「日本史の、タブーに、挑んだ、男・・鹿島 曻―その業績と生涯」(松重楊江 まつしげようこう)

 (最新見直し2009.12.24日)

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 2007.10.30日 れんだいこ拝


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 目本史のタブーに挑んだ男●目次

 はじめに――――――――――――――――――――――――――――――――4

第一章 昭和天皇の戦争責任論は、いまや鹿島史観のみとなった

鹿島の「天皇論」が、いま異様な光を放っている   20
"  
   昭和天皇の「謝罪詔書」転載と同時に、日本共産党が天皇制を容認した 20

   鹿島の「天皇論」で、最も有名なのは「明治天皇のすり替え説」だが・・ 22

昭和天皇は「東洋王道」を、捨て、「西洋覇道の犬」を選んだ 24
 
   関東軍が満州制圧を狙って、張作霖を爆破した(=満州某重大事件) 24

   帝国陸海軍のトップは、名実ともに天皇であった 26

   国務と統帥が、天皇の国家統治の二つの大権であった 28

   昭和天皇の叱責により、田中内閣は総辞職し、田中義一は急死する 30

   満州事変を戦った関東軍に、「朕深くその忠烈を嘉す(よみす)」との勅語が 32

   日本国民の大多数も、当時は、関東軍の忠烈を喜んでいた 34

   日本は、「東洋王道の牙城」ではなく、「丙洋覇道の犬」であり続けている 35

帝国陸軍は、「中原の鹿」の追い方がまずかった37

天皇家は、北支の伯族にして、扶余と百済の王家なのだから・…-37

帝国陸軍は現地徴発を断行し、中国戦線におけるタブーを破った 39

『記紀』の原作は、新羅の舎人親が唐に提出した報告文書 42

百済王の道鏡や桓武天皇らが、『日本紀』をもとに『記紀』をつくった 42

秦始白箒はバクトリア王ディオドトス、兵馬俑はペルシア軍団 46

天皇の大権が制約された江戸時代と戦後、目本は繁栄した48

日本は英米と同盟を結んでいるとき発展したのはたしかだが.……48

天皇の権力が制約されたときも、日本は繁栄している 50

第二章 明治維新で北朝から南朝へ

徳川家茂、孝明天皇は、ともに毒殺か 52

鹿島昇は柳井市を訪れ、田布施町麻郷に大室近祐氏を訪問した 52

山岡荘八は徳川家茂毒殺説を、ねずまさしも孝明天皇毒殺説を 55

違勅調印により、尊王と撰夷が結びついた57

維新前夜、北朝から南朝へと、明治天皇がすり替わった? 59

皇妹・和宮と将軍・徳川家茂の婚姻により、孝明天皇はごく近い親戚に 59

第二次長州征伐敗北直後、一四代将軍・徳川家茂は大坂城で急逝 60

孝明天皇は徳川家茂、会津藩主を信任する頑な攘夷主義者であった62

孝明天皇から明治天皇へと路線が一八○度展開し、明治維新が成立している 63

睦仁親王と明治天皇は、似ていない64

孝明天皇は、岩倉具視が毒殺したのか?66

八八卿列参事件により、岩倉具視は辞官落飾のやむなきに至る66

重要な貴人の暗殺は、東洋ではごく普通のことである68

伊藤博文とは、何者だったのか69

伊藤博文は、二二歳までは士分ではなく、数多くの違法事件に関与していた 69

吉田松陰の松下村塾とは、どういうところであったか72

鹿島が整理した吉田松膚の三つの理念74

一、長州藩が匿ってきた大室天皇による南朝革命論74

二、徹底した民族主義と侵略思想76

三、部落の解放(これを全アジアに広めようとしたのが大束亜共栄圏) 78

  
孝明天皇は、伊藤博文が刺殺したのか? 80

幕末に、暗殺の実行部隊に忍者が選ばれるのは自然なことであった80

伊藤の刀剣趣味と忍者刀(『明治維新の生賛』より抜粋) 82

宮崎鉄雄氏による決定的な証言85

第三章異端の歴史家の素顔

一八歳で徴兵検査を受けた年に、終戦を迎えた 90

一〇年近く弁護士をやったあと、「天皇制の研究」を思い立つ92

国史もそこそこに、いきなり「韓国の歴史」の研究に取り掛かる93

『倭と王朝』が大評判となり、貴重な韓国の古文書類を託される94

『桓檀古記』邦訳は韓日両国の宝 96

古史古伝学者・吾郷清彦も『桓檀古記』全訳を激賞 100

スケールの大きな「鹿島史学」を広めるには、短すぎる一生であった 104

第四章「倭人=日本民族」ではない

『バンチェン/倭人のルーツ』で、世界の古代史を覆した 106

一九六七年、農耕文明の発祥地・バンチェン遺跡が発見された 106

縄文時代の初期、彼らの一部は日本列島に移住した 107

超古代の太平洋文化の発展が、世界の文明を生んだ 110

「アトランティスからやってきた軍隊」とは、バンチェン人のことだった 113

エジプトの古王朝人もバンチェン人であった 114

前四世紀の地図に、北米の東側、南米、南極まで描かれていた 118

新羅天皇家以前のすべての歴史を抹殺するために、『日本紀』が書かれた 121

神武以前に天の王朝が日本列島を支配していた 121

邪馬台国は、伊都国、多婆羅国、安羅国の諸王が神武の妻・卑弥呼を共立して建てた
123

日本に派遣された舎人親王が、日本総督を天皇として『日本紀』をつくった 125

バンチェン文明が、東アジア・インド・オリェント文明を結んだ 126

漢字は、シュメール人(殷人)の殷字がルーツ 126

倭人は、東アジアのみならず、オリエント世界ともつながっていた 128

殷人の祖地はメコン河の流域 129

第五章 驚異的な倭人の大航海、大遠征

エジプト王朝のファラオたちは、海を越えて交易・遠征を行っていた 134

『史記』は、バビロン史の漢訳だった 134

エルサレムのエブス人は、海の国カルデア人の子孫とも関係があった 135

前一三世紀、エジプトはインド洋を渡って、南アフリカやスマトラヘ 136

混血で赤紫色のフェニキア人誕生 138

カナンの地の豊かさは、多くのイスラエル人を虜にした 141

カナンは、パレスチナおよび南シリアのあたり 141

カナンの地と宗教と文化は、ユダヤ教にとって脅威であった 143

地中海東海岸のフェ二キア人は、紀元前に米大陸にまで到違していた 145

東表国(=九州)は、ソロモン王のオフィルであり、タルシシではなかったか 145

フェニキア人が、縄文時代終期に縄文農業を伝えた 147

殷はイシンの漢訳で、ヒクソス系エブス人であった 148

重藤での製鉄が、「弥生時代は五〇〇年遡る」の決め手である 150

タルシシ船団は、紀元前にアメリカ大陸にまで到達していた 152

東表の本拠地はボルネオ酊部、倭人の祖王はナーガ族の王カーリア 155

『旧唐書』には、「倭国には神代文字があった」と記されている 155

東表の本拠地は、ボルネオ南部の八河地帯か 158

パララーマが伐ったナーガ族の王カーリアが、倭人の祖王だった159

第六章古代中国は、民族の堆塙―――――――――――――――――165

秦はバクトリアの植民地、夏王のモデルはハムラビ大王 166

秦国は、バクトリア=大秦国(始皇帝の本国)の植民地であった 166

『史記』に出てくる夏王は、ハムラビ法典で名を残したハムラビ大王 173

いまこそ大事な、鹿島流「歴史の学び方、考え方」175

殷という国は存在せず、殷墟はカルデア人の海賊.(貿易)基地跡 179

殷という国家が中国に存在したという証明は、いまだなされていない179

殷墟は、イシンの貿易を支配したカルデア人のシナ海賊基地の跡 180

周はアッシリア、段はイシン 183

司馬遷、司馬遼太郎の著したものは、史実ではなく文学作品(創作) 183

アッシリア(周)がイシン(殷)を滅ぼしたことにした 184

漢民族は「すべて黄帝の子孫」と信じているが、黄帝は架空の人物 186

古代中国には、現日本人のルーツ複数を含め、さまざまな民族が入り乱れていた 189

孔子はエリヤ、孟子はアモス、列子はプラトン、荘子はアリストテレスがモデル 189

秦国滅亡後、弥生時代の日本へ渡来し、吉野ヶ里に倭奴国をつくった 190

神武に国を譲り、大和に移った秦王国=伊勢国と倭国が合体して、日本国となった 192

古代中国には、実にさまざまな民族が入り乱れていた 193

『古事記』に、目本にいないワニが登場している 195

『古事記』の「因幡の白兎」に、なぜ日本にはいないワニが出てくるのか 195

ワニだまし説話に似た神話が、アイヌの叙事詩『ユーカラ』に出ている 197

中国にもワニだましの説話がある 199

スマトラ、ジャワ、ボルネオ、マレー半島では、兎がネズミジカになっている 201

青銅または鉄製の剣を持っていたスサノオは、オリエントの人 204

中国ほどにはわかっていない、古代インドと目本の交渉史 206

大物主命神話の原型は、インドの『ラーマーヤナ』の「猿の橋」 207

ワニだまし説話とモーセが海を渡った説話の対象神は同じ 208

神武東征の猿田彦は、『ラーマーヤナ』の猿の大群 210

第七章『旧約聖書』にも原典があった―――――――――――――213

バビロンの教典が、前三〇〇年ごろにギリシァヘ 214

『旧約聖書』のオリジン(原典)は、バビロン神話である 214

バビロンの教典「ベルの目」は、前三〇〇年ごろにギリシアヘ 215
「ベルの目」の語り手は、海に住んでいた蛇人問オアンネスであった 217

中国史もバビロン史をモデルとしている? 218

中国史の黄帝以前の歴史も、バビロン史がモデル? 218

海人マヤ(植民者)オアンネスの伝説 219

司馬貞が追加した『史記』三皇本紀は、古代オリエント史に正確に対応 221

第八章 差別の原点を明らかにした『日本王朝興亡史』――――――225


東アジアには、目鮮同祖、目中同祖ともいうべき大過去が存在した 226

先王朝の歴史が消され、神武天皇即位の年が皇紀元年とされた 226

光明皇后は、唐(藤)の不比等の娘であると署名 229

チベット仏教のパンチェン・ラマは、バンチェン文明の後継者 231

新羅の朴、昔、金の王族たちは倭人であった 232

新羅花郎軍団の「朝鮮式山城」は、西日本各地に二一ヶ所も現存している 233

木村鷹太郎による『論語』と『旧約聖書』の同一性(『旧約聖書日本史」より)235

孔子とエリヤについては、『旧約聖書』と「魯世家」に同一内容の記述がある 235

木村は、『論語』との比較から『旧約聖書』と日本民族の関係も洞察した 236

陳立夫の『中庸』と『バイブル』の同一性の指摘(『四書道貫』より) 238

提造の日本史―――広橋興光氏の証言 245

「捏造の日本史」を明らかにする広橋興光氏の八証言 245

「藤原氏は二系統あり、中国系の方が朝鮮系よりも威張っていた」を検証する 247

藤原鎌足はつくられた人物であった 248

『藤氏家伝』の嘘を、『弾左衛門由緒書』が暴いている 251

秦氏→藤原氏→弾氏の系譜(『弾左衛門由緒書』弾直樹著より) 251

川瀬勇は「左衛門はユダヤ人シモンの訳」と指摘(『日本民族秘史』) 254

秦人の亡命者・猿田彦は、神武の九州侵入により東へ移動 256

猿田彦は、中南越の苗族を率いた秦人の亡命者(『水尾大明神木土記』より) 256

神武の九州侵入により、伊勢都彦=猿田彦は東へ移動(『伊勢国風土記』) 258

失われた古代ユダヤ一二支族の行方 260

徐福の船団が、弥生時代の日本にユダヤ文化を持ち込んだ 260

古代ユダヤ一〇部族のうち、八部族と一支族は口本に来ている 262

ナフタリ族、アシェル族、ベミアミン族は、日本には来ていない267

『三郡誌』の荒吐族は、駕洛国の金氏と狗奴国(沖縄)の朴氏の子孫たち 268

南朝の逃亡者をかばったのは「秦王国」の後裔たち269


あとがき――――――――――――――――――――――――――――――――――272

鹿鳥史学に基づく『新説・古代史年表』――――――――――――――――――――276

参考文献―――――――――――――――――――――――――――――――---------327


 「日本史の、タブーに、挑んだ、男・・鹿島 曻―その業績と生涯」(松重楊江 まつしげようこう、2003年11月15日初版)
 [3908] ひきつづき、“日本史の、タブーに、挑んだ、男・・鹿島 曻――その業績と生涯・・松重 楊江(まつしげ ようこう)”という、良好なる、著、の、一部分を、の、甚大紹介、引用、ログ!!<2004年、10月、31日、午後、8時57分、打ち、ログ!!>> 投稿者:白金 幸紀(しろがね ゆうき))会員番号 1738番 投稿日:2004/11/02(Tue) 01:30:36
 第一章 昭和天皇の戦争責任論は、いまや鹿島史観のみと、なった

