新渡戸稲造「武士道」考&履歴考

 (最新見直し2012.05.03日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、新渡戸稲造「武士道」考&履歴考を記しておくことにする。「ウィキペディア新渡戸稲造 」、「新渡戸稲造著『武士道』の要点整理」、「新渡戸稲造が伝えた武士道」、「人の土俵で褌を取る」の「産経ニュース わが心の故郷(みちのく)編」(文化部編集委員関厚夫)、「Foreword for Bushido: The Soul of Japan (Indonesian Edition)」 その他を参照する。

 2012.05.03日 れんだいこ拝


 れんだいこのカンテラ時評№1023 投稿者:れんだいこ 投稿日:2012年 5月 2日
 【新渡戸稲造「武士道」考その1】

 2012年4月頃、不意に新渡戸稲造の「武士道」を読みたくなった。直接的契機としては目下の政治の不作が介在している。それまでの自公政権も酷かったが、2009衆院選で政権の座に就いて以来現在に至るまでの民主党政権、及びそれを担う諸大臣の余りにもな異邦人性(これは売国奴とも云い換えられる)、粗脳無責任政治に食傷させられていることによる。日本人の伝統的な政治の型と余りにも違い過ぎることに呆れ、そういう結果として逆に武士道精神が恋しくなり、それを訪ねたくなったと云う事情がある。

 もう一つ、このところユダヤ教ネオシオニズムの研究をしているが、彼らのイズムの真逆にあると思われる日本精神の精華としての武士道精神を確認したくなったと云う理由もある。そういう訳で、新渡戸稲造の「武士道」が読みたくなった。新渡戸稲造の「武士道」が、日本の武士道を如何に捉えているのか、これと対話したい。

 問題は、これをネットで読もうとしたら、どう検索しても出てこないことにある。ほんの一部が解説混じりでサイトアップされている程度のものでしかない。それも、どこまでが原文でどこからが評者の付け足し文なのか分からない。原文訳が正確であるかどうかも分からない。補足しておけば、英文では公開されている。例えばBUSHIDO THE SOUL OF JAPAN」(http://www.gutenberg.org/files/12096/12096-h/12096-h.htm#PREFACE2")がそれである。英文で公開されているのものが日本文では為されていない。こういうことがいつまでも許されることだろうか。

 こういう経験はマルクス主義文献の時にも味わっている。こういう例はまま認められるということであるが決してフェアではないと思う。マルクス主義に話しを集中すれば、マルクス主義者であろうと批判者であろうと、まずは原文ないしは極力正確な訳文を読んで知識を獲得するのが前提であろう。議論はそれからの話しであるのに、この方面が進んでおらず、故に「もどき」の知識を詰め込んで喧々諤々しているが実際である。ナンセンスと云わざるを得ない。れんだいこの学生運動時代、その程度の知識の「もどき」派に何度「お前は学習が足りない」と云われたことか。

 嫌な思い出の一つである。悪いけど、れんだいこの知性はそういうレベルでは納得できない。生のある間中は極力実際のものを踏まえて弁証していきたいと思う。「もどき」の知識で知ったかぶりして相手を追い詰めるなんて芸当は真似できないし金輪際したくもない。原文原意を踏まえたならば「もどき」派よりももっと旺盛な議論を展開したいと思う。「もどき」派にはもう一つ特徴がある。入り口段階でわざわざ小難しくする癖がある。そこで賢こぶられるのであるが辟易させられるものでしかない。そういう暗雲を一気に晴らす妙薬はないものだろうかと常々思っている。

 もとへ。そこで、ネット検索で古書店より原書を取り寄せることにした。誰もやらないなら、れんだいこがいつものようにサイトアップしておこうと思う。(実際にはネットで購入しようとしたところカードでなくては支払えない云々で、カードを持たないれんだいこは街の書店で購入した)

 最近は、糞著作権野郎によって情報閉塞化が激しくなりつつある。ご丁寧にも先進国では当たり前の権利であると講釈聞かされる。ところが、その先進国では既に行き過ぎの著作権に対して揺り戻しが起りつつあるのがお笑いである。それはともかく、我々は、著作権規制強化の動きに対抗して、埋もらせてはならない名文、名品を逆に公開して共有化しておく必要がある。著作権規制を廻って両派が抗争していると思えば良い。当然、れんだいこは後者であり、これまでもこれと思う書物のサイトアップをしてきた。ここに新たに新渡戸稲造の「武士道」を加えることにする。

 れんだいこのカンテラ時評№1024 投稿者:れんだいこ 投稿日:2012年 5月 2日
 【新渡戸稲造「武士道」考その2】

 れんだいこが新渡戸稲造の履歴及びその著作「武士道」を評すれば次のように云える。

 1862(文久2)年、新渡戸稲造は、現在の岩手県盛岡市の盛岡鷹匠小路下ノ橋の邸にて南部藩士にして藩の勘定奉行を務める新渡戸十次郎と母・せきの、の三男として誕生した。その後の稲造は、明治時代初頭の文明開化の波に競って乗った欧米化ボーイの一人となった。

 1877(明治10)年、15歳の時、“Boys,be ambitious!”の名言で有名なウィリアム・クラーク博士の教鞭で知られていた札幌農学校(のち北海道大学)の二期生として入学する。内村鑑三はこの時の同期生である。1878年、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らと共に函館に駐在していたメゾジスト系の宣教師M.C.ハリスから洗礼を受けている(洗礼名・パウロ)。こうしてクリスチャンとなり、友人達とともに信仰と勉学の日々を送った。この頃、「モンク(修道士)」のあだ名を付けられている。

 1884(明治17)年、念願叶って私費留学でアメリカに渡り、アレゲニー大学、ジョン・ホプキンス大学に入学し、経済、農政、歴史、英文学などを学ぶ。こうして、いわゆる西欧学問、精神、イズムを現地で吸収した。新渡戸はこうして国際日本人となった。当時、こういう日本人が少なからず居た。新渡戸が並でないのはこれ以降にある。

 新渡戸は、多くの国際日本人の如く西欧文明を丸呑みしたのではない。むしろ日本との比較文明史的批評眼を持った。この観点は割合に早く獲得されていたものであるが、実際に欧米の地に住んでなお曇らさなかった。新渡戸は、西欧文明を知るにつけ徒に西欧に同化しなかった。屈服式に憧憬同化するには、幼年期に身につけていた日本学的教養が邪魔したとも云える。こういう例は史上の気骨派にまま認められる。ずっと後年になるが犬養毅なぞもその例であろう。夏目漱石辺りもこの範疇の人物であろう。

 新渡戸はむしろ、西欧文明、学問を習いつつ、他方で日本が歴史的に営々と培ってきた学問、精神、イズムの高等さを逆に確認した。同時に西欧文明に比しての欠点をも確認した。その結果、日本が西欧に学ぶだけではなく、日本文明の水準も踏まえて、両者の文明的総合、架け橋を企図した。この当時、このように発想した日本人は少ないのではなかろうか。これが、新渡戸評の第一点にならなければならない。

