天津教古文書「竹内文書(竹内文献)」考その1

 (最新見直し2006.11.22日)
 
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【竹内文書とは】
 武内宿禰の孫の平群真鳥(へぐりのまとり)が、雄略天皇の命により神代文字を漢字かな混じり文に翻訳した原本の写しと、皇祖皇太神社由来の神宝類を含む資料の総称。「神代の万国史」と称されている。伝承によれば、第25代武烈天皇につかえた大臣に、竹内宿禰の孫に当る平群真鳥がいた。日本書紀では、平群真鳥はクーデター計画が発覚し謀反人として殺されたと伝えられている。飛騨王朝論に伝わる別伝では、武烈天皇は新興勢力から日本古来の伝承を伝える文献の引渡しを強要されていた。天皇はこの文献を守るため、平群真鳥を殺したと見せかけて、実は武烈天皇の密旨によって高天原の故地である越中に落ちのびさせた。この地に隠遁させて庇護したという。密命は越中富山の御皇城山にあった皇祖皇太神宮に伝わった古文献の守護だった。武烈天皇は日本書紀では悪逆非道な天皇として記録されているが、実は仁愛に満ちた名君だった。

 この平群真鳥の子孫が竹内家である。これにより同所の古文献を竹内文献と云う。竹内文献には、神代文字で書かれた古文書と奇妙な神宝類があった。古文書を竹内文書、神宝類を御神宝と云い、総称して竹内文献と呼ぶ。竹内文書は元は神代文字で書かれていたが、平群真鳥が漢字、カナ混じり文に書き改め、竹内家ではこれを4代ごとに筆写し、代々秘密裏に伝えてきた。御神宝には、謎の金属ヒロイカネで造られた皇室の三種の神器である鏡、刀剣、又古代文字が掘り込まれた石や、天皇の骨で作ったと云う神骨像など数千点にも及ぶ。

 戦前、竹内巨麿が不敬罪などで裁判を受けることになり、皇祖皇太神宮から「神宮神詞不敬被告事件趣意書」が、神宝を含む竹内文書約4000点と史跡の現地調査の報告書などと共に提出された。無罪判決となったが、提出物は裁判が終了しても返還が叶わず、それら原本は大東亜戦争中の空襲により焼失したとされている。

【竹内文書公開考】
竹内文献公開の竹内巨麿は、宇多源氏の庭田伯爵と大中臣家の後裔・藤波奈保子の子として生を受けたと自称している。明治7年、富山県の寡婦の私生児として生まれ、小作農の竹内庄蔵に引き取られている。御嶽教に入信。 明治43年、天津教を開教する。

 明治43年秋、竹内宿禰(たけうちすくね)から数えて66代目の子孫に当ると称する竹内巨麿(たけうちきよまろ、1875(明治3)年-1965(昭和40)年)が、元々富山にあったと云われる皇祖皇太神宮を茨城県北茨城市磯原に天津教として再興した。竹内巨麿は、、竹内文書に基づく太古以来の祭祀を復活させようとした。巨麿は、平群真鳥の子孫であるとされる竹内家の養子であり、その次第は巨麿の口述をまとめたという長峯波山著「明治奇人今義経鞍馬修行実歴譚」に詳しい(大正元年、復刻版として八幡書店刊「竹内巨麿伝」がある)。

 1928(昭和3).3.29日、竹内巨麿が、竹内家に伝わる古文書を公開した。

 竹内文書の信憑性に力を貸したのが酒井勝軍(1874~1940)であった。酒井は山形県の生まれ。元々は、キリスト教の牧師であった。1918(大正7)年、語学堪能なため大本営付の通訳としてシベリア方面で従軍する内に当時、西欧を席巻していたユダヤ禍論を知り、帰国後はユダヤ人とフリーメーソンの研究に没頭し 反ユダヤ論の論客として名を馳せた。

 その後、彼の研究はさらに古代イスラエルの研究・ヨーロッパの秘密結社・秘教哲学などへと広がり、彼のユダヤ研究に目をつけた陸軍によって、シオニズム運動(ユダヤ国家の建設)調査のため、1927(昭和2)年、パレスチナに派遣される。この時、彼はエジプトを訪れ、自らの目でギザのピラミッドを見るなど古代史研究を深めている。 帰国後、彼は研究の対象を、日本古代史に求めていく。