 鹿島の「天皇論」が、いま異様な光を放っている

 昭和天皇の「謝罪詔書」掲載と同時に、日本共産党が天皇制を容認した

 平成15年(2003年))6月『月刊文藝春秋』(7月号)に田島道治・宮内府長官の、文書として、昭和天皇の国民への、謝罪詔書の草稿が転載された。タイトルは、そのものズバリ、の、「朕ノ不徳ナル、深ク天下二愧(ハ)ズ」である。「退位問題と戦争責任問題追及に揺れる昭和23年、密かにしたためられた、一通の文書。そこには自らを責め苛み、日本国民に謝罪する昭和天皇の言葉が記されていた」(宣伝文より) ということで、これはたしかにかなりの衝撃度であった。

 その同じ6月の21日に、日本共産党は、天皇制の容認に、踏み切った。党本部で、第7回、中央委員会総会を、開き、党の政治路線や理念を盛り込んだ、綱領の、改定案を、発表いたのだが、そのなかで、「資本主義の、枠内で、可能な、民主的改革」による民主主義革命を、目指すべきだとし、事実上、日本の天皇制を、容認したので、ある。新たな、綱領は、中央委員会総会の議論を経て、平成15年、11月に、おこなわれる、第23回、党大会で、採択される、予定だが、不破哲三議長、志位和夫委員長が進めてきた柔軟路縁が、ついに、綱領上でも明確に位置づけられることになったのだ。この日本共産党による、事実上の天皇制の容認と、『月刊文藝春秋』(7月号)の「朕ノ不徳ナル、深ク天下二愧ヅ」は、けっして偶然では、あるまい。

 日本共産党は、公党としては、唯一の、反天皇勢力で、あった。かつては、コミンテルン(国際共産主義運動のための第三インターナショナル)の、「三二年テーゼ」(日本の情勢と、日本共産党の、任務に関する、テーゼ)にしたがって、公然と、「天皇制打倒、寄生地主制の廃止などを主要任務とするブルジョァ民主主義革命」を目指していたのだ。その日本共産党すらもが、事実上、天皇制を容認するにおよんだということは、それくらいに「日本の空気」が、天皇制支持、天皇制容認へと変わってきたということである。だからこそ、『月刊文塾春秋」は「朕ノ不徳ナル、深ク天下二愧ヅ」などというタイトルの一文を掲載するにおよんだと見ることができよう。

 鹿島の「天皇論」で、最も有名なのは「明治天皇のすり替え説」だが…

 天皇制をめぐる、二つの大きな動きがあった平成一五年六月というのは、アメリカによるイラク攻撃が終わり(戦争は終わったが、小規模な戦闘は継続)、北朝鮮による日本人拉致が明確になり、送金ルートの遮断、密輸出入への措置などが講じられているといった状況である。また、イラク復興支援特別措置法案で白衛隊派遣が可能と定めている「非戦闘地域」について、与野覚間で活発に議論されていたりもしている。つまり、戦争というものが、かなり身近になってきていて、しかも軍事同盟国であるアメリカが予想外の善戦により短期間で勝利を収めたという、ぢょっとした戦勝気分を味わったりもしている時期なのである。北朝鮮に対する「懲罰」意識のようなものも出てき始めている。かつて日比谷公会堂で、英米贋懲(ようちょう)(外敵をうちはらい懲らしめること)の大会が連日開催されるというようなこともあったが、当時に少し「空気」が似てきているのだ。

 そんな空気のなかで、「昭和天皇の戦争責任論」が、いつのまにか蒸発してしまったわけだが、逆に言うならば「昭和天皇の戦争責任論」は、その程度のものであったということでもある。要はほとんどの「昭和天皇の戦争責任論」は、時代の流れ、戦争というものに対する感じやイメージが少しちがってくれば、もうそれだけで蒸発してしまう程度のものだったということである。

 だからこそ、鹿島鼻による「天皇論」が、いま異様な光を放っているのだ。鹿島の近世における天皇論で最も有名なのは、「明治天皇のすり替え説」である。明治維新とは、それまでの北朝の天皇を、南朝の天皇にすり替えるという“革命”であり、その南朝の天皇を代々匿ってきたのが長州藩であった。そして、そのことを知った西郷隆盛のはたらきによって、薩長軍事同盟が成立するのだが、なぜ西郷がそのようなことをしたかというと、それは西郷が南朝方の菊池家の血を引いていたからである。薩摩藩は、蛤(はまぐり)御門の変(一八六四)で、幕府に味方して会津藩主の京都守護職・松平容保(かたもり)とともに、長州藩を討っている。その薩摩藩が、第二次長州征伐においては、長州藩とともに幕府軍と戦っているのである。幕府軍は、あろうことか薩長同盟軍と戦うことになり、その戦いに敗れて決定的に権威を失墜させ、明治維新という大逆転への扉を開くことになった。というわけだが、そのあたりのことは、第二章で詳しく述べる。

 昭和天皇は「東洋王道」を捨て、「西洋覇道の犬」を選んだ

 関東軍が満州制圧を狙って張作霖を爆殺した(=満州某重大事件)

 鹿島の「明治天皇のすり替え説」の影になりがちだが、「昭和天皇の戦争責任論」は鹿島史観の基本と深く関連するきわめて重要な主張である。まとまった本としては『昭和天皇の謎』(新国民社、一九九四年六月刊)があり、私はそのなかで具体的な点と、本質的な点を、それぞれ、一つずつとりあげたい。具体的な点は、張作霖(ちょうさくりん)の爆殺にっいての昭和天皇の責任である。それに先立ち、この爆殺事件のあらましを見ておこう。

 一九二八年五月、国民革命軍(中国赤軍から改編。総司令は蒋介石)の北伐が北京に迫り、奉天軍(日本の支援で満州を統一したが、その後、日本の意に反して北京政権を掌握)の敗色が濃厚となったので、関東軍は張作霖を下野させて新政権を樹立し、中国の東三省と満州を中国から独立させようとした。しかし、田中義一首相は、張作霖に満州に引き揚げるよう勧告する方針をとり、関東軍に武力行使の承認をあたえなかった。そんななかで、張作霖は国民革命軍との抗戦を断念し、六旦三日に特別列車で北京を退去し、奉天に向かった。

 それを知った関東軍高級参謀の河本大作大佐は、「これで、張作霖が奉天に行ってしまえば、武力による満州制圧の好機が去ってしまう」と判断。張作霖を謀殺して武力発動のきっかけをつくろうと、独立守備隊の東宮鉄男(とうみやかねお)大尉に指揮をとらせて、藩陽駅のすこし手前の満鉄線の陸橋付近に爆薬をしかけ、張作霖の特別列車を爆破した。さらに東宮大尉は、「国民革命軍の密書」(もちろん偽物)を持たせた中国人苦力(クーリー)二名を殺害し、彼らの犯行であるかのように装った。

 張作霖爆殺の報を受けた斎藤恒関東軍参謀長らは、事前に河本大佐から、「張作霖爆殺を機に、満州を武力制圧する」という計画を知らされていなかったために、関東軍を出動させなかった。そのことにより、張作霖爆殺には成功したものの、満州を武力制圧するという河本大佐の計画は不発に終わったのだ。

 父・張作霖のあとを継いだ張学良は、北伐を完了した蒋介石と和解し、国民党政府に合流。日本国内では事件の真相は秘密とされたが、野党・民政党の追及により、「満州某重大事件」というかたちではあったが、問題となった。田中義一首相は、元老.西園寺公望らの要求で真相を公表するつもりであったが、陸軍の強い反対にあい、関係者の行政処分にとどめざるをえず、天皇から食言(一度口に出した言葉を、また口に入れる意。前に言ったことと違うことを言う、約束をたがえること)を叱責され、一九二七年七月に内閣を総辞職し、その二ヶ月後の九月に急死した。そのようなかたちで、張作霖爆殺=満州某重大事件がうやむやにされたことが、関東軍幕僚(軍司令官に直属する参謀、副官)に自信を与える結果となり、満州事変の謀略を促す一因となったといわれている。以上が、張作霧爆殺、満州某重大事件の一般的な概要であり、わが国ではいまもだいたいのものが、基本的にはこの線にしたがって記され、描かれている。

 帝国陸海軍のトップは、名実ともに天皇であった

 張作霖爆殺の収拾策について、昭和天皇が田中義一首相に「食言」であると叱責したことについては、昭和天皇自身、『昭和天皇独白録』のなかで、次のように記している。「この事件の首謀者は河本大作大佐である。田中総理は最初私に対し、この事件ははなはだ遺憾なことで、たとえ自称にせよ、一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表するつもりである、ということであった。……田中は再び私のところにやって来て、この問題をうやむやのなかに葬りさりたいということであった。それでは前言とはなはだ相違したることになるから、私は田中に対し、それでは前と話がちがうではないか、辞表を出してはどうかと強い語気でいった」(この部分『昭和天皇の謎』より引用。鹿島が現代かなづかいに直している)

 鹿島は、この天皇の物の言い方はおかしいと考えた。なぜならば、陸軍の規定によると、国外に駐屯する軍隊を統括するのは総理大臣でも陸軍大臣でもなく、参謀総長であるからである。では、その参謀総長は、自分の裁量でいかようにも軍隊を動かせるのかというと、それはできない。大日本帝国憲法の第一一条には「天皇は陸海軍を統帥する」とあり、帝国陸海軍のトップは、名実ともに天皇なのである。天皇から命ぜられて軍隊を動かすのが、参謀総長をトップとする陸軍参謀本部であり、軍令部総長をトップとする海軍軍令部であった。

 このあたりのことを、もう少し詳しく説明すると、まず陸軍のなかには、陸軍省と参謀本部の二つがあり、陸軍省のトップは陸軍大臣で、参謀本部のトップは参謀総長であった。海軍のなかにも、海軍省と軍令部の二つがあり、海軍省のトップは海軍大臣、軍令部のトップは軍令部総長であった。東條英機が出てきてややこしくなったのは、陸軍大臣であった彼が、総理にもなり、陸軍参謀総長までをも兼任したからである。

 国務と統帥が、天皇の国家統治の二つの大権であった

 参謀本部と大本営の関係、陸海軍省と参謀本部・軍令部の関係は、次のようになっている。

参謀本部…平時における国防用兵の府(常設組織)
大本営……国家非常(有事)の際に臨機設置される

大本営が設置されたとき、
参謀本部…・・…大本営陸軍部の主体となる
参謀総長……大本営陸軍部幕僚長となる
軍令部……・:…大本営海軍部の主体となる
軍令部総長・-大本営海軍部幕僚長となる
陸軍…陸軍省十参謀本部(昭和一九年以降、東條陸軍大臣が参謀総長を兼ねる)
海軍…海軍省+軍令部(昭和一九年以降、嶋田海軍大臣が軍令部総長を兼ねる)

