昭和時代史4、2.26事件以降の流れ(1936年から1940年) |
(最新見直し2006.5.7日)
【以前の流れは、「昭和時代史3、2.26事件」の項に記す】
(「あの戦争の原因」)からかなり引用しております。
(れんだいこのショートメッセージ) |
1936(昭和11)年の動き |
【岡田内閣→広田弘毅内閣】 |
岡田内閣は事件の責任をとり総辞職。元老西園寺公望が後継首相の推薦にあたった。次の首相に近衛文麿が推薦されたが、近衛は病気と称して辞退し、一木枢密院議長が広田弘毅を西園寺に推薦した。西園寺は同意し、外相だった広田弘毅に組閣の大命が下る。陸軍は入閣予定者の吉田茂ら5名に不満があるとして広田に圧力を掛けた。広田は陸軍と交渉し、3名を閣僚に指名しないことで内閣成立にこぎつけた。この辺から陸軍の暴走や経済困難を乗り越えられそうにないため、首相になろうとする人物がいなくなる。 3.9日、岡田首相の後を広田弘毅が継いだ。新蔵相には前日銀総裁の馬場が就任し、陸軍の意向に沿った国防予算を積極計上に転じ、歳出規模は井上財政末期(昭和6年度)の2倍以上、軍事費は3倍と言う膨張ぶりを采配した。 内閣組閣で早速軍部の介入が始まる。組閣人事に口を出し要求を飲まなければ陸軍より大臣を出さないと脅し、広田首相これを飲む。「現役武官制」を復活させられることになった。以後、政治の主導権は完全に軍部、特に陸軍に握られることになる。 |
【準戦時経済体制】 |
二・二六事件後成立した広田内閣の馬場蔵相は、公債削減政策の放棄、増税、低金利政策を発表。つづいて日本銀行の公定歩合の引き下げを求めて公債の大量発行の条件を整備する。さらに政府は次官以下の人事を一新して「革新」姿勢を示す。しかし、その実体は軍部主導による政策運営。この時点で内閣としては、暴走する軍部を押さえ込むのに手一杯で、とても軍事費そして公債の増大を押さえるところまで手が回らなくなる。 その陸軍の政治的、経済的構想立案の中心は石原莞爾(参謀本部作戦課課長・大佐)。石原は昭和10年8月に陸軍中枢のこのポストに就いたが、その時彼は日ソ間の兵力差が年々開いていることに愕然とする。前年の6月時点でのその差3倍以上。特に航空機、戦車などは数でもその技術水準でもかなり劣っていた。これは満州事変での日本軍の動きを見て、脅威を感じたソ連軍が極東地方の軍備を増やしたことによる。このため石原は軍備強化を考えるが、昭和7年頃からようやく重化学工業が立ち上がったばかりの日本では航空機、戦車などの増産にはその産業的基盤が無かった。 そこで石原はソ連に対抗する軍備を持つ為には、昭和16年頃まで一切外国と事を構えることなく、軍備拡充とその為の産業基盤の育成に専念すべきであり、その為には日本の産業構造の改革が必要と考える。この構想の具体的実現のため為に民間人から成る組織「日満財政経済研究会」を設け立案を委託。 同研究会が出した計画書「昭和十二年度以降五年間帝国入歳出計画」の内容は、・財政に限らず、産業発展目標を重化学工業を中心に生産を2〜3倍に引き上げる。・これを日本7・満州国3の割合で実現する。・実現のため、日本国内の政治・行政機構を満州国に似た形の、官僚主導の体勢に改革する。簡単に言えば国家経済を統制し、軍需のための重化学工業化を強引に押し進める計画。 こうして陸軍の一大佐、石原莞爾主導による政策「準戦時体制」が始まる。結局、昭和12年度予算で陸軍、海軍の軍事予算増大。予算も前年度から7億3000万円増えて30億3800万円に増大。その財源は赤字公債10億円弱と、大増税。法人所得税8割、個人所得税3割、相続税10割引き上げられる。これには財界からもう反発を受ける。 また軍備拡張が声明されると、石油・鉄鉱石等の軍需物資の不足と先行きの値上がりを見越して、輸入が殺到する。このため輸入超過により国際収支は急激に悪化。大蔵省は「外国為替管理法」を改正し輸入を大幅に規制しようとする(これがいわゆる「官僚統制」の始まり)。しかし効果はなく、外国為替の支払いが困難になる。これにより馬場財政=広田内閣が行き詰まる。(「あの戦争の原因」) |
春頃、選挙。今まで5名の無産党系議員が23名。社会大衆党は18名。
5.1日、帝国国防方針の改定。
5.7日、民政党の衆院議員・斎藤隆夫が「粛軍演説」をしている。この日の日記に「満場静粛、時に万雷起る。議員多数、握手を求め、大成功を賞揚す」とある。
5.18日、軍部大臣現役制復活。
7.5日、陸軍刑務所内の特別法廷で参加将校たちの判決が下される。審議は非公開で進められており、弁護士もなし。裁判で決起の趣意を天下に明らかにしようとした青年将校たちの考えは甘かったのである。死刑=17名、無期=5名、禁固10年=1名、同4年=1名。特別軍法会議は一審のみで、上告は認められなかった。銃殺は2名を除いて7月12日朝、行われた。天皇のために生き、天皇のために死ぬことを誇りとしていた彼らは、「天皇陛下万歳」を叫びながら死んでいった。
7.17日、スペイン内乱勃発。
11.15日、内蒙古へ軍攻開始。
11.25日、日独防共協定。
12.12日、中国で、西安事件発生。これは、蒋介石国民党軍が第6次討共作戦を発動し、*西省の西安へ赴いたところ、張作霖の息子張学良一派に捕捉監禁され、共産党勢力に対する内戦の停止と抗日戦への取り組みを要求された。これに対し、蒋介石は「自分は脅迫されて書類に署名するよりは命を犠牲にする覚悟だ」と答え拒否した。いよいよ殺害の段になって、思いがけなくも共産党からの使者がやってきて、蒋介石の釈放を要求した。この背後事情にはスターリンの指示があり、カリスマ的な知名度を持つ蒋介石を生還させ、国共合作に向かわせることを良しとしていた。こうして、釈放された蒋介石と毛沢東を首班とする国共合作の再工作が始まった。
12.24日、完成したばかりの議事堂に第70回議会が召集された。
【内閣情報委員会の設置】 | |
言論統制の中枢機関として内閣情報委員会が発足した。同委員会の職務が次のように語られている。
積極的に民意を誘導し、国策世論を作り出す権力による世論操作の必要が明言されていることになる。このマスコミ操作が、新聞、放送、出版、映画、論評、その他あらゆるコミュニケーションメディアに及んでいった。 |
