巻第六(皇孫本紀)

 (最新見直し2009.3.19日)

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 「先代旧事本紀巻第一」を転載しておく。

 2009.3.19日 れんだいこ拝


【巻第六(皇孫本紀)】
 天饒石国饒石天津彦彦火瓊瓊杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)。亦は天饒石国饒石尊(あめにぎしくににぎしのみこと)と云う。亦は天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)と云う。

 天祖(あめのみおや)は詔をし、天璽の鏡と剣を授けて諸神を陪(副)へ従えた事は天神本紀に書かれている。高皇産霊尊は眞床追衾(まとこおうふすま)で皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊を覆い、陪従(みとも)に先駆けさせて、天磐座(あめのいわくら)を離れて、天の八重雲を押し開いて威勢良く道を踏み分けて天降られた。先駆けの神が還って来て申しあげた。「一人の神が、天の八達之衢(やちまた、交差点)にいます。上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らしています。その鼻は長さが十咫(とあた)で、背の高さは七尺あまり。七尋(ななひろ)と言えます。また、口の橋が光っていて、目は八咫鏡(やたのかがみ)のようです。その赤い事は赤酸漿(あかほおずき)のようです」。すぐに従っている神を派遣して何者か問わせようとしたが、八十萬の神たちは、皆、眼光の鋭さに押され問う事が出来なかった。

 そこで、女神では有るけれども天鈿賣(あまのうずめ)に命じて仰せられた。「汝は人に勝れる神である。往きて問え」。天鈿賣命は胸を露にし、裳の帯を臍の下まで下げて、あざ笑いながら向かって立った。衢(ちまた)に立つ神が天鈿賣に尋ねた。「汝はなぜ、このような事をする」。天鈿賣は答えていった。「天神の子が通られる道に、この様に居るのは誰なのか、あえて問います」。衢の神はこれに答えていった。「天照大神の子が今降りてこられるので、迎え奉るために待っているのだ。私の名前は猿田彦大神である」。天鈿賣は再び尋ねて問うた。「汝は私に先立って行くか、それとも私が汝に先だって行くか」。猿田彦大神は答えていった。「私が先に行く」。天鈿賣はまた尋ねていった。「汝は何処に行こうとしているのか。皇孫は何処へ行けば良いのか」。猿田彦大神は答えていった。「天神の子は筑紫の日向(ひむか)の高千穂の槵觸之峯(クシフルノミネ)に行かれる。私は、伊勢の狭長田(さながた)の五十鈴の川上に行く」。また「私を顕したのは汝である。だから、汝は私を送って行かなければならない」。

 天鈿賣命は戻って報告した。皇孫は天鈿賣命に命じて仰せられた。「この御前に仕える猿田彦大神を顕したのは汝である。汝が送って行きなさい。また、その上の名前を汝が負って仕えなさい」。これより猿女君等は猿田彦の神の名を負って、女を猿女君と呼ぶことになった。猿田彦の神が阿邪河(あざかわ)に居るとき、漁をして比良夫貝に手を挟まれ海に沈み溺れてしまった。その底に沈んだ時の名は底度久御魂(そことくみたま)と云う。その海の泡立つ時の名は都夫立御魂(つぶたつみたま)と云う。その泡を裂いた時の名は沫佐久御魂(あわさくみたま)と云う。

 猿田彦の神を最後まで送って行って還って来て、ことごとく大小の魚を集めて、尋ねていった。「お前達は、天神の御子に仕えるか」。諸々の魚は皆「仕えます」と言ったが、海鼠(なまこ)だけは答えなかった。天鈿賣命は海鼠に、「この口は答えないのか」と言って、小刀でその口を裂いた。そのため、今でも海鼠の口は裂けているのである。各天皇の御世ごとに、志摩からの速贄が奉られてた(初物の魚介類を献上するとき)時に猿女君に賜るのはこの事によるのである。
 天津彦彦火瓊瓊杵尊は、筑紫の日向の襲の槵觸二上峯(くしふるふたがみのみね)に天下られた。時に天浮橋より浮洲に立たれて、膂宍(そしし)の空国(むなくに)を丘伝いに国をまたいで行き去り、吾田(あた)の笠狭(かささ)の岬に着いた。長屋の竹島に登って、その地を見渡せば、その地に一人の神が居た。自ら事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)と名乗った。事勝国勝長狭はイザナギの尊の子供で有る。亦の名は塩土老翁(しおつちのおじ)と云う。皇孫は尋ねて仰せられた。「ここは誰の治める国か」。長狭は答えて申しあげた。「ここは長狭が治める国です。また、長狭が住む国です。良いと思われましたら、ご自由にどうぞ」。皇孫は滞在された。そうして仰せになった。「この国は、韓国(からくに)に向かっていて、真直ぐな道が笠狭の岬まで続いている。朝日が刺す国であり、夕日が照る国である」。そして、「この国は良い国で有る」と言われ、底津石根に太い宮柱を建て、高天原に届くような高さに宮殿を造るよう命じられた。
 天孫は一休みされた後、海辺で遊ばれた。その時、長狭に尋ねて仰せになった。「波打ち際の上に八尋殿を立てて機織をしている美しい少女は、誰の娘か」。長狭は答えて申しあげた。「大山祇神(おおやまつかみ)の娘で、姉を磐長姫(いわながひめ)と云い、妹を木花開邪姫(このはなさくやひめ)と云います。亦の名は豊吾田津姫(とよあたつひめ)、亦の名は鹿葦津姫(かあしつひめ)と言います」。皇孫が美しい乙女に尋ねて仰せられた。「汝は誰の子だ」。乙女は答えていった。「私は、大山祇神の娘で神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)、亦の名を木花開邪姫と言います」。そして、「私の姉は磐長姫と言います」。皇孫は仰せられた。「私は汝を妻にしたいが如何か」。木花開邪姫は答えていった。「私には父の大山祇神が居ます。直接問うて下さい」。そのため皇孫は、大山祇神に仰せになった。「私は、汝の娘を見て妻にしたいと思うが如何か」。大山祇神は大変喜ばれて、二人の娘に沢山の飲食を持たして遣わし奉った。しかし、皇孫は姉が不器量だったので恐れて還された。妹は器量が良かったので引き止めて一夜を共にされ、子を身ごもった。姉の磐長姫は大いに恥恨みに思って云った。「例えば天孫が私を退けられず召されたなら、生まれる子供は長生きして磐石の様になったものを。しかし、そうではなく妹のみを召されたので、生まれる子供は木花の様に儚いだろう」。磐長姫は恥じて恨みつばを吐き泣いて云った。「この余の人は木花の様に移ろい泡沫のごとく儚くなるだろう」。これが世の人の命が短い事の起こり(由来)で有る。

