巻第七(天皇本紀)

 (最新見直し2009.3.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「先代旧事本紀巻第一」を転載しておく。

 2009.3.19日 れんだいこ拝


【巻第七(天皇本紀)】

 神武天皇

 彦波瀲武鸕鷀草不葺合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第四子である。諱(いみな)は神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)、または彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)という。年少のときは、狭野尊(さぬのみこと)と呼ばれた。母は玉依姫(たまよりひめ)といい、海神の下の娘である。

 天皇は、生まれながらに賢い人で、気性がしっかりしておられた。十五歳で皇太子となられた。成長されて、日向国吾田邑の吾平津媛(あびらつひめ)を娶り妃とされ、手研耳命(たぎしみみのみこと)をお生みになった。太歳甲寅年の冬十二月五日、天皇はみずから諸皇子を率いて西の宮を立たれ、船軍で東征された。詳しくは、天孫本紀に見える。

 己未年の春二月五十日に、道臣命(みちのおみのみこと)は、軍兵を率いて逆賊を討ち従えた様子を奏上した。二十八日、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)は、天の物部を率いて逆賊を斬り平らげ、また、軍兵を率いて天下を平定した様子を奏上した。

  (注1)この書では二月辛卯朔庚辰(2月1日の干支が「辛卯」で「庚辰」の日)だが、日本書紀ではこの年の2月1日は「壬辰」である。また、この書で「庚辰」の日は50日(「壬辰」が2月1日で有れば、49日)となり、この月に存在しない。
 (注2)2月1日が「壬辰」であれば、27日である。
 なお、古事記では、饒速日命は後から天下った事になっていて、長髄彦が殺された部分は出て来ない。

 三月七日、天皇は、令(のり)をくだして仰せになった。「私が東征についてから六年になった。天神の勢威のお陰で凶徒は殺された。しかし、周辺の地はいまだ静まらない。残りのわざわいはなお根強いが、内つ国の地は騒ぐものはない。皇都をひらきひろめて御殿を造ろう。しかし、いま世の中はまだ開けていないが、民の心は素直である。人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開の習俗が変わらずにある。そもそも聖人が制を立てて、道理は正しく行われる。民の利益となるならば、どんなことでも聖の行うわざとして間違いはない。まさに山林を開き払い、宮室を造って謹んで貴い位につき、民を安んじるべきである。上は天神が国をお授けくださった御徳に答え、下は皇孫の正義を育てられた心を広めよう。その後、国中をひとつにして都をひらき、天の下を覆ってひとつの家とすることは、また良いことではないか。見れば、かの畝傍山(うねびやま)の東南の橿原(かしはら)の地は、思うに国の真中か」。 

 同月二十日 詔を有司(役人)に命じて都の造営を始めた。天太玉命(あめのふとだまのみこと)の孫の天富命(あまとみのみこと)は手置帆負(たおきほおい)と彦狭智(ひこさしり)の二神の孫を率いて、斎斧(いみおの、斎清めた斧)と斎鋤(いわいすき、斎清めた鋤)で山材をとり、正殿を構え建てた。これがいわゆる「畝傍の橿原に底津磐根に太い宮柱を立てて、高天原に届くほど高くし、初めて国を治められた天皇で天業の基礎を作られた」日である。皇孫命の瑞御殿(みずのみあらか、宮殿)を造ってお仕え申しあげているのである。この手置帆負・彦狭知の忌部の末裔が居るところは紀伊の国の名草の御木(みき)と麁香(あらか)の二郷である。その材を取る忌部の居るところを御木と云い、殿を造る忌部の居るところを麁香と言う。これが、その由来である。また、古事では正殿を麁香(みあらか)と云う。

 庚申(かのえさる)年八月十六日(戊辰(つちのえたつ))、天孫は正妃を立てようと、改めて広く良き人(貴族の娘)を求めた。奏する人があり申しあげた。「事代主神(ことしろぬしのかみ)と三島溝杭耳神(みしまのみぞくいみみのかみ)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)とが生んだ児で蹈鞴五十鈴媛命(たたらいすずひめのみこと)と云います方が、器量の良い方です」。天孫は喜ばれた。九月十四日(乙巳(きのとみ))、蹈鞴五十鈴媛命を召して、正妃とした。

 辛酉を元年とし、春正月一日に、橿原宮に都をつくり、はじめて皇位に即かれた。正妃の媛蹈鞴五十鈴媛命を尊んで、皇后とされた。皇后は大三輪の大神の娘である。
 宇摩志麻治命(うましまちのみこと)は天瑞宝(あめのみずたから)を奉献し、神盾をたてて斎き祀った。また、斎木を立て、五十櫛を布都主剣(ふつぬしのつるぎ)のまわりに刺し巡らせて、大神を宮殿の内に崇め祀った。そして十種の瑞宝を収めて、天皇に近侍した。そのため、足尼(すくね)といわれた。足尼の号は、このときから始まった。

 天富命(あめのとみのみこと)は諸々の忌部(いんべ)を率いて天璽(あまつしるし)の鏡剣を捧げ、正殿に安置した。天種子命(あめのたねこのみこと)天神の寿詞(よごと)を奏した。即ち神世の古事の類がこれで有る。宇摩志麻治命は内物部(うちつもののべ)を率いて、矛、楯を立てて威儀を厳しく増した。道臣命は来目部(くめべ)を率いて宮門を守り、その開け閉めを掌った。並びに四方の国に天位の貴さを見せ知らしめた。国々の民に朝廷の重きを示し伝えた。時に皇子達と大夫達は諸々の官・臣・連・伴造・国造等を率いて年の初めに朝賀の礼拝を行った。凡そ即位・賀正・建都・践祚等の行事はこの時より始まった。

 また、仰ぎて皇祖二柱の高皇産霊尊と天照太神の祖神の詔に従って、神座として神籬(ひもろぎ)を立てた。また、高皇産霊神、神皇産霊(かみむすひ)、魂留産霊(たまるむすひ)、生産霊(いくむすひ)、足産霊(たるむすひ)、大宮売神(おおみやのめのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、御膳神(みけつかみ)の神々は、いま御巫(巫女)が斎祀りしている。また、櫛磐間戸神(くしいわまどのかみ)、豊磐間戸神(とよいわまどのかみ)の神々は、共にいま御門(帝)の御巫がお祀りしている。また、生島(いくしま)の神は大八洲(おおやしま)の御魂で、いま生島の御巫がお祀りしている。また、坐摩(いかすり)の神は大宮の立つ地の御魂で、いま坐摩の御巫がお祀りしている。

 また、天富命は斎部(いんべ)の諸氏を率いて、諸々の神宝の鏡・魂・矛・楯・木綿・麻などを作った。櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)の子孫は、御祈玉(みほぎたま)を作った。古い語に美保伎玉(みほきたま)という。“みほき”は祈祷のことをいう。また、天日鷲命の子孫は、木綿と麻、織布を作った。古い語では荒妙(あらたえ)という。また、天富命は天日鷲命の子孫を率いて、肥えた土地にそれぞれ遣わし、穀物や麻を栽培させた。また、天富命はさらに肥沃な土地を探して、良い麻や綿を分かち植えた。このように、永く麻を大嘗祭に献じることの由来である。また、天富命は安房の地に太玉命を祀る神社を立てた。安房社というのがこれである。

