鹿島史観その5、2.26事件考 |
(最新見直し2009.12.24日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、鹿島昇・氏の史観を確認しておく。 2007.10.30日 れんだいこ拝 |
【二・二六事件考】 |
この一一月事件、別名「陸軍士官学校事件」は二・二六事件のリアルな出発点といえよう。
○ 「天皇は日本の脳髄」というおかしな自負 「天皇機関説が世間の話題となった。私は国家を人体にたとえ、天皇は脳髄であり、機関というかわりに器官という文字を用うれば、わが国体との関係はすこしもさしつかえないではないかと本庄武官長に話して真崎に伝えさしたことがある。真崎はそれで判ったといったそうである。また現神の問題であるが、本庄だったか、宇佐美だったか、私を神だというから、私はふつうの人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういうことをいわれては迷惑だといったことがある」(『独白録』) 天皇機関説は美濃部達吉が東大教授時代に主張した学説で、明治の終わり以降、通説となっていたが、陸軍皇道派や民間右翼はこれを批判した。一九三五年ころからである。美濃部は貴族院議員として弁明したが批判はやまず、不敬罪で起訴され貴族院議員を辞職、二・二六の数日前に暴漢に襲われている。美濃部は当時「統帥大権の作用が国務大臣の責任の外におかれることは…不当にその範囲を拡張すれば、法令二途に出でて二重政府の姿をなし、軍隊の力を以て国政を左右し、軍国主義の弊きわまるところなし」と鋭く正論を述べている。天皇大権としての統帥権への批判である。 天皇機関説への非難の合唱は、美濃部のこの正当な発一言に対しての、天皇大権に寄生する、あるいは天皇大権を利用する人びとの報復であった。乱暴にいいきってしまえば、天皇機関説とは天皇も国家のためにあるということである。天皇が恐ろしいほどの大権を与えられているのは大日本帝国憲法の各条に明示されているとおりだ。しかしそれもこれも天皇のためでなく国家のためにである。 陸海軍の統帥権も天皇にあるが、陸海軍が天皇のために存することでは決してない。天皇の統帥権は国家のためのものなのである。天皇の軍隊であることはじつは国家のための軍隊なのである。統帥権を拡大することによって軍部独裁を狙った統制派も無学であり、クーデターによって軍部独裁を狙う皇道派も無学であった。 おりしも統制派にかつがれていた参謀総長閑院官は謀略にふけり、林銑十郎陸軍大臣とつるんで皇道派のトップ真崎教育総監の罷免にふみきる。この罷免の黒幕は陸軍省の大ボスであった統制派の永田鉄山軍務局長であったとされ、憤慨した真崎の子分の相沢中佐は一九三五年八月一二日陸軍省内で抜刀して永田を切り殺す。 これも二・二六の直接の原因となった。この相沢事件でも不審な点があった。のちに二・二六に連座して四年の禁錮刑になった大蔵栄一大尉は「私は相沢さんが心の底から怒ったことを二度知っている。その一つは(相沢が)池田純久(一一月事件を辻政信らと図る。のち関東軍参謀副長、内閣総合計画局長官)に会った直後、相沢さんは『池田はまず、お前たちで勝手にやるがいい。あとは俺たちがひきうけると、とんでもないことをいった』と顔を青くして怒った」と述べている。相沢がテロを働いたのは事実としても、「ヤラセ」グループによって仕組まれた無責任なわなだったかという疑問が残る。 ・・・・・・・・・・・・・・・ |
[3938] 鹿島 f 氏、『昭和天皇の謎 神として人として 新国民社 白人支配に抵抗した日本が、アジア支配に向かう悲劇 1994年、6月30日、初版発行』の、一部引用ご紹介、他、(2004年、11月10日、午後1時17分、打ち、ログ!!)) 投稿者:白金 幸紀(しろがね ゆうき))会員番号 1738番 投稿日:2004/11/12 | |||
・ ・・・この戦争責任の告発を持って、非道の戦いに空しく命を捨てた靖国の英霊と、壮図空しく虐殺された2・26事件の将兵に捧げる。・・・・・・鹿島 f(かしま のぼる) ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『昭和天皇の謎』目次 1 日本を無責任社会としないために 9 2 侵略は正当化できない 23 ・ 侵略戦争はヤクザの縄張りと同じだ 3 「神聖なる天皇」と「統治する天皇」 ・ 天皇は「細菌部隊」を知っていた 4 天皇、クーデターを断罪す 71 ・ 降りしきる大雪のなか「二・二六」の幕はあがった 5 指導カなき権カ者たちの右往左往 97 ・ 日本軍の魔性を示す百人斬り 6 昭和天皇と束条英機 127 ・ 昭和天皇が即位したとき権力中枢はマヒしていた 7 戦争責任を問われるべき人びと 161 ・ 日本帝国主義は敗戦で終わった 8 遅すぎた終戦 193 ・ 開戦を決意した以上、終戦も決意せねばならぬ 昭和天皇は最大の戦争責任者―むすびに代えて―228 |
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3 「神聖なる天皇」と「統治する天皇」――軍閥の台頭 | |||
○天皇は「細菌部隊」を知っていた 昭和の治世が一九四五年の敗戦まで戦争の連続であったことは、明治以来の帝国主義を昭和天皇は無批判、無反省に受けついだことを示している。あまた将兵の犠牲など顧みることはなかった。 一九四七年、昭和天皇は宮城県築館町に行幸した。河原敏明『天皇裕仁の昭和史』によると、「当地へはかつて明治天皇が……」と案内の人が説明をはじめると、とたんに天皇は不動の姿勢となり瞳を輝かせ、明治天皇の話が終わるまで姿勢はくずさなかったという。明治天皇は昭和天皇にとってそういうお方であった。明治天皇は結果的に西郷ではなく、岩倉ら洋行組(岩倉使節団グループ)を重用した。岩倉や伊藤は島国イギリスのインド支配やアヘン戦争による中国侵略をまねて、帝国主義のモノマネに走っただけであったが、昭和天皇は陸軍に強要されるかたちで中国侵略の独占を試み、そして英米を敵視せざるをえなくなった。 世界史上、中国に侵略し征服した民族は、みずから自分の文化を捨てて中華文明を肯定し、みずから中国人になりきり、中国に住んで支配した。日本の天皇のように外部から支配しようとしたものはかつてない。岩倉らがお手本にした島国イギリスも、アメリカ大陸の支配に失敗している。歴史はこのように学ぶものであるが、吉田松陰の唱えた侵略思想が、昭和においても生きつづけたから恐ろしい。 ――満州国が成立すると、日本陸軍省と関東当局は、ハルピンの平房と長春の孟家屯に秘密の細菌戦研。究基地をつくった。一九三三年にできたハルピンの研究基地はのちに「満州七三一部隊」と改称し、責任者の軍医中将が石井四郎なので「石井部隊」とも呼ばれた。この「七三一部隊」の主たる任務は、ペスト、コレラ、チフスなどの病原菌研究にあり、病菌爆弾をつくることであった。 一九四三年のある日、中国の一少年が「七三一部隊」に連れ込まれた。