太祝詞考

 更新日/2016.04.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 大祓詞文中、中段の最後に「天つ祝詞(のりと)の祓へ清めの太(ふと)祝詞ごとを宣れ」とあり、「太(ふと)祝詞」が登場する。「太祝詞」が何を指すのかについて未だ定まっていない。ここで、これを解明する。「ウィキペディア大祓詞」、「日本巫女史 第一篇:固有咒法時代の太詔」その他を参照する。

 2010.03.07日 れんだいこ拝


【太祝詞考】

 太詔詞の初見は、日本書紀神代卷の一書の「使天兒屋命掌其解除之太諄詞(フトノリトゴト)而宣之」の記述である。「中臣壽詞」には「此玉櫛を刺立て、夕日より朝日の照る迄、天津祝詞の太詔詞言(フトノリトゴト)を持て宣れ」とある。萬葉集卷十七には、「中臣の太祝詞言ひ祓ひ、贖ふ命も誰が為に汝」とある。

 「日本巫女史 第一篇:固有咒法時代の太詔」によれば、「鎮火祭」に「天下依し奉りし時に、事依し奉りし天津詞太詞事を以て申さん」、「和稻、荒稻に至る迄に、橫山の如置きたらはして、天津祝詞の太祝詞事以て、稱辭竟へ奉らんと申す」、「道饗祭」には「神官、天津祝詞の太祝詞を以て、稱辭竟へ奉ると申す」、「豐受宮神嘗祭」には「天照し坐す皇大神の大前に申し
(タテマツ)る、天津祝詞の太祝詞を、神主部・物忌等(モロモロ)聞食せと宣る」の記述があると云う。「鎮火祭」、「道饗祭」が何ものかについての説明がないので分からないが、それぞれ重要な祭儀式であり、その際の詔詞口上として使われていると云うことであろう。

 この太詔詞につき、江戸時代の国学者間で議論されてきた。賀茂真淵は、「祝詞考」で、「或人(中略)、されば茲に天津祝詞と有るは、別に神代より傳はれる言あるならん、と云へるはひが事也」と述べている。本居宣長は、「大祓詞後釈」で、「太祝詞事は、即ち大祓に、中臣の宣此詞を指せる也」と述べている。共に「天津祝詞の太祝詞事」は大祓詞自体のことであるとする説を唱えた。明治になって神社を管轄した内務省はこの説を採用し、神社本庁もその解釈をとっている。

 しかし、平田篤胤は、「太祝詞を天津神・國津神の聞食せは、祓戶神等の受納給ひて罪穢を卻ひ失ひ給ふ。斯在ば其太祝詞は別に在けむを、式には載漏されたる事著明し、若し然らずとせば、太祝詞事()()とは何を宣る事とかせむ」と述べている。「太祝詞事」は神代より伝わる秘伝の祝詞であり秘伝であるが故に延喜式には書かれなかったのだとして、未完の「古史伝」の中で「天照大神から口伝されてきた天津祝詞之太祝詞事という祝詞があり、中臣家にのみ相伝された祝詞」という別存在説を唱えている。

 更に、「天津祝詞考」では、「太詔詞は、皇祖天神の大御口自に御傳へ坐るにて、祓戶神等に祈白す事なるを、神事の多在る中に、禊祓の神事許り重きは無ければ、天津祝詞の中に此太祝詞計り重きは無く、天上にて天兒屋命の宣給へる辭も、其なるべく所思ゆ」と述べている。「その祝詞は伊邪那岐命が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊祓をしたときに発した言葉である」とし、様々な神社や神道流派に伝わる禊祓の祝詞を研究しそれを集成した形で、「天津祝詞の太祝詞事」はこのようなものだというものを示している。篤胤が示した「天津祝詞の太祝詞事」は神社本庁以外の神道の教団の多くで「天津祝詞」として採用されており、大祓詞の前段と後段の間に唱えられるほか、単独で祓詞としても用いられている、とある。(「ウィキペディア大祓詞」参照)

 れんだいこは、両説と違う見解を立てている。「天津祝詞(のりと)の太祝詞事(ふとのりとごと)」を平田説に合わせた場合でも、平田の説く「伊邪那岐命が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊祓をしたときに発した言葉」ではなく、「天孫族が高天原から降臨する際に天照大神が示した絶対指針」と受け取りたい。それは、「何としてでも豊葦原の瑞穂の国を征伐せよ」とのマニュフェスト宣言命令であった。天孫族は、これに基き絶対絶滅戦争に向かったということを裏意味していると解する。