 また、手置帆負命の子孫は、矛竿を作った。いま、讃岐から永くたくさんの矛が献じられるのは、これがその由来である。天児屋命の孫の天種子命は、天つ罪・国つ罪を祓い清めた。日臣命(ひのおみのみこと)は来目部を率いて、宮門を守り、その開閉を掌った。饒速日命(にぎはやひのみこと)の子の宇摩志麻治命は、内物部を率いて、矛・楯を作り備えた。天富命は、諸々の斎部を率いて、天つしるしの鏡・剣を捧げ、正殿に安置した。さらに玉をかけ、幣物を並べて大殿で祭りを行った。次に、宮門で祭りをした。また天富命は、幣物を並べて祝詞をとなえて皇祖の天神を祀り、国つ神たちを祀って、天神地祇の恵みに応えた。また、中臣氏と忌部氏の二氏に命じて、ともに祭祀の儀式を掌らせた。また、猿女君氏に命じて、神楽をもって仕えさせた。
そのほかの諸氏にも、それぞれその職がある。

 暫くの間、帝と神の関係は遠くなかった。殿を同じにし床を共にした。このことを常にした。神の物と官の物は未だ分けられていなかった。また、宮の内に神宝を収める蔵を立てて斎蔵(いわいのくら)と名付けて、斎部の氏を永くその職に任じるよう命じた。
 十一月十五日、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)は、殿内に天璽(あまつしるし)の瑞宝(みずたから)を斎奉り、帝と后のために御魂を崇め鎮めて寿祚を祈った。いわゆる御鎮魂祭(みたましずめのまつり)はこの事から始まった。凡そ天瑞宝(あめのみずたから)は宇摩志麻治命の父の饒速日尊(にぎはやひのみこと)が天神より授けられ、天から持って来た天璽の瑞宝十種(みずたからとくさ)のことである。十種の瑞宝とは、 瀛都鏡(おきつかがみ)が一つ、邊都鏡(へつかがみ)が一つ、八握剣(やつかのつるぎ)が一つ、生玉(いくたま)が一つ、死反玉(しにかえしたま)が一つ、道反玉(みちかえしたま)が一つ、蛇比禮(おろちひれ)が一つ、蜂比禮(はちひれ)が一つ、品物比禮(くさぐさのもののひれ)が一つである。

 天神は饒速日尊に教えて仰せられた。「もし、痛む所が有ればこの十宝(とくさのたから)に命じて『一二三四五六七八九十』、『ふるへゆらゆらとふるへ』と唱えば死んだ人も生き返る」。これが布瑠(ふる)の言の本(紀元)である。御鎮魂祭(みたましずめのまつり)はこれが本である。その御鎮魂祭りは猿女君等が百の歌女(うため)を率いて、その言の本を挙げて、神楽を歌い舞う。これはそれが本(由来)である。

 治世二年の春二月二日、天皇は論功行賞をされた。宇摩志麻治命に詔して仰せられた。「お前の勲功は思えば大いなる功である。公の忠節は思えば至忠である。このため、さきに神霊の剣を授けて類いない勲功を称え、報いた。いま、股肱の職にそえて、永く二つとないよしみを伝えよう。今より後、子々孫々代々にわたって、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑とするように」。そこで、宇摩志麻治命と天日方奇日方命(あまひかたくしひかたのみこと)は共に拝命して、食国の政事を行う大夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)になった。この政事を行う大夫とは、今でいう大連(おおむらじ)、または大臣のことである。天日方奇日方命は、皇后の兄で、大神君(おおみわのきみ)の祖である。

 道臣命に詔して仰せられた。「お前には忠と勇があり、またよく導いた功績がある。そのため、さきに日臣(ひのおみ)を改めて、道臣(みちのおみ)の名を与えた。それだけでなく、大来目(おおくめ)の精強な兵を率いて、たくさんの兵士たちの将として密命を受け、よく諷歌(そえうた)、倒語(さかしまごと)をもって、わざわいを払い除いた。これらのような功績でつくした。将軍に任命して、後代の子孫に伝えよう」。倒語(謀略)の用いられるのは、ここに始まった。道臣命は、大伴連(おおとものむらじ)らの祖である。また、道臣に宅地を賜り、築坂邑(つきさかのむら)に住ませて、これを持って報いられた。また、大来目を畝傍山の西の川辺の地に住ませた。いま、来目邑と呼ぶのはこれがその由来である。大来目は久米連(くめのむらじ)の先祖といわれる。

 椎根津彦(しいねつひこ)に詔して仰せられた。「お前は天皇の船を迎えて導き、また、功績を天香山の山頂に現した。よって、誉めて倭国造(やまとのくにのみやつこ)とする」。大和の国造は、このときから始まった。これが大倭連(おおやまとのむらじ)らの祖である。

 弟磯城(おとしき)黒速(くろはや)に詔して仰せられた。「お前には、逆賊の長の兄磯城(えしき)のくわだてを告げた勇気があった。よって、子孫を磯城県主(しきのあがたぬし)とする」。

 頭八咫烏(やたがらす)に詔して仰せられた。「お前には皇軍を導いた功績がある。よって、賞の内に入る」。頭八咫烏の子孫は、葛野県主(かどののあがたぬし)らである。

 四年の春二月二十三日、天皇は正安殿で詔して仰せになった。「わが皇祖の霊(みたま)が、天から威光を降してわが身を助けてくださった。いま、多くの敵はすべて平らげて、天下は何ごともない。そこで、天神をお祀りし、大孝を申しあげたい」。そこで、神々の祀りの場を、鳥見山(とみやま)の中に立てて、そこを上小野(かみつおの)の榛原(はりはら)・下小野(しもつおの)の榛原といった。そして、皇祖の天神をお祀りになった。ときに、天皇の巡幸があった。腋上(わきかみ)の嗛間丘(ほほまのおか)に登られ、国のかたちを望んで見て仰せられた。「なんと素晴らしい国を得たことか。狭い国ではあるけれども、蜻蛉(あきつ)が交尾(となめ)しているようである」。これによって、はじめて秋津州(あきつしま)の名ができた。

 昔、伊奘諾尊(いざなきのみこと)がこの国を名づけて仰せられた。「日本は、心安らぐ国、細い矛を千本納められる国(よい武器がたくさんある国)、優れていて整った国」。また、大己貴(おおなむち)の大神は名づけて仰せられた。「玉垣の内(うち)つ国」。また、饒速日命は、天の磐船に乗って大空を飛びめぐり、この国を見てお降りになったので、名づけて「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国」と仰せになった。

 四十二年の春正月三日、皇子・神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を立てて皇太子とされた。七十六年の春三月十一日、天皇は、橿原宮(かしはらのみや)で崩御された。このとき、年は百二十七歳だった。翌年の秋九月十二日、畝傍山(うねびやま)の東北の陵に葬った。

 神武天皇には、四人の皇子がおられた。手研耳命。子孫は無い。次に、神八井耳命(かむやいみみのみこと)。意保臣(おおのおみ)、島田臣(しまだのおみ)、雀部造(さざきべのみやつこ)らの祖である。次に、神渟名川耳尊。天皇に即位された。次に、彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)。茨田連(まんだのむらじ)らの祖である。

 綏靖(すいぜい)天皇

 神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと、神武天皇)の第三子で、諱は神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)。謚(おくりな)を綏靖天皇と申しあげる。母は媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)。事代主神(ことしろぬしのかみ)の上の娘である。
天皇は、風采が整い、立派であった。幼いころから気性が雄々しく、壮年になって容貌すぐれて堂々とされていた。武芸は人にすぐれ、志は高くおごそかだった。

 四十八歳になられたとき、神武天皇が崩御された。そのとき神渟名川耳尊は、孝行の気持ちが大変深くて、悲しみ慕う心がやまなかった。特に、その葬儀に心を配られた。その腹違いの兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)は、年が大きくて長らく朝政の経験があった。そこで、政事を任せられていたが、その王の心ばえは、もともと仁義に背いていた。ついに、服喪の期間に、権力をほしいままにした。よこしまな心を包み隠して、二人の弟を殺そうと図った。

