大祓詞(おおはらいのりと)考 |
更新日/2016.04.25日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、祝詞を解説する。その重要性が軽んぜられていると思うからである。「ウィキペディア大祓詞」その他を参照する。れんだいこに云わせれば、神道の大祓詞(おおはらいのりと)は仏教の般若心経に相当する。どちらも日本原思想として受肉化されており有益な思想であるからして復唱誦読すべきであろう。般若心経については、「仏教」の項目に記している。 2009.3.4日 れんだいこ拝 |
【大祓詞考】 |
Re::れんだいこのカンテラ時評547 | れんだいこ | 2009/03/04 | ||||||||||||||||||
【大祓詞(おおはらへの言葉)「宣命書き」読み下し文】 高天原(たかまのはら)に神留(づま)り坐(ま)す。皇親(すめらがむつ)神漏岐(かむろぎ)、神漏美(かむろみ)の命(みこと)以(も)ちて、八百万(やおよろづ)の神等(たち)を神集(つど)へに集へ賜(たま)ひ、神議(はか)りに議り賜ひて、我(あ)が皇御孫命(すめみまのみこと)は 豊葦原水穂國(とよあしはらのみづほのくに)を 安國(やすくに)と平(たひら)けく知ろし食(め)せと 事(こと)依(よ)さし奉(まつ)りき。 此(か)く依さしりし國中(くぬち)に、荒振る神等をば、神問はしに問はし賜ひ、神掃ひに掃ひ賜ひて、語(こと)問ひし。磐根(いわね)、樹根立(きねたち)、草の片葉(かきは)をも語止(や)めて、天(あめ)の磐座(いわくら)放ち、天の八重雲(やへぐも)を伊頭(いつ)の千別(ちわ)きに千別きて、天降(あまくだり)し依さし奉りき。 かく依さし奉りし四方(よも)の國中(くになか)と 大倭日高見(おほやまとひだかみのくに)を安國と定め奉りて、下(した)つ磐根に宮柱(みやはしら)太敷(ふとし)き立て、高天原に千木(ちぎ)高知(たかし)りて、皇御孫命の瑞(みづ)の御殿(みあらか)仕(つか)へ奉りて、天の御蔭(みかげ)、日の御陰と隠(かく)り坐して、安國と平けく知ろしめさむ國中に成り出(い)でむ。天の益人等(ますひとら)が、過(あやま)ち犯しけむ種種(くさぐさ)の罪事(つみごと)は、天つ神、國つ罪、許許太久(ここだく)の罪出でむ。 かく出でば 天つ宮事(ごと)以ちて 天つ金木(かなぎ)を本(もと)打ち切り、末打ち断ちて、千座(ちくら)の置座(おくきら)に置き足(た)らはして、天つ麻菅(すがそ)を本刈り断ち、末刈り切りて、八針(やはり)に取り辟(さ)きて、天つ祝詞(のりと)の太祝詞事(ふとのりとごと)を宣(の)れ。 かく宣らば 天つ神は天の磐門(いはと)を押し披(ひら)きて、天の八重雲を伊頭(いつ)の千別きに千別きて 聞こしめさむ。國つ神は高山(たかやま)の末、短山(ひきやま)の末に上(のぼ)り坐して、高山の伊褒理(いぼり)、短山の伊褒理を掻(か)き別けて聞こしめさむ。 かく聞こしめしてば、罪と言ふ罪はあらじと 、科戸(しなど)の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、朝(あした)の御霧(みぎり)、夕(ゆふべ)の御霧を朝風夕風の吹き拂(はら)ふ事の如く、大津邊(おほつべ)に居(お)る大船(おほふね)を舳解(へと)き放ち、艫解(ともと)き放ちて、大海原(おほうなばら)に押し放つ事の如く、彼方(をちかた)の繁木(しげき)が本を、焼鎌(やきがま)の敏鎌(とがま)以ちて打ち掃ふ事の如く、遺(のこ)る罪はあらじと祓へ給ひ清め給ふ事を高山の末、短山の末より佐久那太理(さくなだり)に落ち多岐(たぎ)つ。 