日本神道の歴史1、発生史及び教理について |
更新日/2025(平成31.5.1/栄和7)年3.13日
(れんだいこのショートメッセージ) |
先の第二次世界大戦(大東亜戦争)敗戦後、占領軍GHQにより施行されたいわゆる「神道指令」により、戦前の国家神道は政府の直轄機構から切り離され、民間宗教団体となった。現在、伊勢神宮を頂点にした全国約7万9千社の神社を傘下におさめる神社本庁がそれらを取り仕切っている。 問題は次のところにある。神社本庁傘下の諸神社が、現在でも日本神道の顔となっているものの、それらが本来の日本神道を代表しているのかという疑問がある。歴史を大きく捉えてみれば、明治政府以降作為された「官制神道」つまり政治主義的に作り出された「明治国家神道」は、日本の悠久の歴史の中で培われた古来よりの神道からすれば、むしろ異端とも云えるものではなかろうか。つまり、神社本庁に組み込まれている現在の姿も仮のそれでしかないのではなかろうか。そういう気づきから「日本神道とは何か。その教理と歴史について」愚考してみたい。「2.日本の伝統の宗教―神道―」、「世界に注目される古神道」その他参照。 2005.7.8日 れんだいこ |
【「日本は神の国思想」とその批判について】 |
かって森首相が「日本は神の国」と述べたことにより轟々(ごうごう)たる批判を浴びた。れんだいこは、こういったところに目くじらし、逆にせねばならない政治運動に対して不作為する現下のサヨ運動に対して食傷している。この手合いとは百年議論しても通じないだろう。とはいえ、実は知らないというだけの余りなオボコさで正義ヅラしているだけの「成長期特有の善意ミス」の場合もあろうから、以下、手加減しながら意見しておく。 問題は批判のスタンスにある。れんだいこは、森首相発言に纏わりついている政治的なものまでは擁護しないが、「日本は神の国」との観点についてはその通りと思っている。欲を云えば、「日本は神々の国」とするのがより正しい。この言を補強する為には、「神とは何ぞや」が問われねばならないが、西欧的神概念とは違う日本的神概念の下での「日本は神々の国思想」と捉えることはむしろ大事と考えている。その意味では、森首相の神の国発言は一知半解の誹りを免れないだろう。そうではあるが、森首相が仮に「日本は神々の国」発言をした場合には、「日本人無宗教論」に対するアンチテーゼとして賛辞せねばならないと考えている。「日本人無宗教論」はとんでもない話しで、日本人ほど伝統的な宗教を守っている民族は他にない。その伝統的な宗教である日本神道は余りにも血肉化して「生活習慣」となってしまっており、「宗教」として意識されるものではなくなっているほどである。よって真実は「無宗教」ではなく「無意識」なほどに生活習慣化された伝統的民族宗教となっている。かく確認しておきたい。 2005.9.30日 れんだいこ拝 |
【「黄金の国ジパング」考】 |
マルコポーロの「東方見聞録」に於ける「黄金の国ジパング」の意味を考えねばなるまい。日本は「黄金の国」とされたが、「当時は黄金をふんだんに産出していたところから命名された」と受け取られているのではなかろうか。れんだいこは、それはそれで史実であるかも知れないが、それだけでないと思っている。金を豊富に産出しているという意味で「黄金の国ジパング」と云われていたばかりではなく、「黄金」という言葉が指し示す豊かな理想郷という意味を表象していたのではなかろうか。つまり、「黄金の如く素晴らしい国」という意味ではなかろうか。即ち貴金属の中で一番値打ちものなのが黄金のように、人が住むのに理想的な自然環境に恵まれ、そういう恵まれた環境の中で人々が相和しつつ暮らしている素晴らしい長寿の国という憧憬が「黄金の国ジパング」の真意ではなかろうか。 ある時、れんだいこはそう気がついた。比較の問題になるが、思いやれば山と野と海がこれほど並存して、山の幸、野の幸、海の幸に恵まれている国はない。暑さ寒さも適当で、四季折々があり、一日の時間帯も24時間を均等に三分させており、太陽が昇り始めてからの8時間、日が次第に沈み行く8時間、日が落ちてからの8時間という按配(あんばい)になっている。至るところ山紫水明、風光明媚で景勝地に事欠かない。富士山の容姿がそういう日本を代表している。 これらが「神々の国日本」の内実である。これが、「黄金の国ジパング」の意味するところなのではなかろうか。そう云えば、古代の人々は自ら、この国を「豊葦原の瑞穂の国」(とよあしはらのみずほのくに)と自覚してきた。中国に対しては「日出(いず)る国」と申し述べてきた。朝鮮は「朝が鮮やかな国」と申し述べてきたのだろう。いずこの国も、実体に即して誉れを言挙げしてきたことが分かる。 日本はそういう国として誉れを持てばよい。徒(いたずら)に半身構えして批判することはない。問題はむしろ次のことにある。そういう恵まれた国の政治がことのほか貧困で、今では世界一の自殺率を示す国になり、更に強い者と要領の良い者のみが富み、弱者が棄民される世の中になりつつある。国際金融資本帝国主義(国際ユダ邪)に羽交い絞めされており、更にその下僕国にされつつある。それを構造改革だなどと称し、自称インテリがブラボーと阿諛追従し続けている。ここに問題がある。この貧困を何としようぞ。 2005.9.30日 れんだいこ拝 |