 この頃より熱烈な親ユダヤ論者となる。そして、ついにはモーゼが神から授かったという十戒の本物は日本に隠されている、あるいはエジプトのものの原形となったピラミッドが日本の何処かにあるはずだなどという奇説を唱え出し、各地で講演しながらその探索に乗り出したのである。彼がその探索行の最中、天津教本部を訪れたのは昭和四年のことだったという。酒井と出会った巨麿は請われるまま、モーゼの十戒石の「本物」やピラミッド建造の由来書などを皇祖皇太神宮の宝物から出してみせた。酒井はすっかり感激し、以来、天津教の有力なイデオローグとなっていった。

 天津教の周囲には酒井の他にも、様々な異能の人々がたむろしていた。たとえば、青森県戸来村にピラミッドがあると主張し、さらに巨麿によるキリストの墓「発見」にも立ち会った画家の鳥谷幡山。あるいはそのキリストの墓をはじめとして相模のゼウスの墓・能登のモーゼの墓・信州の釈尊の墓などを訪ねて日本各地を巡った山根キク。郷里の飛騨地方を中心に先史時代の巨石遺跡を探索、調査して回った上原清二。越中の盆踊り歌に人類発祥の秘密が隠されていると唱えた岩田大中等々。

【狩野亨吉氏の文献批判】
 1928(昭和3).5月、狩野亨吉は、に天津教信者2名から7枚の写真の鑑定依頼を受けたが断った。1935(昭和10)年、「日本医事新報」から鑑定を依頼され、7枚中5枚を鑑定し、偽造と回答した。

 1935(昭和10).12.28日、神宝が秦真次(皇道派の実質リーダーの真崎甚三郎の腹心でもあった)の手により東京市・靖国神社の遊就館の松田常太館長にたくされた。

【竹内氏の受難】
 1936(昭和11).2.13日朝、茨城県多賀郡磯原町にて竹内巨麿と磯原館という旅館の吉田兼吉が逮捕された。竹内巨麿は、神宝を水戸地方裁判所に移す旨の受託書を書く。

 この年、「ひとのみち教団」の初代教祖・御木徳一(1871~1938)が強姦猥褻容疑で逮捕されている。御木は、1916(大正5)年、御嶽教徳光教会の金田徳光に弟子入り、金田が三年後に病死すると御嶽教徳光教会を離れ、大正13年に金田の後継者を主張、1928(昭和3)年、扶桑教ひとのみち教団を立ち上げていた。

 同年6月、狩野亨吉が、岩波書店の「思想」6月号誌上に「天津教古文書の批判」を発表し、偽書と断定した。狩野氏は、数千枚に及ぶ文書の内の5文書の写真(長慶太神宮御由来、長慶天皇御真筆、後醍醐天皇御真筆、大日本天皇同太古上々代御皇統譜神代文字之巻 大臣紀氏竹内平群真鳥宿禰書字真筆、大日本国太古代上々代神代文字之巻)に目をつけ、書体、文体、内容について批判した。

 1937(昭和12)年、逮捕者15名中竹内巨麿のみが不敬罪で起訴される。弁護士は鵜澤總明(後の極東国際軍事裁判の日本弁護団長)。

【竹内氏の法廷闘争】
 1942(昭和17)年、狩野亨吉は、検察側証人として言語学者の橋本進吉とともに出廷証言する。特高による「不敬罪」容疑での摘発・マスコミを総動員しての「皇祖皇太神宮天津教」(『竹内文書』の継承者・竹内巨麿の主宰する神道系教団)弾圧とあらゆる方面から「偽書化」された。

 1944(昭和19).12.1日、大審院判決で無罪判決が下される。

 公判中、「証拠資料」として大審院に保管されていた竹内文書のほとんどが米軍による東京大空襲によって焼失されたとされている。現在、竹内文書と呼ばれている物は、証拠資料として提出される前に撮影された写真類、文書の継承者で研究家でもあった竹内巨麿らの研究メモなどから再構築された「神代の万国史」などの解説書である。

