天津教古文書「竹内文書(竹内文献)」考その3

 (最新見直し2006.11.22日)
 
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【竹内文書と失われた超古代琉球王朝海底遺跡の深い関係】
 与那国の海底遺跡と竹内文書とはどのような関係があるのか疑問に思った方もいるのではないだろうか。実はかなり関係がある、と私は考えている。そう考えるようになった発端は、1984年に八幡書店から刊行した竹内文書『神代秘史資料集成 天の巻』に、変わった地図が載っていたからだった(『神代の万国史』には載っていない)。それは「天日神の天降りし国の図」と命名され、天孫降臨した天皇が城や都を築いた場所に三角や四角の印が付けてある。1984年といえば、まだ与那国の海底遺跡が見つかる二年前だ。ところが、その地図には沖縄諸島の海の上に都があったとも解釈できる印がついている。東経137度11分に、あのような正確な南北のラインを描く測量技術があったと思われるにもかかわらず、この地図の出来は大雑把だ。そのため地図のどこが、現在のどこに相当するのか厳密にはわからない。日本列島の本州も丸みを帯び、簡略化されているように思える。南西諸島と九州は陸続きで、伊豆諸島も本州とつながっているようだ。いつの時代の地図なのかもわからない。ただ大体の形から類推するに、沖縄と台湾の間か、台湾とフィリピン・ルソン島の間の海の上に、三角形の印が二つ付いている。もちろん小さな島の上に印があるため海の上に印が付いているように見えるのかも知れない。いずれにしても、この地図では南西諸島から台湾、もしくはルソン島にかけて六つぐらいの都が築かれたことになっている。竹内文書の面白さはここにある。天孫降臨した神々は、世界中に都を築いたことになっているからだ。「天日神の天降ろし国の図」は世界地図ではないが、それでも朝鮮半島や中国や樺太にも都の印が付いている。ほかにも、四国だけでも五カ所、本州も十一カ所、九州・南西諸島八カ所、北海道にも七カ所の都が築かれたことになっている。

 竹内文書の地図はいい加減ではないかと見る向きも多いと思うが、逆に驚くべき事実を指摘しているのではないかと思うときもある。幻の大陸と呼ばれるムー大陸とレムリア大陸を想起させる「ミヨイ」、「タミアラ」に関しては後に触れるが、『神代秘史資料集成 天の巻』には万国(世界)地図も掲載されている。これもかなり大雑把で、いつの時代の地図かもわからない。だが注目すべきは、オーストラリアと見られる大陸と日本の間にもう一つの大陸を描いていることだ。つまりフィリピンやインドネシアの島々を一つの大陸として捉えている。これは、海面が今よりはるかに下がっていた氷河期に、同地方にスンダランドという大陸があったという最近の研究結果と一致している。五大陸がまだ完全に分離していない時代の地図もある。

 もう一つ重要なのは、竹内文書に記されている神代文字とカイダ文字との類似性だ。神代文字の中に象形文字も含まれているが、これがカイダ文字に非常によく似ている。特に竹内文書の象形文字で魚の形をしている「な」の字と沼を表した「ぬ」の字、「木の絵」に似た「い」の字、ほかにも「ろ」や「わ」の字など類似例をどんどん挙げることができる。単なる偶然の一致では片づけられないのではないか。詳細な比較検討をする必要があるだろう。

 竹内文書は、いわばほとんど年表なような淡泊さで、天皇が何を作ったとか、どこに行ったとか、どこに葬られたとかとかいった記述に終始している。だが竹内文書のユニークなところは、富山や岐阜を中心として捉えながら、日本列島中の超古代の「歴史」を網羅していることだろう。おそらく神武天皇の時代をはるかにさかのぼった神代の時代に、琉球に都があったことをこれほど明確に伝えている古史古伝はないのではないだろうか。もし竹内文書に記されている琉球の記述が正しければ、与那国の海底に一万年以上前の縄文時代に造られた神殿があったとしても、なんら不思議ではない。


 こんなことを書くと、おそらく木村教授はいい顔をしないだろう。それはそうだ。ただでさえ、海底遺跡の存在に異議を唱える学者が多いのだ。「胡散臭い古文書」の類と自分の科学調査を一緒にしてもらいたくないだろう。竹内文書が偽書のレッテルを張られている以上、今の時点で与那国の海底遺跡と竹内文書を結びつけるのは得策ではない。しかし竹内文書の封印が解かれ、学会でも偽書という面だけではなく自由に研究や論議がなされるようになれば、意外な事実が浮かび上がってくるのではないかと思うのだが、いかがだろうか。