ファシストたちは、健康な男の子の内蔵器官を得るため、あえて生きたまま解剖台の上で解剖した。かつて「七三一部隊」第四部部長を勤めた細菌戦争犯罪者川島清少将は、戦後になって次のように自供した。そのころ、日本の細菌工場で「試験」のため殺害された中国人は毎年六〇〇余人に達し、一九四〇年から五年問にこうして殺された人は三〇〇〇人を数える。また日本が降服したときには、犯罪証拠を消減するため、ハルピンの平房では、生きていた数百の中国人を全員殺害し、屍体を焼き捨てた。日本軍がこの細菌工場を爆破したときには、多数のペスト菌をもったネズミが逃げ出したため、ハルピン地区にはペストがはびこり、二万三〇〇〇人の死亡者が出た。――――以上は『中国からみた日本近代史』より「七三一部隊」に関する記述をまとめたものである。 このハルピンの「七三一部隊」はあまりにも有名だが、郡司陽子『証言、七三一石井部隊』によると、一九四一年に石井部隊長は天皇陛下からお言葉をいただいたとある。統帥権のトップであった天皇はこの部隊の存在をちゃんと知っていたのである。細菌戦を近代医学のもとで計画的に実行しようとしたのは日本軍が世界ではじめてである。戦後アメリカ軍は日本の囚人たちにかいせん菌を流行させ、さらに朝鮮戦争とベトナム戦争で細菌戦を断行した。日本のやり方を模倣したのである。 また、『中国からみた日本近代史』によると孟家屯の細菌部隊は、関東軍獣医予防部と名づけられ、一九四一年以降は「一〇〇部隊」となる。その任務は炭疽菌など病原菌の秘密研究で「敵側」の家畜を殺すのが目的。また、それを飼育する人に伝染させる狙いもあり、家畜で病原菌試験をするだけでなく、生きた人間をも試験に使った。このような恐るべき侵略を生んだ背景を考えてみよう。 |
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○二・二六事件は突然発生ではない
東京裁判で明かされた被告橋本欣五郎自身の履歴の一端である。
橋本欣五郎中佐は「昭和時代に入って人心ますます弛緩し、活々として自由主義の思想がみなぎり、国家観念は極度にうすれ、個人主義の思想は津々浦々にまで充満し、かつ大正末期から共産主義が入りこんで国体まであやうくしようとした」といっている。しかし、国家が発展すれば、その思想、文化が複雑化するのは何人もとがめたいことであろう。橋本らの思想に厚み、深みを覚えることはできない。彼らは、国民を奴隷視して軍閥が勝手に行動して天皇がそれを追認することを国家の理想としたにすぎない。 桜会の結成の前年の、一九二九年をみよう。浜口雄幸内閣は金輸出の解禁を行ない、デフレ政策を実行した。浜口内閣は財政の縮小にふみきった。大蔵大臣の井上準之助は「伸びゆくとすればまず縮む。今日の節約緊縮は将来のためであって、節約の結果は手に残り、将来の発展の基になる」と訴えた。しかしこのため農村の窮乏が始まり、不況による自殺、心中が連日報じられた。東北の農村では女の子を東京の花街・ヨシハラに売って飢えをしのぎ、男の子しかいない家では嫁を貰ってその嫁を売った。ひどい。もっともこの実例は、今日の東南アジアや南米諸国でみることができる。農家の窮乏は不況プラス凶作のダブルパンチであった。
農村ばかりではない。政府は賃下げをすすめたから、代表的な産業の紡績業の大手である鐘ケ淵紡績まで一九三一年には三〇パーセントも下げている。また紡績業では二〇パーセントが職を失った。各地でストライキは頻発した。国民に対して愛情をもたない一貧者を切りすてる政治がつづいた。おりしも政党の腐敗があいついで起こる。田中内閣の末期には、政友会の小松平吉鉄道大臣の免許にからむ五私鉄疑獄が起こる。つづいて元老桂太郎の娘婿である天岡直嘉一賞勲局総裁)の売勲疑獄、そして山梨半造朝鮮総督の朝鮮疑獄とつづく。これは朝鮮の利権をめぐるものだ。 二.二六事件で反乱した将校たちが主張したように、政治的な昭和維新が急務であった。だが、大権を有する天皇と国家がみずから路線修正ができないために、日本の滅亡が始まるのである。桜会を結成した橋本欣五郎らは、やがて海軍側と合体して「星洋会」をつくる。海軍はあてにできないとして、やがて大川周明らの右翼と結びついてゆく。 「アジアを侵略しているのは西欧であるから、まずアジアから英米仏の侵略政策を駆逐して、かつて隆盛を極めたアジアのように復興さす。同時に西欧の侵略政策を停止さすために革命を起して、アジアとヨーロッパを対等にする。こうして両者が対等平等になって手を結んだときにはじめて人類に平和と光明がもたらされる、そのため、まず日本を革命してアジアの指導勢力としなければならない」(『昭和史発掘』)というのが、大川の思想であった。しかし、中国に最も深く侵略し中国人を殺しまくったのは日本であった。 橋本や大川は「日本を革命してアジアの指導勢力とする」ことを目的とした。その言やよし。たしかに日本を革命しなければアジアの指導者などになれるはずはなかった。しかし革命とはまず王権の変革であって、日本においてはその才の乏しい昭和天皇の無限の権力を制限しなければならなかった。残念ながらそのような思想家は出現していなかった。革命とまでいかなくともよい。軍縮や農地開放が必要であったのに、無学な軍人は、侵略戦争の拡大によって農村の困窮などの問題を回避できると考えた。国内の矛盾を侵略によって解消しようというのである。 橋本、大川らはクーデターの準備にかかったが、リーダーにと考えた宇垣陸軍大臣が突然「この革新運動から降りる」といいだしたため、一九三一年のいわゆる三月事件は不発に終わった。宇垣はクーデターなどしなくとも、自分が総理になれそうになったのでおりたといわれる。親分もまた権力欲の権化であり、ご都合主義者であった。 |
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○陸軍は「私戦」しつづけ、天皇は「私戦」を追認した クーデターの陰謀というときわめて秘密裏になされたと思われようが当時の雰囲気はちがっていた。一九三一年六月、橋本は朝鮮軍参謀神田中佐と会って「将来満州事変が起こった場合、朝鮮軍の独断出兵をしてくれ」と頼みこみ、神田はこれを快諾した。独断出兵は明らかに違勅(天皇無視)であるが、このような重大なことでも幕僚たちはかんたんに私議していた。もはや日本の陸軍は国軍ではなくして私兵であり、肥大化した暴力団であった。昭和天皇の張作霧爆殺事件(一九二八年)以来の陸軍軍閥の行為追認主義が、このような事態を招いたといえよう。 またこの頃、橋本は関東軍の坂垣征四郎大佐と会って「満州はやりますか」と聞いたところ、坂垣は「やる。嘘はいわん」と答えている。会社でいうならば会長や社長の知らないところで、犯罪の計画を課長間で打ち合わせて決行してしまったようなものだ。こと満州の略奪については、陸軍は勅命違反も下克上も承知のうえ、私戦すら辞せずという構えで一致団結していたのである。天皇がこんなことになるまえに追認の姿勢を改めて、手を打たなければならなかったのである。 