 更に注目すべきは次のことである。新渡戸の知性は、他のインテリが西欧化の波に呑まれ、西欧化の裏に潜む国際金融資本のイデオロギー且つ学問たるネオシオニズムに蕩(とろ)ける中にあって、その流れに迎合しなかった。むしろ西欧主義の流れにあるイエス教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、在地諸教の五者鼎立を見据え、むしろ日本的精神で和合し得る西欧を求め続けた。

 その結果として、キリスト教内では少数派のクエーカー教徒へと転身している。その背景には、当時主流となりつつあったユダヤ教系譜のネオシオニズムに同化せず、これと一線を画す必要を感じ続けていたと云う理由があったと推察できる。ここに新渡戸の見識の高さ、有能さが認められる。同時にネオシオニズムに身売りしなかったことによる悲劇が前途に敷かれることになる。これにどう挑んだか挑みそこなったか、これが新渡戸評の第二点にならなければならない。

 このように自己形成した新渡戸のその後は栄光と苦難に満ち溢れている。暫く履歴を確認する。

 渡米中、クエーカー派の集会であるモリス茶会でフィラデルフィア・クエーカーの名家の令嬢であったメアリー・エルキントンと出会う。1887(明治20)年、ドイツ留学しボン大学、ベルリン大学、ハレ大学で農政学、農業経済学、財政学、統計学などを学び、この後、マルティン・ルター大学、ハレ・ヴィッテンベルク(ハレ大学)大学にも聴講し、ハレ大学で学位論文「日本の土地所有、その分配と農業経済的利用について」を提出し農業経済学博士号の学位を得ている。1891(明治24)年、再度アメリカに渡り、ドイツ留学中にも文通により心を通わせてきたメアリー・エルキントンとフィラデルフィアで結婚する。

 その後日本に帰国し、札幌農学校助教授として赴任する。1897(明治30)年、札幌農学校教授として多くの授業をかかえ、舎監なども兼任するという余りの忙しさによる過労の為に脳神経症となり退官し、鎌倉、伊香保で転地療養する。療養中に「農業発達史」、「農業本論」をまとめ出版する。

 その後渡米しカリフォルニア州で転地療養する。この折の38歳の時、「武士道」(「Bushido-the soul of Japan」)を執筆、1900(明治33)年、英文「武士道」を出版する。今、これを読むのに、武士道のみならず武士道に通底している日本思想に対する造詣の深さに感嘆させられる。それを西欧の騎士道、西欧思想と比較対照させ、圧巻の東西思想対比に成功している。

 「武士道(Chivalry)は、日本の表徴たる桜花と同じく、日本の国土に固有の花である。それは我が国の歴史の標本として保存されている古代の徳の干乾びた見本ではない」で始まる「武士道」はベストセラーとなり多くの国で翻訳され版を重ねた。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、アラビア語をはじめとして17カ国語に訳され今も読み継がれている。

 駐米英国大使のブライス卿に「英文学の珠玉」と賞賛され、後にポーツマス会議を斡旋するセオドア・ローズベルト大統領が、60冊買って知人に配りまくったと云う逸話も残されている。当然、日本でも出版され、諸氏が訳している。一番有名な版は、昭和13年(1938年)に岩波文庫版として刊行された矢内原忠雄訳の「武士道」であり、新渡戸自身が日本語で著した版は存在しない。

 本来であれば、新渡戸の英文「武士道」は、和英両方を語学的にも思想的にも同時に知ることのできる必須教本となってもおかしくはないが、戦後はなおさら日の目を見ていない感がある。その理由はここでは問わない。

 この年、次のような動きが並行している。夏目漱石がロンドン、日本画家の竹内栖鳳がパリ、新劇を提唱する川上音二郎は貞奴とともにニューヨークへ、長岡半太郎がパリの第1回国際物理学会議に出席をし、翌年は滝廉太郎がライプチッヒへ行った。内村鑑三が「聖書の研究」、与謝野鉄幹が「明星」、泉鏡花が「高野聖」、徳富蘆花が「自然と人生」を著わしている。政治上ではドイツの3B政策、中国で義和団事件が発生している。孫文は恵州で蜂起するも失敗。科学ではプランクの量子定数の発見、メンデルの遺伝法則の再発見、パブロフの条件反射、フロイトの「夢判断」、ヴントの「民族心理学」が著わされ、ヒルベルトが23の数学問題を提示している。

 れんだいこのカンテラ時評№1025  投稿者:れんだいこ 投稿日:2012年 5月 2日
 【新渡戸稲造「武士道」考その3】

 かく名声を不動のものにした新渡戸のその後は険しかった。その責が新渡戸自身に帰するものは何もないように思われる。新渡戸の理想と献身を受け入れなかった当時の世相こそ疑惑されるべきではなかろうか。

 新渡戸の行政的功績に、台湾赴任時の「糖業改良意見書」提出がある。これが台湾に於ける糖業業発展の基礎を築いている。「住民の利益を尊重する」という考え方のもと行われた稲造の台湾での植民政策は歴史的に見ても特筆される。その後帰国し、1903(明治36)年、京都大学教授となり、台湾での実績をもとに植民政策を講じている。1906(明治39)年、第一高等学校長に就任。東京帝国大学法科大学教授(植民政策担当)を兼任する(農学部教授兼任ともある)。稲造は一高校長として欧米的な自由で革新的教育方針のもとに生徒を教育し、結果的に多くの立派な人材を社会に送り出している。

 1916(大正5)年、東京貿易殖民学校長に就任。1917(大正6)年、拓殖大学学監に就任。1918(大正7)年、 東京女子大学初代学長に就任し、その設立に尽力している。その後、日米交換教授としてアメリカに渡る。

 1920(大正9)年、59歳の時、国際連盟設立に際して、教育者にして「武士道」の著者として国際的に高名な新渡戸が国際連盟事務次長に抜擢されジュネーブに滞在する。こうして日本人初めての国際機関における重要ポストの就任者としての栄誉を得ている。この時期、新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を努めたウィルソン米国大統領の意向により否決されている。

 エスペランティストとしても知られ、1921(大正10)年、チェコのプラハで開催された世界エスペラント大会に参加している。1922(大正11)年、はノーベル賞受賞者を主な委員として、教育、文化の交流、著作権問題、国際語の問題などを審議する知的協力委員会を発足させたが、この委員会は現在のユネスコの前身にあたり、今もその精神は受け継がれている。1925(大正14)年、 帝国学士院会員に任命される。1926(大正15)年、7年間務めた事務次長を退任。貴族院議員に選ばれている。この頃から各地を講演してまわりながら三本木、盛岡、札幌とゆかりの地を訪ねていく。

