巻第三(天神本紀)

 (最新見直し2009.3.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「先代旧事本紀巻第一」を転載しておく。

 2009.3.19日 れんだいこ拝


【巻第三 天神本紀】
 正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさやあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)

 天照大神が仰せになった。「豊葦原の千秋長五百秋長之瑞穂国(ちあきながいほあきながのみずほのくに)は、我が子、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が治めるべき国である」。このように言われ、我が子を降ろそうとされた。高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の子の思兼神(おもいのかねのかみ)の娘の萬幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちちひめのみこと)を妃とし、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)が誕生された。この時、正哉吾勝勝速日天押穂尊が天照太神に奏上して申しあげた。「私は、天下ろうと準備をしている間に生まれた子供がいます。この子を降ろしたいと思います」。大神はこれを許された。天神の御祖は、天神の璽である瑞宝(みずたから)十種を授けられた。所謂、息都鏡(おきつかがみ)が一つ、邊都鏡(へつかがみ)が一つ、八握剣(やつかのつるぎ)が一つ、生玉(いくたま)が一つ、死反玉(しがえしたま)が一つ、足玉(たるたま)が一つ、道反玉(みちかえしたま)が一つ、蛇比禮(へびのひれ)が一つ、蜂比禮(はちのひれ)が一つ。品物比禮(くさぐさのものひれ)が一つである。

 天神の御祖は数えて仰せられた。「もし痛むところが有れば、この十の宝に命じて、一二三四五六七八九十と云ってふるわせなさい。布瑠部(ふるへ)、由良由良止布留部(ゆらゆらとふるへ)と。このように成せば、死人も生き返る。これは、所謂、布留のである」。これが“布留(ふる)の言本(ことのもと)”の起源である。
 高皇産霊尊が仰せになった。「葦原中国の敵が神を拒絶して待ち戦うものが有れば、よく策略を用いて欺き防いで、治め平らげよ」。三十二人に指示して共に防ぎ守るよう天下りの伴に命じた。
天香語山命 (あめのかごやまのみこと) 尾張連(おわりのむらじ)等の先祖
天鈿賣命 (あめのうずめのみこと) 猿女君(さるめのきみ)等の先祖
天太玉命 (あめのふとたまのみこと) 忌部首(いんべのおびと)等の先祖
天児屋命 (あめのこやねのみこと) 中臣連(なかとみのむらじ)等の先祖
天櫛玉命 (あめのくしたまのみこと) 鴨県主(かものあがたぬし)等の先祖
天道根命 (あめのみちねのみこと) 川瀬造(かわせのみやつこ)等の先祖
天~玉命 (あめのかみたまのみこと) 三島県主(みしまのあがたぬし)等の先祖
天椹野命 (あめのくののみこと)  中跡値(なかとのあたい)等の先祖
天糠戸命 (あめのぬかどのみこと) 鏡作連(かがみつくりのむらじ)等の先祖
天明玉命 (あめのあかるたまのみこと) 玉作連(たまつくりのむらじ)等の先祖
天牟良雲命 (あめのむらくものみこと) 度會神主(わたらいのかんぬし)等の先祖
天~立命 (あめかみたちのみこと) 山背久我値(あましろのくがのあたい)等の先祖
天御陰命 (あめのみかげのみこと) 凡河内値(おおしかわちのあたい)等の先祖
天造日女命 (あめのみやつこひめのみこと) 阿曇連(あずみのむらじ)等の先祖
天世手命 (あめのよてのみこと) 久我値(くがのあたい)等の先祖
天斗麻彌命( あめのとまみのみこと)      額田部湯坐連(ぬかたべゆえのむらじ)等の先祖
天背男命 (あめのせおのみこと) 尾張中島海部値(おわりのなかじまのあまべのあたい)等の先祖
天玉櫛彦命 (あめのたまくしひこのみこと) 間人連(はしひとのむらじ)等の先祖
天湯津彦命 (あめのゆずひこのみこと) 安藝国造(あきのくにのみやつこ)等の先祖
天~魂命 (あめのかみたまのみこと)  葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)等の先祖
天三降命 (あめのみくだりのみこと) 豊国宇佐国造(とよくにうさのくにのみやつこ)等の先祖
天日~命 (あめのひみたまのみこと) 対馬県主(つしまのあがたぬし)等の先祖
天乳速日命 (あめのちはやひのみこと) 廣湍~麻績連(ひろせのかみのむらじ)等の先祖
天八坂彦命 (あめのやさかひこのみこと) 伊勢~麻績連(いせのかみおみのむらじ)等の先祖
天伊佐布魂命 (あめのいさふるたまのみこと) 倭文連(やまとのふみのむらじ)等の先祖
天伊岐志邇保命 (あめのいきしにほのみこと) 山代国造(やましろのくにのみやつこ)等の先祖
天活玉命 (あめのいくたまのみこと) 新田部値(にいたべのあたい)等の先祖
天少彦根命 (あめのすくなひこねのみこと) 鳥取連(ととりのむらじ)等の先祖
天事湯彦命 (あめのことゆひこのみこと) 取尾連(とりおのむらじ)等の先祖
天表春命 (あめのうわはるのみこと) 八意思兼~(やこころおもいのかね)の児。信乃阿智祝部(しなののあちのいわいべ)等の先祖
天下春命 (あめのしたはるのみこと) 八意思兼~の児。武蔵秩父国造(むさしのちちぶにくにのみやつこ)等の先祖。
天月~命 (あめのつきかみのみこと) 壹岐県主(いきあがたぬし)等の先祖
 五部(いつとも)の人を副えて従わせて天下りの伴に命じた。物部造(もののべのみやつこ)等の先祖の天津麻良(あまつまら)。笠縫部(かさぬいべ)等の先祖の天曾蘇(あめのそそ)。爲奈部(いなべ)等の先祖の天津赤占(あまつあかかし)。十市部首(といちべのおびと)等の先祖の富富侶(ほほろ)。筑紫弦田物部(つくしつるたのもののべ)等の先祖の天津赤星(あまつあかぼし)