「豊葦原の瑞穂の国に於ける古代の信仰教義」考 |
【特徴総論】 | ||
古来より日本の地は「豊葦原の瑞穂の国」と表記されている。それとどう関係するのかどうか分からないが奇しくも、現在においても日本列島各地津々浦々まで神社仏閣が点在している。その数約8万2千社と云われる。明治になっての神社統制化政策により相当数が整理されたが、それ以前は12万社余を数えていたと思われる。この数が他の諸外国に比べて多いのかどうか判断する資料を持ち合わせていないが相対的に夥しいほど多いのではないか、かってはもっと甚だしく多かったことを思えばなおさらである。これには小さな社(やしろ)や祠(ほこら)は含まれていない。個人の家で祀っている神棚や稲荷(いなり)まで含めると、果たしてどういう数になるのだろうか。 日本列島に神社仏閣が形成されてきた歴史には奥ゆかしいものがある。神社の場合、凡そ発祥の時期すら定かでなく、祭神は特定されているものの教祖、創始者は隠れており、特段の教義、教理、教典もないままに、我が国古来よりの信仰として今に息づく固有の宗教となっている。これを日本神道と云う。 西行が、伊勢参宮の折に詠んだとされる歌がある。実際には、吉野―大峯山の庵山中での思いかも知れない。
山蔭基央氏は、このことを説明して、著書「神道の神秘 - 古神道の思想と行法(上)」(春秋社)の中で次のように述べている。
以下、日本神道の特徴をスケッチしておく。 |
【特徴その1、「不立文字」】 |
日本神道に共通するのは「僅かばかりの言挙げしか持たぬままに専ら神主が所作法で伝える儀式」である。神道教理がない訳ではない。一見ないように思われるだけで、実は下手な明文教典より以上の高度な内容を持っている。つまり不立文字になっている。そう窺うべきではなかろうか。その思想はかなり高度なものであり今日にも通用するものである。日本神道は、大宇宙の原理を奥深くで弁証法的に捉えており、それ故に固定的な概念を持つ文字では表現できない。不立文字の裏面にそういう機微を窺うべきではなかろうか。日本神道は、人と社会とがその宇宙の法理法則に合わせて万物との調和を図りながら処世して行くようその手法と儀式の格式を生み出している。関係者諸人がこれを共々に知り悟り味わうという信仰体系となっている。 故に日本に生み出され、他の諸国では未発達となったのかは分からない。あるいは他の諸国でも自生していたものが他の諸国では廃れ日本が脈々と受け継いで今日に至っているとみなすべきかもしれない。 2005.9.30日、2013.7.29日再編集 れんだいこ拝 |
【特徴その2、「自然との共生」】 |
日本神道の奥義は、ある意味で今日の科学的諸所見より進んだ知見を控えさせている。近代及び現代資本主義がもたらしつつある資本の無際限無定見増殖による地球環境汚染、社会貧富の差、階級対立、人心荒廃、人間疎外現象等々を思うとき、日本神道の奥義ははるか昔に近代及び現代資本主義思想の限界を見据えており、故に自然との共生を目指すところから作法を生み出している。星座や天地自然の運行法則、森羅万象(花鳥風月、山川草木)の中に精霊が宿るとして汎神論(pantheism)的に神の摂理を見てとり、神々しさを感じ、それを「八百万(ヤオヨロズ)の神」として奉り、それらの霊気を感じとり、体得し、その上で「神と共にある道」を探求しようとしていたように思われる。人間もまた自然の一部であり、大自然は感謝と畏敬の対象であった。且つ、太陽と月と星の三位一体の天文暦学を確立し、吉凶を占っていた形跡が認められる。後に中国式天文学と混合するが、日本文字の創造と同様な処方で日本的神道なるものを生み出していた窺うべきであろう。 2005.9.30日、2013.7.29日再編集 れんだいこ拝 |
【特徴その3、「むすび信仰及び産土神信仰」】 |
「豊葦原の瑞穂の国に於ける古代の信仰教義」の特徴その3は、「むすび信仰及び産土神信仰」である。日本神道は「むすび」を重視する。「むすび」は「産む」であって「生産力」、「生命力」を意味している。つまり「産む」の意の味「むす」に霊力をあらわす「ひ」がくっついて「産み成す神霊」といった意味の「むすび」になる。こうした神観念が、「土地」との絡みで考えられた時に「産土神(うぶすなかみ)」と表現され、これが「氏神」や「鎮守神」と同化されていく。この具体的な信仰が、農民にとっては、五穀を実らす「山」に対する信仰となる。日本神道では基本的に「神」を「人間の姿」で考えることは比喩的な表現以外ほとんどない。この「山神」が里に降りてきて「田の神」になる。「神」は山や田に宿るだけではなく、自然的な生命力が見られる何にでも宿る。人々はそうした「神が宿っている万物一切」を「神」として祭る。 3、神と地域性、シマ、氏神と氏子、集団帰属性 今、祭りをみたわけですが、この「祭り」にもう一つ大きな特色がみられます。それは「地域性」ということです。祭りは一定の地域に限定されるのです。ということは「神様」も地域限定性があるということなのです。これは日本の古神道に特徴的なこととして理解しておく必要があるでしょう。