三笠記考

 (最新見直し2013.08.16日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「三笠記考」をものしておく。

 2013.08.15日 れんだいこ拝


【れんだいこの三笠記考】
 三笠記(ミカサフミ)は、ホツマ伝えと「割りウルリ(瓜)」とも称せられる文献であり、内容的にも近似している。恐らく下敷きにした原書があり、この原典Xは発見されていないが、これをホツマ伝え風、三笠記風にと纏め別書になっているのではなかろうかと思われる。これにより互いが互いの読解に必要な文献となっている。いわゆる合わせ鏡文献と云ってよいと思われる。フトマニも同系の書である。

 三書の違いを敢えて言えば、ホツマ伝えの方が国体論、君主論、政治論を説き明かしている。三笠記は後の風土記につながるような行事、暦法、住宅、食事と云う生活全般の各分野の要諦を説き明かそうとしているように思える。フトマニは全体に哲理文書となっている。

 三書ともホツマ文字と云われる図象文字、和歌風同文体で書かれており同時代性が認められる。作成時期は出雲王朝の御世と思われる。その根拠は、「こゑ十二の后立つ文 」の次の記述である。「これ昔 スクナヒコより ヲオナムチ 我に授けり」。「春宮の文」の「去年より向かふ ソサノヲと アマノミチネと 御供して」も然りである。してみれば、「和歌風に記された幻の出雲王朝文書群X」が存在し、これよりホツマ伝え、三笠記、フトマニが著わされており、今日に伝わるのがこの三書と云うことになるかと思われる。

 ホツマ伝えについては別サイトで論ずるので、そこで確認するとして、三笠記は現在のところ9アヤ(章)分が発見されている。また、江戸時代なかごろの研究者の出版物などに残簡文もある。三笠記に先行して「アメノミチ」を記す「カグノフミ」があったようであるが、これはまだ発見されていない。三笠記(ミカサフミ)、フトマニによって判明するのは、ハラミの宮が富士山の南麓であったことである。他にも実に多くある。

 これにつき、松本善之助氏は、著書「みかさふみ・ふとまに」(展望社、平成11.11.1日初版)の序で次のように述べている。
 「ミカサフミとフトマ二は、漢字が我が国に渡来してくる以前に編纂された文献であり、両書共に国家建国の根本理念が濃厚に縷述されている至尊の文献である」。

 池田満・氏が補足して、解説で次のように述べている。
 「日本の国の重きをなしていたのは、実にヲヲヤケ(パブリック)の確立という要請が氏族の存立の根本要請とされていたからではなかろうか。ヲヲヤケ−−−−。この何とも常人には理解の及び難いシロモノにこそ、左の臣(カガミノトミ)の存在意義があったと看守できる。即ちカガミノトミが護持してやまなかったのはヲヲヤケであった。八代アマカミのアマテルがアメノミチの深奥を悟ったのも、詰まるところヲヲヤケに拠って立っている。アメノコヤネの心入れの深く成立したミカサフミにこそヲヲヤケの概念の叙述が存分になされている」。

 両氏とも、ホツマ伝え、三笠記、フトマ二研究の碩学であるからして実に的確な観点を示していると拝する。れんだいこが敢えて補足すれば、現在読破中であるが、三笠記は、ホツマ伝えが伝えそこなった面の補充的役割をも果たしているのではなかろうか。例えば、「タカマ成る文」での天文学、暦法、行事に関する記述が注目に値する。ホツマ伝えに比して相当詳細に論述しており、これは補充と窺うべきではなかろうか。

 ホツマ伝え、三笠記、フトマ二の編集時期について、三笠記を通して見えてくることがある。それはどうやら、国譲り後のことで、新たに支配官として赴任してきた大和王朝勢力に対する練り合わせの意図をもって出雲王朝御代の諸々の範例を示したものではなかろうかと推察できる。もとより、その際に先行して「幻の出雲王朝文書群X」が存在していたことは疑いない。これが大和王朝に提出されたのが、ホツマ伝えの項で記した通りである。こういう経緯になっているのではなかろうか。

 2013.08.15日 れんだいこ拝

【三笠記の登場考】
 監修・松本善之助、編者・池田満「みかさふみ・ふとまに」(展望社、平成11.11.1日初版)によると、三笠記の8アヤ分とフトマニは、琵琶湖の西海岸の景勝地・滋賀県高島郡高島町の旧家の土蔵に保管されていた。これを「野々村立蔵本」と云う。野々村立蔵の子孫で、同地在住の野々村直大(ただひろ)氏所蔵の「神戴山書紀」と記された3冊、7アヤ分も存在する。江戸時代中期、和仁こ安聡(わにこやすとし)がホツマ伝えと共に写本している。漢訳文も添付している。

 2013.08.15日 れんだいこ拝










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