日本神道の歴史4、徳川時代の国学系神道考

 (最新見直し2010.09.29日)

【「理当心地神道」について】
 徳川時代に入ると、朱子学が官学として採用される等、儒教が重んじられるようになる。幕府は、封建体制を維持、擁護する為、主従関係のありかたや道徳論を儒教に説かせ手厚い保護を与えた。この動きに、それまで多少の差こそあれ、神仏集合説をとっていた神道会も大きく影響され、神儒一致思想が飛躍的な発展を見せることになった。

 神儒一致論を初めて唱えたのは、幕府の御用学者であり、朱子学者の林羅山であった。羅山は、著書「本朝神社考」の中で、吉田神道の神主仏従説を、「陽には神事を為し、陰には仏法を為す者なり」として非難した。そして儒教と神道とを一致させた理論こそ本物であるとして、理当心地神道を創唱した。羅山のこの神儒一致思想に共鳴、感化される者が学派の違いを越えて数多く現われた。

【「修験道法度」について】
 1613(慶長18)年、徳川幕府は、修験道法度を定め,諸国の修験者を聖護院を本山とする本山派と、醍醐三宝院が統轄した当山十二正大先達衆(正大先達寺が12に減少)を中核とする当山派の両派に分属させた。本山派においては,各地の主要な修験者に年行事の職を与え、霞と呼ばれる一定地域での活動を公認した。

【「吉川神道」について】
 この頃、神道会では、吉田神道が、神道の本家本元的な存在として、幕府の承認のもとに、神職の任命、神社への神号神位の授与をとりしきる等、いろいろな面で権勢をふるっていた。その吉田家の継承者であった萩原兼従の弟子となった吉川惟足(これたり)は、吉田神道の最高奥義を伝授され、やかで吉田神道をベースに、儒教と武士道を加味した吉川神道を完成させる。儒教には、元々廃仏的な傾向があるが、惟足は、神仏集合的な色合いを含んでいた吉田神道から、仏教的要素を切り捨てて儒教的教義を導入し、再編成した。神儒一致を説く吉川「神道は、理学神道とも呼ばれる。

 吉川神道が昌導されるや、紀伊の徳川頼宣、会津の保科正之など、諸大名の中に共鳴者が多く出始め、武士の間にも広く浸透し、次第に勢力を増していった。水戸藩においては、藩主が率先して吉川神道を学ぶ程であり、後大日本史の編纂事業と共に皇国思想を確立し、水戸学として大成するに至り、幕末の尊皇攘夷運動につながって云った。

【「度会神道」について】
 一方、伊勢神道でも、度会延佳(のぶよし)の出現により儒学思想が導入され、神主儒従に基づく神儒一致の神道として刷新がはかられるに及び、再び興隆を見せ始めた。延佳の確立した伊勢神道の教義によれば、神道とは、玉串を持ち、神語を唱えることのみではなく、人々、日常生活における一挙手一投足、すべて皆これ一事として神道でないものは無い(陽復記)のであり、仏教や儒教は、「神道」を根本とした上で学問するならば、神道のよき羽翼ともなるものである」とした。

【山崎闇斎の垂下神道について】
 度会神道からは、多くの有力な門下が出たが、その一人に垂加神道の創始者山崎闇斎(1618-82)がいる。山崎は、延佳に弟子入りし、中臣祓いの伝を受けると、次に吉田神道の門を叩き、吉川惟足に師事してその奥義を得、更に忌部神道、賀茂神道といった諸派に学ぶなどして、更に朱子学、易学、陰陽道などの要素も加え、垂加神道として独自の流派を確立した。

 垂加神道では、主従関係や師弟関係の結びつきが重要視され、徹底した廃仏、道徳主義が唱えられた。とりわけ天皇の崇拝と皇室の護持が強調され、武士から平民まで幅広い層からの支持を集めた。この思想から、結果的に数多くの尊皇思想家が生まれることとなった。

 山崎闇斎は著書「風水草」で「天御陰(あめのひかげ)、日御陰(ひのひかげ)は、これ皇儀にして神道を表すものなり」と記している。他に「君臣合体守中こそ我が国の道義である」とも述べている。

【「復古神道」について】
 ところで、江戸時代も元禄、享保の頃になると、こうした神、儒、仏の混肴した神道界の流れの中から、我が国固有の神道とは何かを問う動きも出始めた。一部の国学者の間から、外来思想の仏教や儒教の伝来する以前の純粋な古神道に立ち返ろうとする機運が盛り上がった。これが復古神道と呼ばれるものである。

 この範疇に入る代表的な神道家として荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤等の、いわゆる国学四大人うしである。中でも、本居宣長、平田篤胤の、復古神道の確立に果たした役割は大きかった。復古神道は、幕末期において、尊皇攘夷論に影響を与え、倒幕の指導原理ともなり、王政復古を実現させた。さらに維新後も、国家神道として明治の宗教行政に大きな影響を与えた。復古神道は、明治政府の精神的理論的中枢に据えられ、結果的に国粋主義を助長させることとなった。
 

【福徳神信仰について】
 この頃、町人階層の台頭による近世都市文化の下で、現世利益の願いを満たす福徳神信仰が人々の信仰を集めた。京都の伏見稲荷に源を有する稲荷信仰や、エビス・大黒などの信仰がひろまるとともにさまざまな流行神が現れては消えていった。庶民の遠隔地の神社への参詣も盛んとなり、お伊勢参りや金毘羅詣で、富士山や御岳山への登拝が流行し始めた。

【荒深神道について】
 荒深道斉(あらふかみちなり、1871-1949)氏が、古神道の復元に向かった。彼は言霊を重視し、「天津野祝詞、太祈言(ふとのりと)」と云われる「ヒフミヨイムナヤコト モチロ、ラネシキル、ユヰツ、ワヌソヲ、タハクメカ、ウオエニサリヘテ ノマスアセエホレケ、ン」の48音の言霊展開を掲げた。更に、ヒフミ十音を、宇宙の混沌から人の出現までの経緯を表わした言霊であると説き、ヒトの語源は最初のヒと最後のトをあわせたものから生まれたと説く。いあにいところで、江戸時代も元禄、享保の頃になると、こうした神、儒、仏の混肴した神道界の流れの中から、我が国固有の神道とは何かを問う動きも出始めた。一部の国学者の間から、外来思想の仏教や儒教の伝来する以前の純粋な古神道に立ち返ろうとする機運が盛り上がった。これが復古神道と呼ばれるものである。 

【「古代天皇制時代の日本神道信仰」について】
 明治新政府の神道政策は、重複を避ける為その第一期を「官制『神随らの道』と教祖の教え」に記し、第二期を「明治新政府のその後の動きと教祖の対応」に記し、第三期を「明治新政府のその後の動きと教派神道13派考」に記す。日清、日露戦争後から大東亜戦争敗北までの神道政策、及び敗戦後の神道政策の変遷は、「靖国神社の由来と歴史について」に記す。

【国学の動き】

 この頃のみきに影響を与えたベクトルの一つとして、この時代を彩どった国学の流れにも一言要する。国学はその学問的系譜からみれば、その当初より在野的な研究として発展した。徳川幕府は、体制維持の理論的支柱として儒学を官学化し、これに権威を与え学問的統制をしていたが、国学はこうした幕府の主流の学問政策に異議を唱える観点から、儒教のみならず仏教迄含めた、そうした精神性に汚染される前の古来の日本人が保持していた「大らかで雅な感情、心性を見直そうとする学問」として受け継がれていくこととなった。遠回しの体制批判的な意味合いが込められていたその種の学問として認識することができる。国学はやがて古道学へと到達し、勢いそうした復古精神が、幕末の社会情勢の中で倒幕イデオロギーの下地となり、尊皇攘夷の有力な思想的原動力の一つとなって行ったのも理の当然であったといえる

 こうした国学の影響をここで取り上げる意義は、国学の精神が、当時のみきの精神にも相応な影響を及ぼしたものと伺うことができることにある。既にのべたところであるが、みきの父半七は、国学の泰斗本居宣長と同時代人であるばかりか、宣長の居住した伊勢松阪とは地理的にも遠くなく、読書好きであった半七に、宣長の学問的成果が伝えられていたことが容易に想像され、そうした半七の口伝を通じて、みきにも又当時の時代枠にとらわれない古代の人々のものの考え方に対する洞察力が伝わっていたものと拝察されるみきに与えられたこうした精神風土とますます隆盛していく国学の精神が、この当時のみきに引き続き影響を与え続けていたことが拝察し得るように思われる。

 この当時本居宣長の学問的な営みが大和迄伝わるのに時間差は殆どなかったものと考えられる。丁度宣長が精力的に取り組んでいた「古事記伝」全44巻執筆の年代は、父半七の働き盛りの時代と符号しており、読書家であった半七の目にも留まっていたと考える方が自然である。宣長は、「敷島のやまと心を人問わば、朝日に匂う山桜花」と詠い、天竺.唐心に汚染される前の、古来日本の「明るく素直で清らかな大和心」の見直しに学問的業績が見られるが、こうした影響が半七に伝わり、そうした半七の気分が、みきの幼き心に対しても刻印を為したことを窺うことは穿ち過ぎであろうか。

 
特に、古事記における神々の「国産み譚」、「国譲り譚」、「天孫降臨譚」、「神武東征譚」等々の日本の神代の言い伝えについて、みきの耳に寝物語的に届けられたことがなかったであろうか。なお神代の言い伝えについては、大和神社、大神神社、石上神宮等の縁起も一考に値する。詳細は省くとして、古くよりの大和人には、古事記における神々の「天孫系国産み譚」とは別の出雲神話系譜の「国津系国産み譚」が伝承されており、みきの幼少期の精神に与えた原風景として注目されるところである。後に、みきは、立教後に「泥海こふき」を語ることになるが、意味内容は異なるものの、「この世の元始まり」という認識を持たしめた淵源として、こうした国学の動き、出雲神話系譜の「国産み譚」による地勢的時代的影響を推測し得ると思われる。