【国際政経学会の設置】 |
この年、国際政経学会が設立された。監事・渡部悌治(1912年 山形県生まれ)。昭和20(1945)年の日本敗戦とともに占領軍によって解散させられ、その事蹟(じせき=成し遂げた業績)はひとかけらも残らないほど抹消された。 |
1937(昭和12)年の動き |
(この時代の総評)
陸軍が、「97式艦上戦闘機」を完成させた。設計技師糸川英夫。やがて中国で使用され威力を発揮することになった。大東亜戦争初期の1942(昭和17)年において、マレー戦線、ビルマ戦線で英空軍機を撃墜し、制空権を確保することになる。
【満蒙開拓団】 |
この年より向こう20年間に百万戸の農家、一戸5人として5百万の農民を内地から満州に移住させる計画を決めた。当時の全国の農家戸数560万戸の約2割を動かそうという遠大な計画であった。こうして、毎年、2万戸程度の農家が満蒙開拓団として満州に渡っていった。「青少年義勇隊」ももそれに併せて結成された。 日満両国政府の合弁で移民団の受入機関「満州拓殖公社」が設置され、日本国内の総耕地面積に匹敵する560万ヘクタールの耕作可能地を用意して、ソ満国境近くの奥地にまで開拓団を送り、大豆やトウモロコシ、コーリャンなどを作る農機具や営農資金などを貸し与えた。 実際に終戦までに移住したのは10万6千戸、31万8千人に止まり、しかも開拓農民の働き手が現地で軍隊に召集されたりするなど杜撰であった。 |
【広田内閣→林銑十郎内閣】 |
1.21日、衆院本会議の代表質問で、浜田国松代議士が激しく軍部の政治関与を攻撃し軍の批判を行い、寺内陸相との間にいわゆる「腹切り問答」が発生した。政党と軍部の正面衝突となり、寺内陸相が辞任を余儀なくされる。1.23日、広田内閣総辞職にいたる。これは表向きの事情で、後に巣鴨拘置所で広田が語ったことによると外国為替事情の悪化がその真因であったと言われる。この後も貿易赤字は続き、3月、日本銀行は貿易の支払いのため昭和7年以来一切使わなかった「金」の現送を余儀なくされる。その額は3・4月だけで約1億1000万円。 次に陸軍大将(予備役)宇垣一成に組閣の大命が降下していたが、陸軍が陸軍大臣を出さずに内閣不成立となり流産した。代わりに2.2日、陸軍大将の林銑十郎が組閣、首相になる。これは石原ら陸軍中堅幕僚が、政治力のある宇垣では自らのプランが押さえ込まれかねないと考え、軍官僚が御しやすい林を選んだためといわれる。陸軍内部を統制するねらいがあったが、国民から「軍部ロボット内閣」と呼ばれる。 また、岡田内閣辞職とともに深井英五日銀総裁も退任した。その時、次のような意味の演説を行っている。「生産力の余剰を利用し、または容易に生産力を増進しうる時期はすでに去りつつある。今後は生産拡充に努めると共に物資の節約に努めなければならない」。 この頃から物価の上昇が現れ始める。東京卸売り物価指数(昭和9〜11年平均=100)で見れば・昭和10年1月: 99.5%、・昭和12年1月:123.2%、・昭和12年4月:131.0%。インフレが始まる。 |
【林内閣総辞職】 |
林内閣は、議会を解散した。総選挙の結果は反政府勢力が圧勝し、わずか4ヶ月で総辞職することになる。 5.31日、林内閣総辞職。林内閣は議会運営能力が無く、ほとんど何もできぬまま5月に総辞職、短命に終わる。この間インフレが始まり国民の政党政治(憲政)への不信感は頂点に達する。 |
【林内閣→第一次近衛内閣(昭和12〜13年 1937〜38年)】 |
6.1日、組閣の大命は貴族院議長・近衛文麿に降下する。彼は五摂家筆頭、近衛家の当主で貴族院議長も勤めたこともある人物。天皇家に近く、各方面にも顔が利き、腐敗した既成政党とも一線を画し、さらに革新官僚達ともつき合いがあり、若い頃には特権貴族で有ることに悩み平民に成りたいと漏らしたこともある革新思想の持ち主であった。しかし、大臣経験もなく、いきなりの首相就任で異例の人事となった。国難打開のため新しい政治が求められており、それに応じてフレッシュなイメージの人気政治家である近衛が実務経験もなく首相として大抜擢を受けた。 但し、河辺虎四郎少将回想応答録では次のように記されている。「近衛首相、広田外相など当時は軍に『オベッカ』を使っておった政府であります。何事でも、『軍はどういう風に思っておるか』というて心配する非常に勇気のない政府でありまして、『軍に問うては事を決するというやり方で、政治的に全責任を負い、戦うも戦わざるも国家大局の着眼からやっていこうというものはなかったことをつくづく思います」。石射猪太郎日記では次のように記されている。「日本は今度こそ真に非常になってきたのに、コンな男を首相に仰ぐなんて、よくよく廻り合わせが悪いと云うべきだ。これに従う閣僚なるものはいずれも弱卒、禍なるかな、日本」(8.20日)。 |
【カンチャス島事件】 |
6.19日、黒竜江の中洲にあるカンチャス島にソ連軍の正規兵が上陸し、満州国人を追放、拉致する事件が発生した。これを「カンチャス島事件」と云う。重光葵駐ソ大使の抗議によりリトヴィノフ外相はソ連軍の撤退を約束したが、約束当日の6.30日、ソ連の小艦艇三隻が島の南側水道へ侵入し、カンチャス島の関東軍に射撃を加えてきた。これに対し、関東軍は速射砲で応戦し、ソ連艦一隻を撃沈、ソ連側死者2名、負傷者3名の損害を出した。7.1日及び2日、重光・リトヴィノフ会談の結果、ソ連側はカンチャス島から一切の兵力を撤収し事件は解決された。 7.3日、カズロフスキー極東部長が、西参事官の来訪を求め、「約1個中隊の日本兵が、隣の小島に上陸し、陣地を構築しているのは、重光・リトヴィノフ会談の約束に反する」と抗議した。これに対し、西参事官は、「日本側はそれら諸島からソ連軍の撤兵を要求したが、日本兵を入れないと約束した覚えは無い」と突っぱねた。これがノモンハン事件の伏線へなっていく。 |
【盧溝橋事件発生】 |