 五部造を伴領と為し、天物部(あめのもののべ)を率いて天下りの伴に命じた。二田造(ふたつたのみやつこ)。大庭造(おおばのみやつこ)。舎人造(とねりのみやつこ)。勇蘇造(ゆうそのみやつこ)。坂戸造(さかとのみやつこ)
 
 天物部等を二十五部(はたちあまりいつとも)の人を同じく兵仗(ひょうじょう=武器)を帯びて天下りの伴に命じた。

 二田物部(ふたつたのもののべ)     當麻物部(たぎまのもののべ)
 芹田物部(せりたのもののべ)      鳥見物部(とみのもののべ)
 横田物部(よこたのもののべ)      島戸物部(しまとのもののべ)
 浮田物部(うきたのもののべ)      巷宜物部(ちまたきのもののべ)
 足田物部(あしたのもののべ)      酒人物部(さかひとのもののべ)
 田尻物部(たしりのもののべ)      赤間物部(あかまのもののべ)
 久米物部(くめのもののべ)       狭竹物部(さたけのもののべ)
 大豆物部(だいずのもののべ)      肩野物部(かたののもののべ)
 羽束物部(はつかしのもののべ)     尋津物部(ひろつのもののべ)
 布津留物部(ふつるのもののべ)     住跡物部(ふとのもののべ)
 讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ) 相槻物部(あいつきのもののべ)
 筑紫聞物部(つくしきくのもののべ)   播磨物部(はりまのもののべ)
 筑紫贄田物部(つくしにへたのもののべ)

