いかに苦しいことがあっても、ヤケになるのは短慮の極みである。逆境にある人は常に、「もう少しだ」と言って進むといい。やがて必ず前途に光がさしてくる。 |
勇気がある人というのは、心の落着きが姿にあらわれているものです。 |
武士道は知識を重んじるものではない。重んずるものは行動である。 |
世の中には、譲っても差し支えないことが多い。 |
信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である。 |
人間は、それぞれ考え方や、ものの見方が違うのが当然である。その違いを認め合い、受け入れられる広い心を持つことが大切である。 |
真の学問は筆記できるものではない。真の学問は行と行との間にある。 |
「例へば、宗教家が神は存在するといふ。これは事実とはいへない。けれども真理である」(新渡戸稲造『内観外望』) |
日本の神話の神々は、ほんとうに人間的であり(ドイツ語でいう「自然人(ナトゥアメンシェン)」であろう)、いつもいつも最敬礼に値するというわけではない。その一方で、この神々は、その卓越した道徳性によってほとんど至尊の域にまで達することがある。その高みを、われわれは謹んで随神(かんながら)とよぶ》(新渡戸稲造『編集余録』)
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日本の教育に対して最も留意する新渡戸稲造は教育勅語について次のように述べている。
「すでに見たように、国民倫理体系は忠君愛国を強制したが、これまでその目標に達したことはなかった。こんな体系は狭い基礎に立てられているから、人間の魂には狭すぎる。−もちろん失敗するにきまっている。(中略)その名に直する宗教は、全人を認めなければならぬ。そして国家は、人間の全体を包括しはしない。
人間は国家より大きい。人間は自分の内に、この世の国や、国家の一切の主張を超越するものを待っている。人間の無限の魂を、国家の限られた枠組の中に閉じ
込めることはできない」(新渡戸稲造『日本』p.265)。 |
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新渡戸稲造によると、理想的な教育とは「活ける人間を造る」である。言い換えれば、身に付けた知識や学問などを活用しなければならない。教育者に対して次のように述べている。
「要するに、教育者が注意す べきは、活ける社会に立ち万国に共通し得べく厳正にして自国自己及び自己の思想に恥じず、実際の人生に接して進み、世界人類に貢献する底の人物を造ること
に在るなり」。 |
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新渡戸稲造は盛岡のある田舎での小学校に訪ねた時、子供たちに「なぜ学校へ来るんだろう」と質問した。一人の女子小学生は、「学問を身につけるためです」と答えた。引き続き、新渡戸は「学問を身につけるのはなぜだろう」とまた質問した。ほかの学生は「知識を磨くためです」と答えた。新渡戸は又、「知識を磨く
とはどういう意味なのか」という質問したが、誰も答えず、先ほど答えた学生も「私はわかりません」と答えた。このことに関して次のように述べている。
「教育の多くは、あるきまり文句を教えられたとおりに機械的にくりかえすことであって、その意味については、若い魂は何一つ解っていないのである」(新渡戸稲造『編集余録』p.2)。 |
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「昔は士(さむらい)といふと、一種の階級であつた。今はさうではない。社会的の階級でなく、頭の階級である。相当な教育を受けたものは、みな士となるものである。学士などは即(すなわ)ち士だ。士格のものである。士は所謂(いわゆる)指導者である。英語でいふリーダーである」(新渡戸稲造『内観外望』)。 |
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彼は晩年、「故郷」についてこう語っている。
「吾々は日本に生まれた以上、日本人の皮を着替えるわけにはゆかない。私など、生国を去って勉学に出たのは八歳の時であったが、六十余歳の今日なお東北弁が抜けない」。 |
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「知的好奇心は日本民族の特徴で、この点では私も完全に日本人であった」(新渡戸稲造『幼き日の思い出』)。 |
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「急がば回れだ。休むなかれ、急ぐなかれ」(新渡戸稲造『編集余録』)。 |
