巻第二(神祇本紀)

 (最新見直し2009.3.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「先代旧事本紀巻第一」を転載しておく。

 2009.3.19日 れんだいこ拝


【巻第二 神祇本紀】
 スサノウの尊がイザナギの尊に請われた。「私は、詔を奉って根の国に行こうとしています。少しの間、高天原に向かいお姉様に別れの挨拶をしたいと思います」。イザナギの尊はその願いを許された。それにより、スサノウの尊は天に登られた。素戔烏尊が天に登ろうとされた時一人の神がおられた。名を羽明玉(はあかるだま)と云う。この神はスサノウの尊を迎え奉って、進むと瑞八坂瓊の勾玉(みづのやさかにのまがたま)を献上した。スサノウの尊はその瓊玉を持って天に登るとき、海がざわめき山岳が鳴動した。これは神の猛々しさがなすところであった。天に登られたとき、天鈿賣命(あめのうずめのみこと)が見つけ、日の神に告げた。天照大神はスサノウの尊の性格の荒々しさを存知ており、スサノウの尊が詣で来ると聞かれ激しく驚かれ仰せられた。「我が弟が来るのは、善意を持って来るのではなく、我が高天原を奪おうと考えているのだろう。父母はその諸子に任され、その境を保たせている。なぜ、就任した国を捨て置いて、ここに来るというのだ」。御髪を解いて御鬟(みずら)に結い、御髪を結い御鬘(みかづら)となし、御裳をからげて御袴となし、左右の鬟、左右の手および腕に各々八尺瓊の五百箇御統の瓊玉(やさかにのいおつのみすまるのたま、御統=勾玉などを紐に通して纏めたもの、首飾り)を纏き、千箭(ちのり、千の矢)の靫(ゆぎ、矢筒)又は五百箭(いおのり、五百の矢)の靫(ゆき)を背負い、立派な高鞆(たかとも、弓を使うときに左の腕に巻く皮の道具)を臂に着け、弓弭(やはず)を振り立て、剣の柄を握り締め、堅い庭を踏み抜き、沫雪のように蹴り散らし、威厳を示して、スサノウの尊に「何ゆえ来たのか」と激しく詰問された。スサノウの尊は答えた。「私は悪意を抱いておりません。ただ、父の厳しいご命令があり根の国に行こうとしています。お姉様に会わずに如何して行くことが出来ましょうか。また、珍しい宝である、八坂瓊之曲玉を捧げたいと思っています。悪心が有るわけではありません。その為に、雲霧を踏み渡り、遠く自ら来たしだいです。それなのに、お姉さまのお怒りの顔を見ようとは」。天照大神は再び問い仰せられた。「そうで有るならば、お前の赤き心の証明をしなさい。お前の言う事の嘘・真を示しなさい」。
 スサノウの尊は答えて仰せられた。「お姉さまと誓いをしたい。誓約の中で子を生むに当って、もし私の生む子が女なら悪心を持っている事に成ります。もし私の生む子が男なら清き心を持っている事に成ります」。天之真名井(あめのまない)を三ヶ所を堀り、天照大神とスサノウの尊を天の安河(あめのやすかわ)で共に隔て、そして向かい合って誓約を行うことにした。「汝に、もし悪心が有るならば、汝が生む子は必ず女となり、男で有るならば天原(あまのはら)を治める子としよう」。天照大神・スサノウの尊は共に誓約を行い、「私が纏う玉を汝に授ける。汝は私に帯びている剣を私に授けよ」。この様に誓い共に交換した。天照大神はスサノウの尊の帯びていた三つの剣を天之真名井(為來真名井、「いでのまない」ともいう)で振り濯ぎ、それを噛み砕いて噴出した息吹の中から三柱の女神が生まれた。十握剣を三つに折って生まれた三神の神の名は、瀛津島姫命(おきつひめのみこと)。またの名を田心姫(たごりひめ)。またの名を田霧姫(たぎりひめ)。九握剣(ここのつかのつるぎ)から生まれた神の名は湍津島姫命(たぎつしまひめのみこと)。八握剣(やつかのつるぎ)から生まれた神の名は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と云う。