【竹内文書の二系譜】
 「古史古伝」の代表的なものが竹内文書である。竹内文書は、天津教の開祖・竹内巨麿によって存在が明るみになったが、これを保管する竹内家には少なくとも二系流があるようである。一つは、竹内巨麿が養子入りした越中(富山県)久郷婦負郡神明村を拠点とする竹内家であり、もう一つは、武内宿禰の墓があるとされる越中の射水郡二上山を祭祀拠点とし全国の二上山で祭祀を行なう南朝の後醍醐天皇の直系として代々武内宿禰姓を世襲している南朝小倉宮竹内家の家系である。後者の竹内家は代々実子に受け継がれ、現在73世の竹内睦泰氏にいたっている。この南朝竹内家は、外伝としての文書と門外不出の口伝を中心とする古神道の秘儀をも伝えているという。こちらの方が「正統竹内文書」のようである。

 睦泰氏によれば、秘伝の文書は竹内文献とは共通の部分もあるが、本質的には別のものであるという。現在のところまだ、ほとんど非公開のため、断片的にしか内容はわからない。だが、竹内文書と同様に超古代において天皇家の先祖が世界を支配していたこと、キリストが来日したこと、越中を中心とする王朝が存在したこと等々、かなり同じような内容が含まれているという。

【竹内文書考】 
 「竹内文書」(たけうちもんじょ、竹内文献、磯原文書、天津教文書ともいう)は、動物の皮をなめしたようなものに漢字伝来以前の太古文字である神代文字によって綴られている日本の皇統史書である。その成立年代、編纂者は不明であり、現存するものは、5世紀後半の第25代の武列天皇の御代、平群真鳥(へぐりのまとり)が漢字カナ混じり文で書き改めたものであるとされている。但し、竹内巨麿が公開した文書は、大東亜戦争の東京大空襲の際に焼失したとされている。現在知ることが出来るのは、当時に写筆された資料に基づく「神代の万国史」(皇祖皇太神宮刊)に拠る。記す内容が古事記、日本書紀のそれと大きく異なっており、真偽定めがたいものとなっている。

 神代文字で記された文書が元々存在し、雄略天皇の勅命により武内宿禰(たけのうちのすくね)の孫の平群真鳥(へぐりのまとり)が漢字とカタカナ交じり文に翻訳した写本群の二種類があると云われる。平群真鳥は、第25代武烈天皇の密旨によって、高天原の故地である越中に隠遁してこれらを庇護したとも云われている。その後、平群真鳥は国政を専断したとして、朝廷軍に討伐され滅ぼされている。縦40センチ・横400センチほどの大きさの、鹿の皮をなめした様な物に、墨ではなく漆によって書かれており、10~15枚程が、直径13センチほどの筒に、くるくると巻かれた状態で入れられ、その筒は、さらに大きな円筒状の壷に入れられ、その壷が72個あるという。

 平群真鳥の子孫である竹内家が富山県の赤地神明宮の神主として伝えてきた。第二十三世の平群子首は、天武朝に開始された日本書紀の編集で、臣姓伝承編集を担当した。連姓伝承担当は中臣大嶋である。以後、最初のうちは国司、のち代々郡司となったが、四十五世の平群清幹の時に、平将門の乱追討の征伐副将軍となった。配下に甲賀忍者の祖・諏訪三郎兼家がいた。以後、秋田城介・平群利方、鎮守府将軍・平群永盛と続くがその子の頼義が若くして出家したため、再び没落する。頼義は僧侶として比叡山の首楞厳院の阿闍梨・光源として大成した。このころ密教関係の口伝が挿入された。

