与那国島海底遺跡

 更新日/2017(平成29).7.17日 

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 2017(平成29).7.17日 れんだいこ拝


【与那国島海底遺跡】
 「日本最西端、神秘の孤島・与那国で海底遺跡を発見した男の波瀾万丈の半生」。
 那覇の札つきの不良から渋谷の夜の顔役に上りつめた男は、故郷・与那国島の海底で古代人の巨大な遺構を発見する。日本最西端、絶海の孤島を世界的に有名にした男の波瀾万丈の半生、残したい未来とは。

  ◇   ◇   ◇  

 水深25メートル。海流の流れに身を任せて、ゆっくりとフィンを動かしていた新嵩(あらたけ)喜八郎(70)の目の前に切り立った階段状の岩山が現れた時、喜八郎は驚きのあまり思わず目を見張った。そこは与那国島の南端に位置する新川鼻と呼ばれる岬のすぐ下に見える浅瀬。与那国島の海のことなら知り尽くしていると思っていた喜八郎だが、両腕に鳥肌が立つのがわかった。気を取り直して岩山のまわりを走るループ状の石畳をゆっくりと進んでいくと、見事な階段状のピラミッドが姿を現した。上っていくと狭いテラス。さらにその奥の階段を上っていくと、ピラミッドの頂上には儀式でも行っていたかのような広大な一枚岩のテラスが広がっていた。しかも、そのテラスの左奥には竜宮伝説を思わせる石造りの亀のレリーフが2体。その北側には御神体を安置する巨大墓の一種、ドルメンらしき岩が姿を現した。「透明度が高く青空のように澄んだ海に沈むその姿は、まるで空中から見たインカの遺跡のように見えました」。

 ダイビングショップの仲間たちに箝口令(かんこうれい)を敷くと喜八郎は「遺跡ポイント」と名づけたその場所に繰り返し潜った。すると海底遺跡は最初に発見した高さ25メートルの階段状のピラミッドを中心に、東西に200メートル以上、南北に120メートルの威容を誇る壮大な海底遺跡であることがわかった。「1986年に見つけた時は、まさかこんなに大きな遺跡だとは思いませんでしたが、そこには人が暮らした文明の息吹が確かに感じられました」。

 日本最西端の島・与那国島は黒潮の潮流の真ん中に浮かぶ国境の島。カジキやカツオ、ハンマーヘッドシャークなどの大型回遊魚のパラダイスとして知られる。しかし周囲を断崖絶壁に囲まれ、波が荒く、海を渡るのに困難を極めたといわれる。そんなまるで国境に忘れ去られた島が’95年の元旦、が然、注目を集める。喜八郎が9年の歳月をかけて調べた海底遺跡の全貌が琉球新報をはじめさまざまな新聞の1面を飾ったのである。この世紀の発見が与那国島を「辺境の忘れ去られた島」から「最も楽園に近い神秘の島」へと変えた。このニュースはたちまち世界を駆け巡り、世界的なベストセラー『神々の指紋』で知られる作家グラハム・ハンコックや、映画『グラン・ブルー』で知られる著名なフリーダイバー、ジャック・マイヨールたちが島を訪れることで与那国島は世界の「ミステリー・パラダイス」として一躍、名乗りを上げる。

 海洋地質学を専門とする当時、琉球大学理学部の木村政昭教授は、「石垣を切り出す際に用いる鉄の矢を打ち込む矢穴があることや、道路や階段、排水溝などがあることで、ひと目見た時から遺跡だと確信しました」。しかしこの発見が、与那国島や新嵩喜八郎を巻き込み世界的な論争に発展していくとは、当の喜八郎は当時知るよしもなかった。

  ◇   ◇   ◇  

 海底遺跡の第一発見者として知られる新嵩喜八郎が生まれたのは、1947年6月30日。日本本土が焦土と化していまだ立ち直れないでいたこのころ、最果ての島・与那国島は空前のバブル景気に沸いていた。与那国島を拠点に自由貿易が生まれ、米や砂糖といった食料品が台湾から流れ込み、その見返りに本土から日用雑貨、沖縄本島から米軍の横流れ品が持ち込まれ、与那国一の港・久部良港にはカジキを突く突船(つきせん)と呼ばれる漁船が物資を運ぶためにひしめき合っていた。「久部良集落の大きめの家は、旅館や倉庫に模様替えされ、久部良の港には料亭や劇場、映画館が立ち並び、米軍流出の自家発電機のおかげで島中が不夜城と化したと聞いています。終戦後わずか3000人にすぎなかった人口が、あっという間に1万5000人に膨れ上がり、私が生まれた年に与那国は村から町に変わりました」。

 まるで琉球王朝時代の繁栄を思わせるこの時期に、喜八郎の家も大きく躍進する。「もともと祖父・林太郎が戦前カツオ漁で財を成し、船で台湾から鉄筋を運び事業を大きくしました。屋号は“セメン屋”、鉄筋コンクリートの家を島で最初に建てたのも、ウチだと聞いています」。祖父・林太郎の跡を継いだ父・新一は、島を飛び出して、沖縄本島に渡った。「おしゃれでハイカラだった父には、与那国島は狭すぎたのでしょう。島の先輩と沖縄で最初の理容学校・沖縄国際高等理容学校を設立しました。当時、理髪師は花形職業でしたから。教材の買い付けに東京にもよく行っていたようです」。島に残された母・しげは、そんな父の留守を守り、小さな旅館「入船」を切り盛りしながら、2人の姉と喜八郎を育てた。