 これらの軍の組織と天皇との関係については、憲法で輔弼(ほひつ)と輔翼(ほよく)という言葉を使って規定されていた。当時の日本の国家の形は、明治憲法に基づく立憲君主国であり、天皇が国家の統治権を総撹(そうらん)(政事・人心などを一手に掌握すること)するとされていた。その天皇の大権は、一般行政と統帥の二つに分かれていて、国務上の輔弼は政府が、統帥権のほうは参謀総長(陸軍)と軍令部総長(海軍)が輔翼(ほよく)(補佐したすけること)するということになっていた。「輔弼」というのは、天皇の行為としてなされ、あるいはなされざるべきことについて進言し、採納(採用)を奏請(そうせい)(天皇の決定を求めること)し、その全責任を負うことであり、「輔翼」とは補佐というような意味である。
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 天皇の国家統治の大権(明治憲法による)

 国務…政府(行政)、議会(立法)、裁判所(司法)の各機関が輔佐し、内閣の輔弼により、これを総撹

 統帥…参謀総長(参謀本部)と軍令部総長(軍令部)の輔翼により、これを総攬

 昭和天皇の叱責により、田中内閣は総辞職し、田中義一は急死する

 陸軍参謀総長であっても、海外に、駐屯している軍隊を自由に動かせないことについては、陸軍参謀であった瀬島龍三が、さまざまな著書のなかで「一兵卒足りとも(天皇の裁可がなければ)動かせない」と述べている。瀬島参謀は、そのために鳥の子紙(雁皮を主原料として漉いた(すいた)和紙。平滑・綿密で光沢がある)に攻撃命令を書き、それとは別に、「別紙の件につき、允裁(いんさい)(御裁可のこと)を仰ぎ奉り候なり」というのを書き、それらを持って参謀総長が宮中に赴き、そこに天皇が墨で裕仁とサインをし、侍従が「天皇御璽(ぎょじ)」の四字を刻んだ金印を捺(お)して(御璽御名が揃って)、はじめて軍隊が動いたのである。

 ちなみに、戦後に防衛庁の戦史室の人が調べたところ、大東亜戦争中の陸軍に関する陸軍部命令は二二〇〇通ほどもあり、そのうちの七〇〇通くらいに起案者・瀬島龍三の判が押してあったそうである。だから、張作霖爆殺の報に接したとき、天皇のなすべきことは、次のとおりであったというのが、鹿島の主張である。

 最初田中義一首相から報告があったとき、天皇はまず陸軍参謀総長に事件の調査を命令すべきだったのである。天皇が事件の責任者にみずから命令せず、権限のない田中に「辞表を出してはどうか」と強い語気でいったのは、天皇みずからいう「私の若気の至りである」にしても、田中を責めるのはおかどちがいであり、なすべきことは自分にあった。関東軍は海外に駐屯している部隊であるため、総理大臣はもちろん陸軍大臣にも動かす権限がない。陸軍は、陸軍省と参謀本部からなる組織であり、海外に駐屯している関東軍を動かす権限は参謀本部にあり、そのトップは参謀総長であり、その参謀総長が「天皇陛下の御裁可をいただいて」はじめて、兵を動かすことができる。

 だから、張作霖爆殺事件については、田中義一総理大臣を叱責するのは筋違いであり天皇みずからが参謀総長に事件の真相解明を命じ、「河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する」のが正しいと判断したならば、そのようにさせればよかったというのである。それが筋でありながら、昭和天皇は田中首相を叱責し、内閣総辞職から二ヵ月後の急死へと、追いやったのである(実は築地の割烹旅館高野屋にて頓死した)。

 満州事変を戦った関東軍に、「朕深くその忠烈を嘉す(よみす)」との勅語が

 だが、この時期には、そうせざるを得ない事情もあった。張作霖爆殺事件は、河本大佐が、画策した、ということに、なっているが、陸軍上層部の、かなりの部分が容認するとか、それとなく助けるというようなことがあったようなのだ。だからこそ、あれだけ大きな事件を起こしたにもかかわらず、河本大佐は、これといった処罰を、受けなかったのだ。 そればかりか、関東軍は図に乗って、三年後には、柳条湖(りゅうじょうこ)事件を、引き起こした。鹿島も含めて、日本ではこの事件を「柳条溝事件」と呼んできた。それは新聞の誤報に、端を発する、地名の誤りであり、柳条糊が、正しい地名であることが、1981年に、中国の研究によって、確認されている。

 柳条湖事件は、独立守備歩兵第二大隊第三中隊の河本末守中尉が、柳条湖の満鉄線路に爆薬をしかけて爆発させた事件である。奇しくも張作森爆殺事件のときと同じ独立守備隊の河本という名前の人物が、満鉄に爆薬をしかけたわけだが、二人は別人である。

 それに、柳条湖事件の背景には、満州の武力占領を画策していた関東軍幕僚の板垣征四郎と石原莞爾(かんじ)の名前がはっきりとあがっている。さらに、柳条湖事件は、爆発させることには成功したが、線路への被害はほとんどなく、この爆発の直後に列車が無事に通過している。ただし、このときの爆音を合図に、付近に出動していた川島正大尉の率いる第三中隊が、演習と称して北大営の中国軍を攻撃した。板垣、石原らは、この事件を中国軍が満鉄線を爆破し、日本軍を攻撃したと偽り、関東軍を大規模に出撃させた。これが満州事変となっていく。

 朝鮮軍司令官であった林銑十郎(せんじゅうろう)は、柳条湖事件直後に、独断で鴨緑江を渡って満州に出兵し、あとで昭和天皇に対して進退伺いを出したが、昭和天皇はこれを免責している。満州はこのとき、関東軍、朝鮮軍の侵攻により、わずか半年足らずで実質的に日本のものとなった。柳条湖事件を画した板垣征四郎、石原莞爾、それに独断出兵した林銑十郎は、厚く遇され、関東軍に対しては「朕深くその忠烈を嘉す(ほめる)」との勅語が与えられた。昭和天皇に「侵略をした=悪いことをした」との意識はなかったのである(当時は、帝国主義の時代であり、いまほど〈侵略=悪〉という観念はなかったということもある)。

 日本国民の大多数も、当時は、関東軍の忠烈を喜んでいた

 日本による満州侵略は、英米にとっては、イラクによるクウェート侵攻と同質の行為であった。そのため、英米を中心として国際社会から「中国が可哀相ではないか」という声が澎湃(ほうはい)としてあがるが、英米の真意はもちろん「日本の満州独り占めに対する不満と警戒」であった。

 イラクの場合は、このクウェート侵攻が湾岸戦争を引き起こすことになり、さらには二〇〇三年のイラク爆撃へとつながった。日本の満州侵略も、基本的にはほぼ同じコースをたどる。まずは対日経済封鎖(ABCD包囲網)が行われ、しかるのちに日米開戦となり、アメリカは連合国軍を組織してこれに抗戦し、やがて圧倒的な物量と先進兵器とによって、国際社会側として勝利するのである。

 ただし、イラク攻撃はわずか一ヶ月ほどであったが、日本は一九四一年二一月八日の真珠湾奇襲攻撃にはじまって、一九四五年八月一五日に、昭和天皇の<聖断>によりポツダム宣言の受諾を決定するまで、実に、二年八ヶ月もアメリカと戦った。しかも、太平洋を戦場に、空母機動部隊による正面激突戦という、人類史上で最大規模の戦争を行ったのである。

 ことの善し悪しは別にして、日本は好戦的であり、戦争に強いのである。山田長政がまたたくまにシャム王国で頭角を現したのも、戦に長けていたからであり、「平和ボケの日本人」というのは、ごく最近の非常に珍しい現象である。

 さて、満州国建国は、イラクによるクウェート侵攻のように、実に危険な行為であったが、日本国民の大多数は、この国運の大発展を素直に喜んだ。関東軍の忠烈を深く嘉(よみ)したのは、昭和天皇だけではなかったのである。

 日本は、「東洋王道の牙城」ではなく、「丙洋覇道の犬」であり続けている

 張作霖爆殺からのことを、ここでまとめておくと、まず独断専行してこの大事件を起こした河本大佐(および陸軍上層部)は、おとがめなしとなった。しかし、それでは諸外国に対してマズイということで、田中内閤を総辞職させ、田中義一を死に至らしめた。次に、張作霖爆殺の延長線上に、第二幕となる柳条湖事件が、これも陸軍の独走で引き起こされ、それが満州事変へと発展した。

 その満州事変の成功により、満州国が建国され、その巨大な成果は、昭和天皇率いる日本のものとなった。問題は、その成果が大き過ぎたことで、それが大東亜戦争のもとになるわけだが、満州建国当時には、そのような危機意識はなかった。しかし、日本人みんなが浮かれていたわけではない。この満州建国よりもはるか前に、戦後に首相となる石橋湛山は、朝鮮と台湾の放棄、中国での権益放棄、軍備縮小を、「東洋経済新報」誌上で訴えていた。

 同じころ、孫文は神戸で次のような演説をしている。「日本人は、今後、西洋覇道の犬となるか、東洋王道の牙城となるか、慎重に研究して選ぶべきである」。そのような声があるにはあったが、日本は欧米先進国=帝国主義の戦列を離れることができず、孫文のいう「西洋覇道の犬」であり続けた(いまもまたそうである)。だから、日本はダメなのだという議論は、ずいぶんある。左翼あるいはリベラル派・市民派と呼ばれる人たちは、おおむねそのような考え方をしている。

 鹿島は、どうか。

 昭和天皇の戦争責任については、はっきりと「ある」と断言しているが、朝鮮と台湾の併合・中国での権益確保などについては、否定一辺倒ではない。中国には「中原(ちゅうげん)に鹿を追う」(中央で帝王の地位を得ようと争うこと。中原は黄河中流域のこと)という伝統があり、漢字文化圏の諸民族ならば、中国本土で覇権=鹿を追ってもよいのだという。問題は中原の鹿の追い方であり、台湾と朝鮮の併合、満州建国、中国での権益確保は、やり方が悪いというのである。次に、そのことをもう少し詳しく見ることにしよう。この視点が、鹿島史観の基本に深く関わる「昭和天皇の戦争責任論」の本質的な点である。

 帝国陸軍は、「中原の鹿」の追い方がまずかった

 天皇家は、北支の伯族(はくぞく)にして、扶余(ふよ)と百済の王家なのだから…

 漢字文化圏の諸民族が、中国の本土で覇権を奪い合いすることは、「中原に鹿を追う」ということで、それほど悪いことではなく、日本もやってもよい。そう鹿島は主張するのだが、そのことには欠くことのできない前提がある。それはなにかというと、日本の天皇家の血筋である。日本の天皇家は、もともとは北支の伯族であり、のちに扶余の王家、百済の王家となった一族であるというのだ。なんのことはない、満州も韓半島も、もともと祖父の地であったのだから、その地で「中原に鹿を追う」ことに、ためらう必要などないというのだ。鹿島の論でいけば、日本が中国で「中原に鹿を追う」のは、漢字文化圏の一民族としての権利だが、同じことを英米がやると、それは侵略でよろしくないということになる。

 戦後においては、何かといえば「日本は侵略をした。まず謝罪をしろ」と言う。イギリスは中国にアヘンを売りつけたうえに侵略したが、それに対して中国がイギリスに謝罪を要求したということはないし、イキリスも謝ってはいない。にもかかわらず、日本に対してだけ、いつまでもしっこく強く謝罪を要求するということはどういうことか。まるっきり反対ではないかというのである。

