鹿島史観その7、昭和天皇論考 |
(最新見直し2009.12.24日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、鹿島昇・氏の史観を確認しておく。 2007.10.30日 れんだいこ拝 |
[3907] “日本史の、タブーに、挑んだ、男・・鹿島 f――その業績と生涯・・松重 楊江(まつしげ ようこう)”という、良好なる、著、の、一部分を、の、甚大紹介、引用、ログ!!<2004年、10月、29日、午後、3時、40分、+、10月、31日、午後、6時38分、打ち、ログ!!>> 投稿者:白金 幸紀(しろがね ゆうき))会員番号 1738番 投稿日:2004/11/02(Tue) 01:23:22 | |
“日本史の、タブーに、挑んだ、男 鹿島 f――その業績と生涯 松重 楊江(まつしげ ようこう) 1925年、山口県に 生まれる 現在、(株)松茂代表取締役会長 山口県史学会会員 著書に『明治天皇の生贄』(鹿島昇と共著、新国民社)他 2003年、11月、15日、初版 発行 たま出版“ |
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第一章 昭和天皇の戦争責任論は、いまや鹿島史観のみと、なった 中、での、 p20〜 鹿島の「天皇論」が、いま異様な光を放っている 昭和天皇の「謝罪詔書」掲載と同時に、日本共産党が天皇制を容認した 平成15年(2003年))6月『月刊文藝春秋』(7月号)に田島道治・宮内府長官の、文書として、昭和天皇の国民への、謝罪詔書の草稿が転載された。タイトルは、そのものズバリ、の、「朕ノ不徳ナル、深ク天下二愧(ハ)ズ」である。「退位問題と戦争責任問題追及に揺れる昭和23年、密かにしたためられた、一通の文書。そこには自らを責め苛み、日本国民に謝罪する昭和天皇の言葉が記されていた」(宣伝文より)。ということで、これはたしかにかなりの衝撃度であった。 その同じ6月の21日に、日本共産党は、天皇制の容認に、踏み切った。党本部で、第7回、中央委員会総会を、開き、党の政治路線や理念を盛り込んだ、綱領の、改定案を、発表いたのだが、そのなかで、「資本主義の、枠内で、可能な、民主的改革」による民主主義革命を、目指すべきだとし、事実上、日本の天皇制を、容認したので、ある。新たな、綱領は、中央委員会総会の議論を経て、平成15年、11月に、おこなわれる、第23回、党大会で、採択される、予定だが、不破哲三議長、志位和夫委員長が進めてきた柔軟路縁が、ついに、綱領上でも明確に位置づけられることになったのだ。この日本共産党による、事実上の天皇制の容認と、『月刊文藝春秋』(7月号)の「朕ノ不徳ナル、深ク天下二愧ヅ」は、けっして偶然では、あるまい。 日本共産党は、公党としては、唯一の、反天皇勢力で、あった。かつては、コミンテルン(国際共産主義運動のための第三インターナショナル)の、「三二年テーゼ」(日本の情勢と、日本共産党の、任務に関する、テーゼ)にしたがって、公然と、「天皇制打倒、寄生地主制の廃止などを主要任務とするブルジョァ民主主義革命」を目指していたのだ。その日本共産党すらもが、事実上、天皇制を容認するにおよんだということは、それくらいに「日本の空気」が、天皇制支持、天皇制容認へと変わってきたということである。だからこそ、『月刊文塾春秋」は「朕ノ不徳ナル、深ク天下二愧ヅ」などというタイトルの一文を掲載するにおよんだと見ることができよう。 鹿島の「天皇論」で、最も有名なのは「明治天皇のすり替え説」だが… 天皇制をめぐる、二つの大きな動きがあった平成一五年六月というのは、アメリカによるイラク攻撃が終わり(戦争は終わったが、小規模な戦闘は継続)、北朝鮮による日本人拉致が明確になり、送金ルートの遮断、密輸出入への措置などが講じられているといった状況である。また、イラク復興支援特別措置法案で白衛隊派遣が可能と定めている「非戦闘地域」について、与野党各間で活発に議論されていたりもしている。つまり、戦争というものが、かなり身近になってきていて、しかも軍事同盟国であるアメリカが予想外の善戦により短期間で勝利を収めたという、ぢょっとした戦勝気分を味わったりもしている時期なのである。