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 (最新見直し2006.11.22日)

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ウィキペディア岡 潔(おか きよし
 、1901年4月19日 - 1978年3月1日

 岡潔 おかきよし
 世界的大数学者。奈良女子大学名誉教授理学博士京都帝国大学、1940年)。生涯の研究テーマとなる「多変数解析函数論」に出会う。
 後年、その分野において
 世界中の数学者が解けなかった「三大問題」を、
 たった一人ですべて解決した。


 1901.4.19日、大阪府大阪市生まれ。父祖の地は和歌山県の山村、和歌山県伊都郡紀見村(後に橋本市)。
 1919.3月、和歌山県粉河中学校卒業。
 1922.3月、第三高等学校理科甲類卒業。三高時代、岡は友人に対し「僕は論理も計算もない数学をやってみたい」と語っている。岡の考えでは論理や計算は数学の本体ではなく、表面的なことを追うだけでは答えが見えてこないと思っていたらしい。この見えざる数学の本体に迫ることと、仏教的叡智や情緒の探求は岡にとって表裏一体であったと考えられる。
 1925.3月、京都帝国大学理学部卒業。4月、卒業と同時に京都帝大理学部講師に就任。
 1929.4月、京都帝国大学理学部助教授。京都大学時代には湯川秀樹朝永振一郎らも岡の講義を受けており、物理の授業よりもよほど刺激的だったと後に語っている。
 同年、フランスに留学。生涯の研究テーマとなる「多変数解析函数論」に出会う。多変数解析函数論は当時まだまだ発展途上であった。後年、その分野において世界中の数学者が解けなかった「三大問題」を、たった一人ですべて解決し大きな業績を残した。変数複素関数論は現代数学の雛型であり、そこでは幾何代数解析三位一体となった美しい理論が展開される。現代数学はこれを多次元化する試みであるということもできよう。解析の立場から眺めると一変数複素関数論の自然な一般化は多変数複素関数論であるが、多変数複素関数論には一変数の時にはなかったような本質的な困難がともなう。これらの困難を一人で乗り越えて荒野を開拓した人物こそ岡潔である。

 具体的には三つの大問題の解決が有名だが、特に当時の重要な未解決問題であったハルトークスの逆問題(レヴィの問題ともいう。および関連する諸問題)に挑み、約二十年の歳月をかけてそれを(内分岐しない有限領域において)解決した。岡はその過程で不定域イデアルという概念を考案したが、アンリ・カルタンを始めとするフランスの数学者達がこのアイデアをもとにという現代の数学において極めて重要な概念を定義した。また、(解析関数に関する)クザンの第2問題が解けるためには、それを連続関数の問題に置き換えた命題がとければよいとする「岡の原理」も著名である。

 その強烈な異彩を放つ業績から、西欧の数学界ではそれがたった一人の数学者によるものとは当初信じられず、「岡潔」というのはニコラ・ブルバキのような数学者集団によるペンネームであろうと思われていた事もあるという。

 1932.3月、広島文理科大学助教授。精神不安定状態に陥り、学生による講義のボイコットなども経験する。
 1938年、病気で休職、のち辞職。郷里にもどり、孤高の研究生活に身を投じた。
 1940.6月、広島文理科大学辞職。
 1941.10月、北海道帝国大学理学部研究補助嘱託。札幌市在住の、終生に亘る心腹の友であった中谷宇吉郎と旧交を暖めた。
 1942.11月、北海道帝国大学辞職。
 1945年、再び帰郷し、郷里で終戦を迎えた。
 1949.7月、奈良女子大学理家政学部教授(1953年より理学部教授)。、奈良女子大学時代には、与えられた任務には何事も全身全霊で取り組むという彼の性格から、女子教育に関する論文を書くなど、教育にも心を配った。
 1949.3月、奈良女子大学定年退官。
 1951年から晩年までは奈良市に住まいした。
 1951年、日本学士院賞。
 1954年、
朝日文化賞(多変数解析函数に関する研究)。
 1960年、文化勲章受章。
 1963年、毎日出版文化賞を受賞。「春宵十話」をはじめ、多くの随筆を著した。
 1964.4月、奈良女子大学名誉教授。風蘭、講談社現代新書、1964年。紫の火花、朝日新聞社、1964年。

 1965年、春風夏雨、毎日新聞社、1965年。対話人間の建設、小林秀雄新潮社、1965年、

 1966年、月影、講談社現代新書、1966年。春の草 私の生い立ち、日本経済新聞社、1966年。
 1967年、春の雲、講談社現代新書、1967年。日本のこころ、講談社〈思想との対話;2〉、1967年 。
 1968年、一葉舟、読売新聞社、1968年 。昭和への遺書、月刊ペン社、1968年。日本民族、月刊ペン社、1968年。心の対話、林房雄、日本ソノサービスセンター、1968年

