天津教古文書「竹内文書(竹内文献)」考その3 |
(最新見直し2006.11.22日)
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【竹内文書と失われた超古代琉球王朝海底遺跡の深い関係】 |
与那国の海底遺跡と竹内文書とはどのような関係があるのか疑問に思った方もいるのではないだろうか。実はかなり関係がある、と私は考えている。そう考えるようになった発端は、1984年に八幡書店から刊行した竹内文書『神代秘史資料集成 天の巻』に、変わった地図が載っていたからだった(『神代の万国史』には載っていない)。それは「天日神の天降りし国の図」と命名され、天孫降臨した天皇が城や都を築いた場所に三角や四角の印が付けてある。1984年といえば、まだ与那国の海底遺跡が見つかる二年前だ。ところが、その地図には沖縄諸島の海の上に都があったとも解釈できる印がついている。東経137度11分に、あのような正確な南北のラインを描く測量技術があったと思われるにもかかわらず、この地図の出来は大雑把だ。そのため地図のどこが、現在のどこに相当するのか厳密にはわからない。日本列島の本州も丸みを帯び、簡略化されているように思える。南西諸島と九州は陸続きで、伊豆諸島も本州とつながっているようだ。いつの時代の地図なのかもわからない。ただ大体の形から類推するに、沖縄と台湾の間か、台湾とフィリピン・ルソン島の間の海の上に、三角形の印が二つ付いている。もちろん小さな島の上に印があるため海の上に印が付いているように見えるのかも知れない。いずれにしても、この地図では南西諸島から台湾、もしくはルソン島にかけて六つぐらいの都が築かれたことになっている。竹内文書の面白さはここにある。天孫降臨した神々は、世界中に都を築いたことになっているからだ。「天日神の天降ろし国の図」は世界地図ではないが、それでも朝鮮半島や中国や樺太にも都の印が付いている。ほかにも、四国だけでも五カ所、本州も十一カ所、九州・南西諸島八カ所、北海道にも七カ所の都が築かれたことになっている。 竹内文書の地図はいい加減ではないかと見る向きも多いと思うが、逆に驚くべき事実を指摘しているのではないかと思うときもある。幻の大陸と呼ばれるムー大陸とレムリア大陸を想起させる「ミヨイ」、「タミアラ」に関しては後に触れるが、『神代秘史資料集成 天の巻』には万国(世界)地図も掲載されている。これもかなり大雑把で、いつの時代の地図かもわからない。だが注目すべきは、オーストラリアと見られる大陸と日本の間にもう一つの大陸を描いていることだ。つまりフィリピンやインドネシアの島々を一つの大陸として捉えている。これは、海面が今よりはるかに下がっていた氷河期に、同地方にスンダランドという大陸があったという最近の研究結果と一致している。五大陸がまだ完全に分離していない時代の地図もある。 もう一つ重要なのは、竹内文書に記されている神代文字とカイダ文字との類似性だ。神代文字の中に象形文字も含まれているが、これがカイダ文字に非常によく似ている。特に竹内文書の象形文字で魚の形をしている「な」の字と沼を表した「ぬ」の字、「木の絵」に似た「い」の字、ほかにも「ろ」や「わ」の字など類似例をどんどん挙げることができる。単なる偶然の一致では片づけられないのではないか。詳細な比較検討をする必要があるだろう。 竹内文書は、いわばほとんど年表なような淡泊さで、天皇が何を作ったとか、どこに行ったとか、どこに葬られたとかとかいった記述に終始している。だが竹内文書のユニークなところは、富山や岐阜を中心として捉えながら、日本列島中の超古代の「歴史」を網羅していることだろう。おそらく神武天皇の時代をはるかにさかのぼった神代の時代に、琉球に都があったことをこれほど明確に伝えている古史古伝はないのではないだろうか。もし竹内文書に記されている琉球の記述が正しければ、与那国の海底に一万年以上前の縄文時代に造られた神殿があったとしても、なんら不思議ではない。 こんなことを書くと、おそらく木村教授はいい顔をしないだろう。それはそうだ。ただでさえ、海底遺跡の存在に異議を唱える学者が多いのだ。「胡散臭い古文書」の類と自分の科学調査を一緒にしてもらいたくないだろう。竹内文書が偽書のレッテルを張られている以上、今の時点で与那国の海底遺跡と竹内文書を結びつけるのは得策ではない。しかし竹内文書の封印が解かれ、学会でも偽書という面だけではなく自由に研究や論議がなされるようになれば、意外な事実が浮かび上がってくるのではないかと思うのだが、いかがだろうか。 |
