昭和時代史4、2.26事件以降の流れ(1936年から1940年)

 (最新見直し2006.5.7日)

【以前の流れは、「昭和時代史3、2.26事件」の項に記す】

 (「あの戦争の原因」)からかなり引用しております。

 (れんだいこのショートメッセージ)



1936(昭和11)年の動き

【岡田内閣→広田弘毅内閣】

 岡田内閣は事件の責任をとり総辞職。元老西園寺公望が後継首相の推薦にあたった。次の首相に近衛文麿が推薦されたが、近衛は病気と称して辞退し、一木枢密院議長が広田弘毅を西園寺に推薦した。西園寺は同意し、外相だった広田弘毅に組閣の大命が下る。陸軍は入閣予定者の吉田茂ら5名に不満があるとして広田に圧力を掛けた。広田は陸軍と交渉し、3名を閣僚に指名しないことで内閣成立にこぎつけた。この辺から陸軍の暴走や経済困難を乗り越えられそうにないため、首相になろうとする人物がいなくなる。

 3.9日、岡田首相の後を広田弘毅が継いだ。新蔵相には前日銀総裁の馬場が就任し、陸軍の意向に沿った国防予算を積極計上に転じ、歳出規模は井上財政末期(昭和6年度)の2倍以上、軍事費は3倍と言う膨張ぶりを采配した。

 内閣組閣で早速軍部の介入が始まる。組閣人事に口を出し要求を飲まなければ陸軍より大臣を出さないと脅し、広田首相これを飲む。「現役武官制」を復活させられることになった。以後、政治の主導権は完全に軍部、特に陸軍に握られることになる。


【準戦時経済体制】
 二・二六事件後成立した広田内閣の馬場蔵相は、公債削減政策の放棄、増税、低金利政策を発表。つづいて日本銀行の公定歩合の引き下げを求めて公債の大量発行の条件を整備する。さらに政府は次官以下の人事を一新して「革新」姿勢を示す。しかし、その実体は軍部主導による政策運営。この時点で内閣としては、暴走する軍部を押さえ込むのに手一杯で、とても軍事費そして公債の増大を押さえるところまで手が回らなくなる。

 その陸軍の政治的、経済的構想立案の中心は石原莞爾(参謀本部作戦課課長・大佐)。石原は昭和10年8月に陸軍中枢のこのポストに就いたが、その時彼は日ソ間の兵力差が年々開いていることに愕然とする。前年の6月時点でのその差3倍以上。特に航空機、戦車などは数でもその技術水準でもかなり劣っていた。これは満州事変での日本軍の動きを見て、脅威を感じたソ連軍が極東地方の軍備を増やしたことによる。このため石原は軍備強化を考えるが、昭和7年頃からようやく重化学工業が立ち上がったばかりの日本では航空機、戦車などの増産にはその産業的基盤が無かった。

 そこで石原はソ連に対抗する軍備を持つ為には、昭和16年頃まで一切外国と事を構えることなく、軍備拡充とその為の産業基盤の育成に専念すべきであり、その為には日本の産業構造の改革が必要と考える。この構想の具体的実現のため為に民間人から成る組織「日満財政経済研究会」を設け立案を委託。

 同研究会が出した計画書「昭和十二年度以降五年間帝国入歳出計画」の内容は、・財政に限らず、産業発展目標を重化学工業を中心に生産を2〜3倍に引き上げる。・これを日本7・満州国3の割合で実現する。・実現のため、日本国内の政治・行政機構を満州国に似た形の、官僚主導の体勢に改革する。簡単に言えば国家経済を統制し、軍需のための重化学工業化を強引に押し進める計画。

 こうして陸軍の一大佐、石原莞爾主導による政策「準戦時体制」が始まる。結局、昭和12年度予算で陸軍、海軍の軍事予算増大。予算も前年度から7億3000万円増えて30億3800万円に増大。その財源は赤字公債10億円弱と、大増税。法人所得税8割、個人所得税3割、相続税10割引き上げられる。これには財界からもう反発を受ける。

 また軍備拡張が声明されると、石油・鉄鉱石等の軍需物資の不足と先行きの値上がりを見越して、輸入が殺到する。このため輸入超過により国際収支は急激に悪化。大蔵省は「外国為替管理法」を改正し輸入を大幅に規制しようとする(これがいわゆる「官僚統制」の始まり)。しかし効果はなく、外国為替の支払いが困難になる。これにより馬場財政=広田内閣が行き詰まる。(「あの戦争の原因」)

 春頃、選挙。今まで5名の無産党系議員が23名。社会大衆党は18名。


 5.1日、帝国国防方針の改定。


 5.7日、民政党の衆院議員・斎藤隆夫が「粛軍演説」をしている。この日の日記に「満場静粛、時に万雷起る。議員多数、握手を求め、大成功を賞揚す」とある。


 5.18日、軍部大臣現役制復活。


 7.5日、陸軍刑務所内の特別法廷で参加将校たちの判決が下される。審議は非公開で進められており、弁護士もなし。裁判で決起の趣意を天下に明らかにしようとした青年将校たちの考えは甘かったのである。死刑=17名、無期=5名、禁固10年=1名、同4年=1名。特別軍法会議は一審のみで、上告は認められなかった。銃殺は2名を除いて7月12日朝、行われた。天皇のために生き、天皇のために死ぬことを誇りとしていた彼らは、「天皇陛下万歳」を叫びながら死んでいった。


 7.17日、スペイン内乱勃発。


 11.15日、内蒙古へ軍攻開始。


 11.25日、日独防共協定。


 12.12日、中国で、西安事件発生。これは、蒋介石国民党軍が第6次討共作戦を発動し、*西省の西安へ赴いたところ、張作霖の息子張学良一派に捕捉監禁され、共産党勢力に対する内戦の停止と抗日戦への取り組みを要求された。これに対し、蒋介石は「自分は脅迫されて書類に署名するよりは命を犠牲にする覚悟だ」と答え拒否した。いよいよ殺害の段になって、思いがけなくも共産党からの使者がやってきて、蒋介石の釈放を要求した。この背後事情にはスターリンの指示があり、カリスマ的な知名度を持つ蒋介石を生還させ、国共合作に向かわせることを良しとしていた。こうして、釈放された蒋介石と毛沢東を首班とする国共合作の再工作が始まった。


 12.24日、完成したばかりの議事堂に第70回議会が召集された。


【内閣情報委員会の設置】
 言論統制の中枢機関として内閣情報委員会が発足した。同委員会の職務が次のように語られている。
 「最近に於ける新聞通信の発達は言を俟たざるところとなるが、殊に無線科学の進歩に伴い、国内にありては放送施設により国民に直接ニュースを伝達し、国外に対してはいわゆる新聞放送により各国の新聞紙を通じて自国のニュースを弘布し、国内及び国際報道界に一大境地を展開するに至れり。故に今日に於いては、消極的に内務省の出版警察権あるいは逓信省の通信警察権による公安保持に止まらず、積極的にニュースの弘布に対し国家的批判を加え、国家の利益に資するところなかるべからず」(閣議決定「情報委員会の職務」)。

 積極的に民意を誘導し、国策世論を作り出す権力による世論操作の必要が明言されていることになる。このマスコミ操作が、新聞、放送、出版、映画、論評、その他あらゆるコミュニケーションメディアに及んでいった。

【国際政経学会の設置】

 この年、国際政経学会が設立された。監事・渡部悌治(1912年 山形県生まれ)。昭和20(1945)年の日本敗戦とともに占領軍によって解散させられ、その事蹟(じせき=成し遂げた業績)はひとかけらも残らないほど抹消された。


1937(昭和12)年の動き

 (この時代の総評)

 陸軍が、「97式艦上戦闘機」を完成させた。設計技師糸川英夫。やがて中国で使用され威力を発揮することになった。大東亜戦争初期の1942(昭和17)年において、マレー戦線、ビルマ戦線で英空軍機を撃墜し、制空権を確保することになる。


【満蒙開拓団】
 この年より向こう20年間に百万戸の農家、一戸5人として5百万の農民を内地から満州に移住させる計画を決めた。当時の全国の農家戸数560万戸の約2割を動かそうという遠大な計画であった。こうして、毎年、2万戸程度の農家が満蒙開拓団として満州に渡っていった。「青少年義勇隊」ももそれに併せて結成された。

 日満両国政府の合弁で移民団の受入機関「満州拓殖公社」が設置され、日本国内の総耕地面積に匹敵する560万ヘクタールの耕作可能地を用意して、ソ満国境近くの奥地にまで開拓団を送り、大豆やトウモロコシ、コーリャンなどを作る農機具や営農資金などを貸し与えた。

 実際に終戦までに移住したのは10万6千戸、31万8千人に止まり、しかも開拓農民の働き手が現地で軍隊に召集されたりするなど杜撰であった。

【広田内閣→林銑十郎内閣】
 1.21日、衆院本会議の代表質問で、浜田国松代議士が激しく軍部の政治関与を攻撃し軍の批判を行い、寺内陸相との間にいわゆる「腹切り問答」が発生した。政党と軍部の正面衝突となり、寺内陸相が辞任を余儀なくされる。1.23日、広田内閣総辞職にいたる。これは表向きの事情で、後に巣鴨拘置所で広田が語ったことによると外国為替事情の悪化がその真因であったと言われる。この後も貿易赤字は続き、3月、日本銀行は貿易の支払いのため昭和7年以来一切使わなかった「金」の現送を余儀なくされる。その額は3・4月だけで約1億1000万円。

 次に陸軍大将(予備役)宇垣一成に組閣の大命が降下していたが、陸軍が陸軍大臣を出さずに内閣不成立となり流産した。代わりに2.2日、陸軍大将の林銑十郎が組閣、首相になる。これは石原ら陸軍中堅幕僚が、政治力のある宇垣では自らのプランが押さえ込まれかねないと考え、軍官僚が御しやすい林を選んだためといわれる。陸軍内部を統制するねらいがあったが、国民から「軍部ロボット内閣」と呼ばれる。

 また、岡田内閣辞職とともに深井英五日銀総裁も退任した。その時、次のような意味の演説を行っている。「生産力の余剰を利用し、または容易に生産力を増進しうる時期はすでに去りつつある。今後は生産拡充に努めると共に物資の節約に努めなければならない」。

 この頃から物価の上昇が現れ始める。東京卸売り物価指数(昭和9〜11年平均=100)で見れば・昭和10年1月: 99.5%、・昭和12年1月:123.2%、・昭和12年4月:131.0%。インフレが始まる。

【林内閣総辞職】
 林内閣は、議会を解散した。総選挙の結果は反政府勢力が圧勝し、わずか4ヶ月で総辞職することになる。 5.31日、林内閣総辞職。林内閣は議会運営能力が無く、ほとんど何もできぬまま5月に総辞職、短命に終わる。この間インフレが始まり国民の政党政治(憲政)への不信感は頂点に達する。

【林内閣→第一次近衛内閣(昭和12〜13年 1937〜38年)】

 6.1日、組閣の大命は貴族院議長・近衛文麿に降下する。彼は五摂家筆頭、近衛家の当主で貴族院議長も勤めたこともある人物。天皇家に近く、各方面にも顔が利き、腐敗した既成政党とも一線を画し、さらに革新官僚達ともつき合いがあり、若い頃には特権貴族で有ることに悩み平民に成りたいと漏らしたこともある革新思想の持ち主であった。しかし、大臣経験もなく、いきなりの首相就任で異例の人事となった。国難打開のため新しい政治が求められており、それに応じてフレッシュなイメージの人気政治家である近衛が実務経験もなく首相として大抜擢を受けた。

 6.4日、第一次近衛内閣が組閣された。この時近衛文麿首相は45歳、その長身の容姿とあいまって清廉潔白な清新味が国民に期待され、軍部も政党も、右翼も左翼も歓迎した。近衛首相就任は国民の心を一時的に明るくさせた。彼は皇道派の意見にも一理あると認めており、国体改革の必要性も感じていた。

 但し、河辺虎四郎少将回想応答録では次のように記されている。「近衛首相、広田外相など当時は軍に『オベッカ』を使っておった政府であります。何事でも、『軍はどういう風に思っておるか』というて心配する非常に勇気のない政府でありまして、『軍に問うては事を決するというやり方で、政治的に全責任を負い、戦うも戦わざるも国家大局の着眼からやっていこうというものはなかったことをつくづく思います」。石射猪太郎日記では次のように記されている。「日本は今度こそ真に非常になってきたのに、コンな男を首相に仰ぐなんて、よくよく廻り合わせが悪いと云うべきだ。これに従う閣僚なるものはいずれも弱卒、禍なるかな、日本」(8.20日)。 

 蔵相には軍備拡張に甘い馬場蔵相留任を望む軍部を何とか押さえて大蔵省次官だった賀屋興宣が就任する。「政策は金融緩和と借金による財政支出、軍事費たれ流しで、財政赤字と国債はどうにもならないところまで進行していくことになる」と評されている。

 国際収支の一層の赤字拡大により経済実状はますます困難になっている。しかし近衛は石原莞爾の構想に理解を示し「日満財政経済研究会」が昭和12年5月作成した「重要産業5ヶ年計画」の遂行が近衛内閣の至上命題となる。この経済状態では通常では金融引き締めと財政支出引き締めが行われなければ成らないところで、全く逆の経済政策が採られて行く事になる。

 賀屋蔵相はこの状況下では思い切った政策なしでは事態の切り抜けは不可能と考え「財政経済三原則」を設定し経済政策の中心に据える。その内容は、・「生産力の拡充」・「国際収支の適合」・「物質需給の調整」つまり生産力を拡充させるが、国際収支の赤字累積が増えないようにしなくてはならず、その為に必要な物資を調整する必要がある、という考え。更に言い換えると、金も無いのに軍備拡充とその為の重化学産業を育成するという無茶な計画を実現する為には、日本全体の産業を統制し重要産業の優遇、非重要産業の設備縮小または廃止をはかる、そのために政府が国全体モノの流れとカネの動きを直接統制する必要があると言う構想。