 船長も同じく共に梶取等を率いて天下りの伴に命じた。船長は跡部首(とべのおびと)等の先祖の天津羽原(あまつははら)梶取は阿刀造(あとのみやつこ)等の先祖の天麻良(あまつまら)。船子は倭鍛師(やまとのかぬき)等の先祖の天津真浦(あまつまうら)。笠縫(かさぬい)等の先祖の天津麻占(あまつまうら)。曾曾笠縫(そそかさぬい)等の先祖の天都赤麻良(あまつあかまら)。爲奈部等の先祖の天都赤星(あまつあかぼし)
 饒速日尊(にぎはやひのみこと)は、天神の御祖の命令を受け天磐船(あめのいわふね)にのって、河内の国の河上の哮峰(いかるがのみね)に天下った。大倭の国の鳥見(とみ)の白庭山(しらにわのやま)にお遷りになった。所謂、天磐船に乗り、大空を駆け行き郷を巡り見て天下られた。所謂、空より見た日本の国とはこれで有る。饒速日尊は長髄彦(ながすねひこ)の娘の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶り、懐妊させた。生まれる前に、饒速日尊はお亡くなりに成った。天上に未だ戻られて無かったので、高皇産霊尊は速飄神(はやてのかみ)に仰せになった。「我が神の御子の饒速日尊を葦原中国に使わしたが、疑わしく思うところがある。故に汝、調査して報告せよ」。速飄神は命令を受けて降りて来たが、饒速日尊が亡くなられたのを見て天上へ取って返し、「神の御子は、お亡くなりに成りました」と報告を行った。高皇産霊尊は悲しく思われ、速飄神を遣わし、神の遺体を天上に上げて、そのそばで七日七夜、遊楽を行い、悲しみ悼み、天上で葬った。
 天照大神は仰せになった。「豊葦原の千秋長五百秋長之瑞穂の国は、我が子、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が王と成るべき地である」。天押穂耳尊が天下ろうとされた時、天浮橋(あめのうきはし)に立って、眺めて「豊葦原の千秋長五百秋長之瑞穂の国は、猶騒がしい。未だに治まっていない。なんと、騒々しく醜い国か」と仰り、天上に登り帰り天下れ無い理由を陳情された。高皇産霊尊は八百万の神を天八湍河の川原に召集して、思兼神にお尋ねになった。「天照大神は、『この、葦原中国は我が御子の統治すべき国で有る』と言われた国で有る。しかし、私が思うには、強力な荒ぶる国津神がいる。磐根、木の株も、草も、葉も良く喋る。夜は蛍火の様に騒ぎ、昼はハエの様に煩い。今、葦原中国の悪しき神を祓い平らげたいと思う。誰を遣わせば良いだろうか。いずれの神を遣わしたらよいか言ってくれ」。 

 思兼神と八百万の神は皆申しあげた。「天穂日命(あめほひのみこと)を遣わせるべきで有る。この神は優れている」。諸々の神の言葉通り、天穂日命に行って平定してくるように命じて遣わせた。しかし、この神は、大己貴神に媚て従い、三年経っても復命しなかった。
 高皇産霊尊は更に諸神を集めて問うた。「誰を遣わせば良いか」。皆申しあげた。「天津国玉神(あめつくにたまのかみ)の子の天稚彦(あめのわかひこ)は勇敢で有る。試みて見たら如何でしょうか」。高皇産霊尊は天稚彦に天之鹿児弓(あめのかごゆみ)と天之羽羽矢(あめのははや)を賜って遣わした。しかし、この神も忠誠ではなかった。天稚彦は、その国に降り至り、大国玉神(おおくにたまのかみ)の娘の下照姫(したてるひめ)を娶り、その国を得て住み、その国に留まって、「私は、この国を治め守りたい」と言った。八年の間、天上に帰らず復命しなかった。

 天照大神と高皇産霊尊は諸神にお尋ねになった。「昔、天稚彦を葦原中国に遣わした。今に至るまで、久しく還ってこない。これは強力な国津神がいるからだろう。私は、何れの神かを遣わして、天稚彦が留まる理由と問わせたい」。思兼神や諸神は答え申しあげた。「無名雉(ななしきじ)と鳩を遣わすべきでしょう」。そこで、名無しの雉と鳩を遣わした。雉と鳩は降りて粟田豆田を見て留まって還らなかった。これは所謂、雉は遣いに使えない、または豆を見て降りる鳩はこの由縁である。
 高皇産霊尊は再び「先に無名雉と鳩を使わしたが、還ってこない。何れの神を派遣したら良いだろうか」と問われた。思兼神と諸神は共に「雉名鳴女(きじななきめ)を派遣すべきである」と答えたので、無名雌雉(ななしめきじ)を遣わす事になった。高皇産霊尊は、「汝は行って天稚彦が八年も復命しない理由を聞いてきなさい」と命じられた。

