太祝詞考

 更新日/2016.04.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 大祓詞文中、中段の最後に「天つ祝詞(のりと)の祓へ清めの太(ふと)祝詞ごとを宣れ」とあり、「太(ふと)祝詞」が登場する。「太祝詞」が何を指すのかについて未だ定まっていない。ここで、これを解明する。「ウィキペディア大祓詞」、「日本巫女史 第一篇:固有咒法時代の太詔」その他を参照する。

 2010.03.07日 れんだいこ拝


【太祝詞考】

 太詔詞の初見は、日本書紀神代卷の一書の「使天兒屋命掌其解除之太諄詞(フトノリトゴト)而宣之」の記述である。「中臣壽詞」には「此玉櫛を刺立て、夕日より朝日の照る迄、天津祝詞の太詔詞言(フトノリトゴト)を持て宣れ」とある。萬葉集卷十七には、「中臣の太祝詞言ひ祓ひ、贖ふ命も誰が為に汝」とある。

 「日本巫女史 第一篇:固有咒法時代の太詔」によれば、「鎮火祭」に「天下依し奉りし時に、事依し奉りし天津詞太詞事を以て申さん」、「和稻、荒稻に至る迄に、橫山の如置きたらはして、天津祝詞の太祝詞事以て、稱辭竟へ奉らんと申す」、「道饗祭」には「神官、天津祝詞の太祝詞を以て、稱辭竟へ奉ると申す」、「豐受宮神嘗祭」には「天照し坐す皇大神の大前に申し(タテマツ)る、天津祝詞の太祝詞を、神主部・物忌等(モロモロ)聞食せと宣る」の記述があると云う。「鎮火祭」、「道饗祭」が何ものかについての説明がないので分からないが、それぞれ重要な祭儀式であり、その際の詔詞口上として使われていると云うことであろう。

 この太詔詞につき、江戸時代の国学者間で議論されてきた。賀茂真淵は、「祝詞考」で、「或人(中略)、されば茲に天津祝詞と有るは、別に神代より傳はれる言あるならん、と云へるはひが事也」と述べている。本居宣長は、「大祓詞後釈」で、「太祝詞事は、即ち大祓に、中臣の宣此詞を指せる也」と述べている。共に「天津祝詞の太祝詞事」は大祓詞自体のことであるとする説を唱えた。明治になって神社を管轄した内務省はこの説を採用し、神社本庁もその解釈をとっている。

 しかし、平田篤胤は、「太祝詞を天津神・國津神の聞食せは、祓戶神等の受納給ひて罪穢を卻ひ失ひ給ふ。斯在ば其太祝詞は別に在けむを、式には載漏されたる事著明し、若し然らずとせば、太祝詞事()()とは何を宣る事とかせむ」と述べている。「太祝詞事」は神代より伝わる秘伝の祝詞であり秘伝であるが故に延喜式には書かれなかったのだとして、未完の「古史伝」の中で「天照大神から口伝されてきた天津祝詞之太祝詞事という祝詞があり、中臣家にのみ相伝された祝詞」という別存在説を唱えている。

 更に、「天津祝詞考」では、「太詔詞は、皇祖天神の大御口自に御傳へ坐るにて、祓戶神等に祈白す事なるを、神事の多在る中に、禊祓の神事許り重きは無ければ、天津祝詞の中に此太祝詞計り重きは無く、天上にて天兒屋命の宣給へる辭も、其なるべく所思ゆ」と述べている。「その祝詞は伊邪那岐命が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊祓をしたときに発した言葉である」とし、様々な神社や神道流派に伝わる禊祓の祝詞を研究しそれを集成した形で、「天津祝詞の太祝詞事」はこのようなものだというものを示している。篤胤が示した「天津祝詞の太祝詞事」は神社本庁以外の神道の教団の多くで「天津祝詞」として採用されており、大祓詞の前段と後段の間に唱えられるほか、単独で祓詞としても用いられている、とある。(「ウィキペディア大祓詞」参照)