 たしかに中国本土は、これまでさまざまな民族が入り乱れ、さまざな民族の王朝が打ち立てられてきた。だから、二〇世紀になって、日本が中国に新たな王朝を打ち立てても、別におかしはない。日本は当時の首都・南京を陥落させたが、中国がそれでも降伏しなかったために、「城下の盟」(じょうかのめい)(敵に首都の城下まで攻め入られて結ぶ講和の約束)を結ぶことができず、日中戦争は泥沼化した。そのうえ、対米・対英開戦を決することにより、日本は腹背(ふくはい)に敵を受けるかたちになり、苦戦しているうちに、毛沢東が中国革命を成立させてしまった。さらに、日本軍はアメリカを中心とする連合国軍に敗れ、蒋介石は台湾に追い払われ、中原の鹿は毛沢東のものとなった。

 それでよかったというのは、最初だけのことであり、毛沢東の中国共産党による中国支配は、実に血なまぐさいものであった。プロレタリア文化大革命という名の長期的な内戦で、どれほどの人民が殺戮(さつりく)されたことか(一説によれば三〇〇〇万人)。新たに蒋介石軍の侵攻を受けることになった台湾では、「犬が去って、豚が来た」と、蒋介石軍による侵攻を嘆いた。犬とは台湾を併合していた日本のことであり、豚とは蒋介石軍のことである。

 帝国陸軍は現地徴発を断行し、中国戦線におけるタブーを破った

 日本の中原の鹿の追い方のまずさは、中国の農民への接し方にもあった。中国本土においては、農民に慈愛を与える軍隊が最終的には勝利を収めるからである。三国志をひもとけば、そのことは明らかなのだが、日本軍はその教訓を活かせなかった。たとえば、一九三七年八月、日中戦争は華北から華中に拡大し、日本軍は上海で中国軍の激しい抗戦に直面して、大きな損害を被った。中国軍を退却させることができたのは、その年の二月になってからであったが、中支那方面軍(軍司令官・松井石根(いわね)大将)は、このとき異様な判断をする。指揮下の上海派遣軍と第一〇軍を、与えられていた任務を逸脱して、国民政府の首都・.南京に向かって急進撃させたのである。

 このとき、日本軍兵士は苦戦を強いられた上海戦で、疲労の極に達していた。日本軍兵士としてはやっとの思いで上海戦で勝利を収めたのだから、これで胸を張って日本に凱旋できると思っていた。そこに、さらに厳しい追撃戦を強いられたのだから、やけくそぎみになるのも無理からぬことであった。しかも、この追撃戦は、衝動的、発作的なものであったので、十分に用意をするヒマはなかった。兵站(へいたん)が延びきった状態になり、物資の補給が間に合わず、たちまちのうちに食料なども底をつき現地徴発のやむなきに至った。

 まさしくこのときである。帝国陸軍は、「農民には慈愛を与えなければならない」という古来からの中国戦線におけるタブーを破ったのである。徴発というのは、物を強制的に取り立てることである。当時のこの現地徴発を、現地調達と表現している人もいるが、やつたことを正確に表現すると、現地調達ではなく現地挑発であった。

 毛沢東の人民解放軍も、長征の過程で現地調達を行っているが、彼らはたとえわずかでもキチンと対価を支払っていて、徴発は行っていない。毛沢東は国民党軍に包囲された江西省瑞金(ずいきん)の根拠地を放棄し、福建・広東・広西・貴州・雲南・四川を経て、陝西(せんせい)省北部に至るまで、実に一万二〇〇〇キロにもわたる大行軍をし、これを長征と呼んだのだが、長征には、「農村が都市を包囲する」という戦略の裏打ちがあった。「中国本土においては、農民に慈愛を与える軍隊が最終的には勝利を収める」という教訓をよく守り、そのことによって、見事に中原の鹿を射止めたのである。

 他方、帝国陸軍は、食糧などの準備がきわめて不十分であるわけだから、追撃の過程でさかんに現地微発を行い、そこに中国侮蔑感情や戦友の仇を討つという意識なども加わり、いわゆる「略奪・強姦・虐殺・放火」などの非行が常態化する状況となった。そして、そのまま南京に入城したわけだから、多数の一般市民を巻き添えにした徹底的な掃討を行うということになってしまったのである。

 『記紀』の原作は、新羅の舎人親王が唐に提出した報告文書

 百済王の道鏡や桓武天皇らが、『日本紀』をもとに『記紀』をつくった

 さて、日本の天皇家の氏素性(うじすじょう)だが、鹿島は『昭和天皇の謎』のなかで、「もともとは北支の伯族であり、のちに扶余の王家、百済の王家となった一族である」と述べているが、これをもう少し詳しく述べると、次のようになる。

 神武天皇というのは、中国東北(満州)から朝鮮半島を経て南下した扶余族のタケミカヅチのことである。その神武天皇率いる扶余族は北倭人であり、これが三世紀初頭に南倭人と戦い、博多近辺に伊都国を建てた。卑弥呼は神武の妻であり、実家はユダヤ系亡命者である公孫氏であった。その公孫氏の建てた国が日向・西都原(さいとばる)であり、卑弥呼は都をここに移して統治した。その後、朝鮮半島と日本列島の支配権をめぐって、高句麗、新羅、百済、倭国が争い、当時の世界帝国・唐の援助を得た新羅が百済を滅ぼし、その百済を復興させるために倭国は軍隊を派遣した。それが、六六三年の白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦いである。この白村江の戦いで、倭国を破った唐・新羅連合軍は、九州に攻め込み…-というように、きわめて大きなスケールで、鹿島は、神武天皇から白村江の戦いまでの歴史を解き明かすのだが、その部分は、本書の第四章から五章にかけて詳述しているので、そちらを熟読いただきたい。

 日本の歴史というと、まずは『古事記』と『日本書紀』だが、この二つの書物の下敷きとなったのは『日本紀(にほんき)』である。

 その『日本紀」とは、縄文時代からの先王朝=天(あめ)の王朝の歴史をすべて抹殺し、新羅天皇家が有史以来続いてきたとする、唐へ提出した報告文書である。六七六年に唐が朝鮮半島への進出を断念したことにより、日本をも支配下におさめた統一新羅が誕生し、新羅王は皇帝となる。そうして、日本総督として舎人親王を日本に派遣し、舎人親王を天皇として、新羅天皇家が有史以来続いてきたとする『日本紀』をつくったのである。その『日本紀』を、権力者となった百済王の道鏡や桓武天皇らがたびたび改竄して『日本書紀』をつくり、それに合わせて『古事記』もつくったのである。その『古事記』と『日本書紀』を、最高の史書として、いまも国民が教育されていることはいうまでもない。いまでも、多くの日本人が「万世一系の天皇」と信じ、「日本民族は単一民族」であると信じているのは、そのためである。

 秦始皇帝はバクトリア王ディオドトス、兵馬俑(へいばよう)はペルシア軍団

 鹿島はさらに、中国の神話に出てくる人頭蛇身の伏犠(うっき)は、バビロン神話の人頭魚身のオアンネスであり、中国の古典とされている司馬遷(前一四五~九六)の『史記』前九七年は、オリエント史を地名遷移して漢訳した「翻案偽史」であることを、克明な対比作業によって証明した。

 そして、漢民族は、股(シュメール人)→周(アッシリア人)→秦(バクトリア人)の文化遺産をそっくり棚ボタ式に受け継いだと主張している。その漢民族は、大きな恩恵を受けた殷人(シュメール人)を夷、すなわちエビスと呼び、その夷=エビス=殷人が日本列島にやってきて打ち建てたのが、東表国(とうびょうこく)であり、それこそが神武以前の先王朝である天の王朝であるというのだ。 このあたりのことについては、鹿島著の『倭と王朝』(新国民社、一九七八)に詳しく展開されていて、その先王朝が日本列島を支配していたという部分が、韓国と日本の双方でずいぶん大きな反響を呼んだ。

 鹿島の中国論においては、それ以外にもっと驚くべきことを、二つ指摘している。一つは、秦の始皇帝陵出土の兵馬俑は、中国人のものではなく、ペルシア軍団のものであったということである。この部分は、第六章に詳述した。二つ目は、秦の始皇帝(前二二一~一〇)そのものが、中国人ではなくバクトリア王ディオドトスであったということである。そればかりではない。そのことが明らかになることにより、さながら「神経衰弱」のカードが次々と開かれていくように、以下の事柄が明らかになっていった。

 孔了のモデル…………『旧約聖書』の預言者エリヤ

 儒学・:…………-・…・ユダヤ人ラビ(律法者)の「ジュウ学」

 『史記』・…・………:…・・オリエント史の借史

 その作者の司馬遷::: ユダヤ人。漢王によって宮刑(宦官)を与えられ、誕生したばかりの漢民族のための「偽史」づくりを強制された

 倭人::…………・:・…・秦の始皇帝に追われ、東北(満州)に移動して「北倭」となり、扶余族に率いられて九州に渡来。日本列島の先住民や「南倭」と混血し、近畿の秦王国とも合流して日本列島全体に拡散

 項羽:………:……・…・エウチデムス

 これらのことは、本書では第六章と第七章であつかった。以上のことが鮮明になったならば、部落差別というものが、いかに不合理で無意味なものであるかは、おのずから明らかである。そこで、最後の章=第八章で、あらためて差別の原点を見つめ直した。

 天皇の大権が制約された江戸時代と戦後、目本は繁栄した

 「日本は英米と同盟を結んでいるとき発展した」のはたしかだが:…・

 元駐タイ大使の岡崎久彦氏は、「日本はアングロサクソンと軍事同盟を結んでいるとき発展した」として、日英同盟を高く評価し、日米同盟の大切さを説いている。これは事実のみを見れば、たしかにそのとおりである。しかし、よく考えてみれば、それぞれの時代の覇権国と同盟を結んでいれば、その覇権国が覇権国であるかぎり、同盟国が発展するのは当然のことであり、そこには取り立てていうほどの法則性はない。しかも、覇権国というのは、時代によって変わる。アメリカの前はイギリスで、その前はスペインやオランダやポルトガルなどが跋扈(ばっこ)したわけだが、さらにその前にはサラセン帝国があり、匈奴(きょうど)(秦・漢代にモンゴル高原で活躍した遊牧騎馬民族)や突厥(とっけつ)(六世紀中頃からモンゴル高原・中央アジアを支配したトルコ系遊牧民族)やモンゴルなども、ユーラシア大陸で大きな覇権を確立していた。

 だから、覇権国が覇権国でなくなるときに、同盟国はどうするかという問題が依然として残っているわけであり、戦前の日本にしても、ドイツの電撃作戦を目の当たりにして、次の覇権国はドイツだと読んだからこそ、日独防共協定という名の日独軍事同盟を結んだのである。日本の真珠湾奇襲攻撃があと半年遅れていたならば、ヨーロッパ戦線の状況の変化が見えてきたはずであり、そうなれば果たして日米開戦に至ったかどうか。

 それに、日本がアングロサクソンと軍事同盟を結んで発展したのは、人類の長い歴史から見ればごく最近のことであり、アメリカが今後数千年にわたって世界の覇権国であり続けるとは考えにくい。「常に覇権国と同盟を結ぶ」というのであれば、いずれどこかの時点でアメリカを見限り、次の覇権国に乗り換えなければいけないわけだが、それはかなり難しい作業であろう。

 天皇の権カが制約されたときも、日本は繁栄している

 岡崎の「日本はアングロサクソンと軍事同盟を結んでいるとき発展した」によく対峙しうるのは、鹿島の「天皇の権力が制約されたとき、日本は繁栄した」という説である。日本において、天皇の権力が大きく制約されたのは、私たちがよく知っているここ数百年の歴史でいうと、江戸時代と戦後である。江戸時代は、徳川幕府によって天皇の大権が大幅に制約され、国は繁栄した。戦後は、米軍によって天皇の権力が制約され、日本はアメリカに継ぐ経済大国となりえた。天皇の大権の制約と日本の繁栄に、おそらく直接的な因果関係はないのだろうが、歴史的事実としては、そのようなことがあったということができる。また、天皇の大権が極度に発揮されたとき、日本はどうなったかという問題を立てると、ひどいことになったという解答を得ることになる。近現代の日本において、天皇の大権が極度に発揮され始めたのは、大東亜戦争開戦から終戦までであり、この時期、日本は最悪であったからである。