 そこで、鳴女は天から降って葦原の中国に着いて、天稚彦の門の湯津楓(神聖な桂)の木の梢にとまり、鳴いて云った。「天稚彦よ、どうして八年もの間、いまだに復命しないのですか」。この時、国つ神の天探女(あまのさぐめ)が居た。この雌雉のいうことを聞いて、天稚彦に云った。「鳴き声の悪い鳥がこの木の梢にいます。射殺してしまいましょう」。天稚彦は天神から賜った弓矢をとって、その雉を射殺した。その矢は雉の胸をとおりぬけて、逆さまに射上げられて、天の安河の河原においでになる天照太神と高皇産霊尊の御前に到った。高皇産霊尊がその矢をとってご覧になると、矢の羽に血がついていた。それで仰せになった。「この矢は昔、私が天稚彦に与えた矢だ。いま、どういう訳か血がついて戻ってきた。きっと国つ神と闘ったのだろう」。諸神に見せ、まじないしていわれた。「もし、悪い心で射ったのなら、天稚彦は必ず災難にあうだろう。もし、良い心で射ったのなら、天稚彦には当たらない」。そうしてその矢をとって、穴から衝き返してお下しになったら、その矢は落ち下って、天稚彦の胸に当たり、稚彦は死んでしまった。世の人がいわゆる“返し矢は恐ろしい”ということの由来である。

 時に、天稚彦の妻の下照姫の泣き悲しむ声が風に響いて天まで届いた。そこで、天にいた天稚彦の父の天津国玉神、また天稚彦の天にいた妻子たちがその声を聞いて、稚彦が亡くなったことを知り、疾風を送って亡骸(亡きがら)を天に上げさせた。喪屋を造って、河雁(かわかり)を持傾頭者(きさりもち、葬送の時に死者に捧げる食物を持って歩く者)とし、鷺(さぎ)を持掃者(ははきもち、葬送の時箒を持って歩く者)とし、翠鳥(そに=かわせみ、死者に食事を供える者)を御食人(みけびと)とし、雀を碓舂女(つきめ、米をつく女)とし、雉を哭女(なきめ、泣く役の女)とし、鷄を尸者(ものまさ、死者に代って飲食する者)とし、鷦鷯(ささぎ)を哭者(なきめ)とし、鵄(とび)を造綿者(わたつくり)とし、烏を宍人(ししびと)とした。すべての諸々の鳥をこのように定めて、八日八夜というもの泣き悲しみ歌った。

 これより以前、天稚彦が葦原の中国にいたとき、味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)とは親しい間柄だった。それで、味耜高彦根神は、天に上って喪をとむらった。この時、天稚彦の父や妻がみな泣いて、「私の子は死なずにいた」、「私の夫は死なずにいらっしゃった」と、このようにいった。手足に取りすがって泣き悲しんだ。その間違ってしまったのは、高彦根神の姿が天稚彦の生前の姿とよく似ていたためである。そのため天稚彦の親族や妻子はみな「わが君はまだ死なないで居られた」といって、衣の端をつかんで、喜び、また驚いた。しかし、高彦根神は憤然として怒りいった。「友人の道としてはお弔いすべきだ。私は親友だ。それでけがれるのもいとわず遠くからお悔やみにやってきた。それなのに、死人と私を間違えるとは」。そうして、腰にさしている十握の剣“大葉刈”を抜いて、喪屋を切り倒した。その喪屋が下界に落ちて山になった。すなわち、今の美濃国の藍見川の河上にある喪山がこれである。世の人、死者と間違えられる事を嫌うのはこれが始まりで有る。