7.8日早朝、北平近郊の廬溝橋で日中両軍の衝突が発生した。これを廬溝橋事件と呼ぶ。この衝突はわずかの間に華北全域に広がり、やがて上海にも飛び火、中国全土を巻き込んだ戦争へと発展していくことになった。以降8年間も続くことになる日中全面戦争の始まりである。 この廬溝橋事件で最も驚かされるのは、その異常なエスカレーションぶりである。この事件のそもそもの発端はほんの些細なできごと(夜間演習を行なっていた日本軍部隊の頭上を何者かが発射した十数発の銃弾が通過した)に過ぎなかった。しかし、たったこれだけのことが、一晩のうちに大隊規模の軍事衝突にまで発展してしまう。さらに、いったんは収まりかけたこの衝突が、一月もたたないうちに日中の全面戦争にまで拡大することになる。 どうしてこうなってしまうのか。この事件の詳細を追っていくとまず浮かび上がってくるのが、面子にこだわり、功をあせる日本軍現地指揮官たちの姿である。この事件の場合、「発砲」を受けた部隊を指揮していた中隊長清水節郎大尉、その上官である大隊長一木清直少佐、連隊長牟田口廉也大佐の三人が、あたかも互いに煽り合うかのようにして些細な出来事を大事件にまで拡大してしまう。とりわけ、兵士一名が行方不明というだけの理由で大隊に出動を命じ、ついで再び銃声が聞こえたというだけで攻撃を許可してしまった牟田口の責任は重大である。その上、当然こうした軍の暴走を押さえるべき立場にあるはずの政府(首相:近衛文麿)が、逆に自ら先頭に立って戦線を拡大してしまう。 関東軍による鉄道爆破という謀略で幕を開けた満州事変以来、日本は些細な「事件」(それもしばしば日本側によるフレームアップ)をとらえては中国側に難癖を付け、強大な軍事力で威圧しつつ利権と支配領域を拡大していくという、*なし崩し的侵略*を続けてきた。この廬溝橋事件も、この侵略路線の延長線上でいずれは起こらざるを得ない、いわば歴史的必然だったと言える。皮肉なことに、満州事変を引き起こした「功績」によって出世を果たし、陸軍内部にこの流れを作り出した石原莞爾は、盧溝橋事件ではその拡大を防ごうとして、自分の過去を忠実にまねた「後輩」たちに敗れ去る結果になる。【盧溝橋事件 -- 謎のエスカレーション】【ろ溝橋事件考、満州事変考】 |
7.27日、日銀総裁に結城豊太郎が就任する。彼は就任直後の金融懇談会の挨拶で、「金融業者は悪戯に採算だけの観点に囚われず、多少手元が無理でも国債の所有を増やしていただきたい。このため生産力拡充資金に不足を来すようでは困るので、日銀は積極的に努力するから遠慮なく申し込んで頂きたい。日銀に貸し出しを仰ぐことを極力回避すると言った伝統はこの際打破すべきである。」と言う趣旨の話をしている。
はっきり言って、石原莞爾は満州事変を見ても分かる通り軍事テクノクラートとしてはずば抜けて優秀な人物ある。「作戦の神様」とさえ言われていた。しかしこれはあくまでも軍事に関することのみ。近衛文麿にしても見識才能ともに卓越した人物である。しかし何せ実務経験がほとんど無い。従って両人ともに経済問題に対してはド素人に近い。しかもこの時点において、高橋是清を筆頭とする経済問題について見識のある人物達は、死亡・引退で全て第一線から退いている。後に残っているのは改革派の軍人と、国体改革に燃える新官僚達のみ。この経済素人集団のがこの後の日本経済を方向づける事になる。
9月この頃より我が国は急速に自由経済から統制経済へ移行していった。最初の戦時立法「輸出入品等臨時措置法」が公布され、後刻毛製品に対するスフの強制混入等繊維業界への統制が始まった。これが走りとなり、翌年の「国家総動員法」で準戦時体制から完全な戦時体制に移行する。
9.2日、「蘆溝橋事件」による日本軍と中国軍の衝突事態は予想を超えて拡大し、「北支事変」が「支那事変」と呼称され、宣戦布告なき戦争へ向かっていくことになった。
【1937年の以降の動きは、「南京事件の直前の動き」の項に記す】
1938(昭和13)年の動き |
(この時代の総評)
1.11日、御前会議で、対華国策決定。
【近衛首相が、「国民政府相手にせず」声明を発布】 |
1.16日、近衛首相が、戦況が拡大する中で、独の仲介で和平の動きもあったが、「国民政府相手にせず」声明を発布した。「帝国政府は南京攻略後、シナ国民政府の反省に最後の機会を与うるため今日に及べり。然るに国民政府は帝国の真意を解せず、漫りに抗戦を策し内人民塗炭の苦しみを察せず、外東亜全局の和平を顧みる所なし。かくて帝国政府は爾後国民政府を相手とせず」云々(1938.1.17日付け「東京日々新聞」夕刊所載)。日華事変をいよいよ抜き差しならないものにしてしまった。 |
2月、近衛内閣が、議会で国家総動員法、電力国有化法案を可決。
3.13日、ドイツ、オーストリアを併合。
【国家総動員法成立】 | ||||||||||||||
3.24日、国家総動員法成立。前年に成立した「統制三法」のお陰で、必要物資が殆ど軍需品に取られることになり、民需では全国的に物不足が深刻化してインフレが進む。政府は公定価格を設定し沈静化を狙うが闇経済が発達するだけ。そして支那事変の長期化により増大する戦費。昭和12年末の通常国会では、臨時軍事費として48億5000万円が提出される。(同じく提出された一般会計は35億1400万円。)この財源は公債と「支那事変特別税」でまかなわれることになった。
等々。まさに国民生活全てを統制し(労働統制、物資統制、金融統制、価格統制、言論統制)、戦争に備えようとする法律。「国家総動員」体制の確立を理想として掲げてきた軍部と、それに接近していた革新官僚達による経済統制が実現段階にはいる。 |
5.19日、日本軍除州占領。
5.26日、近衛内閣の改造で、宇垣大将が外相に就任。但し、在任僅か3ヶ月で辞任。板垣陸相就任。
【張鼓峰事件事件】 |
7.11日、張鼓峰事件起る。突然ソ連兵が張鼓峰の頂上に現れ、満州側の斜面に陣地の構築を始めた。重大な挑発行為であった。 |
この年8月、関東軍内部で支那事変不拡大を叫んで東条英機と対立していた石原莞爾は、病気療養を理由に勝手に帰国。12月には舞鶴要塞司令官に落ち着いている。
8月、「経済警察」が発足し、この頃全国の警察署に経済保安係りが設置され、物資の横流しや闇値の暴利に目を光らせることになった。
8月、米国に移住したアインシュタインが大統領に核爆弾の開発を促す手紙を送る。
