日本国内の評価は次の通り。例えば、宇野田尚哉は、日本思想史辞典「武士道」の項で次のように評している。
「なお、この書では、武士道関係の基本的な一次史料はほとんど踏まえられておらず、新渡戸は武士道の実際には暗かったと考えられる」。 |
(私論.私見)
|
宇野田の所説はこれしか知らないので、この一文で評するのは早過ぎるが、何とも嫌みな学者ぶった物言いだろうか。「武士道関係の基本的な一次史料はほとんど踏まえられておらず」は為にする批判であり、宇野田氏の読解評論能力の欠如を晒していよう。何とならば、「新渡戸 武士道」は、読めば分かるように題名を武士道としているが武士道そのものを論じたのではなく、武士道に体現された日本精神、日本文化の西欧のそれとの比較論にこそ眼目がある。この部分の出来具合を論ずることが「新渡戸 武士道」の評論となるべきで、「武士道関係の基本的な一次史料はほとんど踏まえられておらず」なる言で、己の博識を誇らぬ方が良かろう。後段の「新渡戸は武士道の実際には暗かったと考えられる」も同じで、ならば宇野田氏の武士道論を述べて見よと云われた時に怯むようなことなら言わぬが良かろう。 |
平川祐弘氏の、「西洋にさらされた日本人の自己主張—新渡戸稲造の『武士道』」のp.82の評は次のように評している。
「Bushido は日本人向けに武士道を学問的に検証して書かれた学術書ではない。西洋人が日本を知らないことに乗じて書かれた一種の宣伝書である」。 |
(私論.私見) |
これも何とも陰気な物言いである。この御仁も、「新渡戸 武士道」が繰り広げた日本精神論、日本文化論に目が行かず、武士道論にのみ傾注して高等ぶった批判をしている。「学術書ではない」と云うのなら、どういうものが学術書足り得るのか拝見させて貰いたいと嫌みの一つも云いたくなる。後段の「西洋人が日本を知らないことに乗じて書かれた一種の宣伝書である」も頂けない。読めば分かるが、「新渡戸 武士道」の中には、西欧人が知らぬばかりか日本人も知らぬ伝統的な必須知識をかなり文筆している。「一種の宣伝書」なる批判は失当で、せめて「一種の啓蒙書」と評すべきだろう。 |
和辻哲郎の「日本倫理思想史―下巻」のp.450の評は次の通りである。
「新渡戸がとらえて見せたのは、戦国時代以来の武士の間におのづから芽ばえてきた廉恥の道徳・高貴性の道徳、及びそれを儒教によって根拠づけようとした士道の考えなのであって、鎌倉時代以来の武者の習いでもなければ、また封建的な上下の秩序をささえる忠孝の道徳でもなかった。新渡戸は士道の摘出によって日本人の道徳的脊骨を明らかにし、日本人が西洋人の理解しえないような特株な民族でないことを示そうとしたのであった」。 |
(私論.私見) |
和辻の評は間違いではないのだろうが隔靴掻痒の憾みがある。和辻が日本精神、日本文化の造詣者と自負するならば、和辻こそは新渡戸の展開した日本精神論、日本文化論の巧拙を論ずるべきだろう。この本筋を語らなくてどうすると云う思いが禁じえない。 |
こ の批判に関して和辻の弟子である勝部真長は次のように述べている。
「和辻も、新渡戸が『武士道』で日本国民全体の道徳体系を代表させているのがまったく理解できず、新渡戸が書いた武士道の徳目である『義・勇・仁・礼・誠・名誉』などは、何も武士のみに限らないと強調し、『武士の情け』は、思いやりであろうが、しかし何も思いやりは武士のみでなく、百姓も町人ももっていたであろうと強く批判している。新渡戸稲造が『武士道』に描いた武士像が戦国時代以来(特に江戸時代)の武士像ということは確かと考えられる。また、日本道徳・倫理は一つの道徳から形成
されるのではなく、様々な社会道徳から形成されたというのが和辻哲郎の考えである。私にとってこれは『武士道』の一つの欠点である」。 |
(私論.私見) |
この一文だけでは勝部の評のスタンスがはっきりしないが、前段では「新渡戸 武士道」の値打ちを語っているように思える。後段の「私にとってこれは『武士道』の一つの欠点である」の趣意が、前段とどう関わるのかが分からないので何とも評しようがない。 |
これらの評に比して次の一文「新渡戸稲造『武士道』について― その多面性と自己相克 ―加藤 信朗」の方が優る。これを転載しておく。
【1】三人の著者からの三つの言葉
【2】諸徳の構造化 ―道徳性(Morality)の構成―
クリスチャンとして、また明治・大正・昭和期の大日本帝国の一顕官として生涯を送った新渡戸稲造について考えることは、近代日本におけるキリスト教の受容のあり方を考える上で意義深い。またそれは近代日本精神史の一齣を照らすことにもなる。いまわが国はひとつの曲がり角にある。ここで、かつて一人の国際人として生き、その時代の日本の運命を一身に引き受けているかにも見えるこの人の多層な心の襞に分け入るのは、興味をそそられると同時に、またわたしたちがこれから歩むべき道を考えるための示唆にも富んでいる。