北朝鮮に対する「懲罰」意識のようなものも出てき始めている。かつて日比谷公会堂で、英米贋懲(ようちょう)(外敵をうちはらい懲らしめること)の大会が連日開催されるというようなこともあったが、当時に少し「空気」が似てきているのだ。 そんな空気のなかで、「昭和天皇の戦争責任論」が、いつのまにか蒸発してしまったわけだが、逆に言うならば「昭和天皇の戦争責任論」は、その程度のものであったということでもある。要はほとんどの「昭和天皇の戦争責任論」は、時代の流れ、戦争というものに対する感じやイメージが少しちがってくれば、もうそれだけで蒸発してしまう程度のものだったということである。 だからこそ、鹿島による「天皇論」が、いま異様な光を放っているのだ。鹿島の近世における天皇論で最も有名なのは、「明治天皇のすり替え説」である。明治維新とは、それまでの北朝の天皇を、南朝の天皇にすり替えるという“革命”であり、その南朝の天皇を代々匿ってきたのが長州藩であった。そして、そのことを知った西郷隆盛のはたらきによって、薩長軍事同盟が成立するのだが、なぜ西郷がそのようなことをしたかというと、それは西郷が南朝方の菊池家の血を引いていたからである。 薩摩藩は、蛤(はまぐり)御門の変(一八六四)で、幕府に味方して会津藩主の京都守護職・松平容保(かたもり)とともに、長州藩を討っている。その薩摩藩が、第二次長州征伐においては、長州藩とともに幕府軍と戦っているのである。幕府軍は、あろうことか薩長同盟軍と戦うことになり、その戦いに敗れて決定的に権威を失墜させ、明治維新という大逆転への扉を開くことになった。というわけだが、そのあたりのことは、第二章で詳しく述べる。 昭和天皇は「東洋王道」を捨て、「西洋覇道の犬」を選んだ 関東軍が満州制圧を狙って張作霖を爆殺した(=満州某重大事件) 鹿島の「明治天皇のすり替え説」の影になりがちだが、「昭和天皇の戦争責任論」は鹿島史観の基本と深く関連するきわめて重要な主張である。まとまった本としては『昭和天皇の謎』(新国民社、一九九四年六月刊)があり、私はそのなかで具体的な点と、本質的な点を、それぞれ、一つずつとりあげたい。 具体的な点は、張作霖(ちょうさくりん)の爆殺にっいての昭和天皇の責任である。それに先立ち、この爆殺事件のあらましを見ておこう。 一九二八年五月、国民革命軍(中国赤軍から改編。総司令は蒋介石)の北伐が北京に迫り、奉天軍(日本の支援で満州を統一したが、その後、日本の意に反して北京政権を掌握)の敗色が濃厚となったので、関東軍は張作霖を下野させて新政権を樹立し、中国の東三省と満州を中国から独立させようとした。しかし、田中義一首相は、張作霖に満州に引き揚げるよう勧告する方針をとり、関東軍に武力行使の承認をあたえなかった。そんななかで、張作霖は国民革命軍との抗戦を断念し、六旦三日に特別列車で北京を退去し、奉天に向かった。 それを知った関東軍高級参謀の河本大作大佐は、「これで、張作霖が奉天に行ってしまえば、武力による満州制圧の好機が去ってしまう」と判断。張作霖を謀殺して武力発動のきっかけをつくろうと、独立守備隊の東宮鉄男(とうみやかねお)大尉に指揮をとらせて、藩陽駅のすこし手前の満鉄線の陸橋付近に爆薬をしかけ、張作霖の特別列車を爆破した。さらに東宮大尉は、「国民革命軍の密書」(もちろん偽物)を持たせた中国人苦力(クーリー)二名を殺害し、彼らの犯行であるかのように装った。 張作霖爆殺の報を受けた斎藤恒関東軍参謀長らは、事前に河本大佐から、「張作霖爆殺を機に、満州を武力制圧する」という計画を知らされていなかったために、関東軍を出動させなかった。そのことにより、張作霖爆殺には成功したものの、満州を武力制圧するという河本大佐の計画は不発に終わったのだ。 父・張作霖のあとを継いだ張学良は、北伐を完了した蒋介石と和解し、国民党政府に合流。日本国内では事件の真相は秘密とされたが、野党・民政党の追及により、「満州某重大事件」というかたちではあったが、問題となった。 田中義一首相は、元老.西園寺公望らの要求で真相を公表するつもりであったが、陸軍の強い反対にあい、関係者の行政処分にとどめざるをえず、天皇から食言(一度口に出した言葉を、また口に入れる意。前に言ったことと違うことを言う、約束をたがえること)を叱責され、一九二七年七月に内閣を総辞職し、その二ヶ月後の九月に急死した。