 又は、もっと深い意味があると考えている。「本来の太祝詞事(ふとのりとごと)」とは、高天原系大和王朝以前の旧王朝であった出雲王朝系の「大祓詞」であり、何らかの都合で文面自体を表に出せなくなったと考えている。平田篤胤の「天津祝詞の太祝詞事」を確認せぬまま云うのは気がひけるが、良い線を打ち出しているが高天原系のものではなく出雲系のものだとしたい。かく判じている。以上、二説を主張しておきたい。

 「日本巫女史 第一篇:固有咒法時代の太詔」は「一、命は言靈の神格化」の項で、鈴木重胤の説に触れている。それによれば、鈴木重胤は平田説を一段と發展させ次のように述べているとのことである。(れんだいこ文法による現代文に直す)
 「伯家に伝わりし大祓式に三種の祝詞あるを論拠として、遂に太詔詞は、吐普加身衣身多女(トホカミエミタメ)とて、これは占方に用ふる詞なるが、吐普遠)遠大(トホ)にて天地の底際(ソコヒ)の內を悉く取統て云うなり。加身()(カミ)にて天上地下に至る迄感通らせる神を申せり。依身()能看(エミ)多女()可給(タメ)と云う事にて、(中略)簡古にして能く六合を網羅(トリスベ)たる神呪にて、中中に人為の能く及ぶところにあらざりけり。(中略)この三種の祝詞を諄返し唱ふる事必ず上世の遺風なるものなり。そは大祓の大祝詞に用いらるに祓給()清給()の語を添て申すを以て(さと)るべきなり云々」。

 即ち、太詔詞=神呪説を述べている。平田の禊祓的神呪説に対し、由来を定かにしていないが古神道的神呪説を唱えているように思える。続いて次のように述べている。興味深いので採り上げておく。(れんだいこ文法による現代文に直す)
 「然らば太詔詞の正体はと云えば、これは永久に判然せぬ物であると答えるのが尤も聡明な樣である。恐らくこの神呪はこれを主掌している中臣家の口伝であったに相違ない故、それが忘られた以上は永久に知ることのできぬものである。然るに、ここに想起されることは、『類聚神祇本源』卷十五(この書については第一篇第二章に略述した)神道玄義篇の左の一節である。
  •  問:開天磐戶之時、有呪文歟如何?答:呪文非一、秘訓唯多。(中略)又云而布瑠部由良由良止布瑠部文、此外呪文依為秘說、不及悉勒。謂天神壽詞天津宮事者、皆天上神呪也。
  •  問:何故以解除詞稱中臣祓哉?天神太祝詞者、祓之外可有別文歟如何?答:以解除詞稱中臣祓者、中臣氏行幸每度奉獻御麻之間有中臣祓之號云云。此外猶在秘說歟。凡謂濫觴,天兒屋命掌神事之宗源云云。奉天神壽詞、天村雲命者捧賢蒼懸木綿、抽精誠祈志地、就中天孫御降臨之時、天祖太神授秘呪於天兒屋命、天兒屋命貽神術於奉仕累葉。(中略)次座()面受秘訓、莫傳外人。由緣異他相承嚴明也。復次天祝太祝詞、是又有多說。此故聖德太子奉詔撰定伊弉諾尊小戶橘之檍原解除、天兒屋命解素戔鳴惡事神呪、皇孫尊降臨驛呪文、倭姬皇女下樋小河大祓、彼此明明也、共可以尋歟。(續續群書類從「神祇部」本。)
 この記事によれば、太詔詞は全く呪文であって、しかもその呪文の幾種類かが悉く太詔詞の名によって伝えられている事が知られるのである。勿論、私とても僧侶の手によって著作されたこの種の文献を、決して無条件で受容れるものではないが、とにかくに祝詞の本質が古く呪文であった事、及びこの書の作られた南北朝頃には、未だ太詔詞なる物が存していた事等を知るには、極めて重要なる暗示を與えるものと考へたので、かくは長長と引用した次第である。殊に注意しなければならぬ事は、この記事によれば、天兒屋命は純然たる公的呪術師であって、神事の宗源とは即ち呪術である事が明確に認識される点である。未だ太詔詞については、記したい事が相当に殘っているのであるが、それでは余りに本書の疇外に出るので省略し、更に太詔戶命の正体について筆路を進めるとする」。