 第二章 明治維新で 北朝から南朝へ(p51~)
 徳川家茂、孝明天皇は、ともに毒殺か

 鹿島昇は柳井(やない)市を訪れ、田布施町麻郷(おごう)に大室近祐(おおむろ ちかすけ)氏を訪問した。鹿島は、『裏切られた三人の天皇――明治維新の謎』『明治維新の生賛――誰が孝明天皇を殺したか』(松重 正、宮崎 鉄雄 との共著)で、伊藤博文と岩倉具視(ともみ)が孝明天皇と幼い睦仁(むつひと)天皇を謀殺し、長州藩に匿(かくま)われていた南朝の末裔を明治天皇にすり替えたと主張したが、そのきっかけとなったのは、昭和六二年一〇月の山口県柳丼市訪問であった。

 日本神道・歴史研究の権威である吾郷(あごう)清彦氏の紹介で、柳井市を訪れた鹿島曻は、熊毛郡田布施町麻郷字大室に住む大室近祐氏(口絵与真参照)を訪問した。いまではすでに故人となった大室氏は、当時、地元では大室天皇と呼ばれていた。大室天皇は、南朝の崩壊とともに吉野の地を追われ、長州・麻郷に落ちのびた光良(みつなが)親王の子孫である。

 これはよく知られていることだが、南朝・後醍醐天皇の皇統は、次のように大きく二つに分かれている(54ぺ-ジの家系図も参照)。

 正系・・・・後村上天皇――長慶天皇――後亀山天皇――良泰(ながやす)親王

 傍系……・・尊良(たかなが)親王(東山天皇)一-守良(もりなが)親王(興国天皇)一興良(おきなが)親王(小松天皇)――正良(まさよし)親王(松良天皇)

 この傍系の正良(まさよし)天皇には、美良(よしなが)親王、光良(みつなが)親王という二人の息丁がいて、光良(みつなが)親王は弟のほうであった。兄の美良(よしなが)親王は、三浦佐久姫を妻として三浦藤太夫と名を変え、現在の愛知県豊川市に移り住んだ。そして、これが三浦天皇家となる。南朝正系の良泰(ながやす)親王のほうは、南朝の崩壊とともに関東に落ちのび、江戸時代まで水戸藩の庇護を受けた。これが熊沢天皇家である。つまり、南朝の皇統を継ぐべきものとしては、大室天皇家、三浦天皇家、熊沢天皇家の三つがあるということである。

 鹿島が訪ねたとき、大室近祐氏は、すでに八○歳を越えていたが、「私は南朝の流れを引く大室天皇家の末蕎であり、明治天皇は祖父の兄・大室寅之祐です」と、はっきりと語った。鹿島は、この最初の訪問のときはさすがに半信半疑のようであったが、一〇回におよぶ訪問を重ね、『皇道と麻郷」をはじめとする大量の文書を見せられることにより、しだいにこの事実を確信するようになっていった。

 山岡荘八は徳川家茂毒殺説を、ねずまさしも孝明天皇毒殺説を

 第二次長州征伐直後の慶応二年(一ハ六六)七月二〇日、第一四代将軍・徳川家茂(いえおち)がわずか二〇歳で急死し、その五ヶ月後の一二月二五日に、今度は孝明天皇が三六歳で急逝した。この二つの死は、ともに不可解なものである。徳川家茂については、山岡荘八は毒殺説をとっている(「明治百年と日本人」『月刊ひろば』昭和四三年一一月号)。孝明天皇についても、当時からその死については黒い噂が流れていて、平凡社の『大百科事典』などにも、孝明天皇は「疱瘡(ほうそう)を病み逝去。病状が回復しつつあったときの急死のため毒殺の可能性が高い」(羽賀祥二・著)と書かれている。孝明天皇・毒殺説の最もポピュラーな論文は、歴史家・ねずまさしの『孝明天皇は病死か毒殺か』(『歴史学研究』一七三号所収)である。

 さらに、当時の歴史状況を振り返ることにより、次のようなことがいえる。孝明天皇は、徳川家茂を信任していて、思想的には、幕府の政策を是認し、これを助ける佐幕派であり、公武合体を志向していた。それに対し、薩長土肥(薩摩・長州・上佐・肥前)の志士たちは、徳川幕府を倒す倒幕を目指し、外交政策は開国であった。薩摩藩は薩英戦争によって、長州藩は四国連合艦隊による下関事件(後述)によって、英・仏・蘭の軍事力のすごさをよく知っていて、戦っても勝ち目のないことはわかっていた。それにもかかわらず、孝明天皇が「佐幕・公武合体・攘夷」を命じるのならば、それは薩長土肥のみならず日本そのものを危うくするものであった。

 この間の複雑な国内状況が、幕末政治史上最大の内政外交問題である「条約勅許問題」(一八五七―六七年)を引き起こす。一八五四年、幕府は日米和親条約締結に際して、アメリカ国書を朝廷に奏聞(そうもん)(事情などを申し上げること)したが、調印については事後報告を行うにとどまった。その後に、日米修好通商条約をも調印せざるをえなくなり、このときは国内の反対派を押さえるために、幕吏を上洛(京都へ上ること)させて勅許を得ようとしたのだが、朝廷はこれを拒否した。そのため、外交責任者の老中・堀田正睦(まさよし)みずからが上洛し、国際情勢の変化を説いたが、それでもなお朝廷は拒否の姿勢を貫いたので、この条約調印をめぐって国内世論はまっぷたつに分かれ、大変な状況となった。その状況をさらに危険なものにしたのが、大老・井伊直弼による勅許を得ないままの調印断行であった。勅調印により、尊王と攘夷が結びついた

 この時期、天保改革以後台頭した西南雄藩(せいなんゆうはん)(薩長土肥)は天皇との結びつきを深めていたが、幕府も体制の立て直しをめざして天皇の権威との結びつきを深めようとしていた。いわゆる「玉(ぎょく)をにぎる」(天皇を手に入れる)ための暗闘が、幕末の水面下で激しく繰り広げられていたのだ。そんななかで、井伊大老が違勅調印(天子の命令に背いて調印すること)を断行したため、西南雄藩はこの違勅調印に対して、はっきりと尊王を打ち出した。さらに、違勅調印による開国政策に対しても、はっきりと撰夷を打ち出した。そのことにより、ほんらい儒教的名分論(名称と実質の一致を求めて社会秩序を確立しようとする儒教の思想)であった尊王論が、攘夷主義と結びつき、尊王攘夷運動が奔流することとなった。

 幕府は、この尊王撰夷運動に対して、吉田松陰・頼三樹三郎(らいみ きさぶろう)・橋本左内(さない)ら多数の志士を投獄・処刑する安政の大獄などの強硬策でもって応じ、孝明天皇はそのことへの抗議として譲位の意を示し、朝幕の対立は頂点に達し、幕末の政局はいっきょに流動化した。

 この井伊大老による違勅調印は、一八五八年の桜田門外の変によって、一つの結末を迎える。一八六〇年の雪の朝、水戸浪士ら一八名が桜田門外で、「尊王攘夷(そんのうじょうい)は正義の明道(めいどう)なり、天下万民をして富岳(ふがく)の安(やす)きに処(しょ)せしめ給わん事を願(ねが)うのみ。いささか殉国報恩(じゅんこくほうおん)の微忠(びちゅう)(忠義な心)を表(あらわ)し、伏(ふ)して天地神明の(御(ご))照覧(しょうらん)を仰(あお)ぎ奉(たてまつ)り候(そうろう)なり」と言って、井伊直弼を暗殺したのである。

 維新前夜、北朝から南朝へと、明治天皇がすり替わった?

 皇妹・和宮と将軍・徳川家茂の婚姻により、孝明天皇はごく近い親戚に公武合体を方針とする幕府は、将来の攘夷の実行を約束して、皇妹・和宮と将軍・徳川家茂との婚姻を、孝明天皇に要請した。その要請を受けた孝明天皇は、周囲の反対を押してこれに同意し、その結果、孝明天皇と将軍・徳川家茂は、ごく近い親戚となった。そのうえ、孝明天皇(北朝系)は、中川宮や京都守護職・松平容保(かたもり)と結んで、尊皇撰夷派を京都から追放した。孝明天皇は攘夷派であり、天皇なのだから孝明天皇にとって尊皇が悪いはずはないのだが、一方でアンチ尊皇撰夷派であり、反西南雄藩・反薩長派だったのである。

 さらに幕府は、長州藩の攘夷即行の藩是、七卿西走(尊攘派と提携していた七人の公卿が厳罰を受け、西走した事件)の擁護、蛤御門の変(長州藩が京都に出兵し、京都守護職・松平容保率いる諸藩の兵と宮門付近で戦った事件)などを怒り、一八六四年に第一次長州藩征伐を行った。このときちょうどイギリス、アメリカ、フランス、オランダの連合艦隊が下関を来襲したので、長州藩は敗北して恭順の意を表し、主謀者を処刑して謝罪した(だが、長州藩で匿っていた三条実美らの五卿を幕府側へ引き渡すという約束は実行しなかった)。

 この長州藩俗論党の弱腰に対し、高杉晋作らの藩内強硬派は、一八六四年未から翌六五年にかけて馬関(下関)で決起し、藩の主導権を奪い、奇兵隊以下諸隊軍事力を背景に、藩論を幕府との軍事対決の方向に定めた(一八六五年三月)。これを見た幕府は、六五年九月に孝明天皇の勅許を得て、第二次長州征伐を敢行しようとしたが、朝廷および諸藩には再征反対の空気が強く、薩摩藩は出兵を拒否した。

 第二次長州征伐敗北直後、一四代将軍・徳川家茂は大坂城で急逝

 この時期の薩摩藩の動きは、実に興味深い。薩摩藩が第二次長州征伐への出兵を拒否したのは、六五年九月のことであり、その一〇ヶ月前の六四年七月には、蛤御門の変が起きている。その蛤御門の変では、薩摩藩は幕府側であった。ところが、いざ蛤御門の変が終わると、京を支配したのは一橋家の徳川慶喜、会津藩主・松平容保(かたもり)、桑名藩主・松平定敬(ああたか)の三者であり、薩摩藩にはこれといった論功行賞がなかった。そのため、薩摩藩は蛤御門の変以降、公武合体派から距離を置くようになり、勝海舟あたりから、徳川幕府には将来はないというような話を聞くことになる。

 そのようなこともあって、六五年九月に、第二次長州征伐への出兵を拒否するわけだが、その四ヶ月後には、薩長同盟を結ぶに至っていな。まさに昨日の敵は今日の友といった感じなのだが、このとき薩摩藩の西郷隆盛を口説き落としたのは、桂小五郎(=木戸孝允)であった。

 「わが長州としては、南朝の御正系をおし立てて王政復古をしたいのだ」と、西郷を口説いたのである。これを聞いた西郷は、自身が南朝の大忠臣・菊池家の子孫だったため、「ようごわす」と、南朝革命に賛同し、薩長軍事同盟を締結し、薩長は尊皇倒幕にまとまったのである。そこに、第二次長州征伐の幕府軍がやってきて、薩摩藩がいることに驚き、密輸入によって手に入れたおびただしい数の近代兵器に目を見張るのである。さらに、大坂や江戸における打ちこわしや百姓一揆が、後門の虎となり、あとは敗走あるのみといった状況となった。まさにそのとき、実にタイムリーに一四代将軍・徳川家茂が大坂城で急逝したのである(これほどまでに時宜を得た急逝はないことも、毒殺説を裏付けることになる)。

 将軍が死んだのだからと、六六年八月に、休戦を孝明天皇に申し入れ、九月二日に長州藩と休戦協定を結ぶのだが、その三ヶ月後の二一月に、今度は孝明天皇が急逝してしまった。そこで、休戦から解兵へと方針を変更して朝廷の沙汰書を得、天下に布告した。すなわち第二次長州征伐に幕府は失敗したことを、明らかにしたわけである。このことによって、幕府の権威失墜は決定的となり、以後、幕府支配の崩壊は時間の問題となった。