ここでは新渡戸の若い頃の著作『武士道』を取り上げ、心に浮かぶ二三のコメントを記してみることにしたい。この書物は英語で執筆され、1900年、新渡戸が37才だった時、アメリカと日本で同時に出版された。初版の序文で新渡戸が述べているところによると、そのおよそ10年前ベルギーの法学者ド・ラヴレー教授のもとで歓待をうけたおり、「あなたの国の学校では宗教教育は行われていないのですか」と問われ、「ない」と答えると、教授は驚いて「宗教がないのですか!では、いったいどうやってあなた方は道徳教育を授けるのですか」と言われて、返答に窮したという経験にこの書物執筆のきっかけがあったという。新渡戸はそこで、それは自分が幼少期に学んだ道徳の教えは学校で学んだものではなかったからだと述懐し、さらに「わたしはわたしの正邪の観念を形成しているさまざまな要素を分析し始めるに至ってはじめて、これをわたしの鼻腔に吹き込んだのが武士道だったと気がついた」と付け加えている。この述懐は本書の成り立ちを理解する上で貴重である。
新渡戸がド・ラヴレー氏のもとを訪れたのは1887年、新渡戸の25才のことだった。それは1881年に札幌農学校を卒業後(1878年にはキリスト教に受洗)、1884年に渡米、三年間のアメリカ留学を経て(1886年ボルティモアの「友の会(Society
of Friends)=クエーカー」の会員になっている)、札幌農学校の教員に任ぜられ、専門学科研修のためドイツにわたった年のことだった。この後、新渡戸はドイツの各大学で農政学、農業経済学を学習し、ハレ大学で学位を得た。ついでアメリカに帰り、フィラデルフィア・クエーカーの名家の令嬢であったメアリーと結婚し、帰国して札幌農学校の教授を務めた。その後病を得て、農学校教授を辞任し、静養のため渡米したが、この『武士道』が執筆されたのはこの病気静養中のアメリカでのことだった。つまり、この『武士道』という書物は、ド・ラヴレー氏から問いが投げかけられてから、各地を転々し、さまざまな経歴を経た25才から37才に至るまでの思想熟成の時を経て、この間自己の精神的基盤がどこにあるかを省み、その根幹をなすものが封建時代に幼少期の自分に教えられたものであると知り、これを武士道として、妻メアリーと欧米の旧知に分かってもらうために書いたものなのである。
そのため新渡戸はヨーロッパの歴史と文学のなかから取った類例を添えて、外国の人々の理解の助けにしようとしたと述べているが、この点に本書の貴重な特徴がある。これはこのようにして明治期の一文化人の心の深層で熟成した欧米と日本の精神性の対比と融合の記録なのである。しかもそれがクエーカーの篤信の女性であった妻メアリーに向けて語られているものであるので、それは欧米の伝統的な教会制度の外にあるクエーカーという特別なキリスト教的霊性を前提して語られているということがある。そこに本書の魅力があるが、それだけに近づいて見るとそこには接合しにくい多様な要素が混在しており、一貫性を見いだし難く、困惑させられることも多い。「その多面性と自己相克」という本稿の副題はそこから来ている。しかし、それゆえに、この書物は明治期に自己の内奥において欧米の伝統と日本の伝統の融合を行おうとした一エリートの記録として貴重である。ここに、台湾総督府糖務局長、京都帝国大学教授、第一高等学校長、東京帝国大学教授(植民政策担当)、東京女子大学学長、国際連盟事務局事務次長、太平洋会議議長というように明治・大正・昭和期を経て大日本帝国が一つの道を辿ってゆく過程のなかでの諸官職を歴任して、1933年、71才で没するまでの生涯を送った新渡戸の多面的な活動が繰り広げられる原点はあったと思えるのである。
したがって、ここで「武士道」と呼ばれているものは江戸期までの「武士」の時代に武士階級の内に自覚され形成された「武士道」と同じではない。あくまでも明治期の一文化人が欧米の習俗に触れ、その基盤となっているものをつかんだと信じた上で、自己の「道徳性(morality)」の深層を形作っている幼少時の教養の素地を再咀嚼した上で、これを「武士道」として構成したものである。それは明治人の気骨の一面をよくつかんでおり、その後の日本の文化人の心性をある面で代表しているので、いまこれを検討することは意味深いと考える。また、本書は初版以来広く欧米の読者を獲得し、欧米人の日本人観を造るのに力があったと思われるので、いまその成り立ちを検討してみることは有意義である。