 1928(昭和3)年、札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。1929(昭和4)年、満州事変の2年前、太平洋問題調査会の理事長に就任。同年、京都で開催された第3回太平洋会議で議長を務めた。同年、学監を務めた拓殖大学の名誉教授に就任。翌年には英文大阪毎日で“Editorial Jottings”(編集余録)連載を開始する。1931(昭和6)年、故郷岩手県の産業組合中央会岩手支会長に就任、また東京医療利用組合設立へも尽力し活動は様々な方向への広がりをみせた。

 同年9月、満州事変が勃発、日本への非難が高まり日米関係が悪化していくと「太平洋のかけ橋」としての役割をはたすべく奔走する。同年、上海で開かれた第4回太平洋会議に出席し、日中関係の改善を模索する。満州事変を境に日本は国際社会からの孤立を深め、ことに米国との対立が深刻の度を増して行った。この頃、松山講演で「我が国を滅ぼすものは共産党と軍閥である」と発言し、これが新聞紙上に取り上げられ、軍部や左翼の激しい反発を買っている。帝国在郷軍人会評議会で陳謝する。

 1932(昭和7)年、日本軍部の大陸侵略が強まるさなか、日米関係が悪化した事を感じた稲造は反日感情を緩和する為に渡米し、1932(昭和7)年だけでも全米で都合100回にわたる講演をしている。出渕駐米大使とともにフーバー大統領を訪問、さらにスチムソン国務長官との対談をラジオ放送でおこなうなどして日本の立場を訴えたが奏功せず。

 1933(昭和8)年3月、日米関係改善の目的を達成できぬまま帰国する。その直後、日本が国際連盟を脱退する。1933(昭和8)年8月、カナダのバンフで開かれた第5回太平洋調査会会議に日本代表団団長として出席するため渡加。日本側代表としての演説を成功させる。その一ヶ月後、当時国際港のあったカナダの西岸ビクトリアで倒れ永眠する(享年71歳)。生誕の地である盛岡市と客死したビクトリア市は新渡戸が縁となって現在姉妹都市となっている。1984(昭和59年).11.1日発券の五千円札の肖像画に登場している。

 かく生き抜いた新渡戸をどう評すべきか。明治、大正、昭和の御代を生き、日米文明の架け橋を企図していた新渡戸は、その意にも拘わらず、次第に悪化していく日米関係の波に揉まれて行くことになった。それは不可抗力に抗う蟷螂の斧のような献身を余儀なくされた。それを承知で営為したのが新渡戸の履歴である。この頃の心境を歌に託して親しい友人に書き送っている。「折らば折れ。折れし梅の枝、折れてこそ 花に色香を いとど添ふらん」。

 これをどう評すべきか。これが、新渡戸評の第三点にならなければならない。我々は、この新渡戸的生き様と深く対話すべきではなかろうか。話を戻せば、2012年現在のお粗末至極な政治、それも極め付きの売国奴どもによる政治的放縦が目に余る。これを指弾し決別する為にも、新渡戸的営為は再評価されるべきではなかろうか。新渡戸が岩手県の出身であることも興味深い。この地の者には何やら武骨にして反骨の叡智が宿されていると窺うのは、れんだいこだけだろうか。以上、前置きして新渡戸著「武士道」の薫陶を得たいと思う。

 2012.5.2日 れんだいこ拝

【新渡戸稲造「武士道」考その4、翻訳を終えての感想記と翻訳術公開】
 ようやく、極めて楽しく「新渡戸稲造 武士道」の翻訳を終えることができた。ここで、その総評を記しておく。読めば当然分かるが、稲造は、武士道について全17章に亘って言及し、各章それぞれ洞察良く丹念に書き上げており且つどの章も面白い。個別の章の批評は別の機会に譲る。当時、本書がベストセラーになったのには十分な根拠があったと云わざるを得ない。日本人が英文で書き、それが世界のベストセラーになった本が本書以外にあるのだろうか。ないとすれば、本書は百年来の快挙と言えるのではあるまいか。この快挙は未だ破られていないと云うことになる。それほどの記念碑的著作が現代日本に読まれていないのは解せないことであろう。こたび、れんだいこが現代和訳文で読み易くして市場に提供したのは実に、これまた快挙かも知れない。それはともかく、以下、気づいたことを書き添えておく。

 一つは、本書は英語学習の好テキストである。そもそも何万字の単語、何百通りの文法が使われていることだろう。コンピューターで解析すれば明らかになろう。ユニークなことは、現代日本語に使われている和様英語もかなり多いことである。訳しながら、このことに気づかされた。本書は且つ日本語学習としても歴史学習としても十分に耐えられるものである。つまり一石三丁になつている。故に、今後に於いては、老若男女問わずの日本人総員向けの必須学習文献の地位を得るべきであると推奨しておきたい。反動どもで占められている文部科学省がそのように動くことはあるまいが、政権を代えトップを代えれば可能性もあろう。

 一つは、翻訳能力についてコメントしておく。一般に翻訳は、当然のことながらまず当の英語に習熟していなければできない。従って、翻訳者の要件の第一は英語力になる。但し、幾ら英文に通じても、それを母国語で翻訳する能力がなければできない。従って、翻訳者の要件の第二は国語力になる。但し、原文が言及しているところの意味なり解釈を能くする為には、当の内容に通じていなければならない。従って、翻訳者の要件の第三は専門力になる。この「外国語力、母国語力、専門力」の三点セットが翻訳者の要件になる。これは当たり前のことであるが確認しておく。付言しておきたいことは、この難事がかってより容易にできる時代に入っていることである。これにはパソコンを使ってのインターネット利用が関係している。インターネットの能力を使えば、かってより割合容易に翻訳ができるようになったと云うことである。よって、意志さえあれば誰にでもできることになった。そう、れんだいこもである。このことに感謝したい。

 次に、翻訳の態度及び手法についてコメントしておく。最初に述べておきたいことは、極力原文に忠実であらねばならぬと云うことである。これはかなり広範囲に要求される。一つは、原文を一字一句正確に訳すこと。原文のニュアンス、リズムを正確に伝えること。原文の肯定否定を逆に訳さないこと、原文の強調又は抑制部分を逆に訳さないこと、原文にあるものは訳し、ないものは挿入しないこと。注は末尾で確認すべきであり、原文の中で為すのは却って読みにくくしており、そういうこともあって必要最小限にすること。等々であろう。れんだいこ訳はこれを常に念頭に置いている。この当たり前のことをなぜ明記するかと云うと、れんだいこの知る訳本が必ずしもこの原則に忠実でないからである。中には明らかに意図的故意の誤訳さえ罷り通つている。これらを何として嗜めようぞ。

 次に、翻訳の共有化についてコメントしておく。翻訳の共有化とは、互いが利用し合うことを言う。今これが例の著作権規制により格段に難しくされつつある。小人閉居して不善を為すの例え通りに、徒に著作権棒を振り回して得意がり正義ぶる手合いが後を絶たない。元々の粗脳が変な学習をすることにより小難しく云い始めたり、事をするに入り口で規制しなかなか内容に入らせない癖があるが、これを地で行っている感がある。この連中に対する説教は不能であるので、我々は我々の共有領域を拡大して対抗せねばならない。我々の知育形成上由々しき事態になっているので厳しく対抗せねばならないと考える。

