「五箇条の御誓文」考

 更新日/2016.10.22日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「五箇条の御誓文」を確認しておく。

 2010.03.07日 れんだいこ拝


 れんだいこのカンテラ時評№1292  投稿者:れんだいこ  投稿日:2016年10月29日
 れんだいこの「五箇条の御誓文」考

 れんだいこの久しぶりのブログ「土人、シナ人発言問題」の書き込み途中で気になった「五箇条の御誓文」につき言及しておく。日本国体の近現代史的霊言が「五箇条の御誓文」であり、日本人自らの手になるオリジナルアイデンティティー短文憲法として位置づけられると思う。

 ちなみに、我が史観によれば、明治憲法には国際ユダ邪の右派系の色が認められ、戦後憲法には国際ユダ邪の左派系の色が認められる。但し、戦後憲法には縄文日本的叡智も相当に含意されているので、その限りでの評価を惜しむものではない。本来、我々が依拠すべきはものは我が国固有の知性で宣言された「大払いののりと」、「聖徳太子の17条憲法」、「豊臣-徳川政権のバテレン追放令、鎖国令」、そしてこの「五箇条の御誓文」であろう。

 日本史は歴史上の最重大な節目にまことに的確な歴史言葉を生み出し、これを伝えて行く知恵がある。こちらの方を習えばよほど有益で、それから次にあれ、次にそれと云うようにして行くのが望ましいのだが、実際にはこういう大事なものを学ばず、やっちもないものばかり習うので、学問すればするほど小難しく云う癖だけ覚え実際には役立たない偏屈行き止まり人間が増産されている。これが意図的故意に仕掛けられているので心せよ。こう説くのがれんだいこ史観である。さて本題に入る。

  1868(慶応4、明治元)年、3.14日、新政府は政治方針として「五箇条の御誓文」を公布した。明治天皇が、天神地祇御誓祭を催し、京都御所紫宸殿に公卿、諸侯以下百官を集め、天地の神々に誓うという形式で維新の基本方針を明らかにした。内容は次の通りである。


 一ッ、広く会議を興し、万機公論に決すべし

 一ッ、上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし

 一ッ、官武一途庶民に至るまで各その志を遂げ、人心をして倦まざらしめん
       ことを要す

 一ッ、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし

 一ッ、知識を世界に求め、大いに皇紀を振起すべし

   我が国未曾有の変革を為さんとし、朕身を以って衆に先んじ、天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの趣旨に基づき協心努力せよ

 実際の朗読は三條実美が行い、神前に向かって奉読した。三条実美が御誓文を読み上げる光景を日本画家の乾南陽が描き、昭和3年に旧土佐藩主の山内家が明治神宮に奉納している。これが明治神宮外苑聖徳記念絵画館で展示されている。その内容を確認しておく。

  御誓文1「広く会議を興し、万機公論に決すべし」。前段の「広く会議を興し」が議会、国会設置に繋がっていると拝察したい。後段で「万機公論に決すべし」とある。要するに正々堂々と議論せよと云うことであろう。これに照らせば、議会での「おざなりのダベリング」、「常習的強行採決」は御誓文違背の嘆かわしい事態であり空洞化であろう。

 ところで折柄のTPPを見よ。審議そのものが秘密交渉、文書は黒塗り尽くめである。おまけに交渉内容を漏洩したる者が罰せられる仕掛けになっている。果たして、このような審議、法案が認められるべきだろうか。これを牛耳るのが世界を跨ぐ国際ユダ邪である。この連中のやることはかような卑怯姑息陰謀マルチ舌の悪事ばかりである。さようなものは資格からして端から無効と宣言したい。よりによって、このTPP推進派が原発派でもある。この連中は国際ユダ邪の対日教書の政策請負に専念し、その売国見返りに己の立身出世利権を得て偉ぶる連中である。早晩歴史処罰されるべきだろう。

  御誓文2「上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし」。前段の「上下心を一にして」とは即ち上に立つ者も下に立つ者も公ごとに対しては相協力することを云う。この公意識の高さは世界史上珍しいほどのものであり称賛されこそすれ卑下されるものではなかろう。後段の「さかんに経綸を行うべし」の「経綸」とは「生活意欲及び経済活動」を指しており、これを活発にせよとの意味になる。言わずもがなであるが上下の経綸であって、上の者が地位と権限を利用して私腹を肥やして良いことを意味しない。