ここでは本書の全体を解説し紹介することはしない。むしろ限られた切断面から本書の構成の中心と思われるものを取り出し、どちらかといえばその欠陥を掘り起こすことにもなるが、それはけっして本書の価値を貶めることにはならないと思う。
分析の視点をさしあたり次の二点に限局する。
(1)扉に掲げられた三人の著者からの三つの言葉
(2)「徳論の構成」
【1】 三人の著者からの三つの言葉
『武士道』は養父(叔父)太田時敏に捧げられた献辞につづいて、三人の著者の三つの言葉を引用することから始められている。
(i) |
Robert Browning(1812-89)の詩Bishop Blougram's Apology からの一節 |
(ii) |
Henry Hallam(1777-1859)のEurope during the Middle Ages からの一節 |
(iii) |
Friedrich Schlegel(1772-1829)のPhilosophy of History からの一節 |
がそれである。佐藤全弘訳によれば以下の通りである。
山越えの道、
その上に立つ人は、これがはたして道かと疑いそう、しかし、その道をまさに荒野から眺めれば、道筋は、麓から頂きまで昇って行く、はっきりと、まぎれもなく! 左右にうちつづく荒地から 道の途切れが一つ二つ見えるが、それがどうした? そして(見方を新しくすれば)その途切れそのものが人の眼を鍛え、信仰とは何かを人に教える。最も申し分ない仕組だと、ついにわかるとすれば、どうだろうか? ロバート・ブラウニング 『ビショップ・ブラウグラムの弁解』
時をおいて、水の表面を動きまわり、人類の道徳的感情と精力に、すぐれた衝迫を与えてくれた、三つの力強い霊といってよいものがある。自由、宗教、名誉の霊がそれである。 ハラム『中世ヨーロッバ』
騎士道は、それ自身、人生の詩である。 シュレーゲル『歴史哲学』
はじめわたしは、これらを新渡戸がだれから学んだものか知りたいと思った。札幌農学校時代のクラークからなのか、洗礼をうけた(1878年)メソジスト教会宣教師ハリス(M.
C.
Harris)からなのか、それとも、アメリカに遊学して親しくしたクエーカー教徒の誰かからなのか、さらにドイツ留学中に学んだものなのか。しかし、いまだにその解答を見いだせないでいる。そこで、今のところ、これは新渡戸がその自己形成の過程で読破した数々の書物の中で、みずからの信念の拠りどころと見なしうるものとして選り出した、あるいは新渡戸の心中深く残る言葉として沈殿した言葉であったのだと考えることにしている。したがって、この三つの言葉は新渡戸の『武士道』の根底を知る上で基本的であるはずである。このように、新渡戸がその博覧強記の知識から、自己にうったえるものを選別し、これを自己の信条とするに値するものとして選び取る力を持っていたところに、新渡戸稲造という人物の大きさがあったのだと思う。
第三に上げられているフリードリヒ・シュレーゲル(Friedrich Schlegel)は18世紀末から19世紀初めにかけて起こったドイツロマン主義運動の先駆となり、その理念的基礎を作った人である。この運動はその後クレメンス・ブレンターノ(Clemens
Brentano)やグリム(Grimm)兄弟らによるドイツ中世民話の収集などの仕事を導くもととなり、さらには19世紀後半のリヒアルト・ワーグナー(Richard
Wagner)の仕事にまで続くものであり、大筋で言えば19世紀ヨーロッパにおける中世復興を先導するものであった(イギリスではワーズワース、ラファエル前派の運動がこれに続くもの、ないしは、その並行現象と見ることができる)。つまり、それは18世紀の啓蒙主義の理性偏重に対する反動であり、情念的なものの重視、そして何よりも「無限なるもの」への上昇をその特徴としている。19世紀末という物質文明の華やかだったアメリカ経験のなかで新渡戸がこれを選び取ったこと、また、とりわけクエーカー主義の人々との交わりの中で、新渡戸がこれを自己のバックグラウンドとして選び取ったことはわたしにははじめ驚きであった。ヨーロッパ中世とアメリカのクエーカー主義
とがどのようにして結びつきえたのだろうかが不思議だった。フィラデルフィア・クエーカーの名家の出であると聞く夫人メアリーはこれをごく自然のこととして受け取ったのだろうか。フィラデルフィア・クエーカー
の始祖であったウィリアム・ペンの出自はアメリカのクエーカー教徒をごく自然にイギリス上流階級に結びつけえたのだろうか。しかし、新渡戸がその「武士道」の欧米における対応物をこの中世的な「騎士道(chivalry;
