新渡戸稲造「武士道」の内外評価考

 (最新見直し2015.04.10日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、新渡戸稲造「武士道」の内外の評判を確認しておくことにする。

 2012.05.03日 れんだいこ拝


【「新渡戸 武士道」の海外での様々な評価考】
 れんだいこは、「新渡戸 武士道」のこれはと思う評価に出くわしたことがない(最近、ネット検索で「」(Antonius R. Pujo Purnomo, M.A. 国立アイルランガ大学)を拾った。これを参照する)。

 海外の評価は次の通り。クロニクル紙カリフォルニア州サンフランシスコの1900年2月4日付け記事「日本における武士道の影響」は次のように述べている。
 とても面白く示唆にとむ小著述で、知性豊かな日本人だけが書きえた本が『武士道:日本の心、日本思想の解明』文学修士・哲学博士、新渡戸稲造著である。この 本は「宗教教育が、日本の学校では行われていないのに、道徳教育は日本でどのように行なわれているのか」という問いに答えるためにあらわされた。その返答 は、日本の道徳観念や、および日本人の性格中でとくに高貴で心を打つものはすべて、武士道すなわち日本の古い騎士道の、今も生きる伝統と影響によるのだ、 ということである。(佐藤全弘、「『武士道』出版当初の海外評価(上)、p.86)

 タイムス紙ワシントンDC (1900年三月十八日)は次のように述べている。
 『武 士道―日本心』はいささか特別の興味を引く本である。それは日本紳士新渡戸稲造の作品だからである。序文の言葉から明らかなように、著者の妻はアメリカ人 で、著者は旧い日本の理念や伝統に敬意を失わぬまま、ある程度西洋思想に共鳴していると思われる。翻訳されている限りでは、武士道はわれわれの騎士道―紳 士たる道―騎士の掟―を意味するように思われる。(佐藤全弘、「『武士道』出版当初の海外評価(上)p.86)

 「アラビア語に訳されていた新渡戸稲造の『武士道』」はアラブでの広がりについて次のように記している。

 2000年1月30日、「知っているつもり」(日本テレビ)という番組で発明 王エジソンが新渡戸稲造著『武士道』に深い影響を受け、新渡戸博士に会っているこ となどが紹介されていた。アメリカの第16代セオド-ル・ル-ズベルト大統領が日露戦争の調停役をかっ てでたのも彼が読んだ『武士道』のためという。 1935年、スペインから独立したフィリッピンのケナン大統領が『武士道』をフ ィリピン最高の精神的バックボ-ンとしたとも言われている。 日露戦争に勝利して世界に登場した日本を知る最良の書としてベストセラーとなっ た『武士道』は結局16カ国に翻訳された。        

  アラビア語版『武士道』がベイルートで出版  明治以後、日本が生んだ最大の国際人で、 晩年国際連盟事務局次長としても活躍 した新渡戸稲造博士の名著『武士道』にはアラビア語版が出版されており、アラブ人 に深い感銘を与えていることを御存じの方は少ないと思う。 このアラビア語版が出版されたのは、昭和13年(1938)、小長谷綽(こがな や・ゆたか)氏が当時の総領事だったベイル-トの日本総領事館から発行された。 『武士道ー日本人の心(ロ-ハ エル ヤバ-ニ-)』(原文英文1899年発 行)というこのアラビア語への翻訳を委嘱されたのは、現地のフランス語新聞の青 年記者でアラビア語の名文家で 日本文化の紹介に熱意をもっていたモクタール・カ ナン氏(29才)であった。フランス語からの重訳のこのアラビア語版は、日本人の 倫理、精神を知る上で最良の書としてアラブ人には深い感銘を与えたという。       

  日本の発展の秘訣は”武士道精神” 訳者カナン氏は前書きで次のように書いている。 「私は、日本の工業発展の背景にある思考方式、道徳率を学びたい。それは、変 貌する経済や政治制度と違って道徳律こそ不変であるからである。」 、「『武士道』によって、日本の再興が決してヨ-ロッパ人の盲目的引写しでなく 、日本人自身の伝統的な道徳律、魂を保持してきた結果であることを発見した。」 、「私は、この翻訳にあたって、道徳、義侠心、質朴等々イスラ-ムの原則と武士 道の原則が余りに類似していることに驚いている。唯一の相違は、アラブ民族は今、 道徳、義侠心を忘れてしまっているが、日本人は大事に保持していることである」 。この下りになると今の日本人にはかなり耳が痛い評価である。

  アラブの騎士道と日本の武士道 筆者は、中世期、十字軍の支配からエルサレムを奪還したアラブの英雄サラ ディン が、キリスト教徒を寛大に処遇したことを思い出す。このアラブの騎士道と「血を流 さずに勝つをもって最上の勝とす」る武士道の精神は、尊い人命がいとも簡単に奪わ れてしまう様々な惨劇を目撃する今日、われわれが取戻すべき大切な徳目と思う。 ロスアンジェリスのオリンピックの無差別級決勝戦でエジプトの柔道の星ラシュワ ン選手が負傷した山下泰裕選手の右足を責めなかったのは、武士道に通じる「柔(や わら)の心」の発露だとマスコミの 記事で紹介されたことがあった。  

  日本人とアラブ人の間に共通の倫理観があることは、アラブと日本が友好を深め、 ともに、新しい未来を切り開くための提携を進める上で、大事に継承していきたい体 切な資産ではなかろうか。


【「新渡戸 武士道」の日本国内での様々な評価考】
 日本国内の評価は次の通り。例えば、宇野田尚哉は、日本思想史辞典「武士道」の項で次のように評している。
 「なお、この書では、武士道関係の基本的な一次史料はほとんど踏まえられておらず、新渡戸は武士道の実際には暗かったと考えられる」。
(私論.私見)
 宇野田の所説はこれしか知らないので、この一文で評するのは早過ぎるが、何とも嫌みな学者ぶった物言いだろうか。「武士道関係の基本的な一次史料はほとんど踏まえられておらず」は為にする批判であり、宇野田氏の読解評論能力の欠如を晒していよう。何とならば、「新渡戸 武士道」は、読めば分かるように題名を武士道としているが武士道そのものを論じたのではなく、武士道に体現された日本精神、日本文化の西欧のそれとの比較論にこそ眼目がある。この部分の出来具合を論ずることが「新渡戸 武士道」の評論となるべきで、「武士道関係の基本的な一次史料はほとんど踏まえられておらず」なる言で、己の博識を誇らぬ方が良かろう。後段の「新渡戸は武士道の実際には暗かったと考えられる」も同じで、ならば宇野田氏の武士道論を述べて見よと云われた時に怯むようなことなら言わぬが良かろう。

 平川祐弘氏の、「西洋にさらされた日本人の自己主張—新渡戸稲造の『武士道』」のp.82の評は次のように評している。
 「Bushido は日本人向けに武士道を学問的に検証して書かれた学術書ではない。西洋人が日本を知らないことに乗じて書かれた一種の宣伝書である」。
(私論.私見)
 これも何とも陰気な物言いである。この御仁も、「新渡戸 武士道」が繰り広げた日本精神論、日本文化論に目が行かず、武士道論にのみ傾注して高等ぶった批判をしている。「学術書ではない」と云うのなら、どういうものが学術書足り得るのか拝見させて貰いたいと嫌みの一つも云いたくなる。後段の「西洋人が日本を知らないことに乗じて書かれた一種の宣伝書である」も頂けない。読めば分かるが、「新渡戸 武士道」の中には、西欧人が知らぬばかりか日本人も知らぬ伝統的な必須知識をかなり文筆している。「一種の宣伝書」なる批判は失当で、せめて「一種の啓蒙書」と評すべきだろう。