  御誓文3「官武一途庶民に至るまで各その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す」。これもズバリであろう。前段の意味から、「官武一途庶民に至るまで」各自が夢と志が持てる社会であることを要請している。これは、角栄政治の頃までの1970年代には確かにあった夢であり志であり社会であった。後段の「人心をして倦まざらしめん」とは政治の信問題であり、人民がうんざりするような政治を堅く戒めていると拝すべきであろう。

  御誓文4「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし」。ここはやや問題のある内容である。前段の「旧来の陋習を破り」の「旧来の陋習」が何を指しているのか。後段の「天地の公道に基づくべし」も然りで、何をもって「天地の公道」としているのか定かではない。御誓文発布前の国体状況は、文明開化の名の下で国際ユダ邪狡知学が導入される折柄であった。これに転換せよとの意味に取れる。ところが、当時は仮にそう思えたにせよ、今日に於いては国際ユダ邪学のデタラメぶり、破綻が明白である。故に、御誓文4は言葉通りに「天地の公道に基づくべし」を核として拝し直しするべきであろう。

  御誓文5「知識を世界に求め、大いに皇紀を振起すべし」。ここも少々議論を呼ぶ。前段の「知識を世界に求め」は、この文言で国際ユダ邪学に誘導しようとしている。後段の「大いに皇紀を振起すべし」は、天皇制の鼓舞である。ここでの問題は、結果的に本来の天皇制の鼓舞ではなく、国際ユダ邪が利用し易いような方向への天皇制の鼓舞となったところにある。本来の天皇制は、善政志向の、日本神道精神に導かれて言霊的祈り、念の力をも取り入れる独特の日本式国体政治手法として評価されるべきものである。戦後憲法では象徴天皇制、文化概念天皇制的に規定されたが、これは本来の天皇制に近いものである。但し、天皇の国事行為をもう少し狭めることが必要だろう。

  一言しておけば、文明開化路線に乗って導入されたマルクス主義は、日本式天皇制を西欧的な君主制と同視し、その打倒意志を強めれば強めるほど正義的革命的として来た。それは誤りと認めるべきではなかろうか。明治天皇、昭和天皇の好戦政策は、国際ユダ邪に手玉に取られて乗せられたものであって、日本天皇制史上の汚点と見なすべきで天皇制固有のものではない。かく了解すべきだろう。この謂いが不満なら検証すればよかろう。論争しても良い。

  以上、ざっと「五箇条の御誓文」を確認したが、これが、鎖国から開国への大転換を計った際に、日本国体が統治者に対し言い聞かせ約束させたものである。幕末維新時の国体頭脳は、世界史的潮流からして国際ユダ邪との接触交流が免れないことを覚悟し、日本国体に対し、これだけはどうしても守らせたいとして煮詰めた文言を創出した。それが簡にして要を得た「五箇条の御誓文」である。かく拝する必要があろう。その違背は許されないとすべきだろう。

【「五箇条の御誓文」考】
 1868(慶応4、明治元)年、3.14日、新政府は政治方針として「五箇条の御誓文」((ごかじょうのごせいもん)を公布した。明治天皇は京都御所紫宸殿に公卿・諸侯以下百官を集め、天地の神々に誓うという形式で維新の基本方針を明らかにした。実際の朗読は三條実美が行い、神前に奉読し、天皇自らが国難の先頭に立ち伝統あるこの国を護り、世界各国との親交を深めつつ国の隆昌を願った。これにより、天皇を最高権威とする太政官制が敷かれることになった。

 「五箇条の御誓文」の内容は次の通り。

 「我が国未曾有の変革を為さんとし、朕身を以って衆に先んじ、天地神明に誓う」。
一ッ  広く会議を興し、万機公論に決すべし
一ッ  上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし
一ッ  官武一途庶民に至るまで各その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す
一ッ  旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし
一ッ  知識を世界に求め、大いに皇紀を振起すべし