日本にも「トロイヤ」が眠っている
 竹内文書を世に出した巨麿とはいったい何者だったのだろうか。捜査当局が初めて強制捜査に着手した1930年(昭和5年)当時の新聞は連日のように、巨麿がいかにペテン師で神宝・文献を偽造し、人をだまして金を巻き上げようとしたかが、大々的に書かれている。その一方で、天津教弾圧事件の際、信者でもないのに身柄を拘束され、虚偽の事実を自白するよう強要され、挙げ句に体を壊すまで取り調べを受けた地元の名士・吉田兼吉の『神宝事件の回顧』を読むと、巨麿が実は金の亡者ではなく、人々に神宝類をひけらかして信者獲得を図ったのではないという事実が浮き彫りになってくる。むしろそこには、時の権力者により社会的に抹殺された悲劇の宗教家の姿がある。

 ・・・・・(巨麿が)天津教の布教宣伝に神宝文献を振り回しておらなかった事は、私が宝物拝観毎に立ち会って、古い信者でも初めて拝観する者が多く、ほとんど神宝文献の存在していた事を信者で知っていた者がない状態であったことでわかる。警察でも調査の結果、その真相がわかっていたようである。しからば、何をもって起訴の理由とするのか、数十人の警察官が総動員で検挙に当たり、毎日誇大に宣伝した手前、大山鳴動一匹のねずみも出ないとなっては当局の面子は丸つぶれである。自己の立場を救う道がない。そこで宝物拝観中に不敬があったという事にもってゆき、「三種の神器が竹内家にあったと竹内氏が説明した」という点に起訴の根拠をもっていゆき、その下に調書を取る方針を立てたち思われる。(中略)

 ただの一回も神宝はもちろんその文献すら見たことのない元京都帝大総長狩野亭吉博士に、「竹内文献は全部インチキ偽物なり」と岩波書店で発行する『思想』の特別号に書かせたのは誰であるか。単に雑誌へ書いただけでなく、これを小冊子として各方面に配布し、またこれを各宮家や雲上人にも奉献した由であるが、これは何人かが神代文字研究を抑圧せんと策謀した一手段であったと解する。果たしてそうであるならば、かかる徒輩に利用された狩野博士の態度ははなはだしい軽率であり、ただ逆に場合によっては恐るべき大不敬罪をも構成するものではあるまいか。

 宗教的になんら利用する事のなかった竹内文献に対し、これを調査研究をなす者に対し、邪教天津教の迷信者という汚名を被せ、新聞にまで堂々と書いて宣伝し、50~60名の役員が一年半も総がかりで、莫大な国費と経費とを消費して何もなかったでは引っ込みがつかない。よって神宮神祠に対する不敬問題をデッチ上げたのではあるまいか。

 私は拘留されている間に係の役人に幾回となく注意した。事実を事実として正しく調査せずに、頭から罪を被せようとすると、とんだまちがいが起こる。文献の内容も簡単にはわかるものではない。遊就館にある神宝鑑定の結果を待って、罪あらばどんな処分でも受ける、と。ただし私の忠告は少しも願みられなかった。そしてまったく事実に反する調書ができあがった、こんな調書が何の役に立つかと私は思う。

 新聞や、狩野博士によって事実に反する宣伝をなさしめ、軍人や有力者と絶縁させ、孤立無援とした上に竹内氏を処分しよう、という方針だから知識階級の関係者に対しては「将来竹内家に関係しない」という覚書に等しい調書さへ取ったのである、左様に私は思うのである。

 (『神宝事件の回願』より。一部現代文に改訂)

 巨麿は悲劇の宗教家だったのかもしれない。少なく天津教事件は、紛れもなく冤罪だったのだ。その中で、狩野のような権威者が竹内文書を偽書と断定したことも、悲劇といえば悲劇だった。狩野の論文により竹内文書はほぼ完全に封印されてしまったのだ。

 だが竹内文書のことを、狩野が断定したから偽書であると決めつけるのは、吉田が指摘しているように完全に誤りだ。まず、自分の目で見て、感じ、そして判断していくべきだろう。おそらく竹内文書には私たちが思いもよらなかった歴史の秘密を解く鍵が隠されている。地元の人でも解けない「地元の謎」を解く鍵もあるのではないだろうか。その実例こそが、壮大な羽根のラインであり、不思議な尖山であり、五箇山・天柱石にある祭壇のような遺跡なのである。それは原日本人が、真の歴史を後世の人が確認できるように残した遺言であるのかもしれない。ならば一人一人が竹内文書の真実の部分と向き合って、地元に伝わる謎を解こうとすることは、決して無駄なことではない。