 和辻哲郎の「日本倫理思想史―下巻」のp.450の評は次の通りである。
 「新渡戸がとらえて見せたのは、戦国時代以来の武士の間におのづから芽ばえてきた廉恥の道徳・高貴性の道徳、及びそれを儒教によって根拠づけようとした士道の考えなのであって、鎌倉時代以来の武者の習いでもなければ、また封建的な上下の秩序をささえる忠孝の道徳でもなかった。新渡戸は士道の摘出によって日本人の道徳的脊骨を明らかにし、日本人が西洋人の理解しえないような特株な民族でないことを示そうとしたのであった」。
(私論.私見)
 和辻の評は間違いではないのだろうが隔靴掻痒の憾みがある。和辻が日本精神、日本文化の造詣者と自負するならば、和辻こそは新渡戸の展開した日本精神論、日本文化論の巧拙を論ずるべきだろう。この本筋を語らなくてどうすると云う思いが禁じえない。

 こ の批判に関して和辻の弟子である勝部真長は次のように述べている。
 「和辻も、新渡戸が『武士道』で日本国民全体の道徳体系を代表させているのがまったく理解できず、新渡戸が書いた武士道の徳目である『義・勇・仁・礼・誠・名誉』などは、何も武士のみに限らないと強調し、『武士の情け』は、思いやりであろうが、しかし何も思いやりは武士のみでなく、百姓も町人ももっていたであろうと強く批判している。新渡戸稲造が『武士道』に描いた武士像が戦国時代以来(特に江戸時代)の武士像ということは確かと考えられる。また、日本道徳・倫理は一つの道徳から形成 されるのではなく、様々な社会道徳から形成されたというのが和辻哲郎の考えである。私にとってこれは『武士道』の一つの欠点である」。
(私論.私見)
 この一文だけでは勝部の評のスタンスがはっきりしないが、前段では「新渡戸 武士道」の値打ちを語っているように思える。後段の「私にとってこれは『武士道』の一つの欠点である」の趣意が、前段とどう関わるのかが分からないので何とも評しようがない。

 これらの評に比して次の一文「新渡戸稲造『武士道』について― その多面性と自己相克 ―加藤 信朗」の方が優る。これを転載しておく。

    【1】三人の著者からの三つの言葉
    【2】諸徳の構造化 ―道徳性(Morality)の構成―

 クリスチャンとして、また明治・大正・昭和期の大日本帝国の一顕官として生涯を送った新渡戸稲造について考えることは、近代日本におけるキリスト教の受容のあり方を考える上で意義深い。またそれは近代日本精神史の一齣を照らすことにもなる。いまわが国はひとつの曲がり角にある。ここで、かつて一人の国際人として生き、その時代の日本の運命を一身に引き受けているかにも見えるこの人の多層な心の襞に分け入るのは、興味をそそられると同時に、またわたしたちがこれから歩むべき道を考えるための示唆にも富んでいる。

 ここでは新渡戸の若い頃の著作『武士道』を取り上げ、心に浮かぶ二三のコメントを記してみることにしたい。この書物は英語で執筆され、1900年、新渡戸が37才だった時、アメリカと日本で同時に出版された。初版の序文で新渡戸が述べているところによると、そのおよそ10年前ベルギーの法学者ド・ラヴレー教授のもとで歓待をうけたおり、「あなたの国の学校では宗教教育は行われていないのですか」と問われ、「ない」と答えると、教授は驚いて「宗教がないのですか!では、いったいどうやってあなた方は道徳教育を授けるのですか」と言われて、返答に窮したという経験にこの書物執筆のきっかけがあったという。新渡戸はそこで、それは自分が幼少期に学んだ道徳の教えは学校で学んだものではなかったからだと述懐し、さらに「わたしはわたしの正邪の観念を形成しているさまざまな要素を分析し始めるに至ってはじめて、これをわたしの鼻腔に吹き込んだのが武士道だったと気がついた」と付け加えている。この述懐は本書の成り立ちを理解する上で貴重である。

 新渡戸がド・ラヴレー氏のもとを訪れたのは1887年、新渡戸の25才のことだった。それは1881年に札幌農学校を卒業後(1878年にはキリスト教に受洗)、1884年に渡米、三年間のアメリカ留学を経て(1886年ボルティモアの「友の会(Society of Friends)=クエーカー」の会員になっている)、札幌農学校の教員に任ぜられ、専門学科研修のためドイツにわたった年のことだった。この後、新渡戸はドイツの各大学で農政学、農業経済学を学習し、ハレ大学で学位を得た。ついでアメリカに帰り、フィラデルフィア・クエーカーの名家の令嬢であったメアリーと結婚し、帰国して札幌農学校の教授を務めた。その後病を得て、農学校教授を辞任し、静養のため渡米したが、この『武士道』が執筆されたのはこの病気静養中のアメリカでのことだった。つまり、この『武士道』という書物は、ド・ラヴレー氏から問いが投げかけられてから、各地を転々し、さまざまな経歴を経た25才から37才に至るまでの思想熟成の時を経て、この間自己の精神的基盤がどこにあるかを省み、その根幹をなすものが封建時代に幼少期の自分に教えられたものであると知り、これを武士道として、妻メアリーと欧米の旧知に分かってもらうために書いたものなのである。

 そのため新渡戸はヨーロッパの歴史と文学のなかから取った類例を添えて、外国の人々の理解の助けにしようとしたと述べているが、この点に本書の貴重な特徴がある。これはこのようにして明治期の一文化人の心の深層で熟成した欧米と日本の精神性の対比と融合の記録なのである。しかもそれがクエーカーの篤信の女性であった妻メアリーに向けて語られているものであるので、それは欧米の伝統的な教会制度の外にあるクエーカーという特別なキリスト教的霊性を前提して語られているということがある。そこに本書の魅力があるが、それだけに近づいて見るとそこには接合しにくい多様な要素が混在しており、一貫性を見いだし難く、困惑させられることも多い。「その多面性と自己相克」という本稿の副題はそこから来ている。しかし、それゆえに、この書物は明治期に自己の内奥において欧米の伝統と日本の伝統の融合を行おうとした一エリートの記録として貴重である。ここに、台湾総督府糖務局長、京都帝国大学教授、第一高等学校長、東京帝国大学教授(植民政策担当)、東京女子大学学長、国際連盟事務局事務次長、太平洋会議議長というように明治・大正・昭和期を経て大日本帝国が一つの道を辿ってゆく過程のなかでの諸官職を歴任して、1933年、71才で没するまでの生涯を送った新渡戸の多面的な活動が繰り広げられる原点はあったと思えるのである。

 したがって、ここで「武士道」と呼ばれているものは江戸期までの「武士」の時代に武士階級の内に自覚され形成された「武士道」と同じではない。あくまでも明治期の一文化人が欧米の習俗に触れ、その基盤となっているものをつかんだと信じた上で、自己の「道徳性(morality)」の深層を形作っている幼少時の教養の素地を再咀嚼した上で、これを「武士道」として構成したものである。それは明治人の気骨の一面をよくつかんでおり、その後の日本の文化人の心性をある面で代表しているので、いまこれを検討することは意味深いと考える。また、本書は初版以来広く欧米の読者を獲得し、欧米人の日本人観を造るのに力があったと思われるので、いまその成り立ちを検討してみることは有意義である。

 ここでは本書の全体を解説し紹介することはしない。むしろ限られた切断面から本書の構成の中心と思われるものを取り出し、どちらかといえばその欠陥を掘り起こすことにもなるが、それはけっして本書の価値を貶めることにはならないと思う。