速川(はやかわ)の瀬に坐す瀬織津比賣(せおりつひめ)と言ふ神、大海原にも出でなむ。かく出で往(い)なば、荒潮(あらしほ)の潮の八百道(やほぢ)の八潮道(やしおぢ)の潮の八百曾(やほあひ)に坐す。速開都比賣(はやあきつひめ)と言ふ神も加加呑(かかの)みてむ。 かく加加呑みてば 気吹戸(いぶきど)に坐す気吹戸主(いぶきどぬし)と言ふ神、根国(ねのくに)、底国(そこのくに)に気吹き放ちてむ。 かく気吹放ちてば、根国、底國に坐す速佐須良比賣(はやさすらひめ)と言ふ神も、佐須良ひ失ひてむ。かく佐須良ひ失ひてば罪と言ふ罪はあらじと祓へ給ひ清め給ふ事を天つ神、國つ神八百萬神等共に 聞こしめせと白(まを)す。 |
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(れんだいこ読解意訳文、現代口語訳) その昔、原日本には八百万(やおよろず)の国津神の住む豊葦原の瑞穂の国と云われる中国が在った。高天原王朝は、豊葦原の瑞穂の国を治める出雲王朝に国譲りを仕掛けた。度々の使者を送ったがらちが開かず、遂に軍事戦と談判により投降させることに成功した。その国譲り戦で勝利したフツヌシとタケミカヅチが高天原に凱旋してきた。 高天原を治めるカムロ「ギ」の命(みこと)とカムロ「ミ」の命の発令により、高天原系の八百万の神々が天の安の河原に集まった。出雲王朝の支配者であり、豊葦原の瑞穂の国の盟主である大国主命の国譲りの件が報告され、議論に議論を重ねた結果、いよいよ豊葦原の瑞穂の国の平定に乗り出すことに評定が決着した。 アマテラスは、オシホミミの命に、葦原中国を統治するよう命じた。オシホミミの命は、息子の天津彦火のニニギの命に役目を譲った。アマテラスは、オシホミミの命の進言を受け入れ、「ニニギの命よ、そなたに葦原中国の支配を任せます。さっそく取り掛かるように」と命じた。こうして、アマテラスの命で、ニニギの命が天降ることになった。 アマテラスは、出発に当り、ヤタの鏡と草薙の剣と八坂の勾玉(まがたま)を授け、これをお守りとして祀るよう言い渡した。これを三種の神器と云う。最後に稲穂を渡し、豊葦原の瑞穂の国の食物とせよと命じた。オモヒカネには祭事と政事を執るよう言い渡した。他にアメノコヤネ(中臣氏の祖神)、フトダマ(忌部氏の祖神)、アメノウズメ(猿女氏の祖神)、イシコリドメ(鏡作の祖神)、タマノオヤ(玉作の祖神)が従った。他にアメノオシヒ(大伴氏の祖神)、ヒコホノ二ニギ、アメノイワトワケ、タジカラヲ、アメツクメの各命が随伴した。これを仮に天孫族叉は高天原軍と命名する。 ニニギの命は、国津神の神々に使者を送り、大国主命の国譲りの件を伝え、豊葦原の瑞穂の国の統治権を渡すよう迫った。国津神系は大混乱に陥り騒々しくなったが、拒否して一致共同して抗戦する旨伝えてきた。抗戦派の荒ぶる神々は大倭日高見の国を盟主として抵抗の構えを見せた。 高天原軍は遂に討伐に向かうことになった。ニニギノ命一行は、「東に美(う)まし國ありと聞く。我いざこれを討たん」と宣べ、幾重にも折り重なった分厚い雲を掻き分けに掻き分けて、日向の高千穂の峰に天降った。この地に堅い基礎に太い宮柱を建て、屋根は千木に高く聳え立つ豪勢な宮殿を建て、国津神を威圧した。稲作を進め、国津神の蒙を開き、高天原の征服事業は着々と進展した。 しかし、完全制圧できず、国津神軍との抗争が続いた。高天原は業を煮やして、徹底した軍事行動による殲滅を宣言した。残虐非道の掃討戦が始まった。それでも国津神は降伏せず、地の利を生かして各地の高い山低い山に立て篭もって抵抗し始めた。高天原は手を焼いた。 