 父の山祇神は申し送っていった。「我が娘を二人並べて奉ったのは天神の御子の命が、雪が降り風が吹こうとも常に磐石の如く不動であり、木花開姫を召されれば、木花の栄える様に栄えるだろうと誓ってお勧めしました。磐長姫を還し、木花開姫を留めた事により、天神の御子の命は木花の様に儚くなってしまいました」。是故に今に至るまで、天皇、命等の命が長くないのである。

 神吾田鹿葦津姫は皇孫を見ながら申しあげた。「私は天孫の子を身ごもりました。黙って生むわけには行きません」。皇孫は仰せられた。「天神の子であろうとも、どうして一夜で子が出来るのだ。汝が身ごもった子は私の子では無く、必ず国つ神の子だろう」。神吾田鹿葦津姫は一夜に四児を生んだ(一説には三児とも云う)。竹の刀で、その子の臍の緒を切った。その竹の刀を棄てた所が遂に竹林になった。その地を名付けて竹屋と云う。時に吾田鹿葦津姫は田を占い定めて、佐名田(さなだ)と名付け、その田の稲を使って天甜酒(あめのたむさけ)を醸し、お供えとした。また、渟波田(ぬなた)の稲を用いて飯とし、お供えとした。
 神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)は子を抱いて進んで来て申しあげた。「天神の子は寧ろ密かに養う事は出来ません」。そう告げられて聞いた天孫は、子を見てあざ笑いながら仰せられた。「なんとまあ、我が皇子達。良く生まれたものだ」。吾田鹿葦津姫はそれを聞いて怒りながら云った。「どうして、私を嘲るのです」。天孫は仰せになった。「心の中で疑わしく思っている。それで嘲るのだ。なぜならば、天神の子で有るとはいえ、一夜にして身ごもらせる事が出来ようか。真の我が子ではない」。吾田鹿葦津姫はますます恨みに思い、無戸八尋殿(うつむろどの)を作って、その中に籠り、誓いをして云った。「私が身ごもった子が、天神の胤で無ければ、必ず焼け滅ぶ。もし、真に天神の胤であれば火は損なう事が出来ない」。火を放ち室を焼いた。その火が初めて明るく成った時に踏み出てきた子が自ら名のっていった。「私は天神の子で名は火明命(ほのあかりのみこと)である。私の父は何処に居られるのか」。次に火が盛んに成った時に踏み出てきた子が云った。「私は天神の子で名は火進命(ほすすみのみこと)である。私の父と兄は何処に居られるのか」。次に火が衰えてきた時に踏み出てきた子が云った。「私は天神の子で名は火折命(ほすせりのみこと)である。私の父と兄達は何処に居られるのか」。次に火熱が退ける時に踏み出てきた子が云った。「私は天神の子で名は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)である。私の父と兄達は何処に居られるのか」。その後、母で有る吾田鹿葦津姫は燃え残りから出てきて云った。「私の生んだ子と私を火は少しも害する事が出来ませんでした。天孫は見られたでしょう」。天孫は答えて仰せられた。「私は本当に我が子と知った。ただ、一夜にして身ごもったので疑う者が有ると思い、衆人(もろびと)皆に私の子で有ることを知らせようと思い、天神は一夜にして身ごもらせる事が出来ると示し、汝に不思議で強い力が有り、子供達も倫に優れた力が有ることを証明したいと思った。そのため、前に嘲る事を言ったのである」。母の誓いの験が皇孫の胤で有ることを知らしめた。しかし、吾田鹿葦津姫は皇孫を恨んで言葉を交わさなかった。皇孫は是を憂いて歌を作った。児は火明命(ほあかりのみこと)。工造(たくみつくり)等の先祖。次に火進命(ほすすみのみこと)。亦は火闌命(ほすそりのみこと)と云う。亦は火酢芹命(ほすせりのみこと)と云う。隼人(ハヤト)等の先祖。次に火折命(ほすれりのみこと)。次に彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)。
 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)。天孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)の第二子である。母は大山祇神(おおやまつかみ)の娘の木花開姫(このはなさくやひめ)である。兄の火酢芹命(ほすせりのみこと)は上手に海の幸を得る事が出来た。そのため、海幸彦命(うみさちひこのみこと)と云われる。弟の火折尊(ほおりのみこと)、亦は火火出見尊(ほほでみのみこと)と云う。上手に山の幸を得る事が出来た。そのため山幸彦尊(やまさちひこのみこと)と云われる。兄は風が吹き雨が降るたびに、その幸を失った。弟は風が吹き雨が降ろうともその幸は違わなかった。兄は弟に、「試しに汝と幸を交換してみよう」と言った。弟は許諾して交換した。兄は弟の弓矢を取り、山に入り獣を狩ろうとしたが、獣の姿を見る事が出来なかった。弟は兄の釣針を持って、海に入って魚を釣ろうとしたが、釣る事が出来なかった。そして遂に針を失った。幸を得る事が出来ず、空手で帰って来た。兄は弟の弓矢を返して自分の釣針を返して貰おうとした。その時、弟が釣針を海中に無くし、探す方法も無かった。そのため、新しい釣針を造り兄に渡した。兄は受け取らず元の針を返せと責めた。弟はこの事を患え、太刀で新しい針を造り、器に盛って兄に与えた。兄は憤然として、「私の元の針で無ければ、いくら多くても受け取らない」と言って責めた。弟の火折尊はこれを憂い苦しむこと甚だ深かった。海辺の渚に行き彷徨い嘆いた。
 その時、川雁が罠に掛かって困っているのを見つけた。哀れむ心を起こし解き放った。暫くしてから、塩土老翁(しおつちのおじ)が現れた。老翁は、「何故ここに居て嘆くのか」と問うた。事の顛末を答えた。老翁は、「憂うことは無い、私が汝の為に考えよう」と言った。老翁は袋の中の玄櫛(くろくし)を取って地面に投げた。五百箇竹林(いほつたかむら)となり、その竹を取って、大目の(目の粗い)籠を作った。これを亦は堅間(かたま)と云う。今の籠である。火折尊を竹篭の中に入れ海に入って行った。また、塩土老翁は、「私が考えよう」と言い、「海神が乗る駿馬は八尋鰐(やひろわに)である。これが、背鰭を立てて橘の小戸にいます。私が彼と相談しましょう」と考えて言った。火折尊を連れて共に行き逢う。時に鰐は考えて、「私が八日以内に天孫を海宮(わだつみのみや)に連れて行きましょう。ただ、我が王の駿馬は一尋鰐(ひとひろわに)です。これを一日の内に連れて来ましょう。今彼を連れて来ますから、彼に乗って海に入ってください。海に入ったとき、海にちょうどよい小浜が有りますので、その小浜伝いに進んで行けば、我が王の宮に行き着きます。宮の井戸の上に柚・桂の木が有ります。その木の上に乗って居なさい」と言って海に去って行った。
 天孫は鰐の言葉に従い、留まり待つこと八日、彼方から一尋鰐が来た。乗って海に入ったとき、自ずからちょうど良い小浜の道が有った。前に鰐が教えてくれたことに従い、道に沿って進み、海神宮(わだつみのみや)に着いた。その宮は城門を高く飾り、楼閣は光り輝いていた。門の前に一つの井戸が有った。井戸の上に神聖な柚・桂の木が有り、枝葉が茂っていた。火折尊はその木の下に行き、木に跳ね登ってたたずまれた。暫くして一人の美女が来た。井戸の底に映る容姿が世に優れていた。海神の娘の豊玉姫(とよたまひめ)である。従者を多く従えて中から出てきた。皆、玉の壷を持って井戸の水を汲んだ。井戸の底に人影が在るのを見て水を汲む事が出来なかった。 