 天照大神は仰せられた。「いずれの神を遣わしたら良いだろうか」。思兼神および諸神は皆申しあげた。「天安河上の天窟(あめのいわや)に居る稜威尾羽張神(いつのおはばりのかみ)を遣わすのが良いでしょう。もし、そうで無ければ、その神の子の武甕雷神(たけみかづちのかみ)を遣わすのが良いでしょう。尾羽張神は天安河の水を塞き止めて水を逆流させて道を塞いでいるので、他の神は行く事が出来ません。別に天迦具神(あめのかぐのかみ)を遣わして、尾羽張神に問うのが良いでしょう」。そのため、天迦具神を遣わして尾羽張神に問わせた。尾羽張神は、「恐れ多い事ですがお仕えしましょう。しかし、我が子の武甕雷神を遣わすのが良いでしょう」と答えた。高皇産霊尊は更に諸神と集まって、誰を葦原中国に使わすべきか相談された。みなが申しあげた。「磐裂根裂(いわさくねさく)の子の磐筒男(いわつつのお)と磐筒女(いわつつのめ)が生んだ子の経津主神(ふつぬしのかみ)が良いでしょう」。この時、磐窟に住む稜威尾羽張神の子の武甕雷神が進み出て申しあげた。「経津主神だけが丈夫(ますらお)で、私が丈夫ではないのですか」。その意気が激しかったので、経津主神に配して遣わす事に成った。一説に天鳥船神を武甕雷神に配して遣わした。天照大神と高皇産霊尊は経津主神と武甕雷神を遣わし、先行して追い出し葦腹中国を平定させた。そのとき二神が申しあげた。「天に悪しき神がいます。名を天津甕星(あまつみかぼし)と言います。亦の名は天香香背男(あめのかかせお)と言います。先ずこの神を誅した後、葦原中国に下って下さい」。この時の斎主神(いわいのかみ)を斎之大人(いわいのうし)と云う。この神は今は東(あずま)の国の楫取(かとり)の地にある。
 経津主神と武甕雷神の二神は出雲の国の五十狭小汀(いさのこはま)に降りられ、大己貴神(おおなむちのかみ)に尋ねていった。「天津神の高皇産霊尊と天照大神が『葦原中国は我が子が治めるべき国で有る』と詔された。汝、この国を天神に奉るか否か」。大己貴神は答えていった。「話の辻褄が合わない。汝等二神は私が元々居るところに来たではないか。暴言を許す事は出来ない」。二神は十握剣を抜いて地に刺し、その前に座って大己貴神に問いかけられた。「皇孫を降され、この国の君臨することを望んでいる。先ず我々二神を遣わし、除き平定させられた。汝の意思は如何なのだ。譲るのか否か」。大己貴神は答えていった。「我が子の事代主神(ことしろぬしのかみ)と相談した後に返事をししよう」。

 その時、事代主神は出雲の国の三穂の崎に遊びに行っていた。魚釣りをして楽しんでいた。熊野諸手船(くまににもろてのふね)に使いの稲背脚(いなせはぎ)を乗せて天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を遣わして、八重事代主神に返事を問うた。事代主神は父に仰せられた。「今、天神の言われる様に我が父は去られるのが良いでしょう。私も逆らいません」。海中に八重蒼柴籬を作って、船の舳先を踏んで天の逆手を打って、蒼柴籬を打って隠れた。これを見て、経津主神と武甕雷神の二神は大己貴神に仰せられた。「汝の子の事代主神はこのように言った。また、問う子がいるか」。大己貴神は答えていった。「必ず言う。まだ私には建御名方神(たけみなかたのかみ)います。この子を除いて私には子はいません」。このように申している間に、建御名方神は千引きの磐を手の上にさし上げてきて仰せられた。「わが国に来てひそひそ話をしているのは誰だ。私と力比べをしよう。私は先ずその手を取ろう」。しかし、その手を取ろうとすれば、手は立ち氷に変えまたは剣に変えた。それに恐れをなして退いた。建御名方神の手を取ろうと思い、呼び戻して取れば、若葦を取るようであった。そして、つかみひしいで投げ出すと、逃げ去った。追って行って、信濃の国の諏訪(すわ、洲羽)の海に追い至って殺そうとした時、建御名方神が恐れていった。「私を殺さないで下さい。私はこの地へ退き、仇名す所には行きません。また、我が父、大国主神(おおくにぬしのかみ)の命令に従います。また我が兄、八重事代主神の言葉にも従います。この葦原中国は天神の御子が治めるよう奉ります」。