 手のつけられないやんちゃ坊主

 与那国島で一番大きな集落である祖内で育った喜八郎は、幼いころから“やんちゃ坊主”で知られていた。遠くから水汲(く)みに来る大人たちの桶(おけ)に砂を入れて怒鳴られたことは1度や2度ではない。与那国小学校に上がってからも女の子の机を投げ飛ばして絞られた。近所の子どもたちを砂浜に埋めて泣かせたこともあった。そのたびに母・しげにひっぱたかれた。「島の女性はみな働き者で気が強かった。中でも母は女手ひとつで子どもを育ててきたせいか、とびきり怖かった」。そんな母の思い出で忘れられない出来事がある。それは喜八郎が同級生に、足の障害を馬鹿にされ、からかわれたことを知った時のことだった。烈火のごとく怒った母は、息子をからかった相手の家まで怒鳴り込み、喜八郎に両手をついて謝らせた。「僕は3歳の時に注射が原因で軽い小児麻痺にかかり、左足が少し不自由でした。その足のことをからかわれると、母はいつも血相を変えて飛び出していきましたね」。自分のせいで大事な息子の身体に障害を残してしまった。そんな自責の念が母・しげにはあったに違いない。

 喜八郎少年の与那国島での暮らしも小学6年で終わりを告げる。父・新一の考えで那覇の中学に進学することになったのである。「与那国島には高校がありません。そのため島の子どもたちは、中学を卒業すると石垣島や沖縄本島に行かざるをえません。中には、子どもを高校・大学に行かせるために家族で引っ越していく者もいます。それが与那国島の過疎化の原因でもあるわけです」。喜八郎は小学校の卒業式が終わった翌日、船速6ノットの貨物船に揺られ48時間かけて沖縄本島に渡った。アメリカ統治下の沖縄本島は、極東最大の米軍基地と呼ばれ、大規模な施設が次々に建てられ活気にあふれていた。喜八郎が進学した那覇中学も当時、ひとクラス60名で21組もあるマンモス校だった。「ベビーブーム世代ということもありますが、街中が好景気に沸いていました。父は理容学校をするかたわら、理髪店や下宿屋を何軒も経営して羽振りがよさそうでしたね」。

 父・新一の妹が切り盛りする下宿屋に落ち着くと、喜八郎は那覇中学の名門・吹奏楽部に籍を置きトランペットを吹くようになる。「後に沖縄・西原高校のマーチングバンドを世界一に導いた大城政信先生の指導の下、沖縄交響楽団の指揮者になった糸数武博君や東京キューバンボーイズのメンバーになった国吉君もいて、那覇中の吹奏楽部はとてもレベルが高かった。中学2年の時には朝日新聞主催の西部吹奏楽コンクールに出場するため、鹿児島まで行ったことをよく覚えています」。

 ところが、ここで喜八郎は事件を起こす。休みの日に訪れた桜島で、柿の木によじ登り柿を取って食べているところを見つかり、「沖縄の子はこんな子か」と叱責(しっせき)を受ける。たかが柿の実を取ったくらいでと思うかもしれないが、喜八郎の素行はこんなものではなかった。「中学2年になったころから盛り場をうろつき、吹奏楽部の練習以外は、ろくに学校にも行っていませんでした」

 当時の沖縄は那覇派、コザ派、山原派といった愚連隊が徒党を組み抗争を繰り返していた。喜八郎はそうした悪い仲間とつるんでは問題を起こしていたのである。「父は忙しく、私のことなどにかまっていられませんでしたから、もうやりたい放題でしたね」。 中学を卒業後、那覇を離れてコザにある中央高校へ進学したものの、そこでも揉(も)め事を起こし、高校を1年で退学。見かねた父・新一は、喜八郎を東京の叔母のところに預ける決心をする。「今となっては父に感謝しています。もしあのまま沖縄に留まっていたら抗争に巻き込まれて死んでいたかもしれません。当時の沖縄は米軍基地がある関係で武器がたくさんありました。お金のない米兵が飲みに来て拳銃を置いていくような時代でしたから」。12歳で母のもとを15歳で父のもとを去らねばならなかった喜八郎は、船と夜行列車を乗り継ぎ1日以上かけて東京にたどり着いた。東京駅まで迎えに来てくれたのが喜八郎にとっては東京の母ともいえる父・新一の妹・梅子だった。

 客商売で頭角を現し、渋谷の顔役に

 喜八郎が進学したのは、東京都目黒区にある私立目黒高校。夜間部に入った喜八郎の素行は改まるわけもなく、お酒を飲んでは喧嘩をして警察の厄介になった。「大森にあった叔母の家は運送会社の寮の隣にあって、そこの若い運転手たちとはさんざん喧嘩をしました。沖縄や島の悪口を言われると我慢ならない。今から考えると上京したばかりのころは島国根性の塊でしたから。そのたびに警察まで身元を引き受けに来てくれたのが叔母でした。叔母には迷惑のかけ通しでした」。そんな息子の行状を聞きおよび心配した母は、親戚筋を頼って喜八郎をある店でアルバイトさせることにした。それが渋谷区宇田川町にある「白馬車」という名曲喫茶だった。「あのころの宇田川町は、台湾料理の店『麗郷』をはじめ台湾の人がオーナーを務める店がたくさんありました。姉が台湾に嫁いでおり、その縁で『白馬車』のオーナーに頼み込んだようです。これ以上悪さをしないように監視する意味もあったんでしょうね」。

 上京した翌年、夜間部から昼間部にかわった喜八郎は、学校が終わると「白馬車」で皿洗いのバイトを始めた。「時給がよくてお金が面白いように貯まっていくので時々学校をサボって朝からバイトをさせてもらいました」。人より2年遅れ、20歳で高校を卒業した喜八郎は、やがて「白馬車」の階下にある「スカラ館」というカウンターバーを任されるようになる。

 当時の渋谷はいまだ戦後の喧騒の中にあり、喧嘩ややくざ同士の抗争などさまざまなトラブルが渦巻いていた。当時の喜八郎を知る従兄弟であり、あのブルース・リーにも空手を教えた少林寺流拳行館空手道館長の久高正之空観さん(76)は、こう語る。「喜八郎は男気があり、争い事が起きても逃げず、正々堂々と立ち向かっていく信頼のおける男として、渋谷では顔が売れていたようです」。

