「歴史 如何に 解読するべきか」その1 |
(最新見直し2009.12.24日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、鹿島昇・氏の「歴史 如何に 解読するべきか」(1993.5.1日初版、新国民社)を確認しておく。対話したいところでコメントしておく。 2007.10.30日 れんだいこ拝 |
目次 |
推薦の辞 廣橋興光 |
まえがき |
歴史 如何に解読すべきか |
第一部 倭国、日本国、明治王朝 序章 倭と倭人 倭人のルーツを探る—22 第二章 神武建国の謎 日本国は新旧二つあった------・・--・--…・42 第三章 神武から天武まで 『東日流外三郡誌』について・・・66: 第四章 道鏡の南朝革命 道鏡系天皇家の謎・・・86 第五章 明治天皇の南朝革命 南北朝の謎--…-・…-・------・-114 第六章 岩倉使節団とイギリスの帝国主義 岩倉欧米使節団-----・140 第七章 天皇ヒロヒトと二・二六事件 昭和天皇の右翼教育・---…---・---…・-:-・…-…--…-・--・--…・------…162 第八章 中国侵略と帝国主義の縄張り争い 国家財政の破綻--:…----・--…----一…・--…----・------…-------…184 第九章 皇族と重臣の戦争責任と東京裁判 木戸と近衛の戦争責任------・-・・-・------・-200 終章 天皇ヒロヒトの責任 昭和天皇の戦争責任(一)、終戦まで--・--------216 第二部 古代朝鮮史 第一章 朝鮮の古史古伝(一)『桓檀古記』 『桓檀古記』の登場とその内容-----------242 第二章 朝鮮の古史古伝(二)『檀奇古史』『符都誌』『北倭記』 『栢奇古史』 渤海国の謎-・-------・--------・----262 『符都誌』 『符都誌』と朴提上-------・--------・270 『北倭記』 『北倭記』発見と浜名寛祐・--------・・-----280 第三章 全訳『北倭記』 注解-------・-------・----・…-286 第四章 東夷と扶余の謎 『北倭記』第二〇章注解--------・---・306 第三部 古代中国史 第一章 黄帝とアッカド王サルゴン 古代中国とオリエントの関連…------…-328 第二章 夏とウルク、ウル、ラルサ 夏王の系賦--・-----・---・-…--・-------・--356 第三章 殷とイシン 殷と殷王の系賦---------・----・-・---・---378. 第四章 周とアッシリア 周はアッシリアだった-----398 第五章 晋とバビロン 晋史はバビロン史だった---424 第六章 三晋の謎 魏史の前半はキンメリ史だった-------・・--…----…・--------・…-…・--・---・・446 第七章 魯・宋の謎 魯前史―伯禽はアブラハムのことだ-------・…-・------・・-・---…--・-------474 荘公から襄公まで―襄公はソロモンのことだ-----・--・…---……-・---------・-484 第八章 斉・田斉の謎 大公望はエジプト王ラメスニ世のことだ-:・・・502 第九章 楚、呉、越の謎 楚史の前期はアツシリア史だった::.::::::-:520 第一〇章 秦とエラム、ペルシア、バクトリア 秦史の謎--------・・-・-----・540 始皇帝はディオドトスのことだ-----546 補章 孔子と司馬遷の歴史偽造 中国史偽造の謎-566 失われた十支族---・574 |
推薦の辞 |
この度、私の古くからの友人である鹿島昇氏が日本史、朝鮮史、中国史に関して、そのライフワークを完成して一巻の書にまとめ、『歴史』として刊行されると聞いて、心からお祝いの言葉を述べるものであります。私の家は藤原氏の一族でありますが、昔から、歴史的な事件の多くを口伝えで伝えていて、氏の本を読むとその口伝えがよく説明されているので、私もこの出版を心待ちにしていたのであります。 平成五年三月吉日 廣橋興光 |
まえがき |
歴史というものはすべて横にも縦にもつながっている。日本という国名はただ極東という意味であって、中国を世界の中心と考へた中国人渡来者の命名である。 |
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「日本という国名はただ極東という意味」だけであろうか。れんだいこは「日を崇める本の国」と云う意味も考えている。 |
こんな当り前のことさへ考へなかったのが歴史学者であるが、命名した人々を歴史のなかから探すと、それは中国の史書に登場する秦王国以外にはないのである。秦王国は朝鮮の慶尚道あたりから、箕子朝鮮とともに日本に渡来した人々であった。このように、日本の歴史は古代中国史や朝鮮史の延長上にあったし、また明治維新にしても、徳川幕府の体制疲労と海外からの黒船の圧力によって成立したものであった。 |
ところが日本の歴史学は学問というよりも宗教に近く、しかもその宗教は、バアル教の分派であった朝鮮の檀君教を、道鏡が自ら天皇になろうとして仏教の技術によって勝手に作りかえたものだったから、奇妙キテレツな教義であって、歴史的にも仏教に従属して存在した。そして、宗教である以上、それは自ら独自性を主張してやがて排他的な民族宗教になったのである。その結果として歴史書も天皇の威徳をたたえるという単純な目的に整理されて、常に「天皇万才」を云い続けたのである。日本には市民の立場から論じられた史学は古来存在していなかった。 |
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道鏡をかように位置づける根拠が分からない。 |
筆者はかってソウルで女性のガイドさんから、「百済の王族が日本に行って天皇家を作った」と云われたことがあったが、百済と云えば、日本史に百済王(くだらのこにしき)氏という一族があったことは知られているが、その人々は光仁、桓武の即位以後、やがて歴史から見失われた。光仁は道鏡の兄で、施基皇子の孫となっているのだが、藤原仲麻呂の上秦文では道鏡は物部守屋の子孫とあって、施基皇子などとは云っていないから、道鏡が勝手に系図をデッチアゲたことになろう。だから百済王の子孫が天皇になったことをかくすために歴史の偽造があったとすれば、道鏡から桓武にかけての時代であろう。すると『秀真伝』の述べている道鏡の『日本書紀』改竄や、『神皇正統記』の云う、桓武天皇のときに、天皇が扶余、百済などの子孫だという史料を焚書したという記述が重要な手がかりになる。しかし改竄された記紀によって、変造された神道が民族精神のバックボンになったため、記紀が偽造文書であるという重要な問題は日本の歴史学者が避けてあえて取り上げなかったのである。 |
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同じく道鏡をかように位置づける根拠が分からない。 |
戦後ですら、若干の学者がしきりに古史古伝の虚構を論じているが、こういう人たちに限って記紀の虚構にふれないから、古史古伝の批判イコール記紀の擁護ということになる。このような記紀偽造に関する多くの問題はいまだ殆ど解明されていないのだが、試みに、施基皇子を百済王氏の一人とするとこの疑惑はまさに氷解するのである。百済王氏のなかではただ一人文鏡だけが出自不明となっているが、文鏡は道鏡が法王になった時に出羽守となり、その後任として、百済王敬福の子の武鏡が出羽守をついだのであった。筆者は従来から、そして本書において、敬福の子供である武鏡に、文鏡と道鏡という兄弟があって、その文鏡が光仁になったことを考証した。のちの後醍醐天皇と明治天皇に始まる南朝天皇家は百済王敬福の子の文鏡が光仁として作り上げたものであって、日本の天皇家は百済人亡命者であった。日本人は長い間、朝鮮人の子孫を生き神様として奉っていたのである。 |
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同じく道鏡をかように位置づける根拠が分からない。 |
道鏡の歴史偽造は、自分が天皇になるために、その遠祖である百済王仇首、実は扶余王仇台を神武天皇として、日本史の始めにおいたことに始まる。仇台は伊都国の王として日本に渡来し、公孫氏と扶余の連合軍によって邪馬壱国を作った。仇台妃は公孫氏の女で、それがヒメタタライスズになり、中国史の卑弥呼になったのである。 |
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かような道鏡論、神武天皇論、邪馬台国論、卑弥呼論には首肯し難い。 |
それでは、このような歴史の偽造がいったいどんな人々によってなされたのか。実は日本史の偽造は不思議にも、そのマニュアルが中国古代史の偽造方法とよく似ているのである。 中国史の偽造については本書の第三部で十分考証したつもりであるが、このような偽造技術は始皇帝の秦帝国によって完成されたものであり、日本に渡来した秦氏、いわゆる秦王国の貴族たちが先祖からうけついだ技術であった。秦の亡命者は箕子朝鮮の保護のもとに辰韓に逃れていたが、箕子朝鮮が衛満によって亡びたあと、その上将卓が馬韓に逃れ、さらに九州東北部にあった豊日国、のちの金官国から、脊振山脈と鳥栖の問の地、現在の吉野ヶ里周辺を割譲されて建国し、辰韓から渡来した秦人とともに東方に移動してその王サルタヒコのもとでついに大和地方に秦王国を建設した。このことは第三部の終りで考証したように、『但馬故事記』や『伊勢風土記』などに明記されているし、また『神皇紀』によれば、サルタヒコは神武に協力して狗奴国の長髄彦と戦ったという。秦氏はのちに唐の郭務怯を旗印にして、箕子朝鮮の韓氏、金官国の金氏などとともに、藤原氏という一族を合成したのであるが、藤原氏の権力は歴史偽造という秦氏の先端技術が生み出したものであった。また朝鮮半島ででその技術によって作られたのが朴氏の先祖に当る檀君朝鮮の歴史であった。 |
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かような秦氏論、秦王国論、サルタヒコ論、狗奴国論、長髄彦論には首肯し難い。 |
天皇家が朝鮮人だったと云っても、日本の歴史のなかで天皇が民族と文化の求心力を果した役割は過小評価すべきではない。しかし、その時々の天皇の行為に関しては常に別の選択もありえた筈である。例えば、昭和天皇治世の前半には、かつての幕府政治と変わらないような軍閥政治が行われていたが、これも天皇が軍閥の独断専行を追認したことの結果であって、天皇の追認政治が軍閥の独断専行を許したと云へるであろう。 |
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昭和天皇の胡散臭さを見る視点は、これはこれで良いと思う。 |
明治時代に不平等条約の改訂を求めた岩倉使節団が、イギリスを羨望してその帝国主義戦争に加担したことが、西郷追放に始まる日清、日露の両戦役と朝鮮合併になったのであるが、昭和時代には、石油の有無が戦争の勝敗を決することになったため、せいぜい中国としか戦へなくなった陸軍を代表して、東条たちがドイツに留学して、極言すれば日本をヒットラーの指揮下におこうという諜略にふけったために、そののち中国侵略から対米戦争をひきおこしたのである。 |
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この岩倉使節団論に異存はない。「東条たちがドイツに留学して、極言すれば日本をヒットラーの指揮下におこうという諜略にふけったために、そののち中国侵略から対米戦争をひきおこした」なる謀略論は、東条とヒットラーの関係を見るのは良いとして、これを裏から操った国際金融資本論を媒介させていないところが物足りない。 |
これを簡単に云えば、岩倉は日本をイギリスに東条はドイツに売ったものであり、まさに島国育ちの田舎者が受けた文化ショックの弊害であった。日本には明治時代をよしとする人々は多いが、切手一枚で戦争に行かせるという徴兵制度は岩倉使節団の発想であったし、この徴兵はのちの朝鮮合併の準備であったのだが、さんざん学校、警察、病院とインフラの整備に手を貸した朝鮮で、今だに反日感情が漲っていることを考へると、朝鮮合併は朝鮮人だけでなく日本人にとっても悲劇だったのではないか。イギリスのお先棒をかついで、清やロシアと戦い、あげくの果てに隣国の朝鮮を合併するということが、不平等条紺改訂のためにどうしても必要だったというなら、改訂をいそがずに、その機会がくるまで待った方がよかったのではないか。 |
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この岩倉使節団論に異存はない。 |
だから、すべて歴史には原因があって結果があり、これを究明しなくてはものの役にも立たないのだが、そうすると当然、歴史的な結果に対する個人の責任も明らかになる。ところが、これらの責任は究極的には天皇の責任に行き当るので、日本人にはそれができなかったのである。このことは終にものごとを暖昧にするという日本人の気質になったため、歴史学には学問としての厳しさが失われてしまった。しかし、歴史学は現在と未来に過去の教訓を教えるべきものであって、これを暖昧にしつづけることは許されない。本書はこのような視点に立って、従来の歴史学の陥った錯誤を正そうとする。読者おおかたの理解を望むものである。 |
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こういう語りは個性豊な鹿島弁であり拝聴すべきだろう。 |
序章 倭と倭人 |
倭人のルーツを探る 日本人の先祖はいったい何処からやって来たのか。 |
こんな基本的な問題に、日本の歴史学者は正確に答えることができない。勿論、公式的には、歴史学者は記紀によって日本人は日本列島だけのもので、それ以外の地に日本人の先祖なんかいた筈はないと云うであろう。そうなると、一万年以上もつづいた人喰人種の縄文人が日本人のご先祖さまということになる。しかし弥生文化が渡来したのちも久しく縄文文化の特色を維持して、続縄文という文化を保有していたのは北海道のアイヌ人であった。 |
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「人喰人種の縄文人」なる見た手は承服し難い。 |
アイヌ人は終期縄文人の子孫で沖縄人と殆ど同一であるといわれているが、あえて推理すると、中国四川、貴州、広西東部にいたコーラオ族が沖縄にやって来て、きらに朝鮮に入って挹婁になり、日本で縄文人になったと考えてみたい。華南から渡来した苗族の子孫と思われる弥生人とは別の民族なのである。そのアイヌ人は日本人を和人(しやも)と呼んで自分たちと区別していた。 |
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鹿島氏のこういう縄文人論、弥生人論は承服し難い。 |
歴史学者にしても、縄文人が日本人の先祖などとは自分でも決して信じてはいないが、しかし、記紀には天皇家や倭人が外国から侵入したとは書いていないから、記紀を史書として信奉する以上、歴史学者はそう云わざるをえないし、もし倭人もしくは日本人が外来者であれば、天皇家も外来者または侵略者ということになって、文部省支配下の歴史学者はこれをどう説明してよいか、立場を失うのである。 |
かくの如く、記紀は天皇家や倭人が海外から侵入したことを書いていないから、正しくは、史書などとは云いがたいものであるが、記紀を絶対的な史料として、実は朝鮮からやって来た天皇家が、始めから日本に存在したとする限り、この問題は回答不可能なのである。この問題に正しく解答するためには、天皇家が朝鮮から渡来した人々であり、記紀は朝鮮人が作った偽造文書であって古代日本の歴史書ではないことを立証しなければならない。 |
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こういう記紀論は狭いのではなかろうか。大和王朝の正統性を証する意図で皇統譜を偽造する形で神話化させたものには違いないが、出雲王朝時代の史書を前提にして筆法式に取り込んでいる点も見なければならない。 |
『魏志』倭人伝に書かれた「倭人」たちが、三世紀頃の朝鮮の南部と九州に倭人諸国を作っていたことは中国史料に書いてあって、疑う余地はないのだが、歴史学者も現代の日本人も漫然とこの「倭人」を自分たちの祖先と考え、さらに明治の伊藤憲法の弾圧のもとで、「倭人」は日本列島自生の民族であり縄文人の子孫である。つまり外来者や侵略者ではないとして、学問的な研究を排除してア・プリオリに強弁していた。 |
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「倭人は日本列島自生の民族であり縄文人の子孫である」ことを否定するのが鹿島史観であるが、れんだいこは受け入れない。 |
しかし、そんなことは学問上とても成立しえない暴論で、弥生人も古墳人もともに海外からの侵略者である。いや縄文人も、後期のアイヌ人は学問的には南方渡来者ということが明らかであるし、晩期の南倭人はアラビア海やマレー海域からの侵入者であった。契丹の文献である『北倭記』によれば、縄文晩期にはたぶんアラビアとインドの移民が南倭とともに、九州北東部に侵入して東表国または倭面国をたてていた。これがのちに釜山の金官国になるのだが、してみると倭人が外来者であり、天皇家が朝鮮から亡命もしくは逃亡して来たことを主張しな小史論は学問上は何の価値もない。そういうことを論じない学者は国家神道という宗教的な民族主義暴力の奴隷になっている丈で、暴力をカサに着ていくら威張ってみてもハリコの虎のようなものでしかない。相手にする丈こちらのネウチが下がってしまうのだ。弥生人というのは実は華南から来た苗族または毛人が主流であり、古墳人とは奇子朝鮮、扶余、新羅、百済などの北倭人の移民であった。 |
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日本の上古代史をどう見るのかは自由であろうが、古墳人、弥生人のみならず縄文人まで外来人とした場合でも、それ以前の日本列島先住民を語らなければ腑に落ちない。 |
