日本神道の歴史5、明治国家神道考

 (最新見直し2010.09.29日)

【国学の動き】

 この頃のみきに影響を与えたベクトルの一つとして、この時代を彩どった国学の流れにも一言要する。国学はその学問的系譜からみれば、その当初より在野的な研究として発展した。徳川幕府は、体制維持の理論的支柱として儒学を官学化し、これに権威を与え学問的統制をしていたが、国学はこうした幕府の主流の学問政策に異議を唱える観点から、儒教のみならず仏教迄含めた、そうした精神性に汚染される前の古来の日本人が保持していた「大らかで雅な感情、心性を見直そうとする学問」として受け継がれていくこととなった。遠回しの体制批判的な意味合いが込められていたその種の学問として認識することができる。国学はやがて古道学へと到達し、勢いそうした復古精神が、幕末の社会情勢の中で倒幕イデオロギーの下地となり、尊皇攘夷の有力な思想的原動力の一つとなって行ったのも理の当然であったといえる

 こうした国学の影響をここで取り上げる意義は、国学の精神が、当時のみきの精神にも相応な影響を及ぼしたものと伺うことができることにある。既にのべたところであるが、みきの父半七は、国学の泰斗本居宣長と同時代人であるばかりか、宣長の居住した伊勢松阪とは地理的にも遠くなく、読書好きであった半七に、宣長の学問的成果が伝えられていたことが容易に想像され、そうした半七の口伝を通じて、みきにも又当時の時代枠にとらわれない古代の人々のものの考え方に対する洞察力が伝わっていたものと拝察されるみきに与えられたこうした精神風土とますます隆盛していく国学の精神が、この当時のみきに引き続き影響を与え続けていたことが拝察し得るように思われる。

 この当時本居宣長の学問的な営みが大和迄伝わるのに時間差は殆どなかったものと考えられる。丁度宣長が精力的に取り組んでいた「古事記伝」全44巻執筆の年代は、父半七の働き盛りの時代と符号しており、読書家であった半七の目にも留まっていたと考える方が自然である。宣長は、「敷島のやまと心を人問わば、朝日に匂う山桜花」と詠い、天竺.唐心に汚染される前の、古来日本の「明るく素直で清らかな大和心」の見直しに学問的業績が見られるが、こうした影響が半七に伝わり、そうした半七の気分が、みきの幼き心に対しても刻印を為したことを窺うことは穿ち過ぎであろうか。

 
特に、古事記における神々の「国産み譚」、「国譲り譚」、「天孫降臨譚」、「神武東征譚」等々の日本の神代の言い伝えについて、みきの耳に寝物語的に届けられたことがなかったであろうか。なお神代の言い伝えについては、大和神社、大神神社、石上神宮等の縁起も一考に値する。詳細は省くとして、古くよりの大和人には、古事記における神々の「天孫系国産み譚」とは別の出雲神話系譜の「国津系国産み譚」が伝承されており、みきの幼少期の精神に与えた原風景として注目されるところである。後に、みきは、立教後に「泥海こふき」を語ることになるが、意味内容は異なるものの、「この世の元始まり」という認識を持たしめた淵源として、こうした国学の動き、出雲神話系譜の「国産み譚」による地勢的時代的影響を推測し得ると思われる。


【国学の系譜考、国学四大人うし考】
 暫く、国学の流れを追うこととする。江戸時代も元禄、享保の頃になると、こうした神、儒、仏の混肴した神道界の流れの中から、我が国固有の神道とは何かを問う動きも出始めた。一部の国学者の間から、仏教や儒教の伝来する以前の純粋な神道に立ち返ろうとする機運が盛り上がった。これが「復古神道」と呼ばれるものである。この範疇に入る代表的な「神道」家として荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤等の、いわゆる国学四大人うしである。中でも、本居宣長、平田篤胤の「復古神道」の確立に果たした役割は大きかった。復古「神道」は、幕末期において、尊皇攘夷論に影響を与え、倒す幕府の指導原理ともなり、旺盛復古を実現させた。さらに維新後も、国家神道として、その精神的理論的中枢に据えられ、結果的に国粋主義を助長させることとなった。

 国学は、下河部長流(1624~86).契沖(1640~1701)らによる歌学の革新に源流を持つ。その意図するところは、儒学や仏教の立場から古典を道徳的教訓的に注釈するのではなく、当時の心そのものを読み味わうべきであるという主張にあった。この精神を受け継いだのが荷田春満(1669~1736)である。「復古神道」は、まず荷田春満により提唱された。春満は、京都伏見の稲荷神社の神職であり、歌学にとどまらず古典全般において、幕府の官学的立場を占める儒学に対するものとして日本固有の精神を対置させ、「古事記」、「日本書紀」など古典古語の研究を通じて国学を振興すべきことを説いた。神仏集合説に基づいたそれまでの「神道」や、東征に流行していた神儒一致論を嘆き、儒教で説かれるところのみが人の道ではない、「神道」も又人の踏み行うべき道であるとして、神祇道徳を唱えた。そして、古語に精通し、正確な古典研究により、上代における我が国固有の道を詳らかにするという「復古神道」を指針させた。