 続いて次のように述べている。
 「伴信友翁は『太詔戶命と申すは、兒屋命を稱へたる一名なるべし。(中略)名に負ふ中臣の祖神に坐し、果た卜事行ふにも、神に向ひて、その占問ふ狀を祝詞する例なるに合はせて、卜庭に祭る時は、太詔戶命と稱へ申せるにぞあるべき』と考証されているが、私に言わせると、これは伴翁の千慮の一失であって、太詔戶命とは即ち太詔詞の言靈を神格化したものと信じたいのである。

 畏友武田祐吉氏の研究によれば、言靈信仰は、自づから言語を人格神として取扱うに至るべき事を想像せしめる。その例として、辭代主神・一言主神の如き、言靈神ではないかと思はれる。辭代主の屢ば託宣するは史伝に見ゆるところであり、一言主も亦『鄉土研究』によれば、良く託宣した事が見えている。善言も一言、
(まが)言も一言と神德を伝えたその神が、言靈の神であるべき事は想像せられ易いと有るのは至言であって、私はこれ等の辭代主・一言主に、更に太詔戶命を加えたいと思うのである。伴翁は太詔戶命と共に卜庭の神である櫛真知命は波波加木の神格化であるとまで論究されていながら、何故に太詔戶命の太祝詞の神格化に言及せられなかったのであるか、私にはそれが合点されぬのである。いわゆる智者の一失とはこの事であらう。前に引いた『龜兆傳』の太詔戶命の細註にも『持神女,住天香山也,龜津比女命。今稱天津詔戶太詔戶命也』となりと明記し、兒屋命と別神である事を立証している。太詔戶命は言靈の神格化として考ふべきである」。

 これによれば、太詔詞を一言主の御代の言霊神呪説を唱えているように思える。非常に興味深く、れんだいこの推理にも通じる。

 日本巫女史 第一篇:固有咒法時代の太詔戶」は「二、命と龜津比女命との關係」の項で、次のように述べている。これも興味深いので採り上げておく。
 「龜津比女命なる神名は、獨り『龜兆傳』の細註に現れただけで、その他の神典古史には全く見えぬ神なる故、その正体を突き止めるに誠に手掛りが少ないのであるが、この細註に神を持つ少女、天ノ香山に住む龜津比女命、今は太詔戶命と称すると有る意味は、既に言靈の太詔詞が神格化されて太詔戶命と成り、これに奉仕していた巫女を龜津比女命と称したのが、更に附會混糅されて龜津比女命は即ち太詔戶命であると考へられる樣に成ったものと信ずるのである。而してかかる例証は原始神道の信仰に於いては屢屢逢著するところであって、少しも不思議とするに足らぬのである。

 旁證としてここに一・二舉げんに、原始神道の立場から云えば、畏くも天照神に奉仕されて最高の女性であって、消して日神その者ではなかったのである。それが神道が固定し、古典が整理され、天照神の御神德が彌が上に向上されて來た結果は、天照神即日神と云う信仰と成ってしまったのである。更に豐受神にしたところが、『丹後國風土記』の逸文を徵證として稽へれば、豐受神は穀神に奉仕した女性であって、これも決して榖神その物ではなかったのである。それが伊勢の度會に遷座し、天照神の御饌神として神德を張る樣に成ったので、遂に豐受神即穀神と迄到達したのである。而してここに併せ記す事は、頗るこの倫を失う嫌いは有るが、古く宮中の酒殿に酒神として祭られた酒見郎子・酒見郎女の二神も、仁德朝の掌酒であって、酒神その者ではなかったのが、後には酒神の如く信仰されたのは、天照神や豐受神と同じ理由──その間に大小と高下との差違は勿論有るが、とにかくにこうした信仰の推移は宗教心理的にも民族心理的にも、良く発見されることなのである。龜津比女と太詔戶命との關係も又それであって、始めは龜津比女は神を持て女として太詔戶命に仕えていたのが、後には太詔戶命その者と成ったのである。こう解釈してこそ両者の関係が会得されるのである。

 龜津比女が巫女であった事は、改めて言うまでもないが、唯問題として殘されている事は、龜津比女の名が總てを語っている樣に、この巫女は鹿卜が龜卜に変わってから太詔戶命に仕へた者か、それとも鹿卜の太古から仕へた者かと云う点である。巫女が鹿卜に與ったと云う事は、他の文獻には見えていぬので、これを考證するに困難を感ずる事ではあるが、姑らく『龜兆傳』の記すところによれば、前揭の如く、『天香山白真名鹿:吾將仕奉。我之肩骨內拔拔出,火成卜以問之』と有るので、巫女は鹿卜時代からこれに交涉を有していた者と見て差支えないようである。後世の記錄ではあるが、『續日本紀寶龜三年十二月の壹岐國の卜部氏の事を記せる條に『壹岐郡人直玉主賣』と有るのは、女性の樣に思われるので參考すべきである」。