 以上、どれも留意し且つ大事にしたい作法であることを申し上げておく。最後に「れんだいこ式翻訳術」を公開しておく。参考にしていただけたら本望です。まずホームページにフォルダをつくる。次に章ごとにサイト化する。次に、そのサイトに該当文を転載する。次に、該当文を段落化する。ここで一本線引いた後、段落内の文章を一文ごとに仕分けして、その下に行を設け、既存の翻訳文を転載する。なければ書き移して行く。次に、原文、既成翻訳文を睨みあわせて自前の翻訳文を上書きしていく。この時、辞書(ネット上にもある)を活用する。最後に、和訳文一括サイトを作り、文章訂正する。こうしてできあがる。これなら誰でもできるので挑戦してみてください。但し、著作権がうるさいので、この道中でのサイトアップは慎んで、できあがった順に公開した方が良いかもしれない。

 2012.6.11日 れんだいこ拝

【履歴考1】
 新渡戸稲造(1862-1933)の履歴は次の通りである。

 1862(文久2)年8月3日(新暦9月1日)、現在の岩手県盛岡市の盛岡鷹匠小路下ノ橋の邸にて南部藩士にして藩の勘定奉行を務める新渡戸十次郎と母・せきの、の三男として誕生する。新渡戸の自伝によると、「父は江戸留守居役も仰せつかった藩の重臣。彼は完璧な紳士で、あらゆる文武の才芸に精通しており、自邸の一角に“無刀流”の素人道場を開いていた」と云う。

 祖父の新渡戸傳(つとう)は、家老と意見が合わず藩を飛び出した後、一念発起して江戸と故郷を結ぶ材木商に転身し大成功している。この頃、「旗本株を買わないか」という話があり、「武士はもうこりごり」と断っている。そこへ南部藩からの帰参要請があり、これに応え、遂には勘定奉行に登用されたと云う。幕末期に荒れ地だった南部盛岡藩の北部・三本木原(青森県十和田市付近)で灌漑用水路・稲生川(いなおいがわ)の掘削事業を成功させ、稲造の父・十次郎はそれを補佐し都市計画や産業開発も行った。この三本木原の総合開発事業は新渡戸家三代(稲造の祖父・傳、父・十次郎、長兄・七郎)に亘って行われ十和田市発展の礎となっている。傳(つとう)の言は次の通り。
 「自分は武士であって金は一文もないが世の中には腐れ金が沢山ある。それを引き出して天下の為(ため)にしてやるのが大事である」。

 部下が金の心配をすると、「大丈夫。金は此(こ)の中にある」といって頭を指したと云う。

 稲造の曾祖父で兵法学者だった新渡戸維民(これたみ)は藩の方針に反対して僻地へ流され、祖父・傳も藩の重役への諌言癖から昇進が遅く、御用人にまでのぼりつめた父・十次郎もまた藩の財政立て直しに奔走したことが裏目に出て蟄居閉門となり失意のあまり病没している。従弟に昆虫学者の新渡戸稲雄がいるが31歳で早世している。


 幼名は稲之助。当時父、祖父が行っていた三本木原開拓の地域で初めてとれた稲にちなんで名づけられた。幼少期は武士の家の子の教育を受け学問に親しむ。1867(慶応3)年、5歳の時、父・十次郎が亡くなり藩内の賢婦人として名高かった母・せきの教育のもとに育つ。この頃、「き武士の一員になる儀式」が行われ脇差しの帯刀を許された。父の十次郎はこの式を目前にして他界しており、代わりに母のせきが式を執り行ったと云う。

 幕末から維新にいたる過程で、新渡戸家が奉公していた南部藩は逡巡(しゅんじゅん)のすえ奥羽越列藩同盟に加盟し、維新政府軍と戦う道を選んだ。新渡戸は、「私は、故郷の町が降伏したときのことをよく覚えている」と次のように述懐している。
 「私の一族は皆この敗北に深く心を痛めた。(中略) 叔父は殊(こと)にそうであった。祖父は平和な開拓事業に従事していたが、政治闘争の場に引っぱり出され、彼が担当していた地方の戦後処理の交渉に当たらねばならなかった。私の長兄は軽いけがを負って戦争から帰ってきた」。
 南部藩藩校・作人館(現•盛岡市立仁王小学校)に入学する。

 1871(明治4)年、9歳の時、祖父・傳の勧めにより叔父の太田時敏(傳の四男、太田家に養子)の養子となり、東京で学ぶ為、太田に連れられて兄道郎とともに上京する。これは南部藩の敗戦が新渡戸家に大きな変化をもたらしたことによる。祖父・傳は太田に稲造の教育方針について書面で伝えたなかの一文で次のように語っている。
 「わしにはこの孫の将来がみえる。正しく導くことができれば、国の誉れとなろうが、もし誤れば、最悪の悪党となる器の持ち主だ」。

 傳はこの年、78歳で逝く。

 上京後、学校の作文で一等賞を取って有頂天の新渡戸に太田は次のように云っている。
 「本当にうれしいのか? 偉大な賞を志す者は小事で満足してはならぬ。大志を抱け。公的機関の高官となり、名誉の殿堂入りを果たし、偉大な業績を残すのだ。そこを目指すのだ。くだらぬ褒美で喜ぶようでは、わしは情けないぞ」。

 次のような訓語も与えている。
 「勉強を続けるのだ。われわれ東北人も優秀であることを世に示せ。学問は一種のかけだから失敗することもある。そのときは御者(ぎょしゃ)になれ。鞭(むち)を手に馬車を走らせ、あの高慢な南の奴等(やつら)に道を譲らせるのだ」。

 上京に前後して太田家に後妻が嫁いできた。「私たち兄弟(稲造と病身の次兄)について、なにかと告げ口し、しばしばまったくの無実であるにもかかわらず、罪を負わせた」。新渡戸は、偶然に知り合ったある神職から「人間はだれしも自分自身の光明であって、その光に従って歩めば、だれに何を言われようとも、何でもできる」と聞かされ感動を覚える。後日、稲造は次のように述べている。
 「疑念が釈明で晴れることは稀(まれ)だし、悪意となると、もう拭(ぬぐ)いきれない。時間のみが解決してくれる。(中略)たとえ無実であろうとも、疑いを受けたという事実そのものが、私の性格にある弱点を証明するものだということが分かり始めた。このような場合の唯一の方策は、釈明することではなく、いかに生きるか、なのだ」。