 太歳己卯の冬十一月、神渟名川耳尊は、兄の神八井耳命(かむやいみみのみこと)と共に、その謀りごとをひそかに知られて、よく防がれた。先の天皇の山陵を造ることが終わると、弓部雅彦(ゆげのわかひこ)に弓を作らせ、倭鍛部(やまとのかぬち)の天津真浦(あまつまうら)に鹿を射るための眞鹿鏃(まさのやさき又はやじり)を作らせ、矢部(やはぎべ)に箭(や)を作らせた。弓矢の準備がすっかり出来上がって、神渟名川耳尊は、手研耳命を射殺そうと思われた。たまたま手研耳命は、片丘(かたおか)の大室の中でひとり床にふせっていた。その時、渟名川耳尊は神八井耳命に語って仰せられた。「今こそ好機です。そもそも密事はひそかに行わなければなりません。だから、わが陰謀も誰にも相談していません。今日のことは私とあなただけでやりましょう。私がまず家の戸を開けますから、あなたはすぐそれを射てください」。

 それで、二人は一緒に進入した。渟名川耳尊がその戸を突き開いた。神八井耳命は、手足が震えおののいて、矢を射ることができない。この時、神渟名川耳尊は、兄の持っていた弓矢を引きとって、手研耳命を射られた。一発で胸に命中して、二発めを背中にあて、ついに殺した。そこで神八井耳命は、恥じて自分から弟に従った。渟名川耳尊に譲って申しあげた。「私はあなたの兄ではあるが、気が弱くてとてもうまくはできない。ところが、あなたは武勇にすぐれ、みずから敵を誅した。あなたが天位に即いて、皇祖の業を受けつぐのが当然である。私はあなたの助けとなって、神々のお祀りを受け持ちましょう」。すなわち、これが多臣(おおのおみ)の始祖である。

 元年春正月八日 神渟奈川耳尊は天皇位に登られた(即位された)。葛城に都を造られた。これを、高丘宮(たかおかのみや)と云う。皇后を尊んで皇太后と呼んだ。二年、五十鈴依媛(いすずよりひめ)を皇后とする。天皇の母方の叔母である。皇后は磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと、後の安寧天皇)を生まれた。三年春正月、宇摩志麻治命の子の彦湯支命(ひこゆきのみこと)を食国政申大夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)とした。四年夏四月、神八井耳命が薨去。二十五年、皇子の磯城津彦玉手看尊を立てて皇太子とした。年二十一歳。三十三年夏五月、天皇は病に付された。十日、癸酉の日に崩御された。十月、倭の桃花(つき)島田の丘の上の陵に葬る。子は、磯城津彦玉手看尊。

 安寧(あんねい)天皇

 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと、綏靖天皇)の皇太子。磯城津彦玉手看尊(しきしひこたまてみのみこと)。母を五十鈴依媛命と申しあげる。事代主神の下の娘である。先の天皇の二十五年、立って皇太子となられた。ときに年は二十一歳である。三十三年、綏靖天皇は崩御された。

 治世元年癸丑に、太子は天皇に即位された。先の皇后を尊んで、皇太后と申しあげた。二年、都を片塩(かたしお)に遷した。これを浮穴宮(うきあなのみや)という。三年の春正月、渟名底中媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)を立てて皇后とされた。皇后は、三人の皇子をお生みになった。息石耳命(おきそみみのみこと)、次に日本彦耜友尊(やまとひこすきとものみこと、懿徳天皇)、次に磯城津彦命(しきつひこのみこと)である。四年の夏四月、出雲色命(いずものしこのみこと)を政事を行う大夫とされた。また、大祢命(おおねのみこと)を侍臣とした。二人はともに宇摩志麻治命の孫である。十一年の春正月、日本彦耜友皇子(やまとひこすきとものみこ)を立てて、皇太子とされた。三十八年の十二月、天皇は崩御された。翌年八月に、畝傍山(うねびやま)の南の御陰井上陵(みほどのいのえのみささぎ)に葬った。

 天皇に、皇子は四人おられた。長兄の息石耳命[またの名を常津彦命(とこつひこのみこと)という。子孫は無い。次に、日本彦耜友尊。次に、磯城津彦命。猪使連(いつかいのむらじ)らの祖、新田部(にいたべ)らの祖。次に、手研彦奇友背命(たぎしひこくしともせのみこと)。父努別(ちぬわけ)らの祖。

 懿徳(いとく)天皇

 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと、安寧天皇)の第二子の皇太子。日本彦耜友尊(やまとひこすきとものみこと)。母を皇后・渟名底中媛(ぬなそこなかつひめのみこと)と申しあげる。事代主神の孫の鴨王(かものきみ)の娘である。先の天皇の十一年、立って皇太子となられた。年は十六歳であった。三十八年の十二月、先の天皇は崩御された。治世元年・辛亥年の春正月四日、皇太子は天皇に即位された。九月、先の皇后を尊んで、皇太后と申しあげた。二年の春正月、都を軽の地に遷した。これを曲峡宮(まがりおのみや)という。二月、天豊津媛命(あまとよつひめ)を立てて、皇后とされた。皇后は、観松彦香植稲命(みまつひこかえしねのみこと、後の孝照天皇)をお生みになった。三月、食国の政事を行う大夫だった出雲色命を大臣とされた。

 二十二年の春二月十二日、観松彦香植稲尊を立てて皇太子とされた。太子の年は十八歳。三十四年の秋九月、天皇は崩御された。翌年の冬十月、畝傍山の南の繊沙渓上陵(まなごのたにのえのみささぎ)に葬った。

 天皇は、皇太子・観松彦香植稲尊(みまつひこかえしきのみこと)をお生みになった。次に、武彦奇友背命(たけひこくしともせのみこと)。子孫は無い。

 孝昭(こうしょう、孝照とも記す)天皇

 諱は、観松彦香植稲尊(みまつひこかえしきのみこと)。磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと、安寧天皇)の皇太子である。母は皇后・天豊津媛命(あめのとよつひめのみこと)といい、息石耳命(おきしみみのみこと)の娘である。治世元年の春正月九日、皇太子は天皇に即位された。夏四月、先の皇后を尊んで、皇太后と申しあげた。秋七月、都を掖上(わきがみ)に遷した。これを池心宮(いけごころのみや)という。宇摩志麻治命の後裔の出石心命(いずしこころのみこと)を、大臣とされた。

 二十九年の春正月、世襲足姫命(よそたらしひめのみこと)を立てて、皇后とされた。皇后は、二人の皇子をお生みになった。天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と、日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと、後の孝安天皇)である。三十一年の春正月、瀛津世襲命(おきつよそのみこと)を大臣とされた。六十八年の春正月、日本足彦押人尊を立てて、皇太子とされた。太子の年は二十歳。八十三年、天皇は崩御された。翌年八月に、掖上博多山上陵(わきがみのはかたのやまのえのみささぎ)に葬った。

 天皇は、二人の皇子をお生みになった。兄の天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)。大春日臣(おおかすがのおみ)らの祖。次に、日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)。

 孝安天皇

 諱は日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)。観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしきのすめらみこと、孝照天皇)の第二子である。母は皇后・世襲足姫命(よそたらしひめのみこと)といい、大臣・瀛津世襲命(おきつよそのみこと)の妹である。尾張氏である。治世元年・己丑年の春正月、皇太子は天皇に即位された。八月、先の皇后を尊んで、皇太后とされた。二年の十月、都を室(むろ)の地に遷した。これを秋津嶋宮(あきつしまのみや)という。三年の八月、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)の子孫の六見命(むつみのみこと)と三見命(みつみのみこと)をともに足尼(すくね)とし、次いで宿祢(すくね)とされた。二十六年、姪の押媛(おしひめ)を立てて、皇后とされた。皇后は大日本根子彦太瓊命(やまとねこひこふとにのみこと、後の孝霊天皇)をお生みになった。七十六年、大日本根子彦太瓊尊を立てて、皇太子とした。皇太子の年は二十六歳。百二年の春正月、天皇は崩御された。秋九月に、玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)に葬った。天皇は、大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)をお生みになった。