 御誓文は、坂本竜馬の「船中八策」、ないしは「新政府綱領八策」を基にしていることが分かる。なお、坂本が前述の文を著述したとされるのは、坂本が福井藩を訪問し、由利公正と歓談・意見交換をした後のことである。御誓文は、以後明治維新の指導精神として、近代国家建設のさまざまな施策に受け継がれていくことになる。明治8年4月14日の「立憲政体の詔書」、明治14年10月12日の「国会開設の勅諭」、明治22年2月11日の「告文」、「憲法発布勅語」、「大日本帝国憲法」は、この五箇条の御誓文に基づくとされ、憲法類の筆頭規範の地位にあった。

 1946.1.1日、昭和天皇は敗戦の翌年の元日、「新日本建設ニ関スル詔書」において、五箇條の御誓文を引用され次のように述べている。
 「叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス」、「国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」。
 御誓文の精神に立ち返り国づくりに努めるご決意されている。
(私論.私見) 「五箇条の御誓文」考
 爾来、「五箇条の御誓文」は、右翼イデオロギーの精華と看做され続けている。れんだいこはそうは思わない。「五箇条の御誓文」が示した5道は、左派右派イデオロギーに馴染まない政道の在り方として至極真っ当なものである。れんだいこから見て、在地型社会主義運動が規範にすべき政道である。5つ目の末尾「大いに皇紀を振起すべし」が若干問題となるが、戦後の象徴天皇制的秩序で捉えるならば、目くじらするほどのものではない。ネオシオニズム派のワンワールド的世界支配政策が貫徹されようとしていた当時にあっては、在地主義的橋頭堡ともなるべき意義を持っており、批判されるべきではないと考える。この辺りも、れんだいこ史観と俗流マルクス主義派のそれとは大いに齟齬する。

 2006.10.3日 れんだいこ拝

【「ウィキペディア五箇条の御誓文」】
 「ウィキペディア五箇条の御誓文」を転載しておく。
 五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)は、慶応4年3月14日(1868年4月6日)に明治天皇が天地神明に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針である。正式名称は御誓文であり、以下においては御誓文と表記する。
 沿革
 起草の過程

 明治新政府は大政奉還後の発足当初から「公議」を標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。慶応4年1月、福井藩出身の参与由利公正が、「議事之体大意」五箇条を起案し、次いで土佐藩出身の制度取調参与福岡孝弟が修正し、そのまま放置されていた。それを同年3月に入って長州藩出身の参与木戸孝允が加筆し、同じく参与の東久世通禧を通じて議定兼副総裁の岩倉具視に提出した。

 福岡孝弟は、由利五箇条に対して第1条冒頭に「列矦會議ヲ興シ」(列侯会議ヲ興シ)の字句を入れるなどして封建的な方向へ後退させ、表題も「会盟」に改めたため、列侯会盟の色彩が非常に強くなった。さらに福岡は発表の形式として天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案した。しかし、この「会盟」形式は、天皇と諸侯とを対等に扱うものであり、「諸事神武創業之始ニ原キ」とする王政復古の理念にも反するという批判にさらされた。そこで、参与で総裁局顧問の木戸孝允は、天皇が天神地祇(てんじんちぎ)を祀り、神前で公卿・諸侯を率いて共に誓いの文言を述べ、かつ、その場に伺候する全員が署名するという形式を提案し、これが採用されることとなった。その際、木戸は、(1)福岡案第一条の「列侯会議ヲ興シ」を「廣ク會議ヲ興シ」(広ク会議ヲ興シ)に改め、(2)「徴士」の任用期間を制限していた福岡案第五条を削除して、(3)木戸最終案第四条「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」を新たに組み込み、五箇条の順序を体裁良く整え直すなど、大幅に変更を加え、より普遍的な内容にした。また、議定兼副総裁の三条実美も福岡案表題の「会盟」を「誓」に修正したため、木戸による五箇条が「誓文」、「御誓文」、「五箇条誓文」、「五箇条の御誓文」と呼ばれるようになった。この木戸五箇条が、天下に布告すべき日本国の国是として明治天皇の裁可を受け、慶応4年3月14日(1868年4月6日)、朝廷の偉大さを天下に確定させんとする木戸の狙い通り、誓約された。木戸は後日その意図について、「天下の侯伯と誓い、億兆の向ふ所を知らしめ、藩主をして其責に任ぜんと欲し」たと述べている。