【竹内文書の内容考】

 竹内文書の内容は、原始神の宇宙創成から神々の地球創造、人類の誕生、二度にわたる超古代文明の興亡をほぼ年代順に伝えている。世界的、壮大なスケールの記述が多く、世界には五色人が存在し、みな日本から発したこと。モーゼ、マホメット、釈迦、孔子などが来日して教えを学んだこと。ボストンやサンフランシスコ、アフリカ、オセアニアなどという地名まで登場する。また、太平洋にある「ミヨイ」「タミアラ」という謎の大陸の滅亡に関する記述があり、オリハルコンを彷彿させるヒヒイロガネという金属も記されている。竹内文書もウガヤフキアエズ王朝を記すが、その歴代天皇名の漢字表記が上記鈔訳と非常に類似している。もともとの上記の原文が漢字ではないことを考えれば、竹内文書は上記鈔訳に基づいてウガヤ王統譜を造作したことは明らかである、とされている。明らかに疑わしい点が多いにも関わらず、竹内文書は、戦前は皇国史観ゆえに国粋主義者に、戦後はUFOや太古の航空機の伝承との関係でSF愛好者に支持され、また、戦前の風潮への反発から、大和朝廷以前に先王朝が成立していたという内容が超古代史研究者をひきつけている。

 竹内文書は、創造神(第1代神)を「元無極躰主王大御神 (モトフミクライヌシノオオミカミ)」、またの名を天地身一大神、あるいはナンモ、アミン、ノンノ、カンナガラ、メシアなどともいうとしている。こうした異名の数々はこの神が持つ究極の神性を表現するためのものらしい。

 この神は「天地ヲ産祖神」であり、「天地乃大根元身体乃大神」だという。次のように記している。

 天地未だ分かれず 鶏子(とりの子)の玉子の如くなり、天地を産める祖神なり、天地未だ土の海の如くなり、 天地の大根元身体の大神・・・・・(アメツチイマダワカレズ トリノコノタマゴノゴトクナリ アメツチヲウメルオヤガミナリ アメツチイマダツチノゴトクナリ アメツチノオオハジメミカラダノオオカミ・・・・・)

 つまり、この神が現れた時、宇宙はいまだ「天地未分ス、鶏子乃玉子如奈リ」という状態で、原宇宙ともいう混沌(カオス)無限の混沌そのものであったと云う。

 第2代神は、「中未分主大神 (ナカナシワカレヌシオオカミ)」と「中未分美大神 (ナカナシワカレミノオオカミ)」。無限の混沌に秩序を与え、現在の宇宙への進化を担当した。この弐神によって、天地(宇宙)はようやく“玉乃如ク”なり、 泥の海に岩石のような塊ができ、ようやく土と水が分かれて天地は玉のようになった。ここまでの年数は、“年歴無数”と表記されている。

 第3代神は「天地分主大神 (アメツチワカレヌシオオカミ)」 と「天地分美大神 (アメツチワカレミノオオカミ)」。この頃、天と地が分離し、現在の宇宙がほぼ完成した。之が、“天地剖判”(てんちぼうはん)である。この期間は、224億32万16歳という。


 第3代神の出現から二百二十四億三十二万十六年後、天地が別れてようやく大空に中空ができる。第4代神は、「天地分大底主大神 (アメツチワカレヌシオオソコヌシカミ)」と「天地分大底女大神 (アメツチワカレヌシオオソコミドノオオカミ)」の男女弐神。天地剖判によってできた“大空”から男女2柱の神が成来した。 この弐神によって、大地の原型が造られ、固まりゆく“万国”(トコヨノクニ)の地上や煙の中より何柱かの神が生まれた。

 第5代神は、「天一天柱主神 (アメハジメハシラヌシカミ)」と「天一美柱主神 (アメハジメミドハシラカミ)」。この御世に“土ノ海”(ドロノウミ)が固まり、“万国ノ底”にできた土の塊に“地美”(チミ)となづけた・・・「地球」の誕生である。 この御代で、天の底にあたる地上で祭天の儀が始まり、天越根日玉国狭依国越中国(飛騨・越中)が天国の柱、天皇・天神の宮が置かれる国と定められた。また、万国の底を地美、造化の男女二神がマグワイした所を淡海根(近江)と名付けた。これらは地上における最初の国名である。それから百六十億万年のちには泥の海がすっかり固まり、二百六十億十万年後には天神五代の神々が天に登った。その神々が天上に登った所は天一柱の国と名付けられた(『古事記』では天比登都柱は壱岐の別名)。

