜に属する祈願の言葉がたまたま「祝詞」の名をとったものであるということもできる。祝詞の語源・本義に関する右の両説は現在でも容易に決着がつけがたい。


 以上を一般的知識として、更に考究すると、定式化されている「祓詞(はらへの言葉)」、「大祓詞(おおはらへの言葉)」は正しくは「天津系の」と理解されるべきではなかろうか。しかも、原文が別に存在し、現行文は原文の生々しい表記を改竄していると認めるべきではなかろうか。その根拠として、「別文六月晦大祓祝詞(みなづきつごもりのおおはらえののりと」(出典:延喜式卷八「祝詞」)があり、内容を読むに、こちらの方が原文に近いと思われるからである。

 その違いは、天津神の罪、国津神の罪を列挙している下りが顕著で、通説「天津系大祓詞(おおはらへの言葉)」では削除されている。れんだいこは、徒に原文改訂は良くないと考え復活させることにした。両者の罪の違いが却って興味深い。更に、後半の下りでも記述が違う。れんだいこは、別文の方を採った。別文では末尾に「四国(よくに)の卜部」が登場している。これをどう読み解くべきか。何か重要なヒントが隠されているように思われる。

 そういう訳で、「れんだいこ文・天津系祓詞(はらへの言葉)」として定式化させる。天津系としたのは、出雲系の天津系祓詞(はらへの言葉)が別に存在すると考えるからである。但し、こちらは秘されていると思われその限りで不明である。出雲国造奏上文があるが、それは出雲系の天津系祓詞(はらへの言葉)とは又別文であろう。

【祝詞の内容考】

 大祓詞(おおはらえのことば)は、遠く平安の更なる昔から、毎年6月30日と12月31日の夕刻、宮中をはじめ、全国の神社でおこなわれる神道祭祀行事の大祓式の際に唱えられるお祓い祝詞中の最重要な祝詞である。送り仮名として使われている漢字は万葉仮名で、約900字の漢字で成り立っている。祓物(はらえつもの)を出して、祓戸の神の神威によって罪穢を解除(げじょ)する儀式であり、半年毎に恒例のものとしておこなわれるので「二季の祓」と称する。「中臣祓詞」(なかとみのはらえことば)、略して「中臣祓」、「中臣祭文」(なかとみさいもん)とも云う。

 内容から大きく前段と中段と後段の三つに分けられる。前段は、大祓に参集した皇族・百官に対して「祝詞をよく聞け」という内容の文言が記されている。これは当初の大祓詞が参集者に対して宣り聞かせるものであったことの名残であり、今日の神社本庁の大祓詞ではこの部分が省略されている。

 次に、中段に入る。天孫族系の高天原王朝が国津族系の葦原中国平定を目指して天孫降臨し、天孫族が日本を治めることになるまでの日本神話の内容が語られている。この過程で双方が犯した罪の内容を「天つ罪・国つ罪」として列挙している。罪の内容については、今日の「罪」の観念にあわないものが多く、差別的ととられかねないものもあることから、神社本庁の大祓詞では罪名の列挙を省略して単に「天津罪・国津罪」とだけ言い換えられている。

 後段で、天津神系、国津神系の手打ちによる、「祓い清めによる罪、穢れ落し」を重要な理として、「新たな国の始まりの誓い」により日本の国体が始まったことが明らかにされ、これを国是とするよう詠われている。

 9.3.5日、2010.1.13日再編集 れんだいこ拝


【「大祓詞(おおはらへののりと)」に登場する女神考】
 先に「留意すべきは、記紀神話とは別の神姫を登場させていることである。恐らく、「大祓詞」の方が正しく伝えているのではなかろうかと思われる。これについては別稿で論じたいと思う」と記した。これを確認する。「大祓詞」後段に登場する、せおりつひめ(瀬織津比売)神、はやあきつひめ(速開都比売)神、いぶきどぬし(氣吹戸主)神、はやさすらひめ(速佐須良比売)神について確認しておく。

 れんだいこ史観「原日本新日本論」によれば、これらの神は原日本(葦原中国)系の神で、氣吹戸主以外は共に女神である。
この四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と云うこともある。「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が次のように記されている。但し、はやあきつひめ(速開都比売)を除いて記紀には登場しない。記紀のどの神に対応するかについて考究され諸説あるようであるが、れんだいこ史観によると、「記紀のどの神に対応するか」は無駄な営為である。むしろ、原日本系の史書であるホツマ伝えを紐解き、どのように記されているかで窺うべきであろう。これを一言しておく。