【カンチャス島事件】
 6.19日、黒竜江の中洲にあるカンチャス島にソ連軍の正規兵が上陸し、満州国人を追放、拉致する事件が発生した。これを「カンチャス島事件」と云う。重光葵駐ソ大使の抗議によりリトヴィノフ外相はソ連軍の撤退を約束したが、約束当日の6.30日、ソ連の小艦艇三隻が島の南側水道へ侵入し、カンチャス島の関東軍に射撃を加えてきた。これに対し、関東軍は速射砲で応戦し、ソ連艦一隻を撃沈、ソ連側死者2名、負傷者3名の損害を出した。7.1日及び2日、重光・リトヴィノフ会談の結果、ソ連側はカンチャス島から一切の兵力を撤収し事件は解決された。

 7.3日、カズロフスキー極東部長が、西参事官の来訪を求め、「約1個中隊の日本兵が、隣の小島に上陸し、陣地を構築しているのは、重光・リトヴィノフ会談の約束に反する」と抗議した。これに対し、西参事官は、「日本側はそれら諸島からソ連軍の撤兵を要求したが、日本兵を入れないと約束した覚えは無い」と突っぱねた。これがノモンハン事件の伏線へなっていく。

【盧溝橋事件発生】

 7.8日早朝、北平近郊の廬溝橋で日中両軍の衝突が発生した。これを廬溝橋事件と呼ぶ。この衝突はわずかの間に華北全域に広がり、やがて上海にも飛び火、中国全土を巻き込んだ戦争へと発展していくことになった。以降8年間も続くことになる日中全面戦争の始まりである。

 この廬溝橋事件で最も驚かされるのは、その異常なエスカレーションぶりである。この事件のそもそもの発端はほんの些細なできごと(夜間演習を行なっていた日本軍部隊の頭上を何者かが発射した十数発の銃弾が通過した)に過ぎなかった。しかし、たったこれだけのことが、一晩のうちに大隊規模の軍事衝突にまで発展してしまう。さらに、いったんは収まりかけたこの衝突が、一月もたたないうちに日中の全面戦争にまで拡大することになる。

 どうしてこうなってしまうのか。この事件の詳細を追っていくとまず浮かび上がってくるのが、面子にこだわり、功をあせる日本軍現地指揮官たちの姿である。この事件の場合、「発砲」を受けた部隊を指揮していた中隊長清水節郎大尉、その上官である大隊長一木清直少佐、連隊長牟田口廉也大佐の三人が、あたかも互いに煽り合うかのようにして些細な出来事を大事件にまで拡大してしまう。とりわけ、兵士一名が行方不明というだけの理由で大隊に出動を命じ、ついで再び銃声が聞こえたというだけで攻撃を許可してしまった牟田口の責任は重大である。その上、当然こうした軍の暴走を押さえるべき立場にあるはずの政府(首相:近衛文麿)が、逆に自ら先頭に立って戦線を拡大してしまう。

 関東軍による鉄道爆破という謀略で幕を開けた満州事変以来、日本は些細な「事件」(それもしばしば日本側によるフレームアップ)をとらえては中国側に難癖を付け、強大な軍事力で威圧しつつ利権と支配領域を拡大していくという、*なし崩し的侵略*を続けてきた。この廬溝橋事件も、この侵略路線の延長線上でいずれは起こらざるを得ない、いわば歴史的必然だったと言える。皮肉なことに、満州事変を引き起こした「功績」によって出世を果たし、陸軍内部にこの流れを作り出した石原莞爾は、盧溝橋事件ではその拡大を防ごうとして、自分の過去を忠実にまねた「後輩」たちに敗れ去る結果になる。【盧溝橋事件 -- 謎のエスカレーションろ溝橋事件考、満州事変考


 7.27日、日銀総裁に結城豊太郎が就任する。彼は就任直後の金融懇談会の挨拶で、「金融業者は悪戯に採算だけの観点に囚われず、多少手元が無理でも国債の所有を増やしていただきたい。このため生産力拡充資金に不足を来すようでは困るので、日銀は積極的に努力するから遠慮なく申し込んで頂きたい。日銀に貸し出しを仰ぐことを極力回避すると言った伝統はこの際打破すべきである。」と言う趣旨の話をしている。

 はっきり言って、石原莞爾は満州事変を見ても分かる通り軍事テクノクラートとしてはずば抜けて優秀な人物ある。「作戦の神様」とさえ言われていた。しかしこれはあくまでも軍事に関することのみ。近衛文麿にしても見識才能ともに卓越した人物である。しかし何せ実務経験がほとんど無い。従って両人ともに経済問題に対してはド素人に近い。しかもこの時点において、高橋是清を筆頭とする経済問題について見識のある人物達は、死亡・引退で全て第一線から退いている。後に残っているのは改革派の軍人と、国体改革に燃える新官僚達のみ。この経済素人集団のがこの後の日本経済を方向づける事になる。

 9月この頃より我が国は急速に自由経済から統制経済へ移行していった。最初の戦時立法「輸出入品等臨時措置法」が公布され、後刻毛製品に対するスフの強制混入等繊維業界への統制が始まった。これが走りとなり、翌年の「国家総動員法」で準戦時体制から完全な戦時体制に移行する。


 9.2日、「蘆溝橋事件」による日本軍と中国軍の衝突事態は予想を超えて拡大し、「北支事変」が「支那事変」と呼称され、宣戦布告なき戦争へ向かっていくことになった。


 選挙。無産党系議員が42(←23名)。社会大衆党は37(←18名)。麻生も含めて最高点当選者19名、総得票数約百万票。
 1936−37年頃、迫り来る戦争の足音を前にして、コミンテルン派の小林陽之助、山本正美らを中心とする人民戦線が計画され、労農派の山川均、荒畑寒村、鈴木茂三郎ら、無産大衆党、全国評議会を中心に組織化されていった。

 麻生の指導する社会大衆党は拒否した。麻生は、1937.6月号の改造に次のように記している。「5.15事件以来5カ年間に、斎藤内閣2年、岡田1年半、広田1年、林3ヶ月なるに比して、社大党は3名から37名となった。鬱然たる政治勢力である。日本革新の展望はもはや左程遠方ではない」、「今後の問題は、現状打破、革新断行を為し得る革新的新政権が如何なる過程を辿り数年後に、如何なる勢力の合同の下に、如何なる形で出来上がるに至るかが問題であって、それが出来上がるべき方向は最早必至となりきたったのである」。「5.15事件は窮迫せる農民の絶望の表現として理解するのでなければ、その歴史的意義を汲み取ることは不可能であろう」。

【1937年の以降の動きは、「南京事件の直前の動き」の項に記す】


1938(昭和13)年の動き

 (この時代の総評)

 1.11日、御前会議で、対華国策決定。


【近衛首相が、「国民政府相手にせず」声明を発布】

 1.16日、近衛首相が、戦況が拡大する中で、独の仲介で和平の動きもあったが、「国民政府相手にせず」声明を発布した。「帝国政府は南京攻略後、シナ国民政府の反省に最後の機会を与うるため今日に及べり。然るに国民政府は帝国の真意を解せず、漫りに抗戦を策し内人民塗炭の苦しみを察せず、外東亜全局の和平を顧みる所なし。かくて帝国政府は爾後国民政府を相手とせず」云々(1938.1.17日付け「東京日々新聞」夕刊所載)。日華事変をいよいよ抜き差しならないものにしてしまった。


 2月、近衛内閣が、議会で国家総動員法、電力国有化法案を可決。


 3.13日、ドイツ、オーストリアを併合。


【国家総動員法成立】

 3.24日、国家総動員法成立。前年に成立した「統制三法」のお陰で、必要物資が殆ど軍需品に取られることになり、民需では全国的に物不足が深刻化してインフレが進む。政府は公定価格を設定し沈静化を狙うが闇経済が発達するだけ。そして支那事変の長期化により増大する戦費。昭和12年末の通常国会では、臨時軍事費として48億5000万円が提出される。(同じく提出された一般会計は35億1400万円。)この財源は公債と「支那事変特別税」でまかなわれることになった。

 さらに日本軍は兵器弾薬不足にも悩まされていた。近代戦においては莫大な数の弾薬を消費する。盧溝橋事件後6ヶ月で弾薬庫はほとんどからに近い状態になっていた。しかも日本にはこの莫大な消費に見合う生産能力がない。これらの問題を解決するため、昭和13年4月1日、企画院が提出した「国家総動員法」が成立。5月5日に施行される。

その詳しい内容は、

労働、物資、資金、企業、施設の動員統制
労働争議の禁止
新聞その他出版物の掲載、配布の統制
国民の職業能力の申告
技能者の養成
国民の物資の保有統制

等々。まさに国民生活全てを統制し(労働統制、物資統制、金融統制、価格統制、言論統制)、戦争に備えようとする法律。「国家総動員」体制の確立を理想として掲げてきた軍部と、それに接近していた革新官僚達による経済統制が実現段階にはいる。

 この法律は、「戦時に際し、国防目的達成のため、国の全力を最も有効に発揮せしめるよう、人的、物的資源を統制運用する」のを目的としており、我妻栄氏によると、「要するに、総力戦の始まったときに、議会の協賛なしに国内の総力を動員できるように、政府に対して広範な権限を与えておこうとする法律」であった。近代国家は司法・行政・立法の三権分立が基本である。それがこの法律では、戦時に限ってではあるが行政、つまり政府に臨時的に統制のための法律制定の権利が移る。これは政府が立法府、つまり国会から白紙委任状を受けたのと同じことである。国会は以後、完全にその機能の停止状態となり、軍部・政府の単なる言いなりになる機関となる。

 ちなみに、戦費は臨時軍事費特別会計により、戦争が終了した時点での一会計年度決算だったため、この時点で支那事変の戦費がどの程度掛かっていたのか不明の状態です。外から分からぬ内容のため軍部は好き勝手に予算を使えたようです。

 一般・臨軍両会計の歳入構成は、租税と公債の割合が11年度の時点では5対3だったものが、12年度以降は公債の方が多くなり、16年度には3対6にも達している。早い話、戦費の調達はほとんど公債の発行に頼る形になっている。この時点あたり、政府には公債発行を一定限度に押さえ込む考えは、全く無くなっています。


 5.19日、日本軍除州占領。


 5.26日、近衛内閣の改造で、宇垣大将が外相に就任。但し、在任僅か3ヶ月で辞任。板垣陸相就任。


【張鼓峰事件事件】

 7.11日、張鼓峰事件起る。突然ソ連兵が張鼓峰の頂上に現れ、満州側の斜面に陣地の構築を始めた。重大な挑発行為であった。


 この年8月、関東軍内部で支那事変不拡大を叫んで東条英機と対立していた石原莞爾は、病気療養を理由に勝手に帰国。12月には舞鶴要塞司令官に落ち着いている。


 8月、「経済警察」が発足し、この頃全国の警察署に経済保安係りが設置され、物資の横流しや闇値の暴利に目を光らせることになった。


 8月、米国に移住したアインシュタインが大統領に核爆弾の開発を促す手紙を送る。


 9月、ドイツがポーランドに侵攻。第二次世界大戦が始まる。


 10.21日、日本軍広東占領。


 10.27日、日本軍武漢三峰占領。


 11.3日、政府が東亜新秩序建設声明。「帝国が中国に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことにあり、帝国は中国国民が能く我が真意を理解し、以って帝国の協力に応えんことを期待す。固より国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構成を切替して更生の実を挙げ、新秩序の建設に来たり参ずるにおいては、敢えて之を拒否するものにあらず」。弱音を吐いている。


 12月、11.7日のドイツでの「水晶の夜」(クリスタル・ナハト)事件を受けて、この年に最高国策検討機関として設置された首相、陸相、海相、外相、蔵相の五相会議が開かれ、ユダヤ人問題を討議した。「ユダヤ人対策要綱」が決定され、板垣征四郎陸相の提案によって、ドイツのユダヤ人迫害政策が人種平等理想に悖ること、ユダヤ人を他国人と同じように構成に取り扱うべきことが明記された。


 12.30日、おう兆銘が和平反共救国声明。


 この年、ドイツでウランの核分裂が発見される。翌1939.8月、米国に移住したアインシュタインが大統領に核爆弾の開発を促す手紙を送る。


1939(昭和14)年の動き

(この時代の総評)

【第一次近衛内閣→平沼騏一郎内閣】
 1.4日、第一次近衛内閣が退陣した。経済政策と支那事変処理に行き詰まった近衛首相は疲れ果てて内閣総辞職に至った。後任には枢密院議長で国家主義団体国本社(右翼団体)の会長として政界官界の裏のボスで豪腕として知られていた平沼騏一郎が推挙された。

 1.5日、近衛内閣から大臣の殆どを引きついで平沼騏一郎内閣が組閣された。


 この頃、日本軍の日中戦争における行為は、国際的に非難を受けており、イギリス・アメリカ・ソ連は中国側に立ってこの紛争に干渉、中国に積極的に資金援助・武器供与をしている。これに対抗して陸軍はドイツ・イタリアとの軍事同盟を結ぶことを主張。しかし海軍は、この同盟を結べばアメリカと戦争になる可能性があるため反対に回る。

 平沼内閣は、同盟早期締結派の陸軍と、慎重派の海軍の対立に悩み続けることになる。
【ノモンハン事件】

 5.11日、関東軍が越境してノモンハンでソ連・外蒙古軍と戦った。「約90名の外蒙古軍兵士がハルハ河を渡河してきた。これに対し、関東軍が射撃した。それを起点として飛行機、戦車を繰り出す両軍の死闘が開始された」ともある。政府と大本営は不拡大方針を示したが、これに対し現地関東軍の辻正信少佐と服部卓史郎中佐が独断専行。彼らはソ連軍の能力を過小評価し、関東軍の実力を思い知らせて国境侵犯再発を防止するとして、この紛争に関東軍を本格投入。ソ連軍と関東軍の大規模な武力衝突となる「ノモンハン事件」に発展した。(当時のモンゴルとソ連との関係は、日本と満州国の関係に似たような関係です。)