【国学の系譜考、国学四大人うし考】
 暫く、国学の流れを追うこととする。江戸時代も元禄、享保の頃になると、こうした神、儒、仏の混肴した神道界の流れの中から、我が国固有の神道とは何かを問う動きも出始めた。一部の国学者の間から、仏教や儒教の伝来する以前の純粋な神道に立ち返ろうとする機運が盛り上がった。これが「復古神道」と呼ばれるものである。この範疇に入る代表的な「神道」家として荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤等の、いわゆる国学四大人うしである。中でも、本居宣長、平田篤胤の「復古神道」の確立に果たした役割は大きかった。復古「神道」は、幕末期において、尊皇攘夷論に影響を与え、倒す幕府の指導原理ともなり、旺盛復古を実現させた。さらに維新後も、国家神道として、その精神的理論的中枢に据えられ、結果的に国粋主義を助長させることとなった。
 国学は、下河部長流(1624~86).契沖(1640~1701)らによる歌学の革新に源流を持つ。その意図するところは、儒学や仏教の立場から古典を道徳的教訓的に注釈するのではなく、当時の心そのものを読み味わうべきであるという主張にあった。この精神を受け継いだのが荷田春満(1669~1736)である。「復古神道」は、まず荷田春満により提唱された。春満は、京都伏見の稲荷神社の神職であり、歌学にとどまらず古典全般において、幕府の官学的立場を占める儒学に対するものとして日本固有の精神を対置させ、「古事記」、「日本書紀」など古典古語の研究を通じて国学を振興すべきことを説いた。神仏集合説に基づいたそれまでの「神道」や、東征に流行していた神儒一致論を嘆き、儒教で説かれるところのみが人の道ではない、「神道」も又人の踏み行うべき道であるとして、神祇道徳を唱えた。そして、古語に精通し、正確な古典研究により、上代における我が国固有の道を詳らかにするという「復古神道」を指針させた。
 その研究は、もと遠江浜松の神職に血筋を持つ春満の門人賀茂真淵(1697~1769)に受け継がれていくこととなった。真淵は、京都の荷田春満の門下となってその教えを学ぶと、やがて江戸へ出て、自ら国学を教えつつ、「復古神道」を唱えた。真淵の著作は、万葉考、国意考をはじめ、祝詞のりと考、延喜式祝詞解等多数ある。真淵は、特に「万葉集」の研究に向かい、万葉集研究の大家として知られる。真淵が、万葉集その他古典研究に没頭したのは、日本の古語に通じることによって、古い義務を明らかにすることで、古い道の何たるかを知るという、荷田春満の「復古神道」を継承した為であった。著書「万葉考」の中で古代人の“高く直き心”を称え、「いにしへにかえる」ことを強調し、「上つ代の道をあきらかにせん」とした。そして、もともと我が国には、いにしへの道が広く栄え、ますますの興隆をみせんとしていたが、儒教の渡来によってそれが妨げられ、真の神道の本質がわからなくなってしまったと説き、神儒一致論者をことごとく批判した。「国意考」では、日本人の古代精神に関心を見せ、古道の究明に努めた。真淵は、日本人の古代精神を、儒教.仏教の影響を受ける前の清浄純正な古代の生活の中にあり、形式主義的な儒教道徳に束縛されない、おおらかで自然な心であるとした。
 こうした真淵の主張するところに感銘を受け、真淵の下に弟子入りしたのが、本居宣長である。真淵の研究成果は、伊勢松阪の木綿問屋に生まれ、小児科医を業としていた本居宣長(1730~1801)に受け継がれ大成されていくこととなった。宣長は、特に「源氏物語」を研究して、日本人の心性としての“もののあはれ”を称揚し、儒教的な道徳論からの文学の開放及び人間感情を素直に肯定する清新な文学論をうちだした。更に持統天皇の時代に編纂された日本の代表的古典である「古事記」を重視し、その半生をかけて取組み、「古事記伝」全48巻(寛政10年、1798)を著した。「古事記伝」は古典文献学の集大成とも云えるものとなった。宣長は他にも直毘霊(なおびのみたま)、玉鉾百種、玉くしげ、玉勝間、大祓詞後釈(おおはらいのことばごしゃく)、答問録など60冊以上もの著作を世に送り出した。その研究成果から、漢意(からごころ)を排斥し、儒学が全盛を極めた当時の学会や思想界を批判した。漢意という先入観を取り除いて、純粋な日本精神に立ち返り、日本の古典を学び極めれば、「世にすぐれたるまことの道」(玉勝間)としての本当の神の道が見えて来るとしたのである。こうして、自然のままの生活を尊ぶ古代の人々の精神面に賛辞を送り続けるところとなった。
 宣長の没後、平田篤胤(1776~1843)が登場し、「復古神道」は更に間口を広げることになった。篤胤は、秋田の佐竹藩士の子に生まれで、江戸で学ぶうち宣長没後の門人を自称する身となった。篤胤は、宣長の古事記神話的神道説の垣根を取り払い、古事記より前の神道を伝えているとされる旧事記的神道、或いは更に遡り古史古伝的神道まで探索して行った。篤胤の特徴は、師と違いというかいや増してイデオロギッシュな側面を持ち、神道思想を深化させていき、古道大意、古史成文、古史徴、古史伝、大道或門(だいどうわくもん)などを著し、国粋主義の観点からの復古神道を主唱することとなった。俗神道大意では、当時の既成「神道」、すなわち仏教や儒教などの影響を受けた、平田篤胤の云う俗「神道」を批判し、神学日文伝では、神代文字に関する研究論を発表した。さらには、霊魂、幽冥界来世といった霊的なテーマにも目を向け、霊能真柱(たまのみはしら)、鬼神新論などの書も著わし、「神道」家としての枠を越えた研究活動を行った。その意図するところは国学の精神である、外来思想に犯され、汚され、泥まみれになっている神道の復権にあった。そのため、単に我が国の古学や「神道」学のみならず、ありとあらゆる対立思想(仏教、儒教、蘭学、漢学、易学、キリスト教え、中国やインドの古伝史書、神道各派の教義)の研究に没頭し、篤胤の博学は当時の古今東西のあらゆる学問に及んだ。その成果をエキスとして抽出し、知識を総動員して、平田篤胤は、仏教や儒教など外国思想の渡来する以前の純粋な日本精神を取戻し、古の道を復活する必要性を説いた。平田篤胤の「神道」論の特色は、徹底した日本至上主義にあった。云はく、わが国の道こそ根本であり、儒仏蘭などの道は枝葉に過ぎず、すべて学問は根元を尋ね学んで、初めて枝葉の事をも知るべきであって、枝葉のことのみ学んでも、根本のことは知りがたい(大道或門)とし日本源論、皇国中心論を唱えた。

 小滝透・氏は、著書「神々の目覚め」で次のように記している。
 「この試みは、外来思想の影響を排除に排除を重ねた結果、ラッキョの皮むきと同じになり、最後まで核心部分(この場合は純粋日本神道)に到達しないまま終了するが、彼に代表されるこうした仕事はそれまで地下にうごめいていた神々を一斉に飛び出させることにもなった。この結果、神々は鳴動して溢れ出た。名だたる古神道家が続出し、仏教的解釈を施されていた世界観は一掃された。神道ルネサンスの誕生である。それに伴い、神道独自の霊学も徐徐に体系づけられてゆく-『記紀神話への独自の解釈』、『霊界の模様を語った様々な神霊文書』、『言霊学、鎮魂、帰神、太占と呼ばれる霊学の確立』等々。それらは、時代の熱気を伴って人々の心を強く打った」。

 平田教説は、天保期の神職、村役人級の上層農民、代官級の上級武士の間に急速に広まり、やがて幕末の社会情勢の中で、尊皇攘夷の有力な思想的原動力の一つとなって行った。国学が幕末の勤皇志士のイデオロギー的側面を担ったことが注目される。その根は深く、明治維新後にも影響を及ぼし、天皇制イデオロギーにも加担していくこととなった。平田篤胤の門下からは、矢野玄道、大国隆正、鈴木重胤など、数多くの有力人士が輩出している。これらの人々の活躍により、幕末の思想界は、多大な影響を受け、幕末維新、明治維新へ向けて急転回して行った。

 こうした潮流の中で、日本列島各地に「一種の神霊的な異変」が起り始めた。「真の神道」を甦らそうとする胎動であった。これを「幕末創始宗教」と云う。黒住教、金光教、天理教が代表的な動きとなる。

【国学、復古神道のその後】

 明治新政府は、「文明開化」の名の下での開放政策のもと西洋の思想や文化を積極的に取り入れて行った。他方で、政治基盤を固める為に「神道」を最大限に利用して行くことになった。そもそも三百年の間、政権を握って天下を支配した、権力の座にある幕府を倒し、天皇親政の明治政府を樹立することのできたのは、各地に蜂起した勤皇の志士逹の活動によるのであるが、彼らの行動理念として、力強く彼らを駆り立てたものは、一部国学者が唱え始めた復古思想であった。従って、皇政復古という大目的が達せられ、新政府が樹立するや、復古思想は時代を風靡する支配勢力となり、天皇親政は、祭政一致、政教一致へと進み、政治も、宗教も、教育も一切を、わが国固有の神ながらの道にのっとってやることになり、その神ながらの道も、一切の夾雑物を交えない、純粋なものが要求されるようになった。かくては多年、その神ながらの道と習合して、大きな影響を与えてきた儒教、仏教をはじめ、その他一切の外来思想は、徹底的にせん除せよという、極端な方向に走っていった。

 明治政府は、祭政一致政体の天皇制国家を掲げ、そのイデオロギーとして「神ながらの道の皇国史観的神道化」を図った。これに基づく民心育成、国民教育の大指針を掲げた。1872(明治5)年、記紀神話に基づく建国記念日を紀元前660年の2.11日に定めた。末端の宗教信仰や行事などを取り締まる細則までが確立したのは1874(明治7)年に至ってであった。この期間、「諸事一新」に力を入れた明治政府が西欧的学問、制度を吸収することに追われ、日本固有の宗教信仰などの指導監督に充分な力を注ぐほどの余力がなかったことによる。

 明治政府の宗教政策は、新たな「神道」体制を構築した。全国の神社は天皇家の祖神である天照大神を祭神とする伊勢神宮を筆頭とする傘下に治められて行った。神社は、国民の意識を束ねる精神的統合の象徴として利用された。神道と仏教の強制的な分離政策が施行され、廃仏毀釈運動が起った。修験道等の異端宗教は排撃の対象となり、逆にキリスト教は解禁されて行った。これがいわゆる「国家神道」とよばれるものである。「国家神道」とは、いわば明治新政府の支配者に都合の良いように改造された皇国史観宗教であった。

 お道教理は、こうした明治維新政府による統制的な「神ながらの道」と対立することになった。しかし、お道の信仰者には主として百姓や職人が多く、明治新政府の動向に対しては無知な人たちばかりであったから官憲の動きなど知る由もなかった。お道に対する本格的な弾圧の気配が濃厚になった。教祖がどう対応し、教内がどう割れるか、これが明治以降のお道史となる。


【金光教と天理教の公認化経緯考】
 金光教と天理教に見る白川家と吉田家の許状とその影響」。
 幕末に活動を始めた金光教祖赤沢文治と天理教祖中山みきは 信者が増えるにつれて、自分たちの競争相手のように見なす修験 者など他の宗教者から問答をしかけられるといった妨害活動が生 じてきます。そこで問題になるのは、文治やみきが宗教活動を行え る許可を取っているかどうかということでした。江戸時代において は、神主などのような活動をするには公家の吉田家や白川家の許 可が必要だったのです。 そこで便宜上、文治は白川家に入門して資格を得ます。みきは 吉田家からみきの子供であるこかん、秀司の名前で資格を得ます。 ところが明治になるとこの資格は無効になります。文治は明治3 年頃からその活動に対して県庁などからの指導があり、6年には戸 長から神前の物の撤去を命じられます。 これに対して、みきの場合は明治6年末まで平穏に推移していき ます。ところがこの平穏であることにみき自身から活動を起し明治7 年末には官憲の手によって神道祭具を撤去させる事態になります。 文治の場合は時代の流れに沿った動きになっているのですが、 みきの場合は少しその動きが複雑です。 なぜこのようになっていったのか、二つの事例を比較してみましょ う。
 吉田家と白川家の由来