安本美典は次のように述べる(『読売新聞』93,2,19)。 ・確率論や統計学を駆使 アメリカで出ている『ラングウィッジ』など、最近、言語と言語とのあいだの近さの度合いを、外国の雑誌には、数字ではかる研究がいくつも発表されている。このような方法によれば、日本語と朝鮮語との距離(近さの度合い)、日本語とアイヌ語との距離、日本語と中国語との距離---などを測定することができる…。私は、このような方法により、日本語と、六十ほどの世界の言語との関係の度合いを、数字ではかってみた。調査したのは、「数詞」、手、口、耳などの「身体語」、山、烏、水など、どのような人類集団でも、それにあたる語をもっているような項目からなる「基礎二百語」である。このような基礎語彙は、時間が経過しても変化しにくい。千二百まえの奈良時代でも、「手」は「て」であり、「山」は「やま」である。これに対し、文化語は、たとえば「活動写真」は「映画」「シネマ」などのように、時間とともに変化しやすい・・。 結論をまとめれば、つぎのようになる-…・。 まず、日本語、朝鮮語、アイヌ語の三つは、相互に、確率論的に偶然とはいえない関係を示し、ひとつのまとまりをみせる。私は、これらの言語を、「古極東アジア語」、または、「環日本海語」となづけた。「古極東アジア語」系の言語は、語彙の近さで、まとまりをみせるばかりではない。語頭に二つ以上の子音が重ならないこと、rとlの区別がないこと、語の平均の長さがほぼ二音節であること、基本的な語順が一致することなど、音韻上、文法上の共通性をもつ。 言語間の近さの度合いをもとにして、二つの言語が、およそ何年まえに、分離したかも計算できる。「古極東アジア語」は、ユーラシア大陸の東方、日本海のまわりにはみだした言語である。しかし、アルタイ系諸言語(ツングース語、モンゴール語、トルコ語など)からは、八千年~一万年以上前に分離したものらしい。アルタイ系諸言語とのあいだには、かなり大きなみぞがある。おそらく、「古極東アジア語」は、はじめ、ひとつのまとまりをなしていたであろう。地理的にわかれて住むようになり、分裂をしはじめたのは、五千年以上まえのこととみられる。 ・インドネシア系も 日本語基語をつかう人々は、朝鮮半島南部および九州北部に住むようになったとみられる。中国東北部の南部(旧満州南部)から朝鮮半島にかけての地域に、朝鮮語基語をつかう人々が住むようになった。ロシアの沿海州のウラジヴォストークやナホトカ付近から日本列島東北部、北海道にかけては、アイヌ語基語をつかう人々が住むようになったとみられる。(ウラジヴォストークやナホトカに住んであた古代の挹婁人は、『後漢書』などによれば「矢じりにみな毒を施した」。アイヌも矢にトリカブトを施す) 日本語基語、朝鮮語基語、アイヌ語基語は、日本海をとりかこむように分布し、やがて、日本列島の沈下とともに、各地で方言化が進み、さらには異なる言語となっていた。縄文時代には、日本列島は言語的になお統一されていなかったとみられる。日本語とインドネシア言語などのあいだにも、語彙において偶然以上の一致がみとめられることなどから、九州南部から関東までにかけての太平洋側には、インドネシア系の言語などが使われていたのではないかと考えられる。その後、いまから三千年まえ以後に稲作が到来する。そして、弥生文化の到来とともに、中国の江南地方から、日本列島に、ビルマ系の言語がもたらされたとみられる。「古極東アジア語」系の日本語基語が、ビルマ至言語の強い影響をうけて、「日本語祖語」が成立したようである。「日本語祖語」はおそらく九州北部および朝鮮半島南部で誕生したであろう。「身体語」「数詞」だけをとくにとりあげると、ビルマ系の言語のなかに日本語と偶然以上の一致を示すものがある。揚子江流域には、かつて、ビルマ系民族をふくめ多くの民族が住んでいた。漢民族南下の圧迫をうけ、揚子江流域のビルマ系民族のあるものは上流地域の奥地(中国雲南省に住む舞族=ロロ族=は、ビルマ系民族である)にうつり、他のあるものは日本に到来したのであろう。 |
「日本語祖語」は、邪馬台国の倭人の言語であったと思う・・・
任那の滅亡(五六二年)、日本と有効関係にあった百済の滅亡(六六〇年)をへて、六六三年、日本は、白村江の戦いで大敗北し、朝鮮半島から完全にシャットアウトされた。この時点をもって、朝鮮語と日本語の境界線が現在とほぼ同じものとなったと考えられる。言語学は人種の混交によって時に極端に変化するから、この方法にも限界はあるが、南方から渡来した縄文人がアイヌ人になったこと、弥生人がビルマ系の中国少数民族であることは大筋として正しい理解であろう。ついで東大医学部の十字猛夫教授と徳永勝士らは白血球の型の分布から日本人の渡来ルートを探って次のように述べる(『読売新聞、89,10,22)。 HLA型 普通の血液型と違い、HLA型は、A,B,C,D,Rなどいくつかの遺伝子座位のタイプの組み合わせで決まる。各座位には十-五十種類のタイプ(数字で示される)があり、各個人は、そのうちの一つずつを両親から受け継ぐ。記事中の「24,52,2」などは、Aの座位のタイプが24、Bが52、DRが2のHLA型(Cは省略)であることを示す。 徳永助手らが目印にしたのは、HLA(ヒト白血球抗原)と呼ばれる抗原(たんぱく質)の型。この抗原は臓器移植の際の拒絶反応に関係し、分子レベルでの"自己"ともいわれる。HLAの型はいくつかのタイプの組み合わせ(ハイプロタイプ)で決まり、一人一人がどういう組み合わせをを持っているかは白血球で調べる。徳永助手らは六年前、HLA型のうち「24,52,2」など十種類以上の組み合わせが日本人に特徴的で、欧米人にはないことを見いだした。こうした組み合わせが偶然に生じることはまずなく、同じ組み合わせを持つ集団が日本以外のどこかにあれば、この組み合わせを持つ日本人と共通の先祖を持つと判断できる。そこで、日本人の"故郷"を探るために、こうした組み合わせが中国大陸やその周辺にどの程度あるか調べた。…… その結果、日本人の一〇%が持っている「24,52,2」は、中国南部にはないが、北京付近では、二%、韓国では三%あることがわかった。また、国内では北九州から近畿地方が一四%と高かった。中国北部から朝鮮を経て北九州へという人問集団の流れがあったことを意味する。「33,44,13」という組み合わせは日本で六%だが、北京周辺、韓国にはほとんどない。日本全体では四%だが、台湾、沖縄、南九州で四%から八%、四国が一一%、近畿が七%と、太平洋側に偏っている。同じ中国南部からの渡来と思われる「2,46,8(または9)」は、沖縄にはほとんど見られず、直接または朝鮮経由で日本に来た可能性が強い。中国南部では一〇%もあり、韓国にも二%。西日本は五―七%程度だ。 HLA型で確認されたこうしたルートは、これまで稲作や文化などの伝播(でんぱ)から推定されていたルートとほぼ一致する。フィリピン、マレーシアなど東南アジアのデータはまだ少ないが、日本人にはない組み合わせが多いという。この方法では渡来の年代を探ることはむずかしいが、中国北部から朝鮮をへて北九州へ来たという人々は歴史学から考えると、箕子朝鮮や扶余などが考えられ、中国南部から朝鮮をへて日本に来た人々とは苗族などの弥生人であろう。 |
倭人と蒙古族 |
多くの証拠は古墳人の主流をなす北倭、すなわち邪馬壱国の倭人の直接の先祖は中国の東北部(満州)で、それが朝鮮半島を経由してやって来たことを示唆している。例えば、図(2)は尾本恵一郎が作った「耳あかのドライとウエットの分布」を示すものであるが、図の円内の黒いところがウエットの、白いところがドライの頻度である。両者の比率は日本人とモンゴル人がほぼ一致しており、朝鮮人はむしろ北中国に近い。よく見ると、北中国人、朝鮮人、ツングース人は段階的に比率が移動して、いわば一本のベルトの流れのように見えるが、その両側には日本人と蒙古人というほぼ同じ比率の民族がいるのである。外蒙古へ行った日本人のボランティアが、蒙古人から「日本人はもともと蒙古人から分かれた民族だ。あなたは祖先の地に帰って来たのだ」と云われて驚いたという。こういう発言を真面目にに受けとめるのが学者の良心というものではないか。言語は大量の混血によって全面的に変化することがあるから余りあてにならないこともある。 「日本人の先祖は倭人だ」といわれているし、モンゴル人の先祖は室韋の一部族であった蒙瓦室章であった。しからば、蒙瓦室章は倭人、正確には北倭であったことになる。モンゴル(蒙古)人といっても、ジンギス汗がかれらを率いて中原に進出する以前は、契丹に從属した室章、その室章のなかの一小部族である「蒙瓦室章」にすぎなかった。ジンギス汗が酋長だったのはそのなかのキャト族という史書に名も見ない小部族であったという。小谷部はこのキャト族が京都族のことだからジンギス汗は源義経だったと主張したのである。しかし、日本の学者は朝敵にされた義経が外国で成功しては困るから、義経がジンギス汗になったことを「天皇家のご利益」のために否認したのである。 『旧唐書』室章伝は「(室建河)其の河原は突厥の東北界の倶輸に出で、屈曲して東流し、西室韋の界を経、亦東して大室韋の界を経、又東して蒙兀室韋の北を経て、姐室韋の南に落ち、又東流して那珂勿汗河に合す」と述べる。また『新唐書』室韋伝は「北に大山あり。山外は大室韋と曰い、室建河より瀕す。河は倶倫に出でて連して東す。河南に蒙瓦部あり。その北は落坦部なり。水東は那河、忽汗河と合し、又東は黒水蛛鵯を貫く」と述べる。 『北史』には「其の御鉄無く高麗より取給す」とあるが、元来は製鉄部族であったらしく、『遼史』巻六〇食貨志は「太祖より始めて室韋を併す。其の地、銅、鉄、金、銀を産し、其の人よく銅、鉄器を作る」と述べ、また王曽『行程録』は「(遼が)河准の沙石を就り、練って鉄を得る」と述べる。白烏庫吉は「與(興)安嶺の西、アルグン河の流域に関するヨーロッパ人の旅行記に鉱業遺跡の記述があるのは、銅鉄の利用に長じていた室章のものである」と述べる(『室韋』)。これに対して、契丹の故地では鉱山の遺跡らしきものはない。 さて『北史』九四巻は「深末担室章は…-水に因りて号とする」と云うのだが、川の名を姓名とすることはわが国の山寓にも同じ風俗があり、山窩のボスたちは隅田一郎とか、利根川一郎とか、石川清とか自称していた。これらのルーツを尋ねると、川の名を族名とするボルネオのダワヤク族を経由して、同じ風俗をもつアッサムのボド族に到るであろう。「倭人」は倭(てつ)の人と云っているのであり、倭は鉄のことだから、恐らく「倭人」は製鉄に関係がある部族であろう。また九州の熊本地方に始まる山窩も古来倭人の仲間であった。室韋が製鉄に関係あり、その深末担室韋に山窩の風俗があるとすると、この室韋もまた倭人の分派の「北倭」だったのではないか。 さきに「北倭」といったが、『山海経』海内北経は、「蓋国在鍾燕。南倭北倭属燕。朝鮮在列陽東。海北山南列陽属燕」となっている。これを江戸時代までは、「蓋国は鍾燕に在り。南倭と北倭は燕に属す」と正しく読んでいたのに、明治の御用学者が、「北倭」という民族があったのでは困るとして、「蓋国は拒燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す」とおかしな文章に読み変えたのである。漢文はふりがながないから、こんなことをすれば、意味はガラリと変わるのである。御用学者は日本帝国主義によって朝鮮や満州に侵略するのに、そこに倭人の仲間がいては何かと不都合だと考えたのであろう。 ところで、『北倭記』乾三一章は「これより先、宛の徐、海を済り、舶臻し、殷に倚り、宛灘に居り、地を闢くことを数百千里、弦牟達に築きて昆莫城と称し、国を徐珂殷と号す・・・徐珂殷はのちに扶余に合した」と述べているが、この殷は辰云殷で箕子朝鮮のこと、宛灘は塔子珂、弦牟達は摩天嶺である。従って、「海内北経」の蓋国はこの徐珂殷のことで中国史の穢国と同じであり、「蓋国は矩燕に在り」というのと「徐珂股は殷に侍る」というのは全く同じなのである。だから、『北倭記』によって考えても、「蓋国は鍾燕の南に在り」という読み方が誤りであることは明白である。 こういうわけで、「倭人」には南倭と北倭があったのである。この「盖国」は「穢国」と同じく、北扶余後期王朝の扶余であった。しかし日本の学者は『山海経』は史的価値が低いとして、あえてこの問題に正面から取り組まない。その理由は簡単で、「北倭」なるものの存在を認めて「倭人」を外来者とすると、アラヒトガミたる天皇もまた外来者、神道の神々も外来神という、ことになって、平田篤胤以来観念的に主張され、明治憲法が創作して、天皇、従って理論的にはその民である日本民族をも神聖とし、近隣諸国、ことに中国と朝鮮の人々を蛮民とした日本民族の差別的アイディンティテイが一挙に崩壊してしまうからである。しかし、もし「倭人」が事実、外来者であったならば、いや、今まで明治憲法のもとで、帝国主義を正当化するために、シナ、朝鮮といって差別してきたそのシナ人や朝鮮人が、広い意味で実は日本民族の祖先ならば、従来のデタラメな歴史にもとづいたアイデンティティなんか崩壊した方がよいのだ。 しかし、歴史学者と云い、考古学者と云っても、かれらの恩師に当る人々は明治憲法を絶対視して、それぞれが研究室の伝統を守って生活の保障を受けていたという人間的な弱味から、「倭人」が日本列島自生の民族である、という反学問的な「差別幻想」にしがみつく以外の生き方ができなかったのである。 朝鮮民族は約三五〇年位以前に、ポルトガルから九州経由で始めて唐辛子を呪ってキムチを作り、今やハンバーガーにまでキムチを入れて食べているが、キムチにはカプサイシンという覚醒剤の成分が含有されているから、これを食べると頭の中の血圧が上って、生理的に、何でもないことでも口論して血圧を下げようとする。ソウルでは、道路を歩きながらも口から泡を飛ばして怒鳴っている人をよく見掛けるが、これがマイルドな覚醒剤を服用したための中毒症状なのである。キムチ以後の朝鮮民族はそれ以前の朝鮮民族と同じレベルでは論じられない。 民族全体がカプサイシンの中毒になったわけである。朝鮮人はカプサイシンがあるから食欲が増進するなどと云って、黒を白と云いくるめるようなことを云うのだが、事実は何人も曲げることはできまい。しかし、天皇神聖説による日本人の差別幻想もこれと同じようなもので、幕末以来、脈々として攘夷信仰をもった日本民族の心に、深く深く麻薬的に作用していた。この根拠なき差別の幻想が、のちの南京虐殺事件という破廉恥な民族犯罪の根底にあったのである。そして、唐人郭務僚を藤原鎌足として、その子孫の近衛文麿が結局蒋介石と和解できなかったのも、結局は根拠の無いこの差別的な民族意識が原因であった。 といっても、筆者は差別が常に悪いというのではない。建国当時のアメリカ人が、カラー差別のエネルギーによって黒人奴隷を虐待しながら国家を統一したように、国家も文明も、まず差別の精神によって作られるのである。しかし、あのロマンティックな予言者マルクスも言ったように、時は流れて萬物は流転する。第二次大戦の結果、カミカゼ国家、アラヒトガミ国家という「幼稚なレーシズム」による国家絶対主義は敗北してしまい、また英米を始めとして、古典的な帝国主義もなりたたなくなった。かくして、単一民族の独自文化がグローバルな人類に差別的作用をもたらすことを悪とするに至った。日本人にとっても民族主義の時代は終ったのである。良かれ悪しかれ、われわれはアメリカや中国のような、抽象的なイデオロギーによって統←された多民族多文化、多民族一国家という異質の文化と共存しなければならなくなった。かくして、倭人が外来者であり、日本民族が複合民族であり、天皇家が朝鮮からの逃亡者であったという歴史的事実を承認すべき条件は整ったのではないか。 今や、天皇家は異民族差別のためではなく、かつてシルクロードをこえて中国に入り、さらに中国から満州と朝鮮をへて日本にやって来た、いわば複合文化のシンボルとして存在すべきであろう。こんなことを云うと嫌がる人もいるだろうが、学問的には、神武天皇、従ってその子孫の南朝系の明治天皇以下の天皇の血のなかには、朝鮮人の血と中国人の血がびっしとりつまっていた。天皇家が日本に渡未してからも、天皇家は藤原氏という朝鮮人とシナ人の文化に囲まれて、特異な祖界文化の権力杜会に閉じこもっていたから、日本古来の原住民にとっては、天皇家は始めから異民族であって、恐るべき侵略者でもあった。 |
仾族と倭人 |
鳥越憲一郎は雲南省とビルマ国の国境付近にいる仾族を倭人と同族であるとして、共通する風俗として、水稲農耕や母屋と露台をもつ高床建築の他、その銅鼓に刻記されたいけにえ祭祀の習俗などを挙げた。鳥越はその存在が従来否定されていたわが国のいけにえ祭祀をも再調査して、「日本にもいけにえ祭祀があった」と論じたのである。この種のことはわれわれが早くから主張していたことであるが、鳥越の主張はアカデミィ人としては珍しく真面目な論旨であり、次のようなものである。 雲南に発祥した倭族は、稲作と高床式建物を伴って有史以前から数次にわたり、日本をはじめ東南アジアの諸地域へひろく民族移動した。広範な地域への移動を可能にしたのは、雲南からいくつもの河川が各地へ向けて流れていたからである。滇池のすぐ北に揚子江があり、その上流域では前述のごとく、倭族の王国がいくつも築かれた。しかし遥か太古に遡って、さらに遠く下流域へ向けて移動した一群もあった。それが後に越人と呼ばれるものであるが、上古音では「越」も「倭」もともに「ヲ」WOで、それは類音異字にすぎず、越人も文身断髪の同じ倭族であった。その越人が建国した紹興の地に近い河栂渡遺跡から、約七千年前の人口栽培による稲が多量に発見された。そして北に呉が建国され、さらに北上した倭族は山東半島にむけて准・徐・郯・奄・莒・莢など、漢民族からは東夷と呼ばれた国々を築いた。その郯国のあった山東半島の根もとの東海県焦荘の遺跡からも、約三千年前の炭化米が出土している。多分その東夷の地からδ倭人は稲作を伴って、朝鮮の東を経て渡来したのであろう。最近の考古学的遺跡調査では、稲作の伝来が縄文時代の晩期にまで遡ることが立証されているので、紀元前五百年ほど前のことであったとみてよい。 他方、潰池の東側と南側に南盤江が源を発し、それは北盤江と合流して紅水河となり、広東を河口とする南シナ海へ向けて流れている。この流域の住民は、後に言語学の上でタイ族系に分類される倭族で、今では中流域にひろくチュワン族が住み、さらに一部は海を渡って海南島のリー族や、ボルネオ島のイバン族、ダワヤク族などになった。また滇池のすぐ西側に源をもつ紅河(ソンコイ川)は、ベトナムにに向けてトンキン湾にそそぎ、そこでは安南族となった。さらに滇池の西側を瀾滄江(メコン川)、怒江(サルウィン川)が金沙江(揚子江)と相接しながらインドシナ半島へ南流していく。この川筋を伝って南下した倭族も数多く、早いのは数千年前に遡るであろう。 そのインドシナ半島には古く黒人の王国がいくつもあった。ところが紀元前の少し前に、メコン川を下ったクメール族とサルウィン川を南下したモン族とが、先住の倭族や黒人を討って、インドネシア、メラネシアの方へ駆逐し、ビルマ・タイ・カンボジアにかけてクメール王国やモン王国を築いた。その彼らも雲南から後続して南下したビルマ族やタイ族に征服されて滅びる。これら河川を通じて移動した倭族たちはすべて源を雲南の地に発する。それだけに発祥地の雲南を中心として、前述のごとく多くの王国が成立していたが、そのうちの蜀・巴の二国は、漢民族の領域に近かったことから、秦の全国統一のときに討たれて属国となった。 その他の国々は西南夷と呼ばれて、漢民族からは政治の埓外におかれていた。ところが、前漢の武帝は、中央アジアに通じるシルク・ロードの瞼難で危険なことから、西南夷の地域を通っての南路開拓の夢を抱いた。しかし西南夷諸国の数次にわたる強硬な抵抗にあい、ついに紀元前一〇九年に邛都、筰、冉駹、且蘭の王を殺し、滇国と夜郎国には降服をすすめて独立は認めたものの、漢の領土として編入した。それでも昆明国は攻略することができなかった。 武帝の南路開拓の夢は実現しなかったが、そのために倭族の国々の多くは滅亡した。しかし残った滇国・夜郎国・昆明国も、三国時代に入った二二五年に蜀に討滅されて、ついに倭族の王国は姿を消した。その後、滇池の西方にある河海の周辺に六詔(詔は王の意)が興り、唐代の七五〇年に、そのうちの蒙舎詔が六詔を統一して南詔国を樹立した。そして王統の興亡を繰り返したあと、一二五三年に蒙古軍に討たれ、中国の地における倭族の王国は歴史の上で終焉した。 これからあいつぐ王国相互の争乱や漢民族による討滅で、そのつど亡国の民は河川を伝い、あるいは山地へ難を逃れて逃避した。その中で、幸運にもインドシナ半島で古代国家や近代国家を築くまでに成長した部族もいるが、不幸にも山地へ逃げた部族は、後続の敗残者に追われて、さらに山奥深く山岳地帯に入り込み、今では少数民族と呼ばれる部族になって、文化的に遮断された生活に落ちて行った…倭族が他の民族と異なるもっとも大きな文化的特性は、前述したように稲の人工栽培に成功し、米を主食にする民族であるということであろう。そして水稲農耕という生活形態から、特殊な高床式住居と高床式穀倉を考案したことにある。 もちろん雲南に発祥した倭族たちは、みずからの興亡の歴史の中で、また相次ぐ政変によって、いくたびとなく民族移動を繰り返した。そして中には山地に逃れ、水稲農耕から焼畑による陸稲への転換を余儀なくされた部族も多い。