9月、ドイツがポーランドに侵攻。第二次世界大戦が始まる。
10.21日、日本軍広東占領。
10.27日、日本軍武漢三峰占領。
11.3日、政府が東亜新秩序建設声明。「帝国が中国に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことにあり、帝国は中国国民が能く我が真意を理解し、以って帝国の協力に応えんことを期待す。固より国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構成を切替して更生の実を挙げ、新秩序の建設に来たり参ずるにおいては、敢えて之を拒否するものにあらず」。弱音を吐いている。
12月、11.7日のドイツでの「水晶の夜」(クリスタル・ナハト)事件を受けて、この年に最高国策検討機関として設置された首相、陸相、海相、外相、蔵相の五相会議が開かれ、ユダヤ人問題を討議した。「ユダヤ人対策要綱」が決定され、板垣征四郎陸相の提案によって、ドイツのユダヤ人迫害政策が人種平等理想に悖ること、ユダヤ人を他国人と同じように構成に取り扱うべきことが明記された。
12.30日、おう兆銘が和平反共救国声明。
この年、ドイツでウランの核分裂が発見される。翌1939.8月、米国に移住したアインシュタインが大統領に核爆弾の開発を促す手紙を送る。
1939(昭和14)年の動き |
(この時代の総評)
【第一次近衛内閣→平沼騏一郎内閣】 |
1.4日、第一次近衛内閣が退陣した。経済政策と支那事変処理に行き詰まった近衛首相は疲れ果てて内閣総辞職に至った。後任には枢密院議長で国家主義団体国本社(右翼団体)の会長として政界官界の裏のボスで豪腕として知られていた平沼騏一郎が推挙された。 1.5日、近衛内閣から大臣の殆どを引きついで平沼騏一郎内閣が組閣された。 |
【ノモンハン事件】 |
5.11日、関東軍が越境してノモンハンでソ連・外蒙古軍と戦った。「約90名の外蒙古軍兵士がハルハ河を渡河してきた。これに対し、関東軍が射撃した。それを起点として飛行機、戦車を繰り出す両軍の死闘が開始された」ともある。政府と大本営は不拡大方針を示したが、これに対し現地関東軍の辻正信少佐と服部卓史郎中佐が独断専行。彼らはソ連軍の能力を過小評価し、関東軍の実力を思い知らせて国境侵犯再発を防止するとして、この紛争に関東軍を本格投入。ソ連軍と関東軍の大規模な武力衝突となる「ノモンハン事件」に発展した。(当時のモンゴルとソ連との関係は、日本と満州国の関係に似たような関係です。) |
6.14日、日本、天津の英仏領租界封鎖。
8.23日、独ソ不可侵条約成立。ソ連とドイツは、形式上同盟関係に入った。
8.30日、この頃平沼内閣が総辞職している。その後「独ソ不可侵条約調印」を見抜けなかった為、「欧州情勢は複雑怪奇なり」の迷言を残して総辞職。
【平沼騏一郎内閣→阿部伸行内閣】 |
9.1日、替わって組閣されたのが次の首相は陸軍大将(予備役)の阿部伸行内閣である。彼は政治的には何のキャリアも無かったが、とにかく陸軍を押さえ込むための起用された。特に何にもしないで総辞職することになる。 |
【第二次世界大戦が勃発】 |
9.1日、ドイツ軍がポーランドに浸入し、第二次世界大戦が勃発した。ドイツ軍機械化部隊の目の醒めるような電撃作戦が、日本陸軍と国民を狂喜させた。 |
9.15日、ノモンハン停戦協定成立。アジア方面にかまってられなくなったソ連との停戦協定が成立する。モスクワで東郷大使とモロトフ外相との間で、両軍の現在線での停戦に合意して停戦協定が結ばれた。この事件は日本側の参加兵力約6万、戦死・戦傷・生死不明者約2万の大事件だったにも関わらず、国民にはなにも知らされず闇に葬られる。
この事件は当時の日本軍が、近代的軍隊としてはどの程度の実力か知らしめたものだった。この敗戦の責任をとらされ、関東軍では軍司令官と参謀長、大本営では参謀次長と作戦部長、実戦に参加した部隊でも軍指令官、師団長、連隊長が予備役になっている。しかしその真の敗戦原因の徹底究明は成されず、独断専行した辻・服部らの将校に対しても軍法会議も開かれず左遷のみ。
最前線で戦い壊滅した第23師団の生き残った将校たちは自決を強いられ、またソ連軍に投降し停戦後に送還された将校達にも自決用のピストルを渡された。つまり関東軍参謀たち、及び関東軍上層部は、自らの責任は棚に上げ、日本軍の実力を直視することなく、第一線指揮官達がまともに働かないのが敗因である、と考えていたようです。
この後、ヨーロッパでは世界大戦が本格化。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告。9.16日、ソ連は独ソ不可侵条約の密約によってポーランドへ進駐。9月27日、ワルシャワ陥落。
1939年、重慶爆撃。
11月、元憲兵大意・甘粕正彦が満映の二代目理事長に就任。甘粕は、関東大震災時に大杉栄、内縁の妻伊藤野枝、甥の橘宗一少年を虐殺し、軍法会議で懲役十年の判決を受けていた。が、2年10ヶ月服役後に出獄。その後、軍の資金でフランスに出向く。帰国後満州に渡り、清朝の廃帝・溥儀を天津から満州へひそかに護送し、情報・治安活動などを通じて満州国建国の功労者となっていた。満州国唯一の政党協和会の総務部長に就任し、「満州の甘粕」の異名をとっていた。
この頃、上海に「中華電影公司」が日中折半出資で設立された。軍が満州以外の占領地対策として作った初の映画会社で、実質的な責任者は川喜多長政氏であった。「新京(長春)にテロリストと言われた元憲兵大尉率いる満映があり、憲兵に父親を殺された映画人が率いる中華電影が上海にできた。私は満映の女優でありながら上海で活動するようになる」(2004.8.13日付け日経新聞「私の履歴書」、山口淑子K)
この年、アインシュタインが、「米国に於ける原爆開発」をルーズベルト大統領に進言する手紙を送る。ハンガリー出身の物理学者・レオ・シラードも署名。
1940(昭和15)年の動き |
(この時代の総評)
海軍が、「零式戦闘機(ゼロ戦)」を完成させた。「ゼロ戦」も中国で使用され威力を発揮することになった。開発技師は堀越二郎。