 この間ソ連軍は西側の技術者を雇い軍事技術の革新に取り組んでいた。「今日のソ連軍は帝政ロシア軍とは違う」との警告が為されていたが、その危惧通り関東軍はいやというほど技術革新の差を思い知らされることになった。

 ソ連の空軍と戦車のキャタピラに蹂躙され、日本陸軍はこの戦闘で出動兵力の7割を失うという惨敗を喫した。スターリンがヒトラーと突然「不可侵条約」を結んだのは、この戦闘の最中のことである。


 石原莞爾の心配が的中し、ソ連軍の圧倒的兵力、強力な火砲と戦車の前に、派遣された関東軍は壊滅的打撃を受ける。戦闘の主力となった小笠原第第23師団では、人員1万6000名のうち戦死・戦傷・戦病が1万2000を越えた。連隊長クラスでも戦死・戦場での自決が相次いだ。ソ連軍の優秀な戦車に対して日本軍の戦車は全く歯が立たず、対戦車兵器として最も有効な兵器は火炎瓶だったと言うから酷いありさま。


 6.14日、日本、天津の英仏領租界封鎖。


 8.23日、独ソ不可侵条約成立。ソ連とドイツは、形式上同盟関係に入った。


 8.30日、この頃平沼内閣が総辞職している。その後「独ソ不可侵条約調印」を見抜けなかった為、「欧州情勢は複雑怪奇なり」の迷言を残して総辞職。


【平沼騏一郎内閣→阿部伸行内閣】

 9.1日、替わって組閣されたのが次の首相は陸軍大将(予備役)の阿部伸行内閣である。彼は政治的には何のキャリアも無かったが、とにかく陸軍を押さえ込むための起用された。特に何にもしないで総辞職することになる。


【第二次世界大戦が勃発】

 9.1日、ドイツ軍がポーランドに浸入し、第二次世界大戦が勃発した。ドイツ軍機械化部隊の目の醒めるような電撃作戦が、日本陸軍と国民を狂喜させた。


 9.15日、ノモンハン停戦協定成立。アジア方面にかまってられなくなったソ連との停戦協定が成立する。モスクワで東郷大使とモロトフ外相との間で、両軍の現在線での停戦に合意して停戦協定が結ばれた。この事件は日本側の参加兵力約6万、戦死・戦傷・生死不明者約2万の大事件だったにも関わらず、国民にはなにも知らされず闇に葬られる。

 この事件は当時の日本軍が、近代的軍隊としてはどの程度の実力か知らしめたものだった。この敗戦の責任をとらされ、関東軍では軍司令官と参謀長、大本営では参謀次長と作戦部長、実戦に参加した部隊でも軍指令官、師団長、連隊長が予備役になっている。しかしその真の敗戦原因の徹底究明は成されず、独断専行した辻・服部らの将校に対しても軍法会議も開かれず左遷のみ。

 最前線で戦い壊滅した第23師団の生き残った将校たちは自決を強いられ、またソ連軍に投降し停戦後に送還された将校達にも自決用のピストルを渡された。つまり関東軍参謀たち、及び関東軍上層部は、自らの責任は棚に上げ、日本軍の実力を直視することなく、第一線指揮官達がまともに働かないのが敗因である、と考えていたようです。


 この後、ヨーロッパでは世界大戦が本格化。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告。9.16日、ソ連は独ソ不可侵条約の密約によってポーランドへ進駐。9月27日、ワルシャワ陥落。


 1939年、重慶爆撃。


 11月、元憲兵大意・甘粕正彦が満映の二代目理事長に就任。甘粕は、関東大震災時に大杉栄、内縁の妻伊藤野枝、甥の橘宗一少年を虐殺し、軍法会議で懲役十年の判決を受けていた。が、2年10ヶ月服役後に出獄。その後、軍の資金でフランスに出向く。帰国後満州に渡り、清朝の廃帝・溥儀を天津から満州へひそかに護送し、情報・治安活動などを通じて満州国建国の功労者となっていた。満州国唯一の政党協和会の総務部長に就任し、「満州の甘粕」の異名をとっていた。

 この頃、上海に「中華電影公司」が日中折半出資で設立された。軍が満州以外の占領地対策として作った初の映画会社で、実質的な責任者は川喜多長政氏であった。「新京(長春)にテロリストと言われた元憲兵大尉率いる満映があり、憲兵に父親を殺された映画人が率いる中華電影が上海にできた。私は満映の女優でありながら上海で活動するようになる」(2004.8.13日付け日経新聞「私の履歴書」、山口淑子K)


 この年、アインシュタインが、「米国に於ける原爆開発」をルーズベルト大統領に進言する手紙を送る。ハンガリー出身の物理学者・レオ・シラードも署名。




1940(昭和15)年の動き

 (この時代の総評)


 海軍が、「零式戦闘機(ゼロ戦)」を完成させた。「ゼロ戦」も中国で使用され威力を発揮することになった。開発技師は堀越二郎。


 1.8日、東条陸軍大臣名で「戦陣訓」が出る。内容は、本訓その一、皇国・皇軍・軍紀・団結・協同・攻撃精神・必勝の信念。本訓その二、敬神・孝道・敬礼挙措・戦友道・率先躬行・責任・生死観・名を惜しむ・質実剛健・清廉潔白。本訓その三、戦陣の戒め・戦陣の嗜み、となっている。特に「名を惜しむ」の中の、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」の部分が有名。京都師団の石原莞爾はこれ読んで、「バカバカしい。東条は思い上がっている」と批判。東条は大いに怒り、石原は3月に予備役に編入された。


【阿部伸行内閣→米内光政内閣】 

 1.14日、阿部内閣総辞職。欧州戦争による物価の騰貴、対米交渉に失敗し、結局、阿部内閣は様々な問題に対して無為無策のまま首相の座は現役海軍大将の米内光政に交替する。 

 1.16日、米内光政内閣成立(米内(よない)光政)。

 しかし、やはり軍事同盟を巡って陸軍と対立。海軍としては、アメリカと戦争をして勝てる見込みがつかない。当時、海軍の仮想敵国はアメリカであり、その実力を良く認識していた。それに対して陸軍の仮想敵国はソ連、アメリカに対してはなめてかかっていた模様です。この間の目まぐるしい内閣の交替の間にもインフレと事変は泥沼化する。


 1.26日日米通商航海条約期限切れ、無条約時代に入る。マレー沖海戦。


【斎藤隆夫の除名問題発生

 2.2日、米内内閣成立直後の当時民政党の衆議院議員であった斎藤隆夫は、第75帝国議会2日目米内(よない)内閣の施政方針演説に対する代表質問で、丁度満3年目を迎えようとする日中戦争に関して、米内内閣の対応を問い、政府の日中戦争処理方針を巡って約1時間半に及ぶ大演説をぶった。戦争の終結条件は何なのか、政府に展望を示すように要求。支那事変の戦争目的と見通しについて明らかにせよと迫った。日中戦争が聖戦とされ、国民に無限の犠牲を要求していることを批判。東亜新秩序とは何か、それは空虚な偽善であると決めつけた。演説の後には拍手喝采が起こり多くの議員が賞賛した。しかしこれは聖戦を冒涜するものであるとの問題になり、斉藤は衆議院から除名される。これが特に陸軍から、「聖戦目的の侮辱、10万英霊への冒涜(ぼうとく)」であり、「非国民」と攻撃され、衆議院議員の除名へと発展した。この経過は、政党の分解作用に深刻な影響を与えた。

 この時の斎藤議員の質問要旨は、軍部が主導する戦争政策全体への批判で、その要旨は、「@・1938(昭和13)年1月の近衛声明が「支那事変」処理の最善をつくしたものであるか否か、A・いわゆる東亜新秩序建設の具体的内容とはいかなるものか、B・江兆銘援助と蒋介石政権打倒を同時に遂行できるのか、C・「事変」勃発以来すでに戦死者10万、国民にさらに犠牲を要求する十分な根拠を示せ」というものであった。「すべての戦争は力と力との衝突である。そうした戦争観を鏡とすれば、国際正義、道義外交、共存共栄、世界の平和等の美名を掲げて聖戦などと称することは、単なる虚偽にすぎない」。

 締めくくりを次のように述べている。
 「事変以来、我が国民は実に従順であります。言論の圧迫に遭うて国民的意思、国民的感情をも披歴することができない。政府の統制に服するのは何が為であるか。政府が適当に事変を解決してくれるであろう。これを期待しておるが為である。然るにもし一朝この期待が裏切られることがあったなら国民は実に失望のどん底に蹴落とされるのであります。総理大臣はただ私の質問に応えるばかりではない。この議会を通して全国民の理解を求められるのであります。私の質問はこれをもって終わりとします」。

 斎藤の演説は拍手喝さいで終わったが、軍部のみならず、議会内でも、時局同志会、政友会革新派、社会大衆党が斎藤を非難、憂慮した小山松寿衆院議長と斎藤が所属する民政党幹部は、斎藤に演説速記録中の以下の「不穏当」部分の削除を要求、斎藤も議長に一任、議長は職権で演説の後半部分すべてを速記録から削除した。なお、新聞社へは内務省から斎藤を英雄視するような記事の掲載は「まかりならん」との通達があった(「歴史のページ 」)。

さらに軍部の攻撃を恐れた民政党幹部は、斎藤に離党・謹虞を勧告、斎藤は同日党籍を離脱するが、これでおさまらず、衆議院懲罰委員会は満場一致で除名を決定、6日の衆議院本会議は、除名賛成296票、反対7票、棄権144票で可決した。

 「議事録から削除された斎藤演説部分」は次の通り。(2.3日付「東京日日新聞」参照)
 「国家競争は道理の競争ではない、正邪曲直の競争でもない、徹頭徹尾かの競争である。(中略) 弱肉強食の修羅道に向って猛進をしている、是がすなわち人類の歴史であり、奪うことのできない現実であるのであります。この現実を無視して、唯徒(ただいたずら)に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくの如き雲を掴むような文字を列ね立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤れるようなことがありましたならば、これは現在の政治家は死しても其の罪を減ぼすことはできない。(中略) 事変以来今日に至るまで吾々は言わねばならぬこと、論ぜねばならぬことは沢山あるのでありますが、是は言わない、是は論じないのであります。吾々は今日に及んで一切の過去を語らない、又過去を語る余裕もないのであります。一切の過去を葬り去って、成るべく速やかに、成るべく有利有効に事変を処理し解決したい、是が全国民の偽りなき希望であると同時に、政府として執らねばならぬ所の重大なる責任である。(中略) 然るに歴代の政府は何を為したか、事変以来歴代の政府は何を為したか、二年有半の間に於て三たび内閣が辞職をする、政局の安定すら得られない、こう云うことでどうしてこの国難に当ることができるのであるか、畢竟するに政府の首脳部に責任観念が欠けて居る。(中略) 国民的支持を欠いて居るから、何事に付ても自己の所信を断行する所の決心もなければ勇気もない、姑息愉安(こそくゆあん)一日を弥縫(びほう)する所の政治をやる、失敗するのは当り前であります」。

 斎藤隆夫「支那事変処理に関する質問演説」
 昭和十五年二月二日、第七十五議会における演説(いわゆる斉藤隆夫、反軍演説)

 支那事変が勃発しましてからすでに二年有半を過ぎまして、内外の情勢はますます重大を加えているのであります。このときに当りまして一月十四日、しかも議会開会後におきまして、阿部内閣が辞職して、現内閣が成立し、組閣二週間の後において初めてこの議会に臨まるることに相成ったのであります。総理大臣をはじめとして、閣僚諸君のご苦心を・十分にお察しするとともに、国家のために切にご健在を祈る者であります。

 米内首相は組閣そうそう天下に向って、現内閣の政策を発表せられたのでありまして、我々は新聞を通じてこれを承知致しておるのであります。しかしその政策と称するものは、ただわずかに題目を並べたに過ぎないのでありまして、諸般の政策はこの帝国議会において陳述すると付け加えてあります。 それ故に昨日のご演説を拝聴致したのでありまするが、相変らず抽象的の大要に過ぎないのでありまして、これによって、国政に対する現内閣の抱負経綸を知ることはもちろん出来ない。しかしながら私は今日この場合において、これらの問題、即ち第一は支那事変の処理、第二は国際問題、第三は国内問題、これらの三問題全部を通じて質問を致す時間の持合せもありませぬから、この中の中心問題でありまするところの支那事変の処理、これについて私の卑見を述べつつ主として総理大臣のご意見を求めてみたいのであります。

 支那事変の処理は申すまでもなく非常に重大なる問題であります。今日我国の政治問題としてこれ以上重大なるところの問題はない。のみならず今日の内外政治はいずれも支那事変を中心として、この周囲に動いているのである。それ故に我々は申すに及ばず、全国民の聴かんとするところももとよりここにあるのであります。一体支那事変はどうなるものであるか、いつ済むのであるか、いつまで続くものであるか、政府は支那事変を処理すると声明しているが如何にこれを処理せんとするのであるか。国民は聴たんと欲して聴くことが出来ず、この議会を通じて聴くことが出来得ると期待しない者は恐らくー人もないであろうと思う。

 さきに近衛内閣は事変を起こしながらその結末を見ずして退却をした。平沼内閣はご承知の通りである。阿部内閣に至って初めて事変処理のために邁進するとは声明したものの、国民の前には事変処理の片鱗をも示さずして総辞職してしまった。現内閣に至って始めてこの問題をこの議会を通して国民の前に曝け出すところの機会に到来したのであります。これにおいて私は総理大臣に向って極めて率直にお尋ねをするのである。支那竃変を処理すると言わるるのであるが、その処理せらるる範囲は如何なるものであるか、その内容は如何なるものであるか、私が聴かんとするところはここにあるのであります。