 孝霊天皇

 諱は大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)。(やまとたらしひこくにおしひとすめらみこと、孝安天皇)の皇太子である。母は皇后・押媛命(おしひめのみこと)と申しあげる。治世元年・癸未年の春正月、皇太子は天皇に即位された。先の皇后を尊んで、皇太后とされた。二年二月、細媛命(ほそひめのみこと)を立てて皇后とされた。皇后は、一人の皇子をお生みになった。大日本根子彦国牽皇子命(おおやまとねこひこくにくるのみこのみこと、後の孝元天皇)である。妃の倭国香媛(やまとのくにかひめ)、またの名を紐某姉(はえいろね)は、三人の御子をお生みになった。倭迹迹日百襲姫命(わまとととびももそひめのみこと)、次に彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)。またの名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)、次に倭迹稚屋姫命(やまととわかやひめのみこと)である。次の妃の紐某弟(はえいろど)は、三人の御子をお生みになった。彦狭嶋命(ひこさしまのみこと)、次に稚武彦命(わかたけひこのみこと)、次に弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)である。三年の春正月、宇摩志麻治命の子孫の、大水口命(おおみなくちのみこと)と大矢口命(おおやくちのみこと)をともに宿祢とされた。二十六年の春正月、彦国牽皇子を立てて、皇太子とされた。太子の年は十九歳。七十六年の春二月、天皇は崩御された。次の天皇の治世四年に、片岡馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)に葬った。天皇は、五人の皇子をお生みになった。大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるみこのみこと)。次に彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)。またの名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)。吉備臣らの祖。次に、彦狭嶋命(ひこさしまのみこと)。海直(あまのあたい)らの祖。次に、稚武彦命(わかたけひこのみこと)。宇自可臣(うじかのおみ)らの祖。次に、弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)。

 孝元天皇

 諱は大日本根子彦国牽皇太子尊(おおやまとねこひこくにくるのひつぎのみこのみこと)。大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと、孝霊天皇)の皇太子である。母は皇后・細媛命(ほそひめのみこと)といい、磯城県主(しきのあがたぬし)の大目(おおめ)の娘である。

 治世元年・丁亥年の春正月、皇太子は天皇に即位された。先の皇后を尊んで、皇太后とされた。四年の春二月、都を軽の地に遷した。これを境原宮(さかいばらのみや)という。七年の春二月、欝色謎命(うつしこめのみこと)を立てて、皇后とされた。皇后は二男一女をお生みになった。大彦命(おおひこのみこと)、次に稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこおおひびのみこと、後の開化天皇)、次に倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)である。妃の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)は、彦太忍信命(ひこふとおしのまことのみこと)をお生みになった。次の妃の河内の青玉繋(あおたまかけ)の娘・埴安姫(はにやすひめ)は、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)をお生みになった。八年の春正月、物部連公の祖・宇摩志麻治命の子孫、欝色雄命(うつしこおのみこと)を大臣とされた。また、大綜杵命(おおへそきのみこと)を大祢(おおね)とされた。二月に、皇后を尊んで皇太后と申しあげた。また、皇太后に追号して大皇太后を贈った。二十二年正月、稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこおおひひのみこと)を立てて、皇太子とされた。皇太子の年は十六歳。五十七年の秋九月、天皇は崩御された。次の天皇の治世六年に、剣池島上陵(つるぎいけのしまのえのみささぎ)に葬った。

 天皇は、四男一女をお生みになった。大彦命(おおひこのみこと)。阿倍臣、高橋臣らの祖。次に、稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこおおひひのみこと)。次に、彦太忍信命(ひこふとおしまことのみこと)。紀臣(きのおみ)らの祖。次に、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)。岡屋臣(おかやのおみ)らの祖。次に、倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)。伊勢の神を斎き祀られた。

 開化天皇

 諱は稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこおおひひのみこと)。日本根子彦国牽天皇(やまとねこひこくにくるのすめらみこと、孝元天皇)の第二子である。母は、皇后の欝色謎命(うつしこめのみこと)といい、物部連公の祖の出石心命(いずしこころのみこと)の孫である。

 治世元年・癸未年の春二月、皇太子は天皇に即位された。二年の春正月、先の皇后を尊んで、皇太后と申しあげた。また皇太后を尊んで、追号して大皇太后を贈られた。冬十月、都を春日(かすが)の地に遷した。これを率川宮(いざかわのみや)という。七年の春正月、伊香色謎命を立てて、皇后とされた[皇后は、天皇の庶母である]。皇后は、御間城入彦五十瓊殖命(みまきいりひこいにえのみこと、後の崇神天皇)をお生みになった。これより先に、天皇は丹波の竹野媛(たけのひめ)を召して妃とされた。竹野姫は、彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を生んだ。次の妃、和迩臣(わにのおみ)の遠祖・姥津命(おけつのみこと)の妹の姥津姫は、彦坐王(ひこいますのきみ)を生んだ。八年の春正月、大祢の大綜杵命(おおへそきのみこと)を大臣とされた。また、武建命(たけたつのみこと)と大峯命(おおみねのみこと)をともに大祢とされた。二月、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)を大臣とされた。これらは皆、物部連公の遠祖・宇摩志麻治命の子孫である。二十八年の春正月、御間城入彦命を立てて、皇太子とされた。皇太子の年は十九歳。六十年の夏四月、天皇は崩御された。十月に、春日の率川坂本陵(いざかわのさかもとのみささぎ)に葬った[または坂上陵(さかのえのみささぎ)という]。ときに、年は百十五歳。

 天皇は、四人の皇子をお生みになった。御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいにえのみこと)。次に、彦坐王(ひこいますのきみ)。当麻坂上君(たぎまのさかのえのきみ)らの祖。次に、彦小将簀命(ひここもすのみこと)。彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)とも云う。品治部君(ほむちべのきみ)らの祖。次に、武歯頬命(たけはづらのみこと)。道守臣(ちもりのおみ)らの祖。  

 崇神(すじん)天皇

 諱は御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいにえのみこと)。稚日本根子大日日天皇(わかやまとねこおおひひのすめらみこと、開化天皇)の第二子である。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)といい、物部氏の遠祖の大綜杵命(おおへそきのみこと)の娘である。天皇は、十九歳で立って皇太子となられた。善悪を判断する力に勝れ、若くから大きい計りごとを好まれた。壮年に至り心広く慎み深く、天神地祇をあがめられた。つねに天皇としての大業を治めようと思われる心をお持ちであった。先の天皇の六十年夏四月、開化天皇は崩御された。治世元年・甲申年の春正月十三日、皇太子は天皇に即位された。先の皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后を尊んで大皇太后の号を贈られた。

二月十六日 御間城入姫命(みまきいりひめのみこと)を立てて皇后とした。これより先に皇后は活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)を生み、次に彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと)、次に国方姫命(くにかたひめのみこと)、次に千千衝倭姫命(ちちつたやまとひめのみこと)、次に倭彦命(やまとひこのみこと)、次に五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)を生む。妃の紀伊の国の荒川戸畔(あらかわとべ)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめめたはつひめ)は豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)、次に豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を生む。またの妃の尾張の大海媛(おおあまひめ)は八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)、次に渟中城入姫(ぬなきいりひめ)、次に十市瓊入姫命(とおちにいりひめのみこと)を生む。