 江戸時代に吉田家と白川家が神社の神職などにその資格を与える事が出来たのは古代の律令制での神祇官という制度に由来します。 神祇官は朝廷の祭祀を司る官であり、諸国の官社を総轄しました。長官は神祇伯。平安時代初期までは律令制の原則が守られたため、 伯の職も独占ではなかったのですが、のちに花山源氏白川家が神祇官の長である神祇伯に代々就任するようになりました。神祇伯に なったものは実際は臣下でも王を称したので、白川伯王家などともいわれます。 吉田家は神祇官の下級技術吏ト部に出自を持ち、神祇大副(神祇官次官)を最高位とする公家で、吉田神社の神主でした。15世紀の 後期に吉田家の当主になった吉田兼倶は「唯一神道」と呼ばれる吉田神道を作りました。兼倶は、「神祇大副」の他に神祇伯と対等の席 を占める「神祇管領長上」という肩書を持ち、吉田家は幕末まで神道界に大きな勢力を誇りました。
 両家の権威の前提になる江戸時代の法令

 ここではまず、吉田家と白川家が神職等の獲得合戦を始める前提となる江戸時代の法令を確認しておきます。江戸時代初期には神職 の資格を与える権威は各地の大社や吉田家、伊勢神宮、修験道の本山など複数が存在しました。これでは統一政権である江戸幕府に とっては神社、神職の把握などが一元的にできないという問題がありました。そこで、寛文五(1665)年に「諸社禰宜神主法度」という法律 を制定しました。これは由緒のある大きな神社などは別にして、それ以外の神職は吉田家から資格などを受けるようにと決めたものです。 ところが、別扱いにならなかった大社などから苦情が出てきます。そこで幕府は延宝二(1674)年に法令を一部修正し、「伝奏無き社家も 吉田執奏に及ぶべからず」としました。「及ぶべからず」ということで、必ずしも吉田家には限定されない、他の公家であってもよいと条件 を緩和しました。 ここで出てくるのが白川家です。吉田家の権威は神祇官の次官である「神祇権大副」であり神祇伯と対等の席を占める「神祇管領長 上」という肩書があるからです。とすれば、神祇官長官である「神祇伯」を世襲する同家は吉田家と同等かあるいは上位にあるわけで、吉 田家と同様に神職等の資格を与えることが出来ることになります。
 吉田家に対抗する白川家
 白川家の配下獲得の方法

 ここから吉田家と白川家の配下獲得競争が始まります。後発である白川家は吉田家がすでに地盤を固めている中で挑んでいくわ けですから、吉田家と同じことをしていたのでは競争になりません。そこで新しい試みを始めます。まず、幕府、領主の許可を得て、 畿内(近畿地方)を巡回して神職の所属がどこになっているかを調べ、未所属など白川家に入る可能性のあるものを勧誘していきま した。また、村で百姓としての生計が立たず都市に出て来て宗教者まがいの活動で生活の糧を得る「神道者」と呼ばれる人々をも配 下に入れていきました。 それに対して吉田家は慶応3年に到っても「吉田家には遠路の人でも留めおいて、礼拝、諸礼のこと、二十日三十日かかりても教 えると申し」(「金光大神御覚書」『金光教教典』P41)といった原則を崩しませんでした。それが原因で「此方(白川家)には人を留めて 入用させません」という白川家から赤沢文治(金光教教祖)は代理人が京都へ行って補任状を取得し、天理教は大和国神道総取締 役である守屋筑前守が仲介し、中山みきの息子秀司が京都に行って秀司名義の裁許状を手に入れることになりました。
 神職の所属が複数で統一を欠く江戸時代前期

 江戸時代の前期には、神職の地位を保障し得る権威が複数並立していた。すなわち、所在地域を基盤とする各地の大社、 全国区の性格を有し勢力を広げる吉田家・伊勢神宮、それに加えて、修験道の本山に所属する神職まである有様だった。 神職の世界は中心的な統一軸を欠く、群雄割拠さながらの様相を呈していた。 統一政権たる江戸幕府にとって、このような状態は好ましいものではなかった。寛文三(1663)年の水戸藩の調査に よれば、同藩領の中で所属が判明する神職九十九名のうち、吉田家の配下七十四名、伊勢神宮の配下七名、領内の神社 の配下五名、山伏の配下六名、無所属七名だった。こんな状態では、神職の把握や、彼らに対する法令の通達などが、 一元的になしえない。統一政権としては、頭の痛いところだ。(『吉田神道の四百年』P111.井上智勝.2013.講談社)
 吉田家、白川家が神社等の取次ぎ(伝奏・執奏)をすることの出来る根拠(『近世の朝廷と宗教』P217.高埜利彦.2014.吉川弘文館)諸社禰宜神主法度

 これまでに伝奏(※朝廷への取次をする役職)を持たなかった神社・神職の執奏(※取次ぎ)を、公家の吉田 家が勤めることを志向した。吉田家は、戦国・織豊期の当主である兼右・兼見の頃から積極的に地方の神社・神職に働きかけて関 係を結んできた。そのことは、江戸幕府の意向とも反するものではなかった。もっとも幕府の意向を形成するのに、吉田家の別家 である萩原兼従(吉田兼治二男)から吉田神道の奥義を伝授された弟子の吉川惟足が働きかけを行なっていた。古川惟足は、家綱 政権を支える保科正之や稲葉正則らに、吉田家が諸社の執奏を行なえるよう周旋した。幕府は寛文五(一六六五)年七月十一日付 で「諸社禰宜神主法度」(『神社条目』)を発布し、八~九月の問に朱印状の交付に登城した三三六神社の輩にこれを読み上げて 命じた。十二月十二日には吉田兼連と後見役の萩原員従が登城して同法度を渡された。/ 「諸社禰宜神主法度」五ヵ条のうち第 一条では、諸社の禰宜・神主などは専ら神祇道を学び、神体を崇敬し、神事祭礼を勤めること、を命じた上で、第二条・第三条で、 吉田家による諸国社人執奏に関わって、社家が位階を受ける場合、朝廷に執奏する公家(神社伝奏)が前々よりある場合はこれま で通りとする(第二条)、無位の社人は白張を着すように、白張以外の装束を着ける時は吉田家の許状を受けること(第三条)と した。 第二条は、前々より神社伝奏との関係を持っていなかった神社については、吉田家の執奏を受けるとの含意が込められていた。 吉川惟足は諸国社人執奏のことを吉田家が行なうことを願い、第三条のように全国の大多数の無位の社人の装束許可権が吉田家に 与えられ、第二条・第三条によって吉田家が神祇管領職を幕府によって仰せ付けられることを願い、これに保科正之も応じた。 しかるに、第二条・第三条に対する反発が地方の大社より起こった。 -中略- このような状況の中で、寛文八(一六六八)年十月、吉田侍従は江戸幕府に次のような妥協的な願書を提出した。すなわち、二十 二社のほかに出雲大社・常陸国鹿島社・下総国香取社・信濃国諏訪社・尾張国熱田社・紀伊国日前宮・同熊野・豊前国宇佐宮・肥 後国阿蘇宮の神主・大宮司の位階については吉田家の執奏とはしない。その他の天下の諸社家などの官位については先年仰せ出し の通り、いよいよ吉田家の執奏とすることの沙汰を願った(『萩原家所蔵文書三』)。 寛文五年段階ではこれまで伝奏のある神社(約一〇社)以外はすべて吉田家の執奏という意向であったものが、寛文八年には二 十二社と九大社を除く天下の諸社家を執奏するものと要求を下げた。これに止まらず、朝廷内の争論の経過も勘案した上で、江戸幕府は延宝二(一六七四)年八月十七日、次の覚を命じた。 覚 社家位階之事、先規より伝奏これ有るは勿論、伝奏無き社家も吉田執奏に及ぶべからず、然りと雖も遠国より吉田へ頼み来 る社人位階之義は、吉田方より職事迄申入れ相調い然るべく候、無位無官之社人装束は吉田より指図たるべきものなり この覚は「諸社禰宜神主法度」第二条・第三条に対する幕府による公式の条文解釈と言えるもので、その後の朝廷においても確 認されている(『兼香公記』享保四年正月)。すなわち、第二条に関して、執奏家(神社伝奏)を持たなかった社家の場合でも、 その執奏は必ずしも吉田家には限定されないこと、換言すれば吉田家であろうと他の公家であろうと許容された
 吉田家と白川家の権威の源泉
 吉田家は神祇権大副(神祇官次官)であり、神祇伯と対等の席を占める神祇管領長上であった
 白川家は神祇伯(神祇官長官)、神祇伯王家とも呼ばれた

 吉田山を本朝無双のパワースポットに仕立て上げることに成功した「吉田の神主」兼倶は、神道界の乱世の風雲児といえよう。 ところで彼は、「吉田の神主」という肩書きのほかに、神祇権大副(神祇官次官)という肩書きを持っていた。そう、「吉田の 神主」は、ただの神主ではなかった。朝廷の神祇官という祭祀を司る官庁の高官だったのだ。神祇官は、古代律令制の時代に設 置され、以降、その機能を縮小させながらも、日本の国家祭祀を担う機関として存続してきた。そのような役所の高官だからこ そ、兼倶は天皇に面会することもできたし、伊勢外宮の御神体紛失時に朝廷の調査団代表である検分役として、白羽の矢を立て られたのだ。 だが、彼が勤務する神祇官の庁舎は、応仁・文明の乱(1467~1478)によって灰燼に帰してしまった。そんな事態に兼倶は、 神祇伯(神祇官長官)の忠富王(白川忠富)と協力して、再建に尽力している。 とはいえ、これまでの通説では、兼倶は吉田山の斎場所を神道界の中心に位置づけようとして、旧体制である“神祇官制を ぶっこわす”ことに情熱を注いでいた、とされてきた。それらの説は、神祇伯は平安時代の末以降、特定の家筋の世襲となって おり、吉田家はいくら頑張っても次官止まりでこの因習を打破できない、という点に根拠を求めてきた。確かに、もっともな意 見だ。神祇伯は、平安時代末期、花山天皇の来孫顕広王がこの職に就いて以降、ずっとこの家筋によって世襲されてきた。鎌倉 時代(1185~1333)の中頃から、源姓を与えられて臣籍に降り、名字をもって白川家と呼ばれた家だ。神祇伯に就任すると王に 復することから神祇伯王家、また伯家とも呼ばれる。その後、白川家は明治維新に至るまで神祇伯を世襲し、吉田家がこの職に つくことはついぞなかった。 -中略- 兼倶は、「吉田の神主」・神祇権太副という二つの肩書きのほかにもう一つの肩書きを持っていた。「神祇管領長上」である。 神祇管領長上とは、長官・次官・判官・主典という律令制に基づいた四等官の序列とは別に、神祇官の中に位置づけられる職だ。 その地位は神祇伯(神祇官の長官)に匹敵するもので、官庁での参列時には四等官制の序列にかかわらず、神祇伯と対等の席を 占める。つまり、神祇伯が北の最上席を占め、神祇管領長上が南の最上席を占める、という具合である。神祇管領長上の卓越し た地位は、それが神道界の技能者として最高位にあることによる。(『吉田神道の四百年』P31.井上智勝.2013.講談社)
 白川家の配下獲得の方法