しかし山岳地帯に住みついた部族でも、古来からの高床式建物を伝統的に守り続けてきた。これに反して、同じ山地に共住するメオ族やヤオ族は、かつて黍や粟を主食にする畑作農耕民であったころの土間式住居の生活を今でも堅く守ってきている。 したがって高床式住居と穀倉は、水稲農耕民であったという特殊な事情に基因した建築様式さといえよう。しかも稲作は他の多くの民族でも食生活の中に取り入れられたが、高床式建物だけは後々まで、倭族を規定する顕著な文化的要素として、倭族とともに伝承されて行った。その高床式建物で水稲農耕民であったことを端的に示すのは、母屋と露台とから成っていることである。(中略) 雲南の青銅器文化は潰池地区を中心に降盛を極めたが、それは滇池から遠くない地に豊富な銅・錫の産地があったことによる。『漢書』地理誌によると、兪元(今の澄江・江川・玉渓)から銅、律高(今の蒙自・個旧)からも銅・錫を出すと記している・--・まず紹介したいのは、晉寧石寨古墓から出土した貯貝器、すなわち当時の貝貨を納める銅彭形の青銅器である。それは『雲南晉寧石寨山古墓群発掘報告』の番号M1とM20/1の二つの貯貝器で、その蓋上には鑒金的技法による人物などの活動情景が、見事なまでに写実的に表現されている。ことに注意すべきは鑒金的処理、わが国でいう騰びきの技法が、中国でも滇国での青銅器で初めて見られることである。そのことは殷・周の青銅器が北方ルートを辿ったのに対し、滇国のものは南方経由によることを示している…二個の貯貝器の蓋上に示されたものは、殺人祭祀の情景である。そのうちM1では、中央からやや左に円形の銅柱が立ち、高さは人物の約三倍、柱には二尾の蛇が浮彫りで巻つき、柱頭に一頭の虎が立つ。その柱の右に、乳を大きく示した裸体の女性が立て板に縛られ、その前に左足に足枷をされた者、地にひきずられている者など、四人の犠牲にされる人間の姿が見える。そして銅柱立て板の両側に、大きな銅鼓が置かれている。 それらの後方に滇族の女性が四列に並び、それぞれ籠や稲穂の束らしいものをおいている。その列の横に、斧を持つ一人の前導で、四人が担ぐ肩輿に乗った女性がいる。多分この祭儀を主宰する人物であろう。男性もわずかに見えるが祭儀は女性が中心となっているらしく、総勢は四七人である-…・犠牲はただ神に捧げるものではない。死してのち甦るものとして、つまり農耕神として復活し、村びとにその年の豊饒をもたらす神とみられているものである。 そのほかに、犠牲者が農耕神として復活した祭儀の最終場面を、見事に演出したものに二つの銅房子がある。拙著『原弥生人の渡来』で、銅房子Iと名付けたM6/22と、Ⅱと呼んだM3/64とである。 -・…これら銅房子が示すものは、いずれも神屋に安置された犠牲の人間が、死してのち農耕神の蛇として復活したさまを、表したものとみてよかろう:…。 滇国の青銅器には蛇をあしらったものが多い。もちろん動物形象としては、このほか牛・虎・豹・犬・孔雀・鶏・魚などもよく用いられるが、蛇は神格化されたものとして、彼らの信仰の中心であった。しかも殷・周の青銅器に見られる竜がいっさいなく、蛇信仰の文化であったことも、滇国の文化を理解するとき注意されなければならないことである。その蛇のことで、紀元前一〇九年に前漢武帝が倭族の国々を討滅したとき、滇国と夜郎国には独立を認めて金印を授与した。そのことは『史記』に明記されているが、石寒山古墓から蛇紐の金印が発見された。わが国の志賀島から出土した蛇紐の金印は、後漢の光武帝から賜ったもので、潰国より遅れて紀元五七年のことである。同じ倭族に属する両国がともに蛇紐の金印を授かったことは、それぞれの民族の信仰を十分に知った上でのことであったとみてよい。 実際わが国の神話を見ても竜の信仰はなく、竜信仰は中国との関係をもった後世からのことである。大和の三輪山伝説にまつわる蛇神なども、部族神として祀るのは生産神、つまり農耕神であったことに由来する。また八岐大地にしても神格化するために多頭蛇の信仰となり、それを倭人がもたらしたものであった。倭人の渡来時には漢文化の洗礼を多分にうけておりながら、竜信仰をうけなかったことも注意してよいであろう。 多頭蛇の信仰は倭族に属するクメール族でも顕著で、仏教の影響をうけたとはいえ、アンコール・ワットの石段に多頭蛇の形象が見られる。その多頭蛇はタイやビルマの寺院でも見うけられるものである。 奈良県の平野部では「野上さん」といて、五月五日に藁で作った大きな蛇を子供たちが担ぎ、太鼓を打ちながら村の中を歩いたのち、村中の田が一望に見渡せる田の中の小高い木に藁蛇を掛ける。そして翌日から村びとの田植えがはじまる。--前述した滇国の殺人祭祀が、雲南からビルマにかけての国境山岳地帯に住むワ族の間で中国の解放時まで行われていた。中国側だけで毎年六〇人から百人くらいの漢人が殺されていたために、政府は強行命令で廃止させ、一九五八年以降、人間の代わりに野鼠を用いているという。そのワ族に中国では「仾」の字をあてているが、日本人の倭人と通じる呼称であることも興味深い。言語の上ではモン・クメール語族に属し、少なくとも紀元前に亡国の民となって山地に逃亡した部族である。これに対し、モン族はサルウィン川に沿ってビルマ・タイの平野部に南下し、クメール族はメコン川を下ってカンボジアに入り、それぞれ王国を築いた。しかしワ族は不幸にも山地に逃れたため、文化的発展の機会に恵まれず、往古の習俗を伝えてきたのであろう。 ワ族の首狩りは播種前の三月と、秋の収穫則とに行われる。言狩りの対象になるのは髪の濃い人ほどよく、それは作物の繁茂をもたらすからである。さきの滇国の銅房子には女性の首があったが、それも女性のもつ産み出す力に対しての願いであろう。ワ族でも男とはかぎらず時に女も殺された。若者によって首が村に持ち帰られると、まず、首を刺し止めた家で供え、希望があれば首が各戸に廻される。そして主婦たちは肉や飯を口が裂けるほど詰め、神として甦るのであろう霊に対してその年の豊作を願う。 或いは村ではその首を籠に入れて竹竿の上にかかげ、その下で歌舞して祭りを行つたという。ところが田継周・羅之基『西盟瓦族社会形態』では、後述する木鼓小屋の太鼓の上に首を供え、木鼓を打って歌舞したという。滇国の銅房子では、首を供えた神屋の正面におく銅鼓を叩いた。そのあと犠牲獣の黄牛が柱に縛られ、刀を振りかざした男たちが争って生牛の肉を切り取る。そのため誤って人を傷つけることがしばしばだという。祭りの本質は、死してのち甦る力をもつ犠牲獣の肉と血を食べることによって、人もまた新たなる命をえようとしたものである。人頭祭では人肉の代わりに、犠牲獣が村びとによって共食される。滇国の場合も、またワ族においても、犠牲にされた肉と血とが食べられたのである・・・・。 わが国でも人身御供のことが『日本書紀』や『今昔物語』にみえるが、これまでただの伝説として実在が否定されてきた。だが拙著『箸と爼』(毎日新聞社刊行)の中で、長野県の諏訪大社にあった御頭祭りをはじめ、愛知県の国府宮や福岡県大宰府の観世音寺における儺追神事を例証として、古く書の神事があったことなどを述べた。春終の時代のことで『春秋左伝正義』(巻十四)にも「准水….:妖神あり。東夷みなこれを祠る。蓋し人を殺して祭りに用いたであろう」と記し、倭族に属する東夷で、春季に殺人祭祀が行われていたことを述べている。そうした生贄の習俗を、倭人も日本列島に渡来したときもたらしたのである。しかし農耕にちなんでおこった首狩りの習俗も、前述のワ族をはじめ、ボルネオ島のイバン族や、アッサムのナーガ族など、第二次世界大戦をもって終焉した。だが、その習俗の残影を山岳地帯に住むワ族たちの農耕儀礼の中に、まだ微かながら見ることができるのである。 ここに登場する雲南のワ族は瓦族と書いて、人口は現在約三〇万人その言語はカーシ族の支派のクメール語系であり、ドアン語、プーラン語と近い。古い中国史料には、ドアン族、プーラン族と一括して「百濮」「濮人」と書いている。「濮人」は漢代に永昌郡に属していたが、そのうちの「望人」「望蛮」「望苴子」と称された人々が瓦族の先祖という。唐代、南詔政権が強力になると、瓦族はさらに南遷して、元.明の時代に漢族とタイ族に押し出されてビルマ国境に移った。 明、清の史料には「嗄喇(カラ)」「吟瓦(ハワ)」「卡瓦(カワ)」などと書かれているから、瓦族はニンベンのない「瓦」の字も使っていたのである。かれらは裸族で、首狩りの習俗や麻薬の栽培などで知られているが、歴史家が鳥越説に同意したがらないのは、この人々が野蛮な裸族で首狩り種族だからであろう。しかし、この首狩りは宗教上のいけにえを求めて行う祭祀行為であって、喰人族の本家たるメラネシア語族を祖先とする漢民族の如く、ゴチソウとして、また食用や薬用として食したわけではない。 漢民族の喰人風俗についてはすでに黄文雄をはじめとして、多くの学者に論じられているが、筆者はかつて海南島に行ったとき、中華料理店でガイドの中国人に勝手に注文させたところ、恐ろしく堅くて、歯が立たない肉が出てきたので、聞いてみたら狐の肉だという。帰国してから、横浜のチャイナタウンの中華料理店で、中国人のボーイさんに話したところ、「どんな味だったの、食べてみたい」と云われてびっくりしたことがある。中国人はこと「食」については異常に貧婪そのものなのである。 『漢書』地里志には「楽浪海中に倭人がある」とあり、渤海湾に面した朝鮮半島の西海岸の島嶼部を倭人の地としているのだが、この地にはかつて馬韓があり、始めに述べたように、馬韓語はのちの渤海語や日本語とほぼ同じ口語であった。 『山海経』海内北経には「蓋(穢)国は鉅燕に在り。南倭と北倭は燕に属す」とあるが、この燕は六国の燕ではなく、箕子朝鮮の「知准氏燕」である。『史記』の燕世家は実は地中海の港チュロスの歴史がモデルであり、中国史の燕の実体はフェニキア人の移民だったらしい。またのちの公孫燕は日本史の大物主王家であるが、記に記された大物主神話はユダヤ神話の書きかえだったから、これを総合すると、フェニキア船によってユダヤ人が渡来して公孫燕をたてたと推測できる。また記紀には「大物主家の軍団は大來目であった」とあり、この大來目はクメール人を意味するから、大物主族、すなわち遼東の公孫燕の軍団はクメール人またはその支派の瓦族(または北倭)であった。さきに引用した鳥越説で「瓦族はクメール人に押し出された」とあるが、そうではなく、もともと瓦族はクメール人のなかで金属製錬にかかわった職能集団であろう。 さて倭人は南倭と北倭に分かれ、ともに雲南省の瓦族と同根である。そして、これらの三者はともに今ではアッサム、のカーシヒルに散在するカーシ族から分れた製鉄部族らしく、恐らくはかつて、「南国反子」として周代の中国に入り、さらにそののち、ソロモン王のタルシシ船によって、ヒッタイト人のもとで、カーシ族やクメール人とともにマレー半島から北上したのであろう。のちに三分して、雲南にいる仮捧満州国にいた公孫氏と蒙瓦室章の北倭(馬韓人、渤海人、蒙瓦室韋など)、国東半島と釜山にまたがる金官国などの南倭に分れたのである。また『三国史記』高句麗本紀太祖大王八○年(一三二)七月の条と九四年(一四六)七月の条に「倭山」と書かれているが、この倭山は遼寧省と吉林省の南部にある。この地の倭人が「北倭」でのちの蒙瓦室韋であろう。酈道元『水経注』には「大遼水は西北李川に出で、東流して倭城の北をすぎる」とあり『元経』には「東夷五国とは扶余、三韓、肅滇、倭人、裨離なり。玄菟の東北に在り」とあるが、この倭人も九州の南倭ではなく、満洲の「北倭」であった。 |
瓦族の周辺 |
記紀のなかには倭人という単語は存在せず、大物主命の軍団として大来目という単語があるにすぎないが、大来目は大久米と同じくクメール人のことである。言語学者はクメール人の分派がアッサムの「瓦族」であろうとしている。「倭人」が九州のほか満洲や中国大陸にもいて、その同族であった「瓦族」が雲南山地にいたとすると、その共通の母国はどこであったか。拙著『日本神道の謎』で述べたように、大物主命に関する兎がワニをだました説話は、マレー半島にある.鹿がワニをだました説話がルーツであった。大物主命の神話、中国の穆王(ぼくおう)説話と朝鮮の東明王神話など同一パターンの神話のルーツがすべて共通であるとすれば、マレー半島の説話こそ、これらすべてのルーツであろう。すると、かつて中国、満洲、朝鮮、日本列島などに広く展開した「倭人」は、アッサム、シャン、雲南などにいた「瓦族」と同類であり、「倭人」と「瓦族」の共通の原郷は、どうやらその南方のマレー海域だったように思われる。日本の学者は怠慢にも無視しているが、しからば、邪馬壱国と同音のボルネイにあった耶馬提国も、マレー海域の母国から植民した倭人国であろう。 クメール人は仮族とともに、いまインド東北部のアッサムに展開するカーシ族の分派であるが、カルカッタ東方にあるベナレスはカーシ族の地という意味で、かつてはガンガの中、下流に広くカーシ族がいたのである。そしてこのカーシ族は存肩石斧など古代エジプト系の文化をもっている。アッサムの「瓦族」は、「大昔、天神がヤトゥムとヤタイという若い男女に二個の瓠を与えた。二人が食べてその種子をまくと大きな瓠(ひさご)が実った。…天から降って天に帰れなくなったクンサンレェンという者が天神に神剣を授かり、それを以て瓠を割ると、一つからすべての動物が、他から人類がでてきた」という神話をもっている。 白川静は「女嫡は洪水を防ぐのに葫芦の灰を用いたが、葫芦はひさごで壼芦ともいう。、それはノアの箱舟型の洪水神話であった」と述べる(『中国の神話』)。すると、アッサムの瓦族の神話もノアの方舟の変形であった。朝鮮の神話にも、「倭人の瓠公が瓠をもって海を渡った」「馬が木の下でいなないたので見ると瓠のような大卵があった。そこから赫居世が生まれた」とあるが、これも方舟神話の変形であった。「瓦族」がシュメール人の方舟神話をもっていたことを考えると、この神話は「瓦族」またはその祖先によって、シュメールからイラン高地とチベットをこえる陸路か、マレー海域経由の海路で運ばれたであろう。 ところで、紀元一、二世紀にマレー海域のメコン河下流のオケオには国際的な貿易港があって、その遺跡から、漢の青銅鏡とローマの金貨が、フェニキア特産のガラス玉とともに出土した。そうすると、地中海やアラビア海のフェニキア人はオケオ港で、マレー海域の倭人(の先祖)と.接触して交易していたことになろう。さらに想像すれば、倭人または仮族とはかつてエジプトの文化のの影響を受けたカーシ族の分派で、のちにフェニキア人の下部組織となり、その太平洋グループになったのではないか。 カーシ族はもともとヒクソスのなかにいて、ヒクソスがエジプトを退去したときインドに戻ったらしい。ここで仮設を考へると、フェニキア人の運船したソロモン王のタルシシ船がインダス河口でカーシ族を徴用して、それがメコン流域で農業をするクメール人になり、上流では製鉄に従事した瓦族になったのではないか。 |
日本の偽史シンジケートがもっぱら隠そうとしたのはこの「北倭」の歴史だったのである。『後漢書』鮮卑伝は「倭人はよく網捕する」といい、『魏志』倭人伝は「倭は水に沈没して魚蛤を捕える」といっているが、『北史』室章伝は「北室韋、氷をうがちて水中に没し、網して魚蛤を取る」といい、このへんも室韋と「北倭」はよく似ているのである。室韋のなかに「北倭」があったと理解すれば、この関係は容易に理解できるであろう。 『後漢書』のこの文章については、『魏志』鮮卑伝裴松之注所引の『魏書』にも同文があり、それには「東のかた汗国を撃つ」とあったため、那珂通世は「『後漢書』を作った茫曄がさかしらに倭人国と改めたのであろう」と主張した(『外文繹史』)。倭人を日本列島だけの存在としたい那珂の主張に拘らず、満洲に倭人国があったとするのは『後漢書』だけではないし、むしろ「倭人」は満洲だけでなく、中国本土にもいたらしいのである。 一九七四~七九年に、安徽(あんき)省亳県の曹操家族墓群から一三九個の文字をもつ磚(せん、大型レンガ)が出土し、その一つに「建寧三年(一七〇)」とあり、他の一つに「倭人ありて時を以て盟うや否や」とあった。中国の学者はこれを「倭人」と読むのを嫌って、「汗人であろう」という者もいるが、勿論シナ事変を異民族の侵略とする以上、「倭人」がいにしえの中国にいたのでは困るからだ。 しかし理論的には、倭人は殷の時代からすでに江南の地にいたらしく、周金文に屢々登場する南国反子のなかに倭人がいたと考える学者もある。『後漢書』東夷伝の序文には「秦代、江南の地の東夷諸族は同化吸収されて秦の民となり、民戸に編入された」とあって、倭人もかつては江南の東夷のなかにいたであろう。 日本の学者にはこれを「日本にいた倭人が安徽省まで出かけて行った」というものもいるのだが、それは倭人がシナにいたのでは困るという政治的なコジツケである。中国にいた倭人はこうした日本人と中国人によって、同時に、偏狭な愛国心によって抹殺されようとしている。 『魏志』にしても、翰苑巻三十注所引の『魏略』では「今汗人亦文身し、以て水害を厭う」とあり、汲古閣本では同じところが、「今倭の水人好んで沈没して魚蛤を捕え、文身し亦以て大魚水禽を厭う」となっているから、倭人は時には汗人とも書かれていたわけで、汗人だろうと倭人だろうと実は同じものなのである。 「鮮卑」は一般にツングースの本流であると云われ、漢代には長く匈奴の支配下にあったが、檀石槐(~一八六年頃)のもとで匈奴を破って屢々後漢に侵入した。その後諸氏に分れて華北を支配し、五八六年には宇文氏が北周をたてた(~五八一)。一〇~一二世紀に華北を支配した契丹はこの宇文周の子孫である。 また、シロコゴロフは「ツングースはかつて揚子江の流域にいた・・・そのなかにはベトナム人そっくりの者がいる」と述べているが、少くとも契丹族の先祖の「鮮卑」は、かつては箕子朝鮮の臣民として中国の中原にいて、のちに満洲に移動したと考えられよう。このへんは沖縄人がアイヌ人と同族であるというなりたちにも似ているであろう。 更に『北倭記』は、「契丹族の遠祖は牛首人身の神農炎帝である」と云い、近い先祖は「沖縄にいた蘇民将来の神官キキタエである」としているが、「神農炎帝」とはバビロン史に登場するシュメール人のラガシュ王ルーガル・シャゲングルのことだから、結局契丹族のルーツは古代バビロンのラガシュ人ということになる。蕭氏はこのシャゲングルまたはラガシュの訳語ではないか。思うに、ラガシュ人はベトナムを経由して古代中国に移民したのであろう。また拙著『神道理論大系』で述べたように、「蘇民将来」とは実は牛神バアルの信仰であった。契丹族のうち王妃族の審密部または遥輦氏は講氏といっていた。愛宕松男はこれを牛トーテム族であったというが、「キキタエ」は蕭氏のシャーマンだったのではないか。「キキタエ」が沖縄の聞得大君になり、講氏がのちに沖縄の尚氏になったのであろう。 さて檀石槐は、「千余戸の倭人を捕らえた」」といっているが、その人々はこのあと何処に行ったであろうか。また檀石槐の急襲から逃れた残りの倭人はどうなったであろうか。さきに「北室韋の魚法が倭人の魚法に似ている」と云ったが、室韋ならば檀石槐が襲った地域内にいた筈だから、室韋の一部が、「北倭」ならば檀石槐の話もおかしくはない。 始めに述べたように、倭とモン・クメール語族のカーシ族の支派の瓦族が同族であれば、檀石槐がとらえたという満洲の倭人は、瓦人または瓦人と書かれていた可能性もあるが、『遼史』百官志は「凡そ世官の家、飈諸の色こして、事に因りて籍没する者は著帳戸と為す」と述べ、また「瓦里は宮府の名なり。宮帳部は皆之を設く。凡そ宮室、外戚、大臣にて罪を犯す者の家属は此に没入す」と述べる。 朝鮮のエタは白丁というが、朝鮮にいた倭人は多く白丁のなかに入ったのではないか。丁には特殊な姓があり、「池、車、蛮」などというが、日本ではこが「池田、車、弾」などになったらしい。 愛宕は「『元朝秘史』はこの乞瓦をKiwaと読み、答阿哩台をDautaiと読むから、瓦里はwa-liと読み、モンゴル語の助詞ugahuから転成された名詞uga‐riであろう。