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《どれほど自負心があっても、私は自分を良い少年だったとも、賢い少年だったとも主張できない。私は元気いっぱいですばしっこく、口達者。どちらかといえば、甘口のアンファン・テリブル(恐るべき子供)であった》。 |
『ちょっとした誇りと羞恥の心が入り交じった気分のまま告白する。私は少年のときから、「好き嫌い」を超越しようとつとめてきた』(新渡戸稲造『編集余録』) |
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《嫌いな人に会ったとき、私はわき上がる感情を抑えようと一生懸命になったし、人を好きになったときは、その気持ちを押し殺すよう全力を傾けた》 |
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「日本人から何度いはれても、わからなかつたことが、外国人から教はつて、すぐ覚える。これは何とも不思議でならない」(新渡戸稲造『内観外望』)。 |
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「大学に入つて何の職業に就(つ)いて、何ほどの月給をもらふかなどといふことは、抑々(そもそも)末のことで、もつと大きなところへ到達しなければならない」(新渡戸稲造『内観外望』) |
《過酷な気候との不断の闘いはそのまま、北国に住む人びとの社会的・個人的発展を困難にさせる大きな要因である。北国の人びとに愛想のよさや市民生活を送るうえでの楽しみは欠けているとしても、彼らは不屈の精神と自立の精神において、南国の兄弟に優(まさ)っている》 |
《近年しばしば大學(だいがく)は職業教育であつては困るといふやうな批評を耳にしたやうだが、日本などは古い頃から、學問は全く一つの職業教育であつた》とは『遠野物語』の柳田国男の評論の一文だが、新渡戸の大学観はちがうようだ。
《大学の教育となつて来ると(中略)単純なる良民といふことだけでなく、良民のリーダースを造るのである》《「教育とは学校で習つたことを悉(ことごと)く忘れた、その後に残つてゐるものをいふのだ」(中略)これは実に穿(うが)つた言葉である》 |
冒頭を含め、晩年の新渡戸の大学教育論である。(文化部編集委員関厚夫) |
「若い人たちは、自分たちは絶対年を取らないとでも思っているのだろうか。人生のうち、青春として知られる時期ほど短いものはない」(新渡戸稲造『編集余録』) |
《僕は幼年時代より人に逢ふときは、一見してその欠点を発見した。この性質があつたから、大概の人を見ては癪(しゃく)に障り、従つて不愉快を感じた》 |
《是(これ)は為(し)てはならぬと思ふことをなし、考へまじと思ふことを考へ、日に幾度となく、自分が自分の癪に障つた。僕は是は生涯中の最大不幸である、最大欠点であると思ひ、之が矯正に気づいたのは、僕が十六歳の時であつた》 |
《今日はささいなことで希望に満ち、明日は同様のことで落ち込む。こうした魂の気候変動は、有為転変の人生の縮図と呼ばれる》(文化部編集委員関厚夫) |
「我(わが)国民に一種の道心がある。武士道と名を付けて見た。其(それ)は書物に習はず、謂(い)はゞ以心伝心で今日までも伝(つたわ)つた遺伝的道徳の一大系統である」(新渡戸稲造『帰雁(きがん)の蘆(あし)』) |
「ラヴと云ふ言葉にピツタリ当嵌(あては)まるものはないかも知れないが、誠といふ言葉には、英語のラヴも、何もかも含まれてゐるやうである」(新渡戸稲造『西洋の事情と思想』) |
《正直に告白すると、名誉をむさぼる心は、二十歳から三十歳の間で、火の如(ごと)く燃えて青年に最も強いといはれる恋愛の念までも、この名誉心、功名心のために弱まつた程である》(『人生読本』) |
《なにがひとの魂を満たすのだろう。名誉を与えられても、それは空虚なものであることがわかってしまう。富を与えられたとて、飽きてしまう。知識を与えられると、さらに欲しくなる。ただ愛、純粋で無私の愛だけが、この永遠の疑問に答え、この無限の渇望を満たしてくれるのである》(『編集余録』) |
《赤ん坊をあやす母の輝く瞳や幼児のおぼつかない言葉。また、通りすがりの見知らぬ人が浮かべる微笑や、苦悩する英雄のやさしきため息。こうしたもののなかにわれわれは愛の存在を感じることができる》(文化部編集委員関厚夫) |
「数世紀の試練を乗り越えた書物のなかに我々は、困窮における富、悲しみにおける歓喜、そして孤独における絆を見いだすのである」(新渡戸稲造『編集余録』) |
「人間の伸々(のびのび)するのは、頭で伸びるのではない。肚(はら)で伸びるのである。この肚に温か味があつて、始めて人間が伸びる」(新渡戸稲造『内観外望』) |