 分析の視点をさしあたり次の二点に限局する。
  (1)扉に掲げられた三人の著者からの三つの言葉
  (2)「徳論の構成」

 【1】 三人の著者からの三つの言葉

 『武士道』は養父(叔父)太田時敏に捧げられた献辞につづいて、三人の著者の三つの言葉を引用することから始められている。

(i) Robert Browning(1812-89)の詩Bishop Blougram's Apology からの一節
(ii) Henry Hallam(1777-1859)のEurope during the Middle Ages からの一節
(iii) Friedrich Schlegel(1772-1829)のPhilosophy of History からの一節

がそれである。佐藤全弘訳によれば以下の通りである。
山越えの道、
その上に立つ人は、これがはたして道かと疑いそう、しかし、その道をまさに荒野から眺めれば、道筋は、麓から頂きまで昇って行く、はっきりと、まぎれもなく! 左右にうちつづく荒地から 道の途切れが一つ二つ見えるが、それがどうした? そして(見方を新しくすれば)その途切れそのものが人の眼を鍛え、信仰とは何かを人に教える。最も申し分ない仕組だと、ついにわかるとすれば、どうだろうか?  ロバート・ブラウニング 『ビショップ・ブラウグラムの弁解』

 時をおいて、水の表面を動きまわり、人類の道徳的感情と精力に、すぐれた衝迫を与えてくれた、三つの力強い霊といってよいものがある。自由、宗教、名誉の霊がそれである。 ハラム『中世ヨーロッバ』

騎士道は、それ自身、人生の詩である。 シュレーゲル『歴史哲学』
 はじめわたしは、これらを新渡戸がだれから学んだものか知りたいと思った。札幌農学校時代のクラークからなのか、洗礼をうけた(1878年)メソジスト教会宣教師ハリス(M. C. Harris)からなのか、それとも、アメリカに遊学して親しくしたクエーカー教徒の誰かからなのか、さらにドイツ留学中に学んだものなのか。しかし、いまだにその解答を見いだせないでいる。そこで、今のところ、これは新渡戸がその自己形成の過程で読破した数々の書物の中で、みずからの信念の拠りどころと見なしうるものとして選り出した、あるいは新渡戸の心中深く残る言葉として沈殿した言葉であったのだと考えることにしている。したがって、この三つの言葉は新渡戸の『武士道』の根底を知る上で基本的であるはずである。このように、新渡戸がその博覧強記の知識から、自己にうったえるものを選別し、これを自己の信条とするに値するものとして選び取る力を持っていたところに、新渡戸稲造という人物の大きさがあったのだと思う。

 第三に上げられているフリードリヒ・シュレーゲル(Friedrich Schlegel)は18世紀末から19世紀初めにかけて起こったドイツロマン主義運動の先駆となり、その理念的基礎を作った人である。この運動はその後クレメンス・ブレンターノ(Clemens Brentano)やグリム(Grimm)兄弟らによるドイツ中世民話の収集などの仕事を導くもととなり、さらには19世紀後半のリヒアルト・ワーグナー(Richard Wagner)の仕事にまで続くものであり、大筋で言えば19世紀ヨーロッパにおける中世復興を先導するものであった(イギリスではワーズワース、ラファエル前派の運動がこれに続くもの、ないしは、その並行現象と見ることができる)。つまり、それは18世紀の啓蒙主義の理性偏重に対する反動であり、情念的なものの重視、そして何よりも「無限なるもの」への上昇をその特徴としている。19世紀末という物質文明の華やかだったアメリカ経験のなかで新渡戸がこれを選び取ったこと、また、とりわけクエーカー主義の人々との交わりの中で、新渡戸がこれを自己のバックグラウンドとして選び取ったことはわたしにははじめ驚きであった。ヨーロッパ中世とアメリカのクエーカー主義 とがどのようにして結びつきえたのだろうかが不思議だった。フィラデルフィア・クエーカーの名家の出であると聞く夫人メアリーはこれをごく自然のこととして受け取ったのだろうか。フィラデルフィア・クエーカー の始祖であったウィリアム・ペンの出自はアメリカのクエーカー教徒をごく自然にイギリス上流階級に結びつけえたのだろうか。しかし、新渡戸がその「武士道」の欧米における対応物をこの中世的な「騎士道(chivalry; Rittertum)」のうちに見いだしたのは確かである。これが第三に述べる「諸徳の構成」の中で、「勇気」(Courage)から始めて「忠義」(Loyalty)に終局する「道徳性」の構成と繋がるものであるとわたしには見える。しかし、ヨーロッパ一般ではこの中世復興は中世の封建制社会の是認・復興と結ぶものではなかったろう。新渡戸はこのことをどこまで意識していたのだろうか。新渡戸の本書では、19世紀後半のヨーロッパの帝国主義的ナショナリズムと日本の封建道徳とが比較的簡単に結びつきえたように思えてならないが、このヨーロッパのあり方と新渡戸のあり方との対比を考えるのは重要である。

 第二に引かれているヘンリー・ハラム(Henry Hallam)の「中世史」は今日では誰も知らないものであるが、これもこの新渡戸の方向に一致するものとして選ばれている。新渡戸の場合、この中世主義と封建制との結びつきは、さらに具体的にはドイツ留学時に触れたドイツ帝国主義体制への共感と結びつきうるものだったろうと想像される。そして、これがまさに伊藤博文らが新しい大日本帝国の途として選び取ったものに繋がり、その後の新渡戸の大日本帝国の顕官としての途を準備するものだったと思われる。

 それにしても、こういう中世精神の顕彰とクエーカー主義との結びつきがどこにあり得たのかがわたしには疑問であった。しかし、初期アメリカ遊学時代に、札幌でクラークにより導き入れられた正統プロテスタント主義から、次第にクエーカー主義へと傾き、ついにクエーカー(友の会Society of Friends) の一員となった新渡戸の精神の動きを考えるとき、すこし分かる気がする。つまり、クエーカー主義における「内心の光」の尊重というキリスト教神秘主義とその「非教職者主義」(平信徒主義・これは内村の「無教会主義」を導くものでもある)「非教条主義」が、新渡戸には自分がChristianityのうちに見いだしたmoralityの体現であると信じられ、共感を持ちえたのであろう。そして、それはさらに「無限なるものへの上昇」というロマン主義へと繋がるものとなったと考えられるのである。そこにおそらく新渡戸稲造という人物のあり方を解く一つの鍵がある。新渡戸の魂はこの「無限遠」の上方への志向によって欧米の伝統と日本の伝統を結びつけうる、見えない一点に向けられていた。

 扉の第一に掲げられたロバート・ブラウニングの詩の一節はこれを証示している。新渡戸の愛好した「分けのぼる麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」という日本の宗教性がそこにある。この詩文はBishop Blougram's Apology という1013行からなる長詩の比較的初めの198―207行からの引用である。新渡戸がこの詩の全体をどのように読解していたのかは分からないが、これは「懐疑」と「信仰」の狭間に悩みつつも、この生を一つの決断をもって生きていくとき、そこに神への信仰が開かれてくるという趣旨を中心に据える詩である。そこにはヨーロッパ精神史のあらゆる局面が映し出されており、新渡戸がこれをどこまで追跡しえていたかは定かでないが、キリスト教に出遇って「懐疑」と「信仰」の狭間を終始しながら、みずからの信ずるmoralityとChristianityの極点での一致を信じえた新渡戸はこの詩に共感を覚えたのだろうと思う。これは先述した19世紀ヨーロッパ・ロマン主義の信条でもありえたのであり、これら三つの言葉はその終極点で一致したのだろう。