Rittertum)」のうちに見いだしたのは確かである。これが第三に述べる「諸徳の構成」の中で、「勇気」(Courage)から始めて「忠義」(Loyalty)に終局する「道徳性」の構成と繋がるものであるとわたしには見える。しかし、ヨーロッパ一般ではこの中世復興は中世の封建制社会の是認・復興と結ぶものではなかったろう。新渡戸はこのことをどこまで意識していたのだろうか。新渡戸の本書では、19世紀後半のヨーロッパの帝国主義的ナショナリズムと日本の封建道徳とが比較的簡単に結びつきえたように思えてならないが、このヨーロッパのあり方と新渡戸のあり方との対比を考えるのは重要である。
第二に引かれているヘンリー・ハラム(Henry Hallam)の「中世史」は今日では誰も知らないものであるが、これもこの新渡戸の方向に一致するものとして選ばれている。新渡戸の場合、この中世主義と封建制との結びつきは、さらに具体的にはドイツ留学時に触れたドイツ帝国主義体制への共感と結びつきうるものだったろうと想像される。そして、これがまさに伊藤博文らが新しい大日本帝国の途として選び取ったものに繋がり、その後の新渡戸の大日本帝国の顕官としての途を準備するものだったと思われる。
それにしても、こういう中世精神の顕彰とクエーカー主義との結びつきがどこにあり得たのかがわたしには疑問であった。しかし、初期アメリカ遊学時代に、札幌でクラークにより導き入れられた正統プロテスタント主義から、次第にクエーカー主義へと傾き、ついにクエーカー(友の会Society
of Friends) の一員となった新渡戸の精神の動きを考えるとき、すこし分かる気がする。つまり、クエーカー主義における「内心の光」の尊重というキリスト教神秘主義とその「非教職者主義」(平信徒主義・これは内村の「無教会主義」を導くものでもある)「非教条主義」が、新渡戸には自分がChristianityのうちに見いだしたmoralityの体現であると信じられ、共感を持ちえたのであろう。そして、それはさらに「無限なるものへの上昇」というロマン主義へと繋がるものとなったと考えられるのである。そこにおそらく新渡戸稲造という人物のあり方を解く一つの鍵がある。新渡戸の魂はこの「無限遠」の上方への志向によって欧米の伝統と日本の伝統を結びつけうる、見えない一点に向けられていた。
扉の第一に掲げられたロバート・ブラウニングの詩の一節はこれを証示している。新渡戸の愛好した「分けのぼる麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」という日本の宗教性がそこにある。この詩文はBishop
Blougram's Apology という1013行からなる長詩の比較的初めの198―207行からの引用である。新渡戸がこの詩の全体をどのように読解していたのかは分からないが、これは「懐疑」と「信仰」の狭間に悩みつつも、この生を一つの決断をもって生きていくとき、そこに神への信仰が開かれてくるという趣旨を中心に据える詩である。そこにはヨーロッパ精神史のあらゆる局面が映し出されており、新渡戸がこれをどこまで追跡しえていたかは定かでないが、キリスト教に出遇って「懐疑」と「信仰」の狭間を終始しながら、みずからの信ずるmoralityとChristianityの極点での一致を信じえた新渡戸はこの詩に共感を覚えたのだろうと思う。これは先述した19世紀ヨーロッパ・ロマン主義の信条でもありえたのであり、これら三つの言葉はその終極点で一致したのだろう。
なお、この詩で取り上げられている司教ブラウグラムはローマ・カトリックの司教である。解説者によると、そのモデルになったのはこのころ英国国教会からローマ・カトリック教会に改宗したイギリスの何人かのエリートの中の一人であったワイズマン枢機卿(Cardinal
N. P. S. Wiseman)であるという。ワイズマンは、オクスフォード運動の指導者の一人であったジョン・ヘンリー・ニューマン(John
Henry Newman)と共にカトリックになった人であり、英国カトリックの司教として世俗的な成功を収めた人でもあるので、ここでブラウニングが持ち前の皮肉を交えながら、この司教の晩年の独白という形でこの詩をつづっているのは興味深い。つまり、ブラウニングも広い意味ではこのロマン主義運動に共鳴していた人であったのだ。ドイツのシュレーゲルの場合も、またこのブラウニングの場合も古典ギリシャへの深い関心を持ちながら、ヨーロッパ中世へのつながりを見いだしていった点はわたしには興味深い。このブラウニングの詩がアメリカのクエーカー教徒の間で愛好されたかどうかは知らない。もしかすると、内村が純粋なプロテスタント主義