 三年秋九月 都を磯城(しき)の地に遷す。瑞籬宮(みずがきのみや)と云う。四年春二月四日 武膽心命(たけいこころのみこと)を大禰とし、多辨命(たべのみこと)を宿禰とし、安毛建美命(やすけたけみのみこと)を侍臣とした。皆、物部連公の先祖で有る。四十八年春正月十日、天皇は豊城命と活目尊に勅して仰せになった。「汝等二人を愛し慈しむ気持ちは共に同じである。どちらを後継ぎにすれば良いか判らない。各々が見た夢で私はこれを占おうと思う」。二人の皇子は命ぜられ、沐浴し眠って夢を見た。翌日、兄の豊城命は夢の事を天皇に奏じて曰く「自ら三諸山に登り東に向かって八回矛を突き、八回刀を撃つ」。弟の活目尊は夢の事を奏じて曰く「自ら三諸山の嶺に登って四方に縄を組沫を食べる雀を追う」。天皇は双方が見た夢を聞いて二人に仰せられた。「兄は東に向いたので東国を治めなさい。弟はこの如く四方を見たので私の位を継ぎなさい」。

 夏四月十九日、活目尊を立てて皇太子とされた。豊城命には東国を治めさせた。六十年の春二月、天皇は群臣に詔して仰せられた。「武日照命(たけひなてりのみこと)が天から持って降臨した神宝は、出雲大神の宮に収めてある。これが見たい」。そこで、矢田部造(やたべのみやつこ)の遠祖の武諸隅命(たけもろずみのみこと)を遣わし、詳細に検め定めて、報告させた。六十五年の春正月、武諸隅命を大連とした。物部氏の祖である。六十八年の冬十二月五日、天皇は崩御された。ときに年は百二十歳であった。翌年の秋八月十一日、山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)に葬った。

 天皇は御子として、六男五女をお生みになった。活目入彦五十狭茅尊(いくめいりひこいさちのすめらみこと)。次に、彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと)。次に、国方姫命(くにかたひめのみこと)。次に、千千衝倭姫命(ちちつたやまとひめのみこと)。次に、倭彦命(やまとひこのみこと)。次に、五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)。次に、豊城入彦命とよきいりひこのみこと)。次に、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)。はじめて天照大神(あまてらすおおみかみ)につけて、斎き祀った。次に、八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)。次に、渟中城入姫命(ぬなきいりひめ)。はじめて大国魂神(おおくにみたまのかみ)につけて、斎き祀った。次に、十市瓊入姫命(とおちにいりひめのみこと)。

 垂仁(すいにん)天皇

 諱は活目入彦五十狭茅尊(いくめいりひこいさちのみこと)。(みまきいりひこいにえのすめらみこと、崇神天皇)の第三子である。母は皇后の御間城入姫(みまきいりひめ)という。大彦皇子命(おおひこのみこのみこと)の娘である。先の天皇の治世二十九年春一月一日、瑞籬宮でお生まれになった。生まれながらにしっかりとしたお姿で、壮年になってからはすぐれて大きな度量であった。人となりが正直で、まがったり飾ったりするところがなかった。父の天皇は可愛がられて、身辺に留めおかれた。二十四歳のとき、夢のお告げにより、立って皇太子となられた。

 六十八年の冬十二月、崇神天皇は崩御された。元年の春正月二日、皇太子は天皇に即位された。皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后を尊んで大皇太后と申しあげた。二年の春二月九日、狭穂姫命(さほひめのみこと)を立てて皇后とされた。皇后は、誉津別命(ほむつわけのみこと)をお生みになった。天皇は、誉津別命を生まれたときから愛して、常に身辺に置かれた。命は大きくなっても物をいわれなかった(壮年まで言葉を発する事ができなかった)。冬十月、さらに都を纏向(まきむく)に遷した。これを珠城宮(たまきのみや)という。

 四年の秋九月二十三日、皇后の同母兄の狭穂彦王(さほひこのきみ)は、謀反を企てて国を傾けようとした。このことは別の書にある。五年の冬十月一日、狭穂彦は妹の皇后とともに、城中で死んだ。十五年の春二月十日、丹波の五人の女性を召して、後宮に入れた。長女を日葉酢媛(ひばすひめ)といい、次を渟葉田瓊入媛(ぬはたにいりひめ)といい、次を真砥野媛(まどのひめ)といい、次を薊瓊入媛(あざみにいりひめ)といい、次を竹野媛(たけのひめ)という。ともに開化天皇の皇子・彦坐皇子命(ひこいますのみこのみこと)の子、丹波道主王(たにはのみちのうしのきみ)の子である。秋八月一日、日葉酢媛命を立てて、皇后とされた。また、渟葉田瓊入媛、真砥野媛、薊瓊入媛をならびに皇妃とされた。ただし、竹野媛だけは容姿が醜かったので故郷に返した。その返されたことを恥じて、竹野媛は葛野でみずから輿から落ちて死んだ。そこで、その地を名づけて堕国(おちくに)という。今、乙訓(おとくに)というのはなまったものである。

 皇后は、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)、大足彦尊(おおたらしひこのみこと、後の景行天皇)、大中姫命(おおなかつひめのみこと)、倭姫命(やまとひめのみこと)、稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)をお生みになった。妃の渟葉田瓊入媛は、鐸石別命(ぬでしわけのみこと)、胆香足姫命(いかたらしひめのみこと)を生んだ。次の妃の真砥野媛は、磐撞別命(いわつくわけのみこと)、稲別命(いなわけのみこと)を生んだ。次の妃の薊瓊入媛は、池速別命(いけはやわけのみこと)、五十速石別命(いとしわけのみこと)、五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)を生んだ。

 二十三年の秋八月四日、大新河命(おおにいかわのみこと)を大臣とされ、十市根命(とおちねのみこと)を五大夫の一人とされた。ともに宇摩志麻治命(うましまちのみこと)の子孫である。同じ月の二十二日、大臣の大新河命に物部連公の姓を賜った。そうして、大臣を改めて大連と名づけた。 九月二日、天皇は群卿に詔して仰せになった。「誉津別王は三十歳になり、長い髭が伸びるまでになっても、なお子供のように泣いてばかりいる。そして声を出して物を言うことができないのは何故か。皆で考えよ」。冬十月八日、天皇は大殿の前にお立ちになり、誉津別王子はそのそばにつき従っていた。そのとき、白鳥が大空を飛んでいった。王子は空を仰ぎ白鳥を見て仰せられた。「あれは何物か」。天皇は、王子が白鳥を見て、口をきくことができたのを知り喜ばれた。側近の者たちにご命じになった。「誰か、この鳥を捕らえて献ぜよ」。そこで、鳥取造(ととりのみやつこ)の祖の天湯河板挙(あまのゆかわたな)が申しあげた。「わたくしが必ず捕らえて参りましょう」。天皇は湯河板挙に仰せになった。「お前がこの鳥を捕らえたら、必ず十分に褒美をやろう」。

 湯河板挙は、遠く白鳥が飛んでいった方向を追って、出雲まで行き、ついに捕らえた。ある人は「但馬国で捕らえた」ともいう。十一月二十四日、湯河板挙は白鳥を献じた。誉津別命はこの白鳥をもてあそび、ついに物がいえるようになった。これによって、あつく湯河板挙に賞を賜り、姓を授けられて、鳥取造と名づけた。また、鳥取部(ととりべ)、鳥養部(とりかいべ)、誉津部(ほむつべ)を定めた。
三十年の春正月六日、天皇は五十敷命と大足彦尊に詔して仰せられた。「お前たち、それぞれに欲しいものをいってみよ」。兄王は、「弓矢が欲しいです」と申しあげた。弟王は、「天皇の位が欲しいです」と申しあげられた。そこで、天皇は詔して仰せられた。「それぞれ望みのままにしよう」。弓矢を五十敷命に賜り、大足彦尊には詔して、「お前は必ずわが位を継げ」と仰せになった。

 三十二年の秋七月四十二日、皇后・日葉酢媛命が亡くなられた。三十七年の春一月一日、大足彦命を立てて、皇太子とされた。八十一年の春二月一日、五大夫の一人の十市根命に、物部連公の姓を賜った。そして、大連とした。九十九年の秋七月一日、天皇は纏向宮で崩御された。ときに年百四十歳であった。冬十二月十日、菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)に葬った。