 儀式と布告

 御誓文は、明治天皇の勅命によって、儀式前日に天皇の書道指南役であった有栖川宮幟仁親王の手で正本が揮毫された。翌日、京都御所の正殿である紫宸殿にしつらえられた祭壇の前で、「天神地祇御誓祭」と称する儀式が執り行われた。御誓文の内容は、三条実美が神前で読み上げる形式で示された。なお、儀式の前には、天皇の書簡である御宸翰(明治維新の御宸翰)が披瀝されている。

 儀式の式次第は以下の通り。まず、同日正午、京都に所在する公卿・諸侯・徴士ら群臣が着座。神祇事務局が塩水行事、散米行事、神おろし神歌、献供の儀式を行った後、天皇が出御。議定兼副総裁の三条実美が天皇に代わって神前で御祭文を奉読。天皇みずから幣帛の玉串を捧げて神拝して再び着座。三条が再び神前で御誓文を奉読し、続いて勅語を読み上げた。その後、公卿・諸侯が一人ずつ神位と玉座に拝礼し、奉答書に署名した。その途中で天皇は退出。最後に神祇事務局が神あげ神歌の儀式を行い群臣が退出した。

 御誓文は太政官日誌(官報の前身)をもって一般に布告された。太政官日誌には「御誓文之御写」が勅語と奉答書とともに掲載されたほか、その前後には天神地祇御誓祭の式次第と御祭文や御宸翰が掲載された。当時の太政官日誌は都市の書店で一般に販売されていたが、各農村にまで配布されておらず、一般国民に対しては、キリスト教の禁止など幕府の旧来の政策を暫定処置として踏襲する五榜の掲示が出された。

 政体書体制での御誓文

 慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)に明治新政府の政治体制を定めた政体書は、冒頭で「大いに斯国是を定め制度規律を建てるは御誓文を以て目的とす」と掲げ、続いて御誓文の五箇条全文を引用した。政体書は、アメリカ合衆国憲法の影響を受けたものであり、三権分立や官職の互選、藩代表議会の設置などが定められ、また、地方行政は「御誓文を体すべし」とされた。このほか、同布告では、諸藩に対して御誓文の趣旨に沿って人材抜擢などの改革を進めることを命じている。

 また、各地の人民に対して出された告諭書にも御誓文を部分的に引用する例がある。例えば、同年8月7日(1868年9月22日)の「奥羽処分ノ詔」は御誓文第一条を元に「広く会議を興し万機公論に決するは素より天下の事一人の私する所にあらざればなり」と述べ、同年10月の「京都府下人民告諭大意」は御誓文第三条を元に「上下心を一にし、末々に至るまで各其志を遂げさせ」と述べている。

 御誓文の復活

 その後、政体書体制がなし崩しになり、さらには明治4年(1871年)の廃藩置県により中央集権が確立するに至り、御誓文の存在意義が薄れかけた。明治5年(1872年)4月1日、岩倉使節団がワシントン滞在中、御誓文の話題になった時、木戸孝允は「なるほど左様なことがあった。その御誓文を今覚えておるか」と言い、その存在を忘れていた模様である。この時、御誓文の写しを貰った木戸孝允は翌日には「かの御誓文は昨夜反復熟読したが、実によくできておる。この御主意は決して改変してはならぬ。自分の目の黒い間は死を賭しても支持する」と語った。明治8年(1875年)、木戸孝允の主導により出された立憲政体の詔書で「誓文の意を拡充して…漸次に国家立憲の政体を立て」と宣言。立憲政治の実現に向けての出発点として御誓文を位置付けた。

 自由民権運動と御誓文

 土佐藩出身の板垣退助の主導する自由民権運動が高まる中、御誓文は立憲政治の実現を公約したものとして板垣らに解釈されるようになった。特に第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」は、当初は民選議会を意図したものではなかったが、後に民選議会を開設すべき根拠とされた。例えば、明治13年(1880年)4月に植木枝盛が起草し片岡健吉・河野広中らが提出した「国会を開設するの允可を上願する書」が著名である。明治憲法制定により帝国議会が開設されるまでの間、自由民権派は御誓文の実現を求めて政府に対する批判を繰り返した。