すると『罪を潔める場所』の義になる。ugari<uari<wari<waliと転音したのであろう。瓦里は当初は(皇后を出す部族の)遥輦氏九帳だけがもっていて、のちに各部に拡がったのであろう」と述べる(『契丹古代史研究』)。 碩学に反論するようだが、「瓦里」は文字通り瓦人の里で、契丹族のなかに、かつて檀石槐に囚えられた「北倭」(蒙瓦室韋)」が賎民カーストとして存在したのではないか。王妃族の蕭氏を尚氏とすると、沖縄の「聞得大君」はもともと新羅朴氏または長髄彦の子孫で、沖縄にあった狗奴国以来、倭人とは深い関係があった筈だから、蕭氏の人民のなかには倭人がいて、そこに檀君槐の囚えた「北倭」も流入したのであろう。 『新唐書』第二一九巻は「室韋は契丹の別種にして東胡の北辺にあり。蓋し丁零の苗裔なり---・・室建河は倶倫に出でて進りて東す。河南に蒙瓦部あり」と述べるが、推論すれば、「室韋蒙瓦部」のなかに瓦(倭)人がいて、檀石槐はこの人々を捕えて契丹族の賎民カーストにした。その部落が契丹の「瓦里」になったということであろう。室韋が「丁零の末」だというのは、瓦族が周金文に書かれている南国反子の一派で、チュルク族が殷人と同盟して姜族と戦ったとき、瓦族がチュルク族と混血して室韋になったからではないか。この時瓦族の言葉はほとんど失われてチュルク系の言葉に変わったのではないか。 「室韋蒙瓦部」がかつて瓦族であり、「北倭」であったとすると、のちにこの「蒙瓦部」は元帝国をたててヨーロッパまで侵略した蒙古族になるから、義経ジンギス汗説も見直す必要があるであろう。元帝国の末王順帝は明の太祖に破られて、成祖のときオイラートに合併されるのであるが、このオイラートも「瓦刺」または「幹赤刺」と書くから、瓦族と関係があるであろう。 いずれにしても、「赤い夕日の満洲」に古代、倭人の仲間(である瓦族)がいたということになるが、かつて神聖天皇制のもとでその地に入植し、荒れはてた山河を開墾し、ソ連軍によって追いたてられ、きらめくスパル星に別れを告げた戦前の移民たちにとっても、とりわけ衝撃的な事実ではないか。 ところで、あとで述べるように、契丹民族が編集した『北倭記』は実はフェニキア人の歴史に始まるものだから、契丹民族はフェニキア人の子孫を自称したかに思われる。勿論このことを、契丹族じたいは満洲自生のツングースで、文書の内容を、契丹支配下の倭(瓦)人がもちこんだと考えることも可能であろうが、同書によれば、箕子朝鮮は東胡であり契丹もまた東胡の子孫であった。すなわち契丹族は箕子朝鮮の子孫だと主張しているのである。『檀奇古史』にも明らかであるが、渤海時代にすでに奇子朝鮮、またはその子孫の中馬韓を渤海人の祖であると、檀君朝鮮を新羅朴氏の祖であるとする史論が確立していたのでる。 『史記』の股本記は実はバビロンのイシン王国の歴史であり、殷の実体はイシンに従属していたカルデア人のインダスにあった商杜アリク・ディルムンの出先機関中あろう。また『檀奇古史』によれば、箕子朝鮮はのちに番韓になったが、番韓はバビロン南方のセム族系カルデア人の海の国が亡びたあと移民であったことが判る。だから殷が亡びてその王族が箕子朝鮮をたてたというのは中国史家のデッチアゲで、殷も箕子朝鮮も別々に大航海によって渡来したカルデア人であった。 |
倭人と倭国 |
記紀では神武天皇はウガヤフキアエズノ尊の子であるが、『上記』や『宮下』などでは、神武以前にウガヤ王朝という長い王朝があったとする。神武はたしかに南朝天皇家の祖王であり、倭人の王ではあったが、実は伯族の扶余王仇台または百済仇首であって、伯族である以上、伯夷の子孫申侯の末であり、自らは倭人でも日本人でもなかった。従って神武の先祖のウガヤ王朝もはるか遡れば申侯のモデルであるウラルトゥの王家に到り、倭人の歴史とはかかわりがなくなる。九州と南朝鮮には五十余の倭国があって、邪馬壱国成立以前にはその代表的なものが倭奴国と倭面土国であった。しかし倭人の国を倭国と云うならば、日本も、公孫燕も、渤海も、ジンギス汗の元も、また元のたてたハンガリーやモスクワ公国やインドなども、すべては倭国ということになろう。 『後漢書』には「建武中元二年、倭奴国貢を奉じて朝賀す。使人は自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。安帝の永初元年、倭の(面土)国王師升等、生口百六十人を献じて請見を願う」とある。この時代には、この倭奴国が倭人諸国の最南端であった。はるか南方の沖縄に、ナーガ族の王・長髄彦(朴氏の祖・南解次々雄)によって狗奴国ができるのはしばらく後のことである。北宋版『通典』は倭国王師升の国を「倭面土国」とし、『釈日本紀解題』はこれを「倭面国」としている。この「師升(しろす)」を「帥升(すいしょう)」と読む人が多いが、これは国名を考えても判らない。まず「倭奴国」をワナコクと読むのはとても無理な話で、漢字を知らざるバカ読みとも云うべく、「旬奴」を読むと同じでワドコクが正しい。 『北倭記』と『桓檀古記』を総合すると、「箕子朝鮮が亡びたとき、その上将卓が馬韓に逃れて、辰韓の王となった。のちに東表国(倭面国)王クルタシロスから鳥栖河と背振山脈の間の地を譲られた」となり、卓王が貰った脊振山脈と鳥栖(ドス)河の問の地が倭奴(ワド)国になったのである。この地域には例の吉野ケ里があって、その遺跡からはガラスやブタの骨など中国系の出土品が多い。吉野ヶ里の発見で大騒ぎしている学者たちに水をさすようだが、これらの出土品を見て、この国が中国系移民の国ということをすぐに悟らなければ学者とは云えない。 文献上はこの国は実は馬韓の分国であって、このとき箕子朝鮮系の馬韓人に従って渡来した倭人が「北倭」であり、その支配層はのちに大和地方に移って韓氏とか秦氏と称していた。鴨緑江の流域に前方後円型古墳の原型が発見され、江上波夫はこれを扶余民族の古墳としているが、扶余ではなく箕子朝鮮の古墳である。馬韓人に領土を与えたという「東表国王クルタシロス」が「倭面土国王師升」のことだから、「師升」はシロスと読むべきなのである。 このシロス王は駕洛史では金官国の首露王になっているし、新羅史では金氏の祖の首留に、日本史では孝元天皇になっている。金官国の都が今の釜山にあったと考えるのはバカの一つおぼえで、実は九州の国東半島に本国があり、釜山はその出先機関もしくは植民市であった。これを「面土国」といったのは「九州は四面あり」というように、四面土国を省略したいい方で九州国というほどの意味であった。 ここで「安帝に生口を献じた」とあるが「生口」とは中国史料に共通する用語で、戸籍が無い原住民を意味するから、わが国では縄文人をさすのである。倭人も中国人も好んでこういう未開人を囚えて、あるは生賛にし、あるいは食用にした。『書紀』や『風土記』などにもこのことを類推させる記述があり、今日の常識からすると、九州に侵入した孝元天皇の一族がこのような非人間的な統治をしたのに驚くが、東表国はまた面土国といいのちに駕洛国といい金官国ともいって、元来アラビアから渡来した奴隷制国家であり、未開の縄文人を囚えてはさかんに食用に供したらしい。日本列島の本土に縄文人がいなくなったのは殆ど食べつくされて、残りが同和杜会に流れこんだためであろう。一九世紀、ヨーロッパ人がアフリカで行った奴隷狩りと同じようなものである。こういうことを書くと本が売れなくなるから、他の先生たちは書かないのだが、真実を書かないのは虚構を語るのと同じではないか。 漢民族の先祖はいま南洋に移動しているメラネシア語族で、メラネシアは衆知の通り喰人族である。漢から唐にかけて、中国では屢々古代盛んであった喰人の習俗が復活した。こういう国に原住民を供出する理由は食用以外には考えられない。『史記』平準書は「漢代のはじめごろ、山東地方は連続して数年の間、作物の収穫ができず、一、二千里四方で、人々が殺し合って人間を食べた」と述べる。中国の人口は漢の武帝の五四年間に、飢饅と喰人で半減したという。漢民族は基本的には喰人族だったのである。『漢書』食貨志は「連年早魁があいつぎ、北方辺境や青州、徐州で、飢民が互いに殺し合って人肉を食べた……十人のうち、七、八人は死んだ」と述べる。 大飢饉のときに喰人するのはマア許せるとしても、唐の時代になると、さらに薬用としての喰人が盛んになった。八五一年に刊行されたアラビア商人が書いたという『シナ・インド物語』には、「かれらの一人が別の都督を討滅するに従い、必ずその所領を含せ、その土地をすべて荒らし、その住民を食いつくした。中国人の法律は人肉を食うことを認可し、人肉が諸市場で公然と販売されている」と述べる。中国は依然として人喰人種の大陸であり、喰人の文化であった。 『文海扱沙』には「唐代の高瓚(さん)は妾を蒸して食い、薜震、独孤荘は人を醢にして食ったが生で食う者はなかった。のち、梁の羊道生は故奮部が縛られるのを見て刀を抜き、その目をえぐり出して飲みこんだ。宋の王彦昇は北方の胡人を捕らえて、酒を飲み乍ら、鉄腕でその耳を裂きちぎって咀嚼した。捕虜は血が顔にかぶり、苦痛で絶叫しているのに、王彦昇は酒を飲み、落ち着いて談笑していた」とある。 『資治通鑑』唐紀は「天復二年(九〇二)の冬に大雪。(陝西省鳳翔の)城中の市場で人肉が売られた」と述べ、また「宣州城で(安徽省)の軍人は人間を捕らえて市場に赴き、売り渡した。縄にしばりつけ羊や豚のように殺した。号泣する声も聞こえず骸骨は市場につみかさなり、流れ出た血は市場一面にあふれた」と述べる。『資治通鑑』後梁太祖開平三年の条には、「(軍閥の一人)呂兄(えん)は食用人間を飼育していた。その担当官を宰殺務といい、行軍のときは食用人間の群れをつれて行った」と述べる。『梁書』倭伝は「西南のかたちの里に海人があり、身は黒く眼は白く、裸で醜いがその肉は美しい。行く者はあるいは射てこれを食べる」と述べ、『南史』倭人伝も同じ事を書いている。漢から唐にかけて中国では喰人がさかんに行われ、海人はうまいというのが常識であった。その中国人に縄文人を献上したことは食用以外には考えられないではないか。 九州北東部にあった東表国(豊国)の倭人は「南倭」といわれ、日本の天皇家(南朝)はこの国家の王家とは直接の関係はないが、史書のうえでは、東表国の王が孝昭から開化までの天皇(北朝)になっている。しかし考えてみると、縄文人の生口を中国の王に食用人間として献上したことを残酷だといっても、大東亜戦争のときにカミカゼを証明しようとして、千万の国民に死を強制したのとどちらが残酷だろうか。インドの古い格一言にも、「王様は人民を食べる」とあるではないか。 さて『晋書』は「卑弥呼は宣帝の平げる公孫氏なり」と述べる。ここのところは日本の史家があえて識らぬ顔の半兵をきめこんでいる部分で、原文を見ればこう読むしかないのである。引用しておくと、「漢末倭人乱攻伐不定。乃立女子為王。名日卑弥呼。宣帝之平公孫氏也……」というのである。この卑弥呼が、記紀では事代主命の娘、神武妃ヒメタタライスズになっているのだが、記紀は大物主の軍団に「大來目」がいたと記すから、遼東の公孫氏にはクメール人またはその支派の瓦族がいたことは間違いない。このとき、満洲と朝鮮に残留したクメール人または北倭が、のちに扶余王依羅(崇神)が倭の地に逃れたあとで、唐に敗れた高句麗人を収容して渤海国をたて、さらに外蒙古では蒙瓦室韋となりのちに蒙古族になった。だから、ジンギス汗はもともと北倭の王だったのである。 日本の学者は、このジンギス汗が義経であったことを頑強に否定したがる。元の侵略をカミカゼによって破ったとする以上、ジンギス汗が朝敵にされた義経では、天皇のご威光がおかしくなるからである。日本の歴史家は天皇のご利益を風が吹いたことで立証する以外なかったのである。これを以てしても、日本の歴史が朝鮮渡来の天皇の御利益宣伝だけを目的としたことが判るであろう。しかし、天皇家や高野山には、義経がジンギス汗であったことを示す秘文が存在したらしく、あの帝国主義の侵略戦争を命令した昭和天皇は少年時代に、尊敬する人物として、あえて明治天皇を書かず、義経と書いた。 南倭もまた前一〇〇〇年ころガンジス河口から採鉱のために、タルシシ船に乗って九州にやって来たカーシ族の一派であった。国東半島の重藤遺跡によれば、かれらがこの地に上陸してトーテツ文の土器や青銅器を作り、これを殷に運び、またさかんに砂鉄を採って製鉄を行っていたことが判る。 『北倭記』は国東の倭国を「東表国」として「殷(箕子朝鮮)と姻たり」とするのだが、のちにこの国は面土国といい、駕洛国といい、金官加羅ともいった。この王族から分れたのが新羅の金氏であり、さきに述べた穢国の(扶余後期王朝)の王ニギハヤヒは熊本にあった多婆羅国の王で、これがのちに新羅の昔氏になった。また沖縄の狗奴国の王・南解次々雄または長髄彦は新羅の朴氏になった。神武天皇は実は扶余(前期王朝)王仇台のことで、扶余と公孫氏が連合して、多羅婆国を併せて邪馬壱国を作ったのである。だから日本史で倭と云い倭人と云うのは、大別して、九州の金官国の「南倭」と公孫氏の分国であった邪馬壱国の「北倭」をさす。このうちの「南倭」が朝鮮半島南部の駕洛地方に展開していたのである。 『旧唐書』は倭国と日本国を別の国として扱って、「倭国は古の倭奴国である…-四面に小島、五十余国あり。その王は阿毎氏であった。一大率を置いて諸国を検察し、みなこれに畏付する--・・衣服の制はすこぶる新羅に類する」と述べているが、「新羅に類する」というのは当たり前で、新羅は面土国または金官国から分れた国だったからだ。「四面に小島がある」というのは、いにしえ九州を四面といったからである。これを以てしても、倭国が九州にあったことは疑いない。ここで倭奴国というのは九州北東部にあった面土国の金官国が馬韓に領土を分けて作らせた国で、のちに邪馬壱国のなかの奴国になる。邪馬壱国は福岡の伊都国、吉野ヶ里の倭奴国(奴国)、熊本の多婆羅国、日向の安羅国などの連合国家であって、このうち多羅婆国の王がニギハヤヒであったが、その王姓を阿毎氏といった。記紀は「神武が十種神宝とともにこの姓をニギハヤヒから貰った」と書いている。『旧唐書』の倭奴国と倭国のつながりは地理的な表現で、もとの倭奴国の領地に倭国(耶馬壱国)ができたという程の意味であろう。 結論として、倭国は五十余国あったが、その代表的なものが(1)南倭の面土国、のちの駕洛国または金官国と、(2)箕子朝鮮系の北倭の倭奴国、のちの秦王国、または別倭、日本旧国であり、そして(3)北倭を中心とするのちの邪馬壱国または安羅・多羅・伊都国・奴国などの連合国家であった。 |
第5章 明治天皇の南朝革命 |
南北朝の謎 |
天皇家を「万世一系」というのはマッカなイツワリで、唐の助けをかりた白村江の戦勝によって、九州の倭国(邪馬壱国、または安羅)と大和地方の日本国(秦王国、または日本旧国)の占領支配に成功して、これらを一括して日本新国を作った新羅人の王族がまず天皇になり、のちに道鏡のとき、この敗戦によって朝鮮から逃亡した百済人の子孫がそのあとの天皇家を作って、唐の降将郭務悰、金官国の王族と日本旧国の王族たる韓氏と秦氏を以て藤原氏とし、その協力を得て、無知にして無抵抗な現地人を弾圧し、タブラかしたという悪質なペテンであった。 だいたい如何なる権力といえども、批判を許さない権力である以上は常に腐敗するものだから、この世に「万世一系」などという絶対王朝なんか成立する筈はない。歴史書を読めば独裁と腐敗はコインの裏表であるから、こんなことが判らないヤツは歴史書を読む資格がないのだ。しいて云えば、「万世一系」という強弁には、この日本では、朝鮮人の亡命者だけが天皇になれるという意味しかない。 中国の文化人は「科挙」というおかしな制度のために暗記人間になってしまったと云うが、日本の文化人も、朝鮮坊主道鏡の強欲非道な目くらましのために頭が完全にイカレてしまったのである。宮内庁は皇太子妃の決定のために四代をさかのぼって調べたというが、その目的は朝鮮人の混血があることを恐れたという。しかし、肝心の天皇家が朝鮮亡命者である事実を、どう考えているのか。 そもそも日本の歴史学者は無知無学にも、漫然と「南北朝」という言葉を使っているが、実は両者は一系ではなく別の王朝であった。『類聚国史』には、「南朝(光仁)登祚するも茂実を洛誦に欠く」とあって、道鏡、光仁、桓武の百済系天皇家を南朝として、それ以前の北朝、実は新羅系天皇家と区別している。だから光仁たちの先祖である百済王仇首の神武天皇は南朝で、天武天皇系の新羅王とその先祖の金官国王が北朝なのである。呑んだくれの将軍であった百済王敬福の子供の道鏡と文鏡改め光仁、光仁の子の桓武という百済人の一族は亡命した百済王族の子孫であった。すなわち文鏡、武鏡、道鏡という兄弟は百済王敬福の子供たちであった。百済は南扶余(ありしひのふよ)と云って今の全羅南道にあり、新羅は慶尚北道にあった。『旧唐書』には「百済…東北は新羅にいたる」とあって、新羅を東北、百済を西南と位置づけているが、これを簡単に云えば北と南になる。道鏡が生来の巨根で女帝のヒモ坊-主になりながらも天皇になれなかったのは、百済系の道鏡が「皇統に非ず」とされたからで、その時点までは、新羅の王統だけが皇統だったのである。 そもそも道鏡が皇統でないと云うのに、その兄の光仁がどうして皇統であると云えるのか。その答えは一つしかない。それは、この間に道鏡が記紀を恣に書き変えて、過去の日本国で道鏡と光仁の先祖である百済王たちが天皇であったようにしたからであったが、オヤガメの女帝がこけた道鏡の失脚のあとで、この偽造によってマンマと兄の文鏡が光仁天皇として即位でき、これがわが国における百済系第六王朝のはじまりになった。「道鏡は皇胤であるが、兄の光仁は皇緒である」とわけの判らないことを云って区別した学者があるが、船が小さくて女連れで来れなかった朝鮮人が先住民族の女性を、掠奪したことに始まって、「女の腹はカリバラ」というのがこの国の伝統だから、いかにも無理なコジツケであろう。このことは拙著『日本王朝興亡史』『日本侵略興亡史』などに詳しく論じてある。 さて、新羅の武士団を源花と云い、花郎とも云ったが、これが日本では源家、源氏のもとになった。はじめ新羅では美女を中心にして武士団を作ったが、男同志のケンカが始まったために男色を奨励してうまくいったという。アメリカ陸軍が男色肯定にふみきろうとして参謀長が反対していると云うが、男色を肯定すれば案外強い兵隊が、できるかもしれない。また『海東雑録』によれば、新羅末の花郎のなかに「平山、字は栄仲、号を亀峯と云う」ものがあって、遊女をつれて踊ったり歌ったりして各地を廻った。これが日本に来て、天皇家の周辺に女性を提供して平氏になったと思われるから、源平武士団はともに新羅系なのである。朝鮮語でトポック・モリというのはまげがみのことであるが、平家の「キヨモリ」とか「シゲモリ」というのもこのことであった。権力を手中にすれば、こんな、どこの馬の骨か判らない連中でも系図なんかどうにでもなる。こういう連中にもっともらしい系図を作ってやるのが、天皇家の周辺にうごめく藤原一族の特技だったのである。 戦後右翼の大物といわれたボスニ人がいわゆる朝鮮人のキョッポウで、戦時中のドサクサに憲兵から、空爆で一家が死に絶えた人の戸籍を貰ったという事実を聞いたことがある。憲兵が朝鮮人を手なずけるために戸籍を与えたという。面白いことに、その二人はことごとに朝鮮人の悪口を云っていた。こんなやり方で、日本ではいつの時代にも系図偽造を行っていたのであろう。系図偽造は万世一系を誇る天皇制の必要悪だったのである。これをやらなければ、とうの昔に天皇制はつぶれて武士のなかから王様が出たであろう。 日本独自の武士団がはじめて出現したのは戦国時代からで、それ以前の源平武士団は戦後横行した朝鮮人の集団強盗のように、不良朝鮮人の暴力組織にすぎなかった。新羅の花郎道は日本武士道のルーツとされているが、それは唐に対抗して、始めて朝鮮半島に統一国家を作った新羅人のバイタルな民族精神から生まれたものである。明治以降の日本の軍人はことごとに武士道を云い、源平武士団を以て自分たちの誇りとしたが、それは新羅のオカマ武士団を日本軍のルーツとしたことであって、愚かなる無知であった。 新羅の花郎といえば面白い話がある。筆者がソウルでセミナーをやった時、「日本人には義経がジンギス汗になったなどという人たちがいる。とんでもないバカ共だ。歴史を知らない」と云う人がいたので、「しかし義経の先祖は新羅の源花花郎だよ」と云ったら、しゅんとして黙ってしまった。この人は歴史学を自分の民族の白漫のための学問と考えているのであった。「バカ」は自分なのである。文明諸国においては、歴史学はおおむねおのれの民族の反省のためにあるのだ。高麗は元の属国になったから、ジンギスカンが義経だと実は明治の朝鮮合併は二度目の国辱になるのである。しかし、正確には新羅の朴氏は日本の中曽根氏と同じ一族で厳密に云うと倭人の一派だから、朝鮮の民族主義は朝鮮から逃亡した百済人を天皇として奉っている日本の民族主義と同じたぐいである。 さて、かつての新羅人は百済系南朝のもとでクダラ・ナイ奴らと云われて、差別され乍らも徐々に力をつけていたが、源氏は頼朝の時に天下を統一し、その源氏の末であった足利義満は、後円融天皇の女御の三条厳子に産ませた幹仁を後小松天皇とし、さらに西御方に生ませた貞成を伏見宮栄仁親王の猶子におしこんだうえ、栄仁親王とその子の治仁王を毒殺して貞成に伏見宮家を乗っ取らせ、その貞成の子を後花園天皇として即位させた。ずい分手のこんだことをして、結局天皇家の乗っ取りに成功したのであるが、この王家を北朝と云うのは源氏が新羅人だったからである。これが新羅系第七王朝であった。このことは拙著『日本王朝興亡史』に詳しく記したが、しかし、こんなに苦労して作った北朝も明治維新によって終わってしまう。 この明治王朝が百済系第八王朝だから、日本では約二五〇〇年の間に八つの王朝が交代したのである。平均すれば一王朝が三百年ほどあって外国の王朝とそう変わらない。こういうことを聞いて、「万世一系は絵空事だったナア」と思う人だけが、日本の歴史を理解できるのである。「万世一系がウソだなんてとんでもない」と云う人は、さっきのセミナーで発言した韓国人のたぐいで、歴史学の研究にはハナから向いていないのである。こういう人は鏡を見て、「アア俺はいい男だなあ」と繰り返している、一種の精神病者のたぐいであろう。日本の歴史学者はこの手の連中が多いのである。 |