1.8日、東条陸軍大臣名で「戦陣訓」が出る。内容は、本訓その一、皇国・皇軍・軍紀・団結・協同・攻撃精神・必勝の信念。本訓その二、敬神・孝道・敬礼挙措・戦友道・率先躬行・責任・生死観・名を惜しむ・質実剛健・清廉潔白。本訓その三、戦陣の戒め・戦陣の嗜み、となっている。特に「名を惜しむ」の中の、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」の部分が有名。京都師団の石原莞爾はこれ読んで、「バカバカしい。東条は思い上がっている」と批判。東条は大いに怒り、石原は3月に予備役に編入された。
【阿部伸行内閣→米内光政内閣】 |
1.14日、阿部内閣総辞職。欧州戦争による物価の騰貴、対米交渉に失敗し、結局、阿部内閣は様々な問題に対して無為無策のまま首相の座は現役海軍大将の米内光政に交替する。 1.16日、米内光政内閣成立(米内(よない)光政)。 しかし、やはり軍事同盟を巡って陸軍と対立。海軍としては、アメリカと戦争をして勝てる見込みがつかない。当時、海軍の仮想敵国はアメリカであり、その実力を良く認識していた。それに対して陸軍の仮想敵国はソ連、アメリカに対してはなめてかかっていた模様です。この間の目まぐるしい内閣の交替の間にもインフレと事変は泥沼化する。 |
1.26日、日米通商航海条約期限切れ、無条約時代に入る。マレー沖海戦。
【斎藤隆夫の除名問題発生】 |
|||
2.2日、米内内閣成立直後の当時民政党の衆議院議員であった斎藤隆夫は、第75帝国議会2日目米内(よない)内閣の施政方針演説に対する代表質問で、丁度満3年目を迎えようとする日中戦争に関して、米内内閣の対応を問い、政府の日中戦争処理方針を巡って約1時間半に及ぶ大演説をぶった。戦争の終結条件は何なのか、政府に展望を示すように要求。支那事変の戦争目的と見通しについて明らかにせよと迫った。日中戦争が聖戦とされ、国民に無限の犠牲を要求していることを批判。東亜新秩序とは何か、それは空虚な偽善であると決めつけた。演説の後には拍手喝采が起こり多くの議員が賞賛した。しかしこれは聖戦を冒涜するものであるとの問題になり、斉藤は衆議院から除名される。これが特に陸軍から、「聖戦目的の侮辱、10万英霊への冒涜(ぼうとく)」であり、「非国民」と攻撃され、衆議院議員の除名へと発展した。この経過は、政党の分解作用に深刻な影響を与えた。 この時の斎藤議員の質問要旨は、軍部が主導する戦争政策全体への批判で、その要旨は、「@・1938(昭和13)年1月の近衛声明が「支那事変」処理の最善をつくしたものであるか否か、A・いわゆる東亜新秩序建設の具体的内容とはいかなるものか、B・江兆銘援助と蒋介石政権打倒を同時に遂行できるのか、C・「事変」勃発以来すでに戦死者10万、国民にさらに犠牲を要求する十分な根拠を示せ」というものであった。「すべての戦争は力と力との衝突である。そうした戦争観を鏡とすれば、国際正義、道義外交、共存共栄、世界の平和等の美名を掲げて聖戦などと称することは、単なる虚偽にすぎない」。
締めくくりを次のように述べている。
斎藤の演説は拍手喝さいで終わったが、軍部のみならず、議会内でも、時局同志会、政友会革新派、社会大衆党が斎藤を非難、憂慮した小山松寿衆院議長と斎藤が所属する民政党幹部は、斎藤に演説速記録中の以下の「不穏当」部分の削除を要求、斎藤も議長に一任、議長は職権で演説の後半部分すべてを速記録から削除した。なお、新聞社へは内務省から斎藤を英雄視するような記事の掲載は「まかりならん」との通達があった(「歴史のページ 」)。 さらに軍部の攻撃を恐れた民政党幹部は、斎藤に離党・謹虞を勧告、斎藤は同日党籍を離脱するが、これでおさまらず、衆議院懲罰委員会は満場一致で除名を決定、6日の衆議院本会議は、除名賛成296票、反対7票、棄権144票で可決した。 「議事録から削除された斎藤演説部分」は次の通り。(2.3日付「東京日日新聞」参照)
|
【汪兆銘を主席とする南京政府樹立】 |
3月、上旬臼井大佐(参謀本部主務課)と鈴木中佐が重慶政府代表の宋子良と香港で会談(桐工作)。3.12日、汪兆銘、和平建国宣言を発表。3.30日、重慶にいた汪兆銘を連れ出して、彼を主席とする南京政府を樹立。この建国手法は満州国のそれに倣った。但し、米国のハル国務長官は南京政府否認声明を出している。 |
【支那事変処理として撤退方針が決定される】 |
3.30日、支那事変処理に関する極めて重要な事項が、参謀本部の提案に基き、この日、陸軍中央部で決定された。それは、「昭和15年中に支那事変が解決せられなかったらば、16年初頭から、既取極に基いて、逐次支那から撤兵を開始、18年頃までには、上海の三角地帯と北支蒙彊の一角に兵力を縮める」というもので、事変処理の大転換であった。もともとこの撤兵案は陸軍省の発案になるものであり、陸軍省側では今すぐからでも、撤兵を開始するような剣幕であった。予算面からも間接的に参謀本部を抑制しようとした。事変解決に、参謀本部も陸軍省も手を焼いていることが分かる。当時参謀本部としても、内々黙認した形であった。昭和15年度の臨時軍事費は、こんな前提の下に確定せられていた。 [種村佐孝「大本営機密日誌」(ダイヤモンド社,昭和27年)P12-14] この本は公式の日記ではなく、元大本営参謀戦争指導班長の種村佐孝氏が、同僚の助けを得て書いた日記と記憶によって書かれたものです。開戦前から終末期まで、時間を追って具体的に書かれた貴重な資料としてしばしば引用される本です。 |
【日本軍が重慶爆撃開始】 |