元禄の経済成長は、社会に勝ち組と負け組を生み出 し、都市の社会をも大きく変化させた。格差が広 がった農村では、耕地を集積する大地主が生まれて くる反面、年貢が払えず土地を失う者が増加した。 そのような農民の中には、村を捨てて都市に出て、 その日その日の活計の道を得て、糊口を凌ぐ者も あった。都市でも、商機をモノにした者は富み栄え、 できなかった負け組は社会の底辺に沈んだ。負け組 たちが形成した都市の下層社会には、比較的労働が 楽な宗教者まがいの人々も増えてきた。“神道者” と呼ばれる人々も、そんな社会から現れてきた人た ちだ。“神道者”とは、神職の出で立ちをして、神 道の呪文を唱えて家々をめぐり、餐銭や米を恵んで もらって活計の道とする人々だ。“神道乞食”と呼 ばれることもある。当然、専属の神社などない。都 市の片隅の裏長屋に住んで、日々を重ねる人たちだ。 都市下層民の増大は、“神道者”のほかにも、占 いを生業とする“陰陽師”や、遠隔地寺社への参詣 を代行する“願人”など、さまざまな都市下級宗教 者を産みだした。日に日に増大する彼らは、都市社 会の中で限られたパイを奪い合いながら生きてゆか なければならなかった。だから、相互の争いが絶え なかった。バックについてくれる権威がほしい……。 これが彼らの共通した希望だった。この要求をいち 早く察知し、神職まがいの下級宗教者を配下に取り 込んだのが白川家だった。 (『吉田神道の四百年』P194.井上智勝.2013.講談社)
 白川家の配下は、宝暦年間(1751~63)から激増するが、その兆候は今少し前から見 て取れる。吉田家が把握していた白川家への入門例は、最も早いものが元禄十七年 (1704)、吉田家に属していない筑前国の神職が白川家より許状を受けた例である。 筑前国では、正徳四年(1714)別の神職も白川家から許状を受けている。(『近世の神 社と朝廷権威』P200.井上智勝.吉川弘文館.2007)
 白川家の配下獲得は、時には吉田家が夢想だにしえなかった大胆な手法によって推進 され、それは後の吉田家の活動にも大きな影響を与えてゆく。同家の配下数が宝暦以 降増加してくるのは、単に思想動向や吉田家を頂点とする体制からの脱却を目指す神 職たちの指向によるだけではない。白川家は、自らも配下の獲得に積極的で、斬新な 手法と組織対象の設定によって、吉田家に脅威を与えていったのである。/ 宝暦七 年(1757)、白川家は幕府と南都奉行および各領主の許可を得て、畿内、五力国を巡 回しての神職改を行っている。在方を巡回して配下獲得をはかる方法を吉田家が採った ことは従来なかった。(同 P205) 白川家は、今一つ斬新な組織対象を設定する。離村農民や没落商工民を母胎として享 保期以降都市を中心に存在を顕在化させてくる「神道者」らの下級宗教者である。彼 らは、奉仕する専属の神社を持たず、近在の神社に臨時に奉仕したり、祈祷の依頼に 応じたり、祓を唱えて門付を行うという実態において存在していた。その多くは当初 本所に属さずに活動していたが、陰陽師など近接する職分を掌る宗教者との諍いを避 けるためなどの理由から、本所による庇護を求めていった。かかる下級宗教者の配下 組み込みも、白川家が吉田家に先駆けて行っていた。(同 P213) それは個々の下級宗教者を配下に抱えることだけでなく、その組織化においても同様 であった。寛政十一年(1799)九月に大坂町奉行所が大坂市中や町続きの在方に出し た触は、大坂市中とその周縁部に住む土御門家や白川家の門人の中に怪しげな祠を勧 請して加持祈祷や占いなどの「偽術」を行う者がいたため、奉行所が土御門家の「惣 頭」や白川家の「門人組頭」に命じて配下を改めさせたことを通達したものである。 土御門家とは朝廷陰陽寮の長官を世襲する公家で、陰陽師の本所である。ここに吉田 家の名が見えないことは、同家配下の下級宗教者の品行の淳良さを意味するのではな く、同家が未だ下級宗教者を統率する組織を持たなかったことの反映であった。P216
 金光教の公認活動
 白川家入門以前、金光教の資格取得の動き

 江戸時代の神職など宗教者の資格を吉田家や白川家が担って いたわけですが、幕末に布教活動を展開した金光教や天理教はこ の制度にどのように対応したのでしょうか。 まず、金光教から見ていきましょう。金光教教祖赤沢文治が元治 元(1864)年に白川家に入門します。そのことは『白川家門人帳』に も記載されています。その縁から金光教は昭和42年に『白川家門 人帳』全6冊を含む白川家資料を譲り受け、『白川家門人帳』は昭 和47年に金光教からその「翻刻版」が出版されています。 ただ、白川家に入門する以前に金光教の信者などが修験寺院や 吉田家から許状を得る活動をしています。 文久2(1862)年に信者の万蔵の斡旋により児島尊滝院の山伏補 任状を取得しています。これは取得後、他の山伏からの無心を断っ たために、この許状を持っていかれたことで終わりました。また、同 年信者で備前岡山藩士の松本與次右衛門がその身分にものを言 わせて吉田家から「四組木綿襷懸用」の許状を取得した話が残って います。ただ、吉田家の役人から庄屋に話を通すようにとのことで、 庄屋の小野四右衛門に話をしたことが「小野四右衛門日記」に書 かれています。庄屋は、色よい返事はしなかったようで、その許状 がどうなったかは不明です。
 金光教祖赤沢文治の資格取得への態度 社会的、公的な権威と自己とを連結しないー平人に徹する

 幕末期までの金光大神は、社会的に公認された資格に ついて、「只、(お上の)法度に協ふ丈けになり居れば、 それでよろし。上ヘ出やうとすな」とて、最小限の要求 をもつにとどめていた。それでも、文久年間に信者で あった万蔵の斡旋によって得たといわれる児島尊滝院の 山伏補任状、同じく松本与次右衛門の斡旋による京都吉 田家の「四組木綿襷懸用」の許状、元治元年金光大神が 代人を立てて入手した京都白川家の風折・浄衣・白差袴 の著用並びに神拝式の許状、慶応三年の白川家の神職補 任状と、その時々の状況に合わせて公認布教資格の取得 にかなり手だてを講じるところがあった。しかしこれら の許状も強制的に取上げられ、あるいは失効して、明治 四年以降の金光大神は終生無資格であった。もっとも、 維新期になっての金光大神は、既述の如く氏神社の神官 になることも、後に教導職に就くことも容易にできたが、 それをいさぎよしとしなかった。 このように社会的、公的な権威と自己とを連結しない 態度、換言すれば平人に徹する態度は、明治期になって 金光大神が終始貫いた態度である。明治六年八月の「金 光大神は平人なりともひれい(威徳が輝く)」との神の 言は、社会的権威にたよらなくても、世に神意を顕現す る金光大神を、神が誇りとも喜びともした言葉と解され る。(「維新期における金光大神の信仰」P28.瀬戸美喜 雄.『金光教学』16号.1976)
 この吉田家の許状の斡旋をした備前 岡山藩士松本與次右衛門は、この年 (文久二年)三月、長男市之丞の病 気が、教祖広前に参拝すること三週 間で平癒したのを機縁に信心をすす め、翌四月に長男と共に「願主歳書 覚帳」に記入されている。いわば霊 験を目のあたりにして間もない頃の 事ではあり、教祖の神勤差し止めを 危ぶみ、その身分にものを言わせて、 吉田家の許状取得に一役買ってでた わけであった。この吉田家の許状に は、「村役人中、故障不申出様、相 頼可申」との添文があったので、庄 屋に願い出て「上向へも御内々御沙 汰置可被下」と頼んだのであるが、 これに対し庄屋は、「正面承届候と 申義ハ、決而不相成候得共、無何與、 序ヲ以申上様可致置候」と答えてい る。さらに教祖が修験道よりの許状 を得ていることに対し、「当方百姓 へ、右様之御免状御渡シニ相成候而ハ、百姓妨ニ相成候間、返却ニ及候 様、申遣候而も無構振合ニ御座候得 共、内々勘弁致遣」しているのだと 伝えて、村役人としての立場を一貫 して保持して答えているのである。 (「修験者との折衝過程に関する一考察」
 金光教の公認活動ー尊瀧院の山伏補任状、吉田家の「四組木綿襷懸用」のゆるし

修験の徒の、金子大明神にくわえた亡状のほどは、あげるに遑(いとま)がない。 児島郡林の人、金光(かねみつ)梅次郎は、当時熱心な信者の一人であった。五流尊瀧 院に出入していた開係から、金子大明神のために、山伏の補任状をえて、彼等の亡状を、 とどめようとした。これは、金子大明神が、何等の資格をもっていなかったことが、彼等 にとっての口実であったからの、苦肉の策であったのである。 あるとき、尊瀧院の役僧と名乗るものが、倉敷華蔵院の修験者をともない、金子大明神 をおとずれ、「京都にのぼるにつき、金を寄附してくれ」と強要した。金額をもさだめて、 あたかも命令するかのような口吻であった。金子大明神は、これを拒絶した。 彼等は、「命にそむくか」と威たけだかになじる。金子大明神は、「いや、御命にそむ くわけではありませぬが、何分、ちからにかないませぬ。こちらのこころだけ、というこ とならば」という。/「命にそむくか。許状をだせ。許状など、あたえるところでない」 といい、許状をみせると、「これは、一から十までゆるしてある。備中にも、ふたつとな いほどのものである。かようなものを、いただいておりながら、命にそむく、という 法 はない」など、せまるのであるが、金子大明神は、ついに、彼等の要求に応じなかったの で、無法にも、その補任状をもちさった。 -中略- / 山伏等の亡状を、みるにたえ かねたものに、さらに、松本輿次右衛門があった。與次右衛門は、おのが発意により、こ の年(文久二年)六月上京して、吉田家に請うて、その月二十八日「四組木綿襷懸用」の ゆるしを得、吉田家役人、藤川伊織の注意にもとづき、七月八日、庄屋小野四右衛門をお とずれ、その許状をしめして、「私、親切をもって、折角、ねがいあげ、御免になったこ とゆえ、蒔田家の承認をえたい」と申出た。庄屋はこれに対して、「正面、とどけること はできぬが、なにかのついでに、それとなく、うわさをしておこう」「五流からも、許状 をよこしておる様子であるが、当方百姓に、そのような御免状をわたされては、百姓のさ またげになるので、返上するように申しつかわしても、かまわぬふりあいではあるが、 内々、勘辨してやっている」とも、実状を、かたりそえるのであった。與次右衛門も、そ のむねを諒し、「何分よろしくたのみいる」と、しきりに低頭して辞去した。(『金光大神』 P229.金光教本部教庁.1953)※蒔田家とは藩主 9
 赤沢文治が白川家に入門、金神社神主となる