 目を上げて天孫を仰ぎ見て、驚き飛び返って、扉を開いて戻り、その父王に申しあげた。「私は我が王一人が顔かたちが優れて居ると思って居ました。貴い珍しいお客様が門前の井戸のそばの木の下に居られました。その容姿はただ者ではありません。海神を遠く勝ります。もし天下れば天のかげがあり、地から来れば地のかげがあります。妙美です。虚空彦(そらひこ)と云うのでしょうか」。そこで海神豊玉彦(とよたまひこ)は、人を遣わして、尋ねて申しあげた。「お客様は何方様でしょうか。なぜここにおいでになったのですか」。天孫は答えて仰せられた。「私は天神の孫です」。そうして、ここに来た訳を話した。海神はこの話を聞いて、「試しに会ってみよう」と言い、三つの床を設けて、八重畳を敷いた。海神は拝して迎え引き入れた。天孫は邊床(おどりのゆか)で両足をぬぐい、中の床で両手をぬぐい、内の床で眞床覆う衾(まとこおうふすま)の上に座られた。海神はこれを見て天神の孫と知り、崇め敬うのに加え懇ろに仕えた。百の机を設けてもてなした。そして、静かにおもむろに尋ねて申しあげた。「天神の孫よなぜ、かたじけなくも御出で下さったのですか。私が見聞きするところでは、天孫は海辺で憂いて居られたとか。本当かどうか判らなかったのですが」。天孫は答えて総てを話した。海神は憐れみの心を起こし、国に居る大小の魚を集めて、この事を問うた。皆知らないと言った。ただ、口女(くちめ)は口に傷を負っていた。速やかに召して、その口の中を探せば失った針が立ち所に出てきた。口女とは鯔(いな)である。赤女とは鯛である。海神は命じていった。「口女よ、以後餌を食べてはならない。また、天孫の供え物になる事も出来ない」。よって、口女を供え物にしないのはこの事による。
 海神は娘の豊玉姫を娶わせた。二人は睦み合い愛し合って、天孫が海宮に留まること三年に及んだ。安らぎ楽しもうとも、なお故郷を思う気持ちが有った。その為、時々太いため息をついた。豊玉姫はこれを聞いて、父の神に云った。「居られます貴い客は、地上に帰りたいと思って居られます。心を痛めてさめざめと嘆いて居られます。故郷を思い憂いて居られるのでしょう」。海神はそこで、天孫におもむろに語って申しあげた。「天神の孫はかたじけなくも、我が元にお越し下さいました。心の内の喜びを忘れないで下さい。もし、故郷に帰りたいとお思いでしたら、私がお送りしましょう」。海神は針を授けて潮満之瓊(しおみつのに)と潮涸之瓊(しおひくのに)を針に副えて奉り申しあげた。「皇孫よ、遠く離れてしまうと言えども忘れないで下さい」。また、「この針を貴方の兄に還し与えるときに、天孫は『貧乏の本、飢えの始め、苦しみの根』と言いなさい。そして密かに、この針に『汝が生んだ子の八十連貧しい針・滅び針・役にたたない針・心が急く針』と呼びかけて後ろに投げなさい。向かい合って渡さない様に。そして三度唾を吐きなさい。また、貴方の兄が海を渡ろうとするとき、私は必ず疾風と波を起こし溺れ苦しませましょう。もし、兄が怒りを発して危害を加える気持ちが有ったなら、潮満之瓊を出して溺れさせなさい。そして、苦しんで救いを求めたなら、潮涸之瓊を出して助けなさい。その様に責め苛めば従い伏するでしょう。また、兄が海に入り釣をしようとした時、海辺に居て風を招きなさい。風を招くとは口をすぼめて息を吹くことです。そうすれば、私はおきつ風・浜つ風を起こし、奔波(はやなみ)を起こして溺れ悩ますでしょう。兄が高台に田を作れば、貴方は低地に田を作りなさい。兄が低地に田を作れば、貴方は高台に作りなさい」。 このように、海神は誠実をつくして、火折尊をお助けした。
 そして、海神は鰐を集めて、「天神の孫が還られる。幾日でお送りする事が出来るか」と問うた。諸々の鰐はその長短のままに日数を定めた。一尋鰐がいて、「一日でお送りできる」と言った。そこで一尋鰐を遣わして、お送りした。天孫は帰ってきて海神が教えた通りに先ず針を兄に与えた。兄は怒って受け取らなかった。そこで潮満之瓊を出すと、潮が大いに満ちて、足が漬かれば足占を為し、膝が漬かれば足を上げ、腿に至れば走り回り、腰に至れば腰をよじり、腋に至れば手を胸に置き、首に至れば手を上げて振る。そして、「私は貴方に使え奴となる。願わくば助け生かしたまえ」と請い願った。弟尊が潮涸之瓊を出せば、潮は自然に引いた。兄は戻る事が出来た。兄命が釣をする日、弟尊は海辺に居て口をすぼめて息を吹くと、疾風が速やかに起こった。兄は溺れて苦しんだ。死にそうに成ったので、弟尊に、「お前は長い間、海にいた。必ず良い術を知って居るだろう。助けてくれ。もし助けてくれたら、私が産んだ子は末代まで、お前のそばを離れず、俳優の民になる」と請い願った。弟は吹くのを止めた。風もまた止んだ。兄は弟の徳を知り自ら従う事を望んだ。しかし、弟は怒りの色があり口を利かなかった。兄はふんどしをして赤土を顔に塗り弟に告げて、「私はこの様に身を汚した。永遠に俳優の民になる」と言い、足を上げ足踏みし溺れる格好をした。兄尊は日に日にやつれ、憂いて「遂に貧乏になった」と言い。弟の前に伏した。弟は潮満之瓊を出すと兄は手を上げ溺れた。潮涸之瓊を出せば平安を得た。兄は先の言葉を改めて、「私は、お前の兄で有る。人の兄の様に弟に使える事が出来るか」と言った。弟が潮満之瓊を出せば、兄はこれを見て山の高みに登る。潮は山を沈めた。兄命が高い木に登れば、潮は木を沈めた。兄命は遂に窮まり逃れるところが無かった。罪に伏して、「私が間違っていた。私が生んだ子の末代まで、貴方の俳人(わざびと)になる。また、犬人となる。哀れみを請う」と言った。弟尊が潮涸之瓊を出せば潮も引いた。ここに兄命は弟の神徳が在るのを知った。そして、遂に弟尊に従い仕える。これにより兄命の末は諸々の隼人となる。今に至るまで天皇の宮を離れず犬に代わって仕えている。世の人が失った針を催促せず責めないのは、この事による。
 これより先、別れる時に豊玉姫が静かに語って申しあげた。「私は身ごもりました。天孫の子をもうじき生みます。しかし海中で生む事は出来ません。生むときは必ず君のもとへ行きます。もし、風と波が速い日は海辺に行くときです。お願いですから、私のために産屋を海辺に作ってください。相待つのは望むところです」。この後に弟尊は故郷に帰った。そして、鵜(う)の羽をもって葺き産屋を作った。屋根をまだ葺き終わらないうちに、豊玉姫は大亀に乗って(龍に乗ってとも言う)妹の玉依姫をつれて海を照らしてきた。産み月が満ちて生むときが近づいた。屋根が葺き終わらないうちに入った。静かに天孫に申しあげていった。「私は、今夜生みます。近づかないで下さい」。天孫の心の内にその言葉を怪しんで、言われた事を聞かないで密かに覗かれた。八尋の大鰐になって動きもだえていた。恥ずかしい所を見られて深く恥恨みに思って子が生まれた後に天孫に、「この名はどういう様に名付けようか」と問うと、「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と名づけましょう」と答えた。名前の由来は、その海辺の産屋に、鵜の羽を草の代わりにして屋根を葺くのに、まだ葺き終わらないうちに子が生まれられたので名づけたのである。天孫は豊玉姫の言葉に従わなかったので、大いに恨み云った。「私の言葉を用いずに私に恥を掻かせました。私の召使が君のもとに来ても還してはなりません。私も君の召使が来たら還しませんから」。 これが、海と陸との相通わないことの由来である。