 私の見るところを直言致しまするならば、元来今回の事変につきましては、当初支那側は申すに及ばず、我が日本におきましても確かに見込み違いがあったに相違ないのであります。即ち我国より見まするならば、その初めは所謂現地解決、事変不拡大の方針を立てられたのでありまするが、その方針は支那側の挑戦行為によって立ちどころに裏切られ、その後事変は日に月に拡大し、躍進に躍進を重ねて遂に今日の現状を見るに至ったのであります。支那側の見込み違い、これは言うを要しないのであります。

 ここにご参考のために引用すべき文書があります。これは昨年十二月十三日、内閣情報部より発行せられたるところの「週報」でありまするが、この中に「支那事変を解決するもの」と題して支那派遣軍総司令部報道部長の名をもって一つの論文が掲載せられているのである。この中に如何なることが現われているかと見ると、「そもそもこの戦争は、支那人、ことに蒋介石の日本に対する認識不足と、その日本の実力誤算から出発し、また日本の支那に対する研究不足と認識不足とによって始められ、また深められて来た」云々と記載されてある。

 即ちこのたびの事変は支那が日本に対するところの認識不足、また日本が支那に対するところの認識不足、この二つの原因によって始められ、またこれが深められたものに相違ない。しかしながら翻って考えて見ますると、たとえこの認識不足なしといえども、日支両国の間におきましては早晩一大事変か起こらざるを得ないその禍根が、いずれの所にか隠れておった、その機運が熟しておった、それがかの北支の一角蘆溝橋における支那側の不法射撃、この事実に触れて外部に爆発したに過ぎないのでありまして、これは仕方がない、所謂運命であります。両国間にわだかまるところの運命でありますから、これは仕方 がない。

 しかしながらその後事変はますます進展して、彼我の勢力ならびに勝敗の決も明かになりました以上は、なるべく速やかにこの事変を収拾する、そうして出来るならば再びかくのごとき事変か起こらないように、日支両国の問に横たわる一切の禍根を斐除して、もって和平克復を促進することは独り日本の政治家の責任であるのみならず、実に支那の政治家の責任であると私は思うのであります、ただ□題はどうしてこれらの禍根を取り除くことが出来るか、どうしたならば将来の安全を保障することが出来るか。我々は支那の立場を考うるとともに、主として日本の立場を考えねばならぬのである。

 そこでまず第一に我々が支那事変の処理を考うるに当りましては、寸時も忘れてならぬものがあるのであります。それは何であるか、他のことではない。この事志気を遂行するに当りまして、過去二年有半の長きに亘って我が国家国民が払いたるところの絶大なる犠牲であるのてあります。即ちこの間におきまして我が国民が払いたるところの犠牲、即ち遠くは海を越えてかの地に転戦するところの百万、二百万の将兵諸士を初めとして、近くはこれを後援するところの国民か払いたる生命、自由、財産その他一切の犠牲は、この壇上におきまして如何なる人の口舌をもってするも、その万分の一をも尽すことは出来ない のであります。(拍手)

 しかもこれらの犠牲は今日をもって終りを告げるのではない。将来久しきに亘る、今後幾年に亘るかということは、今日何人といえども予言することが出来ない状態にあるのてあります。実にこのたびの事変は、名は事変と称するけれども、その実は戦争である。しかも建国以来未だかつて経験せざるところの大戦争であります。したがってその犠牲の大なるとともに、その戦果に至ってもまた実に驚くべきものがある。昨日もこの議場において陸軍大臣のお話がありました通り、今日の現状をもって見まするならば、我軍の占領地域は実に日永全土の二倍以上に跨っているのであります。

 しかしてこれらの占領は如何にしてなされたものであるか。 いずれも忠勇義烈なる我が皇軍死闘の結果である。即ちこれがためには、十万の将兵は戦場に屍を埋めているでありましょう。これに幾倍する数十万の将兵は、悼ましき戦傷に苦しんでいるでありましょう。百万の皇軍は今なお戦場に留まってあらゆる苦難と闘っているに相違ない。かくして得られたるところのこの戦果、かくして現われくるところのこの事実、これを眼中に置かずしては、何人といえども事変処理を論ずる資格はない。(「ヒヤヒヤ」拍手)

 諸君もご承知のごとく、我国はかつて四十余年前に支那と戦った。三十余年前にロシアと戦った。これらの戦いはいずれも国運を賭したる戦いであったに相違はございませぬが、今回の戦いと比べまするならば、その規模の大なること、その犠牲の大なること、日を同じくして語るべきものではない。しかるにこれらの戦いは、如何なる条件をもって、和平克復を見るに至ったかということは、歴史がこれを明記しておりまするから、ここに述ぶる必要はない。それ故にこれを過去の歴史に鑑み、またこれを東亜における大日本帝国の将来に鑑み、これを基礎として、もって事変処理の内容を充実するにあらざれば、出征の将士は言うに及ばず、日本全国民は断じてこれを承知するものではない。(「ヒヤヒヤ」拍手)政府においてその用意があるかないか、私が問わんとするところはここにあるのであります。

 米内首相は事変処理については、すでに確乎不動の方針が定められておる、かく声明せられているのでありまするが、その方針とは何であるか、所謂近衛声明なるものであるに相違ない。即ち、昨年十二月二十二日に発表せられたところの近衛声明、これが事変処理に関する不動の方針であることは、申すまでもないことであります。ところが私は元来この近衛声明なるものに向っては、いささか疑いを抱いているのであります。この際誤解を防ぐがためにお断りをしておきます。きっぱりとお断りをしておきまするが、私は今にわかに近衛声明に反対をする者ではない。さりとて賛成をする者でもない。賛成をするか反対をするかは、政府の説明を聴いてしかる後において考えるつもりであります。(拍手)

 今日は質問であります。質問は読んで字のごとく疑いを質すのである。それ故にこの考えをもってご聴取を願いたいのであります。近衛声明の中にはどういうことが含まれているかと見ますると、大体五つの事柄が示されているのであります。
その一つは支那の独立主権を尊重するということである。
第二は領土を要求しない、償金を要求しないということである。
第三は経済関係については、日本は経済上の独占をやらないということである。
第四は支那における第三国の権益については、これを制限せよというごときことを支那政府には要求しない。
第五は防共地域であるところの内蒙付近を取り除くその他の地域より、日本軍を撤兵するということであります。
この五つが近衛声明に含まれているところの要項である。

 しかしてこの声明はただ日本のみに対する声明でなければ、また支那のみに対する声明でもない,実に全世界に対するところの声明でありまするから、如何なることがあってもこれを変更することが出来るものではない。絶対にこれは変更を許さないのである。もしかりそめにもこれを変更するがごときことがありますならば、我国の国際的信用は全く地に墜ちてしまうのであります。ただそればかりではない。ご承知のごとくかの汪兆銘氏、同氏はこの近衛声明に呼応して立ち上ったのである。

 即ちこの近衛声明を本として、和平救国の旗を押し立てて、新政権の樹立に向って進んで来ているのである。その後同氏はしばしば声明書を発表しておりまするが、その声明書を見ますると、徹頭徹尾近衛声明を文字通り額面通りに解釈をしているのである。即ち同氏がしばしば発表しましたところの声明書、その声明書に現われているところの文句を、そのまま取って来て総合しますると、こういうことになるのであります。

 「近衛声明のごとくてあったならば支那にとっては別に不和益はない。日本はこの声明によって全く侵略主義を挺棄したのである。日本はこれまで侵略主義をとっておったが、近衛声明によって侵略主義を挺棄したのであるというている。日本が侵略主義を挺棄したということは、即ち軍事上においては征服を図らず、経済においては独占を考えないということである。かくのごとく日本が戦争中において反省したる以上は、中国もまた深く自ら反省するところがあって、一日も速やかに和平を実現せねばならぬ、しかしてかくのごとき和平は絶対に対等の立場において結ばねばならぬ。戦勝者がもつ敗者に対する態度はー切拗棄すべきである。したがって和平条件は決して支那国家の独立自由を害するものではないから、何人といえども和平の実現を拒むことは出来ない」

 声明書に現われておりまするところの文句をそのまま取って総合すると、かくのごときものになるのである。そうしてこの声明を発表して爾来一年有余の間、和平運動のために進んで来ているのであります。それですらご承知の通り支那民衆、ことに蒋介石一派よりは実に言うに堪えざるところの攻撃を受け迫害せられながら、身を挺して和平運動のために進軍して来ているのであります。それ故に同氏の立場から見れば徹頭徹尾この声明をば裏切ることは出来ない。もしこれを裏切るかごときことかありましたならば、和平運動、ひいては新政権の樹立は根本から崩壊せられてしまうのである。

 ここにおいて私は政府に向ってお尋ねをするのである。支那事変処理の範囲と内容は如何なるものであるか。重ねて申しまするが、支那の独立主権は完全に尊重する。支那の独立主権を完全に尊重する以上は、将来支那の内外政治に向ってはかりそめにも干渉がましきことは出来ない。もし干渉がましきことをなしたならば、支那の独立主権はたちどころに侵害せられるのである。領土は取らない、償金はとらない。支那事変のためにどれだけ日本の国費を費やしたかということは私はよく分りませぬ。しかしながらただ軍費として我々がこの議会において協賛を致しましたものだけでも、今年度までに約百二十億円、来年度の軍費を合算致しますると約百七十億円、これから先どれだけの額に上るかは分らない。二百億になるか三百億になるか、それ以上になるか一切分らない。それらの軍費については一厘一毛といえども支那から取ることは出来ない。ことごとく日本国民の負担となる。日本国民の将来を苦しめるに相違ない。

 また経済開発については、決して日本のみが独占をしない。支那の経済開発ということが叫ばれておりまするが、これも日本だけが独占をすべきものではない。第三国権益を制限するがごときことは支那政府に向っては要求しない。これまで我国の政治家は国民の前に何と叫んでおったか。このたびの支那事変は、支那より欧米列国の勢力を駆逐する、欧米列国の植民地状態、第三国から搾取せられているところの支那を解放して、これを支那人の手に戻すのであると叫んでおったのでありますが、これは近衛声明とは全然矛盾するところの一場の空言であったということに相成るのであります。

 その他占領地域より日本軍全部を撤兵するというのである。残る所に何かあるか、それが私には分らないのであります。ことに日本軍の撤兵については、汪兆銘氏が如何なることをいうておるかというと、第一次声明の中にこういうことが現われている。 近衛声明において特別重要なる点は日本軍の支那からの撤兵である。そうしてその撤兵は全部が急速にかつあらゆる方面において一斉に行われねばならぬということである。即ち撤兵は、全部が急速に、あらゆる方面において、一斉に行われねばならぬということである。ただ提案せられたるところの日支防共協定の存続期間に限って、日本軍の駐屯すべき所謂特定地区はただ内蒙の付近のみに制限せられなければならない。

 かように汪兆銘氏は声明しておりまするが、これを近衛声明と対照しますると、少しも間違いはないのであります。しかる以上はこれより新政権を一欲に和平工作をなすに当りましては、支那の占領区域から日本軍を撤退する、北支の一角、内蒙付近を取り除きたるその他の全占領地域より日本軍全部を撤退する、過去二年有半の長きに亘って内には全国民の後援のもとに、外においては我が皇軍が悪戦苦闘して進軍しましたところのこの占領地域より日本軍全部を撤退するということである。

 これが近衛声明の趣旨でありますが、政府はこの趣旨をそのまま実行するつもりでありますか。これを私は聴きたいのであります。総理大臣は言うに及ばず、軍部大臣においてもこの点についてご説明を煩わしておきたい。

 次に事変処理については東亜の新秩序建設ということが繰り返されております。この言葉は昨日以来この議場においてもどれだけ繰り返されているか分らない。元来この言葉は事変の初めにはなかったのでありますが、事変後約一年半の後、即ち一昨年十一月三日近衛内閣の声明によって初めて現われたところの言葉であるのであります。東亜の新秩序建設ということはどういうことであるか。昨日外務大臣のお言葉にもあったように思いますが、近頃新秩序建設ということはこの東洋においてばかりではない。ヨーロッパにおいても数年来この言葉が現われているのであります。

 しかしながらヨーロッパにおける新秩序の建設というものは、つまり持たざる国が持てる国に向って領土の分割を要求する、即ち一種の国際的共産主義のごときものでありますか、その後の実情を見ますると全然反対である。即ちずいふん持てるところの大国が持たざるところの小弱国を圧迫する、迫害する、併呑する、一種の弱肉強食である。ここに至ってヨーロッパにおける新秩序建設の意味は全く支離滅裂、実に乱暴極まるものであります。しかしヨーロッパのことはどうでもよろしい。ヨーロッパにおける新秩序の建設などは、我々において顧みる必要はない。この東亜における新秩序建設の内容は如何なるものがあるか。これも近衛声明及びこれに呼応したるところの汪兆銘氏の声明を対照してみますると、新秩序建設には確かに三つの事柄か含んでいる。それは何であるか。
第一は善隣友好ということである。
第二は共同防共である。
第三は経済提携であります。
これがこれまでの公文書に現われているところの新秩序建設の内容でありまするが、政府の見るところもこれに相違ないのであるか。新秩序建設ということが朝野の間においてしばしば謳われているのでありまするが、その新秩序建設の実体は以上述べたる三つのことに過ぎないのであるか。なおこの他に何ものがあるのであるか。なければ宜しい、あるならばそれを聴きたい。あっても言えないと言わるるならばそれでも宜しい。とにかくこれほど広く、これほど強く高調せられているところの戦争の目的であり犠牲の目的であるところの東亜新秩序建設の実体について、政府の見るところは何であるか。これを承っておけば宜しいのであります。

 これに関連してお尋ねをしておきたいことがある。ここに昨年12月11日付をもって発表せられたる「東亜新秩序答申案要旨」というものがある。これは興亜院において委員会を設けて審議せられたるところのその答申案であります。これを見まするというと、我々にはなかなか難しくて分らない文句が大分並べてある。即ち皇道的至上命令、「うしはく」に非ずして「しらす」ことをもって本義とすることは我が皇道の根本原則、支那王道の理想、八紘一宇の皇謨、なかなかこれは難しくして精神講話のように聞えるのでありまして、私ども実際政治に頭を突込んでいる者にはなかなか理解し難いのであります。(拍手)