そのようなかたちで、張作霖爆殺=満州某重大事件がうやむやにされたことが、関東軍幕僚(軍司令官に直属する参謀、副官)に自信を与える結果となり、満州事変の謀略を促す一因となったといわれている。以上が、張作霧爆殺、満州某重大事件の一般的な概要であり、わが国ではいまもだいたいのものが、基本的にはこの線にしたがって記され、描かれている。 帝国陸海軍のトップは、名実ともに天皇であった 張作霖爆殺の収拾策について、昭和天皇が田中義一首相に「食言」であると叱責したことについては、昭和天皇自身、『昭和天皇独白録』のなかで、次のように記している。
鹿島は、この天皇の物の言い方はおかしいと考えた。なぜならば、陸軍の規定によると、国外に駐屯する軍隊を統括するのは総理大臣でも陸軍大臣でもなく、参謀総長であるからである。では、その参謀総長は、自分の裁量でいかようにも軍隊を動かせるのかというと、それはできない。大日本帝国憲法の第一一条には「天皇は陸海軍を統帥する」とあり、帝国陸海軍のトップは、名実ともに天皇なのである。天皇から命ぜられて軍隊を動かすのが、参謀総長をトップとする陸軍参謀本部であり、軍令部総長をトップとする海軍軍令部であった。 このあたりのことを、もう少し詳しく説明すると、まず陸軍のなかには、陸軍省と参謀本部の二つがあり、陸軍省のトップは陸軍大臣で、参謀本部のトップは参謀総長であった。海軍のなかにも、海軍省と軍令部の二つがあり、海軍省のトップは海軍大臣、軍令部のトップは軍令部総長であった。東條英機が出てきてややこしくなったのは、陸軍大臣であった彼が、総理にもなり、陸軍参謀総長までをも兼任したからである。国務と統帥が、天皇の国家統治の二つの大権であった 参謀本部と大本営の関係、陸海軍省と参謀本部・軍令部の関係は、次のようになっている。 参謀本部…平時における国防用兵の府(常設組織) 大本営が設置されたとき、 これらの軍の組織と天皇との関係については、憲法で輔弼(ほひつ)と輔翼(ほよく)という言葉を使って規定されていた。当時の日本の国家の形は、明治憲法に基づく立憲君主国であり、天皇が国家の統治権を総撹(そうらん)(政事・人心などを一手に掌握すること)するとされていた。その天皇の大権は、一般行政と統帥の二つに分かれていて、国務上の輔弼は政府が、統帥権のほうは参謀総長(陸軍)と軍令部総長(海軍)が輔翼(ほよく)(補佐したすけること)するということになっていた。「輔弼」というのは、天皇の行為としてなされ、あるいはなされざるべきことについて進言し、採納(採用)を奏請(そうせい)(天皇の決定を求めること)し、その全責任を負うことであり、「輔翼」とは補佐というような意味である。 国務…政府(行政)、議会(立法)、裁判所(司法)の各機関が輔佐し、内閣の輔弼により、これを総撹 統帥…参謀総長(参謀本部)と軍令部総長(軍令部)の輔翼により、これを総攬 昭和天皇の叱責により、田中内閣は総辞職し、田中義一は急死する 陸軍参謀総長であっても、海外に、駐屯している軍隊を自由に動かせないことについては、陸軍参謀であった瀬島龍三が、さまざまな著書のなかで「一兵卒足りとも(天皇の裁可がなければ)動かせない」と述べている。瀬島参謀は、そのために鳥の子紙(雁皮を主原料として漉いた(すいた)和紙。平滑・綿密で光沢がある)に攻撃命令を書き、それとは別に、「別紙の件につき、允裁(いんさい)(御裁可のこと)を仰ぎ奉り候なり」というのを書き、それらを持って参謀総長が宮中に赴き、そこに天皇が墨で裕仁とサインをし、侍従が「天皇御璽(ぎょじ)」の四字を刻んだ金印を捺(お)して(御璽御名が揃って)、はじめて軍隊が動いたのである。ちなみに、戦後に防衛庁の戦史室の人が調べたところ、大東亜戦争中の陸軍に関する陸軍部命令は二二〇〇通ほどもあり、そのうちの七〇〇通くらいに起案者・瀬島龍三の判が押してあったそうである。だから、張作霖爆殺の報に接したとき、天皇のなすべきことは、次のとおりであったというのが、鹿島の主張である。 最初田中義一首相から報告があったとき、天皇はまず陸軍参謀総長に事件の調査を命令すべきだったのである。