鹿島昇・氏の履歴 |
(最新見直し2009.12.24日)
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ここで、鹿島昇・氏の史観を確認しておく。 2007.10.30日 れんだいこ拝 |
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【鹿島昇(かしまのぼる)・氏の履歴】 |
1926年、横浜市に 生まれる |
(私論.私見)
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鹿島f
氏のご紹介 松重 正
鹿島fの略歴は彼の著書の末尾に載っている、―と言ってしまえば平凡なので、
誰も語らなかった彼のことを少し書いてみよう。
(1)、大正一五年(昭和元年)、横浜市の(父は)弁護士の家に生まれた。
(2)、体格は良く、高校時代から空手をやっていた。早稲田大学に入ると、
それに磨きをかけて戦後流行の「ツッパリ」になった。
どういう心境だったのか彼のやり方は心身ともに徹底していて、
都内でも硬派の学生組織や組関係にもよく知られた存在であったという。
すると彼の何者をも恐れぬ勇猛心は、このころ培われたものであろうか。
(3)、それでも勉強は続けていたらしく、法学部在学中に、司法の国家試験に合格している。
おそらく頭脳明晰で論理的な、ここ一番に強い男だったのであろう。
(4)、卒業後、弁護士を業として一〇年ばかりやっていたが、一〇年もやると
大方の事件を経験し新味がなくなった。そこで「天皇制の研究」を思い立ち、
東大工学部出身の異色の歴史家・浜田秀雄(1906生)の門下生となって、
古代史の研究に取り掛かった。
(5)、普通の歴史学者または考古学者は、学生時代文学部に所属して単位を取り、
それらの教授の跡を追いながら自分好みの道を歩むというのが普通である。
そのため『記紀』中心の「国史」に影響されて進むことになり、
それから抜け出すことが中々むつかしい体質になってしまう。
ところが鹿島は法学部出身の「一般常識程度の国史認識」を持つのみで、
そういうシガラミはなにもない論理的な実証主義者であった。
その彼が浜田の影響もあって、いきなり『韓国の歴史』の研究に取り掛かった
= 実はこれが良かった。従来の『記紀』中心の「日本の歴史」が、「朝鮮の歴史」を
元にした翻案であるということを = はっきり認識できたのである。
(6)、こうして昭和五三年(一九七八)、『倭と王朝』を新国民社から出版した。
当時の同社の新刊案内は別紙コピ−のとおりであるが、この処女作が韓国で
大評判を呼んだ。
これが機縁となって朴蒼岩氏や李裕ャ氏と知り合い、
貴重な韓国の古文書類を(日本で解読されることを期待して)委託されたのである。
(7)、ところがこの古文書類が全部「白文」であったため、日本の著名な漢文の大家や
中国語の教授、あるいは有名な歴史学者などの門をたたき、ひたすらお願いしても
誰も引き受けてがなかった。
そこで彼は自分で漢文の勉強を始め、翻訳と解読に取り掛かったが、
それは骨身を削るような苦難の道であった。やがて三年間の努力が稔り、
多くの良き友人たちの援けを得て、全訳『桓檀古記』が出版されたのである。
これはまた韓日両国に亘る画期的な事業であったが、その中には驚くべき史実が内包されていた。
特に「A,D二一四年イワレヒコ=神武が九州糸島郡に上陸して伊都国を建てた」という箇所に
さしかかると、さすがの鹿島も眠れぬ夜が何日も続いたという。
またこれを踏まえて韓国の歴史も、「檀君朝鮮の古代史」を見直さねばならなくなった。
そのためには中国史も司馬遷の『史記』がオリエント史の漢訳であり、
「偽史」であることを証明せねばならない=という必要性が生じた。
つまりアジアの歴史を全面的に解明し、世界史そのものも構築し直すという大事業になったのである。
爾来鹿島はこれらのことを踏まえて次々と力作を発表し、読者を集めてシンポジゥムも開いていった。
(8)、その間/一九八〇年夏、『歴史と現代』XOT.1‐1が新国民社の季刊誌として出版され、
その巻頭に載ったのが別紙=朴蒼岩氏の『日本国民に告ぐ−歴史の略奪者は誰か』の名文である。
(9)、一九八一年、シルクロ−ド正史・全訳『桓檀古記』が新国民社から出版され、
その巻頭に古史古伝の先学者・吾郷清彦氏は『刊行に寄せて』という推薦文を載せ、
その壮挙を讃えて、「われわれ同学の誇りである」と激賞している。
(10)、同年二月一二日東京帝国ホテルにおいて、『神皇紀』出版記念パ−ティが盛大に開催されたが、
思えば鹿島は五五歳−最も華やかな時期だつたのではなかろうか。
(11)、彼は英語の読み書きも達者で話すことも上手であったから、アメリカやヨ−ロッパを始め
世界中隈なく旅行して見聞を広め、著作に役立てている。