 日本の中心が越中や飛騨にあったとする竹内文書をいぶかる人も多いと思うが、日本の中心が飛騨地方にあったとする説はそんなに突拍子もないことではない。竹内文書によると、飛騨から乗鞍岳にかけて太古にすぐれた文明が存在したことになっているが、飛騨には原始地殻に属する世界最古の岩石が存在することが明らかになっている。もし竹内文書が示唆しているように、太古において宇宙から地球に移住が試みられたのならば、おそらく降臨(着陸)したのは、こうした原始地殻に属するような地だったとみるのはごく当然のことだ。そしてデニケンが主張したように、神々の痕跡(文明)が世界中に残されていたとしても不思議ではない。

 ところが、そうした超古代巨石文明を説明するような文献など、まず残っていない。竹内文書は、その超古代文明のガイドブックとなりうる数少ない文献の一つといえるのだ。その希少性を勘案すると、仮にその内容がすべて本当でなくてもいいのではないか、一言一句事実である必要はないのではないか、と私には思えてくる。超古代文明の謎を解き明かすヒントさえあればいいのだ。なぜなら、竹内文書を知らなければ、羽根という地名に出会っても何も気が付かないまま通り過ぎて、それで終わってしまうところだった。ところが上古第14代国之常立天皇が「天空浮船に乗り祖来ガ峰(鑓ケ岳)へ羽根飛び登り行く所を羽根と名付ける」と竹内文書に書いてあることを知っていればこそ、東経137土11分にある「羽根ライン」を見つけることができたのだ。これを神々の遺言と言わずなんと言えばいいのか。

 竹内文書は、そうした謎解きのヒントに満ちあふれている『イリアス』『オデュッセイア』の二大叙事詩の作者と伝えられている古代ギリシャの詩人ホメロスの記述を信じたシュリーマンが、トロイアの遺跡を見つけたようなケースもあることを私たちは今一度、思い起こすべきだろう。

 「竹内文書の謎を解く」布施泰和・著

 「新宗教と古史古伝」裏の伝承を吸引する霊的イマジネーションの世界。

 かつて、独自の異質、かつ強烈な神話体系故に、ときの官権から大弾圧を受けなければならなかった「大本」。出口ナオを開祖とするこの宗派について、これまで多くが語られてきた。が、その底流には、いまだ錯綜した不可解な謎の部分が存在している。そしてそこには古事記、日本書紀といった、いわば表の歴史伝承に対してある、裏の伝承・古史古伝にあい通じて見えるところがあるという。武内文献、富士古文献、九鬼文献』・・・。その符号の意味するものは何? しかし、謎は謎を呼ぶ。これらの文献に照合させたとき大本のジグソー・パズルは、またひとつ、その全貌を複雑にしていくのだった・・・・

 我が国には、記紀やその他の公認された歴史伝承とは異質の伝承を秘めた文献がいくつも存在する。武内文献、富士古文献、上記など、これらの古史古伝と呼ばれる文献は、まともな歴史学の対象としてはついぞ論じられたことがない。だが、それが文字通り古史であり古伝であるかどうか、あるいはなんらかの歴史的事実が反映されたものであるか否かということはさておいても、これらの文献を単純な捏造の所産と考えるにはあまりにも事態は複雑である。これらの文献には、いずれもその出現過程暖味さや著しい混乱の形跡、複数の情報ソースの習合、さらに特定の強固な観念の繰り返しと増幅などが認められる。そして、一方で相互に矛盾した世界像を描きながら、どこかでジグソー・パズルのように合わさるところがある。そして、なによりも注目すべきことは、これらの古史古伝の多くが、大本となんらかの関係を保有していたことである。「AZ」第三号

 「古史古伝に共通する、大本の強烈・異質な神話体系」。

 王仁三郎は『竹内文献』について、「竹内古文書はわしが神界から聞いているのとまた少し違っているところもあるが、また信ずべきところもあり事実もある。鵜沢博士はこれを読んで感心して世の中が変わると云ふているのである。わしも神界から聞いているけれども、そんなこと云ふたら日本の国が潰れてしまふさかいあくまで此のままで押し通して行かねばならんので黙っておるだけじゃ」と述べていたという。古史古伝と「大本」の親密な関係について、一般的にはつぎのようなことが指摘されうるだろう。近代の神道運動は、以下のような力学内包していた。西行法師が伊勢神宮に参拝して詠んだと伝えられる有名な歌がある。「なにごとのおわしますかは知らねども ただかたじけなさに涙こぼるる」。こういう不可知論を決定的に体系付けたのは本居宣長である。神代のことは結局の所わからない。あるがまま素直に受容せよ。それをあれこれいうのはさかしらである。簡単に言うと本居宣長の到達した立場はそういうものであった。これは、事のある一面をついたきわめて巧妙な論理であり、それゆえ本居国学の基本ラインは、明治以降に輸入された実証主義史学と容易に接合され、それはまた国家公認の神話を余分な詮索からガードし、さらに迷信の根絶という近代化理念の両方の要求を満たすものとして、極めて微妙なバランス構造をもたらしたのである。こういう立場からすると、神代文字であるとか、とりわけ古史古伝といったものの存在そのものが、神代に対する妄りな解釈の根元であり、徹底的に排撃されねばならないことは必定であった。いな、古事記ですらもが、すなおに解釈されなければならず、そこに宇宙創世の密義が隠されているといったオカルティックな解釈は、絶対に公認されるものではなかった。