もちろん「天皇家の神」は日本全体に及ぶ、としますが、それは天皇が日本全体を支配領域とするからで、しかしだからといって各地方地方の神がなくなるということにはなりません。地方地方に別にその地域を支配する神がおり、これは限りなく「細分化」します。ですから「神様の数」も限りなくなってしまうのです。そしてその神様の力は自分の領域の外には及ばないのです。 この、神がその「領域を占める」働きのことを「シル」といいますが、これは要するにしめ縄をはって、境界の限定された空間(シマ、クニ)を示し、それを自分の地として「占めて」他者の侵入を許さない、という意味となります。分かりやすくいえば「縄張り」のことです。日本の神というのはこうした「縄張り」をもっているということです。 こうした構造をはっきり示しているのが「氏神」「氏子」という概念であり、ある地域にはその地域の守り神として「氏神」がおり、その住民はその地域の神の「氏子」として認識されます。そして「氏神」はその地域の「氏子によってのみ」祭られ、その氏子にのみ恵みを与えるということになっています。この関係にはっきりみられるように日本の神は「家族、一族、部族」の神という性格が強いのです(ただし、これは文字通り血縁的一族と限定されるわけではなく、土地に結び付けられた集団とみなしていいです)。 この、本来は「氏族の神」であったと考えられる「氏神」は「土地」に絡むことから「産土神」と同化し、また「土地の守護神」である「鎮守の神」とも同化し、「その土地を守りその土地に豊かさをもたらす」という理解となっていきました。ですから、他の神に属している者に対しては自分達の集団の人間として受け入れるということはしません。神は「自分とは違った神の氏子」によって祭られたところで喜ぶ筈がなく、したがって恵みを与えてやることもない筈だからです。これは「意地悪」でそうしているのではなく、「地域のものとして各人は認識される」という、日本人の「人間観」ですのでなかなかなくなりません。つまり、人間を集団の一員として見、個人としてみるという見方がないのです。 何故「氏子」ということが大切なのかというと、集団を維持・繁栄させることが日本の神の使命ですから、集団構成員はその「神への帰属意識」をもつことが要請され、それにこだわるからです。これが「社会倫理」とされます。日本人の「群れたがる」性格はこんなところに原因があり、何をするにも「仲間と一緒」にし、思い切ったことは「集団でなければ」やれない、という性格を持っているのもここに原因があります。「仲間意識」というよりむしろ「独立的自己の確立」という概念自体がないのです。日本人の言い方として「我々日本人は……」という言い方がよくされるということが指摘されていますが、これは「自分一人では責任はとれません」ということの裏返しの表現とも言えます。実際日本人は古来「集団の意志決定において生きてきた」と言えます。この「集団帰属性」は社会倫理にともなって、日本人の倫理・道徳観を育成してきました。いうまでもなく「集団・社会優先の倫理」です。 ここからまた、日本人論の中でよく指摘される「内・外」という概念が出てきます。ある地域の中で同じ神の下にある人々が「内」であり、その外側の人々はすべて「外」となります。そして「内」にあるものはすべて「一族」と見なされます。ここから、外人に対する特殊なものの見方が生じたり、「排他性」が指摘されることにもなります。つまり「福は内」の思想といわれているものですが、「自分の所だけに」福を呼び入れ、鬼は外に、つまり他の地域に行ってくれ、ということです。一方、この「内」という思想の延長上に「日本民族単一論」というものが主張されることがあります。日本民族が南方系と北方系の混交であること、大陸からの民族の流入、また歴史時代になっても、特に上流階級に朝鮮・中国の血が大量に入っていることなどがあっても平気で「単一民族」と言ってきますが、この時の意味は「人種として単一」という意味ではないのです。むしろ「日本人として認められ、この日本の神のもとにある人々はみな同じ」といったような意味合いなのです。日本民族は「単一」だからアメリカのような民族問題などない、と考える日本人が非常に多いのはこんな事情があるからです。 この宇宙観、自然観の下で、人は神の命を分け与えられて生きているとしていた。生命は神の分霊(わけみたま)であり、神の子であり、人はそれぞれの土地の神である産土神(うぶすな神)のお陰を蒙って生きており、その恵みを受けながら暮らしているとしていた。村里には鎮守の森があり、社(やしろ)を建て信仰した。人は、産土神を祀る氏神に依り、氏子として結ばれた。「神が鎮座まします座」といった意味を持つ大きな岩の磐座(いわくら)大木(この場合、「ひもろぎ」とよび、神霊たる「ひ」が「籠る(もる)」「木」と説明される)。正月に立てる「門松」も「年神」を宿らせるものである。こういう信仰を通して四季の恵みを享受し、諸々の神に感謝し、祭りを祝し、恩返ししながら生きていくのが正しい生き方としていた。最後には産土神に導かれて、祖霊のまします世界へ帰ると云う死生観を確立していた。これを「惟神(かんながら)の道」と云う。「惟神(かんながら)の道」は西欧ユダヤ的征服支配思想と反する。この手法を非科学的とするのではなく現代科学を超えていると受け止めるべきで、今も斬新にして探求すべきというべきではなかろうか。 これが基本であり、後に大和朝廷が天皇制を生み出しと時にも、天皇家自体が「むすびを司る」ものであると位置づけられることになった。そうしなければ日本神道と調和しないからである。 2005.9.30日、2013.7.29日再編集 れんだいこ拝 |