吉田松陰の秘密 |
田中光顕は「吉田松陰の松下村塾は南朝復興グループのアジトだった」と云ったという。 吉田松陰は元保元年(一八二九)萩松本村護国山の麓の団子山で、禄高二六石の藩士杉百合之助の次男として生まれ、のちに禄高五七石の山鹿流兵学吉田家の仮養子となった。これについて、「松陰は万歳師の根拠地である吉田村の出身であったが、先祖が金で身分を買ってマタモノの武士になった」という人もあり、真偽は判らないが、長州ではこうしたことは珍しくないと云う。そして松陰は天保一二年、玉木文之進が松本新道におこした松下村塾に入り、嘉永四年、山鹿流の皆伝をうけて江戸に出て、一二月には水戸に旅行しているのであるが、その地で光囲の南朝正系論に接して、かつて水戸藩が被護していた南朝の熊澤天皇のことをも知ったであろう。 田中の説明を考えてみると、松陰は光圀にならって、南朝の子孫であった麻郷の大室寅之祐を擁立するという同志の決意を伝え、それに共鳴した水戸の藤田東湖たちとの間に、何らかの密約を結んだと考えられないだろうか。そしてこの密約がのちに明文化して「成破の約」になったのではないか。そうでなければ、徳川家の分家である水戸と反徳川の長州が突然密約を交わして同盟したことは説明がつかない。 万延元年八月に長州の桂、伊藤、松島剛蔵と水戸の西丸帯刀、岩間金平、園部源吉、越惣太郎の問で「成破の約」が結ばれた。「成」は長州が幕府に進言して、水戸の斉昭と越前の松平春獄を幕政に参与させる、「破」は水戸が老中安藤対馬守信正を斬るという内容で、「水戸は過去の一切を破壊し尽くす。その代り、長州はすぐさまそのあとに日本の明日を築く」というのである。 しかし、この「成破の約」以前に、嘉永四年(一八五一)一二月水戸の藤田東湖の代理人となった会沢正志斎と豊田天功が長州の吉田松陰と会談して、すでに何らかの密約をなしたらしく、その密約の目的は南朝の復興、実は孝明天皇父子の暗殺と大室天皇の擁立であったらしい。慶喜は第一次征長戦に際しても、水戸から武田耕雲斉の部隊を呼びよせ、水長連合軍によって一挙に南朝の再興を計ったようであったが、長州が暴発したため事成らなかったという。 思うに、松陰にもちかけられた東湖は、水戸藩はかつて熊澤天皇を擁して南朝正統論を主張していたから、南朝の末という大室天皇の擁立には反対はできなかった筈である。かくして、徳川家は本来、隠れ南朝であり、南朝の支持者として発足しながら、家康の孫娘が天皇になって北朝と同化したことのツケを払った。 因果は廻る、矢車の如し。 松下村塾が南朝派のアジトだったとすると、その筆頭テキストが熊澤天皇を擁して南朝正統を説いた光圀の『大日本史』であったことも、松陰が水戸に遊学したあと、わずか三年間で長州の志士たちを統合したナゾも解けるであろう。手品のタネは大室寅之祐にあったのである。 この吉田松陰の主張であるが、第一に、光圀の水戸学の影響を受けて、神、仏、儒の「三道鼎立」を否定し「儒仏は正に神道を輔くる所成なり-…・神道は君なり。儒仏は相なり、将なり」と述べて、国民のアイデンティティを神道に求めた(安政二年八月一五日)。ここから維新後の国家神道が生まれる。 松陰のこの思想は聖徳太子の神道観に根ざし、光圀の水戸学に影響されたものであろうが、儒学発生の地と目された中国は、すでにイギリスのアヘン戦争に始まる列強におびえ、仏教発生の地インドもすでにイギリスの植民地になっていたから、日本が独立国として頼るべき信仰は神道しかなかったとも云える。しかしこの時代、神道が檀君教の別派であり、その檀君教がフェニキア人と分裂する以前のユダヤ人が奉じていたバアル教であったことは、誰も知らなかったのである。国家神道は維新の志士たちの無知が作り出した新興宗教であった。 松陰の思想は聖徳太子の受け売りとも云うべきであったが、実は、その聖徳太子自体も百済の亡命者の子孫であった道鏡坊主の自分の先例を作るためのデッチアゲであった。しかし、ここから明治体制の思想的支柱としての国家神道が生まれた。惜しむらくは、松陰が神道を日本固有の宗教であると考えて、古代ユダヤ教すなわちバアル信仰の転化であった事実を識らなかったことである。神道とは九鬼神道に見る如く、かつて世界に流布されたバアル信仰に由来し、満州や朝鮮などにも広く行われた鬼道または檀君教から発生したものであり、決して日本独自のものではなく、実は倭人や朝鮮人が国外からもちこんだ外来宗教であった。いまの朝鮮の太白教や太悰教などが神道の本家筋に当る。 実は、太悰教を日本に広めようとして、筆者の知人である姜寿元氏が神社庁に相談したところ、「日本神道の分派として取り扱う」と云われたという。これを本末転倒という。神社庁は明治政府の偽史政策によって、さながら豚の如くブクブク肥大化して、すでに正論を知る気力も知力も失っていたのである。 第二に、松陰は水戸に遊学して光圀の『大日本史』による南朝正系論を藤田東湖たちから教えられ、『大日本史』を門下生のテキストの筆頭においた。しかし、北朝の新羅系源氏軍団に対抗して、南朝の後醍醐天皇の軍隊が、散所頭の楠木、万歳師の北畠といった「賎民」の軍隊を中心として構成されたために、松陰の南朝再興も、賎民のもつ解放エネルギーを主軸として考えざるをえなかったし、南朝がやがて旧来の公卿と武士の側からの差別エネルギーによって倒れたと同じく、維新後直ちに解放のエネルギーと差別のエネルギーの葛藤が始まる宿命があった。すなわち、土佐海援隊の坂本竜馬の暗殺や、長州奇兵隊の赤根武人の処刑北朝との野合による維新政府の腐敗を嫌った前原一誠の乱と西郷の西南の変は、その根底では、解放エネルギーが旧体制のもつ差別エネルギーによって打倒される構図として理解することもできる。しかし、この葛藤を武力で弾圧する処方箋は松陰のプログラムには無かった。岩倉、伊藤たちの牛耳る明治政府は松陰の遺訓からすでに逸脱していたのである。 第三に、のちに国を誤らしめたものだが、徹底した民族主義と侵略政策がある。 安政一~二年(一八五四~五五)に萩の野山獄において、松陰は「来原良三に与ふるの書」中で、「天下の勢い日に両夷におもむき、二虜いまだ平がず……和親以て二虜を制し、間に乗じて富国強兵し、蝦夷をたがやし満州を奪い、朝鮮に来りて南地を併せ、然るのち米を拉ぎ欧を折かば、事克たざるはなからん」と書き(『吉田松陰全書第二巻』)、また『幽囚録』には、「宜しく蝦夷を開墾(かいこん)して諸侯を封建し、間に乗じてカムチャッカ、ウォトクを奪い、琉球に論(さと)して朝観会同すること内の緒侯と比(ひと)しからしめ、朝鮮を攻めて質を奉らしめること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾、ルソンの諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし」と書いた。 この安物のシャンパンのように、景気はよいがあとで悪酔いする松陰の侵略思想が、黒船の侵略によって、アヘン戦争によって敗北した中国と同じく欧米の植民地になるとおびえていた勤皇の志士たちに歓迎されたことは云うまでもないが、そののち松陰の云った通り、日本は明治、大正、昭和と延々八○年をかけて、台湾征伐、日清、日露の両戦役、朝鮮合併、シベリア出兵、満州建国、中国侵略、対米戦争、ルソン占領とやったのだから、松陰の予言をえらいモンダというべきか、維新の元老以下の長州閥、宇垣閥、統制派と、形を変えて続いた陸軍軍閥と、三井、三菱、住友などの旧財閥による「軍産複合体」の結合をバカの一つおぼえの産物であったとすべきだろうか。 統制派はドイツに留学した陸軍の将校たちがヒットラーのナチズムにほれこんで、陸軍人事を独占した長州閥を倒そうとして、バーデンバーデンで密約したことに始まったが、それは建前で、ホンネは中国の侵略とその独占支配であった。そして統制派はのちに長州の木戸内相をひきこんで、結局長州閥の理念を承継した。ミイラ取りがミイラになったのである。岩倉使節団といい、統制派といい、言葉も判らないノータリン共が先進国に行き、簡単にことを決定するから国を亡ぼすのであった。単細胞そのものであろう。しかし、松陰は風呂敷をひろげすぎたと自慢して、自ら路線修正のためにアメリカに渡ろうとしていたから、もし渡米に成功したならば、台湾征伐以下はとてもムリだと判って取り消したのではないか。春秋の筆法を以てすれば、松陰の乗船を断ったアメリカの一船長のために日本の革命は誤った方向につき進んだわけである。松陰の思想はそれ自体も決してオリジナルなものではなかったが、松陰は処刑によってカリスマ化したから、松陰を改めるものはまさに松陰だけとなって、結局それは誰にもできなかった。革命の過程における思想家の処刑は、このように危険な要素をもっているのである。 明治四年一〇月八日、岩倉、伊藤、大久保、木戸、田中らの使節団が太平洋を渡ったが、いったい外国へ行ってことを考えるには、それなりの基礎的な知識が必要である。こんな連中に松陰の代理が勤まるわけはなかった。果せるかな。使節団は米英に洗脳されて、その走狗となることを誓って帰国したのである。 |
徳川幕府滅亡の原因 |
長州が第二次征長戦を戦いぬいた秘密は、長州が錦旗をもっていた、すなわち南朝の子孫を自称する大室寅之祐を擁したことをあげる人が多いが、実は、伊藤が長崎の英国商人グラバーを通じて最新式心銃七千丁を取得したことと、赤根武人や高杉晋作らが「奇兵隊」という農民と賎民の軍隊にそれらの銃器を使用させたことをもあげなければならない。日本の戦国時代が種ヶ島銃の渡来によって始まったように、徳川幕府はイギリス渡来の新式銃によって倒れて明治維新が始まったのである。そして岩倉と伊藤が、「奇兵隊」を全国規模に拡大して、英米支給の武器によって武装するという徴兵制によって、日本の帝国主義が始まったのである。 慶応元年六月、坂本龍馬と中岡慣太郎の斡旋で、長州は第二次長州征伐に備えて薩摩の名義を借り、長崎でイギリスから武器を買い付けようとした。ことに当ったのはすでにオックスォードにも遊学していた伊藤と井上で、二人はグラバー邸を訪問してこの周旋を頼んだ。これよりさき、伊藤は松陰の勧めで一年間グラバー邸の下僕になっていた経歴があり、この経歴は周旋の成功に大いに役立ったに違いない。まさに武士の生まれでなく、貧農出身の伊藤ならではの役どころであった。 この時山口の木戸にあてた伊藤の手紙には、「覚え 一、ミネー(ミニェー)銃 一挺十八両、四千三百挺、七万七千四百両、二、ゲーベル銃一挺五両、三千挺、一万五千両、計九万二千四百両 三、木船にて長さ二十五問ぐらい、建造より七年ほど、代価三乃九千両位」と書いてあった。 この銃はアメリカが南北戦争で使い古した中古品であったが、これこそまさに日本列島に権力を生み出した打出の小槌と云うべく、戊長の戦いで奇兵隊は世襲の軍団を擁した幕軍を破り、さらにそののち、徴兵制による農民兵は西南の戦いにおいても、西郷の抜刀隊「チェスト」を破った。農民と新式銃という発想はこの時代としてはまさに革命的な戦略であった。 ミニェー銃はゲーベル銃より射程が長くて当時としては最新の小銃であった。のちに箱館戦争の時、官軍はスペンサー騎銃、スナイルド銃、ミニェー銃などを装傭し、弾薬も十分もっていたが、幕軍はゲーベル銃が主力であった。五稜郭の決戦では両軍は同じ距離で互いに撃ち合ったが、官軍の銃丸はとどいても幕軍はとどかず、銃の性能が勝敗を決した。 最新式の火器さえ持てば、あえて世襲の武士という職業軍人でなくても旧式兵器の職業軍人に勝てる、ということはのちにベトナム戦争でも証明される。べトナムはソ連の給油船がカムロン湾で石油を陸上げして、それによって米軍との間で武器のバランスを保ったため、地の利をえたベトナム軍が行進も出来ない軍隊のくせに最後の勝利を握った。ベトナム軍は石油を買えなくなった日本軍よりは条件がよかったのである。 鉄砲と火薬で天下を取った織田信長の例を見ても、新兵器を敵よりも数多く手に入れれば勝つのは当り前であった。このことを判り易く云えば、アジアの後進国では、先進の欧米諸国と早く接触して、その武器を手に入れた方が勝つのである。これに対して徳川方の敗因は、南朝大室党の秘密メンバーであった徳川慶喜が、フランスの武器提供を拒絶したことにあった。親分に戦意がなく降服をきめこんでいたのでは、勝敗は戦う前から決している。 日本は岩倉使節団が米英のおだてに乗ってとりきめた密約によって、米英の兵器を支給され、中国、ロシアと戦い、朝鮮を植民地にしたが、のちにその米英の意に反して満州を侵略し、さらに中国を独占支配しようとした。しかし、米英は日本には朝鮮と台湾だけを与えれば十分だとして、今度はソ連や中国に兵器を与えて日本に対抗させた。結局、歴史の公式通り、新式武器を与えられた方が勝ったのである。 征長戦で徳川軍の物資郵送を担当すべき弾左衛門は大阪までやって来たが、結局自分の補給部隊を出動させなかった。弾左衛門はやるような格好だけで実際戦争には協力しなかった。この理由は、薩摩の益満休之助ら江戸の勤皇盗が、弾左衛門に、自分たちはマガタンシまたはユタモンという白丁隼人であり、弾家もその白丁であったという歴史的事実を持ち出し、「われわれは同族だから、解放のために共同して徳川政権を倒そう」と持ち掛けた史実からも想像できよう。のちに中国侵略した陸軍もそうだが、補給が々い部隊は戦いに勝てないのである。 徳川幕府の滅亡は、静岡市馬淵のきさら遊女の私生子であった家康が、解放政策をとらず、逆にカースト制を固定化して強化したために、当然の如く発生した体制的な歪みによるものがあった。天皇制も封建制も家長制だから、子供がふえれば経済が破壊されるという宿命にあった。 これでは次男以下は反体制に廻ることになる。しかし、この他にも、ポルトガルが賎民を中心とする一向一撲の仏教徒と戦う織田信長に近代火器を与えたのちに、権力をえて自分を神格化させた信長を嫌い、新式火薬によって殺させた。その真相を知った徳川家康が、日本人同志の代理戦争を避けようとして行った鎖国政策が有力な原因であった。鎖国はたしかに有効ではあったが、時しのぎの政策で永続させることはできない。しからば、再び海外から火器と火薬が流入すれば、日本には忽ち戦国の世が復活するであろう。 すなわち幕府滅亡の原因は、幕末世界の列強をかりたてた帝国主義によって開国を迫った黒船、この黒船が持ち込んだ近代火器に幕府が抵抗できなかったことにあった。戦国時代と明治維新の間の徳川三百年の平和は、鉄砲伝来と黒船の間つづくことのできた鎖国政策によって可能だったのである。 幕末動乱と明治維新の真の原動力は勤皇の志士の力ではなく、この黒船の威力であった。黒船の恐怖が日本人に精神武装をさせ、古代の天皇と神道が復活して国家的求心力の中心になった。 武家政治の崩壊によって天皇制の復活をなさしめたのは、実は世界的スケールで広がった帝国主義であり、具体的には黒船だったのである。皮肉な云い方をすれば、欧米人の侵略に対して、かつて日本を侵略した朝鮮人や中国人の残した天皇イデオロギーで対抗するということであったが、これを近代的に修正せずして行えば成功するわけはないであろう。 しかし、実際に黒船によって三百年の藩幕体制が崩壊するためには、一見、ドラマティックな事作が連続しなければならない。すなわち水戸徳川家の謀略と尾張徳川家の離反など、別のいい方をすれば、有栖川宮の王女登美宮吉子を母として、水戸光圀と藤田東湖のいう南朝復興を理念とする徳川慶喜の南朝思想も崩壊原因の一つであった。だから徳川家の立場で考えると、慶喜を将軍に選んだのは明らかにミスキャストであったが、南朝再興という理想からいえば、それはもともと光圀のスローガンだったから、そのスローガンに忠実な慶喜はこよなき適役であった。日本が侵略を免れ、李朝や清国がその侵略によって亡びたのは、その国に交代する勢力があったか、無かったかの違いであって、長州の大室家という南朝天皇家は交代勢力として唯一の存在だったのである。南北朝の争い、百済と新羅の争いがこのときの日本を救ったというのは歴史のいたずらであろう。GO、終了!! |
明治維新は南朝革命だった |