元治元年正月朔日、金光教祖赤沢文治は、神から「二間四面の宮を 立ってくれい」というさとしを受けました。 これを受けて『金光大神』(P248.金光教本部教庁.1953)によれば、 このみさとしを奉じて、ただちにこれが建設の手続に、とり かかった。すなわち、まず村役場の意向をうかがい、判頭藤 井俊太郎をわずらわして村方に談示のうえ、正月十日、赤沢 浅吉を願主とし、世話人川手保平・同森田八右衛門、判頭藤 井俊太郎等の名で、村役人を経て、浅尾藩庁にねがいでた。 当時の村役人は、庄屋小野惧一郎、年寄西三郎治であった。 かくて金光大明神は、棟梁川崎元右衛門を代理とし、橋本 卯平をさしそえ、白川神祇伯に神拝式許状をこい、かねて、 「金神の宮の儀」について、その内意をうかがわしめた。橋 本卯平は、ききにのべたごとく、大和丹生川上神社社家で あった関係から、この種のことに、こころえがあったので、 斡旋の労をとったのである。 とあります。神から宮を建てろといわれた文治は、建築のためにはまず藩 の許可が必要であり、それが宮であれば、神社としての許可が必要で あったことから、白川家に神拝式許状を求め、宮の建築許可を得たわけ です。 そこから、弟子たちが入門し、慶応3年には藩主の添書を得て金神社神 主金光河内(文治のこと)として補任状を受けました。その際、神拝の時 に般若心経をあげることについて、白川家の役人は「これは経文じゃ。仏 のほうのもの。しかし、とめもせん」と了承しています。また、神前の装飾 や紋章についても文治の思いを通しています。
 金光河内は、初入門の時は大谷村の百姓の文治良で あった。神拝式と風折浄衣白差袴の許しを得、お礼 は500疋であった。それと一緒に金光の宮建築の棟梁 の川崎元吉も初入門し、上棟式風折浄衣浅黄差貫の 許しを得た。元治元年4月9日のことである。金光教 の資料では、川崎元右衛門(元吉)と橋本卯平(加 賀)の両人が上京し、役人の林大和守と安部田備前 守に頼んだところが聞済にしてくれた。そして居宅 祈念の許状と、宮を新築するについても屋敷内の建 てて苦しからずと4月9日に達せられたとある。その 翌年正月24日、笠岡の斎藤数馬は、神拝式風折浄衣 の許しを、六条院西村の高橋冨枝は神拝式千早衣の 許しをうけると、金光の教え子の二人が初入門して いる。 文治良は、慶応2年10月2日に改めて、金光文治と の名で、自宅神拝の節、冠布斎服浅黄差貫を願い、 河内との称を得た。そして、この日には又、金子駒 次郎・金子坂介・金子秀蔵・金子多蔵・金子房太 郎・金子左京・金子又兵衛の7名が初入門し、神拝式 をうけている。 慶応3年2月20日、金光河内は金神社神主に補任さ れた。その許状には、 今般、依願被補神主、神祇道拝揖式被授與訖。因、 冠斎服浅黄差貫着用、神拝之節可令進退之旨、者。 本官所候也。仍執達如件。 とある。こうして金光河内は神主職となり、金光教 の布教が公認されたのであった。(『白川家の門人』 P417.金光英子.私家版.2011〈1971年国学院大学卒業論文〉)
 教祖自伝「金光大神御覚書」にある白川家との交渉の様子

 元治元甲子正月朔日お知らせ。/天地金乃神には、日本に宮社なし、まいり場所もなし。二間四面の宮を建ててくれい。氏子安全 守りてやる。天地乃神にはお上もなし、其方にはお上もあり。世話人頼み、お上願い申しあげ。/世話人、当村午の年川手保平、 同所森田八右衛門巳年。大工、安倉丑の年元右衛門、弟子、中六午年国太郎。手斧はじめ、きたる四日吉日。/こしらえてお上が かなわねば、どこへでも、宮のいるという所へやるけに、かまわん。こしらえいたせい。お上がかのうて建てば、其方の宮。天地 乃神が宮へ入りておっては、この世が闇になり。正真、氏子の願い礼場所。/其方取次で、神も立ち行き、氏子も立ち。氏子あっ ての神、神あっての氏子、子供のことは親が頼み、親のことは子が頼み、天地のごとし、あいよかけよで頼み合いいたし。/村お 役場へお伺い。願主浅吉、世話人右両人。判頭藤井春太郎、年寄西三郎治、庄屋小野慎一郎殿御願い申しあげ、お聞きずみに相成 り候。判頭上り村方談じ(相談)のうえ、お上願い申しあげ候。正月十日。/金神の宮の儀、御願い申しあげに代人立て、棟梁元 右衛門、橋本卯平両人頼み。棟梁は京より大峰山上へ山伏の断りお礼にまいり、もどりに紀州回り、木買い入れいたし、お知らせ。 / 京都、白川神祇伯王殿様へまいり、御願い申しあげ。お役人林大和守、安部田備前守お聞きずみに相成り候。私に居宅祈念の 許し、許状くだされ候。宮の儀は、屋敷内建て、苦しゅうなし。甲子四月九日。/湯、行水おさしとめに相成り候。六月十日。/ 金光大権現、一子明神妻こと、十月二十四日。(「金光大神御覚書」『金光教教典』P41)
上は、元治元年に白川家より許状を受けた様子が記されています。下は、慶応三年に藩主の添状を得て補任状を得た時のもの。白川家の 規則通りにはできないと代人に伝え、心経の読経を認めさせています。また、吉田家よりも取得の条件が緩やかであることも書かれています。
一つ、お上より、京都(白川家)官位出すように、御添簡くだされ、丁卯(慶応三)二月十日。同じく十三日、代人金光石之丞、 棟梁、橋本右近両人を頼めい、とお知らせ。安倉、船頼み、出船、右三人上り。/ 上京仕り候につき、神様よりお知らせ。この 度は、地頭より添簡くだされ、官位の儀、よろしゅう御願い申しあげ候。しかし、金神広前では京都ご法どおりのことはできませ んと申してくれ、と両人へ申しつけられ候。たびたびまいるから、天地金乃神おかげ話してよし。慶応丁卯二月十三日、右三人ま いり。 前度(これまで)たびたび、ごやっかいに相成り候。今般、地頭より添簡くだされ、持ってまいり、よろしきように御願い申しあ げ。金神ありがたしおかげのこと申しあげ候。/ 拝むこと、六根の祓、心経だけのこと、お役人中もお聞きずみ。なるほど、此 方の法どおりでは、神が聞かれねば、おかげくださらいでは、なんぼう法を祈りても役に立たず。拝む人の願いで、神がますます 感応いたされ。それでよかろう。心経だけは言われにゃよいに。これは経文じゃ、仏の方と言われたきり、とめもせん。 神の広前かざり物のこと、お伺い申しあげ。此方には、かざり物の許しは出さん。氏子の奉納物はなになりとも苦しゅうなし。紋 は丸に金の字、別条なし。吉田家には遠路の人でも留めおいて、礼拝、諸礼のこと、二十日三十日かかりても教えると申し。此方 には人を留めて入用させません。地頭の願いどおりの許し出し。(「金光大神御覚書」.『金光教教典』P45) 1
 天理教の公認活動
① こかん名義の裁許状

 天理教教会本部が昭和31年に制定発行した天 理教団の公式教祖伝である『稿本天理教教祖 伝』には、慶応三年に中山みきの息子、秀司が 京都に上り、吉田家の裁許状を取得したことが書 かれています。これが「秀司名義の裁許状」です。 これに対してみきの娘である「こかん名義の裁許 状」というのも存在します。 こちらは昭和56(1981)年に奈良県田原本町に ある村屋神社で見つかったもので、当時、修養科 (天理教の3か月間の修養機関)の一期講師をし ていた小松崎吉夫氏が神主から譲り受け、その まま天理教教会本部史料集成部に渡ったもので す。同氏はこの資料に依って天理教の教祖伝が 変わるのではないかと期待していたのですが、そ の後現在まで教会本部はこのことについて一切 何も語っていません。 ただ、同氏は譲り渡す前に資料の写真を撮って いたこと、また『御水屋敷人足社略伝記』というこ の裁許状の存在を裏付ける本が存在していたこ とによって、これがどのような経緯で作られたの かを知る事が出来ます。
 中臣の祓い、三種の大祓い、 六根清浄の祓いも免授する と、この許可証には書いて あります。中臣の祓いは神 道系のものです。中臣とは 朝廷の中で神道を司ってい た家柄です。三種の大祓い は、陰陽道から来ているも のであり、六根清浄の祓い は仏教との習合から出て来 たものです。 『中山みき研 究ノート』112頁.八島英雄著

四つ組木綿手繦(ゆうだす き)懸用を免授する とあります。木綿だすきと いうのは、木綿や麻で出来 たたすきで、これを掛けれ ば聖なる者となるわけです。 このたすきの結び方が決 まっていて、片かぎに結ぶ と片だすき、これを組んで 両袖に掛けるようにしたも のが四つ組木綿だすきとい うことです。 『中山みき研究ノート』112頁. 八島英雄著
 文久 3 (1863)年12月、中山みきは安堵村、 飯田家の六歳になる息子のおたすけに出か けました。それが縁で飯田家に度々来るよう になると、その救済を求めて多くの人がそこ を訪ねるようになってきました。 その時の様子が 『御水屋敷人足社略伝 』 に 書かれています。そこには、多数の人々が集 まるその状況に捨て置けぬものを感じた山 伏取締りの古川豊後なる者が、奈良の金剛 院を伴って飯田家にやって来て、教祖に難題 を吹っかけてきたのですが、一つ一つ水が流 れるが如く答える教祖に平伏したとあります。 そこで古川豊後は態度を変えて、宗教活動 の許可がないものは人を集めて祈念祈祷な どは出来ぬ決まりだから自分たちがその許 可を得る手続きをしてやろうと提案します。 そして、その手数料として飯田家とみきから 計8両をもらい帰っていきました。みきは「御 金が欲しいのだから任しておいたらいい」と 笑っていましたが、じきに「奉書へ立派にかゝ れしを二通」を持ってきたと書かれています。 この 2通こそ、昭和56年に村屋神社から天 理教教会本部に譲渡された「こかん名義の 裁許状」であることは年月日などから考えて も間違いないところでしょう。
 こかん名義の裁許状のゆくえ 古川豊後⇒ ? ⇒守屋筑前〈村屋神社〉