天皇が事件の責任者にみずから命令せず、権限のない田中に「辞表を出してはどうか」と強い語気でいったのは、天皇みずからいう「私の若気の至りである」にしても、田中を責めるのはおかどちがいであり、なすべきことは自分にあった。関東軍は海外に駐屯している部隊であるため、総理大臣はもちろん陸軍大臣にも動かす権限がない。陸軍は、陸軍省と参謀本部からなる組織であり、海外に駐屯している関東軍を動かす権限は参謀本部にあり、そのトップは参謀総長であり、その参謀総長が「天皇陛下の御裁可をいただいて」はじめて、兵を動かすことができる。だから、張作霖爆殺事件については、田中義一総理大臣を叱責するのは筋違いであり天皇みずからが参謀総長に事件の真相解明を命じ、「河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する」のが正しいと判断したならば、そのようにさせればよかったというのである。それが筋でありながら、昭和天皇は田中首相を叱責し、内閣総辞職から二ヵ月後の急死へと、追いやったのである(実は築地の割烹旅館高野屋にて頓死した)。 満州事変を戦った関東軍に、「朕深くその忠烈を嘉す(よみす)」との勅語が だが、この時期には、そうせざるを得ない事情もあった。張作霖爆殺事件は、河本大佐が、画策した、ということに、なっているが、陸軍上層部の、かなりの部分が容認するとか、それとなく助けるというようなことがあったようなのだ。だからこそ、あれだけ大きな事件を起こしたにもかかわらず、河本大佐は、これといった処罰を、受けなかったのだ。そればかりか、関東軍は図に乗って、三年後には、柳条湖(りゅうじょうこ)事件を、引き起こした。鹿島も含めて、日本ではこの事件を「柳条溝事件」と呼んできた。それは新聞の誤報に、端を発する、地名の誤りであり、柳条糊が、正しい地名であることが、1981年に、中国の研究によって、確認されている。 柳条湖事件は、独立守備歩兵第二大隊第三中隊の河本末守中尉が、柳条湖の満鉄線路に爆薬をしかけて爆発させた事件である。奇しくも張作森爆殺事件のときと同じ独立守備隊の河本という名前の人物が、満鉄に爆薬をしかけたわけだが、二人は別人である。それに、柳条湖事件の背景には、満州の武力占領を画策していた関東軍幕僚の板垣征四郎と石原莞爾(かんじ)の名前がはっきりとあがっている。さらに、柳条湖事件は、爆発させることには成功したが、線路への被害はほとんどなく、この爆発の直後に列車が無事に通過している。ただし、このときの爆音を合図に、付近に出動していた川島正大尉の率いる第三中隊が、演習と称して北大営の中国軍を攻撃した。板垣、石原らは、この事件を中国軍が満鉄線を爆破し、日本軍を攻撃したと偽り、関東軍を大規模に出撃させた。これが満州事変となっていく。 朝鮮軍司令官であった林銑十郎(せんじゅうろう)は、柳条湖事件直後に、独断で鴨緑江を渡って満州に出兵し、あとで昭和天皇に対して進退伺いを出したが、昭和天皇はこれを免責している。満州はこのとき、関東軍、朝鮮軍の侵攻により、わずか半年足らずで実質的に日本のものとなった。柳条湖事件を画した板垣征四郎、石原莞爾、それに独断出兵した林銑十郎は、厚く遇され、関東軍に対しては「朕深くその忠烈を嘉す(ほめる)」との勅語が与えられた。昭和天皇に「侵略をした=悪いことをした」との意識はなかったのである(当時は、帝国主義の時代であり、いまほど〈侵略=悪〉という観念はなかったということもある)。 日本国民の大多数も、当時は、関東軍の忠烈を喜んでいた 日本による満州侵略は、英米にとっては、イラクによるクウェート侵攻と同質の行為であった。そのため、英米を中心として国際社会から「中国が可哀相ではないか」という声が澎湃(ほうはい)としてあがるが、英米の真意はもちろん「日本の満州独り占めに対する不満と警戒」であった。 イラクの場合は、このクウェート侵攻が湾岸戦争を引き起こすことになり、さらには二〇〇三年のイラク爆撃へとつながった。日本の満州侵略も、基本的にはほぼ同じコースをたどる。まずは対日経済封鎖(ABCD包囲網)が行われ、しかるのちに日米開戦となり、アメリカは連合国軍を組織してこれに抗戦し、やがて圧倒的な物量と先進兵器とによって、国際社会側として勝利するのである。 