 第6代神は、 「国万造主神 (クニヨロズツクリヌシカミ)」と「国万造美神 (クニヨロズツクリミノカミ)」であった。この弐神は、地球の公転運動から暦日を定め、また無数の星々を造りあげた。その間“地球数百度土ノ海トナリ 岩石ノ角マルクナル”とある。 この御代で、神々は地上に草木の種を蒔き、また地球公転運動のヒナ形を造った上、天上に光星、旗星、彗星など無数の星々を産んだ。その間には地球は数百度にも渡って泥の海となった。高い山中でも貝殻が見つかることがあるのは、その泥の海のなごりだという。さらに神々は天の底の天神人祖神一神宮で造化の神々の像を造って祀り、天皇をその祭主として定めた。また、日神の夫婦が現れて地球の活動をつかさどり、月の女神も現れて大地を照らすようになった。日の神々と月女神の誕生は暦の成立をも意味する。

 天神第七代の位を受け継いだのは、前代に現れた夫婦の日神である。この神々によって暦はさらに整備され、星々の運行まで定められた。また、この神々の皇太子は日玉国の位山(現岐阜県宮村の位山)に大宮を造営した。そして、その皇太子の即位によって上古二五代の御代が始まるのである(その初代は天日豊本葦牙気皇主尊天皇)。

 第7代神は2期に分かれ、前半は「天御光太陽貴王日大光日大神 (アメノミヒカリオオヒナカオオヒノオオテルホオオカミ)」と「天日身光美比女大神 (アメヒミヒカリミトノオオカミ)」。この御世の時、皇孫の地球降臨が神定された。実施されたのは後期の「天日身光ホド男大神 (アメヒミヒカリホドオオオカミ)」と「天御光太陰貴王女大神 (アメノミヒカリオオイナカオオヒメオオカミ)」の御世。皇太神「天日豊本葦牙皇主身光大神 (アメヒノモトアシカビキミヌシミヒカリオオカミ)」が、地球“天元根国”(アメノムトネノクニ)に、諸神を率いて“天浮舟”で降臨し、“上古初代一世天皇”となった。

 以上の期間が天神7代と言われる竹内文書における「宇宙創成神話」である。

 続いて上古二五代に入る。上古第1代の皇子には、農耕、牧畜、魚漁、養蚕や土器作りなどさまざまな生活技術をそのまま人格化したような名が多く見られる。「天浮船大空乗公運尊」皇子の事蹟は、「天空船、水船を造る」であったという。水船はともかくも天空船とは何か。飛行機のような空飛ぶ乗り物ということになる。

 上古第2代の天皇は「造化気万男身光天皇(ツクリノシキヨロズオノミヒカリスメラミコト)」で、この御世の時、天下万国全部土ノ海トナルコト84度、その大異変により世界に“5色人”(イイロヒト、黄・黒・赤・白・青)の皇子・皇女を生んだ。
黄人(キ ビ ト)は アジア人(日本人を含む)、 赤人(アカビト)は アメリカインデアンやユダヤ人等に痕跡あり、 白人(シロビト)は 白い肌とプラチナやブロンドの髪をもつ。黒人(クロビト)は インド人(原住民族)やアフリカ人など、青人(アオビト)は 肌が青白(パールホワイト)に近い、現在純血種はほとんどいないと記している。

 上古第2代天皇は、25人の皇子を世界各地に派遣した。皇子たちは、それぞれの赴任先の土地を”支国“(エダグニ)つまり・・・植民地として支配し、その“民王”(ミットソン)におさまった。支国としてインダウ天竺万山黒人民王やヨイロバアダムイブヒ赤人女祖氏、オストリオセアラント赤人民王、ヒウケエビロスボストン赤人民王、アフリエジフト赤人民王、「ヨハネスブルク」、「ニューヨーク」など、明らかに近世以降の地理的知識によって造作された人名も見られる。

 この時代、天皇は1代に一度は、世界中を視察して廻る、“万国巡幸”をおこなった。その巡幸に使用したのが“天浮船”である。上古第2代天皇は、大海原乗舟造知尊(オオウナバラノリフネツクリシルノミコト)・天豊船乗知主尊(アメノトヨフネシリヌシノミコト)・天日竜舟工知主尊(アメノヒタツフネノタクミシリヌシノミコト)らに命じて、大船8艘小船16艘を作らせたとある。