 戦後の御誓文  

 戦後、昭和21年(1946年)1月1日の昭和天皇の、いわゆる人間宣言において御誓文の全文が引用されている。昭和天皇は幣原喜重郎首相がGHQに主導されて作成した草案を初めて見た際に、「これで結構だが、これまでも皇室が決して独裁的なものでなかったことを示すために、明治天皇の五箇条の御誓文を加えることはできないだろうか」と述べ、GHQの許可を得て急遽加えられることになった。天皇は後に、「それが実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。(中略)民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発して、それが基となって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入物ではないということを示す必要が大いにあったと思います」 (昭和52年(1977年)8月23日記者会見)と語っている。

 昭和21年(1946年)6月25日、衆議院本会議における日本国憲法案の審議の初め、当時の吉田茂首相は御誓文に言及して、「日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史・日本の国情をただ文字に表しただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」と答弁した。このように敗戦後の初期には支配層は五箇条の御誓文は民主主義の原理であると主張した。

 内容

 正式な表題は、法令全書によると、「御誓文」である。明治天皇自身がこれを呼ぶときは単に「誓文」という。「五箇条の御誓文」などの呼称は後の時代の通称である。御誓文の本体は、明治天皇が天神地祇に誓った五つの条文からなる。この他、御誓文には勅語と奉答書が付属している。御誓文の各条および勅語・奉答書について解説すると次の通り。

広ク会議ヲ興シ 万機公論ニ決スベシ
(現代表記)広く会議を興し、万機公論に決すべし。
(由利案第五条)万機公論に決し私に論ずるなかれ
(福岡案第一条)列侯会議を興し万機公論に決すべし
 この条文は、由利案では第5条であったが、福岡によって第1条に移された。その理由は「諸侯会議を以て第一着の事業と考え」たためと福岡自身が回顧している。(福岡孝弟『五箇条御誓文と政体書の由来に就いて』大正8年(1919年)による。以下、福岡の回顧は特に断らない限りこれによる)

 前段の「広く会議を興し」については、由利案には「会議」に相当する語はなく、福岡の修正案で「列侯会議」の語があらわれ、これが最終段階で「広く会議」と修正された。福岡は後年「この時平民までも此議会に与らしめる御つもりであったか」と問われ、「それは後から考えればそうも解釈されるが、御恥ずかしい話ですが当時私はまだその考えはなかったです」、「広くとは人々の意見を広く集めて会議するというのではなく府藩県にわたりて広く何処にも会議を興すという義です」と答えた。しかしながら、ここを「列侯会議」に限定せずに漠然と「広く会議」に改めたことは、後に起草者たちの意図を離れ、民権論者によって民選議会を開設すべき根拠として拡張解釈されるようになった。また明治政府自身もそのように解釈するようになった。

 後段の「万機」は「あらゆる重要事項」の意味。「公論」は公議と同義、または公議輿論の略語であり、「みんなの意見」または「公開された議論」といったような意味である。「万機公論に決すべし」の語句は、由利と親交のあった坂本龍馬の船中八策(慶応三年六月)に「万機宜しく公議に決すへし」とあり、ここから採られたものとみられる。由利の草稿では、初めは「万機公議」と書き、後で「万機公論」と改めている。

上下心ヲ一ニシテ 盛ニ経綸ヲ行フヘシ
(現代表記)上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。
(由利案第二条)士民心を一にし盛に経綸を行ふを要す
(福岡案第三条)上下心を一にし盛に経綸を行ふべし
 冒頭の「上下」は、由利案では「士民」だったが、福岡の回顧によれば「一層意味を広くするために士民を上下に改めた」という。「心を一にして」は日本国民の団結を表現する当時の決まり文句であり、江戸期の水戸学者の著作から後の教育勅語に至るまで広く使われている。

 後段の「経綸」の語の解釈には注意が必要である。由利の出身藩である越前藩のために横井小楠が著した「国是三論」において「一国上の経綸」という章があり、そこでは主に財政経済について論じられていることから、その影響を受けた由利は経綸の語を専ら経済の意味で用いていた。従って、この条文のいう「盛に経綸を行う」とは由利にとっては「経済を振興する」という意味であったと思われる。もっとも、当時、経綸の語は一般に馴染みのある語ではなく、江戸版の太政官日誌では経綸を経論と誤記しケイロンとルビを振っていた。福岡は後に回顧して「由利が盛に経綸経綸という文句を口癖のごとく振りまわしていた所であったからそのままにして置いたのである。経綸という字の意味は元は経済とか財政とかを意味していたようであるが、これは説く人々の解釈に任してよいのである」と述べている。一般的には、経綸の語は、経済政策に限らず国家の政策全般を意味するものとして理解されることが多い。