 喜八郎も少林寺流拳行館空手道、五段。不自由な左足をかばうために特別にステッキ術を会得していたおかげで、危ない場面を何度も切り抜けることができたという。

 時代は高度成長の真っただ中、「スカラ館」を流行(はや)らせた喜八郎は、さらにもう1軒新宿の区役所通りにバンドを入れた本格的なサパークラブ「ピープル」をオープンさせた。この店も開店当初から流行り、喜八郎の叔父にあたる久高政棋(まさよし)夫妻の仲人で結婚式を挙げたのも、このころのことだった。「娘の香葉が生まれた時の喜びは忘れられません。立川に家を買って落ち着こうと思いましたが店が忙しく、なかなか家族との時間が持てず、香葉が6歳の時に妻とは別れてしまいました。香葉も今では3人の子どもに恵まれ元気です。時々、孫の顔を見せに来てくれます」と、喜八郎は相好を崩す。喜八郎は結局、3回結婚をすることになるが、5人の孫に恵まれたことが何にもかえ難い幸せだったという。

 そのころ、喜八郎にはもうひとつ、人生を左右する大きな出会いがあった。それは海底遺跡を発見するきっかけとなるダイビングである。

 ダイビングの師匠との出会い

 ダイビングを初めて教えてくれた師匠である川平昌直との出会いは、喜八郎がお店のかたわら、外車の並行輸入を手がけていた時代にさかのぼる。喜八郎自身も外車が大好きで、アメリカの高級車の先駆けといわれたキャデラックのエルドラドに乗っていたこともあった。「那覇の有名な産婦人科の家に生まれた川平君は、桁外(けたはず)れのお坊っちゃまでした。彼の車には当時から冷蔵庫がついていて、休みになると真鶴半島の先端にある三ツ石海岸の石切場に行ってトコブシやサザエをとったりしながらダイビングを覚えました。この出会いがなければ、与那国島に帰ってもダイビングショップを始めることはなかったでしょうね」。ということは世紀の大発見といわれた「海底遺跡」もいまだ発見されず、海深く眠っていたに違いない。

 喜八郎は高度成長の終焉(しゅうえん)とともに「スカラ館」「ピープル」を閉めると、故郷に帰る決心を固める。「父は那覇で仕事をしているため帰ることができず、母も年をとり男は私ひとり。母は早く帰ってきて孫を欲しがっていました。そこで当時、付き合っていた2番目の妻となる女性と与那国島に帰ることにしたのです」。

 故郷のために何ができる?

 喜八郎が島に帰ったのは、’80年代初頭。バブルに向かって、景気も上向きになり、港の工事も始まっていた。そこで潜水士の資格を生かしてみずから港の海に潜った。その一方で、東京で成功を収めた客商売への未練も断ち切ることはできなかった。「当時、石垣島はトンネル工事やダム工事で大勢の人たちが島に押し寄せていました。そこで東京から50人くらい女の子を呼び寄せ市役所の真向かいに本格的クラブをオープンさせました」。それが「レストランシアター・クラブクィーン」である。その後もディスコやサパークラブなどを経営し、足掛け4年ほど石垣島と与那国島を行き来する生活を続けたが、1985年、3人目の妻となる恵子との結婚を機に石垣島を離れた。「その年に祥子が生まれたことも大きなきっかけになりました。私も40歳を前に故郷のために何ができるか、子どもたちにどんな未来が残せるか真剣に考えました」。

 与那国島に腰を据えた喜八郎は、母が切り盛りしてきた「旅館入船」を増改築してホテルにリニューアルさせると、与那国島で初めて本格的なダイビングショップ「サーウェス・ヨナグニ」もオープン。島の周辺をくまなく潜り「遺跡ポイント」をはじめ45か所に及ぶダイビングポイントを発見。大型回遊魚に会える島として与那国島にダイビングブームを起こした。与那国島の水中景観、透明度、魚の種類、どれをとっても世界一。こんな島が日本にあることを誇りに思っています。今では中国本土、香港からも与那国島を訪れるダイバーが後を絶ちません」。そうした喜八郎の思いは、後輩たちにも受け継がれ、今では、100名以上のインストラクターが世界の海で活躍している。与那国島に帰ってから生まれた長男・正太郎(30)も今では喜八郎の右腕として働いている。「正太郎は英語はもちろんのこと、台湾に留学していたので北京語も話せます。これからは与那国島がアジアの懸け橋になってほしいですね」。

 与那国に欠かせない存在に──

 海底遺跡の存在が琉球新報の1面を飾ると、1万年前に海底に没したムー大陸の一部ではないかという説が流れ、多くのマスコミ関係者や研究者たちが島を訪れた。「2000年の大晦日から2001年の元旦にかけて行った『与那国世紀超えイベント』ではジャック・マイヨールをはじめ海底遺跡を愛する人たちが一堂に会してサンセットトークを行いました。“遺跡か自然地形か”をめぐる論争をきっかけに多くの人たちが島を訪れてくれました。そのことが何よりもありがたかったですね」。

 発見から30年がたち、喜八郎は今まで撮りためてきた海底遺跡の写真を、古希を迎える今年、1冊の写真集『神々の棲む海』にまとめた。「いろんな方々を案内しながら私なりに水中写真を撮りためてきました。遺跡かどうかはさておき与那国島の海の魅力を存分に味わってほしいですね」。それは島の気象から海底の地形、生き物たちの生態まで知り尽くした喜八郎にしか撮れない写真ばかり。水中写真の第一人者で喜八郎の古くからの友人でもある中村征夫さん(72)は、この写真集についてこう語る。「海底遺跡の発見は、とても運命的なものを感じます。神が新嵩さんを導いたとしか思えません。一躍、世界の新嵩喜八郎になり、国内外から著名人やダイバーが訪れましたが、素敵な奥さんといつも変わらず温かくもてなしてくれる。そして何より島のことを考え、見えないところで黙々と努力する姿が素晴らしい」