 なお、この詩で取り上げられている司教ブラウグラムはローマ・カトリックの司教である。解説者によると、そのモデルになったのはこのころ英国国教会からローマ・カトリック教会に改宗したイギリスの何人かのエリートの中の一人であったワイズマン枢機卿(Cardinal N. P. S. Wiseman)であるという。ワイズマンは、オクスフォード運動の指導者の一人であったジョン・ヘンリー・ニューマン(John Henry Newman)と共にカトリックになった人であり、英国カトリックの司教として世俗的な成功を収めた人でもあるので、ここでブラウニングが持ち前の皮肉を交えながら、この司教の晩年の独白という形でこの詩をつづっているのは興味深い。つまり、ブラウニングも広い意味ではこのロマン主義運動に共鳴していた人であったのだ。ドイツのシュレーゲルの場合も、またこのブラウニングの場合も古典ギリシャへの深い関心を持ちながら、ヨーロッパ中世へのつながりを見いだしていった点はわたしには興味深い。このブラウニングの詩がアメリカのクエーカー教徒の間で愛好されたかどうかは知らない。もしかすると、内村が純粋なプロテスタント主義 に向かったのに対して、新渡戸にはなんらかカトリックへの内的な傾きがあったのかもしれない。

 いずれにせよ、これら三つの言葉が一つの結節点に結んでいることは明らかなようである。そして、これが欧米と日本のmoralityを結びうる要めとして新渡戸の心の内に輝いたのだ。さらに付言すれば、新渡戸が生涯の愛読書としてあげていたというカーライルの『仕立て直された仕立屋(Sartor Resartus・衣裳哲学)』 からの言葉を新渡戸がこの扉に載せなかったのは興味深い。たしかに、カーライルは上記の人々とはずいぶん精神的素地の違う人のようである。しかし、それにもかかわらずカーライルのこの書物は新渡戸の終生の愛読書であった。そこに新渡戸の内面のもつ「多面性と自己相克」の一面がある。

 【2】 諸徳の構造化 ―道徳性(Morality)の構成―

 新渡戸が本書で「武士道」を日本人の道徳性の基礎として提示するにあたって、さまざまな徳目を武士道を構成している諸要素としてあげ、これらから構成されている「全体的な徳性」として「武士道」を解説していることが注目される。新渡戸がここで列挙する徳目は主に儒教伝統のなかで重んぜられてきた徳目である。しかし、その構造化の試みは新渡戸によるものである。儒教の伝統にもそういう一つの構造化の試みはあった。「五倫」(親、義、別、序、信)、「五常」(仁、義、礼、智、信)はその一例であり、『大学』の「三綱領(明明徳、新民、止於至善)」、「八条目(格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下)」もそういう修徳の道の構造化の試みである。しかし、新渡戸のものはこれによるものではない。新渡戸の構造化の試みは新渡戸が欧米の習俗に触れ、その徳論を学ぶことによって学習したものであり、これと突き合わせることによって、新渡戸が自己を支える道徳性の要素を分析し、これを構造化したものである。それゆえ、これは明治の文化人が欧米の道徳性に触れ、その倫理学思考に動機づけられて試みた、自己の精神的バックグラウンドとしての道徳性の構造化なのであり、注目に値する。問題は、それがどのように構成されているかである。以下にわずかな分析を試みたい。

 第三章から第九章までを諸徳の構造化に関する原理的な論述と考え、この部分を取り上げる。章立ては次の通りである。

第三章 「廉直すなわち義(Rectitude or Justice)」
第四章 「勇気、敢為忍耐の精神(Courage, The Spirit of Daring and Bearing)」
第五章 「仁、惻隠の心(Benevolence, The Feeling of Distress)」
第六章 「礼(Politeness)」
第七章 「真実と誠実(Veracity and Sincerity)」
第八章 「名誉(Honour)」
第九章 「忠義の義務(The Duty of Loyalty)」

 話を簡略化するために、ヨーロッパの伝統的な道徳性の古典的範例となった古代ギリシャのプラトンにおける「枢要徳(Cardinal Virtues)」をはじめに提示し、これと比較してみることにする(これは初期プラトン対話篇で主題化され、『国家』篇で組織化されるものである。その後アリストテレス、ストア派、キケロ、トマス・アクィナスなどヨーロッパの伝統倫理の基礎となった)。
(gr.) (lat.)
「知恵または賢慮」 sophia - phronesis sapientia - prudentia
「節制」 sophrosyne temperantia
「正義」 dikaiosyne iustitia
「勇気」 andreia fortitudo

 の四つの徳目がこれである。古代ギリシャにはこれ以外にも伝統的な徳目がいろいろあった。アリストテレスの『ニコマコス倫理学』にはそれらがあげられている。ただプラトンが上述の四徳だけを取り上げてその「徳論」を構成したのには十分な哲学的根拠があった。それは「人間自体をきめるもの(=それがその人であるといえるもの)」すなわち「魂または心(psyche, anima)」のあり方を構造化し、これを完成するものとしての「器量(arete, virtus)」をこのように四極によって構成されるものとして構造化するということである。したがって、これを徳論の「魂論的構造化」と呼ぶことができる。プラトンはこれを『国家』篇のなかで行った。中期から後期に及ぶ徳論ないし道徳論また教育論の展開はこれを基礎とし、その補足・修正ないし展開としてある。したがって、これは「人間性(Humanity)」の構造化でもあったのである。

 新渡戸のものをこれと比較するとき、二つのことをあげることができる。

(i) 東洋ないし日本にも道徳性を構成する個別の徳目は種々あった。新渡戸がこれを上の章立てのように七つの徳目として列挙したことは、同じように、新渡戸もここで「武士道」としての道徳性を何らか構造化したのだと言える。儒学の伝統の中でもこれはなされていたが、新渡戸のものは西欧の伝統倫理とつき合わせることによって行おうとしたものである点に特徴がある。
(ii) そこで、この構造化がどのようになされているか見るとき、新渡戸における「武士道」としての道徳性がどのように把握されているかを明らかにすることができる。

 まず個別の徳目の表を比較してみるとき、プラトンの徳論では中核をなし、また頂点となるとも言える「知恵または賢慮(sophia - phronesis)」がその徳目の表から欠如していることが明かになる。

 「知恵(sophia)」と「賢慮(phronesis)」の扱いはプラトン哲学の解釈上微妙な問題点であるが、『弁明』篇でソクラテスが「人間並みの知恵(anthropine sophia)」と呼んでいるものがプラトンにおいて「賢慮(phronsis)」と呼ばれているとわたしは理解している。つまり、「賢慮(phronesis)」はソクラテスにおける「無知」への自覚をともなう「知恵」への関わりなのである。したがって、それは哲学的探求を媒介とする知恵への関わりであり、すぐれた意味で人間の人間としての「道徳性」を構成する頂点を形作る。

 さしあたり、大まかな言い方を許し頂きたいが、新渡戸におけるこの徳目の欠如が「武士道」としての道徳性の構造の欠陥をなすように思える。つまり、それは探求を排除するような道徳性に固化しやすいのであり、「問答無用」という武士の心意気に堕してしまいうるのである。わたしにはつまびらかになしえないが、陽明学の「知行合一」の教えがこのような道を進み、ただ「信念」への固執になってしまうとすれば、それは残念である。ブラウニングの詩に歌われている司教ブラウグラムの心は懐疑と信仰の狭間を漂っていたのであり、新渡戸の心の中にも、イエスの道を前にして、同じような「逡巡の念」が往来していたのだとすれば、新渡戸はこれを「日本の魂」の原郷のどこかに見つけえなかったのだろうか。幼少時に培われた「尚武」の心に求めることはおそらくできない。近代日本精神史の中にもこのような「探求」と「逡巡」を体現した人はいたと思うが、これを日本の伝統的な心性に含まれる「道徳性」として構造化する人はいなかった。そうだとすれば、これをどのようにして構造化しうるかが、いま、日本の哲学者に求められている課題である。