 遂に眞床覆う衾(まとこおうふすま)と茅に子を包んで海辺に置く。豊玉姫自ら抱いて海の故郷へ帰った。亦は妹の玉依姫(たまよりひめ)を留めて子を養い育てさせて去った。久しくして「天孫の子を海中に置いておくのは良くない」と言って、玉依姫を遣わして遂に送り出された。天孫は夫人を乳母(ちおも)・湯母(ゆおも)・飯噛(いいかみ)・湯人(ゆひと)を決め、諸々の神部を備えて養育した。時に仮の婦人を使って乳母としたことも有った。これが乳母を使って子を養う始まりで有る。ここに豊玉姫は子が端正な事を聞いて、心に哀れみが重かった。また還って養いたいと思ったが帰る事は出来なかった。そこで、妹の玉依姫を遣わして養わせた。そして召されて一児を生んだ。武位起命(たけいきのみこと)である。

 初め豊玉姫は別れ去る時に恨み言を切々と言われた。天孫は再び合えない事を知り歌一首贈った。豊玉姫は玉依姫に託して返歌を一首贈られた。この贈答の歌二首は挙げ歌と言う。彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)は、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえず)をお生みになった。次に、武位起命(たけいきのみこと)をお生みになった。大和国造(やまとのくにのみやつこ)らの祖である。

 天孫の彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の第三子である。亦は火折尊とも云う。母は豊玉姫命(とよたまひめのみこと)と言い、海童神(わだつみのかみ)の娘である。豊玉姫命の妹の玉依姫命(たまよりひめのみこと)を立てて妃とした。即ち海童の下の娘で有り、鸕鷀草葺不合尊の叔母にあたる。四人の御子を生んだ。児は彦五瀬命(いつせのみこと)。賊の矢に当られ亡くなられた。次に稲飯命(いなひのみこと)。海に没し鋤持神(さびもちのかみ)になられた。次に三毛野命(みけののみこと)。常世の国に往かれた。次に磐余彦尊(いわれひこのみこと)。
 磐余彦尊(いわれひこのみこと)