 天皇がお生みになった子は、十男三女であった。兄を、誉津別命(ほむつわけのみこと)。鳥取造らの祖。次に、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)。次に、日本大足彦忍代別尊(やまとおおたらしひこおしろわけのみこと)。次に、大中姫命(おおなかつひめのみこと)。次に、倭姫命(やあまとひめのみこと)。天照大神をお祀りし、はじめて斎宮になった。次に、稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)。次に、鐸石別命(ぬてしわけのみこと)。次に、胆香足姫命(いかたらしひめのみこと)。次に、磐撞別命(いわつくわけのみこと)。三尾君(みおのきみ)らの祖。次に、稲(又は祖)別命(おさわけのみこと)。次に、池速別命(いけはやわけのみこと)。次に、五十速石別命(いとしわけのみこと)。次に、五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)。

 景行天皇

 諱は日本大足彦忍代別尊(やまとおおたらしひこおしろわけのみこと)。活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと、垂仁天皇)の第三子である。母は皇后・日葉洲媛命(ひばすひめのみこと)といい、丹波道主王(たんばのみちぬしのおお)の娘である。治世元年・辛未年の秋七月、皇太子は天皇に即位された。皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后を尊んで大皇太后を追号された。

 二年の二月、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を立てて、皇后とされた。皇后は、三人の皇子をお生みになった。第一子が大碓命(おおうすのみこと)、次が小碓命(おうすのみこと)、次が稚根子命(わかねこのみこと)である。その大碓命と小碓命は、同じ腹に双子としてお生まれになった。天皇はこれをいぶかって、碓(臼)に向かって叫び声をあげられた。そのため、この二人の皇子を大碓・小碓の尊と申しあげる。小碓尊は幼いときから雄々しい性格であった。壮年になると、容貌はすぐれて逞しかった。身長は一丈、力は鼎(かなえ)を持ち上げられるほどであった。

 四年、天皇は美濃国においでになった。側近の者が奏上した。「この国に、美人がいます。弟媛(おとひめ)といい、容姿端麗で八坂入彦皇子(やさかいりひこのみこ)の娘です」。天皇は、妃に召そうと思い、弟媛の家に行かれた。弟媛は天皇が来られたと聞いて、竹林に隠れた。天皇は、弟媛を引き出そうと計られて、泳宮(くくりのみや)におられ、鯉(こい)を池に放って、ご覧になって遊ばれた。あるとき、弟媛はその鯉の遊ぶのを見ようと思って、ひそかにやってきて池を見た。天皇はそれを引きとめて召された。弟媛は、夫婦の道は昔も今も通じておこなわれるものであるが、自分にとっては無用であると考えた。そこで、天皇に請うて申しあげた。「私の性質は交接の道を望みません。いま、恐れ多い仰せのため、大殿の中に召されましたが、心の中は快くありません。また、私の顔も美しくなく、長く後宮にお仕えすることはできません。ただ、私には姉がいて、名を八坂入媛(やさかいりひめ)といい、美人で志も貞潔です。どうぞ後宮にお召し入れください」。そのため、天皇はこれを許し、八坂入媛を呼んで妃とされた。八坂入媛は七男六女を生んだ。第一子を稚足彦(わかたらしひこ ) 、次が五百城入彦(いおきいりひこ ) 、次が忍之別(おしのわけ ) 、次が稚倭根子(わかやまとねこ ) 、次が大酢別(おおすわけ ) 、次が五十狭城入彦(いさきいりひこ ) 、次が吉備兄彦(きびのえひこ ) 、次が渟熨斗姫(ぬのしひめ ) 、次が渟名城姫(ぬなきひめ ) 、次が五百城入姫(いおきいりひめ )、次が麛依姫(かごよりひめ ) 、次が高城入姫(たかきいりひめ ) 、次が弟媛(おとひめ ) である。

 またの妃、三尾氏の磐城別(いわきわけ)の妹の水歯郎媛(みずはのいらつめ)は、五百野皇女(いおのひめみこ)を生んだ。またの妃、五十河媛(いかわひめ)は、神櫛皇子(かむくしのみこ)と稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)を生んだ。またの妃、阿部氏の木事(こごと)の娘の高田媛(たかたひめ)は、武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ)を生んだ。またの妃、日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)は、日向襲津彦皇子(ひむかのそつひこのみこ)を生んだ。またの妃、襲武媛(そのたけひめ)は、国乳別皇子(くにちわけのみこ)、次に国凝別皇子(くにこりわけのみこ)、次に国背別皇子(くにせわけのみこ)、またの名は宮道別皇子(みやじわけのみこ)、次に豊戸別皇子(とよとわけのみこ)を生んだ。またの妃、美人を御刀媛(みはかしひめ)という。豊国別皇子(とよくにわけのみこ)を生んだ。

 冬十一月、纏向に都を造られた。これを日代宮(ひしろのみや)という。天皇は、美濃国造で名は神骨(かむほね)という者の娘で、兄遠子(えとうこ)と弟遠子(おととおこ)の二人が、ともに美人であると聞かれ、大碓命を遣わされて、その娘の容姿を見させられた。このとき、大碓命はひそかに娘に通じて復命されなかった。それで天皇は大碓命をお恨みになった。十二年の秋七月、熊襲(くまそ)がそむいて貢物を奉らなかった。八月、天皇は筑紫においでになり、諸国の命に従わない者たちを巡り討たれた。十三年、日向国に美人があり、御刀媛という。これを召して妃とされた。妃は豊国別皇子(とよくにわけのみこ)を生んだ。

 二十年の春二月四日、五百野皇女を遣わして、天照太神(あまてらすおおみかみ)を祀らせられた。冬十月、日本武尊(やまとたけるのみこと)を遣わして、熊襲を討たせられた。このとき、尊の年は十六歳であった。四十六年の八月、大臣・物部胆咋宿祢(もののべのいくいのすくね)の娘の五十琴姫命(いことひめのみこと)を妃とされた。妃は五十功彦命(いごとひこのみこと)を生んだ。

 五十一年の春正月七日、群卿を召して宴を催され、何日も続いた。このとき、皇子の稚足彦尊と武内宿祢(たけしうちのすくね)は、その宴に出席しなかった。天皇はそのわけを尋ねられた。そこでお答えして申しあげた。「宴楽の日には、群卿百寮がくつろぎ遊ぶことに心が傾き、国家のことを考えていません。もし狂った者があって、警護のすきを窺ったらと心配です。それで垣の外に控えて非常に備えています」。天皇は、「立派なものだ」と仰せられた。そして特に目をかけられた。秋八月、稚足彦命を立てて皇太子とされた。皇太子の年は二十四歳。また、武内宿祢に詔して棟梁之臣(むねはりのまえつきみ)とされた。天皇と武内宿祢とは、同じ日に生まれた。それで特に重用された。

 日本武尊は東の蝦夷を平らげて、帰ろうとされたが帰ることができず、尾張国で薨去された。日本武尊は、はじめ両道入姫皇女(ふたじいりひめのひめみこ)を娶って妃とし、稲依別王(いなよりわけのきみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)、布忍入姫命(ぬのおしいりひめのみこと)、稚武王(わかたけひこのきみ)を生んだ。また、吉備武彦(きびのたけひこ)の娘の吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ)を妃として、武卵王(たけかいこのきみ)と十城別王(とおきわけのきみ)を生んだ。また、穂積氏の忍山宿祢(おしやまのすくね)の娘・弟橘媛(おとたちばな)は、稚武彦王(わかたけひこのきみ)を生んだ。五十二年の夏五月二十八日、皇后・播磨大郎姫命が亡くなられた。秋七月、八坂入姫命を立てて、皇后とされた。五十八年の春二月十一日、近江国においでになり、志賀にお住みになること三年。これを高穴穂宮(たかあなほのみや)という。六十年の冬十一月七日、天皇は高穴穂宮で崩御された。ときに年百六歳であった。次の天皇の治世二年、山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)に葬った。