【特徴その4、「まつり」】 |
「豊葦原の瑞穂の国に於ける古代の信仰教義」の特徴その4は、「まつり」である。「まつり」は、神の方に向かっては「祀り」、氏子の方に向かっては「祭り」となって双方向で祝い合う。即ち、祀りは、「神」を招きその意思を明らかにし、それに付随して神を供応して喜ばせ、「力」をつけてもらう。必然的に「祈願」が行われるようになり、それに伴い「捧げ物」がされるようになったと考えられる。他方、自分達もその「力」に与かって「繁栄」を促進しようとするのが「祭り」である。祭りは「収穫」に関わっている。祭りには「歌舞」が中心的役割を果たしている。人々は春の「種蒔き」時には神を呼んで祀り、秋の収穫時には「初穂」を神にささげる。(これを祭儀として公式にしたものは「神嘗祭(かんなめさい)」といい、最大のものは伊勢神宮で10月15~16日に外宮で、16~17日に内宮で行われ、また皇居でも17日に執り行なわれる)。その収穫物を神と共に親しく食して神の力と合一しようというのが祭りである。これは「新嘗祭(にいなめさい)」といい11月23日に行われている。この日が「勤労感謝の日」とされ祭日になっているのはこのためで私たちも神様の「恩恵」をこうむっているわけである。 祭りはまず「汚れ」を払って、神官が神を招き寄せて神が宿るべき「依代(よりしろ)」に神を宿らせ、食事(神饌といいます)を差し上げ、歌舞で神意を問い、春祭りなら農耕の所作を演じて豊作を願ったりする。「みこし」は祭りにつきもの。これは要するに「持ち運び用神社」ということで、ここに神がおります。この「みこし」を地域内全部に運んでいくことで「神様の力」は全域に及ぶことができる。この時、神様の力を強くしてやるために「みこし」を激しく振ってふるいたたせる。この時の掛け声に種類があり、例えば歌にある「モメモメ」というのは大きく激しく上下左右に振ることをいい、「サセサセ」というのは高く担ぎ挙げグルグル回すような動きで、交差点や社殿前の広場などでやっています。みこし同士が喧嘩するのは、神様を鼓舞し強くするためであったり、地域内の集団の「自己主張」であったり「占い(つまり勝ったが豊作になる、など)」であったりすることもあります。祭りに喧嘩がつきものなのはこんな事情もある。こうして今度は神様との「交歓」の儀式で、「直会(なおらい)」と云う。ようするに「飲んだり食ったり」です。これは「ご苦労さん会」ではないのでして、神様と同じものを食することによって神様の力に与かり、一方、その神の食物と同じ物を「皆で」食することによって「身内」であることを確認し絆を強くするという「大事な儀式」でうる。一族全員、村中総出でやらなくてはなりません。同じ神の下にある地域の皆さんと深い絆を確認する。 |
【特徴その5、「祖霊信仰」】 |
「豊葦原の瑞穂の国に於ける古代の信仰教義」の特徴その4は、「祖霊信仰」である。「祖霊」というのは柳田国男が言い出したものとして有名になっているが、これは字の通り「祖先の霊」ということで「先祖信仰」を指す。日本式共同体では「祖霊=氏神」となる。「祖霊=氏神」は「共同体の守り神」であり「子孫を保護」しているとされている。お盆というのは本来この「祖霊」の祭りであって「仏教」の行事ではない。世界各地の宗教がほぼ等しく「祖先崇拝」をするが、日本神道では何の遜色もない堂々とした「祖霊信仰」をしており、「氏神-氏子」として関わり合って日本の伝統信仰そのものとなっている。 2005.9.30日、2013.7.29日再編集 れんだいこ拝 |
【特徴その6、「女男陰陽交合和楽」】 |
日本神道即ち日本思想の特徴をいろいろ述べたがまだ足りない。最後に付け加えておくと、神人和楽と同時に女男陰陽交合和楽の思想を前提にしているように思われ、これもまた日本思想の特徴である。日本神話のイザナギ、イザナミによる国生み譚に象徴されているが、日本思想では男女交合和楽が前提となっている。恐らく男女交合の中に聖と俗、神性と淫性を同時に見、それをあるがままに受け止めているのではなかろうか。これにより純粋の日本思想では仏教的な西欧的な独身修行はありえない。日本思想では独身修行は知の偏向であり、そういうものは受け入れない。これもまた日本思想の特徴ではなかろうか。 2005.9.30日、2013.7.29日再編集 れんだいこ拝 |
熊野にある二つの玉置山、熊野川の支流である北山川を挟み、玉置神社(男神)が鎮座して、三重県紀和町には元玉置(女神)がある。その二つの玉置のエネルギーが融合する地、嶋津の山頂はゼロ地場とも言われ、男神と女神のエネルギーが融合、統合する地である。その山頂に和合の岩、陰陽の岩座がある。眼下には古より龍穴と言われる木津呂という地区があり、その木津呂は正に男根であり男龍の象徴、その頂点と繋がる島津の山頂の岩座(陰陽の岩座)は正に女性(女神)、女性性開花の地となっている。(「須賀洋治 ― 神社と歴史の広場) |