 なお、祓戸四神登場の前に「高山の末 短山の末より さくなだりに おちたぎつ」とある。これは、せおりつひめ(瀬織津比売)神の修辞とも読めるが、さくなだりひめ(佐久那太理姫)を暗喩しているとも読める。さくなだりひめ(佐久那太理姫)も記紀には出てこないが、ホツマ伝えに登場している姫神と記憶する。これについては確認を急ぎたい。仮にさくなだりひめ(佐久那太理姫)の暗喩とすれば、さくなだりひめ(佐久那太理姫)の「おちたぎつ」後に云々と云う流れが見えてくることになる。
佐久那太理比売(姫)
(さくなだりひめ)
瀬織津比売(姫)
(せおりつひめ)
 「大祓詞」に「速川(はやかは)の瀬にます せおりつひめといふ神 大海原にも 出(い)でなむ」とあり、元々速川(はやかは)の瀬に居る祓戸の神である。 ホツマツタエに登場し、天照大神の皇后として、ある時は天照大神の名代として活躍されたことが詳しく記されている。伊勢神宮内宮の別宮の荒祭宮祭神の別名を瀬織津姫、八十禍津日神と記し、平田篤胤は八十禍津日神を大禍津日神・大屋毘古神とも同神としている。伊雑宮御師である西岡家に伝わる文書において、祭神「玉柱屋姫命」は「玉柱屋姫神天照大神分身在郷」と書かれ、同じ箇所に「瀬織津姫神天照大神分身在河」とある。両神はつまるところ同じ神であると記されている。出雲大社の正門、勢溜(せいだまり)の鳥居から境内へ入り、参道の途中、右手に祓社(はらいのやしろ)があり、そこに瀬織津姫が祀っている。有りました。
速開都比売(姫)
(はやあきつひめ)
 「大祓詞」に「荒潮(しほ)の潮の八百道(やほぢ)の 八潮道(やしほぢ)の潮のやほあひにます はやあきつひめといふ神も かかのみてむ」とあり、八潮道(やしほぢ)の潮のやほあひに居る祓戸の神である。日本書紀一書に「水門神等を速秋津日命と号す」と記されている。
気吹戸主
(いぶきどぬし)
 「大祓詞」に「かくかかのみてぱ 氣吹(いぶき)戸にます 氣吹戸主(ぬし)といふ神 根の国 底の国に 氣吹放ちてむ」とあり、根の国、底の国に息吹を放つ祓戸の神である。内宮の風宮の神とする説や、罪穢れを祓う神直日神、大直日神であるとする説、豊受大神の荒魂とする説がある。
速佐須良比売(姫)
(はやさすらひめ)
 「大祓詞」に「かく いぶきはなちてば 根の国 底の国にます はやさすらひめといふ神も さすらひうしなひてむ」とあり、根の国・底の国に居る祓戸の神である。最終的な決断に与った重要な神である。

 原日本と新日本系が最終的な歴史的和解に当たって、これら祓戸五神(祓戸四神+佐久那太理姫)の大決断があったことになる。これを逆に言えば、原日本と新日本系が最終的な歴史的和解前までは、これらの祓戸五神がいわば抵抗勢力として存在していたことになる。しかして、このいぶきどぬし(氣吹戸主)神を除く四女神が邪馬台国の卑弥呼、豊与的な女系王と関係している気がしてならない。更に推理すれば、四女神が邪馬台国滅亡後に原日本系の皇統を継承し、この時までこれら女王の下に立国し抵抗し続けていたのではなかろうかと思える。これら四女神の下に結束していた部族が最終的な歴史的和解に応じ、ここに新々日本即ち今日に至る日本が始まったのではないかと思える。この推理は当たっているだろうか。 

 2014.4.5日 れんだいこ拝

【大祓詞(おおはらえののりと)の成立時期考】

 大祓詞(おおはらえのことば)は、元々は毎年6月と12月の末日に行われる大祓で、大和王朝創建時の国是を確認し、その時に定式化された罪・穢れを祓うための儀式に添えられる祝詞であったと思われる。中臣氏が京の朱雀門で奏上していたことから中臣祓の称がある。

 元々は、6月と12月では異なる文言であったが、6月の方だけが残った。900(延喜)年の「延喜式」巻八「祝詞」には「六月晦大祓」として記載されており、「十二月も此に准へ」と注記がある。今日使用されている大祓詞は「六月晦大祓」の祝詞を元にしたものである。