 孝明天皇は徳川家茂、会津藩主を信任する頑(かたくな)な懐夷主義者であった

 一方、難なく下関に入った四国連合艦隊は、さらに大坂湾へと入り、条約勅許と兵庫開港を要求した孝明天皇はこの期に及んでもまだ首をたてにふらなかった。孝明天皇は、それほどまでに頑(かたくな)な攘夷主義者であったのだ。しかも、将軍・徳川家茂を信任するのみならず、京都市中の治安維持の総責任者・京都守護職に会津藩主の松平容保を任命していた。

 それらのことを、明治天皇と対比して整理すると、次のようになる。

 孝明天皇・…-幕府を助ける佐幕派、公武合体、攘夷、会津藩主を信任

 明治天皇・…:幕府を倒した倒幕派、反公武合体、開国、会津藩は朝敵

 一八六六年の六月に徳川家茂が死去し、同年一二月に孝明天皇が死去する。

 一八六七年一月九日、睦仁(むつひと)親王が践祚(せんそ)(天皇の位を受け継ぐことで、即位との区別はない)し、明治天皇睦仁(みつひと)となる(なお、明治天皇の即位の礼は一八六八年八月二七日に行われ、同年九月八日には明治と改元され、一世一元の制度がここに確立されることになる)。だからといって、すぐに大きな変化はなかったのだが、一八六七年五月になると、兵庫開港の勅許が出され、日本は攘夷から開国へと、ようやく大きな一歩を踏み出した。鹿島の説によると、ちょうどそのころ、大室寅之祐は西郷隆盛とともに上洛している。

 孝明天皇から明治天皇へと路線が一八○度展開し、明治維新が成立している

 やがて、一〇月になると薩長両藩に倒幕の密勅が下るのだが、不思議なことに、最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷に大政奉還を上奏したのは、この倒幕の密勅が下った直後のことであった(一〇月一四日)。その大政奉還を受けて、一二月に王政復古の大号令が発せられるのだが、その最初の場所は、なんと大室寅之祐の生家のすぐそばの高松八幡宮であった(ここに、三条実美(さねとみ))も同席している)。

 そしてその翌月、すなわち一八六八(慶応四=明治元)年一月、鳥羽・伏見で、幕府軍二万と薩長軍四千が戦うが、錦の御旗を前に幕府軍は戦意を喪失して敗走。それが二二日であり、その二日後の一五日に、鹿島説によれば大室寅之祐が明治天皇として、正式に京都御所に迎え入れられたということになっている。

 睦仁(むつひと)親王が即位をして新天皇となったのは、一八六七年一月九日である。ところがいつの間にか人物がすり替わり、そのちょうど一年後の一八六八年一月一五日に、長州藩が匿っていた南朝末蕎の大室寅之祐が、明治天皇となったというのである。 そして、この一年のあいだに、孝明天皇路線(幕府を助ける佐幕派、公武合体、撰夷・会津藩主を信任)から、明治天皇路線(幕府を倒した倒幕派、反公武合体、開国、会津藩は朝敵)へと政策を一八○度展開し、明治維新が成立しているというのである。

 睦仁親王と明治天皇は、似ていない

 明治天皇のすり替えについては、一八○度の政策展開という「状況証拠」のほかに、「物的証拠」にあたるものもある。まずは、「あばた」である。睦仁親王は、種痘を受けていて天然痘には罹っていなかったので、あばたはない。ところが明治天皇(大室寅之祐)は二歳のときに天然痘に罹り、口の周りに「あばた」が残った。立派な口髭は、そのあばたを隠すためのものであり、写真に撮られるのを嫌った。「御真影」が肖像画であるのは、そのためである。

 第二に、禁門の変のとき、二二歳であった睦仁親王は、砲声と女官たちの悲鳴を聞いて失神したとあり、ひ弱な虚弱体質であった。明治天皇(大室寅之祐)は、二四貫(約九〇キロ)の巨漢で、側近と相撲をとっては投げ飛ばしていた。

 第三に、即位前の睦仁親王に乗馬の記録はない。馬に乗れなかったようである。ところが明治天皇(大室寅之祐)は威風堂々、馬上から閲兵し、大号令をかけている。

 第四に、睦仁親王は右利きだが、明治天皇(大室寅之祐)は左利きである。当時、左利きは嫌がられていたため、天皇が左利きというのは、いかにもヘンである。しかし、長州藩に匿われていた南朝の末商ならば、それはありうる。

 孝明天皇は、岩倉具視が毒殺したのか?

 八八卿列参事件により、岩倉具視は辞官落飾のやむなきに至る岩倉具視は、一八二五年(文政八)に、権中納言・堀川康親(やうちか)の次男として生まれ、岩倉具慶(ともやす)の養子となっている。一八三八年に、従五位下で侍従として出仕し、一八六一年には正四位下となり、右近衛権少将(うこのえごんしょう)を経て、左近衛権中将となる。

 鹿島説では、岩倉具視は幼い日に孝明天皇を女形にして男色遊びをしていたということになっているが、たしかに岩倉は関白・鷹司(たかつかさ)政通に認められて、孝明天皇の侍従となっているのだから、これはありうることである。さらに、鹿島説では、孝明天皇が男色遊びに飽きて女性を求めたため、その心変わりを憎んで、岩倉具視も暗殺の謀議に加わったということだが、これもありうることである(この点については、後に別の角度からも検証する)。

 さて、一八五八年(安政五)、日米修好通商条約への調印をめぐって、国内がまっぷたつに割れたとき、岩倉具視は同志の廷臣八八卿の参列に加わって勅許案改訂を建言し、関白・九条尚忠の幕府委任案を一転させた。この列参事件以降、岩倉具視は難局打開と攘夷の実行を公武合体策に求め、万延元年(一.八六〇)には一時中座していた皇女・和宮の将軍・家茂への降嫁(こうか)を、江戸下向にも同行して積極的に推し進め、朝廷の有力者としての地位を固めた。それらのことにより、岩倉具視は、久我建通(たてみち)、千種有文(ちぐさ ありふみ)、富小路敬直らとともに、〈四奸(かん)〉の一人として、尊王攘夷過激派に命を狙われ始めた。そのため、朝廷としても家族ともども洛中から追放せざるをえなくなり、岩倉具視はついに辞官落飾(官を辞し、貴人が髪をそりおとして出家すること)のやむなきに至った。剃髪し出家した岩倉具視は、友山と称して、霊源寺、西芳寺、岩倉村と居所を転々として逃げ回ったが、めまぐるしい情勢を意識してか、玉松操、大久保利通など多数の志士たちとの接触を欠かすことがなかった。

 重要な貴人の暗殺は、東洋ではごく普通のことである

 尊皇攘夷派が台頭し、岩倉具視の命が狙われ始めたのは、一八六二年(文久二)。その四年後の一八六六年(慶応二)に孝明天皇が急死すると、岩倉具視は明治天皇により勅勘(ちょっかん)(天子のとがめ。勅命による勘当。宥免(ゆうめん)の勅許があるまで、閉門・蟄居(ちっきょ)して謹慎するのが通例であった)が許され、王政復古クーデターで参与となり、明治新政府において、副総裁、大納言、右大臣と、たちどころに権力の中枢に位置するようになっていった。

 孝明天皇が急死するまでは、髪をおろして家族ともども逃げ回っていたのが、明治天皇に代わるやいなや、急激に異例の出世をしているのである。そのため、当時から岩倉具視には、孝明天皇毒殺の疑いがかけられており、いまでも歴史関係などの本に「孝明天皇には毒殺説があり、岩倉に嫌疑がかけられた」と書かれていたりする。

 孝明天皇の急死によって、岩倉具視の境遇が激変したのは事実である。さらに岩倉具視は、明治新政府の中枢に納まるやいなや、明治六年の政変、士族反乱、対朝鮮・台湾問題、〈漸次国家立憲ノ政体〉樹立の詔勅、太政官・大書記官・井上毅を駆使しての明治憲法の基本構想づくり、明治一四年の政変と、クーデターや政変には推進者ないしは協力者として、必ず顔を出すようになる。

 彼が権謀術数の政治家であったことには異論の余地はなく、孝明天皇を毒殺していたとしても、驚くにはあたらない。「保守的な帝によって、おそらく戦争になるだろうということは予期されるはずであった。重要な貴人の死を毒殺に帰するということは、東洋の国々ではごく普通のことである」とは、英国公使パークスの通訳官であったアーネスト・サトウの言葉である(『日本における外交官」)。

 伊藤博文とは、何者だったのか

 伊藤博文は、二二歳までは士分ではなく、数多くの違法事件に関与していた。伊藤博文は、一八四一年(天保一二)九月二日、周防(すおう)国(今の山口県南部・東部)熊毛郡に生まれ、家が貧しかったために、一二歳ごろすでに若党(わかとう)奉公(武士の従者。戦闘に参加するが馬に乗る資格のない軽輩)に出ている。

 一四歳になると、親子で足軽・伊藤直右衛門の養子となり、その俊輔(博文)の人物を見込んだ藩士・来原良蔵(くりはら りょうぞう)(桂小五郎の義弟。相模湾警護隊勤務)に鍛えられて一人前の下忍(忍者)となった。そのため一六歳のときに松下村塾に入って吉田松陰の教えを受けると、たまたま大室天皇家と俊輔の郷里が近かった縁で中忍(佐官級情報局員)松陰から「玉(ぎょく)」大室寅之祐の傳役(もりやく)を命ぜられた。そしてこれが彼のライフワークとなったのである。一八五八年(安政五)に、俊輔は山縣(やまがた)小助(有朋)らと京に入っている。

 この京入りは吉田松陰の策により、長州藩が行った諜報活動であった。大老・井伊直弼が、徳川斉昭、慶篤(よしあつ)、松平慶永(よしなが)などを処分して、オランダ、ロシア、イギリスと修好条約を結んだ直後に、朝廷と京の情勢を探ったわけである。諜報活動にあたったのは、足軽と奴(やっこ)から選んだ六人(の忍者.テロリスト)であり、その中に伊藤博文と山縣有朋が入っていたということである。伊藤博文は、この京における諜報活動のあと、長崎で洋式銃陣法を伝習している。

 一八五九年(安政六)になると、桂小五郎(木戸孝允)とともに江戸へ行き、一〇月二七日に吉田松陰が刑死すると、その遺骸を同志とともに江戸の小塚原回向院(こづかっぱらえこういん)に埋葬している。

 一八六二年(文久二)七月、久坂玄瑞(くさかげんすい)らと諮って長州藩重臣・長井雅楽(うた)の襲撃を計画するが失敗し、一二月には高杉晋作らと英国公使館を焼き討ちし、山尾庸三(ようぞう)とともに、国学者・塙(あなわ)次郎を斬殺している。

 井上聞多(もんた)(井上馨)、野村弥吉、遠藤謹助、山尾庸三らと英国へ密留学をしたのは、その翌年の一八六三年(文久三)であり、士分にとりたてられたのは、この年のことである。英国密留学もそこそこに、翌年には帰国して、外国艦隊との講和に奔走し、この年の年末には、長州の力士隊を率いて高杉晋作の挙兵に従っている。以上が、一八六六年(慶応二)に孝明天皇が急死する以前の伊藤博文の行動である。ざっと見て感じるのは、違法事件への関与の多さである。

 伊藤が士分にとりたてられたのは、一八六三年だから、二二歳のときである。つまり、二二歳までは士分ではなく、斬殺を含む違法事件に数多く関与していたということである。そんななかで、いい意味で目立つのは、松下村塾に入って吉田松陰の教えを受けたことだが、この松下村塾が、鹿島説ではたんなる私塾ではなく、大変な問題を含んでいたのである。