 これに対して「なにごとかおわす」のかを追い求めるという立場というものがおのずからあった。それを代表するのが平田篤胤である。彼はその為に、幽界に出入りしていたという天狗小僧寅吉という少年を捕まえて詳しい聞き書きを残し、道教教義に失われた太古神道の伝法の追跡を試み、神代の聖なる文字を嵬集した。
明治維新を理念的に領導したのが平田篤胤を祖とする復古神道派であり、彼らが神祇官を復興したことから、平田篤胤というと国家神道体制の礎石をつくった人物とみなされがちであるが、実際には平田派の神官達は明治四、五年の段階で政府中枢から放逐された。のみならず、人の死後その魂は大国主の支配する幽界に行くとする平田派の霊界論は、ついに公認されることはなかったのである。そのあと明治三十三年の内務省神社局の設置によって完成される国家神道体制は、神道から霊と神代の領域を幽閉するきわめて巧妙なシステムであり、論理的基盤としては、むしろ本居宣長の呪縛のほうがはるかに寄与したといえる。

 これに対し、平田篤胤の方向をより過激に継承したのが出口王仁三郎であり、古史古伝をとりまく人々であったといえよう。古史古伝がいずれも表面的には対外膨張と天皇信仰という、時局にふさわしそうな側面を保有しながら、あのファナティックに国粋主義的情念が高揚した戦時中でさえ、エスタブリッシュメントの一部に個人的なレベルでのシンパシーを獲得しながらも、組織された体制から排除され、あるいは未公認の秘説として語られ続けなければならなかった秘密は、ここにあったといってよかろう。(そう言う意味では、この国はゲルマン民族の神話を「二十世紀の神話」として再編したドイツと比べると意外と公的に常識的で健全であったのかもしれない) あるいは「大本」にしても、「なにごとがおわしますかしらねども」という立場に留まっている限りは、その主宰神がスサノオでれなんであれ、あれほどの大弾圧を招来することはなかったはずである。問題は、「大本」が独自の異質、かつきわめて強烈な神話体系という点では、「大本」に内在するものと『竹内文献』を代表格とする古史古伝は、成立の基盤には共通するものがあったと言える。
 「幽閉された、岡田茂吉の霊的イマジネーションの世界」。

 さて、現在の新宗教と呼ばれる教団の源流はいくつかあるが、その中で「大本」はやはり重要な位置を占める。大本で触れた神聖龍神会のような秘教的集団はともかくとして「大本」からわかれ、社会的に顕在化して大規模な教団形成に至った集団として、谷口雅春の「生長の家」、岡田茂吉の「世界救世教」が挙げられよう。このうち「生長の家」は教義的には古事記中心であり、古史古伝の影響はほとんど受けていないが、「世界救世教」を開いた岡田茂吉は竹内文献について次のように言及している。「昔の古い文書は神武天皇がお焼きになって終わったのであるが、其時、一人の家来が一部の物を持って逃げ、是をかくして土の中にいけこんでおいた。それが今に伝えられた。是は竹内宿祢の家に伝えられ、例の天津教の武内家にあるものにして、武内家には、その中にあった三種の神器の本物を持っているのであるが、宮内省に献上しようとしたとき宮内省では受け取らなかったのである」(論文集・未定稿)。「三種の神器はたくさんあるんだからね。あれは代々でなくても、天皇が随分揃えたのです。一番の元---古いのは天津教にある。あれが一番古い。神武天皇のもっと前です。一番新しいのは伊勢にある。あの時代に揃えた---千年か前ですね」。

 すでに岡田は、昭和元年十二月ある夜神示を受けて、五十万年以前の日本の創世記を執筆し、原稿用紙で約四〇〇枚あったが、「皇室に関する事が割合多く」、当局の家宅捜索を恐れ最初はブリキ缶に入れて土へ入れたりしていたが、未だ安心ができないのでついに消却したという。そのなかには数万年以前インドが大軍をもって九州に上陸したが、山陽道で撃退され、その子孫が台湾に落ちて高砂族になったというような話が記されていたという。