 更に還って来て大国主神に尋ねていった。「汝の子等の事代主神と建御名方神は天神の御子の詔のままに逆らわないと言った。汝の意思は如何なのだ」。大国主神は答えて仰せられた。「我が子が逆らわないと言うのであれば、私も逆らわない。この葦原中国は詔に従い奉ります。私が住むところを天神の御子が治めるために住まわれる宮殿のように、底津磐根(そこついわね=地の底に有る磐)に太い宮柱で高天原に届くような高い宮殿を作っていただければ、隅の方に隠れて居ましょう。また、我が子の百八十神は事代主神を指導者として使えていますので、逆らう神はいないでしょう」。そう言って、大己貴神と事代主神らは去った。また、「もし、私が防ぎ戦うと国内の神は同じく戦うでしょう。私が去るので、誰も敢えて逆らわないでしょう。私は、国を平定するとき廣矛を持って行いました。二神に申し上げる。私はこの矛を持ち平定に成功しました。天の御子がこの矛を用いて国を治めるならば、必ず平安になるでしょう。今から私は隅の方に隠れます」。そう言って、隠れられた。二神は、諸々の従わない鬼神達を誅せられた。
 二神は逆らう諸神を誅した後、出雲の国の多藝志(たぎし)の小濱(こはま)に天の御舎(あめのみあらか=宮殿)を作り、水戸(みなと)の神の子孫の櫛八玉神(くしやたまのかみ)を膳夫(かしわで=料理人)として、御饗(みあえ=供え物)をささげさせた時、櫛八玉神は祝言を唱えて鵜になり海の底に潜り、底の埴輪を咥えて出てきて天八十毘良迦(あめのやそひらか=多くの平たい皿)を作り、海草の幹を刈取り燧臼(ひきりうす)を作り、藻の幹を刈り取り燧杵(ひきりきね)を作った。両方をすり合わせて火を作り出して申しあげた。「私が作った火は、高天原の神皇産霊御祖尊(かみむすびみおやのみこと)が治められる新しい宮殿にすすが長くたれるまで焼き上げ、下は底津磐根を焼き固め、楮の縄を長く打ち釣をする海人の釣り上げた鱸(すずき)をさらさらと引き寄せ上げて、机もたわむほど立派な天の真魚咋を差し上げましょう」。

 経津主神と武甕雷神は天に還り登って、復命した時、高皇産霊尊は経津主神と武甕雷神の二神を還し遣わして大己貴神に詔して仰せられた。「汝の言う事はもっともなことで有る。深く理にかなっている。そこで更に詳しく条件を告げる。汝が治める現世の事は、私の御孫が治める。汝は幽神(かくれがみ)を治めよ。また、汝の住むべき天の日隅宮(あめのひすみのみや)は今から作る。それは、千尋の綱で百八十(ひゃくやそ)に結び(=しっかり結び)。また、その宮の作り方は、柱は高く太くし、板は厚く広くしよう。豊かな供田をつくり、そこで作る作物が祭りのお供えとして実り多きことを祈ろう。また、海に行って遊ぶ時の為に、高い橋と浮き橋と天鳥船を供えよう。天の安河に打ち橋を作ろう。また、百八十の白い盾を作り供えよう。汝の祀りを司るのは天穂日命(あめのほひのみこと)である」。大己貴神が答えて仰せられた。「天神の仰る事はこの様に行き届いている。敢えて、逆らうことが有りましょうか。私が治める現世の事は皇孫がなさってください。私は退いて、幽神を治めます」。岐神(ふなどのかみ)を推薦して経津主神と武甕槌神二神に勧めていった。「この者が私に代わって従うでしょう。私はこれから去らしていただきます」。そう言って、瑞之八坂瓊を被って、永遠に隠れられた。経津主神は岐神を道案内とし、各地を巡って平定した。逆らうものが居れば、斬り殺した。従うものには褒美を渡した。この時従うものは大物主神と事代主神で有る。八十万(やそよろず)の神を天高市に集めて、率いて天に登り誠を披露された。