 次に、鹿島説における「松下村塾とは何か」と「吉田松陰の三つの理念」を見てみよう。そのうえで、伊藤博文は孝明天皇暗殺にどう関わったかに触れたい。

 吉田松陰の松下村塾とは、どういうところであったか

 松下村熟の塾長であった吉田松陰は、一八三〇年(天保元)に、長州藩士・杉百合之助の次男として萩郊外の松本村に生まれている。幼いころに、山鹿(やまが)流兵学師範・吉田大助の養子となり、叔父の玉木文之進らの教育を受け、一一歳で藩主に『武教全書』を講じて早熟の秀才であることを認められた。

 一八五一年に江戸に出て、西洋兵学を学ぶ必要性を痛感し、兵学者の佐久間象山(しょうざん)に入門したが、勉強は進まなかった。同年末、許可なく藩邸を辞し、翌年にかけて水戸から東北、北陸と遊歴したため、士籍永奪の処分を受けたが、その代わりに一〇年間の諸国遊学の許可をもらった。

 五三年のペリー来航に際しては、浦賀に出かけて黒船を目の当たりにし、佐久間象山に勧められて海外の状況を実地に見極める決心を固め、長崎でプチャーチン(ロシア提督)の軍艦に乗ろうとしたが果たせず、翌五四年(安政一)に、下田に来航していたアメリカ艦に漕ぎ着けたが、密航を拒否されて、岸に送り返された。

 松陰は、江戸の獄に入れられたのち、長州藩に引き渡され、在所に蟄居(ちっきょ)させるとの判決を受けたが、身柄を引き取った長州藩は、萩の野山獄(のやまごく)に投じた。幕府に気をつかい、慎重にことを運んだのである。

 在獄一年余で、生家の杉家に預けられることになるが、他人との接触は禁じられた。そんななかで、近隣の子弟が来たりして、幽室が塾と化した。松下村塾は、もともと長州藩士・玉木文之進が始めたものであり、それを外叔の久保五郎左衛門が受け継いだのだが、この時期に、その門弟で松陰のもとに来るものが増えたため、いつしか松陰が松下村塾の主宰者と見なされるようになった。

 評判が高まるにつれて、萩の城下から通うものも現れた。久坂玄瑞と高杉晋作がその代表で、松下村塾の双壁と目され、久坂は松陰の妹と結婚した。

 松陰の講義は時勢を忌憚(きたん)なく論じるところに特徴があり、彼の膝下(しっか)から益田親施(ちかのぶ)(右衛門介・須佐領主。俗論党により切腹)、桂小五郎(木戸孝允)、吉田稔麿(としまろ)(池田屋にて討ち死に)、伊藤博文、山縣有朋、前原一誠(いっせい)(萩の乱を起こし斬罪)などが出ている。

 安政の大獄を強行した幕府は、松陰へも疑惑を持ち、江戸伝馬(でんま)町の獄に投じたのち、一八五九年一〇月、死刑に処した。

 鹿島が整理した吉田松陰の三つの理念

 一、長州藩が匿ってきた大室天皇による南朝革命論

 鹿島説では、その吉田松陰の理念は、おおよそ次の三点であるとしている。まず第一に、南朝革命論である。吉田松陰も水戸学の藤田東湖(とうこ)も、尊皇攘夷を主張したが、この場合の尊皇とは、南朝正系論に立った尊皇攘夷である。南朝が正系であるにもかかわらず、孝明天皇のような北朝の天皇が天皇の座にあるのはおかしい。偽朝である京都北朝の天皇を廃して、正系たる南朝の天皇を再興しなければならない。…そのように主張し、尊皇すなわち南朝革命論を打ち立てたのである。

 ただし、同じ南朝革命論としての尊皇攘夷ではあるが、吉田松陰と藤田東湖では、その内容が異なる。吉田松陰が再興すべしとしている南朝は、長州が匿ってきた大室天皇家である。吉田松陰は、自身が「玉」(天皇)を握っていたからこそ、南朝革命論を打ち立てたのである。それに対して、藤田東湖が再興すべしとした南朝は、当然のことながら熊沢天皇家であった。熊沢天皇家は、歴代にわたって水戸藩が匿ってきた天皇家であり、藤田東湖および水戸藩は、みずからが握る「玉」を担いで南朝革命を成立させようとしたのである。

 攘夷についても、注意を要する点がある。鹿島によると、藤田東湖の主人であった徳川斉昭は、松平慶永にあてた手紙のなかで「攘夷なんかできっこない。自分は老齢だから、一生攘夷と言って死ぬが、貴殿はそこのところをよく考えてほしい」と述べている。

 藩主・徳川光圀(みつくに)の『大日本史』編纂に端を発した水戸学は、国学・史学・神道を基幹とした国家意識を特色とするが、それらが鮮明となり特色ある学風を形成したのは寛政(一七八九‐ 一八〇一)年間以降である。幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えたのも、この寛政以降の水戸学であり、この時点での攘夷は、多分に家康の鎖国政策を擁護するためのものであった。だから、たしかに徳川斉昭のように、それが不可能であることを知っていながら、立場上、攘夷を主張していた者がいたということは、大いにありうることである。そのことがわからずに、攘夷原理主義的に行動したのが蛤御門の変であり、水戸藩の攘夷原理主義集団・天狗党なのであった。

 二、徹底した民族主義と侵略思想

 吉田松陰の三つの理念の第二は、民族主義である。鹿島曻は、この松陰の民族主義を「徹底した民族主義と侵略思想である」としている。そして、次のような松陰の言葉を引いている。「富国強兵し、蝦夷(北海道)をたがやし満州を奪い、朝鮮に来り、南地(台湾)を併せ、然るのち米(アメリカ)を拉き(くだき)(両手で持って折り)欧(ヨーロッパ)を折らば事克たざるにはなからん」。これは明治以降、途中までは実現できたことである。明治新政府は富国強兵に励み、蝦夷地を耕し、満州国を建てて実質的には支配し、朝鮮と台湾を併合した。

 松陰は、その後アメリカを両手で持って折るべしとしたのだが、それはうまくいかなかった。満州を奪い、台湾と朝鮮とを併合したあと、日中戦争を行い、首都南京を攻略するも、蒋介石は首都を放り投げて逃げてしまい、戦争のゴールというものがなくなり、泥沼化してしまったからである。

 日本は、そのような状態で大東亜戦争に突き進むことにより、腹背に敵を受ける二正面作戦となってしまった。日中戦争を行わず、あるいは適当なところで和平に持ち込み、国力を蓄えた上で、米を拉いていたならば、アメリカ本土はともかく、太平洋がある程度のところまで日本の海になっていた可能性は、なくはない。そこまでいったならば、ヨーロッパともある程度の戦いはできただろうし、外交的に緊張関係を乗り切ったり、緩和したりすることも可能であったかもしれない。

 戦後のいまの常識に照らせば、侵略は悪いことであるが、松陰の生きた時代は、欧米列強が世界支配を完成せんとする帝国主義の時代であった。この時代の帝国主義者は、それぞれの国では、領土を拡大し国に富をもたらす英雄であった。

 松陰がもっと長生きをし、明治維新の成立を見、日清・日露戦争の勝利、満州国の建国、台湾と朝鮮の併合を見たならば、その後の国策や外交方針は大きく変わっていたにちがいない。

 日本は欧米列強の世界支配を、最後のところで食い止めたわけであり、それができたのは日本に欧米列強と戦い、アジアを侵略せんとする思想と力があったからである。鹿島説は、侵略はすべて悪としているが、一方でアジアの大国であるインドや中国までもが実質的に欧米の植民地にされてしまうなかで、幕末から明治・大正・昭和初期まで、日本が独立を保つことができたのは、松陰の「徹底した民族主義と侵略思想」が、明治の元勲のなかに生きていたからだという点は否めないとしている。

 日本は、大東亜戦争に敗れて七年近くもアメリカ軍を中心とする連合国軍に軍事占領されることになるが、このときには松陰の「徹底した民族主義と侵略思想」が心のなかに生きていた明治の元勲は、一人も生き残っていなかった。松陰の「徹底した民族主義と侵略思想」が日本のなかから潰(つい)え去ったとき、ことの善し悪しは別にして、日本の軍事力も潰え去っていたのである。

 三、部落の解放(これを全アジアに広めようとしたのが大東亜共栄圏)

 吉田松陰の三つの理念の第三は、第二の民族主義と矛盾するようだが、「解放」という理念である。この点に関しては、「長州藩の奇兵隊は、部落解放の夢に燃える若者が中核をなしていた」という私(松重)の研究が基礎となっている。奇兵隊のなかでも、とくに注目すべきは力士隊である。伊藤博文は、実はこの力士隊の隊長だったのである。この時代の力士というのは弾体制(いわゆる同和)に従属していて、部落と密接に関係しているか、あるいは部落そのものであった。さらに、力士隊のあった第二奇兵隊の屯所(とんしょ)は、麻郷(おごう)近くの石城(いわき)山にあった。麻郷はいうまでもなく大室天皇家のあった場所であり、明治天皇となる大室寅之祐が明治維新の前年まで過ごした地である。

 つまり、麻郷を共通項として、力士隊と伊藤博文と大室寅之祐(明治天皇)は、つながるのである。そればかりではない。大室寅之祐(明治天皇)は、大の相撲好きだったが、それもそのはずで、力士隊長・伊藤博文や力士隊のメンバーらと、よく相撲をとっていたのである。

 『中山忠能日記』に「明治天皇は奇兵隊の天皇」と述べた箇所がある。これまで、それは「薩長連合によって生まれた天皇」というように解釈されることが多かった。明治天皇と奇兵隊に直接の関係があるなどとは、想像だにできなかったからである。しかし、明治天皇すなわち大室寅之祐は、奇兵隊と直接関わっていたわけであり、この記述は文字どおり「奇兵隊の天皇」という意味なのである。

 尊皇攘夷の真の意味は、南朝革命であることはすでに述べたが、吉田松陰にとっては、それはすなわち「奇兵隊の天皇」を再興することにほかならず、それは部落を解放することをも意味した。そして、明治維新によってこれらのことは実現されたのである。

 さらに、この「解放」を全アジアに広めようとしたのが大東亜共栄圏であり、その精神が八紘一宇なのである。八紘一宇は、次の三つを特徴とする。

 1、 日本は神国であり、皇祖・天照大神(ああてらすおおみかみ)の神勅を奉じ、「三種の神器」を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきた(天皇の神性とその統治の正当性、永遠性の主張)

 2、 日本国民は古来より忠孝の美徳をもって天皇に仕え、国運の発展に努めてきた

 3、 こうした国柄の精華は、日本だけにとどめておくのではなく、全世界にあまねく及ぼされなければならない

 前段の二つは真っ赤な嘘である。しかしながら、結論の部分はアジアの「解放」、被抑圧民族の解放につながる思想である。

 孝明天皇は、伊藤博文が刺殺したのか?