 では、この2通の裁許状はどのようにして大和国神職取 締役の守屋筑前守が神主である村屋神社に渡ったので しょうか。 こかん名義の裁許状の仲介をした小松崎氏は、こかんの 裁許状は、「直に事が露見して、古川豊後は守屋筑前守に 叱責を受け、この裁許状は没収となった。」と記しています。 これに対して、八島英雄氏は、『稿本教祖伝』(56頁)に記 されている元治元年の大和神社事件(大和神社の前で、 鳴物入りで神名を称えた事件)の丹念な史実考証をしたう えで、この事件の際に「こかんの裁許状」が没収されたとし ています(『中山みき研究ノート』134頁)。 八島氏は、この時の大和神社事件を、「小寒の裁許状」 を取り上げるための陰謀と考えていますが、そのようなこと を裏付ける資料は何もありません。 この時の大和神社事件(天理教教祖伝には明治7年にも 全く別の大和神社事件がある)は、『稿本天理教教祖伝』 では元治元(1864)年10月末に起こったことになっています。 ただ、この時の唯一存在する史料である没収された鳴物を 返してもらう時の詫状の日付は慶応元(1865)年になって います。この詫状を事件1年後のものと考えるよりは、半月 後に没収品を返してもらった時のものと考えるほうが自然 のような気もします。そうすると事件は慶応元年に起こった ことになります。この事件は何かと陰謀めいた匂いがする ことは確かです。
吉田神祇管領の事務取扱いをしていて、豊後守という守名をもらっている 関係上、大和国神職取締役の守屋筑前守に話を通さず適当に自分で書類を 作り、一般的な裁許状と異なる「頭役」という名で捺印して持参している。 中山こかん宛にしたのは、教祖の威力に恐れをなしてか、当時、すでに 教祖の名代として、御言葉も下がり、お取次ぎをしていたので、古川豊後 が考えたことであらう。(明治になり守名廃止により文吾と改名したのだ から、元治元年時代は、古川豊後である。―小松崎註) ところが、直に事が露見して、古川豊後は守屋筑前守に叱責を受け、こ の裁許状は没収となった。でも、全くのインチキのものであれば、その場 で破棄するべきものだが、只、筋を通さなかったというだけのことだから、 この裁許状の効力はあったのだらう。それで、そのまゝ百十七年間の眠り についたのである。(『東王京』16号・1988小松崎吉夫著)※『東王京』は小松崎氏が所長を 務める布教所の会報。
≪御 請 書 一、太鼓 壹 一、鈴 壹 一、拍子木 七丁 一、手拍子 壹 一、すず 壹 右之品、御取上ケニ相成候処、格別之以御勘辨ヲ御用捨被成下候段、重々 難有仕合奉存候、仍而ハ已末前顕鳴物ノ品々ヲ以天龍王命様と申唱へ、馬 鹿踊と称し、家業疎ニ致し侯様成儀決而仕間敷、勿論私家内天龍王命様ト 名付神ヲ祭り人々参詣為致候儀モ奉恐入、是又急度御糺しも可有之處何分 百姓之身分故、百姓家業専一ニ相厭余業毛頭仕間敷数候、萬一、向後心得 違仕僕ハ、如何躰之儀被仰下候共、其時一言之申分無御座候、仍而御請書 差上申候如件。 山邊郡庄屋敷村 百姓 善 右 衛 門 (※中山みきの息子、秀司) 慶応元巳年十一月十一日 市 磯 相 模 守 様 (天理教管長家、古文書)【『復元32号』P326】 ≫
 「こかん名義の裁許状」は京都の吉田家が正式に発行したものではない

天理教青年会機関誌の『あらきとうりょう』149号は、「こかんの裁許状」について詳しく紹介している『中山みき研究ノート』について教理的 な批判を試みた本です。その中に、「吉田家」について研究している吉田栄治郎氏の見解が出ています。結論は正式に吉田家が発行し た裁許状ではないということです。ただ、「こかん名義の裁許状」が発行された元治元年に「つとめ場所」といわれる3間半に6間という宗教 施設の建築を中山家ではしています。金光教の例からも分かるようにそのためにはどこかの許可が必要ではないでしょうか。それが何事 もなく竣工したというのは、この裁許状が偽物だったとしても、その存在を周囲の宗教者は皆知っており、それゆえにだれもとがめだてし ないで、あるいはできなかったと考えることもできるのではないでしょうか。本物同様の効力を持っていたということでしょうか。
 「吉田家」研究者、吉田栄治郎氏の見解

(ア)「中山小嘉舞」が中山こかんと同一人物であるか否かは不明である。 (イ)中山小嘉舞名義の「裁許状」は神主用、神子用の二種類あるうちの神子用のものであり、形状、書式、印璽等、吉田家の機 関から出されたものである。但し、吉田家当主が発行したものではない。吉田家内の役人が主に無断で出した実例もある。文 政十年に、和泉国和泉郡で篠田神社にかかわる神号の免許について、吉田家正式機関が知らない間に、吉田家の役人が独断で 発行したという事実がある。なお、神子用であるから、神社、講社を主管することはできない。神社を主管する神主のための 裁許状は男子のみに下付された。 (ウ)古川豊後は神子であり、神子には一般に守名はでてこないから、「豊後守」は自称と考えられる。そのような古川豊後の斡 旋によっては、吉田家公式の役所を通して正式に申請下付が行われた可能性は皆無である。正式の申請下付は、こと大和国の 住人に関する限り、この年代においては大和国神道総取締役である守屋筑前守を経ずして行なうことはできなかった。 (エ)従って、『水屋敷略伝』の記述が事実であるという前提に立つ限りにおいては、この「裁許状」は吉田家の表玄関である 「御広間」を通しての正式な手続きを経たものでなく、豊後が吉田家の役人とつながって、不正なルートで「正式の様式を もったもの」を入手したものであると推定することは可能である。当時は吉田家内にも乱れがあった。実例のあることは (イ)に述べた。 (オ)中山小嘉舞名義と同内容の神子裁許状の取得費用は当時、装束と神事両方あわせても二両から三両であり、そこに、八両も の金が動かされているとするならば、やはり不正なルートが介在していたのではないかという疑いが生じ得る。 (力)従って、この出来事は、現在の段階では断定することはできないが、古川豊後が天理教祖から何がしかの金を無心し、にせ の「裁許状」が水屋敷に届けられ、それが守屋筑前守の手にわたり、そのまま没収されたものである可能性が高いと考えられ る。 16 (『あらきとうりょう149号』P113.天理教青年会本部出版部.1987)
② 秀司名義の裁許状

元治元(1864)年に偽物であったとしても「こかん名義の裁許状」が出されました。この時、訪問先の 安堵村飯田家にもたくさんの助けを求める人々が押し掛けたことにより山伏が来たわけですが、みきの 住むお屋敷も同様の状況があったと考えられます。時期は少し下りますが慶応3(1867)年に中山家に 来た人数が記されている「御神前名記帳」というものがあります。それによると約1か月間の来訪者は 2000名ほどです。その3年前の元治元年にも、かなりの人々が来ていたと思われます。そうであるから、 山伏が裁許状の手数料として5両をみきに求めた時に容易に出すことも出来たのでしょう。 みきの長男である秀司は元治元年の頃まではみきの宗教活動には関与していなかったようです。文 久元(1861)年に秀司が記した「万覚日記」という金品の貸借記録や暦上の吉凶・禁忌が出ているもの があります。この日記から、秀司は教祖の立教後20年以上が経過し信者もできてきた時点で、金品の 貸借などの仕事をし、すでに継続的な信仰者が生まれていた教祖の新しい教えとは無関係に、陰陽道 に基づく方位と日の忌などを商売に使っていたことが分かります。 ところが、元治元年頃になって信者がどんどん増え、お金も寄ってきて、吉田家の現地事務取扱の者 が勝手に作ったものであっても妹「こかん」名義の裁許状があり、宗教施設が建てられていく状況が生 まれてくると、秀司はみきの活動に関心を示し始めたようで、秀司名義で吉田家の裁許状を取得する 試みをすることになります。
この資料は、天理教に残る古記録の一つと述べたが、内容的には直接、天理教に 関連するものではなく、中山家に関する事柄のみが記されている。/ 表紙に 「萬覺日記」とあるのでも察せられるように、いろいろの覚え書である。記載法は、 普通一般にいう日記の体裁ではなく、日付と要件を簡単に記したメモ程度である。 その要件の事項をまとめると、おおよそ次の八項目になる。/ すなわち、金品 の貸借に関するもの、諸費用控、綿その他に関する取引事項、大工日数控、村人 足覚、日雇心覚、綿打覚、陰陽道による方位と日の忌など。 ( 「『万覚日記』に ついて」上野利夫.P222.『教祖とその時代』.1991.道友社)
秀司、自分名義の吉田神祇管領裁許状の取得工作を始める。