 喜八郎は島に帰ると与那国町観光協会を島の先輩たちと設立。長く会長も務めた。その中でも台湾・花蓮との姉妹都市交流は今年で35周年を迎えるという。「姉が嫁いでいますが、与那国島と台湾は戦前からとても関係が深く、私たちは“兄弟島”だと思っています。人的な交流がきっかけとなり新しい仕事も生まれました。チャーター便で花蓮まで行かれるようになり、ますます交流が盛んになるといいですね」。

 今年で28回を迎える「日本最西端与那国島国際カジキ釣り大会」も喜八郎が中心となって取り組んできた。「第1回は今年お亡くなりになった松方弘樹さんを名誉会長に迎え、立ち上げました。東京や大阪からも参加する人たちがあり、30艇あまりが腕を競いました。料理人の苦瓜さんが4メートルを超えるカジキを毎年、丸焼きにしてくれるのも目玉のひとつ。カジキといえば与那国島と言われるようになりたいですね」。島に帰って30有余年、日本最西端の与那国島にとって、喜八郎は欠かせない存在になりつつあるのかもしれない。

 島の子にどんな未来を残せるか

 そうした喜八郎の長年の努力に報いようと、去年の10月から与那国町が文化財指定に向けて、学術的な評価を行う調査に着手した。「まもなく結果がわかると思いますが、そのうえで国の指定史跡、世界遺産、ジオパークへの登録を検討していきたい。私自身も潜りましたが、個人的には遺跡に間違いないと確信しています。潮の流れの速いあの海域で、ああいった遺跡が残っていること自体が奇跡ですよ」と与那国町町長の外間守吉さん(67)は語る。喜八郎は去年、27年間関わってきた観光協会を退いた。「石垣島には毎年120万人、竹富島にも100万人の観光客が押し寄せるのに、与那国島は年間4万人しか来ないのはなぜだと思いますか。すべてアクセスの問題。島自体も日本最西端だけでは人は来ません。与那国馬、海底遺跡のほかにも、休耕地を利用して長命草を使った薬草園作りや酪農など、島の外から来る人たちも受け入れてもっと活性化していくべきです」。喜八郎の島に対する思いは今も熱い。

  ◇   ◇   ◇  

 喜八郎には島の中でとても気に入った場所がある。それは東崎(あがりざき)近くにある見晴らしのいい岸壁。満月の夜、西崎に日が沈むと、黒潮が流れる東崎の海面から、満月が満天の星空に向かって昇る。その満月を喜八郎は島酒を満たした大きな杯に映して飲む。このひと時が何にもかえ難い、至福の時だという。みんなで杯を重ね、三線(さんしん)が『与那国小唄』を奏でるころには、宴もたけなわ。与那国島に戻ってきてから生まれた・祥子(32)、正太郎たちも歌い踊る。「この子らに、どんな未来を残してあげられるか」。喜八郎は、亡き父や祖父と同じ思いを胸に、杯を重ね、月に祈った。

※敬称略

 取材・文/島右近

 しま・うこん 放送作家、映像プロデューサー。文化、スポーツをはじめ幅広く取材・文筆活動を続けてきた。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、史跡や古戦場、山城を旅する。『家康は関ヶ原で死んでいた』(竹書房新書)を上梓。


 「与那国島海底遺跡。正体は遺跡か、自然の生み出したものか」。
 沖縄県与那国島の周辺海域には、まるで人工遺跡のような地形が存在している。現在まで、この地形は遺跡なのか、それとも自然の生み出したものなのかという論争が続いている。この遺跡のようなものが沈んでいる場所は沖縄県与那国島南部。1986年に地元のダイバーである新嵩喜八郎(あらたけ きはちろう)氏が新たなダイビングスポットを探している時、与那国島南部の新川鼻(あらかわばな)と呼ばれる岬の沖合の海底で遺跡のような地形を発見したのだ。発見されたものは、東西200mほどの巨大な岩を半分ほど加工したのではないかとみられるもので、階段のような造りも見られた。この発見の後、沖縄各地で似たような発見が相次ぐことになる。慶良間諸島(けらましょとう)ではサークル状の構造物が、他にも人工的に穴が開けられたとみられる岩も見つかっている。これらが人工物であると過程した場合、かつて沖縄に存在していた文明は1つの共通した文化が成立していたと考えられていた。しかし、そこに今日まで議論される衝撃的な説が発表されたのだ。

 その説を唱えたのは、琉球大学の教授である木村政昭教授で「幾度となく遺跡を調査した結果、この地形は古代遺跡とみて間違いない、もしかしたら失われたムー大陸の一部かもしれない」と発表した。大学の教授という立場の人間が発言したことで、この地形は海底遺跡であるといった情報が各地に広まることになった。この説は遺跡のような形だけを根拠としているものではなく、木村教授の考えるムー大陸の説も根拠の1つとなっている。木村教授のムー大陸の説とは、元々沖縄のある琉球列島は中国大陸から張り出していた部分で、そこが地殻変動によって分断され、一部は沈み現在の形になった。その時起こった災害が太平洋各地に伝えられていくうちに誇張されムー大陸の伝説となったというものだ。そして、遺跡のような地形はこの時に沈んだ文明の一部ではないかというのが教授の主張である。また、沖縄のロゼッタストーンと呼ばれる石版なども発見されていることから、木村教授はこの遺跡こそがムー大陸のものだと主張している。

 一方で、この遺跡のような地形は人工物でなく自然が生み出したものであるという説も存在する(ロゼッタストーンに関しては何もわかっていない)。似たような事例としてはビミニ・ロードなどがあり、それと同じように人工物であるという根拠に欠けていると同時に考古学会も遺跡説を支持していない。現在この地形は遺跡として正確に認定されていない、理由は上記のように人工物である根拠が形以外に無いからである。いずれにせよ、この地形が特別なものであることに変わりはなく、与那国島の財産であることもまた変わらないのである。

 2014年7月17日、「未知の文明?解明されない海底遺跡が沖縄に存在した!」。
 沖縄県与那国島の南部にある「与那国島海底地形(よなぐにじまかいていちけい)」と呼ばれる場所。海底に沈んだ古代の遺跡のように見えます・・・!その真相は?