 さらに茂吉は『日本人種の霊的考察』と題する一文の中で、日本民族には四つの系統があるとして、独自の古代史観を披露している。伊都能売神皇・天照天皇確立していた純粋の大和民族と、中国の磐戸神王を祖先とするニニギノ尊の天孫民族、韓国に発するスサノオ尊の出雲民族、コーカサス地方から蒙古、満州を経て東北に上陸した「土匪」の四つの系統があったといい、すべての歴史過程はこの四つの勢力によるせめぎあいのなかで展開されたという。なお、伊都能売神皇はスサノオの出雲族から逃れ、インドに渡り観音になったといい、このあたりは「救世教」の核心をなす、観音信仰の背景として位置づけられているようである。

 一般に「世界救世教」というと、昨今は内ゲバ騒動、ダ・ヴィンチ事件のみ有名をはせ、宗教学者の間でも、浄霊と呼ばれる手かざしによる病気治療や自然農法といった側面に置いて議論される程度であったが、岡田茂吉には、大本や古史古伝の世界と通底する霊的イマジネーションの世界があったことは銘記されてよかろう。ところが、岡田茂吉の没後、「救世教」は妙な合理主義とりつかれたのか、こういった、いわば教祖の神秘的な世界観を幽閉して今日に及んでいる。実際、今引用した『日本人種の霊的考査』なども現在は公的に頒布されていない状況にある。深刻な内部葛藤の時期にある現在なればこそ、おのがは教団の出現に対して、教祖自身が行った神話的な意味付与について研究がなされてしかるべきだと思うのだが・・・・「AZ」第三号より

  「驚愕の解き明かしが始まる」。

 飛鳥昭雄氏は、古代史から宇宙論に関して幅広く仮説を立てています。特に古代史に関しては、「天照大神=イエス・キリスト説」等があります。私(ホームページ作者)はこの説には同意出来ませんが、彼の竹内文書に対する考え方や、情報がおもしろいものなので、一部抜粋して掲載します。 

 わが国の成り立ちを記した正式な国の歴史「国史」とは、奈良時代に撰録された古事記と日本書紀のことである。それを並称して「記紀」と表している。ところが、世界中のどこを捜しても、2つの国史が並立しているような国は日本くらいなものである。それも「正史」であるはずの記紀の内容が、両書で違っているのである。重複ならまだいいが、肝心要の神の名が両書で全く異なったり、親子や兄弟が入れ替わったりすることもあれば、ある業績を成した人物がもう一方の書では別人になったりしている。これでは無茶苦茶で、歴史の体すら成していない。日本書紀では「一書に日く」と引用の形をとっているとはいえ、神話時代の記述ともなると、両書とも非現実的で非科学的と断じざるを得ない。たとえば、天地開闘の後、伊邪那岐命が伊邪那美命を連れて天の浮橋の上に立ち、巨大な沼矛を泥の海に突き立てて掌回すと、重れた雫淤能碁呂島になったとか、須佐之男命が八岐大蛇(八頭八尾の大蛇)を策略で打ち倒し、尻尾を裂くと中から草薙剣が出てきた…等々、実に奇怪で異様な物語が続いていく。アカデミズムの記紀に関する見解は、こうした神蓼他愛のない空想と創作、あるいは象徴として片付け・神話時代の後の鮒天皇以降からを歴史としている。なぜ、こうした奇怪な神話を国史に取り入れたのか、その意味を探ろうともしないのである。ところで、近代の研究では「欠史8代」といって、初代.神武天皇10代.崇神天皇との間の8人の天皇は、存在しなかったとする考え方が主流になっている。なぜ欠史かというと、一国の支配者たるべき8人の天皇に業績が一切なく、ほとんど名と出生しか記されていないからである。最も重要な国の基礎固めの時期の天皇であるにもかかわらず、何の業績もないなどということがあるだろうか。まして神武天皇の後継者たちである。いくらなんでも、それは不自然というわけだ。最近では、神武天皇すら存在しなかったとする傾向にある。つまり、記紀の記述のほぽ3分の1が信じられないということだ。言うまでもないだろうが、古事記(712年献上)や日本書紀(720年献上)が日本最古の書というわけではない。たとえば古事記は、天皇家の記録である『帝皇日継(帝紀)』と、神話大系の『先舊辞代(旧辞=本辞)』から起こされている。その帝紀や旧辞でさえ、諸家で内容が異なっていたというから話がややこしい。だから40代.天武天皇が稗田阿礼に命じて誦習わせたのであろう。それでさえ前述したように様々な矛盾を抱えていて、神話時代になるとアカデミズムの信用度はゼロと言っても過言ではない。

