神楽考予備知識 |
更新日/2018(平成30).10.16日
Re::れんだいこのカンテラ時評442 | れんだいこ | 2008/08/04 |
【神楽の起源】 「ウィキペディア神楽」その他を参照する。但しれんだいこ流に取り込む。 我が国では古来より、神楽(かぐら)と呼ばれる神道的歌舞が伝承されている。日本芸能の原点となっていると思われるので、一定の知識を得ておきたい。 「かぐら」の語源は、「神座」(かむくら・かみくら)が転じたものとする説が一般的である。神座とは「神の宿るところ」を意味し、先ず神座を設けて、神座に神々を降ろし、巫女が集まった人々の汚れを祓ったり、神懸かりとなって神の意志を伝えたり、また人の側からは願望が伝えられるなど、神人一体の宴を催す場であり、そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになったと考えられている。神楽には鎮魂を目的とした呪術神楽という面もある。いわば、神々を神座に招じて、そのもとで行われる神聖なる芸能であり、それ故に神の憑りやすい採り物として幣、榊、太鼓、鈴などが小道具として用いられる。 れんだいこが思うに、神楽とは文字通りに解して良いのではなかろうか。「神が見て、その意に叶い、神と人とが楽しむ為の神人和楽の神事儀式且つ歌舞活劇」と規定できるのではなかろうか。敢えて「神座」(かむくら・かみくら)が転じたものとする必要があるだろうか。語源を求めるのなら、「カグラ」そのものの古代言葉に於ける意味であるべきではなかろうか。 神楽の発祥は、古事記および日本書紀において記述されている「天照大御神の岩戸隠れ譚」に措定されている。面白おかしく伝えられているアメノウズメの神懸り半裸舞があり、この神話が神楽と舞踊の起源であるとされている。アメノウズメの子孫とされる猿女君は宮中において鎮魂の儀に携わっており、このことから神楽の元々の形は鎮魂、魂振に伴う神遊びであったとも考えられている。 しかし、この説明は通俗過ぎるように思われる。神楽は元々出雲王朝の御代で歴代を経て育まれて来た神人和楽の神事且つ興行神楽であったと考えるべきではなかろうか。外航族王朝が、国津族系出雲王朝の国譲りを経て大和王朝創建に向かった後、国津族の伝統的神楽を取り込む必要が生まれ、出雲王朝神楽に倣って大和王朝神楽を生んだとすべきではなかろうか。従って、同時並行多発的に神楽が生まれたとするのならまだしも、外航族王朝系の「天岩戸神楽」を神楽の嚆矢とする伝は採り難い。 この見方は、神楽を出雲王朝に発祥せしむることになるが、案外これが史実ではなかろうかと思われる。外航族王朝-大和王朝、出雲王朝のどちらにも伝承的神楽があったとみなすよりも、出雲王朝内発祥説の方がその後の神楽史を見る場合に透けて見えて来る自然な見方のような気がしてならない。 それは、神楽の発想がまさに出雲神道の極意と通じており、これにより生み出されたものであると分別すれば容易に分かることである。出雲神道を理解しない一知半解の者が解するので、こういう初歩的誤解が生まれることになる。従って、「神楽の歴史、形態、規模等をみれば、出雲は神楽の故郷であり、島根県は神楽の宝庫といえるであろう」と見立てるのが自然だろう。 -------------------------------------------------------------------------------- 【神楽の種類】 「ウィキペディア神楽」その他を参照する。 神楽は、宮中で行われる御神楽(みかぐら)と、民間で行われる里神楽(さとかぐら)に分けられる。御神楽は、宮中の賢所で行われる御神楽(賢所御神楽)のことで、古くは内侍所御神楽と云われた。雅楽(国風歌舞)に含まれる。大嘗祭の清暑堂での琴歌神宴(神楽)、賀茂臨時祭の還立の神楽、園并韓神祭の神楽、石清水八幡宮臨時祭の神楽から成立したと考えられている。1002(長保4)年あるいは1005(寛弘2)年から隔年で行われるようになり、後に毎年の行事となった。簡略化されてはいるが宮内庁式部職楽部によって、現在も毎年12月中旬に賢所で行われ、大嘗祭でも行われる。 里神楽は民俗芸能研究の第一人者である本田安次(1906-2001)がさらに大きく巫女神楽、出雲流神楽、伊勢流神楽、獅子舞神楽に分類した。他にも山伏神楽があり、獅子舞を得意にする。これらの流れを汲んだ神楽が各地に存在する。しかし、この分類では不都合なことも生じてきており、近年里神楽の分類方法の見直しも考えられている。近代に作られた神楽もあり、その中には多くの神社で行われているものもある。 と云うことである。これを基礎知識としようと思う。 2008.8.4日 れんだいこ拝 |
【神楽の文化果実】 |
神楽より諸々の文化芸能が派生している。これを確認する。 |
古事記(太安万侶撰、712年)及び日本書紀(舎人親王撰、720年)の中で、天照大御神が天の岩屋戸に姿を隠した際、天宇受売命が、天の岩屋戸の前で神懸かりとなって、舞い踊ったとされる記事があり、古事記上巻では、「天宇受売命、天の香山の天の日影を手次にかけて、天の真拆を鬘として、天の香山の小竹葉を手草に結ひて、天の岩屋戸に宇気伏せ、踏みとどろこし、神懸かりして、胸乳をかき出で、裳緒を陰におし垂れき」と記述され、日本書紀巻第一では、 「天鈿女命、則ち手に茅纏の ![]() |
記述としての「神楽」は古事記にはない。「神楽」という文字が初めて使われるのは、9世紀の古語拾遺(こごしゅうい)(斎部広成撰、807年)の中の「猨女(さるめ、天鈿女命の子孫)君氏、供神楽事(神楽の事を供へまつる)」である。古語拾遺から半世紀ほど経て貞観年間に編纂された「儀式」の中に、「祭儀が終了したに、歌舞を伴った神楽を行った」という記述があり、祭りを終えた後の神涼しめの遊びとされている。「楽」は、鎮魂を意味する古語である「アソビ」という読みもあり、中世には芸能を意味する語としても使われていた。
石清水八幡宮の「初卯(はつう)の神楽」や賀茂臨時祭の「還立(かえりだち)の御神楽」などに神楽の文字が散見する。その語源を民俗学者・折口信夫は「神座」(かむくら)の音韻が「かぐら」に転化したものだと説いている。神座はそもそもは神事として執り行われた。「御神楽」とも「宮神楽」ともいう。 「神楽」が民間に広まったものが「里神楽」である。日本各地の土地土地に伝承され、里に暮らす人々の生活と親密に深く関わりあっている。里神楽では巫女、神主、山伏といった人々によって演歌、囃子、舞い、芝居などの芸能が供されるが、里神楽の形態は一様でない。「巫女神楽」、「出雲流神楽」(島根県鹿島町の佐太神社の七座に代表される)、「伊勢流神楽」(三重県伊勢市の伊勢神宮で行われていた湯立神楽に代表される伊勢流神楽)、「獅子神楽」、奉納神事舞に大別され、全国各地に広く分布しているのは、出雲の佐陀神社が起源といわれる出雲流神楽である。そして里神楽が最も盛んな地域が中国地方、とりわけ広島県・芸北地方には数多くの神楽団があって神楽を競い合っている。なかには伝統を守るだけでなく、舞台芸術として新しい神楽に取り組んでいる神楽団もある。 体系的に取り入れられている。 |
【神楽の歴史果実】 |
神楽は、出雲王朝御代の歴史書であり風土記足り得ているのではなかろうか。これを確認する。 |
(私論.私見)