 海底に遺跡が・・・!?

 この海底にある遺跡のような場所、海外ではなく日本にある地形。「与那国島海底地形(よなぐにじまかいていちけい)」と呼ばれる場所です。ここは、沖縄県の与那国島南部で発見された地形で、人工的に加工されたとも考えられる巨石群から、海底遺跡と考える説もあり、「与那国海底遺跡(よなぐにかいていいせき)」と呼ばれることもあります。

 超巨大!

 なんとこの「海底遺跡」、大きさは東西に250メートル、南北に150メートルもあり、エジプトのピラミッドにも匹敵する大きさなんです!

 遺跡なの?

 実は、この「与那国海底地形」が遺跡かどうかは、まだはっきりとした結論が出ていないんです。古代文明の一部だと言う人や、自然にできた地形だと主張する人。今なお議論が続いています。

 古代遺跡派

 かつて陸上にあった証拠として、「陸上にしかできない鍾乳洞が遺跡ポイントの近くにあること」をあげる人も。 木村政昭教授は、この与那国島海底巨石遺構は、中・南米にみられる階段ピラミッドに似た遺跡であり、人口的建造物であると判断を下し、1998年、沖縄県の文化局に「遺跡発見届け」を提出する運びとなりました。 ちゃんとした調査も行われているようです。 十字状に刻印のある石版が発見され、鑑定の結果、海底で貝などによって付けられた跡ではなく、意図的な刻印との結論でした。発見された石器も、人工物であると鑑定されました。 遺跡説が濃厚・・・?

 自然地形派

  地盤の傾斜にそって、床も階段も何もかも傾斜しているような建造物は考えにくい。 あれは「節理」と言って、自然にも結構あるものです。岩石は直線方向に”ひび”が入っていて、それに沿って割れる性質を持っており、実際の石切り場でもそれを応用して石を方形のブロックで切り出しています。そして、ひびの部分が脆くなっているために、他の箇所より侵食が早くなり、そのひび部分がくっきりと浮き出して人が積んだように見えるのです。 ブリティッシュコロンビア大学教授のリチャード・ピアソン(Richard J. Pearson)は、与那国島では焚火跡、石器、土器を含む紀元前2500年-2000年の小規模な居住地の遺跡が発見されているが、その住民には石造記念物を建造する余力はなかったであろうとの見解 。

 どちらが本当なのでしょうか・・・?

 余談ですが、人間は科学的根拠をいくら示されても信じたくないものは信じないんだそうです。あなたはこの海底地形、自然にできたものだと思いますか?それとも、古代文明の名残だと思いますか?

 超古代・オーパーツ日本最西端の海に眠る「与那国島の海底遺跡」」。
 伝説

 日本の最も西に位置する沖縄県の与那国島。この島の新川鼻(あらかわばな)という断崖の
岬からわずか 100メートル沖合の海底に、「与那国島の海底遺跡」と呼ばれる神秘の遺跡
が眠っている。海底遺跡の全長は、東西方向に約250メートル、南北方向に約150メートル、
高さは26メートル(頂上部の約1メートルは海面から出ている)。その外観は、まるで巨大な山
城かピラミッドのようである。それもそのはずで、用途はおそらく城か神殿ではないかと考えら
れている。防御を意識した造りや、宗教的な儀式に使われたとみられるレリーフなどがいくつ
も発見されているからだ。新川鼻の沖合は、かつて陸上にあったことがわかっており、人々の
往来もしやすかった。造られた年代は、様々な調査から2000~3000年前頃ではないかと考え
られている。ところがその後、突如、急激な地殻変動が起こり、遺跡は海中に没してしまった。

 これが人の手によって造られた遺跡だという証拠は、直角に切り取られた階段、大規模な
メインテラス、外部からの侵入を阻む城門、周囲を取り囲む石垣、石ころひとつ落ちてい
ない平坦な通路、人の手が加えられたことを直接示すクサビ跡、石器類
など、数多い。こ
れらは、すべて自然にできたという考えでは説明不可能なものばかりだ。一方、人工物である
という証拠は数多く出されており、その信頼性は揺るぎない。こうしたことから、与那国島の海
底に眠る遺跡を水中文化遺産として登録しようという動きも出ている。遺跡の保護は必要不
可欠であり、人類の遺産として後世に残していくべきである。

 謎解き

 与那国島の海底遺跡は、確かに人工的な遺跡のように見える。とても自然にできたとは思
えない。最初に海底遺跡の写真を見た頃の私の感想がまさにそうだった。しかし、それから
10年以上が経ち、詳しく調べられるようになった現在、その考えは大きく変化した。結論から
先に述べれば、与那国島の海底遺跡とされるものは、自然にできたものだと考えられる。な
ぜそう考えられるのか。具体的には以下の検証結果をご覧いただきたい。以下では、海底遺
跡を論じるうえで、その名称に対して使われている「遺跡ポイント」という呼び名を使う。