 そのアカデミズムにも、非常におかしな現象が存在する。日本には、記紀と同じ神話時代を記した「古史古伝」と称する古文書がいくつもある。それらは写本を繰り返して現代に伝わっており、その成立年代は記紀より古いとされているのだが、それらのほとんどを「偽書」と決め付けているのである。写本といっても軽く見てはならない。記紀でさえ原本は残っておらず、東京・永田町にある「国立国会図書館」に保管されている記紀も写本である。印刷技術のなかった当時、湿度、虫食い、年月の経過等で傷んだ書は、写本するしか手段がなかった。その古史古伝で代表的なものは、何と言っても武内宿彌の子孫が受け継いだとされる『竹内文書』であろう。『古事記』には、宿禰は異様なほど長寿で、第12代・景行天皇に始まり、第13代.成務天皇、第14代・仲哀天皇、第15代・応神天皇、第16代・仁徳天皇までの5代の天皇に、244年間にわたって仕えたと記されている。それ自体が常軌を逸しているだけに、宿禰の子孫が代々同じ名を継承したとする説が有力視されている。他にも『竹内文書』と並ぶ古史古伝が全国に伝えられており、富土吉田市の「浅間神社」ら出てきた『宮下文書』は、日本の神々の発祥をアジア大陸と記している。そして、聖徳太子が蘇我馬子に命じて撰述させた『先代旧事本紀』は、第3の国史として、今では物部氏の歴史を知る上で欠かせない一書とされている。時代は下って江戸時代の書『東日流外三郡誌』には、古代の津軽地方にいた阿蘇辺族に津保毛族が混血し、その後、神武天皇に敗れた邪馬台国の安日彦と長髄彦が合流した等々、記紀にはない東北地方の歴史が記されている。それだけではない。秋田県の「唐松神社」から出てきた、物部氏の記録が詳細に記された『物部文書』があり、和歌山県の「熊野大社」の宮司職を勤める九鬼家に伝わっていた『九鬼文書』なる古史古伝も存在する。特に『九鬼文書』は、神武天皇以前の王朝として、『竹内文書』と共通する「鵜葺屋朝」の存在が記されている点で、注目すべきだろう。また、大三輸氏の流れをくむ井保家に伝えられた『秀真伝』は、漢字伝来以前の「神代文字」のひとつであるホツマ文字で書かれていて、全体が五七調の叙事詩で構成されているのだが、記紀では女神とされている天照を、"アマテル"と称して男神だとしている。

 記紀以前、もしくは古史古伝を後世にまとめたこれらの書のほとんどを、アカデミズムが"偽書"と決め付けているのはなぜなのか。その最大の理由は、記紀とは異なる内容が書かれているからである。というより、記紀にはない内容が記されているからという方が正しいだろう。つまり、アカデミズムは、記紀しか頭にないのである。アカデミズムは、記紀における神武以前の神話時代の内容が非科学的でデタラメとしつつも、他の記述はすべて史実としている。しかし、それでは反則である。彼らが目を瞑っている記紀の神話時代を解き明かしてこその正史であろう。でなければ、記紀は「デタラメな神話を含んだ国史」の汚名を着せられたまま、これからも存在することになる。そもそも古史古伝の範疇とは、記紀が記さない神武以前であるはずである。その古史古伝の筆頭が今回の『竹内文書一竹内文献を含む)」なのだ!! この古文書を偽書と決め付ける理由のひとつが、戦前の軍国主義時代を、アカデミズムが未だに引きずっていることである。当時、「八紘一宇」を掲げた軍部を中核とする「国家神道」にとって、記紀以前の神話時代を記した『竹内文書』のような存在は、国民を天皇の元に一致団結させる国策の上から、邪魔以外の何ものでもなかった。ゆえに、宗教・思想を取り締まる特高(特高警察一は、国体に混乱を引き起こしかねない古史古伝の類を、不敬罪と治安維持法違反を盾に封殺したのである。それに手を貸したのが当時の学者たちで、彼らは一致協力して古史古伝、特に『竹内文書』を〝偽書〟として袋叩きにした。もし神武天皇以前の神話時代を記した古史古伝を偽書とするなら、同じ神話時代を記す一多くの矛盾を含む)記紀も同罪である。現代のアカデミズムの考え方もこの時代からほとんど変わらず、未だに『竹内文書』に偽書のレッテルを貼ったまま、その存在を無視する姿勢を貫いている。さらに、現代のアカデミズムがひとつ覚えのように口にする、「神代文字で書かれているので偽書である」とする決め付け方が、大きな問題である。神代文字とは、漢字伝来以前の日本に存在した様々な古代文字のことで、漢字が使われるようになってから姿を消したとされる。その研究で知られた明治初頭の国学者・落合直澄氏の調査によると、当時ですでに100種類以上の神代文字が全国規模で発見されていたという。それが『竹内文書』の登場で、その数は一気に増えて、なんと400種にまでなった。戦前からアカデミズムは記号にしか見えない神代文字を、後世の作だとして、偽書を判定する"踏み絵〟にしていた。もう一度言うが、『竹内文書』のすべてを偽書とするなら、デタラメな神話を載せ、相矛盾する記述が多々ある記紀も偽書ということになる。となると、記紀が記す日本の起こりが、結果的に"偽り〟となるのである。