 これによれば、太詔詞を出雲―三輪王朝圏に於ける言霊神呪説を唱えているように思える。非常に興味深く、れんだいこの推理にも通じる。

 2010.03.07日 れんだいこ拝
 メールが送信済みトレイに乗らないのでここに記しておく。

 御挨拶と連絡です。

 久遠の絆さまはじめまして。こちら、れんだいこと申します。大祓詞の考察をしていましたら、貴殿のサイトに辿り着きました。「日本巫女史」のサイトで注目すべき記述があり取り込ませていただきました。ご確認の上ご了承賜れば幸いです。御意見ございましたらその旨お伝えください。当方の該当サイトは次の通りです。
 「太祝詞考」(rekishi/kodaishico/nihonshindoco/noritoco/
futonoritoco.html
 
 他にも大変な労究されているようで敬服しております。ゆっくり学ばせて貰おうと思います。取り急ぎの連絡です。
 
 2010.03.07日 れんだいこ拝

 及川俊哉氏の「瀬織津姫の謎」を転載しておく。(文意を変えない形でれんだいこ責による書き替えしております)
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 わたしの出身は岩手県です。ときおり里帰りの際に地元の名所を車でめぐってみたりなどします。数年前、民話で有名な遠野をおとずれ、その地域の名山である早池峰(はやちね)山をたずねました。早池峰山は宮澤賢治もよく登った名山です。それなりの装備がないと山頂までは登れませんので、ふもと近くの早池峰神社にたちよってみました。早池峰神社の祭神は「瀬織津姫(せおりつひめ)」と言います。この神様は不思議なことに『古事記』にも『日本書紀』にもその名前が掲載されていないのです。日本の神様はだいたい『古事記』に登場しているのが普通ですから、これはとても珍しいことです。ネットで調べたところ、瀬織津姫は「大祓詞(おおはらえのことば)」という祝詞の文句の中に登場する神様だということがわかりました。

 「大祓詞」という祝詞の本文は、岩波書店の『日本古典文学大系』などにも載っていますが、ネット上でも読むことができます(ウィキペディア→http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%93%E8%A9%9E)。瀬織津姫の名前は、後半の「遺る罪は在らじと祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と言ふ神 大海原に持出でなむ」という部分に出てきます(「比売」は「姫」の万葉仮名的表記)。

 「大祓詞」の内容をごく簡単にまとめると、「神々が、世の中にある罪や穢れを、遠く山の上まで行って集めてきて、川の流れに流してやると、瀬織津姫が大海原の底にいる神様にまでリレーのバトンのように渡していって根の国(あの世、黄泉の国)に送りかえしてくれますよ。罪や穢れがなくなってこの世が清くなりますよ。」という意味になります。つまり、瀬織津姫は日本の神道の「お祓い」や「祓え」の考え方をつかさどる重要な役割を果たす女神なのです。「大祓詞」は現在でも重要な祝詞と考えられています。日本全国の神社で六月と十二月の晦日に「大祓(おおはらえ)」という儀式が行なわれますが、その際に唱えられています。

 わたしはこの瀬織津姫という女神様に興味を持ったので、その後文献にあたりながら調べてみることにしました。「大祓詞」の内容である、悪い物を川の流れに流してしまうという行為は、古くから『古事記』の「イザナギの黄泉がえり」の部分にあたると考えられてきました。これは「禊祓(みそぎはらえ)」の起源とされています。この内容も簡単に振り返っておきましょう。

 『古事記』では、イザナギとイザナミという男女の神が結婚して日本列島の島々や風の神や木の神など、たくさんの自然物の由来となる神々を産み落とします。ところが、最後に火の神を産み落とすことによって妻のイザナミは死んでしまうわけです。イザナギは妻に会いたい思いが募ってあの世である黄泉の国に追いかけていきます。イザナミが見ないでくださいというのを無理に見てしまったために、イザナギはイザナミの腐乱した屍体の姿を見てしまいます(このあたりはギリシャ神話のオルフェウスの話に似ています)。イザナギが恐れて逃げるとイザナミは恥をかかされたと言って追いかけてきます。イザナミは「恥をかかされたから、生きている人間を一日に千人殺してやる!」と言います。それに対しイザナギは「おまえがそう言うのならオレは一日に千五百の産屋を建てよう!」と返答します。