 もう一つ重大なことを指摘すれば、それはクリスチャンとしての新渡戸において「謙遜(tapeinosyne [gr], humilitas [lat])」の徳目がどのように位置づけられたかが見えないということである。「謙遜(tapeinosyne, humilitas)」はギリシャから継承された徳目に対して、キリスト教ヨーロッパが新しくこれをすべての徳目に先立ち、すべての徳目の頂点をなすものとして重視した徳目である。Quakersの友(Society of Friends)の中でこの徳目が無視されていたとは信じがたいが、新渡戸とその夫人はこの徳目をどこに置いたのだろうか。『武士道』の中ではそれが見えないのである。

 プラトンの徳論との連関でいえば、「謙遜」はソクラテスの「無知」の自覚に動機づけられた「賢慮(phronesis)」と引き合い、つながり合うものである。キリスト教の「神秘主義」はこの徳目(=「賢慮」)との内的関連を失うとき、空疎になる。

 さらにもう一点付け加えれば、プラトンにおいて、「正義(dikaiosyne)」の徳はこの「賢慮(phronesis)」の徳に基礎づけられてのみ存立しうるということがある。『国家』篇の主題であった「正義論」はこの枠組みの中で追求されている。それゆえ、この関連から見るとき、新渡戸の徳論では、徳目の第一に掲げられた「廉直すなわち義(Rectitude or Justice)」の徳が、「知恵」ないし「賢慮」の徳へと関係づけられ基礎づけられていないため、その固有の意味づけを失い、勇気から忠義へと結ぶ線の内に吸収されてしまう。これはアリストテレスの「正義論」との関連でも言える。「他人への関係としての徳」として「正義」の徳を規定したアリストテレスの正義論の真価もここでは見えてこない。アリストテレスの「正義論」は市民の間の「公正」「等しさ」を導くものとして展開され、ヨーロッパ民主主義の基礎を形作り、近代ヨーロッパの政治理念を導くものとなった。しかし、『武士道』の第三章「廉直すなわち義」からはそういう倍音が聞こえてこないのである。つまり、「正義」の徳が普遍人間性を根拠づけるものであり、人と人を互いに「親愛」のきづなで結ぶ徳目であることが見えてこないのである。

 新渡戸が第五章で扱った「仁、惻隠の心(Benevolence, The Feeling of Distress)」の徳の扱い方にもこれと繋がる問題点がある。「正義」の徳が「仁愛(=好意・benevolence)」の徳に密接の繋がることはプラトン、アリストテレスの徳論の基本線である。これを継承し、かつ『聖書』の伝統に息吹かれているキリスト教の徳論ではこれは極点にまで高められている。このことは「人間性(humanity)」の徳論的な基礎付けのために重要である。だが新渡戸の『武士道』の「道徳性」の構成では、孔孟の教えの中で「人間性(humanity)」の基礎を形作りうる「仁」と「惻隠の心」が「義」から切り離されることによって、その本来の力を失うように見受けられる。

 ――以上は、新渡戸の『武士道』を読んでわたしの中で問題として浮かび上がってきた諸点である。これらの点を『武士道』の個々の論述に即して、全体的に詳論することは小論の範囲を超えている。また、原文の英語で用いられる倫理学的概念を新渡戸がどのように理解していたのか、さらに、この英語にあたるものとしてどのような日本語を理解していたのかを定めることは困難であるが、以下に第三章の「廉直すなわち義」および第四章の「勇気、敢為忍耐の精神」の論述に即して本書の論旨にとって重大であると思える点を指摘しておきたい。

 列挙された徳目の第一にあげられる「廉直すなわち義(Rectitude or Justice)」についてであるが、新渡戸はRectitude とJustice をここで何らか同義語とみなしていると言ってよいだろう。これはヨーロッパの伝統倫理から見てもただしい。それは日本語で言えば「ただしさ」にあたる言葉であり、「人が人として踏むべき道」をいうと言ってよいだろう。ただ、ここでは、林子平の言葉(『海国兵談』)が引かれて、行動においてそのような道理の道を決然として取り、躊躇逡巡しない「決断力(power of resolution)」がそれだとされている点に特徴がある。「道理に従って(in accordance with reason)」という限定はあるが、道理にしたがう「行動のいさぎよさ」の方がいっそう強調されているのである。したがって、それは「勇気」と双子の徳であり、勇気から切り離されるとき、本来の力を失うのである。「道理」がそもそも何であるかという問いがここではそれ自体として立てられることがない。道理はむしろ人がおのずと内に弁えているものと考えられているのであろう。しかし、事実上は、それは「君臣」、「父子」、「兄弟」という身分関係によって規定された道理なのであり、それが「義(ただしさ)」の基準となる。これが「サムライ」の道だといえば、その通りなのだが、それは上述した欠陥となりうるのであり、普遍人間性を根拠づける「道徳性」とはならない。

 さらにここで『孟子』が引かれて、「仁義」を回復し、求めることが人間の本来のあり方を取り戻すゆえんであるとされ、それが「正しい人」といわれたイエスの生き方に準ずるものだとされているが、それは無理である。なぜなら、人間の性を蔽う闇の深さの意識は孟子においてそれほど大きくないが、イエスの救済の業は人間をこの根本的な闇(=罪)から解き放つことにあったからである。これはすでに第二章「武士道の源流」で神道には「原罪」の教義を入れる余地がないと説かれていることに関係がある。新渡戸はここで仏教ではなく神道に日本人の精神的基盤を求めようとしているが、仏教的観念は聖徳太子以来、日本人の心性に深くしみこんでいると言わねばならない。そして、仏教における「無明」の観念はキリスト教の「原罪」の観念にきわめて近いものなのである。さらに新渡戸はこの章で、孔子の教えは日本人の民族本能が以前からすでに確認していたことを追認したに過ぎないと述べているが、これも根拠を欠いた速断である。こうして、神道に日本人の精神性の基盤を置き、武士道の源流を求めようとするこの章での新渡戸の説は「廃仏毀釈」という明治政府の路線にそったものではあるが、それは一つの主張ではあっても、真実からは遠い。

 「勇気、敢為忍耐の精神(Courage, the Spirit of Daring and Bearing)」の章では、正義のためにふるわれるのでない限り、「勇気」ではないとされ、「義を見てせざるは勇なきなり」という『論語』(為政)の言葉にもとづいて「勇気とは正しいことをすることである(Courage is doing what is right.)」と定義されている。この新渡戸の推論の可否は別として、この勇気の観念それ自体は崇高である。この武士の心意気が欧米人の賛嘆を呼んだとすればそれも自然である。ついで「生くべき時に生き、死するべき時にのみ死するを真の勇気という」という水戸光圀の言葉を引いて、「勇気とは恐るべきことと恐るべきではないことの知識である」とするソクラテスの定義(プラトン『ラケス』篇)を並行事例としてあげた新渡戸の見識はこの時代のものとしては尊敬に値する。しかし、ここでも「廉直すなわち義」の章に関連して述べたと同じことがある。つまり、ここでは、プラトンのなかにはあった、「勇気」を「(ある種の)知識」であるとすることに含まれるパラドクスが消え、「諸徳の一性(Unity of Virtues)」に関わるプラトン哲学の問題が生まれてこないのである。プラトン研究者でも哲学者でもなかった新渡戸にこれを要求するのは無理かもしれない。しかし、ここでも「知」のモメントが欠如し、「果断」としての実行力が強調される結果になっているのは明かであり、「勇気(courage)」から「忠義(loyalty)」へと結ばれる線で、新渡戸の『武士道』の道徳性が構造化されるという結果がそこから起こってきているのである。

