古事記編纂考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.6.8日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、古事記編纂事情を確認しておく。


【古事記編纂経緯考】
 古事記(フルコトフミとも読む)の序文に、編集に当っての次のような事情が記載されている。

 673年、天武帝の「現在散乱する我が国の歴史書は虚実入り乱れていると聞く。そこで稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習(しょうしゅう)して詠むところの歴史を記録し、我が国の正しい歴史として後世に伝えようと思う」という詔(みことのり)で編纂が開始された。天武帝は完成を待たず崩御、持統、文武の時代を経てやっと元明女帝に献上されることになる。
 「ここに天皇(天武)詔(の)りたまひしく、『朕(われ)聞きたまへらく、『諸家のもたる帝紀および本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふ』といへり。今の時に当たりて、その失(あやまり)を改めずは、未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなんとす。これすなはち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実(まこと)を定めて、後葉(のちのち)に流(つた)へむと欲(おも)ふ』とのりたまひき。

 時に舎人(とねり)ありき。姓(うぢ)は稗田(ひえだ)、名は阿禮(あれ)、年はこれ二八。人と為り聡明にして、耳に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳に拂(ふ)るれば心に勒(しる)しき。すなはち、阿禮に勅語して帝皇日継(すめらみことのひつぎ)及び先代旧辞(さきつよのふること)を誦み習はしめたまひき」。
 「運(とき)移り世異(かわ)りて、未だその事をおこなひたまわざりき」。
 「(元明天皇は)ここに、旧辞の誤りたがへるを惜しみ、先紀の謬り錯(まじ)れるを正さむとして、和銅四年九月十八日をもちて、臣安麻呂に詔りして、阿禮阿禮の誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上せしむるといへれば、謹みて詔旨(おおほみこと)の随(まにま)に、子細に採りひろひぬ。然れども、上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなお)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し。・・・

 大抵記す所は、天地開闢より始めて、小治田(をはりだ)の御世に訖(をは)る。故、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)以下、日子波限建鵜草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)以前を上巻となし、神倭伊波禮毘古天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)以下、品蛇御世(ほむだのみよ)以前を中巻となし、大雀皇帝(おほさぎのみかど)以下、小治田大宮(をはりだのおほみや)以前を下巻となし、併せて三巻を録して、謹みて献上る。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首 和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶」。

(私論.私見)

 これによれば、古事記編纂に先立ち、諸家の帝紀、本辞(旧辞)があったことが分かる。別名として「帝皇日継」(すめらみことのひつぎ)、「先代旧辞」(さきつよのふること)とも記されている。これを仮に「正真正銘の古史古伝」と命名する。「正真正銘の古史古伝」は何文字で書かれていたのかも分からない。恐らく、今日では痕跡が消えている古日本文字で書かれていたのではなかろうか。そういう意味で、古事記は万葉仮名で「帝紀を撰録」、「旧辞を討覈」したものと云うことになる。

 2011.8.6日 れんだいこ拝

 711(和同4).9.18日、元明天皇の御代、元明天皇が、大安万呂(おおのやすまろ)に命じて稗田阿礼詠みまとめていたところの歴史書の編纂の詔を下す。

 712(和同5).正月28日、元明天皇の御代、大安万呂は、天武天皇の命を受けて始めた国史として古事記3巻を編纂し、持統、文武の時代を経て元明天皇に献上した。物語風に編纂されているところに特徴がある。これが我が国初の国史書となった。実際には古事記以前の国史書の存在も推定できるが残存しておらぬ為、古事記が史上最も古い国史書と云う歴史的地位を獲得している。

 古事記編纂の伏線として、620年頃、聖徳太子が蘇我馬子と共に作った天皇記、国記が存在する。但し、大化の改新の時に焼失したとされている。

 古事記には偽書説、創作説等がある。しかし根底に何らかの史実を反映していることは疑いない。特に日本書紀との絡みで、内容の同一的な箇所と食い違う箇所、日本書紀にはない記述、古事記にはないが日本書紀にはある記述との比較が注目される。

 2006.12.4日 れんだいこ拝

【古事記の構成考】
 古事記は三巻より成る。万葉仮名と云われる漢字を用いて大和言葉で表記されている。

 その構成は次の通りである。
上つ巻 カミツマキ 序・神話篇。天御中主神からウガヤフキアヘズの命まで。
中つ巻 ナかツマキ 初代の神武天皇から十五代の応神天皇まで。
下つ巻 シモツマキ 第十六代の仁徳天皇から三十三代の推古天皇まで。

 神代における天地(あめつち)の始まりから推古天皇(在位592〜628)の時代に至るまでのさまざまな出来事(神話や伝説等を含む)を収録している。また数多くの歌謡を含んでいる。

 2006.12.4日 れんだいこ拝

【】
 「森の余白」の2005.10.25日付ブログ「稗田阿礼は男か女か」によれば、「稗田阿礼(ひえだのあれ)女性説」が存在すると云う。平田篤胤が云いはじめで、その著「古史徴開題記」で、「弘仁私記」という平安時代に行われた日本書紀の講義の記録の序文に「阿礼はアメノウズメの末裔である」という記述があることに注目し、唱え始めた。アメノウズメは高天原系の神で、スサノオの乱暴に怒って岩戸ごもりしたアマテラスを天の岩戸から引き出すため、神々が宴会を催した際に乳房と女陰を露わにしてストリップ・ダンスをした逸話で知られている。

 古代の宮廷には猿女(さるめ)という、天皇の霊的活力の回復と強化を目的とする鎮魂祭で神楽の奉仕をする女性宗教者がいた。この猿女の祖神もアメノウズメであり、稗田氏の女性がその任についていた記録がある(「西宮記裏書」)。篤胤は、阿礼─アメノウズメ─猿女という方程式を着想し、阿礼女性説を唱えた、と云う。

 この説は、文献解読に重きを置く実証史学の立場からは永らく相手にされなかったが、民俗学者の柳田国男が「妹の力」所収の「稗田阿礼」の中で受け継ぎさらに補強した。柳田の影響力は大きく、民俗学におさまらず宗教学、国文学においても阿礼女性説の支持者が生まれることになった。現在、この説の有力な論者の一人が西郷信綱氏(「古事記研究」、「古事記注釈」)だと云う。

【太安萬侶の実在】
 「」。
 1979(昭和54).1.20日、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から、古事記の編纂者である太安万呂の墓が発見され、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と共に墓誌が出土した。墓誌の最初の「世紀の発見者」は竹西英夫(奈良市田原此瀬町四四四)氏。

 銅製墓誌銘は次のように記されていた。
 左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
 年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳 

 これにより、太安萬侶の実在が明らかとなったばかりでなく、太安萬侶が723(養老7)年に死亡したことが明らかになった。墓誌により位階や本籍地、卒年も確たるものとして認識されるに至った。古事記と日本書紀が完成した時に安萬侶が生存していたこともはっきりした。安萬侶の実在と古事記偽書説の反証が裏付けられたことになる。

  古事記と日本書紀の相関関係を確認しておく。通常、記紀として一括されているが、次のような考察が必要とされる。一つは、時間的に見てどちらが先に記述されたのか。二つ目は、どちらが主なのか。三つ目は、記述の性格にどういう違いが認められるのか。四つ目は、互いがどう補完しているのか。

 書紀は完成翌年の721年に早くも宮中において講義が行われている。それは時には七年にも及ぶほどの本格的なもので、わかっているだけでも康保(こうほう)二年(965年)までに七回行われている。古事記についてそのような勉強会が行われた形跡は全くない。




(私論.私見)