高天原軍は遂に軍事による徹底殲滅方針をあきらめ、武装解除し恭順するならば反逆した過去の罪を問わず制裁処罰しないこと、過去を祓い給い清め給いきれいさっぱり清算して公平な人材登用を進め、共に和して新日本を創建することを明らかにした。反逆徒が立て篭もる各地のアジトへ使者を送り、出向いて告げた。 これにより、或る神達は豊葦原の瑞穂の国から立ち去り大航海に出向いた。或る神達は投降し始めた。豊葦原の瑞穂の国は溶解状態に陥り、投降相次ぐ事態となった。豊葦原の瑞穂の国の皇統を為す根の国、底の国の代表が高天原軍と協議を行い、制裁処罰されず公平な人材登用を行うなことを条件に帰服した。これが、高天原と豊葦原の瑞穂の国の合意となって、その後の日本が開かれた。 祝詞(のりと)は、この経緯を確認するために遺す奏上文である。この国の成り立ちに於ける「抵抗の罪を問わず、過去を洗い流し、祓い給い、清め給い、天津神と国津神の八百万の神々が相和して新日本を創ることを申し合わせて、国が開かれた」と云う史実の重みを子々孫々に伝える為のものである。 |
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【大祓詞(おおはらへの言葉)考】
以上、「大祓詞(おおはらへの言葉)」をれんだいこ式に解読した。既成の下手にして拙い解読よりよほど値打ちがあるだろうと自負する。れんだいこが、「大祓詞(おおはらへの言葉)」に注目するのは、そこに大和王朝創建時の歩みと確認事項、国づくりの理念及び精神が格調高く濃密に詠われていることを認めるからである。事実、「大祓詞(おおはらへの言葉)」は、永らく日本政治の原理として踏襲伝統とされてきた。今この価値が忘れられようとしている。 他方で思うのは、パレスチナに於けるイスラエルの飽くことなき徹底殲滅思想である。これを思えば、「大祓詞(おおはらへの言葉)」の価値が際立つ。そういうメンタリティーから急きょ、「大祓詞(おおはらへの言葉)」を解読することになった。現代は、イスラエル軍の徹底殲滅思想とハーモニーするような政治、経済、文化、学問が幅を利かせている。が、れんだいこは、これらを推進する国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの頭脳は案外賢くないのではなかろうかと思っている。もっと云えば、中身が空疎な狂人思想ではなかろうかと思っている。 そういうものなら我らが学ぶに値せずである。そうとならば、我々の政治、経済、文化、学問システムを我らなりに再度創出せねばならないのではなかろうか。既成のインテリはここが分かっておらず、今もひたすらネオ・シオニズムイデオロギーの捕囚に甘んじ、これを良しとしている。ウヨサヨはとてつもない腐敗した知性の汚濁のなかに在る。共に著作権狂いしているが、定向進化の法理によりもっと狂って盛んに小難しい社会へと誘い、終いには自分で自分の首を絞めて恍惚するところまで向かうであろう。 そんなこんなを確認するための「大祓いの祝詞考」となった。 「大祓いのりと考」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/nihonshindoco/noritoco/no ritoco.htm) 2009.3.4日 れんだいこ拝 |
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【「大祓詞(おおはらへののりと)」れんだいこ解析】 | |||
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【祝詞の言葉の意味考】 | |
「ウィキペディア祝詞」は、次のように記している。