に向かったのに対して、新渡戸にはなんらかカトリックへの内的な傾きがあったのかもしれない。
いずれにせよ、これら三つの言葉が一つの結節点に結んでいることは明らかなようである。そして、これが欧米と日本のmoralityを結びうる要めとして新渡戸の心の内に輝いたのだ。さらに付言すれば、新渡戸が生涯の愛読書としてあげていたというカーライルの『仕立て直された仕立屋(Sartor
Resartus・衣裳哲学)』 からの言葉を新渡戸がこの扉に載せなかったのは興味深い。たしかに、カーライルは上記の人々とはずいぶん精神的素地の違う人のようである。しかし、それにもかかわらずカーライルのこの書物は新渡戸の終生の愛読書であった。そこに新渡戸の内面のもつ「多面性と自己相克」の一面がある。
【2】 諸徳の構造化 ―道徳性(Morality)の構成―
新渡戸が本書で「武士道」を日本人の道徳性の基礎として提示するにあたって、さまざまな徳目を武士道を構成している諸要素としてあげ、これらから構成されている「全体的な徳性」として「武士道」を解説していることが注目される。新渡戸がここで列挙する徳目は主に儒教伝統のなかで重んぜられてきた徳目である。しかし、その構造化の試みは新渡戸によるものである。儒教の伝統にもそういう一つの構造化の試みはあった。「五倫」(親、義、別、序、信)、「五常」(仁、義、礼、智、信)はその一例であり、『大学』の「三綱領(明明徳、新民、止於至善)」、「八条目(格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下)」もそういう修徳の道の構造化の試みである。しかし、新渡戸のものはこれによるものではない。新渡戸の構造化の試みは新渡戸が欧米の習俗に触れ、その徳論を学ぶことによって学習したものであり、これと突き合わせることによって、新渡戸が自己を支える道徳性の要素を分析し、これを構造化したものである。それゆえ、これは明治の文化人が欧米の道徳性に触れ、その倫理学思考に動機づけられて試みた、自己の精神的バックグラウンドとしての道徳性の構造化なのであり、注目に値する。問題は、それがどのように構成されているかである。以下にわずかな分析を試みたい。
第三章から第九章までを諸徳の構造化に関する原理的な論述と考え、この部分を取り上げる。章立ては次の通りである。
第三章 |
「廉直すなわち義(Rectitude or Justice)」 |
第四章 |
「勇気、敢為忍耐の精神(Courage, The Spirit of Daring and Bearing)」 |
第五章 |
「仁、惻隠の心(Benevolence, The Feeling of Distress)」 |
第六章 |
「礼(Politeness)」 |
第七章 |
「真実と誠実(Veracity and Sincerity)」 |
第八章 |
「名誉(Honour)」 |
第九章 |
「忠義の義務(The Duty of
Loyalty)」 |
話を簡略化するために、ヨーロッパの伝統的な道徳性の古典的範例となった古代ギリシャのプラトンにおける「枢要徳(Cardinal Virtues)」をはじめに提示し、これと比較してみることにする(これは初期プラトン対話篇で主題化され、『国家』篇で組織化されるものである。その後アリストテレス、ストア派、キケロ、トマス・アクィナスなどヨーロッパの伝統倫理の基礎となった)。
|
(gr.) |
(lat.) |
「知恵または賢慮」 |
sophia - phronesis |
sapientia - prudentia |
「節制」 |
sophrosyne |
temperantia |
「正義」 |
dikaiosyne |
iustitia |
「勇気」 |
andreia |
fortitudo |
の四つの徳目がこれである。古代ギリシャにはこれ以外にも伝統的な徳目がいろいろあった。アリストテレスの『ニコマコス倫理学』にはそれらがあげられている。ただプラトンが上述の四徳だけを取り上げてその「徳論」を構成したのには十分な哲学的根拠があった。それは「人間自体をきめるもの(=それがその人であるといえるもの)」すなわち「魂または心(psyche, anima)」のあり方を構造化し、これを完成するものとしての「器量(arete, virtus)」をこのように四極によって構成されるものとして構造化するということである。したがって、これを徳論の「魂論的構造化」と呼ぶことができる。プラトンはこれを『国家』篇のなかで行った。中期から後期に及ぶ徳論ないし道徳論また教育論の展開はこれを基礎とし、その補足・修正ないし展開としてある。したがって、これは「人間性(Humanity)」の構造化でもあったのである。