一九三一年九月一八日、関東軍は奉天北郊の柳条溝で爆発事件を起こし、これをきっかけとして関東軍は一挙に出兵して、一九日朝、奉天城を占拠し、その日のうちに満鉄沿線をことごとく制圧した。そして二一日には、かねての約束どおり朝鮮軍一カ師団が勅令なくして、司令官林銑十郎大将の命令のもと国境を越えて満州に入ったことはすでに述べたとおりである。これは張作森爆殺につづく「私戦による侵略」であった。 昭和天皇ははたしてこの侵略をどう受けとめたか。天皇は追認し、賞めたたえたのである。板垣、神田、橋本ら佐官クラスの共謀によるこの満州事変から、支那事変、英米との対決となり、結局、「天皇の軍隊」はアジアの民衆、日本の庶民にかぎりなき悲運をもたらした。この昭和天皇が、のちに二・二六事件の青年将校らを私戦、反逆の罪で罰するのだから大きな矛盾ではないか。天皇はそれまでは私戦、反逆であっても、結果が満足ならばよしとして追認し、完全に法治国家を否定してきたのである しかし一度でも私戦を追認すればあとは「私戦万歳」である。この国家による私戦追認システムは天皇がつくったものである。このような昭和天皇の私戦追認が、日本陸軍の秩序を失わせ、陸軍をして違勅のテロをあえてつづける一大暴力組織と化さしめた。しかも天皇は二.二六事件によってクーデター恐怖症ともいうべき症候を示すことになる。 橋本らは三月事件で宇垣をかついだがおりられてしまったため、桜会の将校らと打ち合わせて、クーデターにより荒木陸軍大臣を首相としようと企てた。一九三一年一〇月一〇日頃、橋本は大本教の出口王仁三郎と会い、出口から大本教の信徒一〇万人の支援の約束をもらったという。一〇月一三、四日頃、橋本は陸軍参謀本部で荒木と会い「近く革命を断行するから、われわれの盟主になってほしい」と頼んだが、荒木にことわられる。橋本たちのクーデターの準備はこのように公然と行なわれていたのだ。さすがの東京憲兵司令部もやむをえず、重い腰をあげて橋本を逮捕する。 かくれて行なわれるから陰謀であろう。当時のクiデター計画なるものはなかば公然としていた。常識をもつものには異様でしかない。これが一〇月事件といわれるものだが、逮捕された橋本はクーデターはやめると断言、参謀総長の金谷大将から与えられた罰は、なんと謹慎二五日という形式だけのものであった。当時、国民はこれを知らず、日本は亡国への長い旅路につく。ときに関東軍の河本大作参謀は「日本政府はことごとに吾人を制約し、大事を完成するを得ず、ここに関東軍は帝国より分離独立する」ととんでもない電報を打って、橋本らを側面から援助した。橋本らの三月事件と一〇月事件は失敗に終わったが、しかしそのかげで大事―--満州事変はちゃんと行なわれたのである。橋本らの二つのクーデターは、のちの五・一五事件、そして二・二六事件のモデルとなり、日本は泥沼の戦いの中へと突きすすんでゆく。 |
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○ 二・二六事件の原因は天皇の二重性にあった 昭和天皇は明治以来の大日本帝国憲法のもとで英米に宣戦し、全国民に全力をつくして戦えと号令した。旧憲法の特質はなによりも天皇の大権にあった。前文にあたる勅語で「国家統治の大権は朕がこれを祖宗に承けてこれを子孫に伝うるところなり」として、主権在民ではなく天皇の主権を明示し、第一条以下で天皇の諸大権を展開する。「第一条大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」であり、「第三条天皇は神聖にして侵すべからずとあって、「第四条天皇は国の元首にして統治権を総攬しこの憲法の条規によりこれを行う」なのだ。総攬とはひらたくいえば、一手にとりしきるということであるが、明治天皇は人民に対しては「神聖なる天皇」であったが、じつは統治権は元老にゆだねハンコを押すだけであった。 そして忘れてならないことは、第一一条で「天皇は陸海軍を統帥す」と定め、第二一条で「天皇は陸海軍の編制および常備兵額を定む」とし、第二二条で「天皇は戦を宣し和を講しおよび諸般の条約を締結す」とあるのである。このようなもろもろの大権を有する天皇は、二・二六事件において戒厳令を発し、討伐命令を出すことになる。明治天皇とはちがい、「統治する天皇」として権能した。戒厳の宣告は憲法第一四条にある。「天皇は戒厳を宣言す」と。 「当時叛軍に対して討伐命令を出したが、それに付ては町田忠治を思い出す。町田は大蔵大臣であったが金融方面の悪影響を非常に心配して断然たる処置を採らなければパニックがおこると忠告してくれたので、強硬に討伐命令を出すことができた。だいたい討伐命令は戒厳令とも関連があるので軍系統かぎりでは出せない、政府との諒解が必要であるが、当時岡田(首相)の所在が不明なのとかつまた陸軍省の態度が手ぬるかったので、私から厳命を下したわけである。私は田中内閣のにがい経験があるので、事をなすには必ず輔弼のものの準言にまちまたその進言にさからわぬことにしたが、この時と終戦の時との二回だけは積極的に自分の考えを実行させた)(『昭和天皇独白録』以下『独白録』と記す)と天皇は語っている。 二・二六事件(一九三六年二月二六日)について、慣習を破ってみずから反乱軍の鎮圧を命じたことを強調し、天皇はこのことを誇るかに見える。しかしさきに見たように、明治憲法によって、天皇は「神聖なる天皇」と「統治する天皇」という二重性をもっていたが、二・二六を起こした青年将校たちが理想とした天皇は、前者の「神聖なる天皇」であり、後者の天皇ではなかった。 青年将校が二・二六で重臣たちを殺したから悪いといっても、明治維新は将軍家茂と孝明天皇を暗殺して始まった。日本は王妃を暗殺して朝鮮を併合し、張作霧を爆殺して満州を奪った。このことは、日本が暗殺を国策として、また正当な手段として利用してきたことを意味している。昭和天皇は張作霧を殺した真犯人は処分せず、その件については権限のない田中首相をやめさせた。二・二六の三年前の五・一五事件では、犬養首相が海軍将校らによって暗殺されたのに犯人は死刑になっていない。二・二六事件の犯人たちだけが極刑となった。天皇は大筋として、二・二六の処理によって荒木貞夫をリーダー格とする「皇道派」を弾圧し、それに対抗する「統制派」と財閥の結合、つまり産軍複合体にのったといえる。皇道派をつぶして陸軍を統制派に一本化すれば、中国侵略に走ることは明白であった。結果からみると、天皇は自分に責任が及ばないようにして、帝国主義戦争をつづけて中国支配を成功させたかったといわれてもしかたがない。 |