【日本にも「トロイヤ」が眠っている】 | |
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「新宗教と古史古伝」裏の伝承を吸引する霊的イマジネーションの世界。
かつて、独自の異質、かつ強烈な神話体系故に、ときの官権から大弾圧を受けなければならなかった「大本」。出口ナオを開祖とするこの宗派について、これまで多くが語られてきた。が、その底流には、いまだ錯綜した不可解な謎の部分が存在している。そしてそこには古事記、日本書紀といった、いわば表の歴史伝承に対してある、裏の伝承・古史古伝にあい通じて見えるところがあるという。武内文献、富士古文献、九鬼文献』・・・。その符号の意味するものは何? しかし、謎は謎を呼ぶ。これらの文献に照合させたとき大本のジグソー・パズルは、またひとつ、その全貌を複雑にしていくのだった・・・・ |
「古史古伝に共通する、大本の強烈・異質な神話体系」。 王仁三郎は『竹内文献』について、「竹内古文書はわしが神界から聞いているのとまた少し違っているところもあるが、また信ずべきところもあり事実もある。鵜沢博士はこれを読んで感心して世の中が変わると云ふているのである。わしも神界から聞いているけれども、そんなこと云ふたら日本の国が潰れてしまふさかいあくまで此のままで押し通して行かねばならんので黙っておるだけじゃ」と述べていたという。古史古伝と「大本」の親密な関係について、一般的にはつぎのようなことが指摘されうるだろう。近代の神道運動は、以下のような力学内包していた。西行法師が伊勢神宮に参拝して詠んだと伝えられる有名な歌がある。「なにごとのおわしますかは知らねども ただかたじけなさに涙こぼるる」。こういう不可知論を決定的に体系付けたのは本居宣長である。神代のことは結局の所わからない。あるがまま素直に受容せよ。それをあれこれいうのはさかしらである。簡単に言うと本居宣長の到達した立場はそういうものであった。これは、事のある一面をついたきわめて巧妙な論理であり、それゆえ本居国学の基本ラインは、明治以降に輸入された実証主義史学と容易に接合され、それはまた国家公認の神話を余分な詮索からガードし、さらに迷信の根絶という近代化理念の両方の要求を満たすものとして、極めて微妙なバランス構造をもたらしたのである。こういう立場からすると、神代文字であるとか、とりわけ古史古伝といったものの存在そのものが、神代に対する妄りな解釈の根元であり、徹底的に排撃されねばならないことは必定であった。いな、古事記ですらもが、すなおに解釈されなければならず、そこに宇宙創世の密義が隠されているといったオカルティックな解釈は、絶対に公認されるものではなかった。 これに対して「なにごとかおわす」のかを追い求めるという立場というものがおのずからあった。それを代表するのが平田篤胤である。彼はその為に、幽界に出入りしていたという天狗小僧寅吉という少年を捕まえて詳しい聞き書きを残し、道教教義に失われた太古神道の伝法の追跡を試み、神代の聖なる文字を嵬集した。 明治維新を理念的に領導したのが平田篤胤を祖とする復古神道派であり、彼らが神祇官を復興したことから、平田篤胤というと国家神道体制の礎石をつくった人物とみなされがちであるが、実際には平田派の神官達は明治四、五年の段階で政府中枢から放逐された。のみならず、人の死後その魂は大国主の支配する幽界に行くとする平田派の霊界論は、ついに公認されることはなかったのである。そのあと明治三十三年の内務省神社局の設置によって完成される国家神道体制は、神道から霊と神代の領域を幽閉するきわめて巧妙なシステムであり、論理的基盤としては、むしろ本居宣長の呪縛のほうがはるかに寄与したといえる。 これに対し、平田篤胤の方向をより過激に継承したのが出口王仁三郎であり、古史古伝をとりまく人々であったといえよう。古史古伝がいずれも表面的には対外膨張と天皇信仰という、時局にふさわしそうな側面を保有しながら、あのファナティックに国粋主義的情念が高揚した戦時中でさえ、エスタブリッシュメントの一部に個人的なレベルでのシンパシーを獲得しながらも、組織された体制から排除され、あるいは未公認の秘説として語られ続けなければならなかった秘密は、ここにあったといってよかろう。(そう言う意味では、この国はゲルマン民族の神話を「二十世紀の神話」として再編したドイツと比べると意外と公的に常識的で健全であったのかもしれない) あるいは「大本」にしても、「なにごとがおわしますかしらねども」という立場に留まっている限りは、その主宰神がスサノオでれなんであれ、あれほどの大弾圧を招来することはなかったはずである。問題は、「大本」が独自の異質、かつきわめて強烈な神話体系という点では、「大本」に内在するものと『竹内文献』を代表格とする古史古伝は、成立の基盤には共通するものがあったと言える。 |