 しかしそれは別と致しまして、一体近頃になって東亜新秩序建設の原理原則とか精神的基礎とか称するものを、特に委員会までも設けて研究しなくてはならぬということは一体どういうことであるか、東亜新秩序建設はこの大戦争、この大犠牲の目的であるのであります。しかるにこの犠牲、この戦争の目的であるところの東亜新秩序建設が、事変以来約一年半の後において初めて現われ、さらに一年の後において特に委員会までも設けてその原理、原則、精神的基礎を研究じなくてはならぬということは、私どもにおいてはどうも受け取れないのであります。(拍手)この点は総理大臣に限らず、興亜院の総裁で宜しいのでありますから、何故興亜院においては特に委員会までも設けて、こういうことの研究に着手せられたのであるか、これを聴いておきたいのでありまず。

 (以下官報速記録より削除せられたる部分)

 私はこれより一歩を進めまして少し私の議論を交えつつ政府の所信を聴いてみたい。政府においてはこういうことを言われるに相違ない。また歴代の政府も言うている。何であるか。このたびの戦争はこれまでの戦争と全く性質が違うのである。このたびの戦争に当っては、政府はあくまでも所謂小乗的見地を離れて、大乗的の見地に立って、大所高所よりこの東亜の形勢を達観している。そうして何ごとも道義的基礎の上に立って国際正義を楯とし、所謂は紘一宇の精神をもって東洋永遠の平和、ひいて世界の平和を確立するがために戦っているのである故に、眼前の利益などは少しも顧みるところではない。これが即ち聖戦である。 神聖なるところの戦いであるという所以である。

 かような考えを持つておらるるか分らない。現に近衛声明の中には確かにこの意味が現われおるのであります。その言はまことに壮大である。その理想は高遠であります。しかしながらかくのごとき高遠なる理想が、過去現在及び将来国家競争の実際と一致するものであるか否やということについては、退いて考えねばならぬのであります。(拍手)いやしくも国家の運命を担うて立つところの実際政治家たる者は、ただ徒に理想に囚わるることなく、国家競争の現実に即して国策を立つるにあらざれば、国家の将来を誤ることがあるのであります。(拍手)

 現実に即せざるところの国策は真の国策にあらずして、一種の空想であります、まず第一に東洋永遠の平和、世界永遠の平和、これは望ましきことではありまするが、実際これが実現するものであるか否やということについては、お互いに考えねばならぬことである。古来いずれの時代におきましても平和論や平和運動の止むことはない。宗教家は申すに及ばず、各国の政治家らも口を開けば世界の平和を唱える。また平和論の前には何人といえども真正面からして反対は出来ないのであります。しかしながら世界の平和などが実際得られるものであるか、これはなかなか難しいことであります。

 私どもは断じて得られないと思っている。十年や二十年の平和は得られるかも知れませぬが、五十年百年の平和すら得られない。歴史家の記述するところによりますると、過去三十五世紀、三千四百幾十年の間において、世界平和の時代はわずかに二百幾十年、残り三千二百幾十年は戦争の時代であると言うている。かくのごとく過去の歴史は戦争をもって覆われている。将来の歴甕は平和をもって満たさるべしと何人が断言することが出来るか。(拍手)

 のみならずご承知の通りに近世文明科学の発達によりまして、空間的に世界の縮小したること実に驚くべきものである。これを千年前の世界に比較するまでもなく、百年前の世界に比較するまでもなく、五十年前の世界に比較しましても実に別世界の懸か起こらざるを得ないのである。この縮小せられたる世界において、数多の民族、数多の国家か対立している。そのうえ人口は増加する。生存競争はいよいよ激しくなって来る。民族と民族との間、国家と国家との間に競争が起こらざるを得ない。しかして国家間の争いの最後のものが戦争でありまする以上は、この世界において国家が対立しておりまする以上は、戦争の絶ゆる時はない。平和論や平和運動がいつしか雲散霧消するのはこれはやむを得ない次第であります。

 もしこれを疑われるのでありますならば、最近五十年間における東洋の歴史を見ましょう。先ほど申し上げました通りに、我国はかつて支那と戦った。その戦いにおいても東洋永遠の平和が唱えられたのである。次にロシアと戦った。その時にも東洋永遠の平和が唱えられたのである。また平和を目的として戦後の条約も締結せられたのてありまするが、平和が得られましたか。得られないではないか、平和が得られないからして今回の日支事変も起こって来たのである。

 また眼を転じてヨーロッパの近状を見ましょう。ご承知の通りに二十幾年前にヨーロッパはあの通りの大戦争をやった。五か年の問国を挙げて戦った戦争の結果はどうなったか。敗けた国はいうに及ばず、勝った国といえども徹頭徹尾得失相償わない。その苦き経験に顧みて、戦争などはやるものでない。およそこの世の中において戦争ほど馬鹿らしきものはない。それ故に未来永久、この地球上からして戦争を絶滅する。その目的、その理想をもって国際連盟を作った。我か日本も五大強国のーつとしてこれに調印しているのであります。平和は得られましたか。国際連盟の殿堂はどうなっているか。民族の発展慾、国家の発展慾は、紙上の条約などでもって抑制することが出来るものでない。十年経ち、二十年経つ間においてまたもや戦争熱か勃興して来る。ヨーロッパの現状は活きたる教訓 を我々の前に示しているのであります。

 ある者は言うている、このたびの戦争は「ベルサイユ」条約が因である、「ベルサイユ」条約においてドイツに向って苛酷なるところの条件を課したから、その反動として今回の戦争が起こったのであるとこう言うている。一応の理窟であるに相違ない。しかしなから[ベルサイユ」条約がなかったならば戦争は起こらなかったと誰が断苫することか出来るか。第一ヨーロッパ戦争の前におきましては「ベルサイユ」条約はなかったのてありますけれども、戦争は起こったのである。

 即ち人間の慾望には限りがない、民族の慾望にも限りがない。国家の慾望にも限りがない。屈したるものは伸びんとする。伸びたるものはさらに伸びんとする。ここに国家競争が激化するのであります。なおこれを疑う者があるならば、さらに遡って過去数千年の歴史を見ましょう。世界の歴史は全く戦争の歴史である。現在世界の歴史から、(発言する者多し)戦争を取り除いたならば、残る何物があるか。そうしてーたび戦争が起こりましたならば、もはや問題は正邪曲直の争いではない。是非善悪の争いではない。徹頭徹尾力の争いであります。強弱の争いである。強者が弱者を征服する、これが戦争である。正義が不正義を贋懲する、これが戦争という意味でない。先ほど申しました第一次ヨーロッパ戦争に当りましても、ずいぶん正義争いが起こったのであります。ドイツを中心とするところの同盟側、イギリスを中心とするところの連合側、いずれも正義は我に在りど叫んだのでありますが、戦争の結果はどうなったか。正義が勝って不正義が敗けたのでありますか。そうではないのでありましょう。正義や不正義はどこかへ飛んで行って、つまり同盟側の力が尽き果てたからして投げ出したに過ぎないのであります。今回の戦争に当りましても相変らず正義論を闘わしておりますが、この正義論の価値は知るべきのみであります。つまり力の伴わざるところの正義は弾丸なき大砲と同じことである。(拍手)羊の正義論は狼の前には三文の値打もない。ヨーロッパの現状は幾多の実例を我々の前に示しているのであります。

 かくのごとき事態でありますから、国家競争は道理の競争ではない。正邪曲直の競争でもない。徹頭徹尾力の競争である。(拍手)世にそうでないと言う者があるならばそれは偽りであります、偽善であります。我々は偽善を排斥する。あくまで偽善を排斥してもって国家競争の真髄を掴まねばならぬ。国家競争の真髄は何であるか。日く生存競争である。優勝劣敗である。適者生存である。適者即ち強者の生存であります。強者が興って弱者が亡びる。過去数千年の歴史はそれである。未来永遠の歴史もまたそれでなくてはならないのであります。(拍手)

 この歴史上の事実を基礎として、我々が国家競争に向うに当りまして、徹頭徹尾自国本位であらねばならぬ。自国の力を養成し、自国の力を強化する、これより他に国家の向うべき途はないのであります。(拍手)

 かの欧米のキリスト教国、これをご覧なさい。彼らは……。

 (「もう宜い」「要点要点」と叫び、その他発言する者多し)
 議長(小山松寿君) 静粛に願います。

 斎藤隆夫君(続)彼らは内にあっては十字架の前に頭を下げておりますけれども、ひとたび国際問題に直面致しますと、キリストの信条も慈善博愛も一切蹴散らかしてしまって、弱肉強食の修羅道に向って猛進をする。これが即ち人類の歴史であり、奪うことの出来ない現実であるのであります。この現実を無視して、ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、日く国際正義、日く道義外交、日く共存共栄、日く世界の平和、かくのごとき雲を掴むような文字を列べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことかありましたならば

 (小田栄君「要点を言え、要点を」と叫び、その他発言する者多し)
 議長(小山松寿君)静粛に願います、小田君に注意致します。

 斎藤隆夫君(続)現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことは出来ない。私はこの考えをもって近衛声明を静かに検討しているのであります。即ちこれを過去数千年の歴史に照し、またこれを国家競争の現実に照して

 (発言する者多し)
 議長(小山松寿君)静粛に願います。

 斎藤隆夫君(続)かの近衛声明なるものが、果して事変を処理するについて最善を尽したるものであるかないか。振古未曽有の犠牲を払いたるこの事変を処理するに適当なるものであるかないか。東亜における日本帝国の大基礎を確立し、日支両国の間の禍根を一掃し、もって将来の安全を保持するについて適当なるものであるかないか。これを疑う者は決して私一人ではない。(拍手)

 いやしくも国家の将来を憂うる者は、必ずや私と感を同じくしているであろうと思う。それ故に近衛声明をもって確乎不動の方針なりと声明し、これをもって事変処理に向わんとする現在の政府は、私が以上述べたる論旨に対し逐一説明を加えて、もって国民の疑惑を一掃する責任があるのであります。(拍手)

 私はさらに進んで重慶政府と、近く現われんとするところの新政府との関係についてお尋ねを致したいのであります。昨年八月、阿部内閣が成立致しました当時においては、汪兆銘氏を首班とするところの新政府は今にも現われんとするがごとき噂か立てられたのてありますが、それかだんだんと延引して今日に至っているのである。しかし聞くところによれば、いよいよ近くその成立を見んとするのでありますから、これは日支両国のためにまことに慶賀に堪えないことであります。我国はさきに蒋政権を撃滅するまでは断じて戈を敢めない、国民政府を対手にしては一切の和平工作をやらないと宣言している。しかる以上は新たに生るるところの新政府、これを援けてもって和平調整をなざねばならぬ。これについては誰一人として反対する者はないのであります。

 しかしながら退いて考えて見ますると、一体この新政府はどれだけの力を持って現われるのであるか。これが私どもには分らないのであります。申すまでもなくいやしくも国際間において、また国際法上において、政府として立ちまする以上は、内に向っては国内を統治するところの実力を備え、外に向っては国際義務を履行するところの能力を有するこの内外両方面の条件を兼備するものにあらざれば、政府として立つことも出来ねば、政府としてこれを承認することも出来ないはずであります。その実力とは何であるか、即ち兵力であります、軍隊の力であります。如何に法制を整えても、如何に政治機構を打ち建てても、また如何に文章口舌に巧みでありましても、兵力を有せざる政府の威令が行われるわけがない。ことにこれを支那歴朝創業の跡に顧みましても、旧王朝を滅して新王朝を創業する、旧政権を倒して新政権を建設する者は、ことごとく武人であります。即ち兵馬の間に天下の権を握らざる者はないのである。

 かの孫逸仙か革命事案に向って一生の精力を傾倒したにかかわらず、その業が成らず志を得ずして終に最後を遂げたのは何が故であるか。つまり彼が武人にあらず、武力を有しなかったからであります。これに反して彼の後輩でありまするところの蒋介石が、一時なりとも支那を統一したのは何か故であるか。彼が武人であって武力を有しておったからであります。ことに近頃支那の形勢を見渡しまするというと、我軍の占領地域であり同時に新政権の統轄地域であるところにおいてすら、匪賊は横行する、敗残兵は出没する、国内の治安すら完全に維持することが出来ない。加うるに新政府と絶対相容れざるところのかの重慶政府を撃滅するにあらざれば、新政府の基礎は決して確立するものではない。それ故に新しき政府を打ち建てる第一の条件は何といっても兵力でありまするが、まさに現われんとするところの新政府にはその力があるのであるかないのであるか、これについてご説明を煩わしたいと思うのであります。

 次に新政府が現われましたならば、我国は何としてもこれを承認せざるを得ないのであります。これを承認すると同時に、この新政府の発展に向っては極力これを支持せねばならぬのである。支持すべきことをすでに声明せられている以上は、この声明をどこまでも履行しなければならない。即ちこれがためには政治上においても、軍事上においても、また経済上においても、その他あらゆる犠牲を払ってこの新政府を援けねばならぬのである。そうして新政府を援けて将来名実ともに完全なる独立政府としたその後において、我国との関係が極めて円満に持続せらるるものであるかないか、これも大切なる問題であるのであります。我々は決して新政府を疑う者ではない。殊に汪兆銘氏を初めとして、身を挺して和平救国のために奮闘しているところのかの支那の政治家諸氏に対しては、衷心より敬意を払う者であります。

 しかしながら、国の異なるに従って国民性にも違いがある。これは仕方がない。現に汪兆銘氏は一昨年の暮に重慶脱出以来しばしば声明書を発表して、蒋介石に向って和平勧告をしたのでありまするが、蒋介石はこれを一蹴して顧みない。そこで昨年の七月には断然として蒋介石に向って絶縁状を送っている。しかるにもかかわらずつい最近一月の十六日でありまするか、それこそ辞を卑くし、言葉を厚くして蒋介石に向って停戦講和の通電をうっている。これは支那の政治家において初めて出来ることでありまして、我々日本の政治家においては想像も及ばないことである。それ故に新政府を援助することは宜しいが、新政府の将来に向って決して盲目であってはならない。これについて総理大臣はどういう考えを持っておられるのであるか、これを一つ承っておきたいのであります。