実は明治維新は南朝の革命であった。その真相は今日でも重要な部分が明らかになっていないので、ここで簡単に説明しておきたい。 のちに元老になった岩倉具視と陸仁親王の祖父に当る中山忠能が、西郷、木戸、伊藤などを代表者とする薩長両藩と共謀して、将軍家茂と孝明天皇を暗殺した事実は戦後ようやく明らかになったが、いまだにどの教科書にも書かれていない。日本の歴史家はこのような大虐事件の犯人をどうして告発しないのか。いやしくも天皇を殺したという大虐事件を告発できないならば、歴史家の価値などは無きに等しいではないか。こんな歴史学教授は税金ドロボーだし、極言すれば逆賊であろう。 だいたい毛利藩じたいの誕生にしても、当時の忍者集団であったハチヤ衆の協力によって尼子藩を奪ったという秘話があったが、この大虐事件では、かねて自分たちの主人であった長州藩主をも毒殺した長州忍者の集団が、朝廷の医師伊良子良順を脅迫、買収して、一服もらせて徳川家茂を毒殺し、さらに岩倉の手引きによって、孝明天皇を妾宅で毒を塗った竹槍で刺殺したのが真相であった。 阿部真之助は「孝明天皇の急死はその当時からとかくの噂があった。周囲の状況から判断すれば岩倉以下の陰謀毒殺であること十中八九まで疑いない。すべて権勢争奪を中心にして動いた」と述べる。岩倉は文久二年、孝明天皇が妹の和宮の御降家に反対したとき、久我建通、九条尚忠、千種有文らと共謀して天皇をチン毒によって殺害しようとし、またバカバカしい話だが、比叡山の僧に天皇呪殺を依頼した。 孝明天皇暗殺説の内容には諸説あって、革新のスターねずまさしによる毒殺説も世に識られているが、私が耳にした京都の古老の口伝では、天皇は病気が直ったので妾宅に行き便所に隠れていた忍者に襲われて、毒をぬった竹槍で刺殺されたという。このことは、今でも京都の古老の間では秘かに語り伝えられているから、読者のうちには聞いた人もあるかもしれない。だから、この殺人はもはや公卿だけでなく、忍者を使うことのできる大藩―長州が共犯者だったのである。 これに対して毒殺説は一見合理的にはみえるものの、実は「天皇たるものを刃物で刺すということはあり得ない」という伊藤憲法的発想の産物ではないか。瀧川政次郎は雑誌『新潮26/10』で、「孝明天皇も亦わが皇室史上の悲劇の主人公であらせられる。慶応二年一二月二五日の天皇の崩御をめぐって疑惑は明治時代からかけられていた。孝明天皇毒殺説は私が少年時代から幾度となく京都の公卿華族の人々から聞かされたことである。宮中の女官の日記である『御ゆどのゝ上の日記』には天皇が疱瘡で亡くなられたことになっている。天皇がこの病気だったことは事実であろうが、疱瘡と暗殺との競合ということもあり得る。事は宮中の奥深いところで起ったのであるから的確なことはいえないが、当時の情勢からいって孝明天皇の暗殺ということは実際にあり得ることである。 ・・・文久年問から閑院宮家の侍医になっていた菅修次郎(実は中国人菅之修)が慶応二年の一二月某日夜半急に起こされ、密閉された駕篭に乗せられて壮大な玄関口に導き入れられ、普通人の住居ではないと思われる暗い長い廊下を渡って座敷に通されると、四〇にはまだ少し足りないと思われる総髪の男が脇腹を鋭い刃物でふかく刺され、もはや絶望状態になっていたので、もう手当てのしようがなかったと書いた手記を、菅の甥の中国人李軍光という人に残していた」と述べ、この重傷者が孝明天皇であったと推定している(「皇室史の悲劇」)。 さすがに瀧川は事件の真相を的確に把握していたのである。 してみると、『中山忠能日記』の「天皇御九穴より御脱血」というのは文字通り刃物で九ヶ所(多数)刺されたということであるが、この瀧川説は私が聞いている口伝とほぼ同じなのである。刃物で刺したといえば長州の山県は槍の達人であったと云うが、のちの状況から考えると、計画したのは岩倉で、犯行を指揮したのは当時京都近辺に潜んでいた木戸ではないか。 瀧川が記録する菅修次郎の主張は、作宗南条範夫によってさらに次のように詳しく説かれている(「孝明天皇暗殺の傍証」『人物往来33/7』所収)。 私の母方の祖父土肥一十郎は春耕と号し幕末の頃京都松原に医業を開いていた。医は春耕一代の業ではなく遠く十数代前からの家業であり、多く堂上の衆を患家としたらしい。春耕の時代には閑院宮家の侍医であった。もちろん閑院宮家のみを対象としたものではなく公卿一般を対象としたものであろうが、町家の者は殆ど相手にしなかったらしい。今年八一歳になる私の母の記憶に残っている明治二〇年頃においてさえ、祖父春耕は町家の患者に対しては「貴様ら素町人めが!」と怒号したという。若年の頃長崎に留学し、蘭医学(外科)を学んだというにしては、誠にふさわしからぬ旧弊古晒である。 その春耕の書き残した日記の断片を私は中学時代に見つけ出し、昔流の怪奇な文字遣いに閉口して父に読んでもらったのであるが、孝明帝の条に至って父が顔色を変じ、「これは大変なことだ。誰にもこんなことを話してはいけないよ」と念を押し判読を中絶してしまったのである。そしてその後再び読みかえす暇もなく祝融(しゅくゆう、火事のこと)の災に遭って、その手記は灰燼に帰してしまった。 内容の細かい点はもちろん覚えちがいもあろうが、大体の筋途は問違いなくはっきり頭に残っているつもりである。それによれば、慶応二年一二月某日夜半過ぎ(この年月は父の誕生と同年同月であり、その手記を読みながら父がそういったので、その時の父の口調まで記憶にある)祖父春耕は突然激しく門戸を叩く音に夢を破られた。家人が出てみると閑院宮家からの急使で、直ちに伺候せよとの事である。何らかの椿事によって負傷者の生じたものと考えた春耕は、所要の器具を用意して慌しく迎えの駕篭に乗った。ところが意外にも駕篭の行く方向がいつもと違っているようなので、小さな覗き口の垂れを上げて外をみようとすると外部からしっかりと閉めつけられている。駕篭際について小走りについてくる者に不審を尋しても何の返事もない。幕末騒擾たる折である。不安の念にかられながらも自分の職業を考え、何人かが秘密の治療を必要として宮家の名をかたったのであろうと判断した。 駕篭はやがてどこかの門内に入るとみえて地上に下ろされると、思いの外荘大な玄関である。そこに待ち受けていたのが、宮家において数回顔を合わせた事のある公卿の一人であったので、春耕はホッとひと安心した。しかしその公卿は春耕に一言の質問も許さず、手をとる如くにして長い廊下を導いて行った。幾たびか廊下を曲がるうち、それが明らかに御所であることを知って愕然とした時、春耕は広い座敷の奥の小室に導き入れられた。みると座敷の中が五寸程高くなっておりそこに寝具が敷かれ、四〇には未だ若干足りないと思われる総髪の貴人が横臥していた。その囲りに五、六人の人が心も空に立ち騒いでおり、傍に熟知の同業者が顔面蒼白となって坐している。 医師としての職業、本能から物問う間もなく横臥する人の傍ににじりよってみると、白羽二重の寝衣や敷蒲団はもちろんのこと、半ばはねのけられた掛蒲団に至る迄赤黒い血汐にべっとり染まっている。横臥している人は脇腹を鋭い刃物で深く刺され、もはや手の下しようもない程甚しい出血に衰弱し切って、ただ最後の呻きを力弱くつづけているに過ぎない。春耕は仔細に調べた上絶望の合図をした。絶対に口外を禁止された上再び厳しく閉じ込められて自宅へ戻された。春耕が手記を認めたのはその直後であるらしい。甚しく興奮した筆致ではっきりと上記貴人を「お上」と断定している。彼の連れてゆかれた処がまこと御所であるとすれば、周囲の人々の態度から見て、それ意外ではあり得ないとしたのであろう。 又「かの傷は、恐らく鋭い槍尖で斜下方から突き上げられたもの」と推定している。と同時に自ら疑問を提出して、「当今如何に乱世の時代とはいえ、天子が御所内においてそのような目に遭うことがあり得ようか、もしあり得べくんば、後架に上った後縁側で手を清めている時、縁下にひそむ刺客が下から突刺したものであろうか。到底思議すべからざる椿事、畏るべし畏るべし」と結んでいる。この手記は少年の私の脳裏にやきつけられ大きな疑問として残っていたが、周知の如く戦前においてかようの事は軽卒に口外することを憚らねばならなかったので、私は敢て何人にも語らなかった。ただ一人故尾佐竹猛先生にこの記憶を語ったことがある。 先生は異常な興味を以て聞いて下さったが、私がその手記は既に焼失したことを述べると急に索然とした顔容になり、「証拠がなくては仕方がないな」と云われた。まさにその通りである。戦後如何なる事実も公表し得るに至ったので、私はこの事を七八年前某誌に仮名を以て記したことがある。その時も数人の人から質問を受けたが、何れも証拠文書の焼失をきくと一瞬にして興味を失ったような態度になった。証拠のない以上私も敢てこれを強く主張しようとは思わない。ただ私には春耕の人柄から見て、いたずらに作為して虚偽を記すものとも思われないし、彼が長崎留学中の日記の如きは実に微に入り細を穿ったものであったことを考えると、この記述を私の記臆の中から放逐してしまう気になれないのである。 又もし春耕の記述が事実であるとすれば、いつの日か他の方面から同一事実が暴露されるかも知れない。その時今は単に私の記憶の中にあるに過ぎないとはいえ、この春耕の記述も一つの副次的証拠としては役に立つであろう。そう考えて、あえてここに、再び書き記す次第なのである。こんな非常の時でも、ことを秘密にしようと考える公卿たちの情報の独占管理が、今思えば、天皇制の本質になって国を誤ったのである。 筆者は亡父の関係でここに登場する尾佐竹猛氏の遺族とご縁があったが、「証拠(文書)がなくては仕方がない」とは決して考えない。刑事裁判においても証拠書類の他に証人や証拠物などが認められているのに、歴史の研究だけは文書、それも国家の作った文書だけでやれというのは、実は伊藤憲法に由来する権力者の発想である。かくの如き文献主義によれば、権力側は危険な真実を容易に抹殺できるから、それは焚書する体制側にとって極めて有利なルールとなる。文書の抹殺は権力にとって一番やさしい作業で、「口には戸をたてられない」というように、証人や証拠物にまではなかなか手が廻らないのである。 孝明天皇が刺されて瀕死の床にあった時でさえ傍に公卿がいたというから、少なくともその公卿は殺された事情を識っていたのである。もちろんこの男は維新成功ののちに沈黙のゴホービに華族にでもしてもらって、シテヤッタリと北叟笑んではいるであろうが、殺された天皇にしてみれば、天皇のために仇を討とうともしないこの男などはまさに不忠の臣で、あの世から八つ裂きにでもしたいところではないだろうか。この経過によって、薩長同盟の際に密約がなされた将軍と天皇の暗殺、及びこれに関して一切に沈黙を守るという「沈黙の密約」は、意外と広範囲に成立したことが判るのである。 作家村雨退二郎も孝明天皇が手槍で刺殺されたとして次のように述べる(『史談あれやこれ』)。孝明天皇の死因問題について、最近一、二見聞したことがあるので紹介しておきたいと思う。一つは「日本医事新報」一七二五号に「江戸幕府時代に於る朝廷の医療制度」という表題で山崎佐氏が執筆している記事の中に、筆者が筆者が石黒忠直から直接にきいた話として次のように書いている。「孝明天皇が重篤にならせられた時、岩倉具視の推薦で洋医石川桜所が慶応二年一二月二四日御所に上った。その翌日天皇が崩去なされたので、世間では岩倉が桜所をして一服盛らしめたのである、孝明天皇は暗殺されたのであるという噂が、その当時から評判され、気の毒にも桜所はそのまま郷里に閉塞した。自分は孝明天皇を診察した医師や直接桜所にも、当時の模様を仔細にたずねたが、天皇は全く泡瘡で崩御なされたのである。桜所は御肝には上ったが未だ応診もせず、従って桜所としては、自分の薬を差し上げない中に崩去なされ、そのまま空しく御所から下がったのが真相である。桜所の冤を雪ぐために、この点をはっきりして話しておく」。 石川桜所が診察も投薬もしなかったのが事実なら、桜所が岩倉の意を含んで毒を盛ったという噂は、まったく根拠のない憶測であったということになるが、それと同時に、桜所が天皇の死因を癌瘡だというのも、また聞きか想像の域を出ないということになる。(岩倉には自分のアリバイのために桜所を起用したのであろう) ところで最近、シェパードの訓練をしてもらっている訓練士の山本正英という人から、これとは全く反対の話を聞いた。山本氏が見せてくれた古文書によると、山本氏の先祖は讃岐の香東、香西外一郡に勢力を扶植していた豪族で、苗字を香西と称し、戦国末期には細川政元に属して活躍した香西又六という武将なども出した家だが、後に土佐の長曽我部元親のため所領を奪収されて京都に逃げ、旧領恢復の機会もなく、御所の医師となって旧苗山本に復ったということになっている。本姓は源氏である。山本氏の曾祖父は山本大和守、祖父は受領があったかどうかちょっと忘れたが、山本正文といって御所の医師であったことはまちがいない。山本氏はこの祖父から孝明天皇の最後について、次のような話を聞いた記憶があるといっている。「孝明天皇の毒殺説があるが、毒殺というのは誤りで、ほんとうは天皇が厠から出て手を洗っておられる時に、下から手槍で突き上げた者があり、天皇は急所を刺されてそこに倒れ、それから縁側を這って居問に帰られた。縁側は血だらけになっていた。自分が呼ばれて駆けつけた時、次の問に二五、六の女官らしい女が襖の蔭から天皇の御様子をうかがっていたが、自分の方を見てニヤリと笑ったと思うと、その後どこかへ行ってしまった」。 この話は、いつか南条範夫君から発表のあった刺殺説とほとんど符節を合わすように一致している。ただ残念なことに、これも山本氏が祖父から聞いたというだけで、(南条説と同じく)証拠になるような書き物が無いのである。 伊藤博文を暗殺した安重根が、孝明天皇の問題を法廷で発言したことは、僕の『近代暗殺史』でも触れておいたが、旅順法務院法廷での、重根のそれに関する発言というのは次の通りである。 『日本は東洋の攪乱者なり、伊藤公は前年閔妃を殺害したる主謀者なり。また公爵は韓国の外臣なるにかかわらずわが皇室を欺き先帝を廃位したり。故に伊藤公は韓国に対し逆賊なると共に、日本皇帝に対しても大逆賊なり。彼は先帝孝明天皇---』。そこで裁判長は重根の発言を差止め、裁判の公開を禁止してしまったので、重根が何を言おうとしたのかはっきりわからない。しかし孝明天皇在位当時の伊藤博文の地位を考えると、暗殺問題以外には伊藤の出る幕がないように思われる。重根は伊藤を天皇暗殺の下手人として指摘したのではないか。 安重根が伊藤暗殺の犯人だというのはウソで、実は日本を挑発するためにロシアの狙撃兵が殺したという説がある。「伊藤の体に残っている弾痕は上から下へ入っているが、それを背の低い安の銃弾とするのはおかしい」というのである。安の裁判の時、日本人の裁判官は安にゴマをすって、その筆跡を家宝にしたいなどといったそうだが、実は安を懐柔してムリヤリ犯人に仕立て、安に反論させないためだったかもしれない。 さて「孝明天皇の毒殺がウソで、実は槍で刺し殺された」ということは色々と考えさせることを含んでいる。というのは、毒殺ならば岩倉が二、三の公卿や医者と共謀すればやって出来ないことではないが、幕末勤皇思想が鼓吹された時期に、さながら親の仇を討つかのように天皇を刺殺したとすれば、恐らくその犯人はどこかの藩の意をうけた忍者であり、また彼らは「北朝は偽朝であり、今や南朝を再興しなければならない」と信じたからであろう。いにしえ嘉吉三年のこと、南朝方の楠二郎が御所を襲って北朝の後花園天皇に一太刀浴びせたという事件があったが、天皇を刺し殺すにはいくら殺しが商売だと云っても、それが偽王であるという信念がなければ無理であろう。 それでは、いったいどこの藩が天皇暗殺を指令したのか。天保七年(一八三六)、長州で斉熈(なりひろ)、斉元、斉広と三人の藩主、前藩主らが相次いで不思議な死に方をした。まず斉熈は五月に葛飾の別邸で急死し、幕府には疫痢として届けられたのだが、そのまわりには感染源とおぼしき者はなかったという。犯人は江戸家老の梨羽頼母らしく、頼母は噂となった暗殺説を必死になってもみけしている。 次いで斉元は九月八日に荻城で急死した。幕府には「喉つかえのやまい」による窒息死であると報告したが、斉元にそのような持病があることは誰も知らない。犯人は頼母の反対派の益田玄蕃一派といわれ、この時頼母は前回とは反対に、真犯人を発見すべしと強硬に主張した。また斉広は一二月二九日の夜、江戸櫻田の藩邸で突然苦しみはじめ高熱と激しい下痢が続いて絶命した。斉熈と同じ症状であった。頼母はかねて「放伐論」を信じて、忍者に命じて斉熈と斉広を毒殺させたという。いずれにしろ毛利藩には忍者によって藩主三人を毒殺し、そのことを闇に葬った実績があったのである。毛利忍者はよくきく毒薬を以ていたらしい。このときの暗殺されたのが三人で、のちの維新のときも家茂、孝明天皇、睦仁の三人が暗殺されたのは果たして偶然だろうか。斉熈の症状はのちの家茂の症状とよく似ていたのである。 これらの長州忍者たちはおおむね長州の支藩の清末藩にいたが、幕末には活動が活発になってすでに江戸幕府のなかにも潜入していた。神奈川奉行支配頭・脇尾卯三朗はハリスの接待役なども勤めた人物であったが、長州に情報を渡したとされて一八六四年一元治六年一に切腹した。実はこの脇尾は長州のかくれ忍者で、清末藩士渡辺澄の二男であったという。このあとも、薩摩浪人によって岩倉の義妹堀河紀子が口止めのために斬り殺されているが、この指揮者は薩摩藩忍者頭の西郷隆盛であったらしい。 信州上田藩の下士で赤松心三郎という西洋兵学宗がいた。長崎で英語を習って西洋軍の法を学び、『英国歩兵練法』を訳した。安政二年、薩摩藩はこの赤松を師範として、桐野、村田新八、篠原国幹、野津道貰、東郷平八郎らを生徒にした。上田藩ではこれに驚いて赤松を呼び戻したが、塾頭格の桐野は「他日、先生と敵、味方になるかもしれず、門弟の名を除いて欲しい」と云って盃を返した。旅立ちの前夜、赤松が帰国の挨拶をして、丁度五条通りにさしかかったとき、暗殺者が飛び出して赤松を斬ったが、桐野は『在京日記』に赤松は自分の独断でなく、藩議によって斬った、と書いている。このとき京都藩邸で藩事を指揮したのは西郷だから、藩議というのは西郷の命令であった。 ついで北朝の末王となった睦仁親王が即位するや、慶応三年七月八日、長州麻郷の猿回し、実はかくれ忍者が、猿を宮中に潜入させて天皇の手をひっかかせ、待っていた医師の伊良子光順が毒入りの膏薬を張って一日で暗殺してしまった。猿は長州にいた南朝の末商なる大室寅之祐がかわいがっていた猿だったと云うから、まさしくサル芝居であった。このいきさつの一部は『明治天皇紀』にも書かれている。 すなわちその慶応三年七月八日の条には、「御学問所に於て遊戯の際誤って手に軽傷を追わせられる。乃ち前権大納言中山忠能及び執是代陸奥守伊良子光順、典薬少允高階経由、丹後守高階経文を召す。光順先づ至り膏薬を上る。又伊勢守藤木篤平伺候す。忠能は酒肴を賜はり、亥の下刻退出す」(『忠能日記』『押小路甫子日記』)とある。孝明天皇の死後、宮中の秩序はどんな突発事件がおこっても不思議ではない状況であった。一月一二日『忠能日記』には、「ご悩中いろいろな怪事あり。日々猿出頭して苦しめたてまつり、お側女中にも毛つき候こと度々これあり。大いに恐れ逃れ去り、お側に人なきもこれあり---はなはだ奇怪不審にて候」とある。サルが天皇を殺したというのは一寸マンガティックで突飛なようではあるが、傷口に毒を塗るという手口はかつての山田長政の暗殺にも使われていて、この時代には、すでに暗殺のプロである忍者たちにとっては、常識的な手口になっていたのである。 『中山忠能日記』七月一一日の条に、「使番橋本庄番長と徳岡刑部来る。御大切之御品御預けには非常の節当家へ詰るべき由、自ら御内偽申付けられ由名札差出し承知の答申す。これ地蔵鬼子母両尊像御預の故なりと。これ故に過日慶子より此の儀申来る」「夕、慶子宿に下り、半限五ヶ日所労にて子細籠居之故之」とあり、これによれば、天皇の死体は子供の大きさほどの仏像を装って中山家に運びこんだらしく、慶子は死んだ睦仁を葬うために宿下りとしているのである。そのあとで、かねてから万歳師の北畠の党の手引きで長州の麻郷にひそんで、長い問長州藩の保護を受けていた大室家の跡とりの寅之祐が、たまたま睦仁の明治天皇と年令が同じであったことを奇貨として、ひそかに上京させて死んだ明治天皇とすりかえたのである。 益田勝美は「明治以前に生まれた長州の老人たちは天皇様をお作りしたのはわれわれだとよく云っていた」と述べる「天皇史の一面」)。大室家では、寅之祐が「お城にマンヂュウを作りに行く」と言って出掛けたま帰らず、その後、「京へ行くから別れに来い」という手紙が来たので、家人が急いで行ったが会えなかったと云い伝えている。マンヂュウというのは千秋萬歳のことだろうか。このことは拙著『日本侵略興亡史』に詳しく論じたが、事を秘密に運ぶところが北朝足利天皇家成立のいきさつに似ていると云えば似ているのである。盛田喜穂は『嬉遊笑覧』巻五、歌舞伎千秋萬歳を引いて、「近世に及んでも、周防の山口城では、元朝、千秋万歳が訪れて担言を唱えた後でなければ、城門が開かれてなかった」と述べる一『中世賎民と雑芸能の研究』)。毛利藩でも、賎民を差別したが、万歳師と薬屋は覚定、徳定といわれて、賎民の中でも別格で良民に準じたという。さきに書いた長州忍者がもっていた毒薬も、この徳定から手にしたものにちがいない。