官武一途庶民ニ至ル迄 各其志ヲ遂ケ 人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
(現代表記)官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
(由利案第一条)庶民志を遂げ人心をして倦まざらしむるを欲す
(福岡案第二条)官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしむるを要す
 由利案ではこの条文は第一条に置かれ最重視されていた。由利は後の著書「英雄観」で「庶民をして各志を遂げ人心をして倦まざらしむべしとは、治国の要道であって、古今東西の善政は悉くこの一言に帰着するのである。みよ、立憲政じゃというても、あるいは名君の仁政じゃといっても、要はこれに他ならぬのである」と述べている。

 冒頭の「官武一途」の語は福岡孝弟の修正案で追加されたものであり、「官」とは太政官すなわち中央政府、「武」とは武家すなわち地方の諸侯、「一途」は一体を意味する。これは福岡の回顧では「官武一途即ち朝廷と諸侯が一体となって天下の政治を行う」意味としている。この条文は、もともとの由利の意図では庶民の社会生活の充足をうたったものであったが、福岡が政治の意味を込めて「官武一途」の語を挿入したため、条文の主旨が不明瞭になったことが指摘されている(稲田正次)。

旧来ノ陋習ヲ破リ 天地ノ公道ニ基クヘシ
(現代表記)旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。
(木戸当初案)旧来の陋習を破り宇内の通義に従ふへし
 この条文は由利案や福岡案では存在せず、木戸の修正により登場した。木戸当初案の「宇内(うだい)」は「天下」「世界」の別表現である。「通義(つうぎ)」は「広く一般に通用する道理」という意味である。(いずれも三省堂『大辞林』第三版)

 この条文を、戦前の研究者尾佐竹猛は、「旧来の陋習」は鎖国攘夷を指し、「天地の公道」は万国公法すなわち国際法の意味であり、この条文は開国の方針を規定したものとして狭く解釈していた。

 しかし、これに対し、稲田正次・松尾正人・佐々木克たちは、「天地の公道」は開国の方針や国際法を示すことだけではなかったと明確に説明している。その理由として、御誓文と同時に出された宸翰に出てくる「旧来の陋習」の語がそもそも鎖国攘夷の意味に限定されていないこと、また木戸孝允自身が「打破すべき封建性」、「打破すべき閉鎖性」の意味で「旧習」、「旧来の陋習」、「陋習」という言葉を広く使用していること、又、大久保利通でさえ木戸の「旧来の陋習」と同じ意味のことを「因循の腐臭」とより痛烈に批判していること、つまり、薩長いずれも密留学をさせ倒幕に立ち上がった開明的雄藩であったにもかかわらず長州の木戸より薩摩の大久保のほうが藩主父子・出身藩の内部事情などのためにより批判的にならざるを得ない危険な封建性・閉鎖性をより自覚していたということ(寺田屋事件~西南戦争)、更に、岩倉具視も他の文書で「天地の公道」という全く同じ言葉を万国公法とはおよそ次元の異なる「天然自然の条理というような意味」で用いていることなどが挙げられている。総じて、「天地の公道」(木戸当初案では「宇内の通義」)とは、普遍的な宇宙の摂理に基づく人の道を指しているものと解される。

智識ヲ世界ニ求メ 大ニ皇基ヲ振起スヘシ
(現代表記)智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
(由利案第三条)智識を世界に求め広く皇基を振起すへし
(福岡案第四条)智識を世界に求め大に皇基を振起すべし
 前段の「智識を世界に求め」については、前述の横井小楠「国是三論」に「智識を世界万国に取て」とあり、ここから採られたものとみられる。後段の「皇基」とは「天皇が国を治める基礎」というような意味である。