 1969年、葦牙よ萠えあがれ、心情圏、1969年。

  • 神々の花園、講談社現代新書、1969年
  • 曙、講談社現代新書、1969年

 岡は仏教を信仰しており、特に弁栄に帰依していた。岡自身によれば、岡は「純粋な日本人」であり、日本人として持っている「情緒」に基づいて、その数学的世界を創造した。岡はこのような自身の体験に基づいた随筆をいくつか書いていて、一般にはむしろそちらの方でよく知られている。

 作家の藤本義一は、岡をモデルとした戯曲雨のひまわり』を製作するために密着取材をした事があり、著書『人生の自由時間』『人生に消しゴムはいらない』で彼の日常生活について記している。藤本によると、岡は起床してすぐ自己の精神状態を分析し、高揚している時は「プラスの日」、減退している時は「マイナスの日」と呼んだという。 プラスの日は知識欲が次々湧いて出て、見聞きするあらゆる出来事や物象を徹底的に考察 - 例えば、柿本人麻呂和歌を見ると、内容は元より人麻呂の生きた時代背景、人麻呂の人物像にまで自論を展開 - するのだが、マイナスの日は、寝床から起き上がりもせず一日中眠っており、無理に起こそうとすると「非国民」等と怒鳴る有様であった。 岡のこの行動を見た藤本は「恐らく岡は躁鬱病であると考えられるが、プラスの日・マイナスの日は一日おき、もしくは数日おき…といった具合で、躁と鬱の交代期間は比較的短かった」と述べている。

『日本人としての自覚』 「春の草」 岡 潔著 日経ビジネス文庫より

 2010年7月1日 第1刷発行

 日本人としての自覚


 前に述べたように一九二九年から一九三二年までまる三年、私はパリに住んだ。そしてなにか非常に大切なものが欠けているように恩いました。それがなんであるかを探そうとして、日本人とはどういう人であるかを調べ始めたのです。

 初めは芭蕉とその一門を、それらの人たちの書いたものによって詳しく調べたのですが、私にいかにもふしぎに思われたのは、芭蕉は俳句らしい俳句はふつう一、二句、名人でも十句あるのはまれであるといっていることです。五・七・五のような.短い句型の二つや三つを目標に生涯をかけるということは、私には薄氷の上に重い体重を託するのと同じようにふしぎに思われました。

 ともかくそんなふうにして私は芭蕉を調べ、日本民族には民族的情緒の色どりがあることを知ったわけです。これがいまのようになるまでには、少なくとも十万年、長ければ三十万年はかかっているだろうと思います。 日本民族的な情緒の色どり、また個人の情の基調の色どりの二つが一致している人を、私は純粋な日本人と呼ぶことにしています。だから、国籍は日本にあっても純粋な日本人でない人もあれば、国籍が外国にあっても、純粋な日本人といえる場合もあるわけです。 私は芭蕉は純粋な日本人だと思っている。そして芭蕉を詳しく調べることによって、だいたい純粋な日本人のアウトラインを、いわば鉛筆で書くことができたわけです。つまり純粋な日本人とはこういうものであるという、鉛筆で書いたような自覚ができたわけです。

 しかし私は、この鉛筆の下書きのような自覚では足りないと思った。それで道元禅師を選んで、だいたいその著書『正法眼蔵』上中下(岩波文庫)、なかんずく「上」から、自分は純粋な日本人であるという自覚を、いわばスミ書きすることができたと思っている、その後、私のしたことは、ざっと歴史に目を走らせ、純粋な日本人はどういう場合にどういう動き方をするかというそのいろいろな行為を印象に残すことで、これができればじゆうぶんだったのです。

 自分は純粋な日本人であるという自覚ができていてもいなくても、あまり違わないと思う人が多いかもしれない。しかし実際は徹底的に違うのです。自分は純粋な日本人であるという自覚のできていない人を国内向けに使うと、いちいち他のものを物指しに使わなければならないから、手間ばかりかかって少しもはかどらない。自分は純粋な日本人であるという自覚を持っていれば、すべて自分を物指しにしてはかるから、その点非常にはかどります。

 このように、純粋な日本人であっても、自分はそうであるという自覚のできていないものは、国内向きには使いようがないことがわかるでしょう。それでは、国外向きに使ったらどうなるか。外国からなにか大切なものを輸入しようとすると、必ずその国の文化がそれとともにはいってくる。ところが自覚できているものは、そんなものがはいってきても別にどうということはないが、自覚のできていないものは、いつもそちらを向いてよろめいてしまう。

 すなわち、外国向きにはなおさら使えないということになる。よろめいた結果、自国をダメだとし、外国をえらいとしてしまう。だから自覚をつけることは絶対に必要なことだと思います。p-166





(私論.私見)