 れんだいこは、両説と違う見解を立てている。「天津祝詞(のりと)の太祝詞事(ふとのりとごと)」を平田説に合わせた場合でも、平田の説く「伊邪那岐命が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊祓をしたときに発した言葉」ではなく、「天孫族が高天原から降臨する際に天照大神が示した絶対指針」と受け取りたい。それは、「何としてでも豊葦原の瑞穂の国を征伐せよ」とのマニュフェスト宣言命令であった。天孫族は、これに基き絶対絶滅戦争に向かったということを裏意味していると解する。

 又は、もっと深い意味があると考えている。「本来の太祝詞事(ふとのりとごと)」とは、高天原系大和王朝以前の旧王朝であった出雲王朝系の「大祓詞」であり、何らかの都合で文面自体を表に出せなくなったと考えている。平田篤胤の「天津祝詞の太祝詞事」を確認せぬまま云うのは気がひけるが、良い線を打ち出しているが高天原系のものではなく出雲系のものだとしたい。かく判じている。以上、二説を主張しておきたい。

 「日本巫女史 第一篇:固有咒法時代の太詔」は「一、命は言靈の神格化」の項で、鈴木重胤の説に触れている。それによれば、鈴木重胤は平田説を一段と發展させ次のように述べているとのことである。(れんだいこ文法による現代文に直す)
 「伯家に伝わりし大祓式に三種の祝詞あるを論拠として、遂に太詔詞は、吐普加身衣身多女(トホカミエミタメ)とて、これは占方に用ふる詞なるが、吐普(遠)遠大(トホ)にて天地の底際(ソコヒ)の內を悉く取統て云うなり。加身()(カミ)にて天上地下に至る迄感通らせる神を申せり。依身()能看(エミ)多女()可給(タメ)と云う事にて、(中略)簡古にして能く六合を網羅(トリスベ)たる神呪にて、中中に人為の能く及ぶところにあらざりけり。(中略)この三種の祝詞を諄返し唱ふる事必ず上世の遺風なるものなり。そは大祓の大祝詞に用いらるに祓給()清給()の語を添て申すを以て(さと)るべきなり云々」。

 即ち、太詔詞=神呪説を述べている。平田の禊祓的神呪説に対し、由来を定かにしていないが古神道的神呪説を唱えているように思える。続いて次のように述べている。興味深いので採り上げておく。(れんだいこ文法による現代文に直す)
 「然らば太詔詞の正体はと云えば、これは永久に判然せぬ物であると答えるのが尤も聡明な樣である。恐らくこの神呪はこれを主掌している中臣家の口伝であったに相違ない故、それが忘られた以上は永久に知ることのできぬものである。然るに、ここに想起されることは、『類聚神祇本源』卷十五(この書については第一篇第二章に略述した)神道玄義篇の左の一節である。
  •  問:開天磐戶之時、有呪文歟如何?答:呪文非一、秘訓唯多。(中略)又云而布瑠部由良由良止布瑠部文、此外呪文依為秘說、不及悉勒。謂天神壽詞天津宮事者、皆天上神呪也。
  •  問:何故以解除詞稱中臣祓哉?天神太祝詞者、祓之外可有別文歟如何?答:以解除詞稱中臣祓者、中臣氏行幸每度奉獻御麻之間有中臣祓之號云云。此外猶在秘說歟。凡謂濫觴,天兒屋命掌神事之宗源云云。奉天神壽詞、天村雲命者捧賢蒼懸木綿、抽精誠祈志地、就中天孫御降臨之時、天祖太神授秘呪於天兒屋命、天兒屋命貽神術於奉仕累葉。(中略)次座()面受秘訓、莫傳外人。由緣異他相承嚴明也。復次天祝太祝詞、是又有多說。此故聖德太子奉詔撰定伊弉諾尊小戶橘之檍原解除、天兒屋命解素戔鳴惡事神呪、皇孫尊降臨驛呪文、倭姬皇女下樋小河大祓、彼此明明也、共可以尋歟。(續續群書類從「神祇部」本。)
 この記事によれば、太詔詞は全く呪文であって、しかもその呪文の幾種類かが悉く太詔詞の名によって伝えられている事が知られるのである。勿論、私とても僧侶の手によって著作されたこの種の文献を、決して無条件で受容れるものではないが、とにかくに祝詞の本質が古く呪文であった事、及びこの書の作られた南北朝頃には、未だ太詔詞なる物が存していた事等を知るには、極めて重要なる暗示を與えるものと考へたので、かくは長長と引用した次第である。殊に注意しなければならぬ事は、この記事によれば、天兒屋命は純然たる公的呪術師であって、神事の宗源とは即ち呪術である事が明確に認識される点である。未だ太詔詞については、記したい事が相当に殘っているのであるが、それでは余りに本書の疇外に出るので省略し、更に太詔戶命の正体について筆路を進めるとする」。