 上京したとき、困ったのが言葉だった。次のように述べている。
 「日本語でチとツの区別ができなかった。いくど言われてもツ、チと云う音が出ない。またシとスの音も頗(すこぶ)る難物で、シをスとばかり云う。東北では往昔(むかし)からこの区別をしなかったらしい。(中略) 外国人につくと、chiがチ、tsuがツとすぐ覚えた。洵(まこと)に造作なく覚えた。(中略) ほどなく、概して私同様に東北出身の少年たちは、他の生徒よりはるかに上手に先生のことばを聞き分け、まねることができることに気づいた。これは英語の習得以上に、他の目的にも実用的な価値があった。なぜなら、東北なまりで話すと、情け容赦なくいじめられるので、時には本当に悲しくなり、ホームシックに陥る原因になったからだ」。

 1875(明治8)年、13歳の時、東京外国語学校英語科(のちの東京英語学校、大学予備門)に入学。この頃から生涯の親友となる内村鑑三(キリスト教思想家)、宮部金吾(植物学者)と親交を深める。

 1876(明治9)年、14歳の時、初夏、明治天皇が初めて東北巡幸を行い、三本木原(現在の青森県十和田市)を来訪したさいに宿舎に選んだのは、この地方の開拓に尽くし、5年前に亡くなった新渡戸の祖父、傳(つとう)が住んだ家だった。後年、新渡戸はつづっている。
 「私は東京にいた。あらゆる新聞が私たちの家に天皇がお寄りになられたことを報じた時、私は自分の家族の歴史と、私を将来待ち受けている責任の崇高さを感じ、天にものぼる思いだった」。

 新渡戸は、誠(彼は英語の「愛(ラブ)」の真意をこの言葉にみた)や平和、人生訓を語るとき、明治天皇の和歌を引いた。「めにみえぬ神のこころにかよふこそ人の心のまことなりけれ」、「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」、「なにごともおもふがままにならざるがかへりて人の身のためにこそ」などの歌を随所に引用している。彼の回想によれば明治43年に大逆事件が発覚したさい、辞表を出そうとする首相、桂太郎に明治天皇は次のように述べたと云う。「もし自分に神徳の備わってあるものならこんなことはあるべきはずがない。しかるにかくの如(ごと)きことのあるのは、自分が神徳を未(いま)だ完(まっと)うしないからだ。ゆえに出来るだけ法律の許す限り、罰を軽くせよ」。


 1877(明治10)年9月、15歳の時、父祖の志を継ぎ農学を修める為、内村、宮部と共に札幌農学校(のち北海道大学)の二期生として入学する。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した「少年よ大志を抱け」("Boys, be ambitious! )の名言で有名なウィリアム・クラーク博士は既に入れ違い米国へ帰国していた。当時、新渡戸は15歳で前年の試験にも合格していたのだが、最低年齢にまだ二歳足りないということで入学が許可されなかった。明治10年時点でもまだ最低年齢に足らなかったが、「当局者は親切にも私がいったいいくつになるのか数えなかった」のだという。


 入学動機について次のように綴っている。
 概要「札幌農学校は農学校という名ではあるが、その目的は農家の育成ではなく、国家の行政業務に堪えうるよう、若者を訓練することにある。そうすることで、本州からの移住者に新しい土地を提供し、新しい社会を造ることが可能となるのだ。その設立精神は、私のなかに生まれた大望にまさにぴったり合っていた」。

 
開拓は新渡戸家の“家業”であった。南部藩士だった祖父の傳(つとう)は数々の開拓事業を手がけたが、なかでも不毛の地とみられていた三本木原の開拓はのちの青森県十和田市発展の基礎をなした、として語り継がれている。同時に、「この仕事は人の同情を得ぬのみならず、人の邪魔を受けるものである。親(父の十次郎)の如(ごと)きは、開拓事業が間接の原因となつて非命の死(病没)を遂げた」とも書きしるしている。

 この時、母・せきは次のように諭している。
 概要「故郷を恋うような、弱い心ではなりませぬ。お前には大事な仕事があります。そのためには強い心をもたなくてはなりませぬ。年老いた弱い私でも別離の寂しさに耐えられるのですから、お前も耐えることができるし、耐えねばなりませぬ。しかも明るい心で。父や祖父の子といわれるように、偉い人にならねばなりません」。

 ある日の事、学校の食堂に稲造の名前が記された「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」の張り紙が貼られた。その時稲造は、衆目の前でその紙を破り捨て退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学を免れている。教授と論争になり熱くなって殴り合いになることもあった。「アクチーブ」(アクティブ=活動家、今で言うテロリストの意味合いもある)というあだ名を付けられている。

 クラークは、一期生に対して倫理学の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信していた。二期生も、入学早々一期生たちの伝道総攻撃にあい、「イエスを信ずるものの誓約」に署名入信していった。稲造は、自分の英語版聖書まで持ち込んでいたほど農学校入学前からキリスト教に興味を持っており、1878年、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らと共に函館に駐在していたメゾジスト系の宣教師M.C.ハリスから洗礼を受けた(洗礼名・パウロ)。こうしてクリスチャンとなり、友人達とともに信仰と勉学の日々を送った。この頃、「モンク(修道士)」のあだ名を付けられている。新渡戸の親友の回想は次の通り。
 「卒業前一、二年の頃より多読の結果思想に動揺を来たし殊(こと)に神学上の懐疑に陥り、憂鬱な人となつてしまひました。同級生はそこで新渡戸君を呼んで『モンク(修道士)』と綽名(あだな)したのであります」。

 1880(明治13)年、18歳の時、10年ぶりに札幌から帰省した。「ハハキトク」の電報と入れ違いに帰郷した稲造は、母の死を知らずにその亡骸と対面する事となった。稲造は後に、母からもらった手紙を一巻の巻き物にして、母の命日には一人静かに部屋に引きこもりそれを開くのを習慣としていた。

 1881(明治14)年初夏、19歳目前の時、札幌農学校卒業。1882(明治15)年、「北海道の開拓に尽力したい」として官庁・開拓使御用掛、農商務省御用掛となる。新渡戸の親友が執筆した小伝によると、「大発生したイナゴ退治に奮闘した以外は役所に帰れば是と云ふ仕事もなく、自分の好きな英文学書を耽読(たんどく)してゐました」と云う。この頃、眼病を患い、上京して治療することになった。そうこうしているうちに、官有物払下げ事件という一大疑獄の舞台となった開拓使は廃止された。11月、北海道に戻り、札幌農学校予科教授として教鞭(きょうべん)をとる。

 1883(明治16)年、一念発起して再上京し、成立学舎英語教師を一時務めた後、東京大学(後の帝国大学、東京帝国大学)に入学する。この時、入学試験の面接官に「英文をやっていったい何をするつもりなのか」と担当教授に問われ、次のように述べている。
 「私は太平洋の橋になりたいと思ひます。日本の思想を外国に伝へ、外国の思想を日本に普及する媒酌になりたいのです」(新渡戸稲造「帰雁(きがん)の蘆(あし)」。

 その意は、「西洋と日本の物心両面の架け橋になる」と解せられる。大学で英文学と共に農政学、経済学、統計学を学ぶが、更なる研究を志して渡米を望むようになる。
 「苟(いやし)くも学に志す以上は、自分の知識発展、心の修養、人として己に羞(は)ぢず、(中略)人に卑しめらるゝも神に愛せられんには、第一己を磨かざるべからず、それには広い世界に出なければ、唯々(ただただ)遅れるのみ」。