 哲学・倫理学は新渡戸の専門外であり、本書で新渡戸は倫理学の理論的構築を企てたわけでもないだろう。むしろ信念の人であり、実行の人であったところに新渡戸の本領はあった。しかし、事柄が「人の人としての生き方のきまり」に関わるゆえ、これらの諸点は見過ごされるべきではない。欧米のmorality と日本の伝統のmorality を対比し、その融合をはかろうとするのが本書の趣旨であるとすれば、これらの諸点を逐一問題化し、正しい知見を求めることがこれからわたしたちの生きて行く道を見据えてゆくためには不可欠である。
 negativeなことばかり列挙したように見えるので、賛同した点を二つ述べる。
(i) 本書の第一版の序文で新渡戸は、みずからの信ずることとして
(a) キリストが教え、『新約聖書』のなかでわたしたちに伝えられている宗教(the religion taught by Him(i.e. Christ) and handed down to us in the New Testament)
(b) 心に記された律法(the law written in the heart)
(c) 神はすべての民族や国民と――それが異邦人であろうとユダヤ人であろうと、キリスト教徒であろうと異教徒であろうと――「旧約」と呼んでよい契約を結んだこと (that God hath made a testament which may be called "old" with every people and nation, --Gentile or Jew, Christian or Heathen.)
の三つをあげている。第三の点はキリスト教神学では「自然啓示(natüliche Offenbarung)」と呼ばれているものに繋がるが、「旧約」という表現は別として、わたし自身も同感することである。しかし、この点で新渡戸のChristianityはプロテスタントの正統派からは本物とは認められないものとなった。
(ii) さらに第一章のなかで用いられている「国際倫理学(International Ethics)」「比較人性学(Comparative Ethology)」という言葉に驚きを覚えた。この時代にこのような学問の構想がどこでどのようにしてあったか知らないが、新渡戸がのちに「国際連盟」の役員として活動するようになったことの素地がすでにそこにあるように思えた。今日の「国連」「ユネスコ」の基礎はそこから始まったが、日本が国際連盟から脱退して悲劇的な運命を辿り始めるさなか(1933年)に新渡戸の生涯が閉じられることになったのは象徴的なことだったかもしれない。

 日本における忠義の観念の変遷〈大和魂《やまとだましい》・武士道、新渡戸《にとべ》博士の著書及び大石良雄《おおいしよしお》の事跡〉」を転載しておく。
 いま、私は事実の精確を保つために主として日本における忠義の観念につきて記述いたします。

 さて、日本建国の開祖天照大神の最高道徳における感化力は日本の民族性を陶冶していわゆる大和魂を造り出し、その後この大和魂は儒・仏二道の精神を溶化して、一段の発達をなし、聖徳太子の憲法十七条、大化の新政、奈良朝及び平安朝の文化を生み出すに至りました。しかるにその文化の極まるところ、上流人心の頽敗を招きて、王朝における政治的生命の衰頽を来たしたのであります。しかるにその大和魂は一転して中流社会の武士の精神に再生してこれを鍛錬し、新たにいわゆる武士道を生じて、忠・孝・貞節・正義・同情及び義侠心を奨励し、いかなる事あるも、いったん君主とせし人に対しては、これに絶対服従することをもって、唯一の道徳的条件となしたのであります。

 されど、大和魂と武士道との間にはその忠義実行の動機において大なる相違があるのです。すなわち大和魂は天祖の最高道徳に伴うて起こったところの日本の国民性でありますから、その道徳実行の動機極めて純粋であって、利己主義の要素なく、これによりて日本の臣民が斉しく日本の皇室及び国家に対して絶対服従的に努力せんとする精神を表しておるものであります。このことは日本の古典を通読すれば明らかなるところでありまして、天祖及び皇室を中心とする思想及び信仰のほか、何らの異主義も見当たらぬのであります。いま左に有名なる大伴家持の歌を掲げて、当時における一般日本人の忠義の観念を示しましょう。

 大伴家持の撰び上(たてまつ)るところの万葉集第十八巻  陸奥国(みちのくの国)より金《こがね》を出だせる詔書を賀(ことほ)ぐ歌 (中略)

 「海行者美都久屍(海行かば水漬(づ)かばね) 山行者草牟須屍(山行かば草むすかばね)」。君のために海に行かば海にて死し、山に行かば山にて死すべし。わが生命は天皇の所有にして自己の所有にあらずとの意味にて、自我を没却して君主に絶対服従することを表現するものにて、この精神を大和魂と称するのであります〉大皇乃敝《おおきみのへ》〈敝は辺《ほとり》なり〉爾許曾死米《にこそしなめ》〈天皇の御傍《おんかたわ》らにて戦死せんとの意味〉可敝里見波勢自等《かえりみはせじと》〈顧みぬという意味〉許等太弖《ことだて》〈許等太弖は言立てにして、以上のごとく宣言するという意味なり〉(中略)  天平感宝元年(749,A.D.)五月十二日《さつきとおかまりふつかのひ》、越中国守館(かみのたち)にて、大伴宿禰家持がこれを作(よめ)る

 さて大和魂とは日本の古典にたくさん見ゆるところにして愚管抄巻四に、藤原公実(きんざね)が和漢の才〈学問の意〉に富みて、菅原道真の足跡を踏み、大和魂があったということが見えており、また今昔物語集第二十九巻の明法博士清原善澄(よしずみ)の強盗に殺さるるの条に、この善澄は才知はありたれど、毫《ごう》も大和魂がなかったということが記してあります。かくのごとく大和魂は日本固有の最高道徳的精神の表現であったのであります。しかるに中古に至り、当時国家の権力を世襲するところの上流社会の人々の精神が堕落して、ただ単に皇室の御稜威《みいつ》の下に安逸を貪り、全く利己主義になり、天下の利権を私したのであります。されば、その権力の下に付属するところの文・武両班《ぶんとぶというふたつのくみ》の官吏をはじめとし、地方の官吏すべて利己主義に堕落し、その結果、全国至る所にあまたの私的団体を生じ、これらのもの相互に権利と利益とを争うて、皇室及び国家の恩沢を思うものなく、上下斉しく私恩を売買し、ここに幾多の非国家的君臣を生ずるに至ったのであります。しかるにこれらの非国家的君臣の諸団体は、その自己保存の必要上より、しだいに各地方に割拠して相争うておりましたが、源頼朝の幕府を鎌倉に開くに及び、ついにこれら全国の諸団体を打って一大団体となすに至ったのであります。かくて幕府を中心となし、諸大名これに臣属し、諸大名はまたおのおのその家臣を有し、その家臣もまたおのおの若干の家臣を有し、上下連珠《れんじゅ》的に系列を造って、私的君臣の関係を結ぶに至ったのであります。ここにおいて、この私的君臣の関係を永久に維持し、もって自己の保存及び発達をなさんとするの観念はまず最上級の幕府より発し、しこうしてその私的君臣関係維持の精神をあらゆる教育及び宗教の中に吹き込んだのであります。かくのごとくにして出来たところの道徳が、いわゆる日本の武士道であります。故に武士道は天祖の最高道徳の日本の上流社会に忘れられたる時代より、日本上流社会の人々の利己主義より発したるところの一つの普通道徳であります。

 されば、そのいわゆる忠義は自己の伝統における系列と、自己の直接に属するところの君主とに尽くすのみの道徳であります。故にいったんその系列の内部に故障を生じて争いを起こす場合には、自己の直接に私恩を被《こうむ》れるところの君主に付属して、他の個人もしくは他の団体と争うはもちろん、その自己の直接君主の上の系列に対しても、また背反するのであります。それ故に、北条義時が後鳥羽・土御門・順徳の三上皇を隠岐その他に遷(うつ)し奉り、北条高時が後醍醐天皇を隠岐の島に遷し奉りしがごとき、大逆をなし遂《と》ぐることが出来たのであります。また、明智光秀がその主君織田信長を殺し、陶晴賢が大内義隆を殺せしがごときことが出来たのであります。