 続いて次のように述べている。
 「伴信友翁は『太詔戶命と申すは、兒屋命を稱へたる一名なるべし。(中略)名に負ふ中臣の祖神に坐し、果た卜事行ふにも、神に向ひて、その占問ふ狀を祝詞する例なるに合はせて、卜庭に祭る時は、太詔戶命と稱へ申せるにぞあるべき』と考証されているが、私に言わせると、これは伴翁の千慮の一失であって、太詔戶命とは即ち太詔詞の言靈を神格化したものと信じたいのである。

 畏友武田祐吉氏の研究によれば、言靈信仰は、自づから言語を人格神として取扱うに至るべき事を想像せしめる。その例として、辭代主神・一言主神の如き、言靈神ではないかと思はれる。辭代主の屢ば託宣するは史伝に見ゆるところであり、一言主も亦『鄉土研究』によれば、良く託宣した事が見えている。善言も一言、(まが)言も一言と神德を伝えたその神が、言靈の神であるべき事は想像せられ易いと有るのは至言であって、私はこれ等の辭代主・一言主に、更に太詔戶命を加えたいと思うのである。伴翁は太詔戶命と共に卜庭の神である櫛真知命は波波加木の神格化であるとまで論究されていながら、何故に太詔戶命の太祝詞の神格化に言及せられなかったのであるか、私にはそれが合点されぬのである。いわゆる智者の一失とはこの事であらう。前に引いた『龜兆傳』の太詔戶命の細註にも『持神女,住天香山也,龜津比女命。今稱天津詔戶太詔戶命也』となりと明記し、兒屋命と別神である事を立証している。太詔戶命は言靈の神格化として考ふべきである」。

 これによれば、太詔詞を一言主の御代の言霊神呪説を唱えているように思える。非常に興味深く、れんだいこの推理にも通じる。

 「日本巫女史 第一篇:固有咒法時代の太詔戶」は「二、命と龜津比女命との關係」の項で、次のように述べている。これも興味深いので採り上げておく。
 「龜津比女命なる神名は、獨り『龜兆傳』の細註に現れただけで、その他の神典古史には全く見えぬ神なる故、その正体を突き止めるに誠に手掛りが少ないのであるが、この細註に神を持つ少女、天ノ香山に住む龜津比女命、今は太詔戶命と称すると有る意味は、既に言靈の太詔詞が神格化されて太詔戶命と成り、これに奉仕していた巫女を龜津比女命と称したのが、更に附會混糅されて龜津比女命は即ち太詔戶命であると考へられる樣に成ったものと信ずるのである。而してかかる例証は原始神道の信仰に於いては屢屢逢著するところであって、少しも不思議とするに足らぬのである。