【特徴その7、「神人和楽」】 |
日本神道即ち日本思想の特徴をいろいろ述べたがまだ足りない。最後に付け加えておくと、神人和楽と同時に男女交合和楽の思想を前提にしているように思われ、これもまた日本思想の特徴である。日本神話のイザナギ、イザナミによる国生み譚に象徴されているが、日本思想では男女交合和楽が前提となっている。恐らく男女交合の中に聖と俗、神性と淫性を同時に見、それをあるがままに受け止めているのではなかろうか。これにより純粋の日本思想では仏教的な西欧的な独身修行はありえない。日本思想では独身修行は知の偏向であり、そういうものは受け入れない。これもまた日本思想の特徴ではなかろうか。 2005.9.30日、2013.7.29日再編集 れんだいこ拝 |
【特徴その8、「祓いたまえ清めたまえの禊信仰」】 |
日本神道には独特の「禊祓い信仰」がある。これにより「清め儀式」が伴う。これにより、共同体の秩序の乱れや災い、事故に対処する鎮魂儀式を行う。個人の場合には心身の不浄を除く。或いは死、疫病、出産、月経に伴う危険を浄め。その為の作法は神社によって異なり様々なものになっている。但し、思想としては「浄め」の儀式で共通している。 思想的には、日本神道が心の涵養を重視していることになる。「ケガレ」を「気枯れ」即ちケ(生命力)がカレた状態(枯渇)とし、気が枯れて病気になると見立てている。祭などのハレの儀式としての禊ぎでケを回復するという考え方がある。「祓えは神の力によって行なってもらうものであり、禊ぎは自ら行なうものである」。日本神話上では、黄泉の国から戻ったイザナギが禊をしている。これは、黄泉の穢れを払う行為であり、その最中に何柱もの神々が誕生している。また、祓われた穢れそのものからも神が誕生している。大きな祓え行事として六月の大祓えと師走の大祓えがある。半年ごとに穢れを祓い、命を再生させることを儀式化している。 興味深いことは、日本神道に派仏教的な輪廻転生思想が認められないことである。業とか因縁思想もない。西欧のユダヤ―キリスト教的な罪、懺悔的なものもない。代わりにいわば禊祓いで蘇生する浄めがあると思えば良い。宗教思想的に見て、日本神道の方が高度と云えるのではなかろうか。 |
禊(みそぎ)と祓い(はらい) 「村八分」があるということは「悪」とみなされるものがあるということですが、これに関わって、現代の私たちも良く知っている「禊と祓い」という概念があります。これは要するに「悪を除く」ということですが、日本にはキリスト教的な意味での「罪」すなわち「人間そのものが抱えている本来的罪」といった考え方はありません。人間はそれ自体としては「清らかで優れたもの」だとします。しかし、それに「汚れ」が降り懸かって「悪く、不浄に」なるのだと考えています。ですから、その「悪」を振り払えば「きれい」になると考えます。その汚れが一つには生命力の枯渇としての「死」であり、その前段階としての「病気」あるいは生命を脅かす「災い」などが悪です。これらは「不浄」なものと認識されます。禊ぎというのは「水や火」で「身をそそいで清らかに」するためであり、「祓い」というのは文字通り「はらいのける」ものだと考えていていいです。 |
「ハレ」と「ケ」と「ケガレ」 今の不浄の概念と関係して「ハレ」と「ケ」という概念があります。また、これに加え「ケガレ」という概念があります。「ハレ」というのは今日でも「ハレ着」という言葉に残り、ケガレはそのまま「けがれている」「けがらわしい」などという言葉に残っています。この時の「ケ」というのは「力・生産力」を表す「気」であると考えられ、「ケガレ」というのはこの「気が枯れた」という意味であろうとされます。「気が枯れた」時にこれを回復させるためにおこなわれるのが「ハレ」の日の行事としての「祭り」だというわけです。 祟り ですから、こうした祭りをとどこおりなく行わなかった場合や、神に対する侵犯などがあると「祟り」が生ずると考えられました。この祟りというのは日本の場合非常に強く意識され、神信仰の動機の一つとなっているほどです。それは「災厄」となって現れるのが本来ですが、これが後には個人の霊の祟りまで考えられ、これを鎮めることが重要なこととなり「御霊信仰」などを形成させて行きました。 黒不浄と赤不浄 一方、生命に関わる「不浄」として最大のものとして「死」を意味する「黒不浄」と「女性の月経、出産の血」を意味する「赤不浄」というものがいわれています。「黒不浄」は分かるとして、何故「赤不浄」が不浄とされたのかよく分かりません。女性に月経や出産はつきものですから、結局女性そのものが不浄なるものとされてしまいますが、これは日本だけの現象ではないので何か理由があるのでしょうがはっきりしません。とりあえず「血」は生命に関わりますから、これが「体外に出る」ということに恐れを抱いたというのは分かりますが、それだけではないような気がします。恐らくは「女性が子供を産む」という神秘的な力にむしろ恐れを抱いたのかも知れません。