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○首相を殺害しても死刑にならない 「一九三二年一月、一〇月事件の挫折をみて絶望した井上(日召)らは拳銃一〇丁を入手して、元老西園寺公望、内務大臣牧野伸顕らの特権階級、元大蔵大臣井上準之助らの政界指導者、三井合名理事長団琢磨ら財界代表を対象とする暗殺計画を練り上げた」(中村隆英『昭和史T』)。井上日召は日蓮宗の僧侶で、一人一殺のテロを指導した。→九三二年二月、前大蔵大臣井上準之助を射殺し、三月、三井の理事長団琢磨を射殺した。これを血盟団事件といい、井上日召は無期懲役となった。海軍の古賀清志、中村義雄両中尉は井上日召とかねてから密約を結んでいたので、このあともクーデターを計画している。それが五・一五事件となった。 古賀と中村は大川周明を訪ねてピストルと軍資金の提供を求め、「第一段は首相官邸、牧野内大臣邸、華族会館、工業クラブ、第二段は東郷元帥を宮中に参内させ、陸軍刑務所を襲って血盟団被告を奪還する」というプランを定めた。陸軍士官学校の生徒も参加していた。かくて一九三二年五月一五日、古賀ら海軍将校はテロを実行。犬養首相の官邸を急襲した山岸中尉は「問答無用、射て」と叫び、黒岩少尉と三上中尉は犬養首相をピストルで射殺した。「話せばわかる」と叫んだ犬養を銃殺したことに大義はない。 犬養は一九二四年、加藤高明内閣で逓信大臣をしているが、逓信大臣になる頃は切手代にも困って、書いた手紙をはるばる歩いて相手にとどけた。その清廉さはいまどきの政治家とちょっとちがう。古賀中尉は牧野内大臣官邸を襲って手榴弾を投げ込み、さらに巡査一名を銃撃したが、牧野本人を射つことはなかった。これは牧野と親しかった大川周明の指示であった。 事件の裁判は、海軍軍人に対しては海軍軍法会議で、陸軍士官学校生に対しては陸軍軍法会議で行なわれた。判決文はともに甘い。とくに陸軍軍法会議は甘かった。総理大臣を射殺した三上中尉が禁鋼一五年で最高刑であった。この程度の刑であったことから、この時代の傾向は推して知るべしであった。このあともテロが頻発するのである。そして軍閥(皇道派、統制派)、右翼、皇族らの私闘はつづく。 以下、その要点をあげる。 大川周明創設の神武会の今牧嘉雄らは斉藤首相(一九三二〜三)暗殺に失敗する。天行会の児玉誉士夫らは政財界の巨頭や重臣の暗殺に失敗する。神兵隊の天野辰夫らは「秩父宮を首相にして昭和維新を行なう」計画をたてる。一九三三年一〇月には、陸軍の武藤章中佐、池田純久少佐、辻政信大尉らが新日本国民同盟の赤松古麿らに暴動を起こさせて、軍が戒厳令を敷いて皇族内閣をつくろうとするクーデター未遂事件があった。この事件の黒幕は陸軍統制派の連中で、それを知った参謀本部は辻政信らを満州に飛ばしてしまった。統制派のリーダーは当時参謀本部第二部長の永田鉄山で、その子分が東条英樹や辻政信なのである。 この頃、参謀総長の閑院官載仁親王はみずからの立場を忘れ、軍閥の一派である統制派に加わっている。統制派に対抗した皇道派の眞崎大将を嫌ったからである。陸軍の統制派と皇道派の派閥争いについに皇族まで参入した。永田鉄山は東条を陸軍士官学校の校長に任命し、東条は辻をその生徒隊の中隊長に任命した。この人事は一見左遷ともみえるがじつは永田の謀略であり、皇道派を倒すべきウルトラCがかくされていた。 一九三四年八月、東条英樹は久留米第二四旅団長に転任が決まったが、そのときひそかに辻に対して「皇道派の陸軍士官候補生にクーデターを起こさせて一網打尽にしろ」と命令した。辻はもともと自分でもクーデターをやって失敗した人間だから、ヤラセに回るのはしごくかんたんである。さっそく佐藤勝郎という士官候補生を手なずけてスパイに仕立てて、皇道派の村中孝次大尉や磯部浅一主計に接触させた。 一九三四年一一月、憲兵隊は、皇道派の連中がクーデター計画をつくったとして、村中大尉、磯部主計、片岡中尉のほか五人の士官候補生を検挙した。これは「一一月事件」といわれるが、一九三五年三月なぜか不起訴と決定した。このため統制派は未遂事件では皇道派はつぶせないことを知り、ひそかに青年将校たちにクーデターの実行をけしかける。当然、重臣たちの犠牲も見込んでいた。 |
[3939] 鹿島 f 氏、『昭和天皇の謎 神として人として 新国民社 白人支配に抵抗した日本が、アジア支配に向かう悲劇 1994年、6月30日、初版発行』の、一部引用ご紹介、他、(2004年、11月10日、午後1時17分、打ち、ログ!!))[2938]の、つづき部分 投稿者:白金 幸紀(しろがね ゆうき))会員番号 1738番 投稿日:2004/11/12 |
4 天皇、クーデターを断罪す―――二・二六事件の真相を追う |
○降りしきる大雪のなか「二・二六」の幕はあがった 大雪の一九三六年二月二六日、皇道派の青年将校に率いられた反乱軍の主力は首相官邸を襲って、首相の岡田啓介海軍大将を殺そうとしたが、岡田は義弟の松尾陸軍大佐の身代わりによって難を逃れ、押し入れにかくれていた。しかし大蔵大臣高橋是清、内大臣斉藤実海軍大将、教育総監渡辺錠太郎陸軍大将は殺され、侍従長鈴木貫太郎海軍大将は重傷を負った。 反乱軍の指導者の一人、安藤大尉の調書によると、襲う対象は、岡田首相、斉藤内大臣、高橋大蔵大臣、鈴木侍従長、牧野伸顕前内大臣、渡辺教育総監、警視庁、陸軍大臣官邸などとなっている。反乱部隊は首相官邸、陸軍大臣官邸、陸軍省、警視庁を占拠、都心部を制圧した。天皇によって二七日に戒厳令が施行される。二九日鎮圧。総理大臣秘書官迫水久常は、岡田首相が女中部屋の押し入れにかくれていることを知り、湯浅宮内大臣一のち内大臣一を通じて天皇に報告したところ、天皇は「一刻も早く安全なところへ移せ」と命じた。 迫水秘書官はまず、近衛師団長の橋本虎之助に救出を頼もうとしたが、湯浅は「それは危険だ」といってとどめた。そこで迫水はやってきた大角海軍大臣に「首相は生きています。救出のため、陸戦隊の出動をお願いしたい」といったところ、大角は「キミ、ボクはその話はきかなかったことにしておくよ」といって体をかわしてしまった。実質的には大角海相は勅命にさからったことになる。大角はのちに一九四〇年七月、第二次近衛内閣が日独伊三国軍事同盟を結ぶときまっさきに賛成して、海軍の同盟反対の意向をつぶしてしまったおそまつきわまる大将であった。 二・二六事件は、中国侵略を図る陸軍統制派にしめつけられ、ひそかに誘導された皇道派の青年将校が暴発したものであり、そのトバッチリを受けたのが殺された重臣たちであった。しかもすでに述べたように、統制派も同じようなクーデターを計画して失敗した経歴があるのである。 すなわち皇道派といい統制派といっても、クーデターで軍人の支配を狙うことは同じであった。軍人でもゴロツキでもピストルを持てば射ちたくなるものであり、これをさせないのがトップの責任というものだ。 この時代は、不況の反映であろうか、多くの人が異常な情熱にうかされて活動していた。筆者は「二.二六のスポンサーは出口王仁三郎で、当時のお金で六億円という大金を出した」とある人から教えられたことがある。大本教関係者の中には否定する人もいるが、出口には常軌を逸したところがあり、金を出したとしてもおかしくない。皇族たらんとしたのか法皇でも狙ったのかはともかく、彼の行動には計画性がなく場あたり的なところがあった。また、反乱した青年将校の理論的指導者北一輝のスポンサーは主として三井財閥であった。 皇道派は結果として弾圧されたものの、ともかくクーデターは敢行された。天皇は激怒したと伝えられているが、満州建国を追認した天皇に、二・二六を非難する資格はない。満州国は幕僚将校たちが橋本欣五郎のクーデターと連動して行なった張作森爆殺の成果ではないか。二・二六についてさらに考えてみよう。 皇道派の荒木陸軍大臣は、イギリスからきたバーナード・ショーと対談してこういったものである。「戦争の器材が進歩してくるが、それだけ金がかかる。もっとも経済的でよいのは竹やりで戦争することだ」 。現実に日本はさきの戦争末期、竹やりで武装した。いや武装しただけなく、沖縄の人はそれで戦わされた。統制派に対抗する皇道派が一掃されたため日本の中国侵略が行なわれ、その結果、中国に共産党政権が出現し、いまにいたるまで中国一二億の人びとの自由が奪われつづけているといえば歴史の読みすぎとなろうか。 |