ただし、イラク攻撃はわずか一ヶ月ほどであったが、日本は一九四一年二一月八日の真珠湾奇襲攻撃にはじまって、一九四五年八月一五日に、昭和天皇の<聖断>によりポツダム宣言の受諾を決定するまで、実に、二年八ヶ月もアメリカと戦った。しかも、太平洋を戦場に、空母機動部隊による正面激突戦という、人類史上で最大規模の戦争を行ったのである。 ことの善し悪しは別にして、日本は好戦的であり、戦争に強いのである。山田長政がまたたくまにシャム王国で頭角を現したのも、戦に長けていたからであり、「平和ボケの日本人」というのは、ごく最近の非常に珍しい現象である。 さて、満州国建国は、イラクによるクウェート侵攻のように、実に危険な行為であったが、日本国民の大多数は、この国運の大発展を素直に喜んだ。関東軍の忠烈を深く嘉(よみ)したのは、昭和天皇だけではなかったのである。 日本は、「東洋王道の牙城」ではなく、「丙洋覇道の犬」であり続けている 張作霖爆殺からのことを、ここでまとめておくと、まず独断専行してこの大事件を起こした河本大佐(および陸軍上層部)は、おとがめなしとなった。しかし、それでは諸外国に対してマズイということで、田中内閤を総辞職させ、田中義一を死に至らしめた。次に、張作霖爆殺の延長線上に、第二幕となる柳条湖事件が、これも陸軍の独走で引き起こされ、それが満州事変へと発展した。その満州事変の成功により、満州国が建国され、その巨大な成果は、昭和天皇率いる日本のものとなった。問題は、その成果が大き過ぎたことで、それが大東亜戦争のもとになるわけだが、満州建国当時には、そのような危機意識はなかった。しかし、日本人みんなが浮かれていたわけではない。この満州建国よりもはるか前に、戦後に首相となる石橋湛山は、朝鮮と台湾の放棄、中国での権益放棄、軍備縮小を、「東洋経済新報」誌上で訴えていた。 同じころ、孫文は神戸で次のような演説をしている。 「日本人は、今後、西洋覇道の犬となるか、東洋王道の牙城となるか、慎重に研究して選ぶべきである」。そのような声があるにはあったが、日本は欧米先進国=帝国主義の戦列を離れることができず、孫文のいう「西洋覇道の犬」であり続けた(いまもまたそうである)。だから、日本はダメなのだという議論は、ずいぶんある。左翼あるいはリベラル派・市民派と呼ばれる人たちは、おおむねそのような考え方をしている。 鹿島は、どうか。 昭和天皇の戦争責任については、はっきりと「ある」と断言しているが、朝鮮と台湾の併合・中国での権益確保などについては、否定一辺倒ではない。中国には「中原(ちゅうげん)に鹿を追う」(中央で帝王の地位を得ようと争うこと。中原は黄河中流域のこと)という伝統があり、漢字文化圏の諸民族ならば、中国本土で覇権=鹿を追ってもよいのだという。問題は中原の鹿の追い方であり、台湾と朝鮮の併合、満州建国、中国での権益確保は、やり方が悪いというのである。 次に、そのことをもう少し詳しく見ることにしよう。この視点が、鹿島史観の基本に深く関わる「昭和天皇の戦争責任論」の本質的な点である。 帝国陸軍は、「中原の鹿」の追い方がまずかった 天皇家は、北支の伯族(はくぞく)にして、扶余(ふよ)と百済の王家なのだから… 漢字文化圏の諸民族が、中国の本土で覇権を奪い合いすることは、「中原に鹿を追う」ということで、それほど悪いことではなく、日本もやってもよい。そう鹿島は主張するのだが、そのことには欠くことのできない前提がある。それはなにかというと、日本の天皇家の血筋である。日本の天皇家は、もともとは北支の伯族であり、のちに扶余の王家、百済の王家となった一族であるというのだ。なんのことはない、満州も韓半島も、もともと祖父の地であったのだから、その地で「中原に鹿を追う」ことに、ためらう必要などないというのだ。 鹿島の論でいけば、日本が中国で「中原に鹿を追う」のは、漢字文化圏の一民族としての権利だが、同じことを英米がやると、それは侵略でよろしくないということになる。 戦後においては、何かといえば「日本は侵略をした。まず謝罪をしろ」と言う。イギリスは中国にアヘンを売りつけたうえに侵略したが、それに対して中国がイギリスに謝罪を要求したということはないし、イキリスも謝ってはいない。にもかかわらず、日本に対してだけ、いつまでもしっこく強く謝罪を要求するということはどういうことか。まるっきり反対ではないかというのである。 