 スサノウの尊は天照大神の御手と髻鬟とに巻かれている八尺瓊の五百箇御統の瓊玉を天の真名井で濯ぎ、噛み砕いて噴出した息吹の中から六柱の男神が生まれた。
 左の御鬟の玉を含んで左手の掌の中より生まれた神の名は正哉吾勝勝速日天忍穂別尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほわけのみこと)。
 右の御鬟の玉を含んで右手の掌の中より生まれた神の名は天の穂日命(あめのほひのみこと)。
 左の御髻の玉を含んで左の臂に付けて生まれた神の名は天の津彦根命(あまつひこねのみこと)。
 右の御髻の玉を含んで右の臂に付けて生まれた神の名は活津彦根命(いくつひこねのみこと)。
 左手の御腕の玉を含んで左の足から生まれた神の名は熯の速日命(ひのはやひのみこと)。
 右手の御腕の玉を含んで右の足から生まれた神の名は熊野杼樟日命(くまのくすひのみこと)。

 天照大神は告げて仰せられた。「その元を尋ねれば、玉は私の持ち物であり、生まれた六柱の男神は我が子である。よって、養い高天原治めさせよう。剣は汝の持ち物であり、生まれた三柱の女神は汝の子である。私が生んだ三柱の女神はお前の子である」。スサノウの尊に三柱の女神たちを授けて葦原中国(あしはらのなかつくに)に降ろした。筑紫の国の宇佐島(うさしま)に降り居ます。北の海路の中におられる。名づけて道主貴(みちぬしのむち)と云う。天孫を助け奉り、天孫の為に祭る。すなわち、宗像君(むなかたのきみ)が祭る神である。一説には水沼君(みずぬまのきみ)等の祭る神ともいう。 瀛津姫島命は遠瀛(おきつみや)に座し、これは田心姫命である。邊津島姫命は海濱(へつみや)に座し、これは湍津島姫である。中津島姫命は中島(なかつみや)に座し、これは市杵島姫である。
 イザナギ、イザナミの二神の尊は土の神の埴安姫(はにやすひめ)と火の神の火神迦具突智(ほのかみかぐつち)とを御生みに成った。この火土の二神は稚産霊命(わかむすびのみこと)を御生みに成った。頭に桑と蚕を生し、臍の中に五穀が生っていた。この神が蓋し保食神(うけもちのかみ)。天照大神は天上に在して仰せになった。「葦原中国に保食神(うけもちのかみ)がいると聞く。月夜見尊よ、行って見てきなさい」。月夜見尊は詔を受けて、保食神の所へ降りて行かれた。保食神は頭をめぐらして陸に向かえば口から飯を出し、海に向かえば大小の魚が口から出てきた。また、山に向かえば毛皮の動物が口から出てきた。それらの品々を机に並べてもてなした。この時、月夜見尊は憤然として仰せられた。「汚らわしくいやしい。口より吐き出した物で私を持て成すとは」。剣を抜いて撃ち殺した。その後、帰還してその事を復命された。天照大神は大いにお怒りになり、「お前は悪い神である。顔をあわせたくない」と仰られた。月夜見尊と一日一夜を隔てられ住まわれた。
 この後、天照大神は天熊人(あめのくまのうし)を遣わして、様子を見に行かせた。この神の頭に桑と蚕が生じ、馬と牛が目に生じ、黍と粟が胸に生じ、稲種が腹に生じ、臍と尻に麦豆が生じ、ホト(陰部)に小豆麦が生じていた。天熊人はこれらを取り持って去り、大神に奉った。天照大神はお喜びになり、「この物は人民が生きる為に食べるものである」と仰られ、粟・稗・麦・豆・を陸田の種子とし、稲を水田の種子とした。天邑君(あめのむらきみ)を定めて稲の種を始めて天狭田(あめのさだ)及び長田(ながた)植えた。その秋の垂穂は八握ほどに生い茂り、たいそう心地よかった。また、口の中に繭を含み糸を抽く事が出来た。この事が、養蚕の道の始まりである。そして、機織の業を始められた。天照大神の天の垣田(かきた)を御田となされた。また、御田は三ヶ所あり、天安田(あめのやすだ)・天平田(あめのひらだ)・天邑丼田(あめのむらあわせだ)という。皆、良田である。長雨や旱魃があっても損傷する事がなかった。