「幽閉された、岡田茂吉の霊的イマジネーションの世界」。
さて、現在の新宗教と呼ばれる教団の源流はいくつかあるが、その中で「大本」はやはり重要な位置を占める。大本で触れた神聖龍神会のような秘教的集団はともかくとして「大本」からわかれ、社会的に顕在化して大規模な教団形成に至った集団として、谷口雅春の「生長の家」、岡田茂吉の「世界救世教」が挙げられよう。このうち「生長の家」は教義的には古事記中心であり、古史古伝の影響はほとんど受けていないが、「世界救世教」を開いた岡田茂吉は竹内文献について次のように言及している。「昔の古い文書は神武天皇がお焼きになって終わったのであるが、其時、一人の家来が一部の物を持って逃げ、是をかくして土の中にいけこんでおいた。それが今に伝えられた。是は竹内宿祢の家に伝えられ、例の天津教の武内家にあるものにして、武内家には、その中にあった三種の神器の本物を持っているのであるが、宮内省に献上しようとしたとき宮内省では受け取らなかったのである」(論文集・未定稿)。「三種の神器はたくさんあるんだからね。あれは代々でなくても、天皇が随分揃えたのです。一番の元---古いのは天津教にある。あれが一番古い。神武天皇のもっと前です。一番新しいのは伊勢にある。あの時代に揃えた---千年か前ですね」。 |
「驚愕の解き明かしが始まる」。
飛鳥昭雄氏は、古代史から宇宙論に関して幅広く仮説を立てています。特に古代史に関しては、「天照大神=イエス・キリスト説」等があります。私(ホームページ作者)はこの説には同意出来ませんが、彼の竹内文書に対する考え方や、情報がおもしろいものなので、一部抜粋して掲載します。 |
「楠木正成は皇祖皇太神宮神主家の分流であった」。 面白い説があったので掲載します。太平記に出てくる南朝の忠臣・楠木正成が実は竹内家の血を引いているという内容です。 この大自然界には絶対普遍の法則が働いていて誰でも知っていながらこれを見過ごしている場合が多い。「類をもって集まる」ということは古来常識とされているが、これ一つ悟ることによって、誰でも自分の運命を予見することが出来る。善悪に関係なく運の良い人はどこまでも運が良く、運の悪い人は最後まで運が悪い。極くありふれた例ではあるが、会社が悪いからといってどれだけ転職しても勤め先は前にも増して悪くなる。悪の道に一度入ってしまったら、いかに逃れようとしても悪の道に引きずり込まれてしまう。これは自分の心を支配している霊が、同類の霊を求めるからで人間の力ではどうすることも出来ないものである。故に現界ど霊界を統御される天皇を信ずる者は生きるためのあらゆる霊的加護があって目的は支障なく行われるであろう。 後醍醐天皇が笠置山を行在所とされてから、先ず天皇の詔に応じて参内した楠木正成は「正成一人いまだ生きていると聞こえましたら、聖運必ず開けるものとお思い下さい」と奉答し退いたという。天下の幕府軍を相手に、唯正成一人が相手になって討ち平げるという自信はどこから出てくるのであろうか。これは後醍醐天皇が世界を太古の天皇中心の時代に復そうとしてお一人で立ち上がられたのと同じく、この時天皇を中心とする分身楠木正成にはすでに無限の能力が与えられたのである。これまで楠木正成の出自については何一つ確たる証拠がなく、ただ賎しい武人あるいは悪党の一人であったというにとどまっている。ところが楠木正成は決して賎しい武人ではなかった。竹内家系図によると、彼は歴とした越中皇祖皇太神宮の神主家の子孫で、密命により皇室守護の大任を負って、河内の山中に子孫を残したのである。詳しくいうと、楠木正成は皇祖皇太神宮神主家竹内宿弥正系十四代目紀竹内眞麿(西紀五五二年~七四四年)と妻の田眼内親王(敏達天皇の皇女)から生まれた三男奈麿を祖先として分かれ出た楠木氏の子孫であった。戦前に伝えられていた様に敏達天皇の御血筋を引く橘諸兄を祖先としているのではなく、敏達天皇の皇女の御降嫁先竹内家から出ているというのである。だから楠木正成の自筆の書に「従五位上行左衛門少尉兼河内守橘朝臣正成」とあるのは、密令を帯びた家系として正式の祖先の名を名乗ることが出来ず、橘氏の名を借りて名乗ったものであろう。