睦仁の母方の祖父であった中山忠能も中山忠光とともに、早くからこの寅之祐擁立の謀議に加わっていたらしく、『中山忠能日記』慶応三年七月一八日の条は、この寅之祐を「寄一奇一兵隊の天皇--・御元服」と書いている。北朝天皇家の滅亡はこの中山忠能の裏切りが原因であった。 のちに文部大臣の土方久元が明治天皇に、「(秘密を知っている)エ×(差別語)たちを全員島流しにしたい」と上申したところ、天皇は「それならば朕もその島に行く」と云ったという。ここが天皇のえらい所で、豊臣秀吉は同じ状況で鳥取の北山城にいた山窩数千人を皆殺しにしたと云う。あるいは天皇の母方に北畠の党の一派があったかもしれない。この問題については地元の市会議員である松重正氏が詳しく知っているようである。 土方の話は小松宮が語ったというものである。大室寅之祐は長州時代に、奇兵隊の力士隊に出入りして角力や乗馬などを体験している。また大室家では日の丸の旗は力士隊の隊旗であったと云い、当主大室近祐氏は「君が代」の由来についても論文を書いている。しかし、この日の丸を苦しまぎれに薩摩藩の旗だったなどと言うのが御用学者であった。 睦仁が即位したのは慶応三年一月九日であるが、三日あとの一二日に、母親の中山慶子は父忠能にあてた手紙に、「何分にも世は末に及び、御所中悪魔盈満(えいまん)にて恐れ入り候。当今様おん事(天皇)じつにお案じ申し上げ、悲嘆のほかこれなく候。とかく格別明君にあらせられず候わでは内外とても治まり申さず…」と書いてある。睦仁は母親の言によれば「格別明君ではなかった」のである。だいたい、長袖をひらひらさせて女の子のように育てられ、母親の中山慶子にも「内外とても治まり申さず」などと云われていた睦仁と、大酒呑みで毎日浴びる程酒を呑んだ、ブランデー一本位平気だった、角力が大好きで自分でも結構強い。乗馬も巧み、教練の号令も上手にかける、風呂に入ると、手拭いを丸めて自分で背中を洗うという明治天皇が同一人物のわけはない。 睦仁は即位前に大砲の音で気絶したという記録が残っている位で、自ら角力をとったとか、馬に乗ったとかの記録はない。もし睦仁がそんなことをやったら、それは一大事だから「孝明天皇紀」に書かれてある筈である。角力をとるとか、馬に乗るとかには相当の年期が必要で、即位したからといってすぐにその日から出来ることではない。こんなことは子供でも判る。子供でも判ることが判らないのは日本の歴史学者だけなのである。 睦仁の明治天皇は即位直後に「徳川の功績を認めなくてはならない」という文書を書いているが、この天皇が慶応三年一〇月、討幕の密勅に署名したというのでは、どうしても同一人のしわざとは考えらない。しかも天皇は署名するとき「ワナワナと震えた」というのである。 京都の倉田地久先生は、筆者に「明治天皇が南朝の子孫で孝明天皇の子ではないということを、近衛文麿は自殺直前に西郷隆秀に語ったと聞いた。幕末まで幕府に政治を委せた天皇が、維新のあとで突然カイゼルのまねをしたのはおかしい」と語ったことがある。山岡荘八も「睦仁は頑健ではなかったが、明治天皇は二四貫の巨体であった」といって不思議がっているが、こんな一寸考えればすぐ判ることを、今までの歴史学者は、「恐れ多い」として誰も問題にしなかったのである。これを以て考えても、歴史学者が天皇制の御太鼓持、いや、キャンキャン吠える番犬で、こと天皇家に関しては、すべての合理的な思考を停止させてしまったことが明らかである。 かつて日本に来た朝鮮人が、「万世一系」という子供だましを固執する以上、足利義満が作った北朝天皇家が寿命つきて革命を必要としても、こんな方法でやるしかなかったのであろうが、もしも歴史学者のなかに、一人でもバカでない者がいれば、ことは発覚するであろう。だから明治王朝のもとでは、合理的な思考をしない、きわめつけのバカだけが歴史学者になったのである。 実はこの大室寅之祐の秘話を、戦後になってから大室近祐氏から教えられた人が何人かいた。まずライシャワー大使であるが、見も知らぬ大室氏の手紙に対して、大使はハル夫人を介して丁重な返信をしたためている。ハル夫人の意見だったろうか。次に岸信介も秘書によって返書をしているが、のちに岸は自分の後援会長の中井氏などに「明治天皇は実は孝明天皇の子ではない」と曙いている。岸が始めて作った同和予算は恐らく大室氏の手紙に対する回答だったかもしれない。また、近祐氏は美智子さま、今の皇后にも手紙を出したが返事はなかったという。皇后はすでに天皇宗の一員として、「沈黙の掟」に服従していたのであろう。筆者は三者三様の対応を見て、やはりアメリカ人の「公正さ」というものに感心しないわけにはいかなかった。 話は変わるが、大政奉還直後に暗殺された土佐の坂本龍馬の暗殺を計ったのは薩摩藩で、その大久保か西郷が命令したと云う。坂本がいたのでは公武合体を主張する土佐藩の発言力をおさえられないし、坂本が共和制を唱えるのも嫌ったという。薩摩藩には差別そのものを消滅させるという発想がなかったのであろう。しかし、戦後の日本はまさに坂本の考えた方向に進んでいる。日本が敗北したのは岩倉、大久保、伊藤、そしてかれらの主張する帝国主義を自ら認めた明治天皇、そしてそのあとは木戸、近衛、東条、そしてその中国侵略による独占支配を認めた昭和天皇の責任である。坂本、西郷、北一輝、中野正剛、石橋湛山などの卓見をもった政治家たちはすべて不遇に死んでしまった。これは維新後の天皇制が歴史を無視し、よく機能していなかったからである。いつの時代でも、革命の激しい嵐は最もすぐれた人材を倒してしまうのである。 |
田中光顕の告白 |
東海道は豊川市の三浦芳堅氏は熊沢天皇や大室天皇と同じく、南朝の子孫を自称して、地元では三浦天皇と呼ばれていた。その三浦が『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』という書のなかで、明治政府の功労者であった田中光顕が「明治天皇は孝明天皇の子ではない、睦仁親王とは別人である」と云ったことを、次のように報告している。 昭和四年の二月、私は思い切って極秘伝の『三浦皇統家系譜』及び記録を埋蔵した地下から堀り出して山口鋭之助先生に見て頂きました。先生はびっくりして、「私の一存では何ともお答え出来ないから、私の大先輩で、かつては宮内大臣をなさった、明治維新の勤皇の志士でもあった田中光顕伯爵がまだ御生存中だから、此の方にお尋ねして見よう」と云う事で連れていって頂きました。 田中光顕伯爵は之を御覧になり、又私の神風串呂の説明を聞かれて、「これは我が国の一番正しい歴史だ!確かに『太平記』を見ても、『比叡山に抄て後醍醐天皇が春宮に御位をお譲りになった』と書いてある。学者に抄ては、之は恒良親王に御位をお譲りになったと云われているが、あなたの所の記録を見れば、尊良親王の第一皇子守永親王が後醍醐天皇の第七の宮として大統宮となっていて、後醍醐天皇は守永親王に御位をお譲りになったと書かれている。これが正しい歴史であろう。 けれども今は明治維新が断行されて、宇宙のあらん限り絶対に千古不磨の欽定憲法が御制定になった。だから過去の歴史は歴史として、現実は此の欽定憲法に依って大日本帝国の国体は永遠に確立せられたのである。だからあなたが今此の事を発表したならば、それこそ幸徳秋水同様に闇から闇へ大逆罪の汚名を被られて、極刑に処せられることは火をみるより明らかであるから、あなたのお父上がおっしゃった通り早く埋蔵して、何人にも一切語られぬがよろしい」と言われて、さっぱり私の疑問を解いて頂くことは出来ませんでした。 そこで私は、「伯爵は之は日本の正しい歴史だと御鑑定なされた。その正しい歴史を私が発表する事が欽定憲法に触れて極刑に処せられると言われたが、私は他人と違ってその直系の子孫であります。私の生命観ではとても耐えられません。それを発表する事が極刑に処せられる様な欽定憲法であるならば、今このまま直ちに私を司直に渡して極刑に処して頂きたい」と申し上げました。 斯様申し上げた時に田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、擁て、「私は六〇年かつて一度も何人にも語らなかったことをあなたにお話し申し上げましょう。現在此の事を知っている者は、私の他には西園寺公望公爵只御一人が生存しているのみで、皆故人となりました」と前置きして、「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還明治御維新と云う時に急に(暗殺されて)崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であり、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、お生まれになて以来中山大納一言邸でお育ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は(本当の睦仁親王は暗殺され、これに代わった)明治天皇は後醍醐天皇第一一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が減びて大江氏の子孫毛利氏が長州を領有し、代々長州の荻に抄て此の御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下長州の王政復古復古御維新を志した勤皇の運動である。 吉田松陰亡き後、此の勤皇の志士を統率したのが明治維新の元勲・木戸孝允即ち桂小五郎である。(木戸が)王政復古復古するのだ』と云うことを打ち明けた時に、西郷南州は南朝の大忠臣菊池氏の子孫であるから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩藩を尊皇討幕に一致せしめて薩長連合が成功した。之が大政奉還・明治維新の原動力となった。 明治天皇には明治維新になると同時に、『後醍醐天皇の皇子征東将軍宗良親王のお宮を建立してお祀りせよ』と仰せになり、遠州の井伊谷宮の如きは明治二年に宮を造営し、同五年に御鎮座し、同六年には官弊中社に列せられた。 而して御聖徳に依り着々として明治新政は進展し、日清・日露の両役にも世界各国が夢想だにもしなかった大勝を博し、日本国民挙って欽定憲法の通り、即ち明治天皇の御皇族が永遠に薫世一系の天皇として、此の大日本帝国を統治遊ばすと確信するに至り、然も明治四四年、南北正閏論が沸騰して桂内閣が倒れるに至った時に於ても、明治天皇は自ら南朝が正統であることを御聖断せられ、従来の歴史が訂正されたのである。 斯様にして世界の劣等国から遂には五大強国の中の一つとなり、更に進んで今日に抄ては、日英米と世界三大強国の位置にまでなったと云う事は、後醍醐天皇の皇子の御子孫の明治天皇の御聖徳の致す所である」。 王政復古と明治維新の真相を、尚此の他の岩倉具視卿の(孝明天皇と睦仁親王を暗殺した)活躍や三条以下七卿落ちの(大室寅之祐擁立運動の)真相や中山忠光卿の長州落ち等々、詳細に渉ってお話し下さいました。 其の時私は明治維新なるや、直ちに後醍醐天皇皇子宗良親王を井伊谷宮にお祀りされ、官弊中社となさった事を承り、サッと直感したのは、田中光顕伯は明治天皇が後醍醐天皇第一一番目の皇子満良親王の御王孫と云われたが、若しそれならば、真先に後醍醐天皇をお祀りにならねばならぬが、吉野神宮も金ヶ崎宮も明治二二年にお祀りになっている。 之はヒョッとすると、極秘伝の吾が『三浦皇統家』の記録に、「神皇正統第九九代松良天皇(御名正良)が樵夫に扮装して三州荻(現在の愛知県宝飯郡音羽町大字荻)に落ち延びて、大江氏が第四皇子光良親王(皇紀二〇六二、四緑木星壬午年生)を此の『荻』から連れて長州に落ち、落ち着いた先を『三州荻』の在所を忘れない為に『荻』(現在の荻市)と名付け、初めは三年に一度は連絡を取っていた」と記しているので、若し此の「光良親王」なら系図に記される 時に、図33 96後醍醐天皇―尊良親王―97與国天皇―小室門院
こんな大事なことを国民に知らさずに断行して、それを六〇年問だまっていたというのだから、明治維新というものは実はオバQ革命のようなものだったと云ってよい。国民に知らせない革命を以て、田中は明治維新が南朝革命を実現したと云うのだろうか。しかしこの田中の告白に限らず、明治天皇の出生に関する異説は従来も皆無だったわけではない。ある雑誌の匿名座談会では、都立大の名誉教授という人が「明治天皇は産後他の幼児と取り換えられた」ということを喋っているのを読んだことがある。とにかく、理性によって歴史を考えれば、自ら南朝を正統とした明治天皇が北朝の孝明天皇の子供では理屈に合わないのである。 このように、口伝としては他にもいくつかあったようであるが、南朝云々というのは私は三浦の書によって初めて識った。田中光顕は門司の奇兵隊に出入りして高杉晋作とも親交があり、のちに伊藤とともに明治天皇の腹心となった。余人ならば知らず、薩長同盟を仲介した坂本龍馬の門下生であった田中が云ったならば、この話は俄然信懸性をおびてくる。 しかし筆者が調べてみると、これ以前にも、実は明治時代から、秘かに皇華族の問では明治天皇すりかえ説が存在したのである。すなわち「明治天皇は荻に亡命した南朝の光良親王の子孫、いわゆる大宮天皇家の一族の寅之祐であって、岩倉と木戸がひそかに慶子の生んだ睦仁親王の新帝を暗殺して、極秘にすりかえた」と云うものである。維新の直前に逃亡していた木戸が元老の一人とされたのはこの功績によるものであった。 しかし、ここで田中は「明治天皇は自ら南朝が王統であることをご聖断した」と云っているが、このことは当時中田宮系の皇族や北朝系の公卿ばかりの堂上華族たちにはショックを与えたらしく、筆者はのちに李朝鮮最後の皇太子妃となった梨本方子、改め李方子様とソウル・プラザ・ホテルで食事を共にして、長い歓談をしたとき、方子様から、「明治天皇は南朝、私は北朝だったのでいじめられて」という話をうかがった。のちに筆者は太怯教の元文教長官(文部大臣)安博士を方子様にご紹介したが、この時も色々の話があった。ここまで書けば読者には何のことかお判りであろうが、皇族や伯爵以上の華族の中ではこんなことは常識で、知らぬは国民ばかりだったのである。だいたい、明治時代の皇族はそのすべてが北朝人で、本来ならば追放されるべき人であった。孝明天皇の死後、皇位につくべきは幼少の睦仁でなく、順序から云えば中川宮か有栖川宮だったのである。 筆者が旧皇族家の親しい友人に、「明治天皇が南朝の子孫で孝明天皇の子ではないという話をご存知ですか」と聞いたところ、驚いた顔で、「よく知ってるネー、誰に聞いたの?京都あたりのお年寄りですか」と云われたことがあった。しかし仮に大室天皇が南朝系といっても、いったん臣下になった以上、熊澤天皇や三浦天皇と同じことで、特に母方については系図上の証明は不可能に近い。これを「女の腹は借り腹だ」と云っても、あんまりひどくては困るであろう。 『大鏡』に、藤原基経が源融に対して、「皇胤なれど、姓をたまはりてただ人に仕えて(天皇の)位につきたる例やある」といったとあるが、これもまた天皇即位のルールであろう。何百年もたてば、その血統に庶民や賎民の血が混じることはさけがたいではないか。実際、明治天皇を出した大室家も、北畠一族の保護によって長州に逃れたものであるが、その北畠は実は京都の万歳師であった「北畠の党」という一族の長であった。だから厳密にいえば、中国史の中で前漢王の子孫であると主張した後漢王求のように、明治天皇は新王朝(後南朝)の始祖ということになろう。瀧川政次郎は「明治憲法に万世一系と規定した意味は明治天皇を以て現皇室の始祖となす故に、それ以前は道鏡系天皇にしても、亦足利系天皇にしても敢えてその血統を問わず」と述べて、明治新王朝説を主張しているが、実にここに根拠があったのである。 瀧川はここで明治天皇が孝明天皇の王朝と続かないことを述べたのであった。しからば明治王朝は足利貞成の新羅系第七王朝に続く百済系第八王朝とすべきである。 瀧川先生には、かつて筆者から『日本侵略興亡史』を御送りしたことがあったが、「私ももう老齢なので--・・」というご丁寧な返書をいただいたことがある。先生は日本史の重要部分、道鏡や足利天皇、長州天皇などに関する論文も発表されていたが、この返書からも、筆者の調べたことは殆ど先刻御承知であったように見受けられた。 岩倉・伊藤らの天皇父子の暗殺とすりかえは、五摂家、清華家はもとより、薩長両藩の上層部も殆ど承知していながら沈黙を守った。いや、将軍家茂と孝明天皇の父子を暗殺して南朝の大室天皇をたてることこそ薩長同盟の秘密条約であった。そして三人の暗殺ののちに、このことを「沈黙の掟」によって秘密にしたのは、岩倉と伊藤たちが私利私欲にからんだためで、維新勢力と北朝系公郷たちの野合の産物であった。 かくの如く、明治維新はまさに暴力による宮廷革命であり、それは国民とは何のかかわりも無く行われて、国民をだまし、そのために国民を脅迫した。明治政府は維新後に岩倉、大久保、伊藤を英米に派遣して、使節団は自らイギリス帝国主義の戦列に従うことに決して、自ら暴力を以て国是とした。明治政府は右手に大砲をもって中国と朝鮮を侵略し、左手に偽史をもって自国民を威圧したのである。国民には徴兵制によって絶対的、奴隷的な忠誠を要求し、国外には帝国主義による暴力的な侵略戦争をしかけるという国家構造ができ上がった。ことをバクロすべき日本共産覚や社会党は重症の教一条主義におちいって歴史を批判する能力を失い、今日まで、これほど幼稚な歴史かくしすら見抜くことはできなかった。 このような偽史体制のもとでは、道鏡の偽造意思によって作られた六国史のみが歴史の教材とされ、『桓檀古記』や『北倭記』の如き真実を語る史書は否定され、抹殺されざるをえない。そもそも、邪馬壱国の如き大国が近隣諸国史から忽然と姿を消すことはありえないのであって、邪馬壱国の抹殺は日本の偽史シンジケートが操作した結果であった。すなわち邪馬壱国の論争は作られた論争であり、国民の眼から真実をそらすための見せかけ、陽動作戦であった。天皇すりかえの時、岩倉たちは「南朝五代限り」などと云って北朝系の皇族を大量生産して中川宮たちをだましたり、おどしたりして沈黙させてしまったと云うが、その目的は自分を含めて北朝人の保身であった。しかし南朝の天皇家がもと百済人の逃亡者であった事実を隠すだけでも問題であるのに、このすりかえ隠しはいわば「ドクロを押し入れにかくす」結果になって、学問の自由を失い、国家にとってはひどく高いものについたのである。 孝明天皇が殺された理由は、長州に攘夷を命じてその長州が下関の戦いで敗北したため、ついに「カミカゼが吹かない天皇」となったからであるが、そうである以上、こののち明治以墜二代の天皇は、つぎつぎに戦争に勝って「カミカゼ」を証明しなければならない。天皇を暗殺して玉座を奪った王朝にとって、天皇の資格の証明には三種の神器だけでは不十分で、戦争をやってそれに勝つということが必要になったのである。明治以降、侵略戦争の自転車操業は亡命朝鮮人道鏡の偽史を維持し、国民の眼から南朝革命をかくして「神聖天皇・万世一系」を明文化した伊藤憲法が原因であった。天皇殺しという重大な犯罪をかくすための伊藤憲法が、さらに国家の行動を大義無き恥ずべき暴力と化し、自ら帝国主義の走狗となって、国民の正論を禁止したのであった。この結果、すべての国民は天皇の聖戦を批判することは許されず、日露戦争のようにやっと引きわけになった戦争も「勝った勝った」と云って戦勝を誇り、天皇のおかげだと云って喜んだのである。 天皇のすりかえと云うと、そんなバカなと反対する人も多いだろうが、こんなことは歴史上珍しくはないのである。紀元一五一八年に、インド南部のヴィジャヤナガラ王朝のクリシュナデーヴァラーヤ王は始めて王子が生まれたので、チルマラデーヴァ・マハラーヤと名付け、王子が一〇才になると自ら王位を譲って首相となったが、新王は即位八ヶ月で死亡してしまった。父王は大臣サルヴァチマラサの息子チムマダンダナヤカが王を毒殺したと疑い、大臣とともに捕らえて両眼球をえぐり取ったが、のちにえん罪であることが判り、心痛の余り死亡してしまった。このあと父王の弟カチャウグニフオが即位し、その死後王子ヴェンカタ一世が即位した。大臣アラヴィデュ・ラーマ・ラーヤは姦計を廻らして、亡命者サダンヴァを以てヴェンカタ一世にすり代え、さらになにくわぬ顔で自ら一世になりすまして国王になった。 これは国王の「横すべり」とも云うべく、民衆を馬鹿にしたギマンであったが、この王は結局回教徒軍の南下に抵抗できず、敗戦のなかで、象の鼻に捲き上げられ、捕えられて処刑された。田中は「御聖徳により日清、日露の両役に大勝を博した」といっているが、逆に明治天皇は日清、日露両戦役に勝ったことによって、「御聖徳」を立証したとすべきであろう。国運を賭し、無数の兵士を戦死させた二つの戦争は、天皇を北朝系皇華族官僚たちに認知させるための手段だったのである。とすれば、勤皇の志士たちが北朝系の人々と野合したことはずいぶん高いものについたのである。 明治天皇の本当の系図は宮内庁にかくされているというのだが、それは図34のようなものであろう。 図34 96後醍醐天皇――尊良天皇――興国天皇――小室天皇 ・・⇒(大室天皇家)――大室寅之助・明治天皇