■「私は外国人の交際振(ぶり)を見る毎に、日本人が交際の術の拙(つたな)いことを嘆かないことはありません」(乃木希典(のぎ・まれすけ))
盛岡(南部)藩出身で名著『武士道』の著者、新渡戸稲造は、長州藩出身の陸軍大将で、日露戦争後、学習院長となった乃木希典と浅からぬ縁があった。初対面は明治30年代半ば、新渡戸が台湾総督府の高官だったころ。彼の事務室に乃木が突然来訪し、「礼儀正しく、温味(あたたかみ)のある挨拶(あいさつ)」とともに、乃木の盟友で彼の後任の台湾総督だった児玉源太郎のことを「何卒(なにとぞ)助けてやってください」と頼んで帰っていったという。そして明治40年代初めごろ、旧制第一高校長だった新渡戸は、学習院長の乃木の招きで学習院の同窓会大会で講演し、《学問の目的は知識にあらずして、人物の陶冶(とうや)にあ》り、《殊(こと)に社会の上流にある者は、茲(ここ)に意を注ぐべきを力説した》。当時、学習院中等科に在籍していた近衛文麿が《あれくらゐ感動したことはなかった》と回想した名演説だった。乃木は壇上に赴き、新渡戸の右手をかたく握って言った。「私自身がかねがね言いたいと思っていることを悉(ことごと)くお述べくださり、返す返すもお礼を申し上げます」。冒頭は、「いつも紳士だった」という乃木があるパーティーで新渡戸にささやいたことば。「殊に私達の仲間(軍人)には、その方面に無頓着の者が多くて困ります。戦時の心掛(こころがけ)は結構ですが、平時、親交国の人に武装してかかるのは感服出来ません」と笑いながら続けたという。(文化部編集委員関厚夫)
■「かたらじとおもふこゝろもさやかなる月にはえこそかくさざりけれ」(乃木希典(のぎ・まれすけ))
明治天皇の大喪がとり行われた大正元(1912)年9月、学習院長の陸軍大将、乃木希典が自刃した。内外に波紋を広げたこの殉死について乃木の最も誠実な代弁者となったのが、自殺を禁じられたクリスチャンで、旧制第一高校の校長を務めていた新渡戸稲造だった。
《自殺の宗教的さらには道徳的な正当化を主張するものと私を理解してほしくない。しかし、名誉を崇高なものとする価値観は、多くの者にとって自己の生命を絶つさいにあまりある根拠となった》
1900年に発表された『武士道』のなかで、新渡戸が切腹を解説した一節である。そして12年後、乃木の殉死について新渡戸はこう論じた。《私はあらゆる方面によい影響を及ぼすだらうと思ふ。但(ただ)し之(これ)は乃木さんの心事を明(あきら)かにすればの話で、(中略)私は何処(どこ)までも自分一人の皎潔(こうけつ)な心事から起つた事で、万乗の君に対して済(す)まない、部下のものに対して済まなかつたといふ、義務の観念、責任の観念から起つたものと信ずる》。この文章でも新渡戸は《勿論(もちろん)私は決して自殺を奨励するのではない》と強調し、その上で次のように結んでいる。《武士道といふものを斯(こ)う考へて居る。アレは世界的のものでない。一国の道徳である。(中略)此(この)限りある範囲の武士道といふものから見ては乃木さんの死は実に一分の余地も残さぬ実に立派なものと思ふ》(文化部編集委員関厚夫) |
■「知性でなく品性が、頭脳でなく魂が研究され、はぐくまれてゆく対象として選ばれるとき、教師の職業は聖職としての一歩を踏み出す」(新渡戸稲造『武士道』)
新渡戸稲造は、のべ四半世紀にわたって教師だった。旧制第一高校の校長となったのは明治39(1906)年。その在任期間は約7年間におよんだ。
《時には随分失礼な諧謔(かいぎゃく)や逆襲を敢(あえ)てしたのであったが、寛宏な先生はクックッと笑ひながらよく東北なまりで、ブチヨク(侮辱)だな、と仰せられた(中略)あのくらゐ城壁を撤して心から後輩門弟と談笑せられた人は他に類例を見ない》
ある卒業生の回想だ。一方で新渡戸は夢の中にあっても「3つの精神」で生徒たちに接し、それらを伝えようとした。
その第一は、《忠君愛国。言葉ではない。その精神を日常生活にあらはすといふ事である。口で忠々(ちゅうちゅう)いふのは雀(スズメ)か鼠(ネズミ)かと古人も言ってる》。第二に《一(ひとつ)の型にはめると云ふことは最も教育の本旨にもとって居る》ということ。最後に《品行よりも品格といふ事》だった。
そして、離任のときがきた。
「我輩(わがはい)は策略を知らぬ男である。何もかも打ち明けて諸君に接して来た。(中略)何故(なぜ)か未(いま)だに理由はわからないけれども、世間の人々が我輩に人身攻撃を加え、果ては諸君と我輩とを離間しようとさえした事を確かに聞いているが、諸君がそれにも拘(かかわ)らず常に我輩を助けてくれた其(そ)の厚意は、不肖死すとも忘れない」。離任演説の最後半である。新渡戸の声は震え、生徒で満員の会場は涙につつまれたという。(文化部編集委員関厚夫)
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