以上を一般的知識として、更に考究すると、定式化されている「祓詞(はらへの言葉)」、「大祓詞(おおはらへの言葉)」は正しくは「天津系の」と理解されるべきではなかろうか。しかも、原文が別に存在し、現行文は原文の生々しい表記を改竄していると認めるべきではなかろうか。その根拠として、「別文六月晦大祓祝詞(みなづきつごもりのおおはらえののりと」(出典:延喜式卷八「祝詞」)があり、内容を読むに、こちらの方が原文に近いと思われるからである。 その違いは、天津神の罪、国津神の罪を列挙している下りが顕著で、通説「天津系大祓詞(おおはらへの言葉)」では削除されている。れんだいこは、徒に原文改訂は良くないと考え復活させることにした。両者の罪の違いが却って興味深い。更に、後半の下りでも記述が違う。れんだいこは、別文の方を採った。別文では末尾に「四国(よくに)の卜部」が登場している。これをどう読み解くべきか。何か重要なヒントが隠されているように思われる。 そういう訳で、「れんだいこ文・天津系祓詞(はらへの言葉)」として定式化させる。天津系としたのは、出雲系の天津系祓詞(はらへの言葉)が別に存在すると考えるからである。但し、こちらは秘されていると思われその限りで不明である。出雲国造奏上文があるが、それは出雲系の天津系祓詞(はらへの言葉)とは又別文であろう。 |
【祝詞の内容考】 |
大祓詞(おおはらえのことば)は、遠く平安の更なる昔から、毎年6月30日と12月31日の夕刻、宮中をはじめ、全国の神社でおこなわれる神道祭祀行事の大祓式の際に唱えられるお祓い祝詞中の最重要な祝詞である。送り仮名として使われている漢字は万葉仮名で、約900字の漢字で成り立っている。祓物(はらえつもの)を出して、祓戸の神の神威によって罪穢を解除(げじょ)する儀式であり、半年毎に恒例のものとしておこなわれるので「二季の祓」と称する。「中臣祓詞」(なかとみのはらえことば)、略して「中臣祓」、「中臣祭文」(なかとみさいもん)とも云う。 |
【「大祓詞(おおはらへののりと)」に登場する女神考】 | ||||||||||
先に「留意すべきは、記紀神話とは別の神姫を登場させていることである。恐らく、「大祓詞」の方が正しく伝えているのではなかろうかと思われる。これについては別稿で論じたいと思う」と記した。これを確認する。「大祓詞」後段に登場する、せおりつひめ(瀬織津比売)神、はやあきつひめ(速開都比売)神、いぶきどぬし(氣吹戸主)神、はやさすらひめ(速佐須良比売)神について確認しておく。 れんだいこ史観「原日本新日本論」によれば、これらの神は原日本(葦原中国)系の神で、氣吹戸主以外は共に女神である。この四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と云うこともある。「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が次のように記されている。但し、はやあきつひめ(速開都比売)を除いて記紀には登場しない。記紀のどの神に対応するかについて考究され諸説あるようであるが、れんだいこ史観によると、「記紀のどの神に対応するか」は無駄な営為である。むしろ、原日本系の史書であるホツマ伝えを紐解き、どのように記されているかで窺うべきであろう。これを一言しておく。 なお、祓戸四神登場の前に「高山の末 短山の末より さくなだりに おちたぎつ」とある。これは、せおりつひめ(瀬織津比売)神の修辞とも読めるが、さくなだりひめ(佐久那太理姫)を暗喩しているとも読める。さくなだりひめ(佐久那太理姫)も記紀には出てこないが、ホツマ伝えに登場している姫神と記憶する。これについては確認を急ぎたい。仮にさくなだりひめ(佐久那太理姫)の暗喩とすれば、さくなだりひめ(佐久那太理姫)の「おちたぎつ」後に云々と云う流れが見えてくることになる。