 イザナギは黄泉からほうほうのていで戻りますが、その時、「たいへん汚い国に行ってきたから体を洗おう(「吾は御身の禊ぎ為む」)」と言い、「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」というところで体を洗います。このとき洗い流された黄泉の国の穢れから神様が生まれてきます。その名を「八十禍津日神(やそまがつひのかみ)」と言います。瀬織津姫と、この八十禍津日神とは早くから同じ神だと考えられていたようです。江戸時代に『古事記』を研究した学者の本居宣長も『古事記伝』という本で、この二人の神様を同一の神としています。以下にその部分を引用します。

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 於是詔之、「上瀬者瀬速。下瀬者瀬弱」。而、初於中瀬随迦豆伎而。
 (ここに於いて次のように詔(の)る。「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は瀬弱し」。而して、初めて中つ瀬におりかづきて)
 滌時、所成坐神名、八十禍津日神(訓禍云摩賀、下效此)。次大禍津日神。此二神者、所到其穢繁國之時因汚垢而所成神之者也。
 (そそぎ給う時に、成りませる神の名は、やそ禍(まが)つ日の神。次におおまがつ日の神。このふた神(ばしら)は、。かのきたなき繁き国に到りましし時の汚れ垢に因りて成りませる神の者なり)

○随ノ字は降の誤リなるべし。(中略)中瀬爾淤理(ナカツセニオリ)と訓べし。書紀他田(ヲサダ)ノ宮の巻に、下ニ泊瀬中流-(オリヰテハツセノカハナカニ)などあるさまなり。大祓ノ詞に所謂(いわゆる)瀬織津比咩(セオリツヒメ)は比(コ)の故事(フルコト)もて称(タゝヘ)たる御名にて、瀬降(セオリ)の意なり。【今此(コゝ)に大神の、穢を滌ぎ去(ステ)たまはむとして、瀬に降(オ)りたまふと、彼ノ神の大海原爾持出奈武とあると、全く同意なるを思ふべし。猶よりどころあり。次の禍津日ノ神の處に云り。引合せ見よ。】

○八十禍津日ノ神(ヤソマガツビノカミ)、大禍津日神(オオマガツビノカミ)。禍(マガ)のことは次に云べし。津(ツ)は助辞、日(ビ)は濁る例にて【借字なることはさらなり。】次の直毘(ナオビ)の毘(ビ)も同じ。此ノ辞の意は、産巣日(ムスビ)ノ神の下【傳三の十三葉】に云り。八十(ヤソ)は禍(マガ)の多きを云ヒ、大(オオ)は甚(ハナハタ)しきを云にや。書紀には大禍津日は無し。又の一書に大綾津日(オオアヤツビ)ノ神あり。【三代実録三十五に、下野ノ國綾津比ノ神。】阿夜(アヤ)と麻賀(マガ)と同き由前(まへ)に云り。【傳五の三十四葉】遠ッ飛鳥ノ宮ノ段に、八十禍津日ノ前と云地ノ名あり。【倭姫ノ命ノ世記に、荒祭ノ宮一座、皇大神の荒魂(アラミタマ)、伊邪那伎ノ大神の所生(ウミマセル)神、名ハ八十枉津日ノ神也、一(マタ)ノ名ハ瀬織津比咩(セオリツヒメ)ノ神是れ也と云り。此書は偽書なれども、此神を皇大神の荒魂と云こと由あり。下に云べし。これらは古傳説ありてや云つらむ。また瀬織津比咩は此神の亦ノ名といへると、右にいへる考へと、引合わせて見べし。】さて世(ヨ)ノ間(ナカ)にあらゆる凶悪事邪曲事(アシキコトヨコサマナルコト)などは、みな元(モト)は此ノ禍津日ノ神の御霊(ミタマ)より起(オコ)るなり。其由は下に委く云べし。
(中略)

○因ノ字は、所到の上にある意に看(ミ)て、時之汚垢(トキノケガレ)とつゞけて心得べし。【此方の漢文章には、かゝることつねに多し。】文のまゝに看(ミ)ては、いたくことたがへり。さて此(コゝ)の文(コトバ)をよく思ふべし。世ノ中の諸の禍害(マガコト)をなしたまふ禍津日ノ神は、もはら此ノ夜見ノ國の穢より成坐るぞかし。あなかしこ\/。(本居宣長『古事記伝』「六之巻 神代四之巻(御身滌の段)」「\/」は昔の繰り返しの記号)

