「狩野亨吉氏の天津教古文書の批判」考 |
(最新見直し2006.11.22日)
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【竹内氏の法廷闘争】 |
1942(昭和17)年、狩野亨吉は、検察側証人として言語学者の橋本進吉とともに出廷証言する。特高による「不敬罪」容疑での摘発・マスコミを総動員しての「皇祖皇太神宮天津教」(『竹内文書』の継承者・竹内巨麿の主宰する神道系教団)弾圧とあらゆる方面から「偽書化」された。 1944(昭和19).12.1日、大審院判決で無罪判決が下される。 公判中、「証拠資料」として大審院に保管されていた竹内文書のほとんどが米軍による東京大空襲によって焼失されたとされている。現在、竹内文書と呼ばれている物は、証拠資料として提出される前に撮影された写真類、文書の継承者で研究家でもあった竹内巨麿らの研究メモなどから再構築された「神代の万国史」などの解説書である。 |
「竹内文書』の偽書論」。
昭和11年(1936年)、岩波書店を通して狩野亨吉氏が「天津教古文書の批判」を行い、『竹内文書』を偽書として徹底的に攻撃したことがあった。狩野氏には大変申し訳ないが、結局は重箱の隅をほじくる程度しかできなかったように思える。大局を小事で見誤った典型ではないだろうか。狩野氏が攻撃に真っ先に利用したのは、「長慶皇太神宮御由来」にある誤字と表記の誤りである。ご本人は論文等で、過去に一度も文字を書き間違えたことがないのだろうか。ましてや、『竹内文書』は写本を幾度も繰り返しているのである。第66代宮司の巨麿まで4代ごとに写本を繰り返したとあるので、単純に数えても都合16回も写本されたことになる。その間に誤字脱字があったからといって、誰が責めることができるだろう。句読点、仮名遣いの誤りなどは、この類だったかもしれない。あるいは、神代文字から漢字仮名混じり文に訳す際に、誤訳があったかもしれない。誤字や誤訳があるから偽書だと決め付けるのは、いささか乱暴すぎはしないか。『日本書紀』は、「一書に曰く」と書かれていたから許されたのだろうか。おまけにある目的を持って共通文字を使ったり、故意に矛盾を作って仕掛けをするのも偽書の証拠というのでは、矛盾の塊である記紀はどうなるのか。狩野氏が再三にわたって引き合いに出す"漢音混入〟にしても、写本の段階で当時の人聞が理解しやすいよう、古語表記を時代に即した表記にした可能性がある。要はそれで意味が通じればよいのであり、意味が分かりにくい表記のままにするより、はるかに良心的である。実際、平安時代前期、日本最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が編纂された時でさえ、「万葉仮名」を読み下せない者も大勢いたという。万葉仮名は、日本語を表記するためにあえて表音文字として用いた漢字のことで、『万葉集』で用いられてその名が付き、「真仮名」とも言う。原則として、元の漢字の意味と無関係に使われるため、意思を受け答えするにはそれなりの(古い)知識が必要だった。この万葉仮名から「平仮名」と「片仮名」が生まれたとされている。平安中期に万葉仮名が通じない時代になりつつあったことからも、社会情勢に応じた変化が求められていたはずなのだ。神代文字は表音文字だったとされ、アカデミズムが神代文字を否定するのは、「ン」または「h」「s」行の発音が平安末期以降に作られたと判断しているからだ。つまりは狩野論である。確かに「ン」は万葉仮名にはない。「ン」が使われるようになったのは、漢文に訓点を打つようになってからで、「ム」の発音変化が「ン」を生んだとされる。平安初期に作られた47音の『いろは歌』にも「ン」は含まれておらず、神代文字といわれる漢字仮名混じり文に「ン」の表記があると、即、偽書のレッテルを貼ろうとするのはそのためである。それなら、『古事記』はどうなのか。『古事記』は、この時代の他書には一切ない上代特殊仮名遣「モ」を使っている。アカデミズムは他の古史古伝には特殊性を認めず、相手が国史なら例外として許容するのである。また、「ハ」音は、上代であれば[Pa]、平安中期なら[fa]、江戸中期なら[ha]、現代では[Wa]という音の変遷がある。卑弥呼を上代なら「ピミコ」と発音したはずというのが、アカデミズムの常識である。だが、卑弥呼に関しては日本の歴史年代以前なので、大和民族だったかどうかも分からない。民族が違えば何の役にも立たないそのような常識を、伝家の宝刀のように振り回している。大和民族には『魏志倭人伝』に記されているような倭人の入れ墨の習慣などはなく、明治時代までアイヌが"高床式住居〟に住んでいたことさえ、アカデミズムは考えもしないのだ。一般に使用が許可されない神代文字を、平易な漢字かな混じり文にしたのも、至極当然である。それをどの程度書き換えるかは、その時代の宮司の判断であり、それをもって偽書とするのは行き過ぎだろう。たとえば、戦前まで日本では「そんなことを言ふものではない」「いいにおひがする」「ラヂオを聴きませう」「これをお願ひ」「感謝してゐます」「無駄にしないやうに」など平気で書いていたが、必ずしもそう発音していたわけではない。それを知らない今の若者に向けては、現代表示の文章に書き直すというのが人情である。"漢音混入〟があるから偽書という狩野氏の理論は、戦前の文章を「そんなことを言うものではない」「いいにおいがする」「ラジオを聴きましょう」「これをお願い」「感謝しています」「無駄にしないように」と記したら、千数百年後、これは戦後の作と判断されて偽書にされた…-ということと同じであろう。「ラヂオ」を「ラジオ」に書き換えた行為が、偽書と判断する決定的証拠といっているようなものだ。 |
【狩野亨吉氏の「天津教古文書の批判」】 | ||
1936(昭和11).6月、狩野亨吉氏は、思想(岩波書店)誌上に「天津教古文書の批判」を掲載した。これを転載しておく。 天津教古文書の批判 http://redshift.hp.infoseek.co.jp/amatu.pdf 青空文庫/図書カード:No.3039「天津教古文書の批判」 http://www.aozora.gr.jp/cards/000866/card3039.html
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【完全敗訴だった検察側】 | |
「竹内文書の謎」。
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「巨麿の判決で証明された『竹内文書』の真相!」。
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(私論.私見)