ですから当初女性は「神的」なものと思われたようです。その痕跡はたくさん見出だせます。しかしそれが逆転してしまうのです。つまり、社会が進展して、戦争などが集団の存続に関わり、男社会になった時、男達は女性を「恐れ」、それを疎外する方向に行ってしまったのではないか、と考えられるのです。男性がどうも無意識的に心の底で女性を恐れているのではないかというのはヨーロッパ中世での「魔女狩り」などにもみることができます。 ともあれ、こうして身内のものが「死んだ」時にはその汚れは一族におよんでいるものとして、皆「家」に引きこもり、人々との付き合いを絶って、汚れが薄くなくなるまでじっとしていることになりました。今日の「忌中」という奴です。女性の方も、「月経時」は「汚れて」いるものとして引きこもっていなければならず、出産時には「家」に汚れが及ばないよう、「別に出産小屋」を建ててそこで出産するのが習わしとなりました。 日常的な汚れとしての災いと人間的我欲、我執、怨念 以上のような明確な不浄の他にも病気や怪我などさまざまの不浄があり、それは日々人間の身に降り懸かってきます。また自然的災害もあります。そしてもう一つ「罪」とされたのが「反集団性」であったわけですが、これも多くははっきりした形ででることはなく、日々の生活の中で蓄積されてくるものです。 こうして人はさまざまに「汚れて行く」わけですが、その内面の身の汚れは「我欲とか我執、怨念」などによるものとされます。人間ですから、誰だってこういうものを持つわけです。これがもちろん「目に見える」形であらわれたら「罰せられて」しまいますが、そうでなくても日々心の中に持つのが普通です。このままではやはり人はドンドン汚れていってしまいます。そこで人々はこれを「払い除けて」きれいになろうとしました。その時おこなわれたのが「禊・祓い」なのです。 「禊」というのは、古事記にあるように「具体的なけがれを洗い流す」ものでしたが、特別取り立てた汚れがあるわけではない場合でも「日常的に身についた」汚れを落とすために行われることがあり、「水をかぶったり」「火の粉をかぶったり」するものです。「祓い」の方はむしろ具体的汚れや、あるいは予期されるものに対してそれを「祓い落とす」ためのもので、現代でも「車」を買った時神社で「お祓い」をやってもらうというのがれになります。ただし、今日その区別は殆ど意識されないどころか、悪い事をしてやめた代議士が「選挙」で再び選ばれて「禊はすんだ」などという始末で、「いいように」利用されています。しかし、日本人に、「人間に本来的な罪」というのはなく、汚れは外からくるもので、それを祓い落とせばきれいになる、という思想があるのは現代でも生きているような気がします。そして「祭り」にはこうした「禊」タイプのものもたくさんあり、さまざまの地方でみられる「火祭り」とか「海、川などに入ったりの祭り」などがこうしたものと言えます。神社にいった時「手や口をそそぐ」のも同じ思想からです。 |
【特徴その9、「言霊信仰」】 |
日本神道には加えて独特の「言霊信仰」がある。祝詞(のりと)はこれにより生みだされている。 |
【「採集経済時代の古代日本の信仰」について】 |
日本神道は人類誕生のどの地点からかは分からないが、いつしか「お山」毎に形成されたように思われる。それぞれの部族が「お山」単位に纏まり、族長の指導の下で隆盛繁栄する「弥栄(いやさか)の原理を尋ねる道」として続いて来たものである。これを神奈備信仰と云う。神奈備山信仰とは、故郷の鎮護山を、「もりやま」、「はやま」、「神奈備山」などと呼び「祖霊、神霊のすまう他界の山」として崇拝する信仰を云う。その最初期の太古においては、霊地、霊山、霊峰、滝、霊物自体に神が宿るとみなして「ご神体」とし、これを敬っていたように思われる。これは何も日本だけではない。人類の原基の信仰として共通している。これを如何に宗教化させたのかにより違いがあり、日本は神道を創ることにより高度なものにしたと思えば良い。 日本神道の要諦として、これらの霊山に対する登山信仰、山岳信仰が介在している。登山信仰は山頂登山により霊気を貰う業として受け継がれている。山岳信仰は、山地水明の瑞穂の国と云われる日本に於いて特有に発達した神奈備山信仰と合体している。当初は山上で次第に山麓で祭祀が行われたように思われる。これらの信仰は現在も民間信仰として広く行われている。山麓での祭祀が後に神社神道へと展開していった。これにより山上は奥宮となった。鎮守の森や小高い丘を背後にもつ神社のたたずまいは山岳信仰の面影を今に伝えるものである。後に奈良時代になり修験道が生まれるや、山岳修行による超自然力の獲得により験力を得る修行の山となった。 ご神体を「御霊代(みたましろ)」とも云う。霊地、霊山の森林奥地にある巨木や巨岩、巨石などを神が内在する目印即ち「依代(よりしろ)」として祀り、何らかの祭祀を行っていたとみられる跡が数多く発見されている。巨石、巨岩の御座所を「磐座(いわくら)」と云う。樹木の御座所を「神籬」(ひもろぎ)と云う。広島の葦獄山や、富士の愛鷹山、大和の三輪山などが代表的なものであるが、古代日本人の祭祀目的の巨木、巨石が各地に今でも存在する。 