そのために取得が容易なアメリカで車の国際免許を取り、
スポ−ツカ−を乗り回すなど中々ダンディな面もあった。
また各国で遊ぶことが大好きで、とてもこまめに精力的であったから、
或る時その訳を尋ねると「女性と仲良くなると、その国の方言が早く覚えられて
風俗習慣も判るから、研究に役立つ」という。
遊びと研究が両立できればすばらしいことであるが、何処へ行ってもお盛んなことであった。
また遺物や宝石類の鑑定眼もあり、宝石商としてもかなりの腕前であったようだが、
果たして儲かったのかどうかは知らない。そのほか不動産の売買とかにかかわり、
弁護士という職業を生かしてビルやホテルを建てて儲けたとか、持っているなどというが
一度も連れて行って貰ったことはない(弁護士としての腕は一流だったと思う)。
何時もブランド品を身につけ、私が如何にダサイかを笑いの種にしていたし、
金遣いは荒いように見えたが、勘定はいつも割り勘であったから金繰りは忙しかったのであろう。
(12)、度々の海外旅行の中で立てた彼のお手柄は、三つあるように思う。
その一つは、タイのバンチェン遺跡を国の内外にいち早く紹介したことである。
これは著書『バンチェン/倭人のル−ツ』として実を結び一九八一年発行されている。
その二つは、メキシコのマヤ文明が倭人の遺産であることを発見し、
これを多くの著書の中で発表したことである。
彼はこういう研究を通じて外国の学者たちとも交流を深めているが、
何時までも国内で認められないことを残念がっていた。
その三つは、秦始皇帝陵出土の兵馬俑が中国人のそれではなく、
ペルシア軍団のものであることを考証したこと、さらに新たな地下宮殿の発見を
中国政府が隠ぺい工作したことなどを鋭く指摘していることだ。
これについては日本に運ばれた兵馬俑しか見たことがない人にでも判るように、
写真入りの『秦始皇帝とユダヤ人』で詳しく述べている。
これによって人民中国の教科書までが歴史をゆがめていることを問題提起して、
実に見事な中共批判論を展開している。
(13)、鹿島はまた「同和問題」にも取り組み、『日本王朝興亡史』では公然と
差別問題の原点から説き起こし解明するとともに、
その正しい解決方法にまで言及している。
これについては別紙を参考にされると共に、当時の出版物の大要を見て欲しい。
(14)、古代史の解明だけでは「アカデミ−の偽史カ−テン」を開けるのに
手間取るとみた鹿島は、明治維新の時に「天皇すり替え」が行われた史実を公開し、
いかに「万世一系」が大ウソであるかということを証明する作業に取り掛かった。
その一番手が『日本侵略興亡史』で、そこに至るいきさつは別紙・評論家西垣内堅祐氏の
推薦文に載っている。またそれに続く「はじめに」は、鹿島本人の序文である。
つづいて一九九七年、『裏切られた三人の天皇』を世に出したが、
これが意外と海外にまで評判になったのである。
(15)このあと、今まで出した自著の集大成として『歴史』『国史正義』『倭と日本建国史』
などを次々と出版したが、これはどうも資金稼ぎだったようである。
(16)、一九九八年、『明治維新の生贄』が発表され、引き続いて『裏切られた三人の天皇』の
増補版が出版されて、これもかなり話題となった。
(17)、一九九九〜二〇〇〇年、『歴史捏造の歴史』1 、2が出版されて、啓蒙活動に入った。
このあと「近刊予告」(別紙)などもしていたのであるが、この頃から体調を崩し
一一月には横浜病院に入院して、腎臓の片方を摘出したのである。
(18)、二〇〇一年、それでも「いま中山国の研究に取り組んでいる」などと
元気そうなことを言っていたが、四月二四日ついに永眠した。
彼の葬儀が身内だけの密葬で行われた。
(19)、だが新国民社はなんとか続けるということであるから、
私たちも協力して行けることになるだろう。
そして何時かは事業が再開されることを期待し、
それまで黙々として私なりの集大成『韓国と日本の歴史』を書き進めるつもりである。
鹿島と松重の出会いについては、
『日本侵略興亡史』の四五〇ペ−ジに書いてある。
「私(鹿島)は昭和六二年(一九八七)一〇月某日かねてからのお勧めによって
ルポライタ−の石川君とともに山口県柳井市に近い田布施町を訪問した。
吾郷氏から同市の市会議員で郷土史を研究している松重正氏と大島町文化財保護審議委員会委員の
平津幸男氏を紹介されていたので、まず柳井グランドホテルで懇談し、
翌日、四人で熊毛郡麻郷村に住み、地元では大室天皇と呼ばれている大室近祐氏を
訪問したのである・・・」と。
それから二人は意気投合し、たびたび出会うようになった。
最後に、彼の残した研究「鹿島史学」は日本にとっても世界とっても大変な価値があり、
この重要かつ貴重な功績を残された事を讃えつつ、ご本人のご冥福をお祈り致します。
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