倭朝は出雲族を恐れ、大軍を持って出雲族を攻撃し、出雲族は無益な殺生を避け、逃亡を続ける。倭朝は出雲族の振根一族に伝わる「息呼せイブヨセ」という業(技)である十種(トクサ)の神宝(カンダカラ)を奪おうとするが奪えない。
これに先立って、出雲族は大阪に拠点を作っていた。倭朝はここ迄追って来て、また戦になる。この時も多くの人が戦死させられている。地元の人は、その供養として東大阪東石切町に石切剣箭神社
(いしきりつるぎやじんじゃ) を作った。御祭神は饒速日(ニギハヤヒ)の命、可美真手(うましまで)の命。由来は、藤原行春大人(ふじわらのゆきはるうし)が著した
「遺書伝来記」(いしょでんらいき)によると、紀元前659(神武天皇皇紀2)年に、饒速日の命を祀る「上之社」(かみのしゃ)が建てられ、「崇神天皇」(すじんてんのう)の時代に本社である「下之社」(しものしゃ)に可美真手(うましまで)の命が祀られたという記載がある。饒速日命は出雲系の大王である。饒速日の神名は「徳が高く広く活発で勇猛である者」という意義を持つ名とされる。可美真手の神名は「立派な徳を有している者」という意味であるとされている。饒速日命は出雲族であり、可美真手命はその子供である。
旧事本記(国造本記)では、饒速日命は河内国のいかるがの峰に天降ったとある。ここに饒速日命を祀る磐船神社がある。比較的近くに石切神社の上の社がある。祭神は饒速日命。ここが先住民族が治まる河内国であったと思われる。出雲族は河内国を目指して逃げて来たものと思われる。崇神天皇の時に石切劔箭神社(下の社)創建される。石切劔箭神社の名前の由来は、劔は剣で、箭は竹で弓矢の事を言う。ここには剣や弓矢で斬り殺された人を祀っている。古文書では大虐殺が起きたと記されている。石切劔箭神社は、地元では「石切さん」、「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれている。「でんぽ」とは腫れ物という事です。腫れ物とは触らない、ふれない、言わないということです。これは、「見ざる聞かざる言わざる」と同意です。隠された神社、隠された歴史という事になる。この神社は、「神道石切教」という独自の宗教法人によって運営されている神社である。境内には数々の変わったオブジェが点在する独特の雰囲気を持った神社となっている。
また、上の社にはナガスネヒコが祀られているという伝承もある。
出雲族は又逃げる。辿り着いたのは日高見国・常陸太田 (ひたちおおたわ) 。ここにも倭朝の大軍が襲ってきた。出雲族は又移動を余儀なくされた。地元の人達は出雲族を悲しみ、常陸太田に長幡部神社
(ながはたべじんじゃ) を作った。御祭神は八剣入彦根大根王(スサノオ命の別称)、珠売美万命(すめみまのみこと)。多弖命(たてのみこと)の御世に長幡部の遠祖・多弖命(たてのみこと)が美濃から久慈に遷り、機殿を建てて初めて織ったと伝える。常陸国風土記久慈郡条に「長幡部の社」に関する記事が載っている。これによると、珠売美万命(すめみまのみこと)が天から降臨した際に綺日女命(はたひめのみこと)が従い、日向から美濃に至ったという。古事記第9代開化天皇段によれば、第三皇子の日子坐王(ひこいますのきみ)の子である神大根王(かむおおねのきみ)が長幡部の祖として記載されている。第10代崇神天皇の御世に長幡部の遠祖である多弖命(たてのみこと)が美濃から久慈に遷り、機殿を建てて初めて織ったと伝える。神話では、
珠売美万命とは邇邇芸命の天孫降臨の時に、一緒に降臨した神様で、その時に従えていたのが綺日女命で、服など織物を作る神様とされている。