こうした聖なる土地を、カタカムナ文献では「イヤシロチ」と呼び、その特別な場所のことを「神奈備」(かんなび)、神霊を迎える場を「斎庭・忌庭」(ゆにわ)と云う。我々の祖先は、こうした聖地に「社」(ヤシロ)を定め、更なる聖域に「奥宮」を祀った。ここに注連(しめなわ)を張り、榊(さかき)を立て廻らし「神籬」(ひもろぎ)や「磐境」(いわさか)とした。ここに神を招き寄せ諸人が感応した。当時の暦法に従い神職を祭主とする祀りが執り行われ、諸人による祭りで神威を分かちあった。これが日本神道による祀りの原点であったと思われる。 西欧的宗教学では、これをアニミズムと云う。アニミズムのアニマとはラテン語で、「息をする、息づく」を意味する。同時に「命、霊、風」の意味をも持つ。日本の古神道は、このアニミズムにヒフミの理(ヒ=霊(火、ヒ)、フ=風(息、吹く)、ミ=水(生命、身))を重ねたところに特質が認められる。この時代の神道を仮に「原基神道」又は「元神道」と命名する。 日本の場合、土地毎に必ず霊山が祀られていると思えば良い。これらの霊山には必ず祀りの聖地がある。これを神社との繫がりで見れば、有名なところとして大神神社(奈良)の三輪山、出雲大社(島根)の八雲山、諏訪神社上社(長野)の守屋山、吉野金峰千寺の大峰連峰の金峰山(きんぷせん)、金鑽(かなさな)神社(埼玉)の御室ガ岳、宇佐神社(大分)の御許山、御上神社の三上山、本宮浅間大社の富士山などがある。これを神奈備山(神体山)と云う。 日本三霊山は、「富士山、立山、白山」の三山を云う。立山もしくは白山を除外して御嶽山を加える説もある。日本七霊山は、「富士山(静岡県、山梨県)、立山(木曾)、白山(木曾)、大峰山(大和)、釈迦ヶ岳(大和)、大山(伯耆)、石鎚山(伊予)」。異説として、白山を除外して御嶽山(木曾)、釈迦ヶ岳を除外して月山(山形県)を加える説もある。 2005.9.30日、2011.7.21日再編集 れんだいこ拝 |
【「神社神道」について】 |
大和朝廷時代に入って、霊山を御神体とする信仰から神社信仰とも云うべき「お社(やしろ)」信仰へ変遷した形跡が見られる。上古代は、大きな偉業をあげて亡くなられた故人を、山頂や山腹等に磐座を造って埋葬し、神の坐す神籬を建てて祭祀した。その後、磐座の前に拝殿を建てて慰霊を拝み、五穀豊穣・氏族の隆盛・疾病平癒などを祈願・祭祀するようになった。この場所と社が神社となった。その部族や配下だった氏族が、自身の所領地に神霊を勧請して祭祀するために建造した神社も多く、政祭一致の拠点にしたとみられる。それが各地の氏神である。この信仰形態がその後の神道の主流となった。 昔の村(邑)には氏神のない所はなかった。昭和初期までは氏神の社務所や寺が村役場でもあった。だから主祭神として祀られる神社数が多いのは、それだけ多くの支持部族・信奉者が居たことを物語っている。但し、記紀の編纂後、多くの神社の祭神名や縁起の改竄が行われたようで、これは当時、朝廷の指図で強制されたものと思われる。 |
【宮】(みや) は、神様がお住まいになられるおうち(家屋)のこと。御家もしくは御屋とも書く。【社】(やしろ) は、宮に代わるもの、またはその規模を小さくしたもので、家代もしくは屋代とも書く。伊勢神宮の125社では、その区別が判り易く、宮と呼ばれているのは御正宮と14の別宮のみである。それ以下の摂社、末社、所管社のほとんどが「○○神社」と呼ばれる。また、社殿を持たない石畳のみで祀られているものは「○○神」と表記されている。一部、「殿」や「倉」などの例外もある。
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【「神道の神前小道具」について】 |
神社の祭殿の小道具について確認しておく。 真榊(まさかき)。一対の真榊が神前に立てられている。両側の檜の棹にはそれぞれ榊の枝葉が付けられる。向かって右に鏡と玉、左に剣が懸けられる。その下には、青、黄、赤、白、紫の5色絹が垂らされる。これを神具と云う。その由来は定かではない。通説は、天照大神が天岩戸にお隠れの時、八百万の神々が集い謀って、天の香具山の榊を運び出し、上枝に勾玉、中枝にハタの鏡、下枝に青和て(あおにぎて)、白和て(しろにぎて)を取りかけたとの故事を引き合いに出すが、当然それ以前の発祥も考えねばならない。 |
御鏡。 勾玉(まがたま)。勾玉の起こりは縄文時代と云われている。狩りの時、獲物を手に入れるとびに、その獲物の歯を一本抜いて穴を開け、それを身に付けて装飾品としたと云う。巴形に湾曲している形は、霊魂を象徴している。玉と魂の音が同じであることにより、特に神聖なものとされている。生命力を魂が象徴し、玉に通じ、勾玉に通じる。歴史的には、縄文時代か弥生時代のいつごろからかは分からないが新潟県糸魚川(いといがわ)産の青色の翡翠(ひすい)の勾玉が全国に出回るようになる。魏志倭人伝には、邪馬台国の台予(とよ)が魏の国へ大型の翡翠の勾玉を2個贈ったことが記されている。当時の秘蔵的宝物であったことが分かる。記紀神話では、天照大神がイザナギの命から授かった「八坂にの勾玉」をスサノウの命との誓約の時に、心の潔白を証明するために用いている。これは、勾玉が、「高天原の王位のシンボル」として扱われていたことを意味している。埴輪(はにわ)の中には、勾玉を身に付けた巫女(みこ)の人物像が多数出土している。神聖な神力のシンボルであったことが判明する。今日の宮中儀式でも、皇位を示す三種の神器の一つに「八坂にの勾玉」が使われている。 |