 スサノウの尊も三ヶ所の田が有った。天杙田(あめのくいた)・天川依田(あめのかわよりだ)・天口鋭田(あめのくちとだ)と云う。皆、痩せ地で有った。雨が降れば流れ日照があれば焦けた。素戔烏尊の行いは非常に悪い行いであった。妬んで姉の田を害う時は春には重ねて種を撒いたり、畦を壊したり、用水路を壊したりした。秋には天班駒(あめのふちこま)を放ったり、縄を引渡したり、櫛を挿したりして、田を害った。また、天照大神が神へ大嘗亦は新嘗の祀りをされている時に新宮の御席の下に放尿したり糞をしたりした。日の神は知らずに席に座られた。その様な事が一日も絶えることが無かった。日の神は、その事をお知りになっても、穏やかな御心を持って、お怒りにならず、お恨みにもならず、お許しになった。
 天照大神が神衣(かむみそ)を織られている斎服殿(いみはたどの)に居られるとき天班駒の生皮を逆剥ぎにして屍骸を穿から投げ入れた。天照大神は驚き梭で身を傷つけられた。一説には織女(おりめ)の稚日姫尊(わかひるめのみこと)が驚き機織より落ちて、持っていた梭で体を傷つけ神去りなされた(お亡くなりになった)。その稚日姫尊は天照大神の妹であった。

 天照大神はスサノウの尊に仰せになった。「汝は尚、悪い心を持っている。汝の顔など見たくない」。天窟(あめのいわや)に入られ、磐戸を閉じてお隠れになった。そのため、高天原は皆、暗闇に覆われた。また、葦原中国もである。六合の内、常闇の世界になり昼と夜の区別が無くなった。萬の神の声は狭蝿のように鳴り、萬の禍が発生する事は常世の国に居る様であった。群神は憂い迷い、手足の置き所を無くした。諸々の事を燭を燃やして行った。
 八百万の神は天の八湍河原(あめのやすのかわら)に集まって、どのように祈り奉るべきか、その方法を相談された。高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の子の思兼神(おもいのかねのかみ)は思慮の知恵が有った。深慮遠謀をもって、「常世の長鳴之鳥(ながなきのとり)を集め、互いに長く啼かせよう」と言われ、集めて鳴かされた。また、日神の象を形作り、招き祈り奉った。また、鏡作りの祖の石凝姥命(いしこりとめのみこと)を工として天八湍河の河上の天堅石(あめのかたしわ)を採取し、真名鹿(まなか)の皮を全て剥ぎ、天羽鞴(あめのはぶき)をつくり、天香山(あめのかぐやま)の銅を採取し、日矛を鋳造した。この鏡は御心に適わなかった。紀伊の国に坐す日前神(ひのくまのかみ)である。

 また、鏡作りの祖の天糠戸神(あめのぬかどのかみ、石凝姥命の子である)を使って、天香山の銅を採取し日の形の鏡を造る。その形は非常に麗しかった。しかし、磐戸に触れて小さな傷がある。この傷は今尚付いている。この鏡は伊勢にお祀りしている天照大神である。所謂、八咫鏡(やたのかがみ)である。またの名を真経津鏡(まふつのかがみ)と云う。