 その研究は、もと遠江浜松の神職に血筋を持つ春満の門人賀茂真淵(1697~1769)に受け継がれていくこととなった。真淵は、京都の荷田春満の門下となってその教えを学ぶと、やがて江戸へ出て、自ら国学を教えつつ、「復古神道」を唱えた。真淵の著作は、万葉考、国意考をはじめ、祝詞のりと考、延喜式祝詞解等多数ある。真淵は、特に「万葉集」の研究に向かい、万葉集研究の大家として知られる。真淵が、万葉集その他古典研究に没頭したのは、日本の古語に通じることによって、古い義務を明らかにすることで、古い道の何たるかを知るという、荷田春満の「復古神道」を継承した為であった。著書「万葉考」の中で古代人の“高く直き心”を称え、「いにしへにかえる」ことを強調し、「上つ代の道をあきらかにせん」とした。そして、もともと我が国には、いにしへの道が広く栄え、ますますの興隆をみせんとしていたが、儒教の渡来によってそれが妨げられ、真の神道の本質がわからなくなってしまったと説き、神儒一致論者をことごとく批判した。「国意考」では、日本人の古代精神に関心を見せ、古道の究明に努めた。真淵は、日本人の古代精神を、儒教.仏教の影響を受ける前の清浄純正な古代の生活の中にあり、形式主義的な儒教道徳に束縛されない、おおらかで自然な心であるとした。

 こうした真淵の主張するところに感銘を受け、真淵の下に弟子入りしたのが、本居宣長である。真淵の研究成果は、伊勢松阪の木綿問屋に生まれ、小児科医を業としていた本居宣長(1730~1801)に受け継がれ大成されていくこととなった。宣長は、特に「源氏物語」を研究して、日本人の心性としての“もののあはれ”を称揚し、儒教的な道徳論からの文学の開放及び人間感情を素直に肯定する清新な文学論をうちだした。更に持統天皇の時代に編纂された日本の代表的古典である「古事記」を重視し、その半生をかけて取組み、「古事記伝」全48巻(寛政10年、1798)を著した。「古事記伝」は古典文献学の集大成とも云えるものとなった。宣長は他にも直毘霊(なおびのみたま)、玉鉾百種、玉くしげ、玉勝間、大祓詞後釈(おおはらいのことばごしゃく)、答問録など60冊以上もの著作を世に送り出した。その研究成果から、漢意(からごころ)を排斥し、儒学が全盛を極めた当時の学会や思想界を批判した。漢意という先入観を取り除いて、純粋な日本精神に立ち返り、日本の古典を学び極めれば、「世にすぐれたるまことの道」(玉勝間)としての本当の神の道が見えて来るとしたのである。こうして、自然のままの生活を尊ぶ古代の人々の精神面に賛辞を送り続けるところとなった。

 宣長の没後、平田篤胤(1776~1843)が登場し、「復古神道」は更に間口を広げることになった。篤胤は、秋田の佐竹藩士の子に生まれで、江戸で学ぶうち宣長没後の門人を自称する身となった。篤胤は、宣長の古事記神話的神道説の垣根を取り払い、古事記より前の神道を伝えているとされる旧事記的神道、或いは更に遡り古史古伝的神道まで探索して行った。篤胤の特徴は、師と違いというかいや増してイデオロギッシュな側面を持ち、神道思想を深化させていき、古道大意、古史成文、古史徴、古史伝、大道或門(だいどうわくもん)などを著し、国粋主義の観点からの復古神道を主唱することとなった。俗神道大意では、当時の既成「神道」、すなわち仏教や儒教などの影響を受けた、平田篤胤の云う俗「神道」を批判し、神学日文伝では、神代文字に関する研究論を発表した。さらには、霊魂、幽冥界来世といった霊的なテーマにも目を向け、霊能真柱(たまのみはしら)、鬼神新論などの書も著わし、「神道」家としての枠を越えた研究活動を行った。その意図するところは国学の精神である、外来思想に犯され、汚され、泥まみれになっている神道の復権にあった。そのため、単に我が国の古学や「神道」学のみならず、ありとあらゆる対立思想(仏教、儒教、蘭学、漢学、易学、キリスト教え、中国やインドの古伝史書、神道各派の教義)の研究に没頭し、篤胤の博学は当時の古今東西のあらゆる学問に及んだ。その成果をエキスとして抽出し、知識を総動員して、平田篤胤は、仏教や儒教など外国思想の渡来する以前の純粋な日本精神を取戻し、古の道を復活する必要性を説いた。平田篤胤の「神道」論の特色は、徹底した日本至上主義にあった。云はく、わが国の道こそ根本であり、儒仏蘭などの道は枝葉に過ぎず、すべて学問は根元を尋ね学んで、初めて枝葉の事をも知るべきであって、枝葉のことのみ学んでも、根本のことは知りがたい(大道或門)とし日本源論、皇国中心論を唱えた。