 幕末に、暗殺の実行部隊に忍者が選ばれるのは自然なことであった戦国時代は血統を重んじる源平武士団が敗北して、賎民が天下を奪った時代であった。秀吉は「はちや」部族の出身であったが、長じて「軒猿(のきざる)」といわれる下忍(下級忍者で、実戦部隊)となった。秀吉は大返し(本能寺の変を知った秀吉が備中から姫路城まで大急ぎで戻った一件)によって明智光秀を討ち、さらに引き上げると見せかけて、柴田勝家を奇襲攻撃して破って、ついに天下をとるが、この二つの戦の兵法は、ともに忍者戦法であった。

 はちや部族のルーツは、月山(がっさん)の山麓にすむ蜂屋(はちや)賀麻党(兵役もつとめる芸人集団)であり、文明一八年(一四八六)、尼丁経久(あまこつねふさ)が七〇名ほどの賀麻党の者を万歳師(ばんざいし)(新年を言祝(ことほ)ぐ祝福芸人)として富田月山城に繰り込ませ、裏口から放火して城主を討ち取ったという史実があるから、はちやという人々が、賎民といっても万歳師でもあり忍者であったことがわかる。

 毛利藩も乱破(らっぱ)の術(情報収集や破壊工作)を得意としたが、これも忍者戦法である。当時の山陰山陽地方は、はちや系の忍者がいっぱいいたと見るほうが自然であり、毛利元就の好敵手であった尼子(あまこ)藩もまた忍者の軍団を中核としていた。

 このような忍者によって、長州藩では邪魔になった者はたとえ権力のトップにあっても、毒殺できる技術が、江戸時代にはほぼ完成していた。一八三六年(天保七)、斉煕(なりひろ)、斉元、斉広(なりこう)と、三人の藩主が相継いで変死しているが、これらはおそらく毒殺であったろう。

 こういう藩の藩主になったならば、実力者に対して、うっかり逆らえば、すぐさま毒殺されかねない。だから、長州藩主は「そうせい候」(何を言っても「そうせい」と返事をするので、こう呼ばれた)という態度をとるようになったのである。

 こうした忍者の伝統は幕末まで連綿として続いていた。薩長の密約によって、将軍家茂と孝明天皇を暗殺する際、実行部隊として長州の忍者部隊が選ばれたのは、むしろ自然な流れというべきである。

 伊藤の刀剣趣味と忍者刀(『明治維新の生賛』より抜粋)

 伊藤俊輔は、明治の世に伊藤博文と名乗るようになって、趣味としての書画骨董(しょがこっとう)などには深入りしなかったが、刀剣類の鑑識眼は相当なものであったらしい。晩年には名刀も数十本所有し、そのなかには国宝級のものもあって暇なときには夜半電灯に照らし、刀剣のにゅう匂(こう)などを点検するのが道楽であったという。

 梅子夫人は維新のころ、萩城下に同伴したとき、俊輔が夜間外出する際には曲がり角などでいつ刺客に襲われるかもしれないと、用心のため抜き身の刀を後手(うしろで)に持って同行したという。そのため、夜中の室内で電灯の光に反射する抜き身の刀を見るたびにそのことを思い出して、「嫌でたまらなかった」と娘の生子に語っている。

 そのためかどうか、維新のころ愛用していたという「忍者刀」が俊輔夫妻の手許を離れ、本家の林家の係累に預けられたまま伝承されているのをこのたび確認した。平成九年(一九九七)九月二日、博文の遺品や直筆の手紙などを集めた「伊藤公資料館」が、山口県熊毛郡大和町束荷(やまとちょうつかり)の伊藤公記念公園内にオープンした。同町が公の生誕一五〇年記念事業の一つとして新築整備したものであるが、あらかじめ公の遺族、親族のほか一般へも広く呼びかけて資料の収集に努めた。

 林家の妻ヤスの孫娘・静子(祐美子)の夫・村上靖男君も、それを機会に義父の遺品を調べることにして、蔵の中の遺物箱を開けてみると、その底に一本の刀があった。この刀は未登録であったので、早速平生警察署を通じて県に連絡したところ、文化庁の係官が来て鑑定してくれることになった。

 平成七年(一九九五)二月、県庁の一室に持参して、まず刀の銘を見ようとして柄(え)を抜いてみると、普通の刀の根元を切って短くつくり直しているために銘の部分が消えていた。刀身の長さは普通の刀と脇差の中間ぐらいになっており、室内や樹林の中などでも自由に使えるように工夫されていた。

 そのとき、刀身をじっと見ていた文化庁所属の鑑定人が、「この刀は人を斬った刀で、刀全体に脂がべっとりとついていますね」という。脂には塩気があるから、人を斬ったあと拭わずに鞘に納めると中が汚れる。そのまま一〇日も放っておくと刀に錆が出て、次の斬り合いのとき折れることもあるという。

 だから、人を斬ったあとには必ず鹿のなめし革で刀を磨くようにして拭わねばならない。鹿革は五回も使うと汚れてしまうので、心得のある武士は常に三枚の鹿革を懐中にしていたといわれている。俊輔もそのことは十分に知っていて、この刀も鹿革でよく拭ったのち鞘に収めていたようで、鞘から出すときはすんなり抜けた。

 しかし、長年の間にジワリと脂が浮き出して刀身全体がどす黒くなり、所々に泡のような錆状のものが付着している。この刀はそれほど多くの人の血を吸っているもので、やはり維新動乱の時代に幾度となく使いこなされた「忍者刀」に違いない。調べてみれば孝明天皇の血痕も出てくるかもしれないのである(口絵写真参照)。

 昔から人を斬ったあとには、無性に女性を抱きたくなるものだというから、博文が無類の女性好きになったのは暗殺専門の志士として麻薬患者のような殺人常習者と化していたからであろう。

 さて―――

 一、この刀は明治のはじめ、林惣左衛門のところへやって来た俊輔が、「すまんがこれを預かっておいてくれ」と言って渡したままになっていたもので、爾来門外不出の家宝として、林惣左衛門→次郎(その次男)→ヤス(次郎の妻)→芳雄(次郎とヤスの子・武田芳雄)→静子(芳雄の末娘・村上祐美子)と伝承され、保管されてきたものであった。村上君は、「人を斬った刀とわかれば気味が悪いし、展示するわけにもいかんから家に置いておこう」といって箱に納め、資料館には提出していない。

 二、町の調査報告によれば、「資料収集に努力したけれども、俊輔の一八歳から二四歳までの間の手紙や書などは、今まで知られているわずかなもの以外は全然出てこなかった」という。

 この二つの事実は何を物語るのであろうか。筆者(鹿島)もこの稿を書き進むうちに、維新の志士(俊輔たち)の活躍が彼らの青春時代を賭けた決死のテロ活動であり、そしてその活動が維新後に歴史から抹殺されたことをひしひしと感じるのである。

 宮崎鉄雄氏による決定的な証言

 こうして鹿島は、伊藤博文による孝明天皇刺殺の可能性を唱えたのだが、それを裏付ける証言をする人物が鹿島の前に現れた。作曲家の宮崎鉄雄氏である。宮崎鉄雄氏の父は、渡辺平左衡門章綱といって、幕末、伯太(はかた)藩一万三〇〇〇石の小名として大阪城定番を勤めていた。渡辺家は、もともと嵯峨天皇の末蕎であり、宮崎鉄雄氏はその渡辺平左衛門の子供として一五歳まで育てられ、のち、宮崎家の養子に出されている。宮崎氏によると、平左衛門は、徳川慶喜の命を受けて孝明天皇暗殺の犯人を調べていたが、それが岩倉具視と伊藤博文であったことをつきとめた。しかし、そのために伊藤博文から命を狙われる羽目になり、実際、長州人の刺客に稲佐橋の付近で襲われて重傷を負った。

 その平左衛門の遺言として、宮崎氏は鹿島に次のように語った。「父が語ったところでは、伊藤博文が堀河邸の中二階の厠(かわや)に忍び込み、手洗いに立った孝明天皇を床下から刀で刺したそうです。そして、そのあと邸前の小川の水で血刀と血みどろの腕をていねいに洗って去ったということでした」さらに、宮崎氏の話では、伊藤博文が忍び込むに際しては、あらかじめ岩倉具視が厠の番人を買収しておいたという。だとすれば、岩倉具視が伊藤博文を手引きしたことになる。たしかに、暗殺がプロの伊藤博文といえども、天皇の厠に忍び込むのは危険このうえなかっただろうから、だれかの手引きがあったにちがいない。そうした手引きができるのは、孝明天皇に近い人物にちがいなく、その意味で、岩倉具視が手引きしたという話は説得力がある。

 宮崎鉄雄氏がこの話を鹿島にしたとき(一九九七年七月)、すでに宮崎氏は九七歳になっており、それまでずっとこの証言を世に出すかどうか迷っていたそうだが、鹿島曻の著書を読んで公表する決心をしたとのことであった。「日本の歴史家に鹿島氏のような勇気があれば、日本史がウソ八百で固められることもなかったろう」と、宮崎氏はその著書の中で語っている。


 あとがき

 日本人が広い意味で中国民族のなかの少数派であることを認めて中国を助けようとするのと、中国民族とは関わりのない、日本列島に生まれた神聖民族だと自惚れて侵略するのでは、結果として、天と地ほどの相違がある。

 前者の場合には、中国に古くから伝わる「中原逐鹿」という理念が生きるのであるが、そのためには天皇は北京に住み、中国人になりきらなければ中国人を支配できないし、もし中国人になりきれば、またたく間にその政権は官僚主義が横行して腐敗してしまうだろう。

 一つの大陸に十数億の人民がいれば、その統治にはどうしても強制が必要となるし、その強制に対抗する力も巨大なものになるであろう。ジンギス汗の成功に比較すれば、日本の挫折の理由は明らかである。要するに、日本は同じアジア人でありながら、自らを神聖民族としてアジア人を差別したのが失敗のもとであった。

 昭和三九年(一九六四)七月、社会党の佐々木更三たちが北京に毛沢東を訪問した際、「日本は戦争中、中国を戦場として中国人民に多大な損害をもたらして申し訳ない」と言ったところ、毛沢東は、「日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらした。なぜなら、中国国民に権力を奪取させてくれたからです。皆さんの皇軍の力なしには、権力を奪うことは不可能だったでしょう」と言ったという(『毛沢東思想万歳』)。

 毛沢東が「皆さんの皇軍」と言ったのは、皮肉たっぷりであるが、(自称)社会主義者の佐々木たちがこれに抗議した形跡はない。しかし、紅軍(中共軍)が解放したシナ12億の人民が、果たして独立の幸福を得たか。人民が「思想の自由、生活の自由」を手に入れたか。けっしてそうではない。文化大革命のとき、毛沢東は抵抗する人々を生きながらにして肝臓を抜いて食う蛮行を許したし、天安門事件の際の人民解放軍は、無抵抗の人民と学生たちを戦車で踏み潰し、3歳の幼児を撃ち殺したうえ、それに抗議する母親をも射殺した。

 天安門広場は、白由を求めて立ち上がった人民を虐殺する広場となり、中華人民共和国は、改革解放の掛け声に乗って都市に高層ビルを林立させ、公害垂れ流しの経済成長を優先させ、結果、貧富の差が極端に広がり、まさに戦国時代のような様相を呈している。中国人すべてが―――共産党員さえも共産主義を捨てなければ中国の未来はないと知っているのに、とっくに建国の理念を破棄した共産党は戦車と大砲によって人民を支配しているのである。中国の歴史を振り返ると、この国には国民を弾圧しない政権は生まれたことがなかったのであるが、今や中国は大きな「歴史の節目」に差し掛かっているといえるであろう。

 第二次大戦で、日本はアメリカに敗れたという。しかし、それは正当ではない。日本は世界を敵にして敗れたのである。アメリカは戦後、中国・北朝鮮の連合軍と戦って引き分けたが、そのあと中国が支援するベトナムに敗北した。第二次大戦のとき、もしも日本がアジアと連帯してアメリカと戦っていたなら、けっしてたやすく敗れはしなかったであろう。日本とドイツが敗れたのは、日本人とドイツ人が弱かったからではなく、最高指導者の水準があまりにも低かったからに過ぎない。

 このような歴史の教訓を生かして今日求められるのは、かつて太平洋やインド洋に雄飛し、アジアに文明を伝えた「倭人」の栄光を回復することであり、それによって自覚される「太平洋民族との連帯アイデンティティ」ではないだろうか。やがて地球上に世界連邦が誕生し、すべての民族アイデンティティは発展的解消をとげるであろう。そのためには多くの試行錯誤が必要であり、それを乗り越えるために、われわれは過去の栄光を忘却してはならないのである。本書で明かされた「鹿島史観」の全貌が、読者の関心を呼び、広く国民に伝わるようになれば、泉下の鹿島の霊も浮かばれ、人類の未来に明るい灯を添えてくれると信ずるものである。





(私論.私見)