 元治元年という年には、大豆越村の山中忠七、新泉村の地主山澤良治郎が入信して います。山澤は、当時大和神社の信徒総代で、姉が忠七の妻で、また、守屋筑前守とは いとこの関係でした。守屋筑前守は、大和国神道総取締役であり、元治元年ないしは翌 年の慶応元年中に、中山こかん名義の裁許状は、何らかの形で村屋神社の神主である 守屋筑前守の手に渡ったと思われます。 ここから、秀司名義の許可を得ようという活動が始まります。まず、庄屋敷村の領主で ある、藤堂藩古市代官所の添書を得ることが必要です。その為、2,3年の間に2,3度出 かけています。代官所では、太鼓をたたいたり拍子木を打ったりするような活動なら、吉 田ではなくて伏見稲荷の許可だろうとか言ってなかなか結論が出ず、やっと慶応3年6月 になって、吉田神祇官領への添書の願出書を受け取り添書を書きました。 この時秀司が古市代官所へ提出した添書の願出書には、「國常立尊、伊弉諾尊、國狭 槌尊、伊弉冊尊、豊斟淳尊、大日婁尊、大戸道尊、泥土煮尊、大戸邊尊、沙土煮尊、面 足尊、惶根尊、冊冊、右拾貳神ヲ合天輪王神と相唱候」とあって、これら十二神を合わせ て天輪王と唱えると書かれています(『復元32号』P462)。ここに出ている神名は、吉田神 道を作った吉田兼倶の筆になる「三種太祓切紙十二代切紙」の「神明宗源血脈」にある 国常立から始まり兼倶に至る吉田家の系図における最初の12神とほぼ同じです。吉田 家への添書依頼ということで、守屋筑前がこの12神を入れたと思われます。これらの神 名は現在も天理教で使われている十柱の神名の原形です。この時初めて中山みきの教 えの周辺に、もともとは教祖の教えにない神道の神名が入りました。
ホ、吉田か、稲荷か。/ 所で添書の宛名について、吉田か稲荷かと云ふ事になって、天理教側の希望と、奉行側の意見とが、一 致せず、その為めに、秀司先生は、それから二三年の間、年に、二三回も来られたかと思ふ。と云ふのは奉行の方では、添書する と約東をすると同時に、調べると、天リュー王の命と云ひ、祭日廿六日には神楽面かづき、三味ひき、太鼓たゝき、柏子木打つと なって来るから、神祭りに、そんな事して、手振って、そんな妙な事するなら、吉田へ行くのと違ふ、伏見やとて、そこで宛ての 事で、衝突し、決りが付かず、二年も三年もかゝり、漸く決り、吉田へ宛てて添書する事になりました。この時父の茂三郎と、足 達とが秀司先生に力を協せました。(昭和九年一月廿四日、古市、中川庸三(76)談)(『復元』32号.P460.「史実校訂本 中二」)
神道の神名が中山みきの教えの中に混入した最初の書類と秀司名義の裁許状
慶応3年秀司は吉田家の裁許状を取得し、「つとめ場所」にその祭式を祀ります。そして、 丹波市に住んでいた妻おちえとの間の子、音次郎を中山家の屋敷に連れてきて、一緒に暮 らし始めます。これらのことを発端として「おふでさき」が明治2年から書かれ始めるのです。
慶応三年六月、添書の願を古市代官所へ提出し、領主の添書を得て、秀司は、山沢良 治郎を共に、守屋筑前守も同道して京都へ上り、吉田神祇官領に出願し、七日間 かゝって、慶応三年七月二十三日付けで、その認可を得た。(『稿本天理教教祖伝』P97)
古市代官所へ提出した添書の依頼文 (『復元32号』P462) ≪ 乍恐口上応覚 庄屋敷村 願人 善右衛門 一、私儀従来百姓渡世之ものニ御座侯、然ルニ三十ヶ年余已前、私幼少応頃癇病(風 毒)二而、足悩ミ侯ニ付、亡父善兵衛存命中、私方屋敷内ニ天輪王神鎮守仕信心仕右 天輪王神与申者 國 常 立 尊 伊 弉 諾 尊 國 狭 槌 尊 伊 弉 冊 尊 豊 斟 淳 尊 大 日 婁 尊 大 戸 道 尊 泥 土 煮 尊 大 戸 邊 尊 沙 土 煮 尊 面 足 尊 惶 根 尊 冊 冊 右拾貳神ヲ合天輪王神と相唱候由、亡父善兵衛代より承傳居心信心仕来り今ニ不 絶信心仕居候義ニ御座候、 然ルニ右信心之儀諸方江相聞近来諸方より追々参詣人有之而ハ、神道其筋より故障被 申立候而ハ、迷惑難渋仕候ニ付此度京都吉田殿江入門仕置度奉存候ニ付乍恐此段御願 奉申上候、何卒御情因愍を以、吉田殿江之御添翰被為下置候様奉願上候、右之趣御間 届被為成下候ハ、難有仕合可奉存候、 慶応三卯年六月 庄屋敷村 願人 善兵衛 同村年寄 庄作 同村 平右衛門 同村庄屋 重助 服部 庄左衛門様 ≫
明治維新の到来による影響
慶応4(1868)年3月、新政府は祭政一致、神祇官再 興を布告、全国の神社神職は神祇官の付属となり、 吉田家、白川家などの執奏家の役割が終わる。
王政復古の宣言がなされて三ヵ月後の慶応四年三月十三日、維新政府は神 社制度に関する布告を発した。 すなわち、このたび「王政復古神武創業之始」に基づいて、諸事を一新 し「祭政一致」の制度に回復させられるについて、まず第一に「神祇官御 再興御造立」の上、おいおい諸祭奠も興させらるべきを仰せ出された。ま た「諸家執奏配下」の儀は止められ、あまねく「天下之諸神社神主・禰 宜・祝・神部」に至るまで、今後は神祇官附属とするので、官位をはじめ 諸事万端、神祇官へ願い立てるよう心得るように、という内容の布告で あった。 まず神祇官を再興すること、これが第一に求められた。つまりはその当 時、神祇官は存在していなかったとの認識があったからに他ならない。次 に、全国の神社の神職(神主・禰宜・祝・神部)は再興される神祇官の附 属とすることを命じ、それまで神社神職が諸公家の配下にあって官位など の執奏を願ってきたことを廃止し、これからは神祇官に願い出るようにさ せた。すなわち江戸時代の全国の神社の神職は、吉田家や白川家など諸公 家の配下となって、官位などの執奏を受けていたことが前提として認識さ れていた。しかるのち、神祇官は閏四月二十一日になって、一月に設置さ れた神祇事務科、二月に設置された神祇事務局を発展させて再興された。 引き続いて、維新政府は一連の神仏分離令を命じた。慶応四年三月十七 日に諸国の神仏習合した神社を支配したり附属していた別当や社僧に還俗 を命じ、三月二十八日には仏像を神体にしている神社の仏像の除去や梵鐘 などの仏具や仏教の什物(じゅうもつ)の排除を命じた。四月二十四日に は八幡大菩薩の称号を禁止させた。さらに閏四月四日には還俗した別当・ 社僧は神主・社人の名称に変えて神道に転ずるよう命じた。その当時まで 続いていた別当・社僧支配の神社はもちろん、神仏習合した要素を神社か ら払拭させるのが維新政府のねらいであった。(『近世の朝廷と宗教』P194. 高埜利彦.2014.吉川弘文館)
慶応3年、金光教教祖赤沢文治は白川家から金光河 内という名で金神社の神主としての補任状を受けました。 天理教では、同年に教祖中山みきの長男秀司が吉田 家から裁許状をもらいました。 ところが、その年の12月9日に「王政復古の大号令」が 発せられて江戸幕府から維新政府の世に替わり、翌4 年3月、新政府は神社制度に関する布告を発して、吉田 家や白川家が担ってきた執奏(取次ぎ)を廃止し、王政 復古ということで再興される神祇官が行うことにしました。 これで両家の権威は無効になってしまいました。秀司が 裁許状を得た時のみきの言葉、「吉田家も偉いようなれ ども、一の枝の如きものや。枯れる時もある(『稿本教祖 伝』P98)」が現実になったのです。 さらに新政府は「神仏分離令」を出します。ここで分離 され奉斎されるのは、記紀神話や延喜式神名帳によっ て権威づけられた天皇家につながる特定の神々であっ て、それ以外の多様な神仏とのあいだに国家の意思で 絶対的な分割線をひいてしまうことが、そこで目ざされ たことであったと安丸良夫氏は『神々の明治維新』の中 に書いています。
神仏分離ー記紀神話の神々を尊ぶ

安丸氏は『神々の明治維新』の中で宗派として独自性の強い 真宗が「本尊ハ弥陀如来卜申テ、乍恐皇国天祖ノ尊卜同体異 名」とする言葉を記した例を挙げて、多くの宗派が国家の差し出 す神々の体系に身をすりよせていったと書いています。そして、 このような天皇家の先祖の神々が民衆の中に入り得たのは、 神社の神主などの許状に吉田家や白川家が関与していたこと も一つの要因になっていたようです。秀司が吉田神社から裁許 状を得た時の添書の願書に国常立尊から天照大神(大日婁尊) まで天皇家の先祖の神名が書かれていて、それが現在の天理 教の神名につながっていることなどは、それを示す例でしょう。
なりふり構わぬ白川家の新規市場開拓に、吉田家も危機感 を強めた。このままでは、いずれ白川家に抜かれてしまう。 新興のライバルの急成長に加え、考証主義と朝政復古の潮 流渦巻く中、既得の権益を守ることすら覚束なくなった吉 田家は、誇り高さ神職本所の衿持を捨てることを余儀なく された。吉田家もまた、積極的に宮座など神社に関わる一 般人や“神道者”ら下級宗教者までをも、配下に取り込む べく活動を展開する。役人を各地に派遣して、入門を促す こともした。かくして、吉田・白川両家の配下獲得競争は 止まるところを知らず、幕末まで展開してゆく。これに よって、日本に存在する多くの神社関係者が、吉田家、さ もなければ白川家という公家-天皇に仕える朝廷の構成員 -と関係を持つことになったのだ。そして、このことが、 日本の近代国家形成に意外な影響を与えることになってゆ く。(『吉田神道の四百年』P198)
明治初年の神仏分離、廃仏毀釈、神道国教化政策をもって、一部の 狂信家たちの無謀な試み→失敗と見ることはできない。一見そのよ うに見える要素を含みながらも、じつは日本人の宗教生活の全体が、 それを媒介にしてすっかり転換してしまったのである。/ 神仏分 離や廃仏毀釈という言葉は、こうした転換をあらわすうえで、あま り適確な用語ではない。神仏分離といえば、すでに存在していた 神々を仏から分離することのように聞こえるが、ここで分離され奉 斎されるのは、記紀神話や延喜式神名帳によって権威づけられた特 定の神々であって、神々一般ではない。廃仏毀釈といえば、廃滅の 対象は仏のように聞こえるが、しかし、現実に廃滅の対象となった のは、国家によって権威づけられない神仏のすべてである。記紀神 話や延喜式神名帳に記された神々に、歴代の天皇や南北朝の功臣な どを加え、要するに、神話的にも歴史的にも皇統と国家の功臣とを 神として祀り、村々の産土社をその底辺に配し、それ以外の多様な 神仏とのあいだに国家の意思で絶対的な分割線をひいてしまうこと が、そこで目ざされたことであった。/ 神仏についての多様な信 仰は、存続しつづけようとするかぎり、こうした分割をなんらかの 意味でうけいれ、むしろすすんで内面化してゆかねばならなかった。 明治四(1871)年の東本願寺の上奏文案に、≪我宗ニ崇ムル所ノ本 尊ハ弥陀如来卜申テ、乍恐皇国天祖ノ尊卜同体異名ニシテ、智慧ヨ リ現レテハ天ノ御中主尊ト称シ奉リ、慈悲ヨリ現レテハ弥陀如来卜 申シ候。≫とあるのは、今日からいかに滑稽に見えるにしろ、けっ して例外的な諂諛(てんゆ-こびへつらい)の言葉ではなかった。 むしろ、のちにのべるように、真宗はその宗教としての独自性を もっともよく守り、真宗の存在こそが神道国教主義的な宗教政策を 失敗させる根拠となったのだが、しかし、その真宗でさえ、国家の さしだす神々の体系にほほとんど破廉恥に身をすりよせていったこと もあったのである。(『神々の明治維新』P6.安丸良夫.岩波書店.1979)
維新後の赤沢文治-神職の資格を失う中で神名を確定する

明治4年5月、明治政府は「神官職員規則」を公布し、それまでの神職を解任し改めて任用 することにしました。そして、教導職制度を設けてその資格を持つ者のみに布教の許可を与 えました。 これにより文治は無資格になりました。しかし、教導職の資格も取りませんでした。教導職 制度は天皇中心主義にもとづく国民道徳を国民に教化徹底するところにねらいがあり、文治 は取次ぎのそれとは異質のものであることを鋭く感じとっていたからです。 このような姿勢は明治2年に村内の神事を村から移譲されそうになった時、それを忌避した ことにも示されています。文治においては「慣習的信仰とは別の次元で人間救済の世界が構 築」されてきたのであり、「村内の政治的側面と、自己の独自な信仰との間に一線を画し通し た」のがこの村内神事移譲忌避の行動だったのです。 無資格者となった文治に明治6年2月、戸長川手堰は、せがれ萩雄をよびだして、「神の前 をかたづけよ」と命じ、その布教をさしとめました。これを受けて文治は控えの間に引きこもり 祈念の生活を続けていた3月15日、「天地金乃神、生神金光大神、一心ニ願、おかげは和賀 心にあり」という書き付けを記し、神名を確定するとともに、信心の本質ともいうべきものを、 「書付」という形で表現しました。
明治四年以降の金光大神は終生無資格であった。もっとも、維新期になっての金光 大神は、既述の如く氏神社の神官になることも、後に教導職に就くことも容易にで きたが、それをいさぎよしとしなかった。 このように社会的、公的な権威と自己とを連結しない態度、換言すれば平人に徹 する態度は、明治期になって金光大神が終始貫いた態度である。明治六年八月の 「金光大神は平人なりともひれい(威徳が輝く)」との神の言は、社会的権威にた よらなくても、世に神意を顕現する金光大神を、神が誇りとも喜びともした言葉と 解される。(「維新期における金光大神の信仰」P28.瀬戸美喜雄.『金光教学』16号.1976)
さきに、神仏判然令を発して、仏教と の分離をはかった明治政府は、神官の 世襲、叙爵など、旧来の因習をあらた め、神社制度を確立するために、明治 四年五月十四日、「神官職員規則」を 公布し、これまでの神職を一応解任し たうえで、あらためて任用することと した。したがって、教祖も、神職とし ての資格を失い、翌年十一月二十六日、 「神勤ヲ廃官セラル」との小田県の達 しにより、ふたたび従前の無資格の身 にもどったのである。政府は、教導職 制度を設け、教導職の資格をもつ者に のみ布教を公認したが、これは、ひと つには天皇中心主義にもとづく国民道 徳を国民に教化徹底するところにねら いがあった。教祖が、もし布教資格を うしなわないことを第一に考えるなら ば、その資格をえる可能性はあったし、 現にそのことを進言する者もあったの である。にもかかわらず、教祖はあえ て、その道をとらなかった。神官とし てのはたらきや教導職のあり方が、教 祖の取次ぎのそれとは異質のものであ ることを鋭く感じとっていたものであ ろう。(『概説金光教』PP160.金光教本部教 庁.1972)
≪神前片付けと神名の確定≫