○ 中国侵略をすすめた影の犯人、木戸幸一 ところで、二.二六について事前に情報を得ていたとされる人が二人いる。ひとりは、二.二六のあと陸相となった統制派の寺内大将である。終戦時の陸軍大臣の阿南は皇道派の真崎大将の弟の真崎海軍少将に「寺内は二・二六のとき早朝参内して、この事件の黒幕は真崎大将であると陛下にいいつけた」といったという。事件の朝、寺内は早朝から陸軍省の馬場に来て乗馬の練習をし、事件のあとまっさきに宮中に入った。事前に情報を得ていたもうひとりは内大臣秘書官長の木戸幸一である。木戸幸一の息子の木戸孝澄は当時学習院高等科二年生であったが、のちの東宮侍従黒木従遠に対して、事件前夜「今夜あたりからいよいよ決戦になるらしいぞ」といったという。西園寺公望は事件の日は木戸から午前六時四〇分頃電話を受け、静岡警察に逃げ込んで避難したといわれる(午前六時四〇分頃興津の西園寺公邸に電話を以て事件を御知らせす――木戸日記)が、皇道派の真崎大将はこれは前日のことだったといっている。 一九三七年二月二二日、木戸幸一は陸軍法務官伊藤章伸の取調べを受けているが、伊藤はのちに児玉誉士夫に対して「二・二六の指導者の一人から重臣に通ずるものがあって失敗に終わった。もし成功していれば日支事変はおきなかったかもしれぬ」と語っている(児玉誉士夫『われかく戦えり』) この重臣とは木戸幸一のことであろう。なぜ「重臣に通じていたから失敗した」といったか。二・二六が成功するためには、反乱軍が天皇の身柄を確保しなければいけない。伊藤は児玉に反乱軍はそれに失敗したといったのであろう。 それでは木戸に通じていた「事件の指導者」とはいったいだれであったか。 皇道派の真崎大将は、二・二六のあと逮捕されて起訴されたが、その軍法会議に四項目の疑問を提示した。 (1)本事件は当時裁判中であった相沢中佐(永田鉄山軍務局長殺人)を不利に陥れるから、相沢中佐に同情ある者のすべきことではない。だれがクーデターによって相沢を救えるといったのか。 (2)前憲兵隊長持永少将の言によれば、二・二六事件の計画構想は橋本らの一〇月事件のままである。だから一〇月事件に取締側で関係した幕僚が二・二六事件でもやらせたのではないか。 (3)一一月事件(陸軍士官学校事件)と同様に二六日頃大阪で、さらに夕刻に小倉で「事件の背後に真崎あり」とのビラがまかれている。あらかじめ準備していたのではないか。 (4)西園寺公はあらかじめ事件を知って二五日夜、静岡県警察部長官舎に逃れていた。 一九三六年七月一〇日、真崎は、真崎らを告発(反乱幇助罪)した磯部浅に対決させられたが、磯部は大いにやつれ狂気のごとく興奮して「彼らの術策に落ちました」と叫んだ。沢田法務官は壇から下りて磯部には「君は国士だからそんなに興奮しないで」といって室外に連れ出した。真崎には「それらは問題外なので触れて下さるな」といった。 真崎は憲兵隊に一年半捕らえられたのち、無罪となっている。 二・二六の反乱軍のひとり山口一太郎大尉が獄中でしたためた『続・丹心録』によると「三年ばかりまえ、万一皇道派の青年将校たちがクーデターを起こしたら、これを機会に青年将校と老将軍連中を一網打尽にして、軍政と政権を一手に掌握しようともちかけられた。この計画者は武藤章、片倉衷、内務省警保局の菅太郎であった」とある。山口は統制派によるこのもちかけには同意しなかったが、岳父の本庄侍従武官長にいわれて同意したらしい。 山口は事件当日、反乱部隊を外出させたあと、岳父の本庄侍従武官長に報告の電話をしたらしいところを関根衛兵司令に見られている。山口が内通者だったのである。決行後、山口が反乱部隊代表人の、ことき態度をもって軍事参議官や戒厳司令官と折衝したことは、判決理由に書いてある。『本庄日記』によると、「宮中にいた本庄に山口が電話して工作を依頼した」とある。 ところで山口大尉は、主だった反乱将校がすべて死刑となり、民間の北一輝らまで死刑となったのに無期となって、生命は助かった。山口も死刑というのが反乱将校らの予想であっただけに、ここに事件の真相がかくされているのではないか。 寺内大将と木戸幸一はあらかじめ事件の発生を知っていた。彼らの意を受けたものが青年将校たちをクーデターにさそいこんだとすれば、そして事件ののち主犯格の磯部、村中、栗原らが真崎らを告発し、真崎が逮捕されたことを考えあわせると、事件に導いたものの目的は「クーデターをやらせて真崎らを逮捕し、皇道派を全減させる。そしてクーデターの恐怖によって反対をおさえて中国に侵略する」ということだろう。であるならば、クーデターを教唆したものは統制派の黒幕ではないか。 さきに伊藤法務官が「重臣に通ずるものがあった」といったが、寺内大将では重臣といえないから重臣とは木戸幸一であろう。山口大尉は教唆者と思われる岳父の本庄の指示を受けて心ならずも青年将校に密着したのであろう。山口は統制派のスパイであって、本庄に情報を提供し、本庄がそれを木戸に連絡したというのが、筆者の推理である。 真崎らを告発した栗原、磯部、村中の三人も、陸軍士官学校事件の処分以降、統制派と取引があった疑いは残るが、彼らは積極的に情報を提供したわけではなく、統制派のなにものかにたくみにリモートコントロールされたのではないか。このような状況から考えると、クーデター教唆の元凶はおそらくかつて陸軍士官学校で「ヤラセ」をやりすでに統制派を率いていた東条英樹であり、その協力者は木戸幸一であろう。二人の犯罪同盟はこの頃からできていたと考えられる。 単純にこうも考えられる。木戸がクーデターの情報をかくして、反乱軍のターゲットであった岡田首相や高橋蔵相を見殺しにしたのは、彼らが殺されてもひきあうくらいの目的が木戸にあったからではないか。