たしかに中国本土は、これまでさまざまな民族が入り乱れ、さまざな民族の王朝が打ち立てられてきた。だから、二〇世紀になって、日本が中国に新たな王朝を打ち立てても、別におかしはない。日本は当時の首都・南京を陥落させたが、中国がそれでも降伏しなかったために、「城下の盟」(じょうかのめい)(敵に首都の城下まで攻め入られて結ぶ講和の約束)を結ぶことができず、日中戦争は泥沼化した。 そのうえ、対米・対英開戦を決することにより、日本は腹背(ふくはい)に敵を受けるかたちになり、苦戦しているうちに、毛沢東が中国革命を成立させてしまった。さらに、日本軍はアメリカを中心とする連合国軍に敗れ、蒋介石は台湾に追い払われ、中原の鹿は毛沢東のものとなった。 それでよかったというのは、最初だけのことであり、毛沢東の中国共産党による中国支配は、実に血なまぐさいものであった。プロレタリア文化大革命という名の長期的な内戦で、どれほどの人民が殺戮(さつりく)されたことか(一説によれば三〇〇〇万人)。 新たに蒋介石軍の侵攻を受けることになった台湾では、「犬が去って、豚が来た」と、蒋介石軍による侵攻を嘆いた。犬とは台湾を併合していた日本のことであり、豚とは蒋介石軍のことである。 帝国陸軍は現地徴発を断行し、中国戦線におけるタブーを破った 日本の中原の鹿の追い方のまずさは、中国の農民への接し方にもあった。中国本土においては、農民に慈愛を与える軍隊が最終的には勝利を収めるからである。三国志をひもとけば、そのことは明らかなのだが、日本軍はその教訓を活かせなかった。 たとえば、一九三七年八月、日中戦争は華北から華中に拡大し、日本軍は上海で中国軍の激しい抗戦に直面して、大きな損害を被った。中国軍を退却させることができたのは、その年の二月になってからであったが、中支那方面軍(軍司令官・松井石根(いわね)大将)は、このとき異様な判断をする。指揮下の上海派遣軍と第一〇軍を、与えられていた任務を逸脱して、国民政府の首都・.南京に向かって急進撃させたのである。 このとき、日本軍兵士は苦戦を強いられた上海戦で、疲労の極に達していた。日本軍兵士としてはやっとの思いで上海戦で勝利を収めたのだから、これで胸を張って日本に凱旋できると思っていた。そこに、さらに厳しい追撃戦を強いられたのだから、やけくそぎみになるのも無理からぬことであった。 しかも、この追撃戦は、衝動的、発作的なものであったので、十分に用意をするヒマはなかった。兵站(へいたん)が延びきった状態になり、物資の補給が間に合わず、たちまちのうちに食料なども底をつき現地徴発のやむなきに至った。 まさしくこのときである。帝国陸軍は、「農民には慈愛を与えなければならない」という古来からの中国戦線におけるタブーを破ったのである・. 徴発というのは、物を強制的に取り立てることである。当時のこの現地徴発を、現地調達と表現している人もいるが、やつたことを正確に表現すると、現地調達ではなく現地挑発であった。 毛沢東の人民解放軍も、長征の過程で現地調達を行っているが、彼らはたとえわずかでもキチンと対価を支払っていて、徴発は行っていない。 毛沢東は国民党軍に包囲された江西省瑞金(ずいきん)の根拠地を放棄し、福建・広東・広西・貴州・雲南・四川を経て、陝西(せんせい)省北部に至るまで、実に一万二〇〇〇キロにもわたる大行軍をし、これを長征と呼んだのだが、長征には、「農村が都市を包囲する」という戦略の裏打ちがあった。「中国本土においては、農民に慈愛を与える軍隊が最終的には勝利を収める」という教訓をよく守り、そのことによって、見事に中原の鹿を射止めたのである。 他方、帝国陸軍は、食糧などの準備がきわめて不十分であるわけだから、追撃の過程でさかんに現地微発を行い、そこに中国侮蔑感情や戦友の仇を討つという意識なども加わり、いわゆる「略奪・強姦・虐殺・放火」などの非行が常態化する状況となった。 そして、そのまま南京に入城したわけだから、多数の一般市民を巻き添えにした徹底的な掃討を行うということになってしまったのである。 結局は、ただ単に、操られ、利用され、というのでは、いただけないのです。もうそんなのでは、駄目なのです、いただけません なんとか、もうちょっとでもいいから、自覚的に、向かうことできる如くな、そんな、思考、脳、へと、つまりは、自らの脳を、自らで、きちっと、制御してゆく・・ ほんとうの意味での、“愛国心”ということを、こそ、を、いまこそ、を、真に考察する、考察していく、そのときなのでは、ないですか? 白金注::後日、追記、了!! |