5月上旬、重慶爆撃開始。無差別爆撃となった。海軍航空隊の指揮官として、重慶爆撃に参加した巌谷二三男氏の証言「1940.6月上旬頃までの爆撃は、もっぱら飛行場と軍事施設に向けられていたが、重慶市街にも相当数の対空砲台があり、そのため味方の被害も増大する状況となったので、作戦指導部は遂に市街地域の徹底した爆撃を決意した。すなわち市街東端から順次A、B、C、D、E地区に区分して、地区別に絨毯爆撃をかけることになった」、「建物が石材や土などでできている中国の街は、一般に火災は起こしにくかったのであったが、重慶の場合はよく火災の起こるのが機上から見えた。これは市街中央部の高いところは、水利の便が悪かったのであろう。また使用爆弾も、戦艦主砲弾(四〇センチ砲弾)を爆弾に改造した八〇〇キロ爆弾から、二五〇キロ、六〇キロの陸用爆弾、焼夷弾などをこのごも使用した」、「六月中旬以降の陸攻隊は連日、稼働全兵力をあげて重慶に攻撃を集中した。その都度偵察写真が描き出す重慶市街の様子は、次第に変わり、悲惨な廃墟と化していくように見えた。何しろ殆ど毎日、五十数トンから百余トンの爆弾が、家屋の密集した地域を潰していったのだから、市街はおそらく瓦れきと砂塵の堆積となっていったことだろう」、「ことに[八月]二十日の空襲は陸攻九〇機、陸軍九七重爆十八機、合わせて百八機という大編隊の同時攻撃で、これまた一連空が漢口からする最後の重慶攻撃となった。この日、爆撃後の重慶市街は各所から火災が起こり、黒煙はもうもうと天に沖し、数十海里の遠方からもこの火煙が認められた」(巌谷二三男 「海軍陸上攻撃機」朝日ソノラマ)。 |
5.11日、有田外相、蘭印現状維持を各国駐日大使に申し入れる。
5.18日、御前会議で対支処理方策を決定。
5.25日、有田外相、バブスト駐日蘭大使に対蘭印13項目の要求を送る。
【ヨーロッパ戦線で独軍が進撃開始】 |
5.10日、欧州で、ドイツ軍が華々しい実力を行使しはじめ、5月にはオランダ、ルクセンブルク、ベルギーを侵略、更にマジノ線を突破してフランス軍を席捲し、イギリス軍は「ダンケルクの悲劇」に追い詰められた。 |
5.16日、イギリスにチャーチル内閣成立。
【ヨーロッパ戦線で伊軍が独軍側で参戦】 |
6.10日、伊軍が独軍側で参戦し、イギリス・フランスに宣戦布告。 |
【支那事変処理として戦線拡大方針が決定される】 |
この独軍の戦果拡大が陸軍部内の大転換をもたらすことになった。『バスに乗り遅れるな』的ムードがはやり出し、「撤兵」のはずが、「大東亜戦争」に拡大していくことになった。欧州情勢の急変転が陸軍内部の考え方を180度大転換させた。「わずか2ヶ月前、さる3月30日には、専ら支那事変処理に邁進し、いよいよ昭和16年から逐次撤兵を開始するとまで、思いつめた大本営が、何時しかこのことを忘れて、当時流行のバスに乗り遅れるという思想に転換して、必然的に南進論が激成せられるに至ったのである」(種村佐孝「大本営機密日誌」・ダイヤモンド社・昭和27年・P14)。 東南アジアの植民地は事実上、無主の土地となり、南進論が現実味を増してきた。ドイツは、外相リッベントロップの信任厚いシュターマーを特使として派遣し、日本がアメリカをできる限り牽制するために、日独伊三国同盟を打診した。 |
5.13日、第1回報国債券発売。
6.3日、工作機械の対日輸出禁止。
6.9日、ノモンハン国境確定交渉成立。
6.12、日タイ友好条約締結。
6.18日、米下院海軍委員会で海軍拡張案(両洋艦隊法案)が可決。
6.24、ビルマおよび香港経由による蒋介石政権援助物資輸送停止をイギリスに申し入れる。
【基本国策要綱」が立案される】 |
6.25日、「基本国策要綱」が立案され、7.27日、「連絡会議」で決定、上奏された。 |
7.7日、商工、農林両省令で、「奢侈品等製造販売制限規則」(7.7禁止令)が公布され、国民生活に大きな影響を与えていくことになった。
結局、7月16日、畑陸相の単独辞職に伴い陸軍では陸相を出さず内閣総辞職。
【米内光政内閣→第二次近衛内閣】 | |
7.16日、米内内閣総辞職。結局、米内光政内閣も陸軍に振り回され放しで終わる。国民は官僚にも政党政治にもいやけがさし、「もう近衛しかいない、もう一度近衛に力を」の声が高まり、再度近衛が登場してくることになった。 7.17日、第二次近衛内閣が組閣された。外相に松岡洋右、陸相に東条英機、海相に吉田善吾が起用された。「ウィキペディア松岡洋右」は次のように記している。
@・日・独・伊枢軸の強化、A・東亜にある英・仏・蘭・ポルトガルの植民地の占領、B・アメリカの実力交渉排除、を重要政策に掲げ、これが開戦へのお膳立ての動きとなった。 |
7.25日、ルーズベルト大統領、石油と屑鉄を対日輸出許可品目に加える。
7月、麻生久率いる社会大衆党が解党。麻生は、近衛が選任した新体制準備委員26名中の1人に選ばれる。但し、大政翼賛会の結成直前の9月に病死する。
【大本営が南進を旨とする「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定】 |
7.26日、閣議で大東亜新秩序と「基本国策要綱」を決定し、翌7月27日政府は2年ぶりに大本営政府連絡会議を開き、南進を旨とする「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。ドイツの勝利に乗り遅れまいとする心裡が強く働いていた。これに基づき仏印進駐が企図されていくことになった。 |
8月には東京市内に「ぜいたくは敵だ!」の看板が立てられる。
8月、キリスト教会に対する弾圧と迫害も日増しに強まり、賀川豊彦が反戦思想を宣伝したという理由で投獄された。
【「新体制準備会」発足】 |
近衛文麿はこの難局を打開するため、右派・左派・軍部までをも含めた「革新」勢力の結集を目指し新党構想を練る。国民組織を基盤とした強力な政権を作り、軍を取り込んで統制し、政治を刷新して政治新体制を建設を目指した。この運動は新官僚たちが中心となって進められ、やがて「新体制運動」と云われようになった。 そのスローガンは「下意上達」であった。つまり、この事態に対して無為無策の腐敗する政界・財界・内務官僚たち保守派の「上」の既成勢力を一掃して、「下」の国民の意見を代表する革新勢力を結集した政治を実現し、この難局から国を救おうというものであった。但し、参加した勢力を見ても、麻生久の社会大衆党や赤松克麿の日本革新党(もと社会主義者グループ)、橋本欣五郎の大日本青年党(革新右翼)、民政党、政友会内の一部(保守政党内の改革派)、岸信介などの新官僚、武藤章など革新的軍部、その他色々な勢力が混交していた。さらに尾崎秀実(国際的共産主義者)までもが推進というまさにごった煮状態で、それぞれ意見が異なり紛糾する。 その後の経過は次の通り。右派も左派も軍官僚も近衛イヤになり、なげやりな言動が目立つようになる。企画院(革新官僚)の作成した「経済新体制確立要項」を軍官僚や平沼騏一郎がアカ思想として攻撃し、革新官僚は治安維持法違反容疑で検挙される。こうして革新官僚も力を失う。近衛に国内の意見をを纏める力はもはや無く、戦争回避にむけたルーズベルト米大統領との会談も実を結ばず、近衛はやる気を失い辞職していくことになる。 |