別説で、神大根王(かむおおねのきみ)が長幡部の祖として記載されている。神大根王は出雲族の王である。多弖命は長幡部の遠祖である。更に別説もあり、大根一族が海からやって来た崇神軍を迎え撃ったという地に鎮座するのが長幡部神社で本当の御祭神は「八剱入彦根大根王」としている。そこで問題なのが日子坐王である。開化天皇の第三皇子となっている。その子が、神大根王となると時代が合わなくなる。長幡部神社の祭神も古文書とは違う。歴史が分からなくなるように改ざんしていることになる。日子坐王には伝説がある。日子坐王とは崇神天皇の弟にあたり、四道将軍として丹波に派遣さ
れた丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)の父にあたる。当地方最古 の伝説として日子坐王の土蜘蛛退治物語があり、「丹後風土記残缺」(たんごふどきざんけつ)に収められている。その後裔氏族は美濃のみならず、常陸国・甲斐国・三河国・伊勢国・近江国・山城国・河内国・大和国・但馬国・播磨国・丹波国・吉備国・若狭国・因幡国など広汎に分布している。
※この日子坐王が、常陸太田に行き玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)退治、もしくは土蜘蛛(つちぐも)退治をおこなっている。出雲族が悪者にされており、多くの出雲族の虐殺がおこなわれている。残った出雲族は千葉に逃げていく。
日子坐王がまず丹波に派遣された。古文書によれば、崇神天皇の時代に、天照日大神様のご神体を持ち出し三重に遷座している。その実行役であったと思われる。また、日子坐王は、日本武尊の物語の本になったとも言われている。逃げ惑う出雲族を徹底して迫害している王である。常陸国風土記に「潮来」について書かれていて、土地に住む者たちが穴倉の棲みかに隠れてしまったので海辺で楽器などを鳴らして踊りをやっておびき出し、皆殺しにした・・・。これが「いたく殺した」から「板来」になり、徳川光圀が「潮宮」の名前をとって潮来にしたとある。もう一つ稲敷市の小野川が霞ヶ浦に注ぐ河口の土地が「古渡」(ふっと)というのは、昔の縄文語(アイヌ語)説では、首をフット、フットと切り落としたとの伝承がある。この稲敷市から美浦村は昔の信太郡のあった場所で、ここに「楯縫神社」(たてぬいじんじゃ)がある。常陸国風土記に書かれている普都大神が楯を脱いだ地と言われるところである。
出雲族軍は下総(千葉県)の佐原郡小見川まで敗走した。倭朝は執拗に追って来る。又、戦となり遂に出雲族は壊滅させられる。地元の人は出雲族を悲しみ、この小見川にこの時の戦いで斬殺された物部の首塚だといわれてきた大根塚(おおねづか)と大根神社(おおたわじんじゃ)を作った。この神社は何十年か前に取り壊され今はない。場所を変えて切手神社として祀っている。切手神社の情報はほとんどない。由来も神社の由緒には記載されていない。祭神は切手大神と書かれている。場所は香取市大根地区。「切手」の意味は崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖命)によって追い詰められた物部一族が秘密の奥儀を教えなかった為に腕を切られて殺されたことを隠喩している。亡くなった物部氏の霊を弔うために造られた神社である。
その生き残りは北陸・陸奥の地にたどり着いた。そして、そこの土民と共に共生した。長髄彦のアラハバキ王国建国譚がある。又、一部の出雲族は山へ山へと逃れ、やがて日本のジプシーと云われる山窩
(さんか) と呼ばれる存在になった。山窩 (さんか) は裏組織となり今も現存している。
茨木には鹿島神宮があり、千葉には香取神宮がある。そして、両県ともに諏訪神社もある。大変複雑な土地柄ということになる。何故、ここに、鹿島神宮と香取神宮があるかと言えば国譲りの交渉で、最終的に話し合いが決着したのが鹿島神宮(場所)という事になる。そして、出雲神の封印の為の神社でもある。
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