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奴隷貿易による欧米列強の繁栄 |
大航海時代に、ヨーロッパの白人は南北アメリカ大陸でアメリカン・インディアンの地を強奪した。そしてアメリカ大陸の今日の繁栄の基礎はアフリカ大陸から強制的に連行された黒人奴隷が築いたものであった。しかしこの時代の白人には自分が神の許さない悪事をやっているという自覚は全くなかった。ジャン・メイエールは、「一五世紀にはヨーロッパ、アフリカ、アメリカの間で大がかりな貿易が行われていた。それから四世紀の間に、一二〇〇万~一五〇〇万人もの人々が、船倉に入れられて『貨物』のようにして大西洋を運ばれた。これらのアフリカ人は、アフリカでヨーロッパの商品(とるに足らない物であることも多かった)と交換された。この貿易にたずさわるヨーロッパ人は奴隷商人と呼ばれた・・・・。クリストファー.コロンブスは第二回目の航海以来、アメリカ大陸に奴隷を陸揚げするようになつた-…奴隷制プランテーションは南のリオデジャネイロから、北のチエサピーク湾にかけて、ますます重要性を増していった。アメリカに輸入される奴隷の数は一八世紀になっても増加しつづけ、六五〇万人以上に及んだ…・・。しかし奴隷商人たちは皆自ら良心をもっていると考えていた。一八世紀の半ばまでは奴隷制度は国際的な大貿易にとって不可欠のものと認める人々が多かったのである…:プランターのジエームズ・ボスウェルは、奴隷制度は『アフリカの黒人たちを虐殺や耐えがたき隷属状態から救い、よりよい生活条件を享受させることになる』と確信していた。このような奴隷売買は、そのうえ、王や政府、教会によって支持されていた! 一九世紀の前半には、綿花はアメリカ合衆国南部で王者の位置を占めていた。産量は一八一五年~一八六一年にかけて八万トンから一一五万トンに増大した--・この生産は黒人奴隷によってなされたが、奴隷がノルマを達成できないと鞭で打たれて、処罰された・・・。またコーヒーも綿花に次いで奴隷労働を必要とする植物であった」と述べる(『奴隷と奴隷商人』)。 二〇世紀の日本人で毎日のようにコーヒーを飲む人も多いが、かつて、コーヒーの豆の一粒一粒に、黒人奴隷の汗と血と涙が注がれていた歴史を知っているだろうか。しかし、人類の歴史において、このような野蛮で残忍なシステムが水続する筈は無いのである。こんなことをやっていれば、UFOでやって来た宇宙人は、人間のモラルは猿よりも劣ると云うであろう。 ジャン・メイエールは、「黒人の反抗は一七九三年から開始された。単純な反乱に終わるものもあれば、国家の樹立に至るものもあった….逃亡奴隷によって一七世紀にブラジルの密林中に作られた都市パルマレスは、軍隊による弾圧に抗して五〇年以上も続いた。 トゥサン・ルーヴェルチュールは一七九六~一八〇二年にかけて、サントドミンゴで黒人の政府を樹立した。一八二二年にサウスカロライナ州のチャールストンでおこった反乱では、解放奴隷であったデンマーク・ヴィジーは何千人もの黒人を組織したが、そのほとんど全員が虐殺されてしまった… 奴隷制度はついに一八六五年一月三一日、憲法修正第一三条によってアメリカ合衆国全土で廃止させられるに至った・・・・・しかしプランターは新しい代替システムを発見した。黒人の代わりにアジアからの自由労働者が輸入されたのである。中国とインドは(日本も)一〇〇万人も供給した。これらの強制移民は時として新しい奴隷制度の源になった」と述べる(前揚)。 たしかにアメリカ合衆国は南北戦争によって奴隷制度を廃止したけれど、たけれど、今日の合衆国の富はかつての奴隷たちが作り出したものが基礎になったもので、その反面奴隷制度が残した害悪はいまアメリカの社会に深刻な亀裂を残しているのである。そして中国とインド、また日本も奴隷供給の基地としてアメリカに奴隷と同じ多数の強制労働者を供出したのである。 一九九四年一〇月、筆者は大統領選挙の直前にヒューストンからLAに廻ったが、ビバリーヒルズからタクシーに乗ってホテルに帰るとき、タクシーの運転手が、「日本人は勤勉だ。よく働く。しかし、黒人たちは朝から晩まで酒を飲み、麻薬を使ってフラフラしている。全く困りもんだよ」と云うので、「ではチャイニーズはどうだ」ときくと、「チャイニーズもよく働く。日本人もチャイニーズも勤勉な人々だ」と答えた。またこの運転手は「オレはもう二〇年前に厚木にいた、日本の若い娘はとても親切だった」などと云った。 アメリカ政府は黒人には生活保証金を与えて、黒人が働いて給料を貰うとその補助金から給料分を減額するという。結果として、バカバカしいから働かなくなる。われわれから見ると、政府は黒人に仕事をさせない政策をとっているとしか思えない。 黒人たちは、かつて奴隷制度のもとで、朝早くから夜遅くまで苛酷な労働を強制されたのだから、その労働によって国家が繁栄している以上、働かなくてもいいのだ、というコンセンサスが白人と黒人の間で成立しているようにも見える。アメリカの社会は日本とちがって、差別による複雑な部分社会からなりたっている。ビバリーヒルズといえばハリウツドのすぐ隣りにあるが、筆者がハリウツドにある小さなニュー・ロディオ・ホテルに入って、「アイマグニンというデパートはどこにあるか」ときいたところ、それがこのホテルのフロントで判らなかったのである。車で行けば六ドル位のゼバリーヒルズに大きな店があるのに、フロントマンは時間をかけて電話帳で調べ、親切にタクシーを呼んでくれたのはよいが、ブル・バードに出てハイウェイを通り、六〇ドルもかかる遠い支店に行かされた。そこで知ったのだが、アメリカの庶民は「アイマグニン」のような高級店には関心がなく、デパートも金持ち用、サラリーマン用、黒人用というようにはっきりと分れていたのである。「アイマグニン」へ行ったあと、帰国して日本のデパートに行ったら、何だか雑貨屋のようで欲しいものが何も無かった。これこそアメリカが世界に誇る「自由」の姿であった。 |
アヘン戦争 |
かつて奴隷売買によって巨利を博した奴隷商人たちは、南北戦争後、世界中で奴隷売買が禁止されたあと、どうやってそのボロもうけを続けようとしたのか。一度吸った甘い汁を忘れる筈はない。 歴史は、それが中国におけるアヘン戦争になったことを教えている。 鄧心平は天安門事件で、自由を絶叫する学生たちを戦車で弾き殺して、のし餅のようにつぶして虐殺したが、アメリカの非難に対して、「人権を云うなら百五十年前から云わなければならない」と答えた。鄧が云ったのはアヘン戦争のことであった。日本は中国侵略の罪を裁かれたけれど、イギリスのアヘン戦争はいまだ何人からも告発されていない。こんな連中がどうして人権人権というのか、鄧でなくても中国人は皆そう思うだろう。しかし、日本の戦犯を処刑したとき、中国人も裁判官に入っていて、これからは人権を大事にしようというコンセンサスが出来上がっていた筈である。 かえりみれば、清朝の黄金時代は康煕、雍正、乾隆の三代、百三十年余りであった。 この三代は康煕帝が蓄積し、雍正帝が維持し、乾隆帝が散じたと云われ、乾隆帝が新彊の回族の乱、台湾の林爽文の乱、各地の苗族の叛乱などの鎮圧、チベツト出兵、ビルマ遠征などと巨額の国費を注いだため、国庫はほとんど空になってしまった。 この三代につづく嘉慶帝の治世二五年ののち、道光帝が即位したが、乾隆二二年(一七五七)の人口は、『皇朝通典』によれば一億九千二十四万人であったのに、七〇年後の道光十年(一八三〇)の人口は、『戸部璫案』によれば三億九千四百七十万余人になっていた。 猛烈な人口の増加であるが、この間、耕地の面積増はわずか一八パーセントだったから、国民は食べられなくなって、国民の生活はそれだけ貧しくなったのである。 これより先、明は原則として海禁、すなわち鎖国を以て国法としたが、清もまた農本主義的な自治自足を重んじて鎖国を続け、ヨーロッパの貿易船が通商を求めた場合に。「応口体恤(タイジュン・(あわれみ)を加えて)寛恕し、広州城の西、約二百メートルを外人の居留地として、ヨーロッパ人の住む建物を「夷館」と称した。このヨーロッパ人を「夷商」といい、大蔵省に担当する「戸部」の認可した十杜内外の、「公行(コンホン)」が独占的に交易に当った。日本もそうだが、鎖国とは一種の敗北主義でいづれは破綻する運命にある。 しかし「公行」のメンバーであった「行商」は度重なる賄賂と献金によって困窮したうえ、インドのパルシー族を始めとする金融業者が安易に「行商」の保証を求めたために、その保証債務が雪だるまのように増大した。かくして、奴隷売買に代わるアヘン貿易は、売手側にも買手側にも、生き残るためにはともに必要不可欠な手段になった。 これより先、十六世紀の始めから、中国産の茶が船員や伝道士によってヨーロッパに持ちこまれ、一九世紀になると、イギリスではティータイムが習慣になって茶の需要は天文学的に増加した。イギリスのティー・タイムも朝鮮のキムチも、一見建国以来の習慣に思えるが、実はともに僅か四、五〇〇年の歴史しかない。 この頃、茶を作って輸出できたのは中国だけであって、イギリスがアッサムやセイロンで茶を栽培したのはのちの時代である。イギリスは中国から茶を買うだけで見返りの輸出商品を持たなかったため、何かしら中国人に売りつけなければならなかった。それがアヘンだったのである。この辺の理屈は、ウーロン茶のほとんどすべてを中国から輸入している日本の現状からは理解できまい。乾隆四五年(一七八〇)には、東インド会社がベンガルでアヘン専売権を獲得して、その輸出先として中国に狙いを定めた。 乾隆帝の即位当時にはアヘンの輸入は二、三百箱から千箱をこえなかったが、アヘン商人が巧みに「アヘンは人体の良薬である」と宣伝し、そこは自分の薬にさえなれば人肉でも喰べようというお国柄だったから、嘉慶年間に至って、アヘンは急増してまたたくうちに国家財閥を圧迫するようになった。もともと三代の繁栄のあとで経済的に困窮しきっていた道光帝は、道光一九年に高まったアヘン禁止の主張に同意して、湖広総督林則徐を欽差大臣に任命し、林則徐は官兵千人を以て広州の夷館を包囲してアヘンの没収を強行した。 イギリス側はこれを以てイギリスの国民と財産に加えられた無法の圧迫であると激怒したが、道光帝は林則徐を賞揚して、「朕の心はために深く感動す。卿の忠君愛国は城中と化外に皎然たり」と云った。 しかし、一八四〇年二月、イギリス政府は正式に清国への派兵を決定し、四月、国会における戦費の支出は、賛成二七二票、反対二六二票という九票の僅差で可決された。イギリスは国営事業として中国に対して、恥知らずにもアヘンの押し売りをしようとしたのである。 保守党のジェイムズ・グラハムは、このような不義の戦争はたとえ勝ってもいかなる栄光も与えない」と云って非難し、グラッドストンは、.「その原因がかくも不正な戦争、かくも永続的に不名誉となる戦争を、私はかつて識らないし、読んだこともない。広東において、栄光にみちてひるがえったユニオン・ジャックは、悪名高い禁制品の密輸を保護するためにひるがえった。現在中国沿岸に掲揚されているようにしかその旗がひるがえらないとすれば、我々はまさにそれを見るだけで恐怖し、戦慄せざるをえない」と正論を述べた。 しかし、すでに海賊国家になっていた大英帝国にそんな正論は通用しない。インド総督オークランドはインドで東洋艦隊遠征軍を編成し、イギリスはジョージ・エリオット少将を総司令官兼特命全権大使に任命した。かくて全軍は五月末にシンガポールから中国に向かって出撃した。 イギリスの遠征軍は防備の厳重な広州をさけて舟山列島の定海知県に至り、一八四〇年七月四日(道光二十年六月六日)に降服を勧告した。 この戦いで、定海三営の守兵二千人はほとんど全滅し、総兵の張朝発は重傷を受けて死亡した。 定海知県の姚懐祥は守兵、住民がともに逃亡し、英国軍が城門に迫ったとき、城内の普陀寺の池に投身して自殺してしまった。このあと七月二九日、エリオット少将が艦隊を率いて天津に迫ったので、恐怖心にかられた重臣たちは、卑劣にも皇帝を説得して林則徐を罷免してしまった。売国派の勝利である。 皇帝はかつて感動したと云ったのを簡単に忘れてしまい、勅して、「さきにアヘンの毒が海内に流れているので、とくに林則徐を派遣して査弁させた。ところが(林は)内に好民が法を犯すのを根だやしにできず、外には密輸の来源を断つことはできない…-これらはみな林則徐らの処理不善による。よって厳重に処分を加える」と云った。 中国に限らず、王たるものはたとえ自ら開戦を命じても、敗戦の将軍を見捨てるのである。中国の皇帝だからこんなバカなことをする、と云うわけにはいかない。このことはのちに天皇ヒロヒトがマツカーサーに対して「東条にだまされた」と云ったことにも通じるのである。 かくて、改めて欽差大臣に埼善(チンヤン)が任命されて広東において交渉がはじまったが、英艦隊が天津から去ったあと、北京では再び主戦論が力を得て結局交渉は難行した。 交渉の行き詰まりに怒って、英軍は一八四一年一月七日、広東を攻撃したが、広東はすでに武装を解除して兵力も二千名から六百名になっていたため、忽ち沙角と大角島が陥落して沙角にいた司令官陳連陛は戦死してしまった。二月二五日、英軍はさらに水師提督閔天培のいる守兵わずか二百名の靖遠砲台を攻め、ここでも関天培は戦死してしまった。かくして埼善は罷免され、代わって靖逆将軍軍奕山(イシヤン)、参賛大臣の隆文(ロンウェン)と揚芳が派遣ざれた。 五月二四日、英国は攻撃を再開してアングロサクソン流のアジア人差別の精神を示し、のちの日本陸軍の南京虐殺を上廻る程の残虐のかぎりを尽くして、泥城から四方砲台へ進んだ。 『広東軍務記』は、「夫は殃(わざわい)にかかり、妻は辱を受けて両つの命みな減び…耶壟(きゅうりゅう、墓).は掘られて老少は淫せられる。貧者の家室は磬(けい、吊り楽器)をかけるが如く、富者の家は徒らに壁のみ立つ。まことに鬼神の積憤するに属し、草木も愁を含む」と述べている。 広州がまさに落城せんとして、ついに無条件降服に等しい「広東条約」が結ばれた。こういう歴史があったから、のちに日本陸軍は中国人を虐殺すれば、恐れて手をあげると考えたのである。歴史の進歩を悟らなかったのである。・ しかし二万の住民たちは憤慨して、鍬や鋤をもって「平英団」を組織して立ち上がった。その撽文に、「彼らは村荘を擾乱し、わが耕牛を奪い、わが苗木を傷い、わが祖墳をを壊し、婦女を淫辱した-・…我らは奮ってエリオットを北門に囚え、プレーマーを南岸に斬らん」とあった。 住民たちは三元里郊外でマドラス第三七歩兵団の千人の英軍を包囲したが、英軍は雨に弱いフリント・ロック銃で武装していたため、折からの豪雨で使用できなくなった。英国軍は清軍によってでなく、広州の住民軍によってまさに全滅寸前になったが、このとき広州知府が平英団に対して、「包囲をとかなければ、六百万ドルの贖城金を三元里の住民に支払わせる」と通告したため、平英団の旗は下され、人民たちは四散してしまった。かくて侵略軍は蘇生し、清国滅亡のプログラムにゴングが鳴ったのである。このような恥ずべき事件は帝王制の欠陥であって、国家の力が衰退すると、帝王制では雪崩のようにすべてが崩壊するのである。 八月一〇日、エリオツトの後任としてヘンリーティンジャーが特命全権大使に任命され、広州に着任して履門を占領したあと、九月二六日に再び舟山沖に迫り、定海、鎮海を陥して宰消城を落し、転じて呉淞(ウースン)要塞をも陥した。勢いに乗った英軍は上海をこえて南京の玄関であった鎮江を攻撃し、鎮江は落城してゴロツキのような英軍によって強掠され、再び淫掠地獄と化してしまった。『出国城記』は「夷鬼来たればたちまち婦女の屍は道上に満つ。髪をみだしてすべて赤裸、死なざれば擁抱されて去る。生死離散して賭るに忍びず」と述べる。ちょうど同じ光景が、のちに日本軍の南京占領のときに見られたのであるが、こんな意味でも英国は日本国のお手本であった。 しかし日本は戦犯裁判で被告席についたが、英国は裁判官として同じことをやった日本を裁いた。 鎮江が陥落したため、一八四二年八月二九日(道光二二年七月二四日)に英艦コーンウオルス号において、江寧条約(南京条約)が調印され、これによって香港島が九九年問イギリスに割譲され、広東、履門、福州、宰波、上海が開放された。翌年、虎門で治外法権が追加された。 アメリカはこの戦争に一貫して「観望して待つ」という政策をとり、自分は良い子になっていた。しかしイギリスが軍艦と大砲で奪ったのと、ほとんど同じ成果を望履条約でとりつけていた。しかしこのため、中国には親米ムードがおこってそれが朝鮮戦争までつづいた。要するにアメリカは中国人をうまくだましたのであるが、逆にだましたことによってアメリカは自国の行動を拘束することになった。 アヘン戦争の中国と薩摩戦争の薩摩や下関戦争の長州を比べると、抵抗のレベルがまるでちがっていた。侵略側は金もうけのために戦争をやったのだから、こういう場合、犠牲が多ければ戦争はひき合わないので簡単にやめる。日本のように天皇制をかかげて意地にならないのである。のちにアメリカから中国撤退を迫られた東条は、ドイツ軍の支援をあてにして、「四十年の苦労は何のためだったか」と云って反対した。 東条はすでにヒットラーの子分になっていたのであるが、日本では先例に従う方がラクチンなのである。 |
””われわれの時代を見よ。何もかもが逆行している。あらゆるものがひっくり返っている。医者が健康を破壊し、法律家が 正義を破り、大学が知識を破壊し、政府が自由を打ち砕き、主流メディアは、情報を崩壊させ、宗教は精神性を、粉々 に、している。―マイケル・エルナー ””Infinite love is the only truth. Everything else is illusion. 無限の愛は唯一の真実。他のすべては幻覚。 |
国民のための大東亜戦争正統抄史【中】1941-45 日露戦争において、明石元二郎陸軍大佐はスウェーデンのストックホルムに拠点を置き、レーニンを始めロシア内部の革命勢力、ロシア帝国からの独立を目指していたポーランドやフィンランドの民族勢力、ロシア政府に迫害されていたユダヤ人等に接触、巨大な諜報謀略網を組織することに成功した。明石大佐は、我が国に貴重な軍事情報を通報しただけでなく、英独政府と緊密に提携しヨーロッパ世論を親日に転換させ、ロシア各地において、革命勢力の武装蜂起、黒海反乱の促進、バルト沿岸諸州の独立を煽動し、当時世界最大最強のロシア陸軍約十個軍団をロシア本国に拘束するなど大活躍しレーニンを感嘆させ、東洋の一小国に過ぎなかった我が国がロシア帝国に勝利することによって有色人種が白人に劣っていないことを証明し、完成間近に迫っていた白人による世界支配―世界のアパルトヘイト化―を阻止するという世界史に刻まれた奇蹟の原動力となった。 |
(私論.私見)