これを突き詰めれば、「昭和の動乱」とは、一種の「狂言」であり、その裏側に真の目的が隠されていました。それは当時の権力機構に衝撃を与えて、それをお互いに戦わせて内乱に導き、同時に軍部の暴発を誘い、日本と中国を戦わせ、やがて日米開戦に引きずり込むと言うシナリオに他なりませんでした。
民間の「非愛国的仮装右翼」といわれる一部の連中は、財閥や国際ユダヤ金融勢力と結びついており、陸海軍の中にも、そうした首謀者の影を見る事が出来ます。現に、海軍の士官で構成される親睦や研究や共済等を標榜した「水行社」は、フリーメーソン日本支社の巣窟であり、米内光政や山本五十六が出入りしていました。
2.26事件によって、陸軍皇道派は完全に捻り潰されました。その後に台頭した陸軍統制派は、国際ユダヤ金融勢力によって、おだてられ、煽られた挙げ句、日中戦争の泥沼に突入し、その上、太平洋戦争への道へと突入しようとします。
海軍では西園寺公望や岡田啓介、米内光政や山本五十六といったフリーメーソン・メンバーが、国際ユダヤ金融勢力の走狗でした。日本を滅ぼしたのは、陸軍統制派と海軍でしたが、彼等を操ったのは、西園寺公望を筆頭とするフリーメーソンらであり、また、一部の非愛国的右翼だったのです。
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歴史の節目に奇しくも重なり、日本の運命に影響を与えた阿部定事件
昭和11年(1936年)5月18日に、突如、猟奇(りょうき)の阿部定(あべさだ)事件が起こります。
阿部定が、情夫の石田吉蔵(きちぞう)を絞殺し、男根局部を切り取って逃亡すると言う前代未聞の猟奇事件が発生したのです。
この事件は、約一週間に亘り、新聞の社会面を独占しました。何故か、エロに対して煩(うるさ)いはずの検閲当局が、これに制限を加えるような事をしなかったのです。しかしこれは、一種の作為があり、軍部の意図が働いていました。
5月12日の夕刻、荒川区の旅館「まさき」の紅灯(こうとう/紅色の提灯(ちょうちん)の事で、酸漿(ほおずき)提灯とも)を潜った一組の男女がありました。男の年齢は四十五歳くらいの好男子で、女は三十を少し廻った頃の、一見玄人(くろうと)と認められる目鼻立ちの整った女性であったと「警視庁史」には記されています。そして昼夜を問わず、痴情の狂態振りを繰り広げたと言います。
この阿部定事件は、不思議な事に「歴史の節目」と重なります。阿部定が、石田吉蔵を殺害したのは5月18日の事でした。
また、この日の『官報』(詔勅・法令・告示・予算・条約・叙任・辞令・国会事項・官庁事項その他政府から一般に周知させる事項を編纂して、大蔵省印刷局から刊行する国の機関紙で、日刊)は、陸海軍の官制を改めて、大臣および次官は「現役」
(【註】現役制度は一度は、予備でも後備でも大臣となれるとしたが、軍部が内閣の死命を制する為に山県有朋時代の現役制度を復活させた)に限るとしたのです。
そして、これは極めて重要な改正でしたが、その後の日本の運命に、決定的な影響を及ぼし、この重要な決定事項の危険性に気付いた人は、殆どいませんでした。
また一方で、新聞は陸海軍の現役制度復活等はそっちのけで、阿部定を「妖婦」として書きなぐり、事件を「猟奇事件」として大々的に報道するのに大忙しだったのです。
新聞は、終始、定を悪女として名高い、高橋お伝(上州生れの、殺人を犯すなど、毒婦と評判された女性で、明治九年(1876年)捕えられて、明治十二年に死刑)のように報道しましたが、大衆の受け止め方は必ずしもそうではありませんでした。一方で同情され、「お定人気」は鰻(うなぎ)登りになっていました。中には、はるばる満州から裁判所の前に並んで、先着150名の傍聴を求めたのでした。
当時、踊り子が脚を上げただけでも煩(うる)かった警視庁も憲兵隊も、この事件を暗示するような映画や芝居や小説の作成は禁じましたが、報道に限っては好きなようにさせていたのです。
定が逮捕された後も、この時代の警察発表は報道陣にも公表されないものでした。ところが、こうした慣例に反して供述までもを公表し、こうした処置をとったのは、如何なる意図によるものだったのでしょうか。