 天孫の磐余彦尊は彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第四子である。母は玉依姫命(たまよりひめのみこと)と云い、海童(わだつみ)の下の娘である。天孫は生まれながらにして明達で気性がしっかりとしておられた。十五歳で太子となり、長じて日向の国の吾田邑(あたむら)の吾平津媛(あひらつひめ)を妃とし、手研耳命(たぎしみみのみこと)、次に研耳命(きしみみのみこと)が生まれた。年四十五歳になった時に兄と子等に仰せられた。「昔、我が天神の高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)と大日霊尊(おおひるめのみこと)はこの豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)を我が天祖(あまつみおや)の彦火瓊瓊杵尊(ひこほににぎのみこと)に授けられた。そこで瓊々杵尊は天の戸を開き、雲の道を押し別けて先駆けを遣わし降臨された。この時は世は世は未開で蒙昧な時代だった。その曚中を正しく養い、この西の端の地域を治められた。代々の天皇は神であり聖であり、慶びを積み暉(光)を重ね、多くの年月を刻まれた。天祖が天下られてより今に及び百七十九万二千四百七十年あまりで有る。遠く遥かな地は、なお未だに王の恵みに潤わない。邑に君が居て、村に長が居て、それぞれが境界を争っている。

 ところで、塩土老翁(しおつちのおじ)に聞くところによると『東に美しい国がある。青山が四方をめぐり、その中に天磐船(あめのいわふね)に乗り飛び降りた者がある』と云う。私が思うのに、彼の地は必ず天津日嗣(あまつひつぎ)を述べ広め天下に光を満たすのにたる地で有る。おそらく国の中心であろう。また、飛び降りた者は饒速日(にぎはやひ)と云うものだろう。そこに行って都を作ろうと思う」。諸々の皇子も答えて申しあげた。「言われる通りです。私達も同じ思いです。速やかに行きましょう」。この年は大歳(おおどし)の甲寅(きのえとら)。

 冬十月五日。天孫は自ら諸々の皇子と水軍を率いて、東征に発たれた。速吸門(はやすひなと)に至った時、一人の漁師が船に乗っていた。天孫はこれを召し寄せ尋ねて仰せられた。「お前は誰だ」。漁師は答えて申しあげた。「この国の神です。名は珍彦(うずひこ)と言います。曲浦(わたのうら)で魚を釣っています。天神の御子が来られると聞きお迎えする為に来ました」。また、天孫は尋ねて仰せられた。「お前は私たちを案内できるか」。漁師は答えて申しあげた。「ご案内しましょう」。天孫は漁師に椎竿の先につかまらせて、天孫の船の中に引き入れ、海の道案内とされ特に名を与えて椎根津彦(しいねつひこ)とされた。これは倭値部(やまとのあたいべ)の始祖である。

 進んで筑紫の菟狭(うさ)に到着した。菟狭の国造の先祖である菟狭津彦(うさつひこ)と菟狭津姫(うさつひめ)という者があった。菟狭の川原に一柱騰宮(ひとつはしらあがりのみや)を造ってもてなした。この時、勅をして、菟狭津姫を侍臣の天種子命(あまのたねこのみこと)に娶わせた。その天種子命は中臣氏の先祖で有る。

 十一月九日 天孫は筑紫の国の岡の水門(みなと)に到着した。十二月二十七日 安藝の国に到着し、埃宮(えのみや)に落ち着かれた。乙卯(きのとう)年三月六日、移動して吉備の国に入り行宮(かりみや)を造り落ち着かれた。この宮を高島宮(たかしまのみや)と云う。三年かけて船を修理し、兵食を蓄え一挙に天下を平定しようとされた。

 戊午(つちのえうま)年二月十一日、皇軍は遂に東に向け出発した。舳艫(じくろ)相つぎ、難波の岬(なにわのみさき)に到着した時、潮流が甚だ急であった。このため、浪速国(なみはやのくに)と名づけた。または波花(なみはな)と云う。今、難波と言うのはこれが訛った物で有る。三月十日、流れに逆らって上り、河内の国の草香邑(くさかむら)の青雲白肩之津(あおくもしらかたのつ)に到着した。
 夏四月九日 皇軍は兵を整え龍田(たつた)に赴いたが、その道は狭く険しく人が並んで通る事が出来なかった。そこで、軍を還して東の生駒山を越えて中州(なかつくに)に入ろうとされた。これを長髄彦は聞いて云った。「天神の御子達が来るのは、必ずわが国を奪おうとしているからである」。そうして、全軍を率いて孔舎衛坂(くさえのさか)で防ぎ戦った。流れ矢が五瀬命の肘脛(ひじはぎ)に当たった。

 皇軍は進軍することが出来なかった。天孫はこれを憂い謀を心の内に巡らし仰せになった。「今、我は日の神の子孫であり、日に向かって敵を撃つのは天道に逆らうことである。一度退き還って弱気を示し、神祇を敬い祀り、背に日の神の勢いを負って敵を襲えば、刀を血にぬらさずに破る事が出来るだろう」。皆は申しあげた。「そのとおりです」。これを全軍に下達し仰せられた。「しばらく留まり、進んではならない」。軍を引いて帰り、敵も亦、敢えて追撃してこなかった。退却し草香之津に到着し盾を植え雄たけびを為して士気を鼓舞された。改めてその津を盾津(たてづ)と名づけた。今、蓼津(たでつ)と言うのは訛ったものである。初め孔舎衛坂の戦いで大樹に隠れ難を免れた人が居た。その木をさして云った。「母の恵みの様である」。時の人はその地を名づけて母木邑(おものきのさと)と云った。今、飫悶廼奇(おほのき)と言うのは訛ったものである。