もし祖先の正しい系譜を明記すれば、必ず皇祖皇太神宮が表に出て、仏教勢力のために神宮が抹殺される恐れがあったからである。 楠木氏がどうして河内の山に進出したかということは、記録に明示されていなくとも大凡の判断が出来るであろう。帰化人が日本征服の陰謀を企んで壬申の乱を起こしてから皇室は完全に帰化人僧侶の掌中に帰し、越中の皇祖皇太神宮抹殺の運動も激しくなった。ここに皇太神宮は衰微してしまった様に見せかけて、神主家の竹内氏と共に公に世人に知られぬ様計らったのである。 余談ではあるが、延暦二三年(西紀八〇四年)空海が入唐して直ちに恵果和尚から密教の秘儀をさずかり、中国皇帝の前で日本人の知能を公開して上下を驚かせたことがある。これは、彼が皇祖皇太神宮で釈迦の真髄を会得し、出航に当たっては藤原氏と密議の上唐に渡ったからで、決して偶然のことではない。しかし空海は皇祖皇太神宮神主竹内赤池久江麿(母は天武天皇皇孫山形女王)との約束で、その後皇祖皇太神宮で学んだことを一切口にしなかった。日蓮の場合も皇祖皇太神宮において、神主竹内基義と共に「南無妙法蓮華経」の七字を作りこれを世に広めたが、一生の間皇祖皇太神宮で学んだことを口にしなかったのである。 この様にして神宮は表に衰微を装うと共に皇室有事の祭に天皇を守護する目的で、楠木氏を大和の要衛の地に当たる河内の山に派遣した。そのため、皇祖皇太神宮に蔵されていた兵法書(孫子、六韜三略の基となっている兵法書〉を研究することは楠木氏の使命でもあったのである。 また皇祖皇太神宮は太古から中臣氏や忌部氏と祭祀上の関係が深く、特に忌部氏の一族は太古皇室が高山にあった頃から山に住むサンカとなり、長らく陰にあって皇室の守りとなっていた。楠木氏は河内に住み着くとサンカを支配し、これを皇室の用事に役立てていただけでなく全国のサンカの動向に通じ、居ながらにして日本全体の動きを知ることが出来たのである。ここまで考えることによって、始めて楠木正成の一人で幕府を討ち平げようとする気魄を理解することが出来るであろう。故に楠木正成の笠置山で天皇に謁見を賜うたのは先に日野俊基から知らされていたからで、天皇は笠置山に陣取られる当初から楠木正成を深く信頼されていたものである。 さて笠置山では、先に陽動作戦の叡山の戦いで勝利を得たため幕府に反感を持つ武士が多く集まってきた。天皇が笠置山に陣取られたというので、六波羅軍数万が笠置へ向かう。また天皇挙兵の報が鎌倉に伝えられると、幕府は大軍を差し向ける。この時の大将は、大仏貞直・金沢貞冬・足利尊氏等であった。なお足利尊氏は当時名を高氏といったが、建武中興に大功があったというので、天皇の御名の一字尊の字を頂いたものである。幕府の大軍が京都に接近した時、幕府は使者に命じて光厳天皇を立てさせ、二人天皇の併立を画策した。幕府の大軍が笠置の攻撃に加わらぬ内に六波羅軍は機略をもって堅城を陥落させ、後醍醐天皇はわずかの供の者と共に笠置をいで山道を逃げ隠れられる。供の者は万里小路藤房と同季房らであった。後の話ではあるが、この二人は天皇が吉野から越中の皇祖皇太神宮へ落ちてゆかれる時も、万難を冒して常陸に至り遂に崩ぜられる時までも、よくお供をした者で、楠木正成に劣らぬ忠誠の士といわなければならない。 さて、天皇が捕えられ宇治の平等院に監禁されると足利尊氏から神器の剣璽を引き渡す様に要求されたが、天皇は応じられなかった。天皇は六波羅南方の館へ移され、ここでも剣璽の引き渡しを拒んでおられたが、遂にやむなく光厳天皇へ引き渡しの儀が行われる。しかしその頃、楠木正成が赤坂にいるという情報だけで、大和十津川方面へ消えた護良親王の行方もまだ分からなかった。後醍醐天皇が幕府の手に捕えられながらも、神器の引き渡しに対してかたくなに応じられなかったのは、一に楠木正成が生きているという絶大の御信頼感があったからである。 元弘元年(西紀一三三一年)十月、楠木正成が赤坂城にこもり、護良親王を奉じて幕府の大軍を迎えることになった。勿論天皇が敵手に落ち、尊良親王も捕えられて、何のために戦うのか前途に希望がないはずの状態にありながらも楠木軍五百の兵がびくともしなかったのは、兵士一同が天皇を中心とする正成の誠心に統一されていたことを物語っている。ここにも天皇の分身として類をもって集まる原理が働いていた。楠木正成を中心とする一団の兵士は、全人類の永遠の平和を志される後醍醐天皇の分身であるが、これは、自分が救われるために全人類の救済を願って宗教戦争に従事するのと、形は同じくとも中味は真逆様である。 「後醍醐天皇~竹内文書」竹田日恵 著より |
(私論.私見)