 この時、高皇産霊尊は大物主神に詔して仰せられた。「汝が、もし国津神を妻としたなら、私は汝に異心があると考える。それゆえ、今、私の娘の三穂津姫命(みほつひめのみこと)を汝の妻とする。八十万の神を率いて皇孫に永遠に仕え奉れ」。そうして還り降りされた。紀伊の国の忌部の遠い先祖の手置帆負神(たおきほおいのかみ)を作笠(かさぬい=笠作り)とした。彦狭知神(ひこさちのかみ)を作盾(たてぬい=盾作り)とし、天目一箇神(あめのひとつのかみ)を鍛治とし、天日鷲神(あめのひわしのかみ)を作木綿(ゆふつくり=布作り)とし、櫛明玉神(くしあかるだまのかみ)を作玉(たますり=玉作り)とした。天太玉命(あめのふとたまのみこと)を弱い肩に太い襷を掛けるように、御手代(みてしろ=天孫の代理)とし、神を祀のはこれが始まりである。また、天児屋命は神事(かみわざ)の総元締めである。ゆえに、太占の占いで奉仕するのである。
 高皇産霊命が仰せになった。「私は天津神籬(あまつひもろぎ)及び天津磐境(あまついわさか)を葦原中国に作って、私の子孫に祝い祀らせよう」。そして天太玉命(あまのふとたまのみこと)と天児屋命(あまのこやねのみこと)の二神を天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)に副え従わして天降らせられた。下る時に天照大神は手に宝の鏡を持って天忍穂耳尊に仰せられた。「我が子よ。この宝の鏡を私と思いなさい。共に床を同じくし共に宮を同じくして祝と為しなさい。天の日嗣の栄えは天槌が無窮で有るのと同じである」。即ち八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)と八咫鏡(やたのかがみ)草薙剣(くさなぎのつるぎ)の三種の宝物を授けて永く天璽(あまつしるし)とした。矛と玉は自ずから従った。天児屋命と天太玉命に、「汝等二神は同じ宮殿に居て良く守りなさい」と仰った。天鈿女命を同じように副え侍らせた。常世思兼神と手力雄命と天石門別神に仰せられた。「この鏡は専ら我が御魂として祀りなさい。そして、思金神は私の祭りに関することをとり扱って、政事を行いなさい」。思兼神は御前で政治を司った。この二神は佐古久斯侶五十鈴宮(さこくしろいすずのみや、伊勢神宮)を祀っている。次に豊受神(とようけのかみ)は外宮の渡會に座される神である。次に天石門別神(あめのいわまどわけのかみ)、亦の名を櫛石窓神(くしいわまどのかみ)と云う。又は神石窓神(かみいわまどのかみ)と云う。この神は御門の神である。次に手力雄神は佐那(さな)の県に居ます。次に天児屋命は中臣の先祖である。次に天太玉命は忌部の先祖である。天鈿女命は猿女の先祖である。次に石凝姥命(いしこりどめのみこと)は鏡作の先祖である。次に玉屋命(たまのやのみこと)は玉作の先祖である。これで神五部(かみのいつとも)の随伴する神を配した。
 次に、大伴連(おおとものむらじ)の遠い先祖の天忍日命(あめのおしひのみこと)は来目部(クメベ)の遠い先祖の天?津大来目(あめのくしおおくめ)を率いて背に天磐靫(あまつのいわゆき)を負い、臂に稜威高鞆(いいつたかとも)を着けて手に天梔弓(あめのはしゆみ)と天羽羽矢(あめのははや)を取り八目鏑(やつめのかぶと)を副えて頭槌剣(きつちのつるぎ)を帯て天孫の御前に立ち先駆けをした。高皇産霊尊は仰せになった。「私は天津神籬及び天津磐境を作り、我が子孫を斎奉りたい」。また、「汝、天児屋命と天太玉命の二神は共に宮殿に居て良く守りなさい。我が高天原にある、斎庭之穂(ゆにわのほ)を我が子に与えなさい」。また、「天太玉命は諸部神(もろとものかみ)を率いてその職を共に奉りなさい。天上での慣例のとおりにしなさい」。諸神に共に従いなさいと命令された。また、大物主神に仰せになった。「八十萬神を従えて、永遠に皇孫を守り奉りなさい」。

 正哉勝勝速日押穂耳尊(まさあかつかちはやひのおしほみみのみこと)は高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫萬幡姫命(たくはたちちひめよろずはたひめのみこと)を妃とし、天上で子が生まれた。名を天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)と云う。この皇孫を親の変わりに天下らせようと思われた。天照大神は、「言う通りに天下りさせて良い」と許可された。天児屋命と天太玉命及び諸部神等を伴として授け、また召し物一式も前例のごとく授けられた。その後、天忍穂耳尊は再び天上に還られた。太子である正哉吾勝勝速日天押穂耳尊は高皇産霊尊の娘の萬幡豊秋津師姫命(よろずはたとよあきつしみめ)またの名を栲幡千千姫萬幡姫命を妃とし、二人の男の子が産まれた。兄を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)と云い、弟は天饒石国饒石天津彦彦火瓊瓊杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひこひこににぎのみこと)と云う。




(私論.私見)