 大前提その1:急坂のように傾いている遺跡ポイント

 まず遺跡ポイントを論じるうえで、大前提としておさえておきたいのは、遺跡ポイント全体
が約10~12度も傾いているという事実だ。
10度というのは、私たちが普段生活している陸
上の坂道の勾配でいえば、約17%に相当する。実際にはどれくらいの坂なのか。以下の動画
にある坂道の勾配が17%である。これが100メートル以上も続いているのだから、まさに急坂
といっていい。実際には勾配が10%の坂でもけっこうきつく、普通に急坂といわれる。遺跡ポ
イントの最大傾斜12度の場合は約21%にもなり、もはや「激坂」といわれるレベル。この傾き
は平坦面とされる部分から道とされる部分まで遺跡ポイント全体に及ぶ。これだけ傾いてし
まっていては、その上で人が生活するのはきわめて困難である。もし人工物だとするならば
、もとは平坦だったのが、のちに地滑りなどを起こして沈下し、傾いてしまったと考えるほかな
い。遺跡説の主導的立場にある琉球大学の木村政昭名誉教授によれば、その地滑りが起
きたことを示す証拠があるという。しかし沖縄地方の海底地形や地殻変動について詳しい、
琉球大学の中村衛教授に問い合わせたところ、与那国島で地滑りが起きたことを示す証拠
などは聞いたことがないとのことだった。また、琉球大学理学部物質地球科学科で海洋地質
学を研究されている古川雅英教授にも見解を伺ったところ、以下のような回答を得た。周辺
海域も含めて、海底地すべりについても明確な証拠はない。与那国島には多数の断層が認
められるが、2000~3000年前に急激な地殻変動が起きたという明確な証拠はない。地質学
・地球物理学的根拠に基づく議論ではない。知っている限り、「遺跡」と考える考古学者・地質
学者は一人もいない。つまり現状では木村名誉教授の主張はまったく認められていないとい
うことである。

 大前提その2:遺跡ポイントは岩が削られてできたもの

 次にもうひとつ、おさえておきたいことがある。それは遺跡ポイント全体が、石を組み上げて
いった建造物ではなく、岩が削られてできた地形であるという事実だ。この違いは、実はか
なり大きい。通常、世界中の遺跡などにある多くの建造物は、人間が整形した石を組み上げ
るようにして造られている。エジプトのピラミッドがわかりやすい例だ。これに対し、与那国島
の遺跡ポイントでは石が組み上げられておらず、もともとあった地層が削られるかたちで存
在している。その地層とは、今から約1600万年前に海底で砂や泥が固まった「八重山層群」
というもの。これに「節理」と呼ばれる自然の割れ目が入り、波などの影響を受けて削られて
いったものが、まさしくあの遺跡ポイントだったと考えられている。この節理というのは直線的
に入りやすく、その性質や状況によって、自然の岩をブロック状や板状、ときには多角形の柱
状にすることが知られている。

 以下は、そういった節理の一例。これらは、すべて自然のものである。こうした自然が生み
出す造形への理解があれば、遺跡ポイントに対する見方も少しは変わってくるのではないだ
ろうか。

 個別の人工説の検証

 とはいえ、人工説を支える証拠とされるものはたくさんある。ここからは、それらをいくつか
ピックアップし、個別に検証していきたい。

 アーチ門は3つの巨石を組んで造られた?

 アーチ門とは、遺跡ポイントの西側にあるトンネル状の岩のことをいう。通常、ここが遺跡ポ
イントへの「入口」だと紹介されることが多い。その構造は高さ160センチ、幅80センチ、奥行
き3メートルほどで、3個の巨石を組んで造られているとされる。しかし引いた位置から見ると
わかるが、左右の巨石とされているものは、もとから存在している地形の岩である。これに、
縦、横の節理が入り、縦の部分が剥がれて欠ける。この欠けたスペースに上から節理によっ
て剥がれ落ちてきた石がはまり、アーチ門はできたと推測される。(実際、アーチ門周辺には
落ちてきた石がたくさん見られる)アーチ門の先にある「二枚岩」と呼ばれる巨石も、節理によ
って剥がれ落ちたもの。こちらはすき間の下まで落ちて挟まっている。

 下の右写真は、縦、横に節理が入った例。真ん中の部分が剥がれて欠けている。遺跡ポイ
ント近くの「サンニヌ台」という沖縄県指定の名勝で見られる。左写真も同じ節理の例。こちら
は岐阜県下呂市にある「重箱岩」という奇岩。市指定の天然記念物となっている。ちなみに群
馬県渋川市の鈴ヶ岳にも、「重箱岩」といわれる奇岩がある。こちらは四角に切り取られたよう
になっている。もしこれが遺跡ポイントにあったら、きっと自然にはできないと言われたのではな
いだろうか。

 ループ道路に落石がないのは人工的な証拠?

 アーチ門をくぐり、右手に曲がって進むと、遺跡ポイントの南東側に沿うように「ループ道路」
と呼ばれる道のようなものが現れる。もし節理によって上部から石が剥がれ落ちてくるなら、こ
こにも石が多くあるはずだ。しかし、ここでは十数メートルほどにわたって落石が見られない。そ
のため、人の手によって石がどけられた=人工説の証拠になるとされている。

 本当だろうか。映像や写真を確認してみると、確かにループ道路では落石がほとんどないよう
に見える。(ただし東側と西側では落石が見られる。)ところが、このループ道路のすぐ横には
次項でも取り上げる石の山が確認できる。さらにループ道路自体が、その石の山の方に向かっ
て傾いており、石の山の下は一段低い窪地になっている。つまり上からはがれ落ちてきた石は
、その窪地にたまりやすいのだ。

 また、ちょうどループ道路の上部には「メインテラス」と呼ばれる場所があり、そこは遺跡ポイ
ントの中でも南東への潮の流れが強いことで知られている。この方向は窪地へ向かうものでも
あり、現在より水位が低かった時代には、ループ道路上の石も波や潮の流れの影響を受けやす
かったと推測される。 

 擁壁は石を組んで造られた?