新渡戸のものをこれと比較するとき、二つのことをあげることができる。
(i) |
東洋ないし日本にも道徳性を構成する個別の徳目は種々あった。新渡戸がこれを上の章立てのように七つの徳目として列挙したことは、同じように、新渡戸もここで「武士道」としての道徳性を何らか構造化したのだと言える。儒学の伝統の中でもこれはなされていたが、新渡戸のものは西欧の伝統倫理とつき合わせることによって行おうとしたものである点に特徴がある。 |
(ii) |
そこで、この構造化がどのようになされているか見るとき、新渡戸における「武士道」としての道徳性がどのように把握されているかを明らかにすることができる。 |
まず個別の徳目の表を比較してみるとき、プラトンの徳論では中核をなし、また頂点となるとも言える「知恵または賢慮(sophia
- phronesis)」がその徳目の表から欠如していることが明かになる。
「知恵(sophia)」と「賢慮(phronesis)」の扱いはプラトン哲学の解釈上微妙な問題点であるが、『弁明』篇でソクラテスが「人間並みの知恵(anthropine
sophia)」と呼んでいるものがプラトンにおいて「賢慮(phronsis)」と呼ばれているとわたしは理解している。つまり、「賢慮(phronesis)」はソクラテスにおける「無知」への自覚をともなう「知恵」への関わりなのである。したがって、それは哲学的探求を媒介とする知恵への関わりであり、すぐれた意味で人間の人間としての「道徳性」を構成する頂点を形作る。
さしあたり、大まかな言い方を許し頂きたいが、新渡戸におけるこの徳目の欠如が「武士道」としての道徳性の構造の欠陥をなすように思える。つまり、それは探求を排除するような道徳性に固化しやすいのであり、「問答無用」という武士の心意気に堕してしまいうるのである。わたしにはつまびらかになしえないが、陽明学の「知行合一」の教えがこのような道を進み、ただ「信念」への固執になってしまうとすれば、それは残念である。ブラウニングの詩に歌われている司教ブラウグラムの心は懐疑と信仰の狭間を漂っていたのであり、新渡戸の心の中にも、イエスの道を前にして、同じような「逡巡の念」が往来していたのだとすれば、新渡戸はこれを「日本の魂」の原郷のどこかに見つけえなかったのだろうか。幼少時に培われた「尚武」の心に求めることはおそらくできない。近代日本精神史の中にもこのような「探求」と「逡巡」を体現した人はいたと思うが、これを日本の伝統的な心性に含まれる「道徳性」として構造化する人はいなかった。そうだとすれば、これをどのようにして構造化しうるかが、いま、日本の哲学者に求められている課題である。
もう一つ重大なことを指摘すれば、それはクリスチャンとしての新渡戸において「謙遜(tapeinosyne
[gr], humilitas [lat])」の徳目がどのように位置づけられたかが見えないということである。「謙遜(tapeinosyne,
humilitas)」はギリシャから継承された徳目に対して、キリスト教ヨーロッパが新しくこれをすべての徳目に先立ち、すべての徳目の頂点をなすものとして重視した徳目である。Quakersの友(Society
of
Friends)の中でこの徳目が無視されていたとは信じがたいが、新渡戸とその夫人はこの徳目をどこに置いたのだろうか。『武士道』の中ではそれが見えないのである。
プラトンの徳論との連関でいえば、「謙遜」はソクラテスの「無知」の自覚に動機づけられた「賢慮(phronesis)」と引き合い、つながり合うものである。キリスト教の「神秘主義」はこの徳目(=「賢慮」)との内的関連を失うとき、空疎になる。
さらにもう一点付け加えれば、プラトンにおいて、「正義(dikaiosyne)」の徳はこの「賢慮(phronesis)」の徳に基礎づけられてのみ存立しうるということがある。『国家』篇の主題であった「正義論」はこの枠組みの中で追求されている。それゆえ、この関連から見るとき、新渡戸の徳論では、徳目の第一に掲げられた「廉直すなわち義(Rectitude
or
Justice)」の徳が、「知恵」ないし「賢慮」の徳へと関係づけられ基礎づけられていないため、その固有の意味づけを失い、勇気から忠義へと結ぶ線の内に吸収されてしまう。これはアリストテレスの「正義論」との関連でも言える。「他人への関係としての徳」として「正義」の徳を規定したアリストテレスの正義論の真価もここでは見えてこない。アリストテレスの「正義論」は市民の間の「公正」「等しさ」を導くものとして展開され、ヨーロッパ民主主義の基礎を形作り、近代ヨーロッパの政治理念を導くものとなった。しかし、『武士道』の第三章「廉直すなわち義」からはそういう倍音が聞こえてこないのである。つまり、「正義」の徳が普遍人間性を根拠づけるものであり、人と人を互いに「親愛」のきづなで結ぶ徳目であることが見えてこないのである。