 天皇がお生みになった皇子女は計八十一人で、このうち男子は五十五人、女子は二十六人であった。このうち六人の御子、皇子五人と皇女一人を残して、ほかの御子は皆、各地の国・県に封じた。皇子五十人、皇女二十六人、合わせて七十六人がそれぞれ国・県に封じられた。国史には記されていない。

 稚倭根子命(わかやまとねこのみこと)。
 大酢別命(おおすわけのみこと)。
 吉備兄彦命(きびのえひこのみこと)。
 武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)。筑紫水間君(つくしのみぬまのきみ)の祖。
 神櫛別命(かむくしわけのみこと)。讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)の祖。
 稲背入彦命(いなせいりひこのみこと)。播磨別の祖。
 豊国別命(とよくにわけのみこと)。喜備別(きびわけ)の祖。
 国背別命(くにせわけのみこと)。水間君の祖。
 忍足別命(おしたらしわけのみこと)。
 日向襲津彦命(ひむかのそつひこのみこと)。奄智君(あむちのきみ)の祖。
 国乳別命(くにちわけのみこと)。伊与宇和別(いよのうわわけ)の祖。
 豊門入彦命(とよといりひこのみこと)。大田別(おおたわけ)の祖。
 五十狭城入彦命(いさきいりひこのみこと)。三河長谷部直(みかわのはせべのあたい)の祖。
 稚屋彦命(わかやひこのみこと)。
 彦人大兄命(ひこひとおおえのみこと)。
 武国皇別命(たけくにすめわけのみこと)。伊与御城別(いよのみきわけ)、添御杖君(そうのみつえのきみ)の祖。
 真稚彦命(まわかひこのみこと)。
 天帯根命(あまたらしねのみこと)。目鯉部君(めこいべのきみ)の祖。
 大曽色別命(おおそしこわけのみこと)。
 五十河彦命(いかわひこのみこと)。讃岐直(さぬきのあたい)、五十河別(いかわけ)の祖。
 石社別命(いわさわけのみこと)。
 大稲背別命(おおいなせわけのみこと)。御杖君の祖。
 武押別命(たけおしわけのみこと)。
 豊門別命(とよとわけのみこと)。三嶋水間君(みしまのみぬまのきみ)、奄智首、壮子首(わかこのおびと)、粟首(あわのおびと)、筑紫火別君(つくしのひわけのきみ)の祖。
 不知来入彦命(いさくいりひこのみこと)。
 曽能目別命(そのめわけのみこと)。
 十市入彦命(とおちいりひこのみこと)。
 襲小橋別命(そのおはしわけのみこと)。菟田小橋別(うだのおはしわけ)の祖。
 色己焦別命(しこしょうわけのみこと)。
 息前彦人大兄水城命(おきさきのひこひとおおねみずきのみこと)。奄智白幣造(あむちのしらしでのみやつこ)の祖。
 熊忍津彦命(くまのおしつひこのみこと)。日向穴穂別(ひむかのあなほわけ)の祖。
 櫛見皇命(くしみこのみこと)。讃岐国造の祖。
 武弟別命(たけおとわけのみこと)。立知備別(たてちびわけ)の祖。
 草木命(くさきのみこと)。日向君の祖。
 稚根子皇子命(わかねこみこのみこと)。
 兄彦命(えひこのみこと)。大分穴穂御埼別(おおきだのあなほのみさきわけ)、海部直(あまべのあたい)、三野之宇泥須別(みののうねすわけ)らの祖。
 宮道別命(みやじわけのみこと)。
 手事別命(たことわけのみこと)。
 大我門別命(おおがとわけのみこと)。
 三川宿祢命(みかわのすくねのみこと)。
 豊手別命(とよたわけのみこと)。
 倭宿祢命(やまとのすくねのみこと)。三川大伴部直(みかわのおおともべのあたい)の祖。
 豊津彦命(とよつひこのみこと)。
 五百木根命(いおきねのみこと)。
 弟別命(おとわけのみこと)。牟宜都君(むげつのきみ)の祖。
 大焦別命(おおしょうわけのみこと)。
 五十功彦命(いごとひこのみこと)。伊勢刑部君(いせのおさかべのきみ)、三川三保君(みかわのみほのきみ)の祖。
 櫛角別命(くしつのわけのみこと)。茨田連(まんだのむらじ)の祖。

 各地の領主として派遣されなかった、六人の御子のうちの男子五人、女子一人。
 大碓命(おおうすのみこと)。守君(もりのきみ)らの祖。
 次に、小碓命(おうすのみこと)。後に日本武尊(やまとたけるのみこと)と名づけられた。
 次に、豊国別命(とよくにわけのみこと)。日向諸県君(ひむかのもろあがたのきみ)の祖。
 次に、稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)。
 次に、五百城入彦尊(いおきいりひこのみこと)。
 次に、五百野姫皇女命(いおののひめみこのみこと)。伊勢の天照太神を斎き祀った。

 以上、五十人の皇子。このほかの二十五人の皇女については、記載しなかった。

 成務天皇

 諱は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)。大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと、景行天皇)の第四子である。母の皇后は八坂入姫命(やさかいりひめのみこと)で、八坂入彦皇子の娘である。景行天皇の治世四十六年、立って皇太子となられた。ときに年は二十四歳。六十年の冬十一月、景行天皇は崩御された。治世元年・辛未年の春正月甲申朔戊子の日、皇太子は天皇に即位された。さきの皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后を尊んで大皇太后を追号された。物部胆咋宿祢(もののべのいくいのすくね)を大臣として、志賀高穴穂宮に都を置かれた。二年の冬十一月十日、景行天皇を倭国(やまとのくに)の山辺道上陵に葬った。三年の春七日、武内宿祢(たけしうちのすくね)を大臣とされた。四十八年の春三月一日、甥の足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を立てて皇太子とされた。足仲彦尊は、景行天皇の皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)の第二皇子である。

 日本武尊は、両道入姫皇女(ふたぢいりひめのひめみこ)を娶って妃とし、三男一女を生んだ。稲依別王(いなよりわけのきみ)。犬上君、武部君らの祖]、次に足仲彦尊、次に布忍入姫命(ぬのおしいりひめのみこと)、次に稚武王(わかたけのみこ)。近江建部君の祖、宮道君の祖である。またの妃、吉備武彦(きびのたけひこ)の娘の吉備穴戸武姫(きびのあなとのたけひめ)は、二男を生んだ。武卵王(たけかいこのみこ)。讃岐綾君らの祖、次に十城別王(とおきわけのみこ)。伊予別君らの祖である。またの妃、穂積氏の祖・忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘、弟橘媛(おとたちばなひめ)は一男を生んだ。稚武彦王命(わかたけひこのみこのみこと)。尾津君、揮田君(ふきだのきみ)、武部君らの祖、次に稲入別命(いないりわけのみこと)、次に武養蚕命(たけこがいのみこと)。波多臣らの祖、次に葦敢竈見別命(あしかみのかまみわけのみこと)。竈口君(かまのくちのきみ)らの祖、次に息長田別命(おきながのたわけのみこと)。讃岐君らの祖。次に五十日彦王命(いかひこのきみのみこと)。讃岐君らの祖。次に伊賀彦王(いがひこのみこ)。次に武田王(たけたのみこ)。尾張国の丹羽建部君の祖。次に佐伯命(さえきのみこと)。三川の御使連らの祖である。六十年の夏六月十一日、天皇は崩御された。年は百七歳。御子十五人のうち、十四人は皇子、一人は皇女であった。