原日本と新日本系が最終的な歴史的和解に当たって、これら祓戸五神( 2014.4.5日 れんだいこ拝 |
【大祓詞(おおはらえののりと)の成立時期考】 |
大祓詞(おおはらえのことば)は、元々は毎年6月と12月の末日に行われる大祓で、大和王朝創建時の国是を確認し、その時に定式化された罪・穢れを祓うための儀式に添えられる祝詞であったと思われる。中臣氏が京の朱雀門で奏上していたことから中臣祓の称がある。 その成立時期について、賀茂真淵は天智・天武朝説を唱え、本居宣長は文武天皇朝説を唱えている。が、いずれの説もその原典になる文章がそれ以前の時代には存在したとしている。690年頃、柿本人麻呂による修辞によって今日見られるような美文となったと伝えられている。701(大宝元)年、大宝律令の神祗会に「凡そ六月(みなつき)、十二月晦日(しはすつもごり)の大祓は東西(大和、河内)の文部祓刀を上(たてまつ)り、祓詞を読む。百官男女を祓所に聚集し、中臣祓詞を宜り、卜部解除(うらべはらへ)を為す」と記されている。907(延喜格)年、「御麻(みあさ)、荒世(あらよ)、和世(にごよ)、壷(つぼ)等の御贖(みあが)の儀式が行われ、その時、宜陽殿の南頭に於いて奏せられる」とある。この時の宣命が大祓祝詞であると云われている。 大祓詞(おおはらえのことば)は現在でも唱えられている。神社本庁のほか各種の教派神道、神道系新宗教の一部でも使われている。が、延喜式記載のものから内容に改変が加えられており、教団によっても多少の差異がある。 |
「大祓詞(中臣祓詞)」その他を参照する。 古来、大祓は通常六、十二月晦に執行されていた。而し伊勢神宮の古傳には、古い穢れを祓い、新しい気持ちになるために二、五、六、十、十一、十二月に行われていたとの記載がある。延喜式の神祇の規程を見ると、大きな祭りは六月及び十二月に集中している。その昔は朱雀門前に於いて、六月と十二月の晦に中臣氏が大祓の詞を読み、忌部氏がお祓いをしていた。その頃は大祓を「中臣祭文」と称していた。大祓が皆に申し上げる形態になっているのに比して、「中臣祭文」は神に対して申し上げる形式を採っている。このような年に二回の大祓の執行を現在のように神拝の都度唱えられるように変遷して来たのは平安末期だと云われてる。中臣祭文は時期等の記載がなくなり、何時でも誰でも唱えてもいいと云う形に改められることになった。 |
【祝詞の史書としての登場考】 |
祝詞と名づけられた文章のもっとも古い例は、『延喜式』巻八に収録する29篇と藤原頼長『台記』別記所収「中臣寿詞」の計30篇である。以上はすくなくとも奈良時代以前にまで遡りうる貴重な文献であり、古代の祝詞の姿を現在に伝える重要な資料である。延喜式所収の29篇の祝詞は以下のものである。
このうち1~7は各神社の祭礼ごとの祝詞、8~15は宮中祭祀にかかわる祝詞、16は伊勢神宮にかかわる祝詞、17~20は補遺である。以上のうちに特徴的なのは「~と申す(白す)」と結ぶ奏上体が大半を占めるのに対して祈年祭、六月月次祭(大祓)、大嘗祭・神嘗祭においては「~と宣る(宣ふ)」とする宣命体がとられていることでこれらの祭儀が発生や形式においてそのほかの祭儀と性格を別にしていたことを思わせるものである。 その目的によって様々な種類があり、現在でも大和言葉が用いられている。基本的に祝詞は祭儀の度に作文するが、決まった祭儀(初宮詣、結婚式など)では同じ祝詞を用いることが多い。また、祭儀の前に行う修祓での「祓詞」(はらえことば)や大祓での「大祓詞」(おおはらえことば)も言葉が決まっている。 |
(私論.私見)