 福岡はこの条文を「従来の鎖国的陋習を打破して広く世界の長を採り之を集めて大成するの趣旨である」と回顧している。

 勅語
 「我國未曾有ノ變革ヲ爲ントシ朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ  年號月日 御諱」
 (現代表記)我が国未曾有の変革を為んとし、朕、躬を以て衆に先んじ天地神明に誓い、大にこの国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの旨趣に基き協心努力せよ。年号月日 御諱(おんいみな)
 (意味)我が国は未曾有の変革を為そうとし、わたくし(天皇)が自ら臣民に率先して天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民を保全する道を立てようとする。臣民もまたこの趣旨に基づき心を合わせて努力せよ。
 (解説)この勅語は、明治天皇が神前で五箇条を誓った後、群臣に向けて下した言葉である。なお、明治天皇の言葉といっても、天皇自身が声に出した言葉ではなく、実際には三条実美が読み上げている。 

 勅語中「年号月日」とある箇所は、実際の日付が記されている。「御諱」とは実名であり、ここには明治天皇の実名(睦仁)が記されている。

 奉答書(太政官日誌掲載)
 「」
(現代表記)勅意宏遠、誠に以て感銘に堪えず。今日の急務、永世の基礎、この他に出べからず。臣等謹んで叡旨を奉戴し死を誓い、黽勉従事、冀くは以て宸襟を安じ奉らん。慶応四年戊辰三月 総裁名印 公卿諸侯各名印
(意味)天皇のご意志は遠大であり、誠に感銘に堪えません。今日の急務と永世の基礎は、これに他なりません。我ら臣下は謹んで天皇の御意向を承り、死を誓い、勤勉に従事し、願わくは天皇を御安心させ申し上げます。
 (解説)

 奉答書は、群臣が天皇の意志に従うことを表明した文書であり、総裁以下の群臣の署名がある。3月14日当日には411名の公卿と諸侯が署名し、残りの者は後日署名した。署名者には公卿と諸侯のほか、同年5月に天皇に直属する朝臣となった旧幕府旗本のうち千石以上の領地を持つ者も加わった。また、戊辰戦争で討伐の対象になった旧幕府方の諸藩も新政府から宥免が認められた後に署名を行っている。最終的には、公卿と諸侯は総計544名、その他288名が署名した。なお、1藩(美作鶴田藩)当主の病気と名代となる世継ぎが幼少でいずれも上京出来ない状態であることを理由に署名の猶予が認められたまま、最終的には廃藩置県のために署名を行わなかった藩がある。また、木戸孝允ら藩士出身の新政府実力者たちの署名はない。

 奉答書の日付が「慶応四年」となっているが、後の明治改元により慶応四年は1月1日に遡って明治元年に改められた(大正以降の改元とは異なるので要注意)。よって正式には「慶応四年」は「明治元年」に読みかえる。

 御誓文は、諸大名や、諸外国を意識してだされたものであり、臣民に対しては、同日に天皇の御名で「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」が告示され「天皇自身が今後善政をしき、大いに国威を輝かすので、臣民も旧来の陋習を捨てよ」と説かれている。

 備考

  • 静岡県立大学国際関係学部助教の平山洋は、五箇条の御誓文と福澤諭吉の『西洋事情』との類似点を指摘している[12]。『西洋事情』(初編、第一)冒頭の小引(序文)の日付は「慶應二年丙寅七月」(慶応2年7月、1866年8月)で、これは由利が御誓文の元を起草する1年半ほど前である。御誓文の各条と類似する文章の対応は、以下の通りである。
    1. 御誓文第一条 - 『西洋事情』(初編、第一)の最初にある英国の政治機構の説明。
    2. 御誓文第二条 - 『西洋事情』(初編、第一)から、「文明政治の六条件」の第五条件である「保任安穏」(ほにんあんのん)。
    3. 御誓文第三条 - 『西洋事情』(初編、第一)から、「文明政治の六条件」の第一条件である「自主任意」。
    4. 御誓文第四条 - 『西洋事情』(初編、第二)に全文掲載されているアメリカ独立宣言の最初。
    5. 御誓文第五条 - 『西洋事情』(初編、第一)から、「文明政治の六条件」の第三条件である「技術文学ヲ励マシテ新発明ノ路ヲ開ク」。
 外部リンク
 明治8年(1875年)の立憲政体の詔書







(私論.私見)