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 つまり、本居宣長は八十禍津日神は黄泉の国からけがれを運んできて災いを起こす神様だから、邪神であり、おそるべきである(「あなかしこかしこ」)と言っているわけです。同じ神が、一方で善神の瀬織津姫と呼ばれ、他方で邪神の八十禍津日神と呼ばれる。こんな矛盾したことがあるでしょうか? もちろんこのような両義性をもった神は世界中の神話にあらわれますし、文化人類学が対象とするものです。しかし、日本の神話上における「瀬織津姫/八十禍津日神の両義性」の分析がなされているという話は、寡聞ながら聞いたことがありません。また、八十禍津日神はアマテラスの「荒魂(あらみたま)」であるとされています。とうとう瀬織津姫はアマテラスともくっついてしまいました。日本の神様の中で最も中心的な存在であるはずのアマテラスと瀬織津姫が同一であるとはどういうことでしょうか? これについては『中臣祓訓解』(鎌倉時代ごろ)という大祓詞の注釈書に、同様の内容が記載されています。

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 瀬織津比咩神 伊弉那尊ノ所化ノ神。名二八十枉日神一是也(ヤソマウツヒノカミト)。天照大神ノ荒魂(アラミサキヲ)號二荒祭ノ宮ト一。除二悪事ヲ一神也。随荒天子ハ焔魔法王所化也。『大祓詞註釈大成 上』「中臣祓訓解」(両部神道の立場から仏教の影響がある)

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 本居宣長の独断ではなく、古くから瀬織津姫はアマテラスの荒魂であるという説が唱えられていたようです。どうやら瀬織津姫という神様はとても複雑な性格を持った神様であるようなのです。こういったことが明らかになってくるにつれて、わたしは「こんな不思議な神様がいたのか!」という驚きを隠せませんでした。意外と瀬織津姫を祀っている神社は日本全国に多いのです(瀬織津姫祭祀リスト→http://www5.ocn.ne.jp/~furindo/img/seoritsu_bunpuzu.pdf 遠野の出版社「風林堂」のHPhttp://www5.ocn.ne.jp/~furindo/に掲載されているものです)。

 また、身近なところでは、よくわたしたちが食べているお団子。あの串に三つさす御手洗団子のかたちの由来は京都下賀茂神社の御手洗社(瀬織津姫をまつっている)の池の泡がぷくぷく連続して浮かぶ様子からとられたものです。「御手洗」ということが、禊ぎ祓いに関係することは言うまでもありません。このように、わたしたちの生活に身近なところにも瀬織津姫の影響があります。

 長くなりましたので、今回は瀬織津姫の紹介にとどめたいと思いますが、どうやら、民俗学者の柳田國男や折口信夫もこの女神の存在に気付き、その重要性を理解していたようなのです。機会があればこういった研究内容もご紹介できればと思います。ことほど左様に、瀬織津姫という神様はたいへん興味深い問題を多くはらんでいる神様なのです。まだまだわたしの瀬織津姫研究は端緒についたばかりですが、これからもじっくり取り組んでいきたいと思います。みなさんもお近くの瀬織津姫を祀った神社を訪ねてみてください。そしてこの不思議な女神の来歴について思いをめぐらせてみてください。きっとこれまでとは全く違う日本の神々の姿が現われてくると思います。そして、それは必ずこれまでとは違う、もう一つの日本の姿を思わせてくれるはずです。


 及川 俊哉(おいかわ しゅんや)
1975年岩手県生まれ。現在は福島県在住。2005年、12月23日、は東京駅「銀の鈴」前で突如として「ウルトラ」2代目編集長に任命され、現在に至る。2009年 詩集『ハワイアン弁財天』(思潮社)発表。

 本居宣長「古事記伝」七之巻は次のように記している。
 「凡(すべ)て世間(よのなか)のありさま、代々(よよ)時々に、吉善事(よごと)凶悪事(まがごと)次々に移りもてゆく理(ことわり)は、大きなるも小(ちいさ)きも、悉(ことごと)にこの神代(かみよ)の始めの趣(おもむき)によるものなり」。

 本居宣長はここで、祖法としての「吉事悪事流転の理」を明らかにして「古今万事の道理」であるとしている。

 孝徳天皇(在位645-654年)の詔。
 「惟神(かむながら)も我が子(みこ)治(し)らさむと故(こと)寄させき。是を以って、天地(あめつち)の初めより、君臨(しら)すくになり」。

 これが日本国体論の原型となっている。






(私論.私見)