 戯曲「鏡山」に、「尾上」に仕えし女「はつ」が、尾上の主君たる大名に対して逆臣の或る人々がひそかに反逆を相談しつつありしを立ち聞きせしとき、いったんはこれを発(あば)きて「尾上」の主君の危難を救おうかと考えたのであります。しかるに「はつ」は更にこれを考え直して、「否々これは自分の直接の主人にあらず、自分の主人は尾上一人なり、故に自分は尾上一人の身を守護すれば足れり」として、その密告を思いとどまりしことが記してあります。すべて学問上の証拠は事実に立脚せねばなりませぬが、時代思想を写せる前記のごとき歴史小説は、断片的の事実よりも、ある意味においては確かであります。この意味より見れば、この戯曲の記事は当時の武士道の忠義の観念の写実であります。このほか、武士の戦場に臨むときには、自己の属するところの団体の勝敗は第二にして、自己の名誉が第一であったのであります。故に、各自に自己の姓名を呼び、且つ先登《せんとう》第一を争うたのであります。要は自己の家名を辱《はずかし》めぬためであり、もしくは子孫に利禄《りろく》を遺すためであったのです。故にこれに反する事情を生ずれば忠義をせぬのであります。かの戦国時代における最も大なる武士道の信者たる豪傑どもがその主人と離合する有様を見れば、明らかにその然ることを知るを得るでありましょう。かかる利己主義の武士道の中において徳川家康の父祖はみな比較的真面目《まじめ》にして虚栄及び暴富を願わず、特に家康に至り、武士道の根本精神を教養するに必要なるところの学問を尊び、且つ武士道の長所を採用して、その一門及び家臣を教養せし結果、徳川家の家臣は当時みな武士道の真精神を体得しておったため、ついに徳川家がその大を致し、且つ永続したものと考えられます。

 元来、武士道は幾分大和魂の要素を存留し、且つ中国の儒教における正義の精神と仏教における慈悲の精神とを含蓄し、これに加うるに、徳川時代に至っては種々の学問の勃興に伴うて、ますますその本質を美化するようになったのであります。ここにおいて、戦国時代のごとくに、感情もしくは利益によりて主人を変更するごとき弊風はほとんど一掃されて、三代以上奉仕せる主人に対しては、いかなる事あるも、これに背反することを得ずとの原則を生ずるに至ったのであります。かくて武士道は一般民衆の道徳より高いものと称せられ、且つ事実上武士の礼儀・作法・知識・勇気及び犠牲心等のごときは確かに一般民衆より高かったのであります。しかしながら、惜しいかな、それは皇室すなわち日本国家に対する大義名分の精神を失うておるところの道徳であったのです。そこで、十七世紀の後半期ごろより日本古典の研究ようやく勃興し、それとともに古代の大和魂が国民の精神に復活し来たり、ついに明治元年〈一八六八年〉におけるいわゆる明治の政変を生じ、徳川幕府その政権を皇室に返上することとなったのであります。それかくのごとく非国家的なる封建制度の下に発達せる武士道は、全く前述のごとく、正統の学問・思想及び信仰と相反するものであったのです。

 そもそも人間の利己心は眼前自分に利益を与うる人を恩人としてこれに服従するに至るものなるが故に、その弱点は人間の最も尊敬をせねばならぬところの神とか、聖人とか、君主とか、祖先とか、父母とかその他の伝統もしくは準伝統の系列たる恩人とかに向かっては、その恩を忘れ、かえって後日には自己を害するごときものの私恩に感激して、そのものに忠義を尽くすようになるのであります。全世界における現代社会の有様もまたほとんどこれと同一ではありませぬか。ことに現代における人心の左傾の真原因も、またここに胚胎《はいたい》しておるのではありませぬか。すなわち現代世界各国の有様は、種々なる主義に基づくところの団体の結合が流行して、国家と国民との間に種々なる私的団体を生じ、国家的伝統に対してこれを破壊せんとし、ややもすれば国家の統一を害せんとするのであります。故に貴族・富豪・政治家及び資本家のごとき社会に責任ある人々は自他保全のために、速やかに深く自らまずこの伝統の原理を理解せられて、次に一方には、伝統の観念を一般人類に普及することを企図し、他の一方には、一般の人々を愛し国家もしくは社会に不平を懐《いだ》く人なきように注意せられ、かの不平家をはじめ、一般人をして平等に国家伝統に心服するように、御尽力あらんことを願いあげます。更に冗言《じょうげん・むだごと》ながら繰り返して申せば、かの国家もしくは社会にその意を得ずして、不平を懐く人々に対して、その私恩を売って団体を造るものも、この私恩を買うてその団員に加盟する人も、ともにこの重大なる伝統の意味を知らず、しこうしてその人々の境遇がその眼前における自我に制せられてここに至るものが多いのでありますから、これらは右に貴族・富豪・政治家・資本家の人々の自覚と尽力とのいかんによって、善悪いずれにもなり得るのであります。

 以上私の述べましたところを要約すれば、日本固有の道徳及び信仰の基礎は大和魂であるので、これがすなわちわが日本建国の精神であり、且つ日本固有の宗教心であるので、極めて公平無私であると申すのですが、武士道はその大和魂の一部分の発現せるものであって、これはその発生の原因が日本建国の真精神と一致せぬ部分があり、一種の個人主義に淵源して興ったものでありますから、おのずから最高道徳の真精神と一致せず、これがために今後日本国民の道徳及び道徳教育の標準となすには甚だ不完全であるということを述べたのであります。されば、以上の記事は武士道の欠点を述べたるものではあれど、その全部の美点を没却してこれを排斥し、一つも取るところなきものとしたのではないのでありますから、この点誤解なきように願いあげます。

 さて、日本の武士道に関しては、つとに有名なる新渡戸博士の英文『武士道』という著書があります。本書は一八九○年のころ、博士がベルギー国碩学《せきがく》ド・ラヴェレー氏の家に客となりしとき、一日談《だん》宗教問題に入るや、老教授いわく、「日本の学校には宗教教育を施さざるや」と。博士答うるに宗教教育のなきことをもってす。老教授愕然《がくぜん》として驚き「しからば徳育は何によって施すや」と。当時、博士はこれに対して十分なる解答をなすことが出来なかったそうであります。しかしながら、当時といえども、博士は武門の家に生まれ、その家庭において武上道の薫陶を受け、知らず知らずに道徳教育の基礎たる一種の信念を有しておられたのであります。しかるに、その後博士令夫人の日本における信仰・道徳・慣習その他の諸制度の基礎を成すところの思想に関して、博士に質問せらるるところが多かったのであります。しこうして博士は日本における信仰・道徳・慣習及びその他の諸制度の基礎を成すところの思想はこれを日本の武士道に求むるほかなしと考えられたのであります。