 旁證としてここに一・二舉げんに、原始神道の立場から云えば、畏くも天照神に奉仕されて最高の女性であって、消して日神その者ではなかったのである。それが神道が固定し、古典が整理され、天照神の御神德が彌が上に向上されて來た結果は、天照神即日神と云う信仰と成ってしまったのである。更に豐受神にしたところが、『丹後國風土記』の逸文を徵證として稽へれば、豐受神は穀神に奉仕した女性であって、これも決して榖神その物ではなかったのである。それが伊勢の度會に遷座し、天照神の御饌神として神德を張る樣に成ったので、遂に豐受神即穀神と迄到達したのである。而してここに併せ記す事は、頗るこの倫を失う嫌いは有るが、古く宮中の酒殿に酒神として祭られた酒見郎子・酒見郎女の二神も、仁德朝の掌酒であって、酒神その者ではなかったのが、後には酒神の如く信仰されたのは、天照神や豐受神と同じ理由──その間に大小と高下との差違は勿論有るが、とにかくにこうした信仰の推移は宗教心理的にも民族心理的にも、良く発見されることなのである。龜津比女と太詔戶命との關係も又それであって、始めは龜津比女は神を持て女として太詔戶命に仕えていたのが、後には太詔戶命その者と成ったのである。こう解釈してこそ両者の関係が会得されるのである。

 龜津比女が巫女であった事は、改めて言うまでもないが、唯問題として殘されている事は、龜津比女の名が總てを語っている樣に、この巫女は鹿卜が龜卜に変わってから太詔戶命に仕へた者か、それとも鹿卜の太古から仕へた者かと云う点である。巫女が鹿卜に與ったと云う事は、他の文獻には見えていぬので、これを考證するに困難を感ずる事ではあるが、姑らく『龜兆傳』の記すところによれば、前揭の如く、『天香山白真名鹿:吾將仕奉。我之肩骨內拔拔出,火成卜以問之』と有るので、巫女は鹿卜時代からこれに交涉を有していた者と見て差支えないようである。後世の記錄ではあるが、『續日本紀寶龜三年十二月の壹岐國の卜部氏の事を記せる條に『壹岐郡人直玉主賣』と有るのは、女性の樣に思われるので參考すべきである」。

 これによれば、太詔詞を出雲―三輪王朝圏に於ける言霊神呪説を唱えているように思える。非常に興味深く、れんだいこの推理にも通じる。

 2010.03.07日 れんだいこ拝
 メールが送信済みトレイに乗らないのでここに記しておく。

 御挨拶と連絡です。

 久遠の絆さまはじめまして。こちら、れんだいこと申します。大祓詞の考察をしていましたら、貴殿のサイトに辿り着きました。「日本巫女史」のサイトで注目すべき記述があり取り込ませていただきました。ご確認の上ご了承賜れば幸いです。御意見ございましたらその旨お伝えください。当方の該当サイトは次の通りです。
 「太祝詞考」(rekishi/kodaishico/nihonshindoco/noritoco/
futonoritoco.html
 
 他にも大変な労究されているようで敬服しております。ゆっくり学ばせて貰おうと思います。取り急ぎの連絡です。
 
 2010.03.07日 れんだいこ拝


 本居宣長「古事記伝」七之巻は次のように記している。
 「凡(すべ)て世間(よのなか)のありさま、代々(よよ)時々に、吉善事(よごと)凶悪事(まがごと)次々に移りもてゆく理(ことわり)は、大きなるも小(ちいさ)きも、悉(ことごと)にこの神代(かみよ)の始めの趣(おもむき)によるものなり」。

 本居宣長はここで、祖法としての「吉事悪事流転の理」を明らかにして「古今万事の道理」であるとしている。

 孝徳天皇(在位645-654年)の詔。
 「惟神(かむながら)も我が子(みこ)治(し)らさむと故(こと)寄させき。是を以って、天地(あめつち)の初めより、君臨(しら)すくになり」。

 これが日本国体論の原型となっている。






(私論.私見)