二・二六の前年、一九三五年一一月二六日の閣議で高橋是清蔵相は「国防というものは攻めこまれないように、守るに足るだけでよい。だいたい軍部は常識に欠けている。軍部はいったいアメリカとロシアに対して両面作戦をするつもりか。アメリカと戦って、ニューヨーク、ワシントンまでを占領できるのか。またロシアと戦って、モスコーまで行けるつもりか……いま要求されている地方幼年学校の増設は全く無意味である。小学校からただちに地方幼年学校に入れ、杜会と隔離した特殊の教育をするというのは不具者をつくることだ。…・-その常識を欠いた幹部が、政治にまでくちばしを入れるのは言語道断、国家のわざわいである。麻布三連隊で入営兵士の父兄に対して山口大尉が曇言を吐いたというが、なぜ陸軍はこれを処分しないのか」と川島陸相につめよった。 川島陸相はなんの反論もできずにただ黙々ときいていたが、さきに述べたように、山口大尉は本庄侍従武官長の女婿で木戸や川島らのためにスパイになっていたらしい。 木戸が二・二六事件の予告を受けながらこれを高橋たちにつげずに高橋たちを見殺しにしたのは、木戸自身がすでに統制派軍人と同じ心情になっていて、高橋の正論が邪魔になっていたからであろう。いいかえると、木戸は青年将校の反乱を知りながら情報を独占してたくみに高橋らを死にいたらしめたのである。高橋に対して閣議で川島が反論できなかったのは、このような山口の秘密の役割を口外するわけにはいかなかったからであろう。 |
○「天皇激怒」は自身がテロの標的になったからだ 二・二六事件で天皇は激怒した。重臣たちを殺した凶暴な将校は許せない。自分を真綿でしめ殺すようなものだと。反乱軍は天皇をとらなかった。天皇をとらなければ負けである。二月二六日、反乱指導者の一人の野中大尉は警視庁を占拠して、宮城に潜入した中橋中尉の連絡を待っていたとされるが、何の連絡であったか。 松本清張は「もっとも磯部にはひそかに期するものがあった。それは中橋基明による近歩三(近衛歩兵第三連隊)の部隊を赴援隊と詐称して宮城へ入れ、守衛隊本部を占領、坂下門を閉鎖して重臣や要人の参内を阻み、天皇を擁することであった・・これが成功すれば、決行部隊はほとんど万能に近い威力を発揮したであろう」(『昭和史発掘』)と述べる。 モズレーは『天皇ヒロヒト』の中で、このことを次のようにいう。「反乱軍の野中大尉は若い中尉を一人選んで、天皇に最後通告に等しいものをもっていくよう命じた……中尉は天皇の面前で反乱軍の主張を読みあげたのち、その勅許を求め、もし断られればその場で拳銃を抜いて天皇を射殺することになっていた-…・」。 この中尉が中橋であるが、中橋は宮城内でなにも果たすことなく、雪の積る二重橋から退去していった。これではクーデターが成功するわけがない。こんな重要なことは、反乱軍のリーダー格のもの、たとえば安藤大尉あたりがみずからすべきことであった。二・二六の青年将校は敗れるべくして敗れたといえる。 明治維新の木戸孝允は「玉」の重要性をくり返しいっていた。「玉を奪われ候ては、実に致し方なし」とか、「うまく玉をわが方へ抱え奉り候御儀、千載の大事」とか、である。二・二六の青年将校は、「玉」の重要性を維新の先人たちから学んでおくべきであった。 天皇は重傷の侍従長鈴木貫太郎の妻と親しかったという。その亭主を殺そうとし、しかも自分をも狙ったと思われる青年将校らを許すはずはなかった。生命の恐怖に直面したときは、平凡な人間はたいていは理性を失い感情を制御できないものだ。 事件成功のためには徹底的なテロが必要だったがそれもなかった。また、こんな状況ではクーデターにひそかに同意していた秩父宮ものりだせるはずはなかった。青年将校サイドには特定の指導者がなく、集団指導だった。意思疎通も以心伝心で、中橋のやるべきことを中橋が理解していると他の将校らは思ったのだろうが、中橋にはそれがわかっていなかったらしい。 革命であろうとクーデターであろうと、権力が集中していなければ勝てるはずはない。 衆目のみるところ、反乱グループ内では安藤輝三大尉がリーダーとなるべきであったが、安藤ははじめクーデターに反対し、のちになって参加したため全体の指揮をとるにいたらなかった。くり返すがクーデターの実体は集団指導であり、あえていえば烏合の衆であった。 二月二七日、川島陸軍大臣は天皇に反乱軍の免責を進言したというが、天皇は断固として「一刻も早く反乱軍を鎮圧せよ」と命じた。はたして統制派の川島は天皇に免責を進言しただろうか。逆に天皇をたきつけたのではないか。 また川島は独断で軍事参議官会議を召集したというが、この会議は皇道派の荒木、真崎の両大将が全体をリードし、「陸軍大将告示」によって、(1)決起の趣旨は天聴に達した(2)諸君の行動は国体の顕現の至情に基づくと述べて、反乱側を勇気づけた。また、反乱軍を麹町地区警備隊とする命令も発せられた。川島はこの席で荒木や真崎の失言、勇み足を期待したらしいが、二人ともさすがにその手にのらず、言質を与えなかった。しかし天皇は後藤文夫臨時首相に対して「この反乱を鎮圧して煽動者を処罰してほしい」と命じ、さらに「みずから近衛師団を率いて鎮圧する……馬をひけ!」と怒鳴ったという。「煽動者」と口に出したということは、実行者の青年将校以下一〇〇〇余名のほかに犯人がいたということであるが、事件について天皇に予断があったことを示している。天皇の予断は、寺内が「真崎が黒幕」といいつけたひとことが原因であろう。 しかし天皇ともあろう人が、こんな事件でヒステリックにいちいち興奮していたら、戦争のときはいったいどうする?。このようなヒステリックな天皇の怒りは、重臣を殺したという非合法な暴力に対してでなく、自分がテロの目標であったと考えたためではないか。天皇にとってはどうせ「使い捨て」になる重臣の命なんかいくらでも代わりがある。 「この日本陸軍をゆるがした反乱とその後の処置は、天皇が名目だけではない実質的にもある種の絶対権力をもった大元帥であることをいかんなく発揮した。そのときかれは三十五歳、大正天皇の摂政時代からかぞえても十五年の統治の経験をつんでいた。かれは自分のまえに拝脆する臣下をすべてよびすてにし、時には大声をだし、『おまえは…・・』といって叱責したりもした」(色川大吉『ある昭和史』) この二・二六で政治的慣習を無視して、青年将校を銃殺するために秘密裁判を命じた天皇が、のちにもっと重大な和戦の決を定めるときには東条ら統制派をおそれて、開戦に決したのはどうしてか。 |
○プールの水が赤く染まったリンチ ところで二・二六事件当時、東京・三宅坂の陸軍兵器廠に勤務していたO氏は、のちに渋谷で司法書士になっているが、事件から六日めに命ぜられて陸軍衛戌刑務所に食料を運んでいったところ、所長官舎で「よく来てくれた」と歓迎されて、ビールとすき焼きをごちそうになった。
「ごちそうさま」といって帰ろうとすると、所長は「ちょっとおもしろいものを見せてやる。(囚人の)兵隊が風呂に入るのを見ろ。特別な風呂だ」といった。見ると、さきに収賄罪で逮捕された造営廠の所長とともに、二・二六事件で収容された将校や兵士たちがフンドシひとつにされて、わざわざ氷を沢山入れたプールの前に整列させられ、「飛び込め」という命令でいっせいに飛び込まされた。この日はまだ雪がつもっていたから、ものすごい冷たさと思ったというのである。これは見せしめというよりもきわめて陰湿な拷問であったが、この話にはまだおまけがついていて、このとき一部の収容者が何の理由もなく銃の台尻で撲殺されたため、プールの水が赤く染まったというのである。そんなことはウソだというなら、二・二六に参加した兵士のすべてがどうなったか、調べてみればいい。挙証責任は権力側にあるのだ!