 その成立時期について、賀茂真淵は天智・天武朝説を唱え、本居宣長は文武天皇朝説を唱えている。が、いずれの説もその原典になる文章がそれ以前の時代には存在したとしている。690年頃、柿本人麻呂による修辞によって今日見られるような美文となったと伝えられている。701(大宝元)年、大宝律令の神祗会に「凡そ六月(みなつき)、十二月晦日(しはすつもごり)の大祓は東西(大和、河内)の文部祓刀を上(たてまつ)り、祓詞を読む。百官男女を祓所に聚集し、中臣祓詞を宜り、卜部解除(うらべはらへ)を為す」と記されている。907(延喜格)年、「御麻(みあさ)、荒世(あらよ)、和世(にごよ)、壷(つぼ)等の御贖(みあが)の儀式が行われ、その時、宜陽殿の南頭に於いて奏せられる」とある。この時の宣命が大祓祝詞であると云われている。

 大祓詞(おおはらえのことば)は現在でも唱えられている。神社本庁のほか各種の教派神道、神道系新宗教の一部でも使われている。が、延喜式記載のものから内容に改変が加えられており、教団によっても多少の差異がある。



 「大祓詞(中臣祓詞)」その他を参照する。  

 古来、大祓は通常六、十二月晦に執行されていた。而し伊勢神宮の古傳には、古い穢れを祓い、新しい気持ちになるために二、五、六、十、十一、十二月に行われていたとの記載がある。延喜式の神祇の規程を見ると、大きな祭りは六月及び十二月に集中している。その昔は朱雀門前に於いて、六月と十二月の晦に中臣氏が大祓の詞を読み、忌部氏がお祓いをしていた。その頃は大祓を「中臣祭文」と称していた。大祓が皆に申し上げる形態になっているのに比して、「中臣祭文」は神に対して申し上げる形式を採っている。このような年に二回の大祓の執行を現在のように神拝の都度唱えられるように変遷して来たのは平安末期だと云われてる。中臣祭文は時期等の記載がなくなり、何時でも誰でも唱えてもいいと云う形に改められることになった。

【祝詞の史書としての登場考】
 祝詞と名づけられた文章のもっとも古い例は、『延喜式』巻八に収録する29篇と藤原頼長『台記』別記所収「中臣寿詞」の計30篇である。以上はすくなくとも奈良時代以前にまで遡りうる貴重な文献であり、古代の祝詞の姿を現在に伝える重要な資料である。延喜式所収の29篇の祝詞は以下のものである。
  1. 祈年祭
  2. 春日祭
  3. 廣瀬大忌祭
  4. 龍田風神祭
  5. 平野祭
  6. 久度古關(祭)
  7. 六月月次(祭)
  8. 大殿祭
  9. 御門祭
  10. 六月晦大祓
  11. 東文忌寸部献横刀時ノ呪
  12. 鎮火祭
  13. 道饗祭
  14. 大嘗祭
  15. 鎮御魂齋戸祭
  16. 伊勢大神宮
    1. 二月祈年(祭)
    2. 六月十二月月次祭
    3. 豊受宮
    4. 四月ノ神衣祭
    5. 六月ノ月次祭
    6. 九月ノ神嘗祭
    7. 豊受宮同祭
    8. 神嘗祭
    9. 斎内親王奉入時
    10. 遷奉大神宮祝詞
  17. 遷却祟神祭
  18. 遣唐使時奉幣
  19. 出雲国造神賀詞
  20. 中臣寿詞

 このうち1~7は各神社の祭礼ごとの祝詞、8~15は宮中祭祀にかかわる祝詞、16は伊勢神宮にかかわる祝詞、17~20は補遺である。以上のうちに特徴的なのは「~と申す(白す)」と結ぶ奏上体が大半を占めるのに対して祈年祭、六月月次祭(大祓)、大嘗祭・神嘗祭においては「~と宣る(宣ふ)」とする宣命体がとられていることでこれらの祭儀が発生や形式においてそのほかの祭儀と性格を別にしていたことを思わせるものである。

 その目的によって様々な種類があり、現在でも大和言葉が用いられている。基本的に祝詞は祭儀の度に作文するが、決まった祭儀(初宮詣、結婚式など)では同じ祝詞を用いることが多い。また、祭儀の前に行う修祓での「祓詞」(はらえことば)や大祓での「大祓詞」(おおはらえことば)も言葉が決まっている。





(私論.私見)