 次に新政府が出来た後において重慶政府との関係はどうなるものであるか、これにつきましては前内閣の阿部匍粍は新聞を通じて、こういう意見を述べておらるるのであります。即ち新政権が出来たならば、新政権は重慶政府に向って働きかけるであろう。新政権樹立の趣旨が徹底したならば、重慶政府も一緒になって和平救国の途に就くであろう。こういう意見を述べておられるのであります。しかしてこれは決して前阿部首相一人のみの意見ではない。今日政府の要人の中には、確かにこの意見を持っている人があるのであります。これが私には分りかねるのである。新政権と重慶政府、どう考えてもこれが将来一致するものであるとは思えないのであります。なぜに一致しないか。ご承知の通り重慶政府は徹頭徹尾、容共抗日をもってその指導精神となし、これを基として長期抗戦を企てているのである。しかるにこれに反して新政府は反共親日をもって指導精神となし、それをもって新政府の樹立に向って進んでいるのである。

 この氷炭相容れざる二つのものがどうして一緒になることが出来るか。我々においてはどうもこれは想像がつかない。しかしてこれはただ理窟ばかりの問題ではなくして支那の現状を見ましてもかようなことは到底想像することが出来ないのである。ことに先ほど申しましたように、蒋介石を徹底的に撃滅するにあらざれば断じて戈を敢めない。この鉄のごとき方針が確立して、これをもってあらゆる作戦計画が立てられているべきはずであるのであります。先ほど引用致しましたところの文書の中におきましても、確かにその意味は現われているのである。

 「即ち新政府が出来たところが蒋介石は決して兜を脱がない、重慶政府が屈服しない限りは日本軍はあくまでも重慶征伐に向って進軍するのである。汪兆銘は日本の重慶征伐に便乗して戦うのである」これが軍部の方針であるに相違ないのであります。しかるに前内閣の首相及び政府の要人はかくのごとき気楽なる考えを持っておる。支那事変処理の根本方針について政府と軍部との間において何か意見の相違があるらしくも思えるのであります。これは前内閣のやったことてありまして、現内閣のやったことではないのてありまするが、しかし支那事変の処理については前内閣の方針を踏襲すると言われたところの現内閣の総理大臣は、これについても相当のお考えがあるには相違ないと思いまするから、この点も併せて伺っておきたいのであります。

 次に重慶政府に対する方針、重ねて申しまするが、蒋政権を撃滅するにあらざれば断じて戈は敢めない、蒋介石の政府を対手としては一切の和平工作はやらない、この方針は動かすべからざるものでありまするが、その後蒋介石は敗戦に次ぐに敗戦をもってして、今日は重慶の奥地に逃げ込んで、一地方政権に堕しているとはいうものの、今なお大軍を擁して長期抗戦を豪語し、あらゆる作戦計画をなしているように見受けられるのであります.もとよりこれについては我方におきましても確乎不抜の方針が立てられているに相違ありませぬが、しかし前途のことは測り知ることが出来ない。しかるに一方においてはどこまでも新政権を支持せねばならぬ。あらゆる犠牲を払ってこれを支持せねばならぬ,即ち一方においては蒋介石討伐、他の一方においては新政権の援助、我国はこれよりこの二つの重荷を担うて進んで行かなければならぬのでありますか、これが我か国力と対照して如何なる関係を持っているものであるか,私ども決して悲観するものではない。悲観するものではないが、これが人的関係の上において、物的関係の上において、また財政経済の関係において如何なるものてあるかということは、国民が聴たんとするところであると思うのであります。(拍手)

 それ故にこの点につきましては総理大臣は申すに及ばず、関係大臣において出来得る限りの説明を与えられたい。我々はもとより言えないことを聴こうとするのではない。外交上、軍事上、その他経済財政の関係におきましても、言えないことがあることは能く承知しているのでありますから、言えないことを聴かんとするのではない。この議場において言えるだけの程度において、なるべく詳しくご説明を願いたいと思うのであります。

 最後に支那全体を対象として、今後の形勢について政府の意見を聴いておきたいことがある。申すまでもなく支那は非常な大国であります。その面積におきましても日本全土の十五倍に上っている、五億に近い人口を有している。我国の占領地域が日本全土の二倍半であるとするならば、まだ十二倍半の領土が支那に残されているのであります。この広大なるところの領土に加うるに、これに相当するところの人口をもってして、これを統轄するところの力を有する者でなければ、支那の将来を担って立つことは出来ない。近く現われんとするところの新政府はこれだけの力があるのであるか。私ども如何に贔屓目に見ましても、この新政府にこれだけの力があるとはどうも思えないのであります。

 そうするとどうなるのでありますか。もし蒋介石を撃滅することが出来ないとするならば、これはもはや問題でない。よしこれを撃滅することが出来たとしても、その後はどうなる。新政府において支那を統一するところの力があるのでありますか。あると言わるるならばその理由を私は承っておきたい。もしその確信がないとせらるるならば、支那の将来はどうなるか。各所において政権が分立して、互いに軋瞭して摩擦を起こす。新秩序の建設も何もあったものではないのであります。(拍手)

 そうしてかくのごとき状態が支那に起こるのは何が基であるかというと、つまり蒋政権を対手にしては一切の和平工作をやらない、即ち一昨年の一月十六日、近衛内閣によって声明せられましたところの爾来国民政府を対手にせず、これに原因しているものではないかと思うが、政府の所見は如何であるか。

 しかしてもし今後この方針を固く守って進みますならば、表面においても裏面においても、公式非公式を問わず、一切重慶政府を対手としてはならないのである。また我国がこれを対手とすることが出来ないのみならず、近く現われんとするところの新政権も、断じて重慶政府を対手にすることは出来ないはずなのであります。我が日本は対手にしはしないが、新政府はこれを対手にしても宜いということは、これは言われない。なぜならば新政府に対しては日本は干渉はしないが指導するのである。即ち新政府に対して日本は指導的立場に立っているのでありまするから、もし新政府が重慶政府に向って何か交渉の途を開くと仮定致しまするならば、これは誰が見たところが日本の指導に基づくものに相違ないと思う。また思われても仕方がないのであります。そうすると支那の将来はどうなるものでありますか。いつまで経ってもこの現状をば精算することは出来ないと思われるのでありまするが、政府はこの点についてどういうお考えを持っておられるのでありますか、これもあわせて伺いたいのであります。(拍手)

 私の質問は大体以上をもって終りを告げるのでありまするが、最後において一言を残して、あわせて政府の所信を質しておきたいことかある。改めて申すまでもござりませぬが、支那事変は実に建国以来の大事件であります。建国以来二千六百年、この間において我国は幾度か外国と事を構えたことはありまするけれども、今回の事変のごとくその規模の広大なるもの、その犠牲の大なるものはないのであります。したがってこの事みスが如何に処理せられ如何に解決せらるるかということは、実に我が日本帝国の興廃の岐るるところであります。事変以来今日に至るまで我々は言わねばならぬこと、論ぜねばならぬことはたくさんあるのでありまするが、これは言わない、これは論じないのであります。我々は今日に及んで一切の過去を語らない、また過去を語る余裕もないのであります。一切の過去を葬り去って、なるべく速やかに、なるべく有利有効に事変を処理し解決したい。これが全国民の偽りなき希望であると同時に、政府として執らねばならぬところの重大なる責任であるのであります。(拍手)

 歴代の政府は国民に向ってしきりに精神運動を始めている。精神運動は極めて大切でありまするが、精神運動だけで事一翼の解決は出来ないのである。いわんやこの精神運動が国民の間にどれだけ徹底しているかということについては、この際政府としても考え直さねばならぬことがあるのではないか。(拍手)

 例えば国民精神総動員なるものがあります,この国費多端の際に当って、ずいぶん巨額の費用を投じているのでありまするが、一体これは何をなしているのであるかは私どもには分らない。(拍手)

 この大事変を前に控えておりながら、この事変の目的はどこにあるかということすらまだ普く国民の問には徹底しておらないようである。([ヒヤヒヤ』拍手)聞くところによれば、いつぞやある有名な老政治家か、演説会場において聴衆に向って今度の戦争の目的は分らない、何のために戦争をしているのであるか自分には分らない、諸君は分っているか、分っているならば聴かしてくれと言うたところが、満場の聴衆一人として答える者がなかったというのである。(笑声)

 ここが即ち政府として最も注意をせねばならぬ点であるのである。ことに国民精神に極めて重大なる関係を持っているものであって、歴代の政府か忘れているところの幾多の事柄があるのであります。例えば戦争に対するところの国民の犠牲であります。いずれの時にあたりましても戦時に当って国民の犠牲は、決して公平なるものではないのであります。即ち一方においては戦場において生命を犠牲に供する、あるいは戦傷を負う、しからざるまでも悪戦苦闘してあらゆる苦艱に耐える百万、二百万の軍隊がある。またたとえ戦場の外におりましても、戦時経済の打撃を受けて、これまでの職業を失って社会の裏面に蹴落される者もどれだけあるか分らない。しかるに一方を見まするというと、この戦時経済の波に乗って所謂殷賑産業なるものが勃興する。あるいは「インフレーション」の影響を受けて一攫千金はおろか、実に莫大なる暴利を獲得して、目に余るところの生活状態を曝け出す者もどれだけあるか分らない。(拍手)戦時に当ってはやむを得ないことではありますけれども、政府の局にある者は出来得る限りこの不公平を調節せねばならぬのであります。

 しかるにこの不公平なるところの事実を前におきながら、国民に向って精神運動をやる。国民に向って緊張せよ、忍耐せよと迫る。国民は緊張するに相違ない。忍耐するに相違ない。しかしながら国民に向って犠牲を要求するばかりが政府の能事ではない。(拍手)これと同時に政府自身においても真剣になり、真面目になって、もって国事に当らねばならぬのではありませぬか。(「ヒヤヒヤ」拍手)

 しかるに歴代の政府は何をなしたか。事変以来歴代の政府は何をなしたか。
 (「政党は何をした」[黙って聞け」と叫ぶ者あり)

 二年有半の間において三たび内閣が辞職をする。政局の安定すら得られない。こういうことでどうしてこの国難に当ることが出来るのであるか。畢竟するに政府の首脳部に責任観念が欠けている。(拍手)身をもって国に尽すところの熱力が足らないからであります。畏れ多くも組閣の大命を拝しながら、立憲の大義を忘れ、国論の趨勢を無視し、国民的基礎を有せず、国政に対して何らの経験もない。しかもその器にあらざる者を拾い集めて弱体内閣を組織する。国民的支持を欠いているから、何ごとにつけても自己の所信を断行するところの決心もなければ勇気もない。姑息倫安、一日を弥縫するところの政治をやる。失敗するのは当り前であります。(拍手)

 こういうことを繰り返している間において事変はますます進んで来る。内外の情勢はいよいよ逼迫して来る。これが現時の状態であるのではありませぬか。これをどうするか、如何に始末をするか、朝野の政治家が考えねばならぬところはここにあるのであります。我々は遡って先輩政治家の跡を追想して見る必要がある。日清戦争はどうであるか、日清戦争は伊藤内閣において始められて伊藤内閣において解決した。日露戦争は桂内閣において始められて桂内閣が解決した。当時日比谷の焼打事件まで起こりましたけれども、桂公は一身に国家の責任を背負うて、この事変を解決して、しかる後に身を退かれたのであります。伊藤公といい、桂公といい、国に尽すところの先輩政治家はかくのごときものである。しかるに事変以来の内閣は何であるか。外においては十万の将兵が倒れているにかかわらず、内においてこの事変の始末をつけなければならぬところの内閣、出る内閣も出る内閣も輔弼の重責を誤って辞職をする、内閣は辞職をすれば責任は済むかは知れませぬが、事変は解決はしない。護国の英霊は蘇らないのであります。(拍手)私は現内閣が歴代内閣の失政を繰り返すことなかれと要求をしたいのであります。

 事変以来我が国民は実に従順であります。言論の圧迫に遭って国民的意思、国民的感情をも披瀝することが出来ない。ことに近年中央地方を通じて、全国に弥漫しておりますところのかの官僚政治の弊害には、悲憤の涙を流しながらも黙々として政府の命令に服従する。政府の統制に服従するのは何がためであるか、一つは国を愛するためであります。また一つは政府が適当に事ぶるを解決してくれるであろうこれを期待しているがためである。

 しかるにもし一朝この期待が裏切らるることがあったならばどうであるか、国民心理に及ぼす影響は実に容易ならざるものがある。(拍手)しかもこのことが、国民が選挙し国民を代表し、国民的勢力を中心として解決せらるるならばなお忍ぶべしといえども、事実全く反対の場合が起こったとしたならば、国民は実に失望のどん底に蹴落とされるのであります。国を率いるところの政治家はここに目を着けなければならぬ。

 繰り返して申しまするが、事変処理はあらゆる政治問題を超越するところの極めて重大なるところの問題であるのであります。内外の政治はことごとく支那事変を中心として動いている。現にこの議会に現われて来まするところの予算でも、増税でも、その他あらゆる法律案はいずれも直接間接に事変と関係をもたないものはないでありましょう。それ故にその中心でありまするところの支那事変は如何に処理せらるるものであるか、その処理せらるる内容は如何なるものであるかこれが相当に分らない間は、議会の審議も進めることが出来ないのである。私が政府に向って質問する趣旨はここにあるのでありまするから、総理大臣はただ私の質問に答えるばかりではなく、なお進んで積極的に支那事変処理に関するところの一切の抱負経綸を披瀝して、この議会を通して全国民の理解を求められんことを要求するのである。(拍手) 私の質問はこれをもって終りと致します。(拍手)