 1884(明治17)年、22歳の時、「学問の道を極め、頂点に立ちたいなら日本にいてはだめだ」として私費留学でアメリカに渡り、アレゲニー大学、東部の名門ジョン・ホプキンス大学に入学し、経済、農政、歴史、英文学などを学ぶ。この頃、稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め、1886(明治19)年、ボルティモアの「友の会(Society of Friends)」の会員になり正式にクエーカー会員となっている。新渡戸稲造は日本の初めてのクエーカー教徒である。この時期にクエーカー派の集会であるモリス茶会で後に結婚することになるフィラデルフィア・クエーカーの名家の令嬢であったメアリー・エルキントンと出会っている。

 クエーカー(Quaker)あるいはキリスト友会とはキリスト教―プロテスタンの一つの教派である。17世紀にイングランドで作られた宗教団体である。人間の一人一人の心には内なる光が宿っており、人間はその光をしたがって生きるべきとする「内なる光」という理念を重んじている。キリスト教の基本教義は「普遍的な愛」である。その「普遍的な愛」と「神の愛」で、世界中の人々は救われるとしている。この教えが、新渡戸稲造のインターナショナリズム精神の中核になる理念となった。

 1887(明治20)年、苦学もまる3年がたとうとしていた頃、母校の札幌農学校から、彼を助教として迎え入れたうえ、さらに3年間、ドイツで農政学を研究するよう伝えてきたのだ。これにより渡欧しドイツのボン大学、ベルリン大学、ハレ大学で農政学、農業経済学、財政学、統計学などを学び、この後、マルティン・ルター大学、ハレ・ヴィッテンベルク(ハレ大学)大学にも聴講し、ハレ大学で学位論文「日本の土地所有、その分配と農業経済的利用について」を提出し農業経済学博士号の学位を得ている。1889(明治22)年、新渡戸の最初の著作「日米通交史」がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉文学士号を授与される。この前年、長兄・七郎が亡くなり、明治17年に既に次兄・道郎も亡くなっているので三男だった稲造が新渡戸家を継ぐ事となり、新渡戸姓にもどっている。

 この頃の逸話が次のように伝えられている。「学校で道徳や倫理を教えられないのになぜ、日本人は善悪の区別や廉恥を知っているのか」という、ある大学者の問いを数年間考え続けた。新渡戸が数字と数式を駆使した財政学や応用経済学にのめりこんでいた或る日、心中に声が轟(とどろ)いた。これが新渡戸が至った結論であった。
 「貴様(きさま)、統計表の紙片や数字の行列にのみ拘泥(こうでい)すると、詩歌の真味や芸術の巧妙、宗教の観念や人生の深意は悉(ことごと)く貴様を棄て去るぞ、(中略)貴様は血も肉も無い算盤珠(そろばんだま)の骸骨に化するぞ」。

 1891(明治24)年、30歳の時、再度アメリカに渡り、フィラデルフィアでドイツ留学中にも文通により心を通わせてきたメアリー・エルキントン(1857-1938、日本名:萬里)と結婚する。後に和解するが、当時はエルキントン家から強い反対があり、結婚式にメリー嬢の両親は出席しなかったという。「だれよりも理解する力をもつ人」という最高の伴侶との人生の始まりとなった。

 同年、帰国。札幌農学校助教授に任命され赴任する。農学関係科目だけでなく語学など多くの科目を受け持つと共に教務主任、図書主任なども兼ね多忙の日々を送る。1892(明治25)年、一子・遠益が生まれるが生後一週間余りで亡くなる。稲造の悲嘆は大きく、20年ほど後に執筆した「修養」の中で、その悲しみについて「子を失った悲しみは暫く口に出すことも苦痛だったが、最近やっとそれほどでもなくなった」と語っている。

 1893(明治26)年、エルキントン家で引き取って育てた孤児の女性が亡くなり、遺産1000ドルを万里夫人に残したとの事で送金があった。夫妻は相談して、それを資金に勤労青少年のための夜学「遠友夜学校」を設立する事とした。1894(明治27)年、札幌に遠友夜学校設立。この遠友夜学校は札幌農学校の生徒が中心となって教師となり、授業料は無料、教科書なども全て学校が用意する完全なボランティアで運営された。そして後に軍事教練を拒んだ事から廃校に追いやられるまで、50年間運営され約1000人の生徒を世に送り出し、中退者なども含めると6000人の生徒が学んだという。

 1897(明治30)年、35歳の時、札幌農学校教授として多くの授業をかかえ、舎監なども兼任するという余りの忙しさにより過労のため脳神経症となる。
 「三十五歳という男盛り、または人生の半ばにあるとき、私は重病となった」。

 札幌農学校を退官し、鎌倉、伊香保で転地療養する。療養中に「農業発達史」、「農業本論」をまとめ出版する。当初、国内で療養していたが、「治療は長期化する。できるなら日本を離れて気楽に暮らせるところで静養したほうがよい」という主治医の意見をいれ、札幌農学校を退職し、米国で転地療養を施すことになった。
 「私はなぜすすり泣かねばならないのだ?私は人生をまことに堅実に旅してきたし、すでにその折り返し点にいるではないか。たとえ精力的に働くことができなくとも、崇高な思索にふけることはできる。病床を瞑想(めいそう)の場とするのだ」。

【履歴考2、「武士道」(“BUSHIDO,THE SOUL OF JAPAN”)出版経緯考】
 翌年、職を辞し渡米し、カリフォルニア州で転地療養する。東部ペンシルベニア州に移る。

 1899(明治31)年、36才の時、ペンシルバニアで「武士道」(「Bushido-the soul of Japan, An Exposition of Japanese Thought」)を英文で執筆し始め、年末頃に書き終える。
 「武士道はその表徴たる桜花と同じく,日本の土地に固有の花である」(Chivalry is a flower no less indigenous to the soil of Japan than its emblem, the cherry blossom; nor is it a dried-up specimen of an antique virtue preserved in the herbarium of our history. )
という書き出しで始まっている。献辞に「過去を尊崇すること/サムライの数々の偉業を敬うことを私に教えてくれた/わが愛する叔父/太田時敏に/この小著を/ささぐ」と記している。同書で、武士道がいかにして日本の精神的土壌に開花結実したかを説き明かしている。次のように記されている。

 「武士道は最初、エリートの栄誉として始まったが、やがて国民全体の大望とインスピレーションとなった。庶民がこの崇高な道徳精神の頂点をきわめることはなかったけれども、大和魂は、島皇国の民族(フォルクス)精神(ガイスト)をうたうに至った」。
 「武士道の全ての教えは自己犠牲の精神によって完全にみたされている」。