9.3日、米英防衛協定調印。
9.13日、重慶攻撃。この時、27機の陸上攻撃機と13機のゼロ戦が漢口飛行場を発進して重慶へ向かった。上空で交戦となり、ゼロ戦が倍する中国機(ソ連製「I15」、「I15」)の全27機を撃墜するという戦果を挙げている。
9.16日、米で選抜徴兵制公布。
9.19日、支那派遣軍総司令部、桐工作(対重慶和平工作)の一時打ち切りを決定。
9.22日、日・仏印軍事協定成立。この協定で、仏領インドシナ北部への日本軍進駐を仏国に認めさせた。
9.23日、日本、北部仏印進駐。
日本軍はただちに南進を開始、北部仏印を占領した。
9.25日、米陸軍通信隊、日本海軍の暗号解読に成功。米、重慶政府に2500万ドルの借款供与。
【「日・独・伊の三国同盟」を締結】 | |
9.27日、松岡外相の音頭で「日・独・伊の三国同盟」を締結。
|
10.8日、極東の米国人の引き揚げ勧告。
【「大政翼賛会」発足】 |
10.12日、新体制準備会は、「大政翼賛会」に結実した。「挙国政治体制の確立」のため、既成政党が自主解党、新党設立の準備組織として「大政翼賛会」が発足した。総裁は総理の兼任ということになり近衛が就任した。但し、右翼から左翼までを集めた「革新」勢力の呉越同舟的な寄合い世帯であり、近衛首相もまた「本運動の綱領は大政翼賛、臣道実践というにつきる。これ以外には綱領も宣言も不要と申すべきであり、国民は誰も日夜それぞれの場において奉公の誠を致すのみである」と述べるなど掛け声倒れの代物でしかなかった。 |
【「企業合同、トラストの結成」】 |
三国同盟締結を契機として「企業合同又はトラスト」の結成が急速度に進行し、巨大資本による中小企業、新興財閥の整理が進められていった。大資本の論理は、物資の不足を企業統合により免れようとし、@・当該物資の生産企業と直接に結合し、これを支配する。A・より大なる物資の配給割当を獲得するために他の企業と結合し、その実績分の配給権を掌握する。B・事業の新設拡張が困難なため、他の企業を吸収合併する、というところにあった(中村静治「日本産業合理化研究」)。 |
10.14日、ルーズベルト大統領、レインボー計画(陸海軍統合戦争計画)を承認。
10.15日、松岡外相、グルー駐日米大使と会談。
10.16日、米国、屑鉄と鋼鉄の対日輸出禁止。コーデル・ハル国務長官は、日本に対する屑鉄の輸出を禁止し、アメリカの対日締め付けが強化されていくことになった。このようななアメリカの動きに対して、英米協調を重ねて主張してきた西園寺は苦悩をかさねた。その中で、西園寺は逝去した。九十歳であった。
10.30日、日ソ交渉開始。
11.6日、ルーズベルト、大統領に三選される。
11月、アメリカが、中国の蒋介石政権への軍事援助開始決定。
11.12日、ソ連のモロトフ外相がベルリン訪問。ヒットラー、リッペントロップと4回にわたって会談。この時、ヒットラーは「独ソが協力すれば収穫は大きく、対立すれば小さい。独ソが手を握れば世界無敵ではないか」、「新しい勢力圏の設定がまとまれば、4ヶ国は今後、百年どころか数百年の計を立てる事ができる」と「四国同盟案」の提携を持ちかけているが、モロトフ外相は応ぜず。
【御前会議で「支那事変処理要綱」が決定される】 |
11.13日、御前会議で、日華基本条約案と「長期戦方略」への転換を定めた「支那事変処理要綱」が決定された。 15年11月、企画院より「経済新体制確立要項」が提出される。これはより強力な戦時統制経済の確立を目指した内容。企画院原案では、・企業の公共化、・「指導者原理」にもとずく統制機構の確立・資本と経営との分離、・利潤の制限などが盛り込まれていた。これに対し自主統制を主張する財界が猛反発。右翼・内務官僚たちもこれに同調。この案をアカ思想の産物として激しく攻撃。近衛内閣内でも小林商工相の反対もあり、結局、軍部が間に入って資本と経営の分離を削除した上で12月7日に閣議決定される。 このアカ攻撃は、この後内相に就任した平沼騏一郎(観念右翼)によってさらに強まり、翌年4月の「企画院事件」につながる。これは企画院原案に関与した革新官僚を、共産主義者だとねつ造して治安維持法違反容疑で検挙された事件。これにより企画院も力を失い軍部の御用団体と化す。 「下意上達」だったスローガンも国体に背くとして「下情上通」に改められた。結局、新体制運動は目標だった強力な政治体制を作ることに失敗、ましてや軍を統制する力を持つことは出来なかった。しかもこれに対する国民の期待を利用して政党・労働組合などを自主的に解散させ、国民を完全に政治統制下に置く道を開いた形となった。 |
11.29日、帝国議会開設50年記念式典が行われた。
11.30日、南京政府(汪兆銘政権)承認し、日華基本条約調印。
12月、近衛新体制で第76回議会が召集される。大政翼賛会に参加した衆院議員435名で「衆院議員倶楽部」が結成された。不参加議員が7名いた。欠員24名で98%が参加した。一国一党である。日本での議会政治は姿を消すことになる。
12.5日、ウォルシュ司教、ドラウト神父、松岡外相を訪問。12月28日ウォルシュ、ドラウト帰米。
12月、イギリスが、中国の蒋介石政権への軍事援助開始決定。
12月、政府は、内閣情報局主導下に設立された日本出版文化協会に加入しない者には用紙の割当が受けられないことにした。これにより、言論統制がますます強化され、抵抗が踏み潰された。
このころから政府の戦時経済政策の矛盾が、決定的になり始める。日本銀券の保証準備発行限度は10億円から、昭和13年4月に17億円に、昭和14年4月に22億円に拡張されている。公債を日銀に買わせているため、どうしても、この必要があった。それだけ「金」の裏付けの無い、インフレマネーが発行可能となっている。さらに物資不足もこれに追い打ちを掛け、不況の中で物価だけが高騰してゆく、悪性インフレが深刻な問題になってくる。