 天皇万国巡幸・・・大力勇神通力ニテ1日8,000里、天浮舟ニ乗リ行キ給ウ。マタ1日10,000里行キ給ウ時ニ万国5色人ノ王、マタ尊者マタ民王一同、アア天日天皇貴ク天神御来光トイウテ拝礼ス

 上古第3代の即位30億万年、天皇は大船8艘、小船16艘を造らせ、自らは天之浮船(「天空船」と同じものか)に乗って最初の万国巡行に乗り出した。帰朝後、天皇は史官たちに命じて、万国の主の名とを書き記させたという。この天皇の即位160億万年には地球全土大変動し、泥の海となって万国ことごとく滅ぶという事件が起きた。天皇とその一族は天空浮船で日球国に逃れ、災害から5億5万千年目に天降って、ふたたび地球万国を産んだ。これ以降の上古天皇たちの事蹟は、度重なる「地球全土大変動」と復興のくりかえしである。

 上古第4代は、古事記で始源神とされるアメノミナカヌシが登場している。上古第14代は、日本書紀本文で始源神とされるクニトコタチ。最後を飾るのは、記紀神話のヒコホホデミにあたる天津彦火火出見身光天津日嗣天日天皇であり、その後はウガヤフキアエズ王朝73代に引き継がれる。

 大災害はウガヤフキアエズ王朝に入っても無くなることはない。たとえば、ウガヤフキアエズ王朝第10代の女帝、千足媛天皇の御代には、太平洋にあったタミアラ国とミヨイ国(ムー大陸のことか)および現在のインド洋、カリブ海にあった陸塊が海の底に沈んだという(「嗚呼オトロシヒエ地変ぞ」という注記がある)。

 上古21代天皇は、「伊邪那岐身光天津日嗣天日天皇」といい、イザナギ(古事記では伊邪那岐命、日本書紀では、伊弉諾神)にあたるとし、その2子のうち1子が「月向津彦月弓命亦ノ名須佐之男命」すなわちツクヨミ(古事記では月読命、日本書紀では月弓尊)であり、スサノオ(日本書紀では素盞嗚尊・素戔嗚尊、古事記では建速須佐之男命・須佐乃袁尊)の別名とされている。

 また、第69代の神足別豊鋤天皇の御代にも二度に渡って「天地万国大変動五色人多く死す」という災害があり、その結果、紅海とアラビア砂漠が出現したとある。不合朝第69代天皇ノ即位33年サナヘ月(5月)・・・「天地万国大変動5色人全部死ス、ミヨイ国・タミアラ国海ノ底ニ沈ム」。
 上古25代に続いて不合朝時代となる。この御世も、幾度もの大災害に耐え、先古代文明を保っていた。しかし上古代に比べ次第にその権力は衰えていく。世界各地で、内乱や反逆事件がたびたび起きるようになり、その末期(69代)には、上古王朝の先古代文明を伝える中心地ミヨイ、タミアラ両大陸を沈没させる大異変によって壊滅的な打撃を受ける。

 64代の時代に皇子31名と皇女43名が巡幸し、長である万国巡知彦尊が知勇大力で外敵を制圧したのが「桃太郎」の起源だという。

 
69代神足別豊鋤天皇の代にミヨイ、タミアラが陥没した(なおこのミヨイ、タミアラの文字は昭和15年10月の『天国棟梁天皇御系図宝の巻き前巻・後巻』児玉天民著が初出である)とムー大陸昭和13年6月号の『神日本』の「陥没大陸ムー国」が日本での初期紹介)やアトランティス大陸を思わせる記述がある。