 あたかもその翌日(※明治6年2月18日)、 戸長川手堰は、せがれ萩雄をよびだして、 「神の前をかたづけよ」と命じ、その布教 をさしとめた。教祖はこれにしたがい、神 前をかたづけて広前から身をひいたが、こ れはまことに容易ならないことであって、 さすがにそのときの広前の光景を「荒れの 亡所に相成り候」と『金光大神覚』はしる している。神は「力を落とさずに休息せ よ」と、あたたかくこれを支え、教祖はこ のさとしのままに、神の間のふすまをたて きってひきこもり、控えの間でひとりしず かに祈念の生活をおくるのであった。翌三 月十三日、神は「金光生まれかわり、十年 ぶりに風呂へ入れよ」と、さる元洽元年六 月十日にさしとめた湯・行水の禁を解いた。 教祖はこれを新生の湯浴みとし、みずから を「酉の年一才」とした。さらにその十五 日、神は「天地金乃神、生神金光大神、一 心ニ願、おかげは和賀心にあり」という書 き付けをせよと命じ、神名を確定するとと もに、信心の本質ともいうべきものを、こ のような形式をもって明らかにしたのであ る。 (『概説金光教』P161)
≪村内神事の移譲を断るー慣習的信仰と自己の独自な信仰に一線を画す≫

金光大神が従来寂光院の所管であった氏神社(賀茂八幡宮)、荒神七社、山神宮、早馬 宮、地神宮等の神事を譲渡されることになったのも、ちょうど時を同じくして明治二年 七月のことである。金光大神が氏神社その他の神事を委譲された事情は以下の如く推測 される。寂光院では、当時別当僧から還俗させた三宅善太をして氏神社等の神事に当た らせることにしていたが、明治二年五月には、三宅の持病たる癇症の回復の見込みがな いことを理由に、近村の神田豊に社頭を譲渡したき旨、藩政所へ願い出た。けれども、 先年来、神田家を一方の当事者とする争論があったため、この件は許可にならなかった。 折しも六月には、前述の如く藩政所より、村内神社の神体改めのため巡村するとの報に 接し、時期的な切迫と、村内より神主を出すことが何かと好都合なところから、大谷村 里正小野慎一郎は、急遽、神体改めの委員を命じられていた金光大神を、村内諸社の神 事に当たらせるべく善後策を講じたものであろう。/ ところが、それより二か月後の 九月には、金光大神は早くも、氏神社の神事を隣村須恵村の神官原田弥九郎に譲ること となった。金光大神が、神事執行についての藩政所の内諾があったにもかかわらず、二 か月後にこれを他人に譲渡した事情は詳らかでない。/ -中略- / この時期の金 光大神の特異な動きは、氏神社神主となることを、むしろ忌避した点である。既述の如 く、氏神社神主への就任は、藩政所の内諾もあり、村の為政者と村民の側からも村落共 同体維持のために強く要請を受けており、自身にとっても家族にとっても村内での地位 や職業の安定に資するはずのものであった。 いわば村落共同体の営為の側からいえば、 各面をあげての要証であった。にもかかわらず、金光大神はそれらと繋がることを敢て 拒否した。祭典中心、共同祭祀という村落共同体意識の吐露にほかならぬ神事を行ない、 ひいては村内統治の一翼に加担させられることは、金光大神の希求する信仰の内容から は、もはや受け容れられぬことであった。けだし、金光大神の手もとでは、この時期に は、祝い事や村祭りの際の慣習的行事の廃止を打ち出し、祭典中心に代えて「理解」に よる一対一の対話的な教導方式を採るななど、慣習的信仰とは別の次元で人間救済の世界 が構築されてきたためであった。かくて氏神社神事譲渡の一件に当たって、金光大神は 村内の政治的側面と、自己の独自な信仰との間に一線を画し通したといえる。(「維新 期における金光大神の信仰」瀬戸美喜雄.『金光教学』16号.P5、P8.1976)
維新後のみきと秀司ー天理教の場合 なぜ、明治7年まで「別条なく」すぎたのか?

天理教の場合も明治新政府になって吉田家から得ていた裁許状は意味のないものに なってしまいます。それによって「天理王明神の提灯がでるから、一人もあばれにくるも のはござりませなんだ」(『正文遺韻』P54)という状況が崩れることを心配した「先生方」は、 吉田神祇管領に代わる許しを得ようと考えます。しかし教祖はそれを許しませんでした。 新しい教えを説くみきにとって、これは金光教の文治と同様当然のことでした。そのた め文治の場合は明治6年に戸長から神前の物の撤去を命じられることになりました。 しかし、みきの場合は、新しい願いを許さなかったにもかかわらずお屋敷は明治7年秋 迄は別条なく過ぎていきました。ところが明治7年秋を過ぎると教祖の御苦労が始まりま す。なぜ明治7年までは「別条なく」過ぎていったのでしょうか。そして明治7年秋を区切り にして何が変わったのでしょうか。 ここで、許状取得に関する金光教と天理教の違いを確認しておきましょう。金光教の場 合、白川家の許状取得は文治の意志で行われました。それに対して天理教の吉田家の 許状取得は、「こかん名義」の場合は山伏が金を得るために行い、「秀司名義」の場合は 秀司の意志で行われました。どちらの場合もみきは傍観者的な位置にあります。 金光教では、維新によって無効になった後、文治は無資格の立場を貫き、「書付」という 新しい信仰の形を生み出しました。では、天理教はどうなったのでしょうか。 天理教の場合、秀司名義の許状を取得した段階で、「中山家の屋敷」の中に、秀司が 代表になる吉田家認可の神道と中山みきの天保9年に立教した教えとが併存することに なりました。そして、維新で吉田家が「枯れ」てしまったのち、秀司は新政府の神道国教 化政策にすりよっていきます。ここにおいて秀司とみきの信仰姿勢の違いは明確になり、 両者のすさまじい闘いが始まります。その記録が、明治2年に始まり15年までみきの筆に よって記された「おふでさき」です。
天理王明神廃

それから、神様の仰せられた通り、もんく がかはつて、王政復古、明治維新となつた ので、神道の管領も廃せられ、随つて、先 年下されました天理王明神の許も、無効に 成ってしまひました。それから、取次の先 生方は、改めて天理王明神の願に出ようと、 相談致しました所が、神様は御許し被下ま せん。 『願に行くなら、いつて見よ。いきつか ぬうちに、いきがつきるで。そんなこと、 願にでるやないで』 と仰せられましたものですから、そんなに、 いきのないやうになるほど、神様の御心に かなはぬ事なら、やめにしようといふて、 誰も願に出ませず、そのまゝにいたして、 どこのゆるしもなく、以前の様にして、通 つて居りまして、何の障りもなく、だん/ \と信心する人はふえる斗りでござりまし て、明治七年秋迄は、別条なくお通りに成り ましたが、明治七年秋、山村御殿へ御越し 被遊ましてから後は、明治八年を始めとし て、十九年、御教祖様八十九歳の御春まで、 警察署及監獄署へ御苦労被下ました事が十 八度、実に御苦労被下ました道すがらでご ざります。(『正文遺韻』P56.諸井政一.1937. 山名大教会)
「王政復古ー神武創業」に素早く対応する秀司 『辰年大寶恵』にある「中臣祓詞」は、慶応3年に授与されたものではなく、明治維新に対応したものである ≪「皇御孫ノ命ノ朝廷ヲ始テ天下四方ノ国ニハ」を書き加えた≫
中山家には 『辰年大寶恵』と表紙に書かれた慶応4(1867.辰年)年の6月から12月までの賽銭の上がりを秀司が書きとめた帳面が残 されています。その中に「中臣祓詞(なかとみのはらいことば)」 という人々がその折々の必要に応じて祓・禊の行事を執り行う時に唱読 された文書が付いています。 「『辰年大寶恵』について」を書かれた上野利夫氏は、『辰年大寶恵』にある「中臣祓詞」について、他の「中臣祓詞」と詳細な比較をして います。 『辰年大寶恵』にあるものをAとし、他のB~Eと較べたところ、「C、あるいはEにより近く、BはDによく似ている」という結論を記し ています。Bとは、慶応3年に秀司が裁許状を得たときに伝授されたもの、Dは吉田神道に伝統的に伝わるもので、秀司が伝授されたも のは伝統的なものだということが分かります。また、Bは卜部良義という人によるもので、この人は明治2年の日付のある別の「中臣祓 詞」もあり、それと同じものがCになっています。つまり、卜部良義という人は明治維新をはさんで2種の「中臣祓詞」を書き、 秀司もまた、慶応4(明治元)年に早くも慶応3年に伝授されたものではなく、明治維新バージョンとも言えそうなものに近いものを書いたと いうことになります。「明治維新という神道を中心にすえた政変」に素早く対応していたわけです。AとBとの最も大きな違いは、「第九 警 喩又軍敗治要」に「皇御孫ノ命ノ朝廷ヲ始テ天下四方ノ国ニハ」という言葉がAにはあり、Bにはない事です。これは、A、C、Eにはあり、B、 Dにはないということでもあります。
「神武創業」に対応する秀司

 Aの当「辰年大寶恵」の「中臣祓詞」は、 慶応三年七月に吉田家から授与された B の「中臣祓詞」とは、かなり異なってい て、 C 、あるいは Eにより近く、 B は Dによ く似ているといえる。 ( 「 『辰年大寶恵 』につ いて」P277 ) ここで俯におちないのは、 Bを授与した 卜部良義が、 Cと同じ内容のものを明治 二年五月一日の日付で、中臣祓詞を書 写していることである。このことは、 明治維新という神道を中心にすえた政 変と無関係ではなかったと察するが、 明らかでない。( 「 『辰年大寶恵 』について」P280 ) ここから後の「中山家の屋敷」の状況 は「おふでさき」に記されていくことになり ます。それは天理教研究の根幹をなすも のであり、「白川家と吉田家の許状」とい うテーマを越えてしまいます。とりあえず、 今回はここで終了です。





(私論.私見)