 ところが、ここからが重要なのだが、もし仮に、記紀神話が事実を記していたとすれば、どういうことになるのだろうか? 実はある方法を使えば、記紀神話の記述が絵空事や空想ではなく、全て過去に起きた事実を象徴していたことが証明できるのである。非常識の権化と揶揄されてきた『竹内文書』のほとんどの記述についても、しかりである。これまで数多くの研究者が『竹内文書』に挑戦し、様々な角度からその謎を解こうと試みてきたが、残念ながらこれまでに公表された研究内容は、どれも不十分だった。なぜなら古史古伝の謎を紐解くには、ある特別な鍵が必要であり、これまでの研究では気づかなかったからである。

 『竹内文書』と月の先住民 飛鳥昭雄 著より


 「楠木正成は皇祖皇太神宮神主家の分流であった」。 

 面白い説があったので掲載します。太平記に出てくる南朝の忠臣・楠木正成が実は竹内家の血を引いているという内容です。

 この大自然界には絶対普遍の法則が働いていて誰でも知っていながらこれを見過ごしている場合が多い。「類をもって集まる」ということは古来常識とされているが、これ一つ悟ることによって、誰でも自分の運命を予見することが出来る。善悪に関係なく運の良い人はどこまでも運が良く、運の悪い人は最後まで運が悪い。極くありふれた例ではあるが、会社が悪いからといってどれだけ転職しても勤め先は前にも増して悪くなる。悪の道に一度入ってしまったら、いかに逃れようとしても悪の道に引きずり込まれてしまう。これは自分の心を支配している霊が、同類の霊を求めるからで人間の力ではどうすることも出来ないものである。故に現界ど霊界を統御される天皇を信ずる者は生きるためのあらゆる霊的加護があって目的は支障なく行われるであろう。

 後醍醐天皇が笠置山を行在所とされてから、先ず天皇の詔に応じて参内した楠木正成は「正成一人いまだ生きていると聞こえましたら、聖運必ず開けるものとお思い下さい」と奉答し退いたという。天下の幕府軍を相手に、唯正成一人が相手になって討ち平げるという自信はどこから出てくるのであろうか。これは後醍醐天皇が世界を太古の天皇中心の時代に復そうとしてお一人で立ち上がられたのと同じく、この時天皇を中心とする分身楠木正成にはすでに無限の能力が与えられたのである。これまで楠木正成の出自については何一つ確たる証拠がなく、ただ賎しい武人あるいは悪党の一人であったというにとどまっている。ところが楠木正成は決して賎しい武人ではなかった。竹内家系図によると、彼は歴とした越中皇祖皇太神宮の神主家の子孫で、密命により皇室守護の大任を負って、河内の山中に子孫を残したのである。詳しくいうと、楠木正成は皇祖皇太神宮神主家竹内宿弥正系十四代目紀竹内眞麿(西紀五五二年~七四四年)と妻の田眼内親王(敏達天皇の皇女)から生まれた三男奈麿を祖先として分かれ出た楠木氏の子孫であった。戦前に伝えられていた様に敏達天皇の御血筋を引く橘諸兄を祖先としているのではなく、敏達天皇の皇女の御降嫁先竹内家から出ているというのである。だから楠木正成の自筆の書に「従五位上行左衛門少尉兼河内守橘朝臣正成」とあるのは、密令を帯びた家系として正式の祖先の名を名乗ることが出来ず、橘氏の名を借りて名乗ったものであろう。もし祖先の正しい系譜を明記すれば、必ず皇祖皇太神宮が表に出て、仏教勢力のために神宮が抹殺される恐れがあったからである。

 楠木氏がどうして河内の山に進出したかということは、記録に明示されていなくとも大凡の判断が出来るであろう。帰化人が日本征服の陰謀を企んで壬申の乱を起こしてから皇室は完全に帰化人僧侶の掌中に帰し、越中の皇祖皇太神宮抹殺の運動も激しくなった。ここに皇太神宮は衰微してしまった様に見せかけて、神主家の竹内氏と共に公に世人に知られぬ様計らったのである。