 前項で扱った石の山は、木村名誉教授によれば、石を組んで造られた擁壁、もしくは石垣の
ようにできているという。(「つら」「ひかえ」などの専門用語を使って、伝統的な石組み工法が
用いられているかのように説明) しかし、これは確認してみると明らかに違うことがわかる。
下の写真をご覧いただきたい。どう見てもバラバラだ。実際に潜って遺跡ポイントを調査された
神戸大学理学部の原俊雄准教授によれば、これらの石に整形された痕は認められず、積み
石によって擁壁を形成していることも確認できなかったという。ちなみに、この擁壁はイラスト化
されており、木村名誉教授の著書によく登場する。以下がそのイラスト。しかしこれには、縦横
比、方角、傾斜など、おかしな点が多い。とくに傾斜は30~40度と書かれているにもかかわら
ず、イラストでは約70度に誇張されている。実際の擁壁とされているものは70度もない。せい
ぜい45度だ。しかしこのくらいの角度では、とうてい壁に見えない。そのためイラストでは、それ
らしく見えるように誇張したのだと思われる。石どうしもあまりすき間がない石垣のように描かれ
ているが、先に見たように、これも明らかに誇張されている。

 人が使うための階段が造られている?

 ループ道路の先には、人が上へのぼるれるように階段が造られているという。これはイラスト
などでは角がしっかりある、まさに「階段」のように描かれることが多い。ところが、これも実際
の写真を見ると印象がかなり違ってくる。ご覧のように全然人工的な階段には見えない。しかも
この先には、段差が1メートルほどもある場所まで存在している。このようなものを、さも計画的
に造られた階段であるかのように主張するのは無理があるのではないだろうか。

 とはいえ階段のような地形自体は節理によって形成されやすい。メインテラスを含め、階段状
の地形は遺跡ポイントの南~南西側に集中している。この場所は陸側(北)の反対に位置し、か
つて水位が今より低かった時代には、波の影響を受けやすかった。つまり節理によって剥がれ
やすくなった石が、波によって削られていき、南~南西側に特徴的な階段地形を形成したと考え
られる。

 三角プールは自然にはできない?

 三角プールとは、遺跡ポイントの上部に位置する、一辺が十数メートルほどの扇状に削られた
地形のことをいう。木村名誉教授などは、ここに水をため、プールとして使っていたのではない
かと主張している。また節理で窪地のようなものはできにくいため、人工的な証拠になるともい
う。しかし三角プールは遺跡ポイントの地形上にあるため、当然ながら傾いている。そして節理
も入っている。よって、この場所も節理によってもろくなったところが波によって削られていったと
考えられる。ちなみにここは節理や傾きがあるため、水をためることはできず、プールとしては
使えない。

 柱穴に柱を立てていた?

 三角プールのすぐ近くには、3つの深い穴があいている。これは、かつて柱を立てていた「柱
穴」
の跡ではないかという。しかし、こうした穴は自然でも形成される。「甌穴」(おうけつ、別名
ポット・ホール)
と呼ばれるものだ。甌穴では、海底などのくぼみに硬い石がとらえられ、波や流
れの力によって回転が長い年月繰り返されることで、まるでドリルで掘ったような穴ができる。前
出の神戸大学理学部の原俊雄准教授の調査によれば、3つの穴のうちの2つには、長径が穴
の直径に等しいラグビーボール状の石があったという。また穴の内壁には、石の回転でできた
と考えられる線状痕が認められたため、明らかに自然にできたものだと結論している。残りの一
つにはサンゴが付着しており、確認するには至らなかったという。

 太陽石は実用機能を持っていた?

 遺跡ポイントの東側の海底には、「太陽石」と名付けられたワンボックスカーほどの巨石が
置かれている。ここには台座のようなものがあり、その近くには線のようなものが何本か刻み込
まれている。木村名誉教授によれば、道しるべや時間を示す実用機能を持っていた可能性があ
るという。確かに写真で見ると、台座のようなものに見事にのっていて人工的なようにも見える。
ところが、実は反対側から見ると、これもまた印象が違ってくる。太陽石の反対側。こちら側から
の写真はほとんど紹介されない。台座のように見えたのものは、段差状に削れていった薄い岩
の残りだということがわかる。太陽石も、先に紹介した側からだときれいに台座におさまってい
たように見えたが、こちら側から見ると、かなりズレていることがわかる。しかも2000年8月29日
に台風12号が過ぎ去ったあとには、波の影響で太陽石は岩場から落ちてしまっている。木村名
誉教授は、太陽石がある水深25メートル付近は遺跡ポイントの中でも最深部にあたるため、波
の影響力はほとんどないと主張していた。もはやこうなると、周囲の他の落石と見分けをつける
のも難しいくらいだ。おそらく太陽石自体は、周囲の岩場から削れた石のひとつが流されてきた
ものだったか、ミャンマーのゴールデン・ロックのように、周囲の石が節理や風化によって削られ
ていく中で、最後に残った部分だったのかもしれない。いずれにせよ、人工的なものである可能
性はきわめて低い。なお、岩場にあった線のようなものは、次項で扱うように、ウニなどの岩を
掘る穿孔性の生物によるものと考えられている。 

 クサビで穴をあけた痕がある?

 遺跡ポイントやその周辺では、岩を割るために使うクサビによって、直線的に並べてあけたと
思われる穴の痕がいくつも見つかっているという。この件については神戸大学の原俊雄准教授
が直接調べている。その報告によると、こうした穴はクサビ痕ではなく、まず間違いなくウニなど
の穿孔性の生物によってあけられた穴だと考えられるという。ただし比川海岸で見つかった石
の穴は、他と比べて明らかに穴の形状が違い、60年ほど前にあけられたという証言も出ている
ことから、戦後にあけられたクサビ痕の可能性が高い。直線的に並んでいるように見えるものに
ついては、穴が掘りやすい節理に沿ったためと解釈できるという。事実、それらの穴に沿って、
節理による割れ目が確認されている。また実際に穴の中にいたウニも別のダイバーが発見して
いる。木村名誉教授は、ウニがあける穴と遺跡ポイント周辺の穴は違うと主張している。この件
については私が沖縄県の美ら海水族館に、木村氏の著書に掲載されている穴の断面図を送っ
て問い合わせたところ、ウニがあける穴としては珍しくないとの回答が返ってきた。

 石器やレリーフ類は、人工説の決定的証拠?

