古事記編纂考 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.6.8日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、古事記編纂事情を確認しておく。 |
【古事記編纂経緯考】 | |||||
古事記(フルコトフミとも読む)の序文に、編集に当っての次のような事情が記載されている。 673年、天武帝の「現在散乱する我が国の歴史書は虚実入り乱れていると聞く。そこで稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習(しょうしゅう)して詠むところの歴史を記録し、我が国の正しい歴史として後世に伝えようと思う」という詔(みことのり)で編纂が開始された。天武帝は完成を待たず崩御、持統、文武の時代を経てやっと元明女帝に献上されることになる。
711(和同4).9.18日、元明天皇の御代、元明天皇が、大安万呂(おおのやすまろ)に命じて稗田阿礼詠みまとめていたところの歴史書の編纂の詔を下す。 712(和同5).正月28日、元明天皇の御代、大安万呂は、天武天皇の命を受けて始めた国史として古事記3巻を編纂し、持統、文武の時代を経て元明天皇に献上した。物語風に編纂されているところに特徴がある。これが我が国初の国史書となった。実際には古事記以前の国史書の存在も推定できるが残存しておらぬ為、古事記が史上最も古い国史書と云う歴史的地位を獲得している。 古事記編纂の伏線として、620年頃、聖徳太子が蘇我馬子と共に作った天皇記、国記が存在する。但し、大化の改新の時に焼失したとされている。 古事記には偽書説、創作説等がある。しかし根底に何らかの史実を反映していることは疑いない。特に日本書紀との絡みで、内容の同一的な箇所と食い違う箇所、日本書紀にはない記述、古事記にはないが日本書紀にはある記述との比較が注目される。 2006.12.4日 れんだいこ拝 |
【古事記の構成考】 | ||||||||||||
古事記は三巻より成る。万葉仮名と云われる漢字を用いて大和言葉で表記されている。 その構成は次の通りである。
神代における天地(あめつち)の始まりから推古天皇(在位592〜628)の時代に至るまでのさまざまな出来事(神話や伝説等を含む)を収録している。また数多くの歌謡を含んでいる。 2006.12.4日 れんだいこ拝 |
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「森の余白」の2005.10.25日付ブログ「稗田阿礼は男か女か」によれば、「稗田阿礼(ひえだのあれ)女性説」が存在すると云う。平田篤胤が云いはじめで、その著「古史徴開題記」で、「弘仁私記」という平安時代に行われた日本書紀の講義の記録の序文に「阿礼はアメノウズメの末裔である」という記述があることに注目し、唱え始めた。アメノウズメは高天原系の神で、スサノオの乱暴に怒って岩戸ごもりしたアマテラスを天の岩戸から引き出すため、神々が宴会を催した際に乳房と女陰を露わにしてストリップ・ダンスをした逸話で知られている。 古代の宮廷には猿女(さるめ)という、天皇の霊的活力の回復と強化を目的とする鎮魂祭で神楽の奉仕をする女性宗教者がいた。この猿女の祖神もアメノウズメであり、稗田氏の女性がその任についていた記録がある(「西宮記裏書」)。篤胤は、阿礼─アメノウズメ─猿女という方程式を着想し、阿礼女性説を唱えた、と云う。 この説は、文献解読に重きを置く実証史学の立場からは永らく相手にされなかったが、民俗学者の柳田国男が「妹の力」所収の「稗田阿礼」の中で受け継ぎさらに補強した。柳田の影響力は大きく、民俗学におさまらず宗教学、国文学においても阿礼女性説の支持者が生まれることになった。現在、この説の有力な論者の一人が西郷信綱氏(「古事記研究」、「古事記注釈」)だと云う。 |
【太安萬侶の実在】 | |
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1979(昭和54).1.20日、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から、古事記の編纂者である太安万呂の墓が発見され、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と共に墓誌が出土した。墓誌の最初の「世紀の発見者」は竹西英夫(奈良市田原此瀬町四四四)氏。 銅製墓誌銘は次のように記されていた。
これにより、太安萬侶の実在が明らかとなったばかりでなく、太安萬侶が723(養老7)年に死亡したことが明らかになった。墓誌により位階や本籍地、卒年も確たるものとして認識されるに至った。古事記と日本書紀が完成した時に安萬侶が生存していたこともはっきりした。安萬侶の実在と古事記偽書説の反証が裏付けられたことになる。 |
古事記と日本書紀の相関関係を確認しておく。通常、記紀として一括されているが、次のような考察が必要とされる。一つは、時間的に見てどちらが先に記述されたのか。二つ目は、どちらが主なのか。三つ目は、記述の性格にどういう違いが認められるのか。四つ目は、互いがどう補完しているのか。 書紀は完成翌年の721年に早くも宮中において講義が行われている。それは時には七年にも及ぶほどの本格的なもので、わかっているだけでも康保(こうほう)二年(965年)までに七回行われている。古事記についてそのような勉強会が行われた形跡は全くない。 |
(私論.私見)