 五月八日 軍は茅渟(ちぬ)の山城(やまぎ)の水門(みなと)に到着した時、五瀬命は矢傷の痛みが甚だしく剣を取って雄たけびをして仰せられた。「腹立たしい。大丈夫(ますらお)が敵の手で傷を負いながら報わずして死ぬとは」。時の人はその場所を雄水門(おのみなと)と名づけた。進んで紀伊の国の竈山に到着した時、五瀬命は陣没した。そのため竈山に葬る。
 六月二十三日、軍は名草邑(なくさむら)に到着した。名草戸畔(なくさとべ)を誅殺した。そして、狭野(さの)を越え熊野の神邑(かみむら)に到着し、天磐舟に登って軍を率いて漸く進んだ。しかし、海上で俄に暴風にあい、船は波に翻弄されて進まなかった。時に稲飯命(いいのみこと)は嘆いて仰せになった。「ああ、我が祖は天神であり、母は海神で有るのに、なぜ我を陸に行かず、海で困らせるのか」。いい終わって、剣を抜いて海に入り鋤持神(さびもちのかみ)になった。三毛野命(みけぬのみこと)は恨んで仰せられた。「我が母と叔母は海神である。なのにどうして波浪を起こして溺れさせようととするのだ」。そして、波穂を踏んで常世の国に行かれた。
 天孫は兄たちを失われて独り皇子となった手研耳命(たぎしみみのみこと)と軍を率いて進み、熊野の荒坂津(あらさかのつ)に到着した。ここで丹敷戸畔(にしきとべ)を誅殺した。この時、神が毒気を吐かれた。軍兵は病みつかれた。これにより皇軍はまた振るわなかった。そこに、熊野の高倉下(たかくらじ)と云う者が居た。夜に夢を見て天照大神が武甕雷神(たけみかづちのかみ)に語って仰せになった。「葦原中国はなお騒いで治まらない。汝、更に行って是を討つが良い」。武甕雷神は答えて申しあげた。「私が行かなくとも、私が国を平らげた剣を下し賜れば、国は自ずから平らぎます」。天照大神は、「よろしい」と仰せられた。そこで、武甕雷神は高倉下に仰せられた。「わが剣は、名を韴霊(ふつのみたま)という。今、お前の倉の中に置こう。それを取って天孫に献上しなさい」。高倉下は、「わかりました」と言うと目覚めた。世が明けて夢の中の教えの通り、庫を開けて中を見ると、果たして落ちる剣が有った。逆さまに庫の底板に立っていた。それを取って天孫に献じるべく向かった。この時、天孫は良く寝ていたが、たちまち目覚めて仰せになった。「予はどうしてこんなに長く眠ったのだろう」。そして、毒気に中って萎えていた兵士もたちどころに目覚めた。
 皇軍は中州に赴こうとした。山中は険阻で行ける道がなかった。進むも退くも踏み行く所を知らなかった時の夜、夢を見た。天照大神が天孫に教えて仰せられた。「朕、今八咫烏を遣わした。よろしく、国への導きとしなさい」。果たして八咫烏が居て空から降りてきた。天孫は仰せられた。「この烏が来る事は瑞夢にかなっている。偉大なことだ、さかんなことだ。我が皇祖の天照大神が我々の技(仕事)をお助けくださる」。このとき、大伴氏の先祖の日臣命(ひのおみのみこと)は大来目(おおくめ)の兵士を督卒者として率いて、大軍の将軍として山を踏み道を開いて、烏の向くところのままに仰ぎ見て追って行った。遂に宇陀の下県(しもつあがた)に到着した。その到着した所を名づけて宇陀の穿邑(うがちのむら)と云う。時に勅をして日臣命をほめて仰せられた。「今氏の忠は勇ましい。またよく導く功がある。これをもって汝の名を改め、道臣(みちのおみ)とする」。
 秋八月二日、天孫は兄猾(えかし)及び弟猾(おとかし)を呼ばれた。両人は宇陀の縣の魁帥(ひとごのかみ)である。兄猾は来なかった。弟猾は参上して軍門を拝し告げて申しあげた。「臣の兄である兄猾は逆らおうとしています。天孫が到着されると聞いて兵を起こして襲おうとしています。皇軍の威勢を見て敢えて逆らおうとせず、ひそかに兵を伏せて新たな宮を造り、殿内に仕掛けを施し持て成す事を願い、そのときに殺そうとしています。願わくば偽りを知り、よく備えを為されますように」。天孫は、道臣命を派遣し、その逆状を調べさせた。道臣命は詳しく調べて、あだなす心を知り大いに怒り問責して云った。「卑しい奴めが。造った屋敷に自分自身で入れ」。剣の先を突きつけ弓を引き、入るように命じた。兄猾は罪を白日の元にさらされ、逃れるところなく自らの仕掛けで死んだ。その死体を引き出して斬った。流れる血で踝(くるぶし)が沈んだ。そのため、この地を宇陀の血原(ちはら)と云う。
 弟猾は大いに肉と酒を用意し皇軍をもてなした。天孫はその酒と肉を軍兵に賜った。そして歌を読まれた。「宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つ 鴫は障ず いすくはし 鷹し障る 前妻が 魚乞わば 立ち?の実の 無くち 扱し稗ね 後妻が 魚乞わば ?の木の実の 多けくて 機許稗ね」 (宇陀の高城に鴫を取る罠を張って、私が待っていると鴫が掛からず鷹が掛かった。これは大猟だ。前妻(古女房)が食物を乞うたなら、ソバの実の様に小さく削って渡せ。後妻(若女房)が食物を乞うたなら、斎賢木のような実の多いところをうんとやれ)

 これを来目歌(くめうた)と云う。今、楽府でこの歌を歌うときは、手の上げ下げの大小、歌声の太い細いが有る。これは古式の遺法である。

 この後、天孫は吉野の地を見たいと思われて、菟田の穿邑(うがちむら)から軽装の兵をつれて巡幸された。吉野に着いたとき、人がいて井戸の中から出てきた。その人は、体が光って尻尾があった。天孫は、これに尋ねて仰せになった。「お前は何者か」。答えて申しあげた。「私は国つ神で、名は井光(いひか)といいます」。これは、吉野の首部(おびとら)の始祖である。川に沿い西に向かうと、また尾のある人が岩をおしわけて出てきた。天孫は、「お前は何者か」と尋ねられた。「私は磐排別(いわおしわく)の子です」と答えて申しあげた。これは、吉野の国栖部(くずら)の始祖である。更に川に沿って進むと、また梁を設けて漁をする者があった。天孫がお尋ねになると、答えて、「私は苞苴担(にえもつ)の子です」と申しあげた。これは、阿太の養鵜部(うかいら)の始祖である。

 九月五日、天孫は菟田の高倉山の頂上に上って、域内を見渡された。時に、国見の丘の上に八十梟帥(やそたける)が居た。女坂(ねさか)に女軍(めいくさ)を置いて、男坂(おさか)に男軍(おいくさ)を置き墨坂(すみさか)に熾(おこ)し炭を置いていた。女坂、男坂、墨坂の名はこれによるもので有る。

