日本神道の歴史6、戦後の宗教法人神道考

 (最新見直し2010.09.29日)

【戦後の宗教法人化神道考】

 1945(昭和20).8.15日、敗戦により終戦。1947.10月、刑法が改正され、不敬罪が消滅した。12.25日、GHQが、国家神道の廃絶と政教分離を命ずる「神道指令」を発布した。これにより、国家による信仰の強制が違法となり、内務省神祇院が廃止された。12.28日、昭和15年に公布された宗教団体法が廃止され、代わって宗教法人令が施行された。

  1946(昭和21).1.1日、天皇陛下が人間宣言勅語。これにより天皇制神道に基づく建国(肇国)説話(国生み神話、天孫降臨神話、神武天皇御東征神話)が放棄された。






 今日の日本で、宗教を取り扱う法律は、宗教法人法第二条には、「この法律において「宗教団体」とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い及び信者を教化 育成することを主たる目的とする左に掲げる団体をいう」。

 戦後の昭和26年に制定された宗教法人法が、宗教団体を規定するモデルを西欧世界のキリスト教的宗教観に則っている為に、法律として神道を包摂しきれていない。 神道は、戦後の宗教法人法がモデルとしたキリスト教や仏教とは違った環境で育まれてきた宗教だということを、宗教法人法の策定者が理解していなっかたということになる。
 神道は、日本人の生活の中にとけ込んでいる宗教なのです。ですから生活そのものが教典なのです。日常生活をすること自体が神道の教えの実践だったため、日常生活を深く反省して、敢えて教義として定める必要もなかったのです。日常生活の実践が、即ち神道の生活そのものだったのです。そこで敢えていえば、神道とは日本語の中に最も深く溶け込んでいるといえるのかも知れません。
 
(昭和7年刊)清原貞雄『神道史』(650)。太田亮『神道史』(昭和13年、1300円)。岩橋小彌太『神道史叢説』。宮地直一『神道史序説』。
 神社本庁発行の平成18年7月の『若木』によりますと、神社数は79,051社、神職総数21,594人です。職制は、上位職から宮司(ぐうじ)・祢宜(ねぎ)・権祢宜(ごんねぎ)と称します。これらの職に就いている人の一般名称を「神職(しんしょく)」といいます。「宮司」とは、会社でいう「社長さん」。祢宜や権祢宜を「宮司さん」と呼んでは決していけないのです。以下、祢宜=部長・課長、権祢宜=平社員というランクになります。規模の大きな神社では、宮司と祢宜の間に「権宮司(ごんぐうじ)」という職を設けているところがあります。今日も使います「神主さん」いう呼称は、神職の一般名称ですから、宮司、祢宜、権祢宜を「神主さん」といっても、何の失礼もありません。

 5、神社本庁の発足まで
 現在の神社本庁傘下の神社は、大東亜戦争の敗戦に伴いGHQ(連合国総司令部)によって実施された昭和20年12月の神道指令により、神社神道と政府とが分離されたところを起点として出発しています。翌昭和21年2月3日に神社本庁が宗教令(昭和26年制定以前の宗教法人法の前身)下に宗教団体として出発しました。

 今日の神社本庁傘下の神社は、神社本庁の定める別表(べっぴょう)神社とそれ以外の非別表神社に大きく二分されます。

 7、官国幣社時代
 明治から戦前(大東亜戦争)を、官国幣社時代と呼んでいます。この呼称は、当時神社の大祭などに国家から幣帛料(金銭)がお供えとして供えられ、その幣帛料が宮内省式部寮から支出される神社は官幣社、大蔵省から支出される神社は国幣社とされたのでした。
 この官幣社(91社)と国幣社(100社)、そして別格官幣社(27社)を総称して官社といい、これ以外の神社を民社といいます。官国幣社制度は、明治政府によって全く新たに作り出された制度ではありません。平安時代の神社の社格制度を手本として、そこに新たな要素も加えて明治政府が作った社格制度といえます。[図表Ⅰ]

 8、官社と民社

  官国幣社制度下では、神社は官社(218社)と民社(110,077) に大きく二分されていました。官社は、中央・地方の古くから有名な神社や皇室と関係の深い神社が殆どですが、その数は神社全体からみれば、非常に僅かなものでした。官国幣社の神職は国家の待遇官吏で、内務大臣・地方長官が任命し、俸給も支給されていました。准公務員ですから官国弊社の神職は鼻が高かったようです。しかし大部分の民社の神主には、そうした待遇は有りませんでした。[図表Ⅱ]







(私論.私見)