新渡戸が第五章で扱った「仁、惻隠の心(Benevolence, The Feeling of Distress)」の徳の扱い方にもこれと繋がる問題点がある。「正義」の徳が「仁愛(=好意・benevolence)」の徳に密接の繋がることはプラトン、アリストテレスの徳論の基本線である。これを継承し、かつ『聖書』の伝統に息吹かれているキリスト教の徳論ではこれは極点にまで高められている。このことは「人間性(humanity)」の徳論的な基礎付けのために重要である。だが新渡戸の『武士道』の「道徳性」の構成では、孔孟の教えの中で「人間性(humanity)」の基礎を形作りうる「仁」と「惻隠の心」が「義」から切り離されることによって、その本来の力を失うように見受けられる。
――以上は、新渡戸の『武士道』を読んでわたしの中で問題として浮かび上がってきた諸点である。これらの点を『武士道』の個々の論述に即して、全体的に詳論することは小論の範囲を超えている。また、原文の英語で用いられる倫理学的概念を新渡戸がどのように理解していたのか、さらに、この英語にあたるものとしてどのような日本語を理解していたのかを定めることは困難であるが、以下に第三章の「廉直すなわち義」および第四章の「勇気、敢為忍耐の精神」の論述に即して本書の論旨にとって重大であると思える点を指摘しておきたい。
列挙された徳目の第一にあげられる「廉直すなわち義(Rectitude or Justice)」についてであるが、新渡戸はRectitude
とJustice をここで何らか同義語とみなしていると言ってよいだろう。これはヨーロッパの伝統倫理から見てもただしい。それは日本語で言えば「ただしさ」にあたる言葉であり、「人が人として踏むべき道」をいうと言ってよいだろう。ただ、ここでは、林子平の言葉(『海国兵談』)が引かれて、行動においてそのような道理の道を決然として取り、躊躇逡巡しない「決断力(power
of resolution)」がそれだとされている点に特徴がある。「道理に従って(in accordance with reason)」という限定はあるが、道理にしたがう「行動のいさぎよさ」の方がいっそう強調されているのである。したがって、それは「勇気」と双子の徳であり、勇気から切り離されるとき、本来の力を失うのである。「道理」がそもそも何であるかという問いがここではそれ自体として立てられることがない。道理はむしろ人がおのずと内に弁えているものと考えられているのであろう。しかし、事実上は、それは「君臣」、「父子」、「兄弟」という身分関係によって規定された道理なのであり、それが「義(ただしさ)」の基準となる。これが「サムライ」の道だといえば、その通りなのだが、それは上述した欠陥となりうるのであり、普遍人間性を根拠づける「道徳性」とはならない。
さらにここで『孟子』が引かれて、「仁義」を回復し、求めることが人間の本来のあり方を取り戻すゆえんであるとされ、それが「正しい人」といわれたイエスの生き方に準ずるものだとされているが、それは無理である。なぜなら、人間の性を蔽う闇の深さの意識は孟子においてそれほど大きくないが、イエスの救済の業は人間をこの根本的な闇(=罪)から解き放つことにあったからである。これはすでに第二章「武士道の源流」で神道には「原罪」の教義を入れる余地がないと説かれていることに関係がある。新渡戸はここで仏教ではなく神道に日本人の精神的基盤を求めようとしているが、仏教的観念は聖徳太子以来、日本人の心性に深くしみこんでいると言わねばならない。そして、仏教における「無明」の観念はキリスト教の「原罪」の観念にきわめて近いものなのである。さらに新渡戸はこの章で、孔子の教えは日本人の民族本能が以前からすでに確認していたことを追認したに過ぎないと述べているが、これも根拠を欠いた速断である。こうして、神道に日本人の精神性の基盤を置き、武士道の源流を求めようとするこの章での新渡戸の説は「廃仏毀釈」という明治政府の路線にそったものではあるが、それは一つの主張ではあっても、真実からは遠い。
「勇気、敢為忍耐の精神(Courage,
the Spirit of Daring and