 また、兄磯城(えしき)の軍がいて、磐余邑(いわれのむら)に陣を敷いていた。敵軍が居るところは皆、要害の地であり、道を塞いで通れなくしていた。天孫はこれを見て、その夜に自ら神に祈って眠りにつかれた。夢で天神が現れ、教えて仰せられた。「天香山(あまのかぐやま)の社の中の土を取り、天平瓮(あめのひらか、平らな皿)を八十枚作り、同じく神聖な巌瓮(いつへ、お神酒を入れる坪)を作り、天神地祇を敬い祀ると良いでしょう。また、巌呪詛(いづのかしり、身を清めて行う呪詛)を行いなさい。そうすれば、敵は自ずと平らげる事が出来るでしょう」。天孫は夢の教えを承り、教えの通り行おうとした。その時、弟猾は奏して申しあげた。「倭の国の磯城邑(しきのむら)に磯城の八十梟帥がいて、また高尾張邑(たかおわりのむら)(有る本では高城邑とも云う)赤鯛(有る本では赤銅(あかがね)ともある)の八十梟帥(あかだいやそたける)がいます。この輩は皆、天孫を防ぎ戦おうとしています。私はひそかに天孫のために憂いております。今は、天香山の土を取って天平瓮を作り、天社(天神の社)国社(国津神の社)の神を祀りましょう。その後、敵を討てば易々と排除できるでしょう」。天孫は夢の教えが吉兆で有ると思われ、弟猾の言う事を聞いて喜ばれた。そこで、椎根津彦を遣わして、破れた衣服と蓑笠を着せて老人の格好をさせ、弟猾に蓑を着せて老婆の格好をさせた。二人に命じて仰せられた。「よろしく、汝等二人は天香山に行って、密かに頂の土を取り還って来なさい。この業の成否は汝等をもって占う。しっかりやってこい」。

 この時、敵の兵は道に満ちて行き交う事が難しかった。椎根津彦は神意を占って云った。「わが君が、よくこの国を定められるものなら、行く道はおのずとひらけ。もしできないのなら、敵がきっと道を塞ぐだろう」。いいおわって、ただちに出かけた。群がる敵は二人を見て大笑いして云った。「なんて醜いみっともない翁と媼だ」。そうして、閉じていた道を通らせた。二人はその山に到着し土を取って帰った。

 この事を天孫は大いに喜ばれた。この土を使って八十の平瓮と天手抉(あめのたくたり、丸めた土に指で窪ませた土器)と八十の瓶を作り、丹生(にぶ)の川上に上り天神地祇を祭られた。菟田の川の朝原でちょうど水沫の様にかたまりつくところが有った。天孫はまた神意を占って、仰せになった。「私は八十の平瓮を使って水無しで飴を作る。飴が出来れば私は必ず刃の威力を使わず、居ながらにして天下を平らぐことが出来るだろう」。 飴づくりをされると、たやすく飴はできた。また神意を占って仰せになった。「私はいま神聖な巌瓮を丹生川に沈め、若し魚の大小無く酔って流れるなら、例えば柀葉の浮いて流れる様に私は必ずこの国を定められるだろう。もし、そうでなければ、ならずに終わるだろう」。瓶を川に沈められた。その口が下に向くなり魚は皆浮き、水の諸所で口をパクパクさせた。椎根津彦はこれを見て奏すと天孫は大いに喜ばれ、丹生川の川上の五百箇眞坂樹(いおつまさかき、沢山の榊)を抜き取り、諸神を祭った。この時から祭儀の際には巌瓮が置かれる様になった。

 道臣命に命じて仰せられた。「今、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)を朕自ら顕し斎をしよう。汝を斎主として、授けて巌媛となづける。また、その置くところの埴瓮を名付けて巌瓮(いつへ)とし、火の名を巌香来雷(いわかぐつち)とし、水の名を巌罔象女(いつみつはのめ)とし、粮の名を巌稲魂女(いつうかのめ)とし、薪の名を巌山雷(いつやまつち)とし、草の名を巌野椎(いつのづち)としよう」。
 冬十月 天孫は巌瓮の粮(供物)を奉り兵を整え出陣した。先に八十梟帥を国見の丘に討ち破り、この戦いに天孫は必ず勝つと思われた。そして、歌を歌われた。「神風の 伊勢の海の 大石にや 延廻る 細螺の 細螺の 吾子よ吾子よ 細螺の 延廻る 撃ち将し止ん 撃ち将し止ん」(神風がふく伊勢の海にある大石に這い回るし細螺(しただみ)の様に我が軍よ 這い廻って必ず敵を討ち負かしてしまおう)。歌の意は大石を国見の丘に譬えている。

 残党はなお多く、その情勢は測ることが難しかった。そこで、ひそかに道臣命に命じて仰せられた。「汝、大来目部を率いて、大室を忍坂邑(おさかのむら)に造り、盛んに酒宴を催し、敵をさそって討ち取れ」。道臣命はこの密命を受け、室を忍坂に掘り、味方の強者を選んで、敵と同席させた。ひそかにしめし合わせて云った。「酒宴がたけなわになった後、自分は立って歌おう。お前たちはわが声を聞いたら、一斉に敵を斬れ」。みな座について、酒を飲んだ。敵は陰謀のあることも知らず、心のままに酒に酔った。その道臣命は立って歌った。「忍坂の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入居りとも みつみつし 来目の子等が 頭椎い 石椎い持ち 撃ちてし止まむ」(忍坂の大室屋に、人が多勢入っていると雖も、御稜威を負った来目部の軍勢の頭椎(くぶつち)、石椎(いしつち)で敵を討ち負かそう)。

 味方の兵は、この歌を聞き、一斉に頭椎の剣を抜いて、敵を皆殺しにした。皇軍は大いに喜び、天を仰いで笑った。よって歌をよんだ。「今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子よ 今だにも 吾子よ」(今はもう今はもう、ああしやを、今だけでも今だけでも、わが軍よわが軍よ)。今、来目部が歌って後に大いに笑うのは、これがその由来である。また歌って云った。「夷を 一人 百な人 人は云へども 抵抗ませず」(蝦夷を、ひとりで百人にあたる強い兵だと、人はいうけれど、手向かいもせず負けてしまった)。

 これは皆、密旨をうけて歌ったので、自分勝手にしたことではない。そのときに天孫が仰せられた。「戦いに勝って、おごることのないのは良将である。いま、大きな敵はすでに滅んだが、同じように悪い者は、なお十数群いる。その実状はわからない。長く同じところにいては難に会う」。そこを捨てて別のところに移った。