 余談ではあるが、延暦二三年(西紀八〇四年)空海が入唐して直ちに恵果和尚から密教の秘儀をさずかり、中国皇帝の前で日本人の知能を公開して上下を驚かせたことがある。これは、彼が皇祖皇太神宮で釈迦の真髄を会得し、出航に当たっては藤原氏と密議の上唐に渡ったからで、決して偶然のことではない。しかし空海は皇祖皇太神宮神主竹内赤池久江麿(母は天武天皇皇孫山形女王)との約束で、その後皇祖皇太神宮で学んだことを一切口にしなかった。日蓮の場合も皇祖皇太神宮において、神主竹内基義と共に「南無妙法蓮華経」の七字を作りこれを世に広めたが、一生の間皇祖皇太神宮で学んだことを口にしなかったのである。
この様にして神宮は表に衰微を装うと共に皇室有事の祭に天皇を守護する目的で、楠木氏を大和の要衛の地に当たる河内の山に派遣した。そのため、皇祖皇太神宮に蔵されていた兵法書(孫子、六韜三略の基となっている兵法書〉を研究することは楠木氏の使命でもあったのである。

 また皇祖皇太神宮は太古から中臣氏や忌部氏と祭祀上の関係が深く、特に忌部氏の一族は太古皇室が高山にあった頃から山に住むサンカとなり、長らく陰にあって皇室の守りとなっていた。楠木氏は河内に住み着くとサンカを支配し、これを皇室の用事に役立てていただけでなく全国のサンカの動向に通じ、居ながらにして日本全体の動きを知ることが出来たのである。ここまで考えることによって、始めて楠木正成の一人で幕府を討ち平げようとする気魄を理解することが出来るであろう。故に楠木正成の笠置山で天皇に謁見を賜うたのは先に日野俊基から知らされていたからで、天皇は笠置山に陣取られる当初から楠木正成を深く信頼されていたものである。

 さて笠置山では、先に陽動作戦の叡山の戦いで勝利を得たため幕府に反感を持つ武士が多く集まってきた。天皇が笠置山に陣取られたというので、六波羅軍数万が笠置へ向かう。また天皇挙兵の報が鎌倉に伝えられると、幕府は大軍を差し向ける。この時の大将は、大仏貞直・金沢貞冬・足利尊氏等であった。なお足利尊氏は当時名を高氏といったが、建武中興に大功があったというので、天皇の御名の一字尊の字を頂いたものである。幕府の大軍が京都に接近した時、幕府は使者に命じて光厳天皇を立てさせ、二人天皇の併立を画策した。幕府の大軍が笠置の攻撃に加わらぬ内に六波羅軍は機略をもって堅城を陥落させ、後醍醐天皇はわずかの供の者と共に笠置をいで山道を逃げ隠れられる。供の者は万里小路藤房と同季房らであった。後の話ではあるが、この二人は天皇が吉野から越中の皇祖皇太神宮へ落ちてゆかれる時も、万難を冒して常陸に至り遂に崩ぜられる時までも、よくお供をした者で、楠木正成に劣らぬ忠誠の士といわなければならない。

 さて、天皇が捕えられ宇治の平等院に監禁されると足利尊氏から神器の剣璽を引き渡す様に要求されたが、天皇は応じられなかった。天皇は六波羅南方の館へ移され、ここでも剣璽の引き渡しを拒んでおられたが、遂にやむなく光厳天皇へ引き渡しの儀が行われる。しかしその頃、楠木正成が赤坂にいるという情報だけで、大和十津川方面へ消えた護良親王の行方もまだ分からなかった。後醍醐天皇が幕府の手に捕えられながらも、神器の引き渡しに対してかたくなに応じられなかったのは、一に楠木正成が生きているという絶大の御信頼感があったからである。

 元弘元年(西紀一三三一年)十月、楠木正成が赤坂城にこもり、護良親王を奉じて幕府の大軍を迎えることになった。勿論天皇が敵手に落ち、尊良親王も捕えられて、何のために戦うのか前途に希望がないはずの状態にありながらも楠木軍五百の兵がびくともしなかったのは、兵士一同が天皇を中心とする正成の誠心に統一されていたことを物語っている。ここにも天皇の分身として類をもって集まる原理が働いていた。楠木正成を中心とする一団の兵士は、全人類の永遠の平和を志される後醍醐天皇の分身であるが、これは、自分が救われるために全人類の救済を願って宗教戦争に従事するのと、形は同じくとも中味は真逆様である。

 「後醍醐天皇~竹内文書」竹田日恵 著より









(私論.私見)