 出版してまもない頃、次のように綴っている。
 「単純な神道の自然崇拝と祖先崇拝が武士道の基礎であって、中国の哲学やヒンドゥの宗教から借りたところは、その花であった-いな、(中略)花開く養いとなる肥料の働きをした-と信じたい気がつよくする」。

 
「内観外望」では次のように述べている。
 「ところで、武士道とはどんなものかといへば、要するに、その根本は恥を知る、廉恥(れんち)を重んずるといふことではないかと思ふ」。「武士道の特性は物のあはれを知ることである。あはれを知るといふのは、世の無常を悟り、悲哀を感ずることである。(中略)人の苦を見て、ああさぞ苦しからうと思ひ、弱(よわき)を扶(たす)けるとか、義を守るとかいふのも、総(すべ)て物のあはれを知るからである」。

 1900(明治33)年、フィラデルフィア(アメリカの最初の首都)の出版社The Leeds and Biddle Company, Philadelphia,USAから英文「武士道」を出版する。1905年には増訂版が出された。日本でも、フィラデルフィア版と時を同じくして英文版が出版された。「武士道」は刊行されるや、瞬く間に世界中で翻訳され世界的なベストセラーになった。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、アラビア語をはじめとして17カ国語に訳され今も読み継がれている。駐米英国大使のブライス卿に「英文学の珠玉」と賞賛され、後にポーツマス会議を斡旋する米国第26代大統領セオドア・ローズベルト大統領が感動し、60冊買って知人に配りまくったと云う逸話も残されている。子供たちにこう言ったという。
 「熟読しなさい。でも一つだけ注意がある。書中に『君公に忠』『帝王に忠』とあったら『君公』『帝王』という文字を消して、『米国旗』と書き入れなさい」。

 早大の祖、大隈重信は新渡戸にそう語っている。
 「私の直感では、アングロ・サクソンの思想は武士道が涵養(かんよう)した考えと合致する」。

 その後、日本語訳されたものがいくつか出版された。一番有名な版は、昭和13年(1938年)に岩波文庫版として刊行された矢内原忠雄訳の「武士道」であり、新渡戸自身が日本語で著した版は存在しない。英文では、武士道は最初では“chivalry”(騎士道)となっていて、途中から“Bushido”になる。日本でも明治41年に桜井鴎村による和訳が出たが、これは漢語の多い漢文調で、それなりの名訳ではあるものの、かえって漢籍の教養を必要とするようなものだった。そこで矢内原忠雄がわかりやすい日本語訳をつくり、これが岩波文庫に入った。
 
 この年、次のような動きが並行している。夏目漱石がロンドン、日本画家の竹内栖鳳がパリ、新劇を提唱する川上音二郎は貞奴とともにニューヨークへ、長岡半太郎がパリの第1回国際物理学会議に出席をし、翌年は滝廉太郎がライプチッヒへ行った。内村鑑三が「聖書の研究」、与謝野鉄幹が「明星」、泉鏡花が「高野聖」、徳富蘆花が「自然と人生」を著わしている。政治上ではドイツの3B政策、中国のと義和団事件が。孫文は恵州で蜂起するも失敗。科学ではプランクの量子定数の発見、メンデルの遺伝法則の再発見、パブロフの条件反射、フロイトの「夢判断」、ヴントの「民族心理学」が著わされ、ヒルベルトが23の数学問題を提示した。


 現在入手できる訳本は次の通り。

 「武士道改版」(岩波文庫、著者/訳者名 新渡戸稲造/著 矢内原忠雄/訳、発行年月 1984年00月)
 (http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=02885056

 「武士道 現代語で読む最高の名著」(三笠書房知的生きかた文庫 著者/訳者名 新渡戸稲造/著 奈良本辰也/訳・解説)、発行年月 1993年02月)
 (http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=18779540

【履歴考3】
 1899(明治32)年、日本初の農学博士を授与されている。1900(明治33)年の英文「武士道」を出版後、ヨーロッパ視察。パリ万国博覧会の審査員を務める。この頃、台湾総督府の民政長官となった後藤新平(同郷の岩手県出身で誼が続く)よりの2年越しの招聘を受けている。

 1901(明治34)年、台湾総督府民政部殖産局長心得として台湾に赴任する。新渡戸を台湾に推薦したのは田尻稲次郎・菊地武夫ら、決定したのは後藤新平と台湾総督の児玉源太郎と農商務大臣の曾彌荒助と云われる。民政局殖産課長、殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎総督に「糖業改良意見書」を提出し、台湾における糖業業発展の基礎を築くことに貢献している。「住民の利益を尊重する」という考え方のもと行われた稲造の台湾での植民政策は歴史的に見ても特筆される。


 この頃の逸話。 日本陸軍の偉才・児玉源太郎が台湾総督に就任し、一面識もない新渡戸を起用するという。明治20年代後半の頃のこと、児玉が陸軍次官として衆議院で答弁しているのを聴いていて、「なんとずるい人だろう」と思ったという。新渡戸は迷ったすえに台湾行きを決める。着任早々、新渡戸は児玉の次のような指示に遭う。「君が海外にあって進んだ文化を見て、その眼のまだ肥えている中に、理想的議論を聴きたい。実情を視察すればするごとに眼が痩せて来る。人はこれを実際論といふか知らぬが、われわれの望むところは君の理想論である」。常識を逆手に取った児玉の言であった。 新渡戸の児玉源太郎は次の通り。
 「(児玉は)頗(すこぶ)る脳の働きの電光石火の如(ごと)き人で、その動き方が全身に現れ殊(こと)に彼の眼の鋭いこと、人を射る如き光りは、われわれの稀(まれ)に見る所である」。児玉は“頭だけ”の人物ではなく、「エー・ビー・シーの心得もないほど西洋語は不案内であつたけれども、外国人に逢ふても更(さら)に引けをとらない。通訳者を傍(かたわら)に置いて話すのを聞くと、邦人と逢ふて話す如く、何の隔意もなく冗談を云ふたり、要談をするにも滞りがなかつた。それは何故(なにゆえ)かと云ふと、将軍(児玉のこと)の心に蟠(わだかまり)がないからである」。

 児玉の「肚の温か味」について新渡戸はこんな逸話も伝えている。
 「私の旧主筋である南部家の若伯爵が日露戦争に出征したさい、ロシア兵が自分の骸(むくろ)を見たとき、日本の軍人として恥ずかしくなくしておきたいと言って剃刀(かみそり)と香水一瓶を求めた-といった話を児玉大将にしたことがある。その間児玉大将は大きな眼からダラダラ涙が流れるのを拭おうともせず、軍服がビッシヨリぬれるのも構わなかつた。天真爛漫(てんしんらんまん)とはかくの如きを形容するものならん」。