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『記紀』の原作は、新羅の舎人親王が唐に提出した報告文書 百済王の道鏡や桓武天皇らが、『日本紀』をもとに『記紀』をつくった さて、日本の天皇家の氏素性(うじすじょう)だが、鹿島は『昭和天皇の謎』のなかで、「もともとは北支の伯族であり、のちに扶余の王家、百済の王家となった一族である」と述べているが、これをもう少し詳しく述べると、次のようになる。 神武天皇というのは、中国東北(満州)から朝鮮半島を経て南下した扶余族のタケミカヅチのことである。その神武天皇率いる扶余族は北倭人であり、これが三世紀初頭に南倭人と戦い、博多近辺に伊都国を建てた。 卑弥呼は神武の妻であり、実家はユダヤ系亡命者である公孫氏であった。その公孫氏の建てた国が日向・西都原(さいとばる)であり、卑弥呼は都をここに移して統治した。 その後、朝鮮半島と日本列島の支配権をめぐって、高句麗、新羅、百済、倭国が争い、当時の世界帝国・唐の援助を得た新羅が百済を滅ぼし、その百済を復興させるために倭国は軍隊を派遣した。それが、六六三年の白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦いである。 この白村江の戦いで、倭国を破った唐・新羅連合軍は、九州に攻め込み…-というように、きわめて大きなスケールで、鹿島は、神武天皇から白村江の戦いまでの歴史を解き明かすのだが、その部分は、本書の第四章から五章にかけて詳述しているので、そちらを熟読いただきたい。 日本の歴史というと、まずは『古事記』と『日本書紀』だが、この二つの書物の下敷きとなったのは『日本紀(にほんき)』である。 その『日本紀」とは、縄文時代からの先王朝=天(あめ)の王朝の歴史をすべて抹殺し、新羅天皇家が有史以来続いてきたとする、唐へ提出した報告文書である。六七六年に唐が朝鮮半島への進出を断念したことにより、日本をも支配下におさめた統一新羅が誕生し、新羅王は皇帝となる。そうして、日本総督として舎人親王を日本に派遣し、舎人親王を天皇として、新羅天皇家が有史以来続いてきたとする『日本紀』をつくったのである。 その『日本紀』を、権力者となった百済王の道鏡や桓武天皇らがたびたび改竄して『日本書紀』をつくり、それに合わせて『古事記』もつくったのである。 その『古事記』と『日本書紀』を、最高の史書として、いまも国民が教育されていることはいうまでもない。いまでも、多くの日本人が「万世一系の天皇」と信じ、「日本民族は単一民族」であると信じているのは、そのためである。 |
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秦始皇帝はバクトリア王ディオドトス、兵馬俑(へいばよう)はペルシア軍団 鹿島はさらに、中国の神話に出てくる人頭蛇身の伏犠(うっき)は、バビロン神話の人頭魚身のオアンネスであり、中国の古典とされている司馬遷(前一四五〜九六)の『史記』前九七年は、オリエント史を地名遷移して漢訳した「翻案偽史」であることを、克明な対比作業によって証明した。 そして、漢民族は、股(シュメール人)→周(アッシリア人)→秦(バクトリア人)の文化遺産をそっくり棚ボタ式に受け継いだと主張している。 その漢民族は、大きな恩恵を受けた殷人(シュメール人)を夷、すなわちエビスと呼び、その夷=エビス=殷人が日本列島にやってきて打ち建てたのが、東表国(とうびょうこく)であり、それこそが神武以前の先王朝である天の王朝であるというのだ。 このあたりのことについては、鹿島著の『倭と王朝』(新国民社、一九七八)に詳しく展開されていて、その先王朝が日本列島を支配していたという部分が、韓国と日本の双方でずいぶん大きな反響を呼んだ。 鹿島の中国論においては、それ以外にもっと驚くべきことを、二つ指摘している。一つは、秦の始皇帝陵出土の兵馬俑は、中国人のものではなく、ペルシア軍団のものであったということである。この部分は、第六章に詳述した。 