指揮していた青年将校は、事成らざれば死あるのみと覚悟していたのはとうぜんであろうが、命令にしたがっただけの兵士たちをも「みせしめ」になぐり殺すというのは、話にもならない。 これが天皇の命令の結果とすれば、なにをかいわんやであるが、じつは日本陸軍はすでにサディストの集団となっていて、常識的な軍隊ではなかった。「陛下のご機嫌がわるかったため寺内陸軍大臣に『厳重に処分せよ』とのお、言葉があり、大臣もその通りにすると固い決意だった。そのための措置、処分を十分に考えるようにわれわれもいわれてきたと、当時の海軍省法務局長大山中将は語っている」(松本清張『昭和史発掘』) |
○昭和維新は米軍によってなされた 二・二六事件の理論的指導者とされる北一輝は一八八三年佐渡の生まれで、二〇代のとき早稲田大学の聴講生として勉強した。一九二四年に侵略戦争を是認して「国内における無産階級の闘争を認識しつつ、ひとり国際的無産者の戦争を侵略主義なり、軍国主義なりと考える欧米杜会主義者は根本思想の自己矛盾なり。国内の無産階級が組織内結合をなして……流血に訴えて不正義なる現状を打破することが彼らに主張せらるるならば、国際的無産者たる日本が戦争開始に訴えて、国際的画定戦の不正義をただすことまた無条件に是認せらるべし」といっている。
また、秩父宮は二・二六のすこしまえに麻布のときの部下の坂井中尉に「決起の際は一個中隊を率いて迎えにこい」と冗談風にいったという。しかしこんなことをいえば火に油を注ぐようなもので、ことは冗談で終わるはずがない。市民の常識でいえば無責任発言であった。坂井中尉は斉藤内大臣襲撃を担当している。 のちの外相重光葵は「軍人の口から天皇への批判があって、二・二六事件のとき、天皇が革新に反対されるなら、某宮殿下を擁して陛下に代うべしと聞いた」といっている。この「某宮殿下」というのは秩父宮のことである。弘前に勤務の秩父宮は二・二六の翌日二七日の夕刻に東京に到着、まず高松宮と会ってクーデターの失敗を知り、天皇に会って食事をともにして恭順を誓った。 処刑されるとき安藤大尉は「秩父宮殿下万歳」と叫んだというが、秩父宮は二・二六によって自分に権力が与えられる状況を希望していたであろう。秩父宮の希望を不可能にしたのは中橋中尉の一瞬のためらいであった。 秩父宮は弘前で歩兵大隊長をしていたのだが、二・二六事件の直後に上京してクーデターが失敗したと知ったとき、自分の責任で事件の処理をなすべきであった。もともと秩父宮擁立が皇道派の目的であったことは関係者にはわかっていたのだから、天皇に会ったとき今回の事件は自分の責任において処理するから任せてくれといい、陸士の後輩である安藤大尉を呼び出して因果を含め安藤大尉一人を自決させれば、他の関係者の生命は助けられたし皇道派全体の存続もできたはずである。 結論をいうと、秩父宮も天皇に似て頭はよいとしても意思は弱い人間でしかなかった。 あわれ日本の行く手は暗雲が立ちこめ、まさに暴風が来らんとしていた。 憲兵隊の捜索報告書には、「(東京警備司令官香椎は)反対を鎮める責任を果たさなかった罪や反乱軍に利益を与えた罪にあたる」とあったが、朱書で「証拠そなわらず」として香椎の訴追をとどめたことがわかる。軍の上層部にも反乱を肯定する勢力があったのであり、このような勢力の均衡を破ったのは天皇の暴走だったのである。 二・二六事件には、この他にも世に知られていない事実が多くありそうであり、その当事者でありみずからテロ弾圧を誇った昭和天皇の生存中にはふれがたいこともあった。 すべての真相解明は将来に待つ以外にないが、筆者が述べた若干の事実によっても、明治維新が成功し(岩倉、伊藤らの計画が実り)、二・二六のテロによって計画された昭和維新が失敗した理由は明らかであろう。昭和天皇は昭和維新と中国侵略の選択を迫られて安易な侵略のほうを選んだのである。 陸軍の統制派幕僚たちがすすめた中国侵略という国家によるテロを制止・防止・処分できず、逆に彼らを優遇した。それは天皇の意思が弱かったためであるが、結果として大戦ヘゴーとなってしまった。皇道派の主張する対ソ連防衛は破棄され、終戦直前、ソ連の機械化軍団はいっきょに関東軍を粉砕した。これが二・二六処分の結果であった。 社会はつねに流動し、変化する。およそ王者たるものは現在だけなく未来をも見つめて行動しなければならない。急ごしらえ急場しのぎの明治のシステムとルール、すなわち明治の大日本帝国憲法は永続すべきものでなかった。 西欧列強にならって帝国主義国家となった日本は、行きづまったときにそこから撤退するもう一つの革命、すなわち昭和維新が必要だった。しかし昭和維新は結局、二・二六の青年将校によってでなく広島に原爆を落としたアメリカの手によって行なわれた。 明治憲法の寿命がつきているのに天皇や側近は気がつかなかった。昔も今も、憲法は変えるより変えないほうがラクである。政治家も結果として有能ではなく、社会のシステムは時代の流動とともに手直しをしなければいけないのにそれを怠った。財閥が解体され大地主が崩壊したのはアメリカによってであった。 |
○ 石油なき日本軍は産油国にさからえない 昭和天皇は学習院初等科時代に「尊敬する人物を書け」といわれて、級友のほとんどが「明治天皇」と書いたのに対してただ一人「源義経」と書いた。学習院では乃木将軍に教わった。乃木は明治天皇に殉死する直前に天皇に山鹿素行の『中朝事実』を贈った。山鹿素行は吉田松陰の学問のルーツである。乃木は松陰の親戚であることを自負していたから、天皇に松陰の侵略主義を託したかったのかもしれない。 そののち天皇は東宮御学問所にすすんで東郷平八郎らの教えをうけたが、もっとも影響を与えられたのは民族主義者の杉浦重剛によってであった。杉浦はいわゆる「思想右翼」であり、徹底した天皇中心主義者だった。無責任にも「日本民族はいずれ欧米などのアーリア民族と対決しなければならない」と考えていた。 杉浦の英米との対決思想は景気はよいが、当時の世界情勢からして民族中心主義は危険な思想でなかったか。 民族主義から中国差別、朝鮮差別が生じる。天皇中心主義から天皇の資質への期待が生じる。杉浦の思想の源もまた吉田松陰であり、ここにも松陰の呪いの効果があった。その単純化された民族主義には甘美な陶酔がひそんでいて、それが日本国民だけでなく昭和天皇にも深く深く影響を及ぼしていたのだった。「ブタもおだてりゃ木に登る」というが、こういうおだては国民にとっては始末に困ることになる。