 不合朝最後の天皇である第73代は狭野尊(サノノミコト)。天皇は、神武天皇と名を変え神倭時代へ入る。先古代文明から歴史時代へと突入していく。

 メソポタミアで合流したシュメール人と呼ばれるスメル族の物語り。太陽の上る方角に、つまり東へ東へと向かって日本についたらしい。もっともこの太陽に向かって日本にきたというのは、天孫族来日の口伝にもある。スメル族は二手に分かれて日本に戻った。インドネシアなど南方の海路ルートを通って日本に戻ってきたグループは九州高千穂に上陸、彼らは大和族(日向族、天降族、天孫族)と呼ばれた。一方、陸路を使って朝鮮半島から日本に戻ってきたグループは山陰地方に進出、彼らは出雲族と呼ばれた。

 彼らは当時の原日本人を制服していった。出雲族は日本海側を支配、大和族は瀬戸内海側を海路東進し、奈良に入った。出雲族のスサノオは、越王朝のヤマタノオロチを「退治」した。その後、出自不明の大国主はスサノオの娘と結婚して出雲の王となったが、それを認めてもらうために再び越の国を攻めた。

 その間、出雲族と大和族は何度か小競り合いを繰り返した。おそらく最初の戦いでは大和族が勝ち、二度目の戦いでは出雲族が勝利した。二度目の戦いの後、和睦が結ばれ、出雲族のスサノオはアマテラスと夫婦の関係になる。しかし、大国主の息子の事代主(コトシロヌシ)が王の時代に、再び戦争となり、出雲族は大和族に敗退する。その結果、当時の大和族の主である神武は、事代主の娘を娶り、ここに大和朝廷が確立する。おそらく紀元後50年ごろの話だ。「皇祖之霊皇大神宮」がある。口伝によれば、神武四年に神武天皇の詔によって創建された。

 この神宮の初代祭主は、神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴姫であり、彼女が事代主命の娘であることから、出雲系神道の口伝が伝わっている。

  竹内文書のユニークさは次の下りある。

 皇祖皇太神宮(スミオヤスメラオタマシイタマヤ)は、上古初代天皇が天日国から天元根国へ降臨された時、天神7代の諸神霊を遷(うつ)し祀った「天神人祖一神宮」が正式名である。その場所は、天越根国の中日見日高見国の光池上であった。これは、現在の越中富山の婦負郡久郷町の御皇城山(おみじんさん)と云われる。

 「天神人祖一神宮」が皇祖皇太神宮と呼ばれるようになったのは上古10代1世天皇が神殿を再建された時である。この時、万国の五色人の民主が参集し盛大を極めたと云う。越中富山日本だけでなく全世界の中心であった。また、ムー大陸やアトランティス大陸を連想させる「ミヨイ」、「タミアラ」という謎の二大陸や、世界には「五色人(黄人、赤人、青人、黒人、白人)」が存在しているが、その発祥は日本である。

 モーゼ、マホメット、釈迦、孔子などがその昔、来日して教えを学んでいる。茨城(巨麿)の竹内文書では、キリスト来日の時期を垂仁天皇のころにしているが、正統竹内文書では神武天皇のころとなっている。キリストは五十鈴彦または伊勢津彦と名乗り、八戸を越え蝦夷地に入り、さらに東へ進んだことになっている。弟は伊須気余理彦または石切彦という名前で、茨城の竹内文書に出てくるイスキリと似ている。

 ボストンやサンフランシスコ、アフリカ、オセアニアなどという地名まで登場する。オリハルコンを彷彿させるヒヒイロガネという金属も記されている。

 その内容は、世界的、壮大なスケールの記述が多く、原始神の宇宙創成から神々の地球降臨、人類の誕生、二度にわたる超古代文明の興亡、日本皇統の始まりを伝える。「神代の万国史」といわれる。

 『竹内文書』もウガヤフキアエズ王朝を記すが、その歴代天皇名の漢字表記が『上記鈔訳』と非常に類似している。もともとの『上記』の原文が漢字ではないことを考えれば、『竹内文書』は『上記鈔訳』に基づいてウガヤ王統譜を造作したことは明らかである。

 明らかに疑わしい点が多いにも関わらず、『竹内文書』は、戦前は皇国史観ゆえに国粋主義者に、戦後はUFOや太古の航空機の伝承との関係でSF愛好者に支持され、また、戦前の風潮への反発から、大和朝廷以前に先王朝が成立していたという内容が超古代史研究者をひきつけている。






(私論.私見)