 小滝透・氏は、著書「神々の目覚め」で次のように記している。
 「この試みは、外来思想の影響を排除に排除を重ねた結果、ラッキョの皮むきと同じになり、最後まで核心部分(この場合は純粋日本神道)に到達しないまま終了するが、彼に代表されるこうした仕事はそれまで地下にうごめいていた神々を一斉に飛び出させることにもなった。この結果、神々は鳴動して溢れ出た。名だたる古神道家が続出し、仏教的解釈を施されていた世界観は一掃された。神道ルネサンスの誕生である。それに伴い、神道独自の霊学も徐徐に体系づけられてゆく-『記紀神話への独自の解釈』、『霊界の模様を語った様々な神霊文書』、『言霊学、鎮魂、帰神、太占と呼ばれる霊学の確立』等々。それらは、時代の熱気を伴って人々の心を強く打った」。

 平田教説は、天保期の神職、村役人級の上層農民、代官級の上級武士の間に急速に広まり、やがて幕末の社会情勢の中で、尊皇攘夷の有力な思想的原動力の一つとなって行った。国学が幕末の勤皇志士のイデオロギー的側面を担ったことが注目される。その根は深く、明治維新後にも影響を及ぼし、天皇制イデオロギーにも加担していくこととなった。平田篤胤の門下からは、矢野玄道、大国隆正、鈴木重胤など、数多くの有力人士が輩出している。これらの人々の活躍により、幕末の思想界は、多大な影響を受け、幕末維新、明治維新へ向けて急転回して行った。

 こうした潮流の中で、日本列島各地に「一種の神霊的な異変」が起り始めた。「真の神道」を甦らそうとする胎動であった。これを「幕末創始宗教」と云う。黒住教、金光教、天理教が代表的な動きとなる。

【国学、復古神道のその後】

 明治新政府は、「文明開化」の名の下での開放政策のもと西洋の思想や文化を積極的に取り入れて行った。他方で、政治基盤を固める為に「神道」を最大限に利用して行くことになった。そもそも三百年の間、政権を握って天下を支配した、権力の座にある幕府を倒し、天皇親政の明治政府を樹立することのできたのは、各地に蜂起した勤皇の志士逹の活動によるのであるが、彼らの行動理念として、力強く彼らを駆り立てたものは、一部国学者が唱え始めた復古思想であった。従って、皇政復古という大目的が達せられ、新政府が樹立するや、復古思想は時代を風靡する支配勢力となり、天皇親政は、祭政一致、政教一致へと進み、政治も、宗教も、教育も一切を、わが国固有の神ながらの道にのっとってやることになり、その神ながらの道も、一切の夾雑物を交えない、純粋なものが要求されるようになった。かくては多年、その神ながらの道と習合して、大きな影響を与えてきた儒教、仏教をはじめ、その他一切の外来思想は、徹底的にせん除せよという、極端な方向に走っていった。

 明治政府は、祭政一致政体の天皇制国家を掲げ、そのイデオロギーとして「神ながらの道の皇国史観的神道化」を図った。これに基づく民心育成、国民教育の大指針を掲げた。1872(明治5)年、記紀神話に基づく建国記念日を紀元前660年の2.11日に定めた。末端の宗教信仰や行事などを取り締まる細則までが確立したのは1874(明治7)年に至ってであった。この期間、「諸事一新」に力を入れた明治政府が西欧的学問、制度を吸収することに追われ、日本固有の宗教信仰などの指導監督に充分な力を注ぐほどの余力がなかったことによる。

 明治政府の宗教政策は、新たな「神道」体制を構築した。全国の神社は天皇家の祖神である天照大神を祭神とする伊勢神宮を筆頭とする傘下に治められて行った。神社は、国民の意識を束ねる精神的統合の象徴として利用された。神道と仏教の強制的な分離政策が施行され、廃仏毀釈運動が起った。修験道等の異端宗教は排撃の対象となり、逆にキリスト教は解禁されて行った。これがいわゆる「国家神道」とよばれるものである。「国家神道」とは、いわば明治新政府の支配者に都合の良いように改造された皇国史観宗教であった。

 お道教理は、こうした明治維新政府による統制的な「神ながらの道」と対立することになった。しかし、お道の信仰者には主として百姓や職人が多く、明治新政府の動向に対しては無知な人たちばかりであったから官憲の動きなど知る由もなかった。お道に対する本格的な弾圧の気配が濃厚になった。教祖がどう対応し、教内がどう割れるか、これが明治以降のお道史となる。





(私論.私見)