問題は、実はこの裏側に隠れていたのです。
しかし、阿部定事件の報道が大々的に扱われてしまった為、陸海軍の「現役復活」の『官報』が隠されてしまったのです。これは意図的に画策されたものでした。
ここに官憲の誘導する意図が見て取れ、その背後には巨大な支配階級(三井や三菱等の重工業を手掛ける巨大財閥や軍需工場)の見えざる、時代を操る糸があったのです。span>
日本で内閣制度の誕生したのは、明治18年12月の事でした。それ以前は明治維新以来、太政大臣(だじょうだいじん)制度をとっており、太政大臣は当時、三条実美(さねとみ)でした。
初代総理大臣は伊藤博文であり、陸軍大臣は大山巌(いわお)、海軍大臣は西郷従道(つぐみち)でした。この時は陸海軍とも、現役の軍人が大臣を勤めましたが、法律では現役でなければならないという決まりはありませんでした。
大日本帝国憲法において、内閣の各大臣は各々が天皇から任命され、各人が天皇に対して責任を負うという形をとっていました。まず、天皇は首相を指名し、任命された首相は、天皇の組閣の要望に応じて、各省の大臣をリストアップし、本人の承諾を得た後、天皇に報告します。そして天皇が、各々を大臣に任命するのです。 |
▲昭和11年5月18日に報じられた『官報』。
そしてこの日、陸海軍では「現役」が復活した。
しかし、昭和11年(1936年)5月18日の『官報』に報じられた、「大臣および次官は現役に限る」と定めた官制は、重要ない意味を秘めていたのです。
「現役」には数に限りがあります。予備役や後備役は多くいますが、現役となると、そうざらにはいるはずがなく、結局、首相苛めのような形になり、「軍閥」という派閥を形成していく事になります。またこれが、軍部の暴走を許す事になり、以降、ファシズムの暴走は、誰も止める事が出来なかったのです。
官制と言う、法的に効力を持つ改正法は、国家元首と雖(いえど)も憲法に従い、好き勝手をすることは許されませんでした。国家の主権たる天皇でも、軍を好き勝手に動かす事は出来なかったのです。
そして一度定まれば、天皇と雖(いえど)も、憲法および下位に付帯する諸法令に基づいた権限を保持しなければならず、これが立権君主制と絶対君主制の決定的な違いでした。
陸海軍の統帥と言う、大権が天皇に帰属している為に、外部からは誰もこれに口を挟む事は許されず、天皇もまた陸海軍を制御し、ブレーキを掛ける事は出来なかったのです。陸軍では陸軍参謀総長が軍を掌握する最大の権限を握り、また海軍では軍令部総長が最大の権限を握って、天皇と言う主権者の意思すら不在のまま、日本は戦争に突入していきます。
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▲日独防共協定結成。
赤坂にドイツ大使館員を招き、
芸者を上げて協定締結を祝う陸軍の祝賀会。
軍は、目先の問題が発生した時から、自国の国家戦略など全くお構え無しに、好き勝手に暴走し、行動を開始するという有様でした。
本来ならば、作戦起ち上げの草案や立案の必要性があっても、そんな国家戦略上の問題は後回しにされ、不利益とされる戦いでも、これを回避する事が出来ず、国民の多くはこうした不利益と思える、最初から負け戦の予想される戦いからも逃げられずに、死地に赴かねばならなかったのです。 逆に、勝てる戦いであっても、作戦を中止したり、とにかくその総ての権限は、陸軍参謀総長や海軍軍令部総長が一手に握っていたのです。
そして奇(く)しくも、この陸海軍に大臣並びに次官の現役制度が復活し、軍の暴走を許したのが、阿部定事件の起こった昭和11年5月18日だったのです。
日本はこれ以降、軍部の影響力が増大し、戦争へと軍靴の足並みを揃えて、この中へと突入していきます。
天皇に巨大な名目上の権限を与え、しかも、これを一切遣わせないと言う大矛盾を抱え、日本は戦争目的も、国家意識も、国家戦略も何も構築せぬまま、中国を行き当たりばったりに侵略し、首までどっぷりと泥沼に浸かり、また太平洋戦争突入と言う、まことに悍(おぞま)しい、結果を迎えるのです。