 ここにおいて、明治三十二年すなわち西暦一八九九年、博士米国フィラデルフィアの郊外マルヴァーン村に滞在中、英文をもって本書〈『武士道』〉を著したのであります〈このこと博士の原序に見ゆ〉。しかるに本書は、博学宏才《こうさい》をもって天下に聞こえ且つ実際上その武士道の中に人となられたるところの博士の名筆に成りたれば、その発表の後、直ちに世界各国の語に翻訳せられ、明治三十八年〈一九○五年〉ついに日本天皇陛下の乙夜《いつや》の御覧に供し奉るに至ったのであります。いま私がつらつら本書を拝見いたしますに、本書の標題は『武士道論』なれど、その記事の内容は日本建国の精神たる古神道及び大和魂の性質を述ベ、そのいわゆる武士道はその日本民族国有の信仰・道徳・慣習及びその他の制度に淵源して興りたることを詳《つまびらか》にいたしてあります。しこうして武士道の卓越せる道徳上の思想及び事実を欧州古今の歴史及び文学上の例証と比較して説明してあるのです。されば、本書は日本の大和魂及び武士道の精神を知らんと欲する人々に対しては最も適当のものであって、もし私のここに記するところの記事と参照するならば、いわゆる大和魂及び武士道の沿革ならびにその特質を知るに大なる便利がありましょう。なお博士の本書を天覧に供え奉りしときの上表文は博士の皇室に対し奉る純忠至誠の精神を窺《うかが》い見るに足るベき大文字にして、日本における国民教育上多大の参考となるものと考えられますから、左にその全文を掲げておきます。

 英文『武士道論』を上《たてまつ》る書

 伏て惟《おもんみ》るに、 皇祖基《もとい》を肇《はじ》め、 列聖緒を継ぎ、洪業《こうぎょう》四表に光り、皇沢蒼生《こうたくそうせい》に遍《あまね》く、声教の施すところ、徳化の及ぶところ、武士道ここに興り、鴻謨《こうぼ》を輔《たす》けて、国風を宣揚し、衆庶をして忠君愛国の徳に帰せしむ。斯道《しどう》卓然として宇内《うだい》の儀表たり。しかるに外邦の人なおいまだこれを詳《つまびらか》にせず。これ真に憾《うら》むべきことなりとす。稲造ここにおいて武士道論を作る。 稲造の先、幕政のときに当たりて世々盛岡藩の士籍に列《つらな》り、祖父伝《つとう》安政年間藩領三本木《さんぼんぎ》に水利を通じ、荒蕪《こうぶ》を拓《ひら》きて微功あり。明治九年、 聖上東北を巡狩《じゅんしゅ》し、三本木駅において畏《かしこ》くも稲造の居宅を仮行在所《あんざいしょ》に充《あ》て給《たま》い、そのとき祖父の追賞を蒙《こうむ》り、子孫国事に奉ずべしとの聖諭《せいゆ》を拝せり。稲造等一族感泣《かんきゅう》措《お》くところを知らず。おのおの身を殖産の道に立て、父祖の遺志を紹《つ》ぎて、皇恩に報い奉らんことを誓えり。稲造業を札幌農学校に修め、更に欧米に留学し、後該農学校及び台湾総督府に歴任し、いまや乏《ぼう》を京都帝国大学法科大学教授に承《う》く。稲造の学もっぱら農政殖産にありといえども、また余力もって文を学び、倫理宗教の考究に勗《つと》むることここに年あり。稲造かつてベルギー国碩学《ラヴェレーと語る。学士わが国教育の宗教に関せざるを知り、ために徳教の基礎を疑えり。稲造武門の末に生まれて、武士道の浸潤するところとなり、わが国徳教の精髄実にここに存するを知る。よりておもえらく、斯道《しどう》はひとり家妻をしてこれに則《のっと》らしむべきのみならず、また広く外邦の人に伝うベしと。すなわち明治三十二年北米合衆国において、英文をもって武士道論を著作し、これを彼《か》の国にて印行《いんこう》し、翌年またわが国にて上梓《じょうし》せり。いくばくもなくしてドイツ語に訳せられ、ついでインド方言に訳せらる。その意該国民の教化に資するにあり。加うるにボへミア語の訳文あり。近くはまたポーランド語に翻訳せらる。その序にいわく、これによりて日本文明の淵源遠く、その国民の義勇天下に比なき、まことに以《ゆえ》あるを知ると。このほか、なおフランス語及びノルウェー語の両訳また遠からずして出《い》ずべしと聞けり。更に伝う、北米合衆国大統領ルーズヴェルト閣下この書を購《もと》めて交友の間に頒《わか》たれたりと。稲造短才薄識加うるに病羸《びょうるい》宿志いまだ成すところあらず、上は、 聖恩に背き、下は父祖に愧《は》ず。ただわずかに卑見を述べてこの書を作る。庶幾《こいねがわ》くは、皇祖皇宗の遺訓と、武士道の精神とを外邦に伝え、もって国恩の万一に報い奉らんことを。謹んでこの書を上《たてまつ》り、乙夜《いつや》の覧《らん》を仰ぎ奉る。誠惶頓首《せいこうとんしゅ》

 明治三十八年四月  京都帝国大学法科大学教授従五位勲六等農学博士 新渡戸稲造 再拝白(もうす)

 次にいま一言武士道に関する重要なことを追加しておきたいと思います。それは日本で有名な赤穂義士の元禄の復讐に際して大石良雄の執った一つの処置についてであります。当時、大石は万一事前に同志中のものにて幕府から捕らえらるるものが出来たならば、全団員すべて一斉に自首して各自の行動の一切の顛末を陳述し、もって幕府の処断に従うべしとのことを命令してあったとのことであります。これは真説か、もしくは事後に大石を理想化するために何人かの付加した作り話かは知らねど、大石としてはあり得べきことであります。すなわち大石は山鹿素行及び伊藤仁斎に従学し、深く聖人の道を究めておったのですから、いよいよ一世の大事業を決行するに当たりては、武士道を美化してここに至らしむるだけの徳をば有しておったものと考えらるるからであります。

 元来、前述のごとく武士道は人間の利己心から発達した一つの道徳でありますから、かかる高尚な理想の実現は難《かた》いはずではあれど、素《も》と武士道は大和魂の要素をも含んでおり、且つ徳川時代に入りては大いに儒教の感化をも受けたれば、かかる高き道徳的要素の発現のあり得ぬということもまたないはずであるのです。ここをもって、かかることが事実であるとしても、もしくは後人の付加せし一つの作り話であるとしても、当該伝説はともに真の武士道の精華が道徳上尊敬すべき価値を有しておるものなることを証明するのであります。そもそも武士道における伝統の原理は甚だ不完全なもので、大和魂と異なり、国家統一のためには弊害あること既述のごとくなれど、その教育の目的及び方法はすべて伝統尊重の目的を達成するに極めて適当しておったのであります。されば、当該伝説によるところの大石のいわゆる命令の精神は道徳上最も重要なる「伝統に対する報恩」を成《な》し遂《と》ぐれば、人間として且つ武士として自己の品性を全うし得るものと考えておったものと思われます。しこうして伝統に対する報恩の唯一の方法は、当時の武士階級の慣習としては、かの復讐あるのみであります。故に大石はその最善の慣習に従って復讐団を組織したのであります。敵首を得ると否《しか》らざるとは唯一の目的ではないのであります。すべて人間として、平素、国の伝統でも、家の伝統でも、もしくは精神伝統でも、その主体たる人々に愛育されながら、緩急のときに当たり、これに対してその大恩を忘るることあらば、それは全く禽獣んじゅう》にも劣るものでありましょう。もし大石の復讐団の組織の目的が真にこの伝統の報恩にあったとすれば、かかる命令を同志に降《くだ》してあったということもまた当然であって、且つ万一たまたまその運命がかくのごときことに終わっても、大石及びその同志の武士としての最高品性は十二分に保証されたのであります。且つ万一事前に破れたならば、ますます一は大石の偉大を示し、一はその君主たる人の平素その家臣に対する慈愛心の深かったこととその教養の方法のよろしかったこととを明らかになし得るので、いずれにても実に美談であるのです。今日世界の文明人にしてその各国の指導階級のみにても、かかる純真なる伝統報恩の精神にて行動したならば、その人の安心及び幸福はもちろん、大小の団体も国家も世界も久しからずして、みな安心・平和及び幸福の境地に達するでありましょう。





(私論.私見)