 仲哀天皇

 景行天皇の第二皇子の日本武尊、幼名は小碓命(おうすのみこと)の第二王子。諱を足仲彦王尊(たらしなかつひこのきみのみこと)と申しあげる。母は両道入姫皇女(ふたちいりひめのみめ)といい、活目入彦天皇(いくめいりひこのすめらみこと、垂仁天皇)の皇女である。天皇は容姿端正で、身の丈は十尺あった。成務天皇には御子が無かった。そのため、成務天皇の治世四十八年、立って皇太子となられた。ときに年は三十一歳。

 治世元年壬申の春正月十一日、皇太子は天皇に即位された。母の皇后を尊んで皇太后とし、皇太后を尊んで大皇太后を追号された。気長足姫尊(おきながのたらしひめのみこと)を立てて皇后とされた。開化天皇の子の彦坐皇子(ひこいますのみこ)の御子の山代大筒城真若王(やましろのおおつつきのまわかのみこ)の御子の迦爾米雷王(かにめづちのみこ)の御子の気長宿祢(おきながのすくね)の娘の気長足姫命(開化天皇五世孫)がこのかたである。天皇は、群臣に詔して仰せられた。「私がまだ成人しないうちに、父王の日本武尊はすでに亡くなっていた。魂は白鳥になって天に上った。慕い思うことは一日も休むことがない。それで、白鳥を獲て陵のまわりの池に飼い、その鳥を見ながら父を偲ぶ心を慰めたいと思う」。そこで、諸国に命令して白鳥を献上させた。これは天皇が父王を恋しく思われて、飼いならそうとされたものである。それなのに、天皇の弟の蒲見別王はいった。「白鳥といっても、焼いたら黒鳥になるだろう」。天皇は弟王が不孝であることを憎まれ、兵を遣わして殺させた。

 (注1)原文は弱冠と有る。王侯は12歳で冠をかぶり(元服)それ以外は16歳ぐらいで冠をかぶる。日本書紀の訳本や辞書で二十歳としているのは誤っている考えられる。

 天皇はこれよりさきに、叔父である彦人大兄(ひこひとおおえ)の娘の大中姫を娶って妃とし、二児をお生みになった。麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)である。また、天熊田造(あまのくまたのみやつこ)の祖・大酒主(おおさかぬし)の娘の弟媛を妃とし、一児を生んだ。誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)である。二月、角鹿へおいでになり、行宮を建ててお住まいになった。これを笥飯宮(けひのみや)という。三月、南の国を巡視し、熊襲の叛乱を討とうとされた。七月、皇后は豊浦津に泊まられた。その後、皇后は如意珠を海中から得られた。九月、宮室を穴門にたてて住まわれた。これを、穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)という。

 
八年の春正月、天皇は筑紫においでになり、熊襲を討つことを諮られた。このとき、ある神が皇后に託して神託をして仰せられた。「天皇は、どうして熊襲が従わないことを憂えられるのか。そこは荒れて痩せた地だ。しかし西には宝の国があり、新羅国という。もし、よく我を祀るならば、きっとその国はおのずから服従するだろう。云々」。ところが天皇は西には国は無いといわれた。神の教えられたことを信じず、なおみずから熊襲を討って、賊の矢で傷を負われた。

 九年の春二月五日、武内大臣が天皇のおそばに控え、皇后のために琴を弾くことを乞うた。皇后が神がかりして神に問うも、教えは得られなかった。そして神がかりして仰せられた。「皇后がみごもっている皇子は、宝の国を得るだろう。云々」。武内大臣は、天皇につつしんで琴を弾くように懇ろにすすめ申しあげ、その神の名を求め乞うた。ときに、日が暮れて、明かりを灯そうとしたとき、琴の音が聞こえなくなった。そこで、火をかかげて見ると、天皇は急に病気になられ、翌日に亡くなられた。ときに年五十二歳。すなわち、神のお告げを信じられなかったので、賊の矢にあたって早く亡くなられたことがうかがわれる。

 皇后と大臣は、天皇の喪を隠して、天下に知らされなかった。そして、皇后は大臣と中臣烏賊津連(なかとみのいかつのむらじ)、大三輪大友主君(おおみわのおおともぬしのきみ)、物部胆咋連、大伴武以連(もののべのたけもつのむらじ)、物部多遅麻連に詔して仰られた。「いま、天下の人は天皇の亡くなられたことを知らない。もし人民が知ったら、気がゆるむ者がいるかもしれない」。そこで、四人の大夫に命ぜられ、百寮を率いて宮中を守らせた。ひそかに天皇の遺骸を収めて、武内宿祢に任せ、海路で穴門にお移しした。そして、豊浦宮で、灯火を焚かずに仮葬(殯、もがり)をされた。二十二日の甲子の日、武内宿祢は穴門から帰って、皇后に報告申しあげた。この年は新羅国の役があって、天皇の葬儀は行われなかった。

 天皇は、后妃との間に四人の皇子をお生みになった。麛坂皇子(かごさかのみこ)、忍熊皇子(おしくまのみこ)、誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)、誉田別尊(ほむたわけのみこと、後の応神天皇)である。

 神功皇后

 気長足姫命は(おきながたらしひめのみこと)、稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと、開化天皇)の曾孫・気長宿祢王(おきながすくねのきみ)の娘である。母を葛城高額姫(かずらきのたかぬかひめ)と申しあげる。仲哀天皇の治世二年、立って皇后となられた。幼いときから聡明で、容貌もすぐれて美しく、父の王もいぶかしがられるほどであった。

 九年の春二月、足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと、仲哀天皇)は筑紫の橿氷宮(かしひのみや)で崩御された。皇后は、天皇が神のお告げに従わないで、早くに亡くなられたことを傷んで思われるのに、祟られる神を知って、群臣百寮に命ぜられ、罪を払い過ちを改めて、さらに斎殿をつくって、そこで神がかりされた。皇后が、さきに神託をくだした神に祈り乞われたことなどは、別の書に詳しくある。

 十月三日、神々の荒魂を別の船にお祀りし、また和魂を皇后の乗る船にお祀りして、船軍を率いて和珥津(わにのつ)から船出された。新羅国を巡られた様子は、征服された三韓の国の書に詳しくある。十二月十四日、皇后は新羅から戻られた。そして、誉田別天皇(ほむたわけのすめらみこと、後の応神天皇)を筑紫でお産みになった。そのため、時の人はその出産の地を名づけて、宇弥(うみ)といった。

 翌年の春二月、皇后は群臣と百寮を率いて、穴門豊浦宮に遷った。天皇の遺骸をおさめて、海路で京に向かわれた。その時、麛坂王(かごさかおう)と忍熊王は、天皇が崩御され、皇后は新羅を討ち、皇子が新たに生まれたと聞いて、ひそかに謀っていった。「いま、皇后には子がいて、群臣はみな従っている。きっと共に議って幼い王を立てるだろう。私たちは兄であるのに、どうして弟に従うことができよう」。そして兵を集めて敵対した。このため、その後、殺された。これらのことは別の書に詳しくある。

 神功摂政元年冬十月八日、群臣は皇后を尊んで、皇太后と申しあげた。太歳辛巳年に改めて、摂政元年とした。物部多遅麻連(もののべのたぢまのむらじ)を大連とされた。二年の冬十一月八日、仲哀天皇を河内国の長野陵に葬った。三年の春正月三日、誉田別皇子を立てて、皇太子とされた。磐余に都を造り、これを稚桜宮(わかさくらのみや)という。物部五十琴宿祢(もののべのいことのすくね)を大連とされた。六十九年の夏四月十七日、皇太后は稚桜宮で亡くなられた。冬十月十五日、狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬った。この日に皇太后を尊んで諱をたてまつり、気長足姫命と追贈した。





(私論.私見)