 (発言する者あり)
 議長(小山松寿君)野溝君にご注意致します。
 (国務大臣米内光政君登壇)
 国務大臣(米内光政君)お答致します,

 支那事変処理に関する帝国の方針は確乎不動のものであります。政府はこの方針に向って邁道せんとするものてあります。戦争と平和に関するご意見は能く拝聴致しました,以下具体的問題についてお答を致します。

 支那側の新中央政府に関する帝国の態度は如何、こういうご質問であります。汪精衝氏を中心とする新中央政府は、東亜新秩序建設につきまして、帝国政府と同じ考えを持っておりますから、帝国と致しましては、新政府が真に実力あり、かつ国交調整の能力あるものであるということを期待致しまして、その成立発展を極力援助せんとするものであります。(拍手)

 その次に新政府樹立後、これと重慶政権との関係は如何というご質問でありまするが、新政府が出来上りまして、差当り重慶政府と対立関係となるということは、やむを得ないものと考えておりまするが、重慶政府が翻意解体致しまして新政府の傘下に入ることを期待するものであります。次に国内問題でありまするが、政府は東亜新秩序建設の使命を全うせんがために、鞏固なる決意のもとに手段を尽して断乎時局の解決を期している次第であります。この興亜の大事案を完成しまするためには、労務、物資、資金の各方面に亘りまして、戦時体制を強化整備致しまして、国家の総力を挙げて、本問題処理のために総合集中することが肝要てありまして、これがために真に挙国一致、不抜の信念に基づきまする国民の理解と協力とを得ることが必要であると存ずるのであります、(拍手)

 (斎藤隆夫著「回顧七十年」中公文庫)


【汪兆銘を主席とする南京政府樹立】
 3月、上旬臼井大佐(参謀本部主務課)と鈴木中佐が重慶政府代表の宋子良と香港で会談(桐工作)。3.12日、汪兆銘、和平建国宣言を発表。3.30日、重慶にいた汪兆銘を連れ出して、彼を主席とする南京政府を樹立。この建国手法は満州国のそれに倣った。但し、米国のハル国務長官は南京政府否認声明を出している。

支那事変処理として撤退方針が決定される

 3.30日、支那事変処理に関する極めて重要な事項が、参謀本部の提案に基き、この日、陸軍中央部で決定された。それは、「昭和15年中に支那事変が解決せられなかったらば、16年初頭から、既取極に基いて、逐次支那から撤兵を開始、18年頃までには、上海の三角地帯と北支蒙彊の一角に兵力を縮める」というもので、事変処理の大転換であった。もともとこの撤兵案は陸軍省の発案になるものであり、陸軍省側では今すぐからでも、撤兵を開始するような剣幕であった。予算面からも間接的に参謀本部を抑制しようとした。事変解決に、参謀本部も陸軍省も手を焼いていることが分かる。当時参謀本部としても、内々黙認した形であった。昭和15年度の臨時軍事費は、こんな前提の下に確定せられていた。 [種村佐孝「大本営機密日誌」(ダイヤモンド社,昭和27年)P12-14] この本は公式の日記ではなく、元大本営参謀戦争指導班長の種村佐孝氏が、同僚の助けを得て書いた日記と記憶によって書かれたものです。開戦前から終末期まで、時間を追って具体的に書かれた貴重な資料としてしばしば引用される本です。


【日本軍が重慶爆撃開始】

 5月上旬、重慶爆撃開始。無差別爆撃となった。海軍航空隊の指揮官として、重慶爆撃に参加した巌谷二三男氏の証言「1940.6月上旬頃までの爆撃は、もっぱら飛行場と軍事施設に向けられていたが、重慶市街にも相当数の対空砲台があり、そのため味方の被害も増大する状況となったので、作戦指導部は遂に市街地域の徹底した爆撃を決意した。すなわち市街東端から順次A、B、C、D、E地区に区分して、地区別に絨毯爆撃をかけることになった」、「建物が石材や土などでできている中国の街は、一般に火災は起こしにくかったのであったが、重慶の場合はよく火災の起こるのが機上から見えた。これは市街中央部の高いところは、水利の便が悪かったのであろう。また使用爆弾も、戦艦主砲弾(四〇センチ砲弾)を爆弾に改造した八〇〇キロ爆弾から、二五〇キロ、六〇キロの陸用爆弾、焼夷弾などをこのごも使用した」、「六月中旬以降の陸攻隊は連日、稼働全兵力をあげて重慶に攻撃を集中した。その都度偵察写真が描き出す重慶市街の様子は、次第に変わり、悲惨な廃墟と化していくように見えた。何しろ殆ど毎日、五十数トンから百余トンの爆弾が、家屋の密集した地域を潰していったのだから、市街はおそらく瓦れきと砂塵の堆積となっていったことだろう」、「ことに[八月]二十日の空襲は陸攻九〇機、陸軍九七重爆十八機、合わせて百八機という大編隊の同時攻撃で、これまた一連空が漢口からする最後の重慶攻撃となった。この日、爆撃後の重慶市街は各所から火災が起こり、黒煙はもうもうと天に沖し、数十海里の遠方からもこの火煙が認められた」(巌谷二三男 「海軍陸上攻撃機」朝日ソノラマ)。

 陸軍航空隊独立第一八中隊(司令部偵察飛行隊)の一員として重慶爆撃に参加した河内山譲氏の証言「五月末迄2連空は夜間爆撃を主としていたが、途中で1連空と共に昼間に切換え、目標も重慶の軍事施設だけを選別していたのを改め、市街地をA・B・C・D・E地区に区分した徹底的な絨毯爆撃に変更した」。
 


 5.11日、有田外相、蘭印現状維持を各国駐日大使に申し入れる。


 5.18日、御前会議で対支処理方策を決定。


 5.25日、有田外相、バブスト駐日蘭大使に対蘭印13項目の要求を送る。


ヨーロッパ戦線で独軍が進撃開始
 5.10日、欧州で、ドイツ軍が華々しい実力を行使しはじめ、5月にはオランダ、ルクセンブルク、ベルギーを侵略、更にマジノ線を突破してフランス軍を席捲し、イギリス軍は「ダンケルクの悲劇」に追い詰められた。

 5.16日、イギリスにチャーチル内閣成立。


ヨーロッパ戦線で伊軍が独軍側で参戦

 6.10日、伊軍が独軍側で参戦し、イギリス・フランスに宣戦布告。

 6.14日、独軍がパリ入城、6.22日、独仏休戦条約調印。イギリスへの空爆も激しくなる。そのためイギリスのチェンバレン内閣、フランスのレイノー内閣が崩壊。


支那事変処理として戦線拡大方針が決定される
 この独軍の戦果拡大が陸軍部内の大転換をもたらすことになった。『バスに乗り遅れるな』的ムードがはやり出し、「撤兵」のはずが、「大東亜戦争」に拡大していくことになった。欧州情勢の急変転が陸軍内部の考え方を180度大転換させた。「わずか2ヶ月前、さる3月30日には、専ら支那事変処理に邁進し、いよいよ昭和16年から逐次撤兵を開始するとまで、思いつめた大本営が、何時しかこのことを忘れて、当時流行のバスに乗り遅れるという思想に転換して、必然的に南進論が激成せられるに至ったのである」(種村佐孝「大本営機密日誌」・ダイヤモンド社・昭和27年・P14)。

 
東南アジアの植民地は事実上、無主の土地となり、南進論が現実味を増してきた。ドイツは、外相リッベントロップの信任厚いシュターマーを特使として派遣し、日本がアメリカをできる限り牽制するために、日独伊三国同盟を打診した。

 5.13日、第1回報国債券発売。


 6.3日、工作機械の対日輸出禁止。


 6.9日、ノモンハン国境確定交渉成立。


 6.12、日タイ友好条約締結。


 6.18日、米下院海軍委員会で海軍拡張案(両洋艦隊法案)が可決。


 6.24、ビルマおよび香港経由による蒋介石政権援助物資輸送停止をイギリスに申し入れる。


基本国策要綱」が立案される

 6.25日、「基本国策要綱」が立案され、7.27日、「連絡会議」で決定、上奏された。


 7.7日、商工、農林両省令で、「奢侈品等製造販売制限規則」(7.7禁止令)が公布され、国民生活に大きな影響を与えていくことになった。


 結局、7月16日、畑陸相の単独辞職に伴い陸軍では陸相を出さず内閣総辞職。


米内光政内閣第二次近衛内閣

 7.16日、米内内閣総辞職。結局、米内光政内閣も陸軍に振り回され放しで終わる。国民は官僚にも政党政治にもいやけがさし、「もう近衛しかいない、もう一度近衛に力を」の声が高まり、再度近衛が登場してくることになった。

 7.17日、第二次近衛内閣が組閣された。外相に松岡洋右、陸相に東条英機、海相に吉田善吾が起用された。「ウィキペディア松岡洋右」は次のように記している。

 松岡は、近衛が松岡、陸海軍大臣予定者の東条英機陸軍中将、吉田善吾海軍中将を別宅荻外荘に招いて行ったいわゆる荻窪会談で、外相就任受諾条件として、外交における自らのリーダーシップの確保を強く要求、近衛も了承したと伝えられている。20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの重光葵(駐英大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否して抵抗した。

 松岡の外交構想は、大東亜共栄圏(この語句自体、松岡がラジオ談話で使ったのが公人の言としては初出)の完成を目指し、それを北方から脅かすソ連との間に何らかの了解に達することでソ連を中立化、それはソ連と不可侵条約を結んでいるドイツの仲介によって行い、日本―ソ連―独・伊とユーラシア大陸を横断する枢軸国の勢力集団を完成させれば、それは米英を中心とした「持てる国」との勢力均衡を通じて日本の安全保障ひいては世界平和・安定に寄与する、というものではなかったかと考えられている。こうして松岡は日独伊三国軍事同盟および日ソ中立条約の成立に邁進する。

 @・日・独・伊枢軸の強化、A・東亜にある英・仏・蘭・ポルトガルの植民地の占領、B・アメリカの実力交渉排除、を重要政策に掲げ、これが開戦へのお膳立ての動きとなった。

 政治の新体制、経済の新体制実施を目標とする。折からの政治の刷新を求める国民の期待を受けて革新官僚の拠点、企画院を中心に官吏制度をはじめとして各界の新体制案を立案し始める。

 「昭和12(1937)年6月の第一次近衛内閣成立の1ヶ月後に日華事変が勃発している。第一次近衛内閣の後、平沼、阿倍、米内内閣はドイツとの距離をとり、第2次大戦には不介入の姿勢を保っていた。ところが、第2次近衛内閣が成立した昭和15(1940)年7月以降、日本は日独伊の三国同盟締結、仏印進駐とアメリカとの全面対決に向かって決定的な道を歩み始める。不思議なことに近衛内閣の登場のたびに、日本は大きく戦争へと向かっている。近衛は、その当時を振り返って、『見えない力にあやつられてゐたような気がする』と述懐している」(ゾルゲ事件


 7.25日、ルーズベルト大統領、石油と屑鉄を対日輸出許可品目に加える。


 7月、麻生久率いる社会大衆党が解党。麻生は、近衛が選任した新体制準備委員26名中の1人に選ばれる。但し、大政翼賛会の結成直前の9月に病死する。


大本営が南進を旨とする「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定

 7.26日、閣議で大東亜新秩序と「基本国策要綱」を決定し、翌7月27日政府は2年ぶりに大本営政府連絡会議を開き、南進を旨とする「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。ドイツの勝利に乗り遅れまいとする心裡が強く働いていた。これに基づき仏印進駐が企図されていくことになった。


 8月には東京市内に「ぜいたくは敵だ!」の看板が立てられる。


 8月、キリスト教会に対する弾圧と迫害も日増しに強まり、賀川豊彦が反戦思想を宣伝したという理由で投獄された。


「新体制準備会」発足

 近衛文麿はこの難局を打開するため、右派・左派・軍部までをも含めた「革新」勢力の結集を目指し新党構想を練る。国民組織を基盤とした強力な政権を作り、軍を取り込んで統制し、政治を刷新して政治新体制を建設を目指した。この運動は新官僚たちが中心となって進められ、やがて「新体制運動」と云われようになった。 

 8.23日、自由主義者も体制派社会主義者も、革新右翼も観念右翼も、東大総長も愛国団体代表も含まれ、衆参両院、言論界、経済界一致の新体制準備会が発足し、8.28日、声明文が発表された。各党はこの新党に合流する為「バスに乗り遅れるな」と、先を争って既成政党が全て解党した。この流れが「大政翼賛会」に向かうことになる。

 そのスローガンは「下意上達」であった。つまり、この事態に対して無為無策の腐敗する政界・財界・内務官僚たち保守派の「上」の既成勢力を一掃して、「下」の国民の意見を代表する革新勢力を結集した政治を実現し、この難局から国を救おうというものであった。但し、参加した勢力を見ても、麻生久の社会大衆党や赤松克麿の日本革新党(もと社会主義者グループ)、橋本欣五郎の大日本青年党(革新右翼)、民政党、政友会内の一部(保守政党内の改革派)、岸信介などの新官僚、武藤章など革新的軍部、その他色々な勢力が混交していた。さらに尾崎秀実(国際的共産主義者)までもが推進というまさにごった煮状態で、それぞれ意見が異なり紛糾する。

 「大政翼賛会」には、直前に没した麻生の遺志を継ぐかのように、近衛総裁、有馬事務局長のもと、総務に川上丈太郎、連絡部長に三輪寿壮、東亜部長に亀井貫一郎、制度部長に赤松克麿、議会局審査部副部長に河野密、議会局臨時選挙制度調査部副部長に浅沼稲次郎(部長は清瀬一郎)、同調査委員に平野力三等々旧社民党及び社会大衆党の面々が幹部として乗り込んでいった。

 ちなみにこの頃、右翼は「革新右翼」と「観念右翼」の2派に分かれて対立している。革新右翼は統制派と結びついた親独派でナチス流の一国一党を目指していた。一方、観念右翼の方は、純正日本主義を唱え、国体明徴を重視し、共産主義を最も嫌っており、ナチスやファシズムも国体に相容れないとしていた。