紙垂(しで)。その折り方は図の通りである。(図略) |
ご神府。ご神府は、土地の中央に青竹を立て、その青竹の先端より少し下がった箇所に貼られる。 |
清めの砂。清めの砂はお皿などに半紙を敷いて盛る。これを東北(表鬼門*、うしとら)の隅から東南(巽、たつみ)、西南(裏鬼門*、ひつじさる)、北西(乾、いぬい)の時計の針の周り方向順に清め、最後に中央部を清める。撒き方は1箇所で左、右、左の順で、内より外の方に向けて、その土地に撒く。この場合の四隅と中央は、5本の竹の根元付近を云う。 2005.9.30日 れんだいこ拝 |
「てみずや」または「ちょうずや」 参道の脇や社殿脇にある中央に水盤と柄杓(ひしゃく)が置かれている四方吹き放しの建物を「てみずや」または「ちょうずや」等と呼び「手水舎」と書く。参拝者は、最初にこの手水舎で手と口を清めるのが作法である。これは神道の穢れを嫌い、祓い、清める作法に関係している。これを厳格にすれば、海水や川などに全身を浸して身を清める「禊(みそぎ)」をしてから参拝するべきと云うことになる。禊のことは古事記にも書かれている。イザナギの禊譚がそれで、イザナギは一緒に国生み・神生みを行った妃のイザナミを生き返らせようと黄泉の国(死者の国)へ迎えに行くが、すでに黄泉の国の住人となったイザナミの姿を見てショックを受け、地上へと逃げ帰る。その際、穢れた体を清めるために禊をしている。この時左の眼からアマテラス、右の眼からツクヨミ、鼻からスサノオが生まれたと伝える。今でも禊が必要な神社が残っていて、例えば島全体が宗像大社の沖津宮の境内となっている沖ノ島は、一般の方は原則上陸することが禁止されており、神事などで関係者などが上陸するときも上陸する前に浜で禊をしなければならない。しかし、参拝するごとに毎回裸になって身を清めるのは難しい。そこで禊の簡易バージョンとして手水舎が登場したと考えられる。 |
【神事の進め方について】 |
注連縄作り、神饌、修祓、祝詞奏上。 |
【「農業経済時代の古代日本の信仰」について】 |
時代が下りやがて農業経済へと移行する。それと共に、農耕祭祀が取り入れられるようになった。神道は適応し、その頃までに次第に神の概念、神話、祭事法、共同体の掟、倫理観などを形成していった。
従来の日月信仰、海・山・川・草木の自然神信仰に加え、農業・商業・漁業・鍛冶などの生業産業の産土(うぶすな)守護神信仰、智恵の神などの機能神信仰、土地の神や氏族の祖神などを祀る氏神信仰等々多様な信仰を生み出していった。次第にそれぞれの伝統的祭祀法が形成され体系化されるに至った。 当時の人々は、こうして定められた社を中心に、一種の共同体的な集落を形成し、この集落の中から、人品骨柄に優れた霊能力者をして祭祀を司らしめ、五穀豊穣を願い、作物を収穫すれば神饌として献じ、神恩感謝の祈りを捧げたようである。神の御前では司祭を別格とすれば他の誰でもが平等であり、一切の重要な決定は祭祀によって行われたようでもある。 春秋2季の祭り(春祭りはその年の実りの祈りと予祝のための、秋祭りは実りへの感謝のための祭り)を恒例とし、その他日照りや風水害、疫病など神の荒ぶるしわざに対する神を和めるための臨時の祭りが行われた。 現在、初詣をはじめ、
神前結婚式、初宮参り、七五三、成人式、安産祈願、合格祈願など、神社に出掛けて祈願する行事は日本文化の中に定着しているが、神道が日常生活の中に息づいていることを証左している。神道は意識的な宗教行為としてよりも、長い伝統の中で習慣化された無意識的儀礼行為として本領を発揮している。
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【宮と神社について】 |
「宮」の「み」は接頭語なので、「や(屋)」つまり、尊い人の住んでいる御殿などを指す。また、 「都」は「宮処」で宮殿のある場所を示す。 宮に住んでいた偉い人が亡くなると、宮が神社になる。神社は墓ではない。墓は宮とは別の場所に営まれることが多い。例えば、畝傍山の南東にある橿原神宮は、北東にある神武天皇陵とは別の場所である。また、宮崎神宮は、神武天皇が東征前に住んでいた宮崎宮があった場所と伝えられている。大吉備津彦の命は、吉備の山中のふもとに、「茅葺の宮」をつくって住み、この御殿で吉備の統治にあたった。その後、この宮で没し、吉備の中山の頂に墓が営まれたという。そして、「茅葺の宮」の跡に社殿を建て、祖神を祀ったのが吉備津神社の起源とされる。 |
【「日本精神」について】 |
【「日本古代史との結び付き」について】 |
神道を知ることは、日本の古代史に迫ることになる。それは日本人の起源問題にも通底しており「日本肇国(ちょうこく)史」と重なっている。それが為に、日本の歴史を知ることは同時に日本神道の本質を説き明かすことにもなる。 |
(私論.私見)