そして、同年の11月25日には日独防共協定が成立し、対共産主義コミンテルンの防衛協力等の、対ソ連に関する秘密協定が結ばれます。
そして、これから四年後の昭和15年(1940年)9月には、第二次大戦中の枢軸国であった日本・ドイツ・イタリア三国が締結した軍事同盟を結び、日・独・伊三国同盟が締結されます。この締結は、日独伊防共協定を発展させたもので、アメリカとイギリスとの対立激化を招き、やがて太平洋戦争の一要因となっていきます。
●軍部大臣現役武官制を許した広田弘毅内閣
2.26事件後に組閣した広田弘毅(ひろたこうき)内閣は、陸軍統制派が実権を握った以降、陸軍の横車に対して、これを阻(はば)む力はありませんでした。陸軍は益々発言力を強め、「庶政一新」の名の下に、政治介入を押し進めて行く事になります。
そして、陸軍の政治介入を、制度上で確実にしたのが『官報』に記された「軍部大臣現役武官制」でした。
▲陸軍首脳の横槍を阻止できなかった広田弘毅首相。
そして、その責任は大きい。
これは、明治33年の第二次山県有朋内閣の時に、明文化されたものですが、この制度によって、幾つかの内閣が倒された前例があり、大正2年の山本権兵衛内閣の時に、軍部大臣は予備役の中将や大将でもよいという風に改められました。
しかし2.26事件以降、予備役に退いた皇道派の将軍の復活を阻止しようと考えた統制派の軍閥は、「軍部大臣現役武官制」を復活させ、これを徹底的に悪用して、軍部独裁を図り、日米開戦に突入していったのは周知の通りです。
陸軍上層部の狙いは、自分達の気に入らない組閣は一切認めないという事であり、組閣に不満がある場合、現役軍人から陸軍大臣を出さないと言う形で妨害したのです。
また、米内光政内閣でも見られた事ですが、陸軍大臣を辞任させる事で、内閣を崩壊させると言う悪辣(あくらつ)な手が使われました。
これは当時、米内内閣を倒して、陸軍が操り易いように内閣を改造すると言うものでした。
そしてその後、登場したのが近衛文麿内閣で、陸軍の筋書き通り、組閣から二ヵ月後の昭和15年(1940年)9月27日には、ベルリンで日・独・伊三国同盟が締結されたのです。
これはやがて日米開戦の切っ掛けを作り、日米開戦の土台となったものが「軍部大臣現役武官制」だったのです。その意味で、広田内閣の指導力のなさと、その責任は非常に大きかったと言えます。
広田首相の陸軍の横槍を阻止できなかった責任は非常に大きく、2.26事件の起こった翌昭和12年(1937年)7月7日には、北京郊外で蘆溝橋事件が起こり、これを切っ掛けに日本軍は中国への侵略戦争を開始します。そして軍部は思い上がり、益々エスカレートして陸海軍は各々の独走し、対米英戦争へと拡大していく事になります。
政界も言論界も、最早こうした軍部の横暴は押さえ付けられ、破滅に向けて膨れ上がる、国家を滅亡に導く戦争を誰も止められなくなってしまいます。
そして戦争指導に関わり、その名を連ねたのが、かつての三月事件(昭和6年3月に起こったクーデター未遂事件で、首班は陸相の宇垣一成。小磯國昭、建川美次、杉山元、二宮重治、それに民間人右翼の大川周明)や十月事件(クーデター未遂事件で首班は橋本欣五郎中佐以下13名)に関与した幕僚派の面々でした。
彼等にとって、2.26事件は自分達が政治的な主導権を握る為の絶好のチャンスとなり、彼等はこの事件をうまく捕らえたのでした。
2.26事件を決起した、青年将校達が救おうとしていた農民や底辺の一般庶民は、やがて迫り来る米英(=国際金融ユダヤ資本家たち)の脅威に、微生物の如き弄(もてあそ)ばれ、自らの生命を軽々しく扱われて、戦争遂行の捨て石にされて無慙(むざん)に散っていったのです。
癒しの杜
参考
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20090427
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