 その後の経過は次の通り。右派も左派も軍官僚も近衛イヤになり、なげやりな言動が目立つようになる。企画院(革新官僚)の作成した「経済新体制確立要項」を軍官僚や平沼騏一郎がアカ思想として攻撃し、革新官僚は治安維持法違反容疑で検挙される。こうして革新官僚も力を失う。近衛に国内の意見をを纏める力はもはや無く、戦争回避にむけたルーズベルト米大統領との会談も実を結ばず、近衛はやる気を失い辞職していくことになる。


 9.3日、米英防衛協定調印。


 9.13日、重慶攻撃。この時、27機の陸上攻撃機と13機のゼロ戦が漢口飛行場を発進して重慶へ向かった。上空で交戦となり、ゼロ戦が倍する中国機(ソ連製「I15」、「I15」)の全27機を撃墜するという戦果を挙げている。


 9.16日、米で選抜徴兵制公布。


 9.19日、支那派遣軍総司令部、桐工作(対重慶和平工作)の一時打ち切りを決定。


 9.22日、日・仏印軍事協定成立。この協定で、仏領インドシナ北部への日本軍進駐を仏国に認めさせた。


 9.23日、日本、北部仏印進駐。


 日本軍はただちに南進を開始、北部仏印を占領した。


 9.25日、米陸軍通信隊、日本海軍の暗号解読に成功。米、重慶政府に2500万ドルの借款供与。


「日・独・伊の三国同盟」を締結

 9.27日、松岡外相の音頭で「日・独・伊の三国同盟」を締結。

 「よって日本国政府、ドイツ国政府及びイタリア国政府は左の通り協定せり。第一条 日本国はドイツ国及びイタリア国の欧州における新秩序建設に関し、指導的地位を認め且つこれを尊重す。第二条 ドイツ国及びイタリア国は日本国のアジアにおける新秩序の建設に関し、指導的地位を認め且つこれを尊重す。第三条 日本国、ドイツ国及びイタリア国は前記の方針に基づく努力につき相互に協力すべきことを約す。更に、三締約国中何れかの一国が、現に欧州戦争又は日支紛争に参入し居らざる一国によって攻撃せられたるときは、三国はあらゆる政治的、経済的及び軍事的方法により相互に援助すべきことを約す」。

 10.8日、極東の米国人の引き揚げ勧告。


【「大政翼賛会」発足】

 10.12日、新体制準備会は、「大政翼賛会」に結実した。「挙国政治体制の確立」のため、既成政党が自主解党、新党設立の準備組織として「大政翼賛会」が発足した。総裁は総理の兼任ということになり近衛が就任した。但し、右翼から左翼までを集めた「革新」勢力の呉越同舟的な寄合い世帯であり、近衛首相もまた「本運動の綱領は大政翼賛、臣道実践というにつきる。これ以外には綱領も宣言も不要と申すべきであり、国民は誰も日夜それぞれの場において奉公の誠を致すのみである」と述べるなど掛け声倒れの代物でしかなかった。

 近衛演説は失望を誘い、後藤隆之助は、「もうこれで大政翼賛会は駄目だと思った。成立と同時に死児が生まれてきたのと同じだと思った」と回顧している。内部が一本化せず政党系の参加者は相次ぎ離脱。近衛も意欲を失う。最終的には「大政翼賛会」は内務省の補助機関に転落する。

 その後、内閣改造において近衛は、平沼を内相に迎え、側近の風見を追って、柳川を法相に据えた。彼らは翼賛会を一地方行政組織に改組することに躍起となり、一方で平沼内相は、「翼賛会は政治結社でない、公事結社である」と声明し、まったく死児どころか、死児の骨まで抜かれてしまった。近衛新体制は、当初の意図としては、まったく失敗した。


【「企業合同、トラストの結成」】
 三国同盟締結を契機として「企業合同又はトラスト」の結成が急速度に進行し、巨大資本による中小企業、新興財閥の整理が進められていった。大資本の論理は、物資の不足を企業統合により免れようとし、@・当該物資の生産企業と直接に結合し、これを支配する。A・より大なる物資の配給割当を獲得するために他の企業と結合し、その実績分の配給権を掌握する。B・事業の新設拡張が困難なため、他の企業を吸収合併する、というところにあった(中村静治「日本産業合理化研究」)。

 10.14日、ルーズベルト大統領、レインボー計画(陸海軍統合戦争計画)を承認。


 10.15日、松岡外相、グルー駐日米大使と会談。


 10.16日、米国、屑鉄と鋼鉄の対日輸出禁止。コーデル・ハル国務長官は、日本に対する屑鉄の輸出を禁止し、アメリカの対日締め付けが強化されていくことになった。このようななアメリカの動きに対して、英米協調を重ねて主張してきた西園寺は苦悩をかさねた。その中で、西園寺は逝去した。九十歳であった。


 10.30日、日ソ交渉開始


 11.6日、ルーズベルト、大統領に三選される。


 11月、アメリカが、中国の蒋介石政権への軍事援助開始決定。


 11.12日、ソ連のモロトフ外相がベルリン訪問。ヒットラー、リッペントロップと4回にわたって会談。この時、ヒットラーは「独ソが協力すれば収穫は大きく、対立すれば小さい。独ソが手を握れば世界無敵ではないか」、「新しい勢力圏の設定がまとまれば、4ヶ国は今後、百年どころか数百年の計を立てる事ができる」と「四国同盟案」の提携を持ちかけているが、モロトフ外相は応ぜず。


【御前会議で「支那事変処理要綱」が決定される】
 11.13日、御前会議で、日華基本条約案と「長期戦方略」への転換を定めた「支那事変処理要綱」が決定された。

 15年11月、企画院より「経済新体制確立要項」が提出される。これはより強力な戦時統制経済の確立を目指した内容。企画院原案では、・企業の公共化、・「指導者原理」にもとずく統制機構の確立・資本と経営との分離、・利潤の制限などが盛り込まれていた。これに対し自主統制を主張する財界が猛反発。右翼・内務官僚たちもこれに同調。この案をアカ思想の産物として激しく攻撃。近衛内閣内でも小林商工相の反対もあり、結局、軍部が間に入って資本と経営の分離を削除した上で12月7日に閣議決定される。

 このアカ攻撃は、この後内相に就任した平沼騏一郎(観念右翼)によってさらに強まり、翌年4月の「企画院事件」につながる。これは企画院原案に関与した革新官僚を、共産主義者だとねつ造して治安維持法違反容疑で検挙された事件。これにより企画院も力を失い軍部の御用団体と化す。

 「下意上達」だったスローガンも国体に背くとして「下情上通」に改められた。結局、新体制運動は目標だった強力な政治体制を作ることに失敗、ましてや軍を統制する力を持つことは出来なかった。しかもこれに対する国民の期待を利用して政党・労働組合などを自主的に解散させ、国民を完全に政治統制下に置く道を開いた形となった。

 11.29日、帝国議会開設50年記念式典が行われた。


 11.30日、南京政府(汪兆銘政権)承認し、日華基本条約調印。


 12月、近衛新体制で第76回議会が召集される。大政翼賛会に参加した衆院議員435名で「衆院議員倶楽部」が結成された。不参加議員が7名いた。欠員24名で98%が参加した。一国一党である。日本での議会政治は姿を消すことになる。


 12.5日、ウォルシュ司教、ドラウト神父、松岡外相を訪問。12月28日ウォルシュ、ドラウト帰米。


 12月、イギリスが、中国の蒋介石政権への軍事援助開始決定。


 12月、政府は、内閣情報局主導下に設立された日本出版文化協会に加入しない者には用紙の割当が受けられないことにした。これにより、言論統制がますます強化され、抵抗が踏み潰された。

 

 このころから政府の戦時経済政策の矛盾が、決定的になり始める。日本銀券の保証準備発行限度は10億円から、昭和13年4月に17億円に、昭和14年4月に22億円に拡張されている。公債を日銀に買わせているため、どうしても、この必要があった。それだけ「金」の裏付けの無い、インフレマネーが発行可能となっている。さらに物資不足もこれに追い打ちを掛け、不況の中で物価だけが高騰してゆく、悪性インフレが深刻な問題になってくる。

 この悪性インフレを押さえるため、政府は公定価格を決めインフレを抑えようとする政策を採る。昭和14年には価格統制令(九・一八ストップ令)が公布・施行。これは9月18日時点の価格で強制的に物価を固定すると言うもの。同時に地代家賃統制令・賃金臨時措置令・会社職員給与臨時措置令も公布・施行。地代・家賃・賃金・給与もストップあるいは統制下に置かれる。はっきり言って市場原理を全く無視した無茶苦茶な経済政策。ヤミ取引・買いだめ・売り惜しみが横行して国民生活がますます困難になる。

 この間に支那事変は拡大を続けており、昭和14年までに、ほぼ20個師団が新設され、中国には85万人の兵員が展開されている。これにより多くの成人男性が徴兵で兵役に取られる事に。このため拡大する軍需産業でも労働力不足が慢性化。兵隊と軍需産業に男子を取られた農業・軽工業・商業では女子労働力が増加。この事により農村までもが人手不足に陥る。さらに昭和14年は、朝鮮及び西日本が干害に見舞われており、米の生産が低下。食糧不足までもが深刻化する。

 ここで政府が取った政策は、「国家総動員法」に基づく、物資の生産・配給・消費統制の強化。昭和14年12月の木炭を皮切りに、昭和15年10月頃までには、生活必需品である米・麦・衣料品・砂糖・マッチ・練炭・大豆等々の配給統制が実施される。これによりヤミ取引がますます盛んになる。政府は経済警察を設立し取り締まるが全く効果なし。「物価のなかで動かぬのは指数だけ」と言われるほどの有様となる。この時点で日本経済は明らかに縮小再生産の過程を歩み始める。


【以降の流れは、「大戦直前の動き」の項に記す】





(私論.私見)


日本近現代史 http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zibiki/ke.htm


憲政の常道」(けんせい−の−じょうどう)

 西園寺公望ら「奏薦集団」が戦前の政党内閣期(1924−1932)に積み重ねた、政権交代の慣例のこと。
 簡単に言えば、「ある内閣が倒れたとき、その後継として内閣を担当するのは野党第一党である」とする慣例である。
 しかし、内閣が倒れた理由が総理大臣のテロによる横死や病気などの場合は、政権交代は政党の間では起らない。政権交代が起るのは、その内閣が失政によって倒れたときだけである。
内閣名 政権与党 野党第一党 内閣総辞職理由
24 第一次加藤高明内閣 憲政会政友会・革新倶楽部 政友・革新閣僚による閣内不統一
25 第二次加藤高明内閣 憲政会 政友会 加藤首相病死
26 第一次若槻礼次郎内閣 憲政会 政友会 緊急勅令案否決
27 田中義一内閣 政友会 憲政会(民政党) 張作霖爆殺事件処理の不手際
28 濱口雄幸内閣 民政党 政友会 濱口首相テロで重傷
29 第二次若槻礼次郎内閣 民政党 政友会 安達内相による閣内不統一
30 犬養毅内閣 政友会 民政党 五・一五事件による犬養首相横死
 犬養首相がテロで倒れたとき、「憲政の常道」原則によれば次は政友会内閣が来るはずであった。
 ところが内閣奏薦の任に当たる西園寺公望は、憲政の常道原則にとらわれず、中間内閣を奏請することによって状況の改善を企図する。西園寺にとって「中間内閣」はあくまでも緊急避難的な措置であった。しかし結局、戦前期において再び政党内閣が復活することは、なかったのである。

元老」(げんろう)

 明治維新とそののちの近代国家建設にあたって功績のあった、政界最長老のことを言う。
 一般にはそのメンバーは、伊藤博文山縣有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨西郷従道、大山巌、西園寺公望の八名で、場合によっては桂太郎を加えることもある。西園寺以外はいずれも薩長藩閥の出身者で、内閣制度発足当時はこれらの人々がかわるがわる出て、薩長間のバランスを崩さぬよう、組閣と施政にあたった。
 では、元老の資格とはなんであろうか。もともと元老とは、法的規定のあった存在ではなく、最初にマスコミが言い始めたものであった。上の八名の中で特に別格と見なされていたのは、伊藤博文であったが、彼に対する天皇の親任は殊の外篤く、彼が枢府議長の職を辞すると、天皇から前官礼遇と元勲優遇の特別の勅書が降った。のち、黒田清隆が首相を辞すると黒田にも同じ勅諚が、また明治天皇薨去ののち、踐祚した大正天皇は、山縣、井上、大山、桂の五名に対して、また西園寺に対しても別個に重臣優遇の勅諚を下した。
 この「元勲優遇」「重臣優遇」の勅諚が、元老と見なされる資格の一つであったことはおそらく間違いないが、もう一つの事実上の資格とは、「元老会議」とマスコミ一般に呼ばれた、次期首班選考会議に出席できたか否か、ということにあると思われる。桂は第三次桂内閣の後継首班選考に出席したが早々に中座し、その後会議に参加することなく死去したため、元老として見なしがたいのではないかと私は考える。

 さて、元老は、補充されない。明治の御代に死んだ黒田、西郷、伊藤ののち、元老の勢力は第一次護憲運動によって衰退する。官僚閥を形成し、その頂点にいた山縣の影響力が桂新党(立憲同志会)設立によって減殺されると、最大の影響力を持つ山縣元老は、政党首領である原敬を、次期首班に推さざるを得なくなる。
 また、その山縣の死に前後して、大山と松方が死ぬと、西園寺が唯一の元老となったが、彼は元老を再生産する意志はなく、むしろ山本権兵衛、清浦奎吾などの準元老たろうとする動きを封殺し続けた。そして西園寺は、宮中と協力して天皇に後継首班を奉答するシステムを作り上げたが、それも「憲政の常道」原則、また政党政治の終わりと同時に凋落していった。
 西園寺は自分の死去後のシステムを模索していき、ついに奏薦制度自体を内大臣を中心とする宮中に移して、元老の下問奉答慣例を廃止に持ち込んでいった。昭和十五年、西園寺死去。ここに元老は消滅した。