この悪性インフレを押さえるため、政府は公定価格を決めインフレを抑えようとする政策を採る。昭和14年には価格統制令(九・一八ストップ令)が公布・施行。これは9月18日時点の価格で強制的に物価を固定すると言うもの。同時に地代家賃統制令・賃金臨時措置令・会社職員給与臨時措置令も公布・施行。地代・家賃・賃金・給与もストップあるいは統制下に置かれる。はっきり言って市場原理を全く無視した無茶苦茶な経済政策。ヤミ取引・買いだめ・売り惜しみが横行して国民生活がますます困難になる。
この間に支那事変は拡大を続けており、昭和14年までに、ほぼ20個師団が新設され、中国には85万人の兵員が展開されている。これにより多くの成人男性が徴兵で兵役に取られる事に。このため拡大する軍需産業でも労働力不足が慢性化。兵隊と軍需産業に男子を取られた農業・軽工業・商業では女子労働力が増加。この事により農村までもが人手不足に陥る。さらに昭和14年は、朝鮮及び西日本が干害に見舞われており、米の生産が低下。食糧不足までもが深刻化する。
ここで政府が取った政策は、「国家総動員法」に基づく、物資の生産・配給・消費統制の強化。昭和14年12月の木炭を皮切りに、昭和15年10月頃までには、生活必需品である米・麦・衣料品・砂糖・マッチ・練炭・大豆等々の配給統制が実施される。これによりヤミ取引がますます盛んになる。政府は経済警察を設立し取り締まるが全く効果なし。「物価のなかで動かぬのは指数だけ」と言われるほどの有様となる。この時点で日本経済は明らかに縮小再生産の過程を歩み始める。
【以降の流れは、「大戦直前の動き」の項に記す】
(私論.私見)
日本近現代史 http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zibiki/ke.htm
「憲政の常道」(けんせい−の−じょうどう)
西園寺公望ら「奏薦集団」が戦前の政党内閣期(1924−1932)に積み重ねた、政権交代の慣例のこと。
簡単に言えば、「ある内閣が倒れたとき、その後継として内閣を担当するのは野党第一党である」とする慣例である。
しかし、内閣が倒れた理由が総理大臣のテロによる横死や病気などの場合は、政権交代は政党の間では起らない。政権交代が起るのは、その内閣が失政によって倒れたときだけである。
内閣名 | 政権与党 | 野党第一党 | 内閣総辞職理由 | |
24 | 第一次加藤高明内閣 | 憲政会・政友会・革新倶楽部 | 政友・革新閣僚による閣内不統一 | |
25 | 第二次加藤高明内閣 | 憲政会 | 政友会 | 加藤首相病死 |
26 | 第一次若槻礼次郎内閣 | 憲政会 | 政友会 | 緊急勅令案否決 |
27 | 田中義一内閣 | 政友会 | 憲政会(民政党) | 張作霖爆殺事件処理の不手際 |
28 | 濱口雄幸内閣 | 民政党 | 政友会 | 濱口首相テロで重傷 |
29 | 第二次若槻礼次郎内閣 | 民政党 | 政友会 | 安達内相による閣内不統一 |
30 | 犬養毅内閣 | 政友会 | 民政党 | 五・一五事件による犬養首相横死 |
犬養首相がテロで倒れたとき、「憲政の常道」原則によれば次は政友会内閣が来るはずであった。
ところが内閣奏薦の任に当たる西園寺公望は、憲政の常道原則にとらわれず、中間内閣を奏請することによって状況の改善を企図する。西園寺にとって「中間内閣」はあくまでも緊急避難的な措置であった。しかし結局、戦前期において再び政党内閣が復活することは、なかったのである。
明治維新とそののちの近代国家建設にあたって功績のあった、政界最長老のことを言う。
一般にはそのメンバーは、伊藤博文、山縣有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、西園寺公望の八名で、場合によっては桂太郎を加えることもある。西園寺以外はいずれも薩長藩閥の出身者で、内閣制度発足当時はこれらの人々がかわるがわる出て、薩長間のバランスを崩さぬよう、組閣と施政にあたった。
では、元老の資格とはなんであろうか。もともと元老とは、法的規定のあった存在ではなく、最初にマスコミが言い始めたものであった。上の八名の中で特に別格と見なされていたのは、伊藤博文であったが、彼に対する天皇の親任は殊の外篤く、彼が枢府議長の職を辞すると、天皇から前官礼遇と元勲優遇の特別の勅書が降った。のち、黒田清隆が首相を辞すると黒田にも同じ勅諚が、また明治天皇薨去ののち、踐祚した大正天皇は、山縣、井上、大山、桂の五名に対して、また西園寺に対しても別個に重臣優遇の勅諚を下した。
この「元勲優遇」「重臣優遇」の勅諚が、元老と見なされる資格の一つであったことはおそらく間違いないが、もう一つの事実上の資格とは、「元老会議」とマスコミ一般に呼ばれた、次期首班選考会議に出席できたか否か、ということにあると思われる。桂は第三次桂内閣の後継首班選考に出席したが早々に中座し、その後会議に参加することなく死去したため、元老として見なしがたいのではないかと私は考える。
さて、元老は、補充されない。明治の御代に死んだ黒田、西郷、伊藤ののち、元老の勢力は第一次護憲運動によって衰退する。官僚閥を形成し、その頂点にいた山縣の影響力が桂新党(立憲同志会)設立によって減殺されると、最大の影響力を持つ山縣元老は、政党首領である原敬を、次期首班に推さざるを得なくなる。
また、その山縣の死に前後して、大山と松方が死ぬと、西園寺が唯一の元老となったが、彼は元老を再生産する意志はなく、むしろ山本権兵衛、清浦奎吾などの準元老たろうとする動きを封殺し続けた。そして西園寺は、宮中と協力して天皇に後継首班を奉答するシステムを作り上げたが、それも「憲政の常道」原則、また政党政治の終わりと同時に凋落していった。
西園寺は自分の死去後のシステムを模索していき、ついに奏薦制度自体を内大臣を中心とする宮中に移して、元老の下問奉答慣例を廃止に持ち込んでいった。昭和十五年、西園寺死去。ここに元老は消滅した。