Bearing)」の章では、正義のためにふるわれるのでない限り、「勇気」ではないとされ、「義を見てせざるは勇なきなり」という『論語』(為政)の言葉にもとづいて「勇気とは正しいことをすることである(Courage
is doing what is
right.)」と定義されている。この新渡戸の推論の可否は別として、この勇気の観念それ自体は崇高である。この武士の心意気が欧米人の賛嘆を呼んだとすればそれも自然である。ついで「生くべき時に生き、死するべき時にのみ死するを真の勇気という」という水戸光圀の言葉を引いて、「勇気とは恐るべきことと恐るべきではないことの知識である」とするソクラテスの定義(プラトン『ラケス』篇)を並行事例としてあげた新渡戸の見識はこの時代のものとしては尊敬に値する。しかし、ここでも「廉直すなわち義」の章に関連して述べたと同じことがある。つまり、ここでは、プラトンのなかにはあった、「勇気」を「(ある種の)知識」であるとすることに含まれるパラドクスが消え、「諸徳の一性(Unity
of
Virtues)」に関わるプラトン哲学の問題が生まれてこないのである。プラトン研究者でも哲学者でもなかった新渡戸にこれを要求するのは無理かもしれない。しかし、ここでも「知」のモメントが欠如し、「果断」としての実行力が強調される結果になっているのは明かであり、「勇気(courage)」から「忠義(loyalty)」へと結ばれる線で、新渡戸の『武士道』の道徳性が構造化されるという結果がそこから起こってきているのである。
哲学・倫理学は新渡戸の専門外であり、本書で新渡戸は倫理学の理論的構築を企てたわけでもないだろう。むしろ信念の人であり、実行の人であったところに新渡戸の本領はあった。しかし、事柄が「人の人としての生き方のきまり」に関わるゆえ、これらの諸点は見過ごされるべきではない。欧米のmorality
と日本の伝統のmorality
を対比し、その融合をはかろうとするのが本書の趣旨であるとすれば、これらの諸点を逐一問題化し、正しい知見を求めることがこれからわたしたちの生きて行く道を見据えてゆくためには不可欠である。
negativeなことばかり列挙したように見えるので、賛同した点を二つ述べる。
(i) |
本書の第一版の序文で新渡戸は、みずからの信ずることとして
(a) |
キリストが教え、『新約聖書』のなかでわたしたちに伝えられている宗教(the religion taught by Him(i.e. Christ)
and handed down to us in the New Testament)
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(b) |
心に記された律法(the law written in the heart)
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(c) |
神はすべての民族や国民と――それが異邦人であろうとユダヤ人であろうと、キリスト教徒であろうと異教徒であろうと――「旧約」と呼んでよい契約を結んだこと
(that God hath made a testament which may be called "old" with every people and
nation, --Gentile or Jew, Christian or
Heathen.) |
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の三つをあげている。第三の点はキリスト教神学では「自然啓示(natüliche Offenbarung)」と呼ばれているものに繋がるが、「旧約」という表現は別として、わたし自身も同感することである。しかし、この点で新渡戸のChristianityはプロテスタントの正統派からは本物とは認められないものとなった。 |
(ii) |
さらに第一章のなかで用いられている「国際倫理学(International Ethics)」「比較人性学(Comparative Ethology)」という言葉に驚きを覚えた。この時代にこのような学問の構想がどこでどのようにしてあったか知らないが、新渡戸がのちに「国際連盟」の役員として活動するようになったことの素地がすでにそこにあるように思えた。今日の「国連」「ユネスコ」の基礎はそこから始まったが、日本が国際連盟から脱退して悲劇的な運命を辿り始めるさなか(1933年)に新渡戸の生涯が閉じられることになったのは象徴的なことだったかもしれない。
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