たとえば英米との経済戦争といっても、日本には「石油の呪縛」があることを悟らなかったのか。 重臣たちも天皇にゴマすることに没頭していたのか、石油の時代には石油のない日本は石油のある国にはさからえないし、石油が買えるからこそ世界の強国で、買えなくなったら石油のある国と戦えばイチコロという当然のりくつを忘れていた。自分に不利益なことは考えないというのは無責任な思考停止でしかない。石油がないといっても、辛棒していれば石油なんか使わない時代がやってくる。それまで待つのが弱者の知恵ではないか。 |
昭和天皇は最大の戦争責任者-むすびに代えて- 岩倉使節団(一八七一〜七三)は、日本を欧米の帝国主義に追従させるという異常な国策を決定した。その後の日本政府は徴兵制をしき、西郷を殺し、日清・日露の両戦後、朝鮮を併合し帝国主義の道をまっしぐらに走った。このことを可能にしたのは、伊藤博文が制定した帝国憲法であった。しかしこの憲法の、国民不在という欠陥がのちに軍閥を生み、国を滅ぼす最大の原因となったのである。 インドの収奪やアヘン戦争にみられるイギリスの帝国主義は、自国の不景気対策のためにアジアを侵略して支配するという自分勝手な国策そあってまさに「悪魔の政治」であった。 こんなバカげたことに日本がなぜ巻き込まれたか。その理由は巷問伝えられるほど簡単ではない。 かつて薩長連合が成立したとき、じつはひとつの密約があった。それは長州にひそんでいた南朝の末.大室寅之祐を日本の天皇にする、そのために北朝の孝明天皇と睦仁親王を暗殺するという密約であり、この理論的指導者はすでに処刑されていた吉田松蔭であった。 このことはすでに土佐出身の田中光顕(元宮内大臣)が語っている。 密約にしたがつてじつさいに孝明天皇を暗殺したのは長州の忍者団であったが、朝廷の情報を与えたのは岩倉具視、忍者団を指揮したのは長州の桂小五郎のちの木戸孝允であった。維新政府における彼らの権力は天皇暗殺の代償であつた。 このことはいまや広く智れつつあるが、歴史偽造をこととする文部省はこんな重大な事実は歴史教科書に書かせない。しかしもっと重大なことは、孝明天皇の暗殺後即位した睦仁親王をも同じく長州忍者団が暗殺して、長州から大室寅之祐を連れてきて明治天皇としてすりかえたという事実である。 だいたい、大砲の音に驚いて気絶したという睦仁親王と、相撲をとり、乗馬にたくみで、兵隊に号令をかける、大酒飲みで猿が大好きというのちの明治天皇が同一人物であるはずがない。こんなことに疑問を感じない人に歴史を論じる資格はないのだ。 このことはほとんどの学者があえて論議を避けてきたことであるが、筆者はすでに『日本侵略興亡史』にくわしく述べた。ただこの本はすぐに売り切れてしまったので、それを機にさらに筆を加えて『国史正義』にまとめている。 さて、天皇の暗殺、天皇のすりかえという謀略に成功した明治の元老グループはことの暴露を恐れて、極端な恐怖政治をやめるわけにいかない。そのための手段が岩倉らの帝国主義であり、日本の戦争路線であった。これを「不平等条約」改訂のためというのは国民をだますための口実にすぎない。 だから徳川幕府を倒した明治政府の実体は表面上は法治国家であっても、その実はテロ国家であり、軍事国家であった。西郷隆盛は追放されて殺された。西郷は南朝革命を公表しようとした。 この体制は昭和に入っても不変であった。巨額の予算でつくった軍備も国に石油がない以上ガラクタであり、クズテツかオモチャであろう。日本の軍閥はあえてそのことから眼をそらせて自らの存続を求め、弱いものいじめの中国侵略に没頭した。そのとき昭和天皇には明治政府伝来の、帝国主義路線を修正する能力はなかった。 「ころんでもおきない」というわがままと他人依存症により、また皇軍の強さの錯覚によって、明治天皇が定めた英米従属からドイツ従属に切りかえるという統制派の愚策に同意した。 当時の日本はこのようなもっとも愚かな行動をとりたがる「ノータリン」.に事欠かなかったけれども、なかでもヒトラーに従属しようとする謀略をすすめたのは東条英樹と木戸幸一であり、彼らを追認した昭和天皇は最大の戦争責任を逃れるわけにはいかない。 すでに述べたが中国には「中原の鹿を追う」という表現があり、漢字文化圏の諸民族が、中国の本土で覇権を奪いあうことを肯定したものである。また農民に慈愛を与える軍隊が終局の勝利を得るという教訓もある。皇軍は食糧を強奪して敗れ、毛沢東はそれを禁じて勝利した。中国での慈愛とはまず食べものである。 天皇家はもと北支の伯族であり、のち扶余の王家、百済の王家となった一族である。その一族がみずから英米帝国主義に追従し、漢字文化圏の一員であることを捨ててしまった。 これが戦争責任の原点にあった。 もしアメリカ人がイギリスを侵略して支配すればそれは侵略であるが、「中原の鹿を追う」の概念で考えると、漢字文化圏の日本や台湾がシナ中央部を侵略して支配しても、それが成功すれば正義なのである。 成否の鍵は、人民に体する「慈愛」であって、天皇ヒロヒトも蒋介石も、毛沢東にそのことで敗れたのであった。もっとも天安門の虐殺、文化大革命のときの食人、チベットの苛政をみれば毛沢東の「慈愛」がまやかしであったことは明らかであるが、しょせん戦争とはこうしたまやかしの部分が決め手になるものである。われわれの指導者は中国の農民に慈愛のポーズもとれなかったのである。 なお本書の成立についてふれると、うしろにまとめた『昭和天皇独白録』など多数の書物、資料に描かれている昭和天皇の軌跡と、拙著『歴史』で展開している近現代史観に基づいて考及したものである。より詳細な理論を求められる読者はぜひ『歴史』を参照していただきたい。 |
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(私論.私見)