 遺跡ポイント周辺で見つかっているという石器類と称される石は、それだけでは、ただの石片
と見分けがつかない。もし石器類を研究している専門家による論文が発表されていれば検討の
価値はあるものの、そういった論文は残念ながら出ていない。また、動物をかたどったレリーフ
とされるものには、亀、牛、大ワシなどがあるが、どれもよく似ていると言うにはほど遠い。

 逆傾斜なら落石はない?

 遺跡ポイントの北側は傾斜とは逆方向にあたる。木村名誉教授によれば、節理によって剥が
れた石は、傾斜方向には重力によってすべり落ちるものの、逆傾斜方向には落ちにくいとしてい
る。にもかかわらず、その逆傾斜方向でも石は削られているため、人間が手を加えた有力な証
拠になるという。しかし、木村名誉教授は波の影響力というものをまったく考えていない。石は
波や風によっても削られ、移動していくことが知られている。たとえば、1994年8月に台風13号
が与那国島に接近した際には、1~6トンクラスの巨石が低所から高所に数メートルにわたって
移動している。このときは最大瞬間風速70.2メートルという猛烈な風を記録し、高波も約21メー
トルに達した。与那国島では過去数千年の間に、こうした台風の襲来が何度もあったはずで、
遺跡ポイントの逆傾斜側も、波や風の力を受けてきたはずだ。そうであれば、逆傾斜側に削ら
れた部分があるのも当然だと考えられる。

 サンニヌ台は遺跡だった?

 海底遺跡から北東に約2.5キロ離れたところに、「サンニヌ台」と呼ばれる陸地がある。ここの
岩石には節理が非常に多く見られ、遺跡ポイントとよく似た地形が形成されている。木村名誉教
授も著書の中で次のように述べている。「確かにサンニヌ台は遺跡ポイントと非常に形が似てい
るので、これが自然物ならば遺跡ポイントもまた自然物と言われても仕方がない」(『沖縄海底
遺跡の謎』P.44)。けれどもサンニヌ台は自然物ではないという。人工的に造られた遺跡であり、
遺跡ポイントと同じだと主張する。その証拠となるものには、サンニヌ台に残る炉の痕や、人工
的に削られたとみられる加工痕などがあるという。

 本当だろうか。炉の痕については、放射性炭素年代測定によって約1500年前という結果が出
たとしている。しかしこの結果に対し、木村名誉教授は別のところで、「後世の人が火を焚いた
可能性があるので説得材料にはならない」
(『沖縄海底遺跡の謎』P.116)と却下している。実
際、炉の痕とされる場所は、釣り場として親しまれていた場所だという指摘もあり、説得材料とし
ては弱い。一方、加工痕については、次の場所がわかりやすいという。映像をキャプチャしたも
の。これは、画像の親指のところに見える自然の割れ目(節理)からさらに数センチ、人の手に
よって削られた痕だという。(割れ目は親指のところにしかないらしい)しかし、この場面の少し
前に、割れ目が下まで続いていることを示すシーンがある。よく見ると割れ目は2本入っている
ことがわかる。つまり、割れ目がひとつしかないので、そこから数センチ人工的に削られている
というのは勘違いで、もともと2本あり、それぞれの割れ目にそって割れた結果が、最初に見た
断面ということになる。

 自然の造形美、自然遺産としての魅力

 さて、以上のように与那国島の海底遺跡とされるものを人工物だと考えるのは難しい。これは
考古学や地質学の分野でも、同様の見解になっている。また、もともと海底の遺跡を専門に扱う
「水中考古学」と呼ばれる分野でも、遺跡ポイントを「遺跡」だと考える研究者はいない。しかし
1990年代前半から、専門外の木村政昭名誉教授が遺跡説を強く主張し始めたことにより、残念
なことが起きた。「日本の水中考古学者は、自然石と人工物との区別もつけられない素人
である」
という悪評が確立してしまったのだという。もちろん木村名誉教授は水中考古学者では
ないし、水中考古学者の中で氏の主張を支持する人もいない。賛否両論あるという状況ですら
ない。けれども木村名誉教授らが中心となって、海外の作家などを招いたことにより、与那国島
の海底に眠るのは「遺跡」であり、日本の学者がお墨付きを与えているという誤解が広まった。
水中考古学者の岩淵聡文氏によれば、こうした誤解が一因となり、日本の水中考古学は1990
年代に大きく停滞してしまったという。そして現在でも、与那国島の遺跡ポイントは、「日本の水
中考古学界全体への打撃を与え続けている負の遺産」
となってしまっているともいう。残念
なことである。しかし岩淵氏は、遺跡ポイントの価値を全否定しているわけではない。著書の中
では次のように述べている。この海底自然石群は立派な水中自然遺産であり、(中略)世界的に
も珍しい、特異な水中自然遺産ということであれば、それだけで観光資源、あるいはダイビング
・ポイントとしては十二分であろう。こうした見解は、遺跡ポイントを人工物だとまったく考えてい
ない人たちの間でも、広く見られる。もちろん、私も同じだ。人が造っていなかったからといって
価値がなくなるわけではない。自然によってつくられたものでも、その価値が認められ、世界自
然遺産や観光名所になっている所は世界中にある。与那国島の海底自然石群は、そういった各
地の自然遺産や名所と比較しても、まったく引けを取っていない。むしろサンニヌ台と合わせた
大規模な節理群は世界有数である。願わくは、今後は人工説にこだわった「文化遺産」としてで
はなく、より現実的で見込みのある「自然遺産」として、ぜひ世界にアピールしてほしいもので
ある。







(私論.私見)