 総督府民政長官の後藤新平について次のように記している。
 「(前略)今まだ小役人であるが必ず頭を上げるだらうと思ふ、医者の出で後藤新平といふ、何(な)んでも君の県の男ぢやないか」。
 「最も敬服した一事は、事を起す前に、新人といふべきか、未(いま)だ試験を終らず、世に知られてない未知数の人を捜し求めて、仕事に当らしめることに心懸(こころが)けてゐた一点である。自分自(みず)から、長い間埋木(うもれぎ)の経験をなめてゐただけあつて、常に隠れたる人物を訪ねてをつた」、「生来多感の人で、涙に頗(すこぶ)るもろい人であつた。話のみを聞けば如何(いか)にも強さうで、折には残酷かとも思はれる節もあつたけれども、その行(おこない)においては失敗者でも前科者でも悔改(くいあらた)めて来たる者には、更(さら)にこれを拒む風はなかつた」。

 伊藤博文の韓国統監時代、新渡戸は日本人の農業従事者を朝鮮半島に移住させるよう勧めたことがあった。「朝鮮は朝鮮人のためのものだ」という持論を譲らない伊藤を“懐柔”しようとする中央政府の意向を受けたものだったが、伊藤は新渡戸に対してこう力説したという。
 「君、朝鮮人はえらいよ、この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本より遙(はるか)以上であった時代もある。才能においては決してお互いに劣ることはないのだ。然(しか)るに今日の有様(ありさま)になったのは、人民が悪いのじゃなくて、政治が悪かったのだ」。

 1903(明治36)年、台湾総督府臨時糖務局長と兼任で京都大学教授となり、台湾での実績をもとに植民政策を講じている。翌年から京都大学教授専任となり、1906(明治39)年、京都大学より法学博士の学位を受ける。1906(明治39)年、第一高等学校長に就任。東京帝国大学法科大学教授(植民政策担当)を兼任する(農学部教授兼任ともある)。1913(大正2)年に退任し東大専任教授となるまでの6年間、稲造は一高校長として欧米的な自由で革新的教育方針のもと生徒を教育し結果的に、多くの立派な人材を社会に送り出している。しかし、当時は学校内外の保守的な人々から批判を受けそのため退官する事となる。


 1909(明治42)年、実業之日本編集顧問となる。1911(明治44)年、初の日米交換教授として、アメリカの大学でも講義を行ない「日米のかけ橋」の役割も確実に果たしていく。またこの頃から「婦人に勧めて」を執筆するなど当時立ち後れていた女子教育にも熱心に取り組む。1916(大正5)、 東京貿易殖民学校長に就任。1917(大正6)年、拓殖大学学監に就任。1918(大正7)年、 東京女子大学初代学長に就任し、その設立に尽力した。青年教育に情熱を注いだ時期となる。稲造の教育は一貫して「人格教育」を重視するもので、教え子たちにはコモンセンス(常識)の重要性を教えている。その後、日米交換教授としてアメリカに渡る。

 1920(大正9)年、59歳の時、国際連盟設立に際して、教育者にして「武士道」の著者として国際的に高名な新渡戸が国際連盟事務次長に抜擢されジュネーブに滞在する。こうして日本人初めての国際機関における重要ポストの就任者としての栄誉を得ている。この任に推したのは珍田捨巳と牧野伸顕、決定したのは後藤新平と云われている。この時期、新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を努めたウィルソン米国大統領の意向により否決されている。エスペランティストとしても知られ、1921(大正10)年、チェコのプラハで開催された世界エスペラント大会に参加している。

 1922(大正11)年、ノーベル賞受賞者を主な委員として教育、文化の交流、著作権問題、国際語の問題などを審議する知的協力委員会を発足させたが、この委員会は現在のユネスコの前身にあたり、今もその精神は受け継がれている。1925(大正14)年、 帝国学士院会員に任命される。1926(大正15)年、7年間務めた事務次長を退任。貴族院議員に選ばれている。この頃から各地を講演してまわりながら三本木、盛岡、札幌とゆかりの地を訪ねていく。


 1928(昭和3)年、札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。1929(昭和4)年、満州事変の2年前、太平洋問題調査会の理事長に就任。同年、京都で開催された第3回太平洋会議で議長を務めた。同年、学監を務めた拓殖大学の名誉教授に就任。翌年には英文大阪毎日で“Editorial Jottings”(編集余録)連載を開始する。1931(昭和6)年、故郷岩手県の産業組合中央会岩手支会長に就任、また東京医療利用組合設立へも尽力し活動は様々な方向への広がりをみせていた。

 同年9月、満州事変が勃発、日本への非難が高まり日米関係が悪化していくと「太平洋のかけ橋」としての役割をはたすべく奔走する。同年、上海で開かれた第4回太平洋会議に出席し、日中関係の改善を模索する。満州事変を境に日本は国際社会からの孤立を深め、ことに米国との対立が深刻の度を増して行った。この頃、松山講演で「我が国を滅ぼすものは共産党と軍閥である」と発言し、これが新聞紙上に取り上げられ、軍部や左翼の激しい反発を買っている。帝国在郷軍人会評議会で陳謝する。


 1932(昭和7)年、日本軍部の大陸侵略が強まるさなか、日米関係が悪化した事を感じた稲造は反日感情を緩和する為に渡米し、1932(昭和7)年だけでも全米で都合100回にわたる講演をしている。出渕駐米大使とともにフーバー大統領を訪問、さらにスチムソン国務長官との対談をラジオ放送でおこなうなどして日本の立場を訴えたが、アメリカ世論を敵にまわしてしまい、「渡米は松山事件からの保身のための行動」との大きな誤解を受ける。

 この頃の心境を歌に託して親しい友人に書き送っている。
 「折らば折れ。折れし梅の枝、折れてこそ 花に色香を いとど添ふらん」。

 1933(昭和8)年3月、日本、アメリカ両国で多くの友人を失い、日米関係改善の目的も達成できぬまま帰国する。 その直後、日本が国際連盟を脱退する。その後の5ヶ月間、稲造は死を予感する人のように旧知の人々を訪ね、三本木の祖父の墓・太素塚や盛岡などを訪問しており、同年7月には以前から気にかけていた「唐人お吉」ゆかりの地をたずね、お吉が入水した渕に慰霊のため「お吉地蔵」を建立する事を人に頼んだ。


 1933(昭和8)年8月、カナダのバンフで開かれた第5回太平洋調査会会議に、日本代表団団長として出席するため渡加。日本側代表としての演説を成功させる。新渡戸稲造は昭和8年、死の直前のカナダでの講演の最後を、こう締めくくっている。
 「異った国民相互の個人的接触こそ、悩み多き世界に測り知れぬ効果をもたらすものではないだろうか。世界中より参じた国民の親密な接触によって、やがて感情ではなく理性が、利己ではなく正義が、人類並びに国家の裁定たる日が来るであろうことを、私がここに期待するのは、余りに大きな望みであろうか」。

 その一ヶ月後病に倒れ、10.15日、当時国際港のあったカナダの西岸ビクトリアで倒れ永眠する(享年71歳)。生誕の地である盛岡市と、客死したビクトリア市は、新渡戸が縁となって現在姉妹都市となっている。1984(昭和59年).11.1日発券の五千円札の肖像画に登場している。





(私論.私見)