 十一月七日、皇軍は大挙して磯城彦(しきひこ)を攻めようとした。先ず使いを遣わし、兄磯城(エシキ)を召した。兄磯城は命を承らなかった。更に八咫烏を遣わして召す時に、烏がその営舎に到着して鳴いて云った。「天神の子が汝を召す。さあさあこずや、こずや」。兄磯城は怒って云った。「天から降りてきた神が居るとき聞いて、私が憤って居るときに、なぜ烏が悪く鳴くのだ」。そして、弓を引き矢を射た。烏は逃げて帰った。次に弟磯城(おとしき)の家に行き、鳴いて云った。「天神の子が汝を召す。さあさあこずや、こずや」。その時、弟磯城は怖気づいてかしこまって云った。「私は天から降りてきた神が来たと聞いている。朝に夕べに恐れている。よきかな、烏。汝がその様に鳴くのは」。そこで、葉で八枚を作り食事を盛ってもてなした。そして、烏に従いやってきて、申しあげた。「兄の兄磯城は天神の子が来たと聞いて、八十梟帥を集めて兵甲を備えて決戦を行おうとしています。すみやかに対策すべきです」。天孫は将を集めて仰せられた。「今、兄磯城は果たして逆意があるとわかった。召しても来ない。これはいかに」。諸将は申しあげた。「兄磯城は賢い敵です。まず、弟磯城を遣わして、諭させて兄倉下(えくらじ)弟倉下(おとくらじ)を諭させるのが良いでしょう。もし、帰順しなければ、その後に兵を挙げてこれに挑んでも遅くは有りません」。弟磯城に利害を説かせた。しかし、兄磯城はなお、愚かな謀を守り従わなかった。椎根津彦(しいねつひこ)が謀って申しあげた。「今、よろしく先ず、我が女軍を遣わして、忍坂の道を出れば、敵は是を見て必ず攻撃してきます。私は盛況な兵を馳せて直ちに墨坂を目指し、菟田川の水を取って炭火に注ぎ、驚いている隙に不意を突けば必ず撃破出来るでしょう」。天孫はその謀を誉め、女軍を出し敵に挑む。敵は大兵力と思い力を尽くして迎え討った。これより先、皇軍は攻めれば必ずやぶり、戦えば必ず勝った。兵が疲弊しなかったわけではない。そこで、歌を歌い兵を慰めた。「盾並べて 伊那瑳山の 木の間も 行き候 戦へば 我は餓えぬ 島津鳥 鵜飼が輩 今助けに来ん」(盾を並べて、伊那瑳山の木の間から、敵をじっと見て、戦ったので、私たちは腹が減った。鵜飼の仲間よ、助けに来てくれ)。果たして男軍は墨坂を越えて後ろから挟み撃ちにしこれを破った。その梟帥(たける)の兄磯城等を斬った。

 十二月四日、皇軍は遂に長髄彦(ながすねひこ)を討つことになった。だが、連戦しても勝つ事ができなかった。その時、たちまち天が陰り雹(ひょう)が降った。そこへ黄金色の怪しい鵄(とび)が現れ、飛来し天孫の弓の先にとまった。その鵄は光り輝き稲妻の様であった。その為、長髄彦の軍は皆幻惑され、戦う事ができなかった。長髄彦の長髄というのは、もと邑の名であり、それをとって人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人はここを鵄邑(とびのむら)と名づけた。今、鳥見(とみ)というのは訛ったものである。昔、孔舎衛(くさえ)の戦いで五瀬命は矢が中り亡くなった。天孫は忘れられず常に憤りを抱きこの仇を討ちたいと思われた。そして歌を歌われ仰せられた。「瑞々し 来目の子等が 粟生には 韮一本 其が元 其芽繋ぎて 撃ち将し止まん」(瑞々しい久目の子達が、其家の垣の下に粟が生えている中に韮が一本生えている。其根から芽をつないで抜き取るように、敵の軍勢をすっかり討ち破ろう)。また、歌われて仰せられた。「瑞々し 来目の子等が 垣下に 植えし韮 口疼くい 我は忘れ不 撃ち将し止まん」(瑞々しい久目の子等が其家の垣の下に植えた韮を口に入れるとひりひりする。そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず討ち破ってやろう)。兵を急に放って攻められた。大凡諸々の歌は皆、来目歌という。これを歌えるものの名を取っていう。

 時に、長髄彦は軍使を遣わして天孫に申しあげた。「昔、天神の子がいて、天磐船に乗って天から降られた。名は櫛玉饒速日尊(クシタマニギハヤヒノミコト)という。この方は私の妹の御炊屋媛(みかしきやひめ)を娶り子供を生む。名は宇摩志麻治命(うましまちのみこと)と云う。その為、私は饒速日尊の跡を継ぐ宇摩志麻治命を君として使えています。ここに至り、天神の子と言われる方が二人も居るのでしょうか。何を持って天神の子と名乗って人の地を奪われるのでしょう。饒速日尊以外に天神の御子がいるなど、聞いたことがありません。私が思うに、あなたは偽者でしょう」。天孫は仰せになった。「天神の子は多く居る。汝が君とする人物が真に天神の子で有るならば、必ず印を持っている。それをお互いに示そう」。長髄彦は饒速日尊の天羽羽矢(あめのははや)一本と、歩靫(かちゆき)を天孫に示された。天孫はご覧になって、「いつわりではない」と仰られた。そして還られて所有されている天羽羽矢と、歩靫を長髄彦に示された。長髄彦はその天の印を見て怖気ずく気持ちが増した。しかし、兵を構えており、その勢いは途中で止める事はできなかった。なお、迷える謀を守って考えを改めなかった。宇摩志麻地命は本より天神が心配されるのは天孫だけであることを知っていた。それ、長髄彦は人となりがかたくなで天と人は違うことを教えても分りそうに無い事を見て取って、謀をして舅を殺し、衆を率いて帰順した。

 己未(つちのとひつじ)年春正月六日、詔をして「天孫である饒速日尊の子、宇摩志麻治の命。舅は長髄彦」と言われた。 (※ 以下脱文)




(私論.私見)