二つ目は、秦の始皇帝(前二二一〜一〇)そのものが、中国人ではなくバクトリア王ディオドトスであったということである。そればかりではない。そのことが明らかになることにより、さながら「神経衰弱」のカードが次々と開かれていくように、以下の事柄が明らかになっていった。 孔了のモデル…………『旧約聖書』の預言者エリヤ 儒学・:…………-・…・ユダヤ人ラビ(律法者)の「ジュウ学」 『史記』・…・………:…・・オリエント史の借史 その作者の司馬遷::: ユダヤ人。漢王によって宮刑(宦官)を与えられ、誕生したばかりの漢民族のための「偽史」づくりを強制された 倭人::…………・:・…・秦の始皇帝に追われ、東北(満州)に移動して「北倭」となり、扶余族に率いられて九州に渡来。日本列島の先住民や「南倭」と混血し、近畿の秦王国とも合流して日本列島全体に拡散 項羽:………:……・…・エウチデムス これらのことは、本書では第六章と第七章であつかった。 以上のことが鮮明になったならば、部落差別というものが、いかに不合理で無意味なものであるかは、おのずから明らかである。そこで、最後の章=第八章で、あらためて差別の原点を見つめ直した。 天皇の大権が制約された江戸時代と戦後、目本は繁栄した 「日本は英米と同盟を結んでいるとき発展した」のはたしかだが:…・ 元駐タイ大使の岡崎久彦氏は、「日本はアングロサクソンと軍事同盟を結んでいるとき発展した」として、日英同盟を高く評価し、日米同盟の大切さを説いている。これは事実のみを見れば、たしかにそのとおりである。 しかし、よく考えてみれば、それぞれの時代の覇権国と同盟を結んでいれば、その覇権国が覇権国であるかぎり、同盟国が発展するのは当然のことであり、そこには取り立てていうほどの法則性はない。しかも、覇権国というのは、時代によって変わる。アメリカの前はイギリスで、その前はスペインやオランダやポルトガルなどが跋扈(ばっこ)したわけだが、さらにその前にはサラセン帝国があり、匈奴(きょうど)(秦・漢代にモンゴル高原で活躍した遊牧騎馬民族)や突厥(とっけつ)(六世紀中頃からモンゴル高原・中央アジアを支配したトルコ系遊牧民族)やモンゴルなども、ユーラシア大陸で大きな覇権を確立していた。 だから、覇権国が覇権国でなくなるときに、同盟国はどうするかという問題が依然として残っているわけであり、戦前の日本にしても、ドイツの電撃作戦を目の当たりにして、次の覇権国はドイツだと読んだからこそ、日独防共協定という名の日独軍事同盟を結んだのである。日本の真珠湾奇襲攻撃があと半年遅れていたならば、ヨーロッパ戦線の状況の変化が見えてきたはずであり、そうなれば果たして日米開戦に至ったかどうか。 それに、日本がアングロサクソンと軍事同盟を結んで発展したのは、人類の長い歴史から見ればごく最近のことであり、アメリカが今後数千年にわたって世界の覇権国であり続けるとは考えにくい。 「常に覇権国と同盟を結ぶ」というのであれば、いずれどこかの時点でアメリカを見限り、次の覇権国に乗り換えなければいけないわけだが、それはかなり難しい作業であろう。 |
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天皇の権カが制約されたときも、日本は繁栄している 岡崎の「日本はアングロサクソンと軍事同盟を結んでいるとき発展した」によく対峙しうるのは、鹿島の「天皇の権力が制約されたとき、日本は繁栄した」という説である。 日本において、天皇の権力が大きく制約されたのは、私たちがよく知っているここ数百年の歴史でいうと、江戸時代と戦後である。江戸時代は、徳川幕府によって天皇の大権が大幅に制約され、国は繁栄した。戦後は、米軍によって天皇の権力が制約され、日本はアメリカに継ぐ経済大国となりえた。 天皇の大権の制約と日本の繁栄に、おそらく直接的な因果関係はないのだろうが、歴史的事実としては、そのようなことがあったということができる。また、天皇の大権が極度に発揮されたとき、日本はどうなったかという問題を立てると、ひどいことになったという解答を得ることになる。近現代の日本において、天皇の大権が極度に発揮され始めたのは、大東亜戦争開戦から終戦までであり、この時期、日本は最悪であったからである。 |
(私論.私見)