 また、玉作の先祖である櫛明玉神(くしあかるだまのかみ)に八尺瓊之五百箇御統珠を作らせた。櫛明玉神は伊弉諾尊の子である。
 また、天太玉神(あめのふとたまのかみ)に諸々の神を率いて幣帛を造らせた。
 また、麻績(おみ)の先祖の長白羽神(ながしらはのかみ)に麻を植えさせ青和幣(あおにぎぬさ)を作らせた。今、衣を白羽と言うのはこれが始まりである。
 また、津咋見神(つくいみのかみ)に楮を植えさせ白和幣(しらにぎぬさ)を作らせた。一夜にして生い茂った。
 また、粟(阿波)の忌部の先祖の天日鷲神(あめのひわしのかみ)に木綿を作らせた。
 また、倭文(やまとのあや)の遠い先祖の天羽槌雄神(あめのはづちおのかみ)に文布(文字を書く為の布)を織らせた。
 また、天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)に神衣を織らせた。所謂、和衣(にぎたへ)である。爾岐太倍(にぎたへ)とも云う。
 また、紀伊の忌部の遠い先祖の手置帆負神(たおきほおひのかみ)に笠を作らせた。
 また、彦狭知神(ひこさしりのかみ)に盾を作らせた。
 また、玉作部の遠い先祖の豊球玉屋神(とよたまたまやのかみ)に玉を作らせた。
 また、天目一箇神(あめのめひとつのかみ)に刀・斧・鉄(くろかね)の鐸(すず)を作らせた。所謂、佐那岐(さなぎ)である。
 また、野槌神(のづちのかみ)に五百箇野薦八十玉櫛(いほつぬすやのやそたまくし)を探させた。
 また、手置帆負・彦狭智の二神に天御量(あめにみはかり)で大小の量り、雑器の類の名を言わせ、また、大小の谷の材木を伐り瑞殿(みづのあらか)を作らせた。
 また、山雷神(やまづちのかみ)に天香山の五百箇真賢木(いおつまさかき)を掘らせ、上の枝に八咫鏡を掛けさせ、中ほどの枝には八尺瓊之五百箇御統之玉を掛けさせ、下の枝には青和幣・白和幣を掛けさせた。おおよそ、種々の諸物を儲ける事は具に謀ったようであった。
 また、中臣の先祖の天児屋命(あめのこやねのみこと)と忌部の先祖の天太玉命に天香山の真牡鹿(まなか)の肩を取り出し、天香山の天波波迦(あめのははか)を取って占わせた。
 また、手力雄命(たぢからおのみこと)を磐戸の脇に隠れさせた。
 また、天太玉命に捧げ称える文を述べさせ、天児屋命に助けさせ祈りを捧げさせた。
 また、天太玉命に広く厚く称える祝詞を唱えさせた。「私の持っている鏡は麗しい事は大神のようであります。戸を開けてご覧になってください」。
 天の太玉命、天の児屋命が共に祈っていた時、天の鈿賣命(あめのうずめのみこと)は天の香山の真坂樹(まさかき)を鬘とし、天の香山の天の日蘿(あめのひかげ)を襷にし、天香山の小竹葉(ささのは)を手草とし、手に鈴を付けた矛を持ち、天石窟戸(あめのいわやと)の前に庭火をあげて、巧みに踊った。かがり火を焚き桶を伏せて上に載り、神がかりをしたように話、胸乳をかき出だし露にし裳の紐を陰部まで押し下げたらした時、高天原の八百万の神はこぞって笑った。 

 この時、天照大神は心中独りごちて仰せられた。「このごろ、私が籠もっている為、天下は皆暗く、葦原中国は長い夜が続いているのに、どうして天鈿賣命は楽しげに笑い、八百万の神たちは大笑いするのであろう」。非常に不思議に怪しんで、磐戸を細めに開けお問いになった。天鈿賣命が答えて申しあげた。「あなた様より高貴な神が来られた為、みな喜んでいるのです」。天太玉命、天児屋命が鏡を差し出し、天照大神に見せられた。天照大神は愈々怪しみ、磐戸をもう少し細めに開け、覗き見られた。手力雄命が手を差し出し、扉を引き開き新しい宮に移させた。天児屋命、天太玉命は後ろに御綱縄(みつな)を廻らし境界とし、注連(しめ)縄をした。
 天照大神のみ前に大宮賣神(おおみやめのかみ)を侍らせた。天太玉命は久志備(くしび)に生まれた神である。今の世の内侍の美しい祝詞で、君臣の間を和らげ宸襟を喜ばせる使命を持っている。また、豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)、櫛磐間戸命(くしいわまどのみこと)の二神に御門を守衛させた。天太玉命の児である。天照大神は天窟を従って出た時、高天原と葦原中国は光を得ることが出来た。この時、始めて晴れ渡った。「ああ晴れた。ああ嬉しい、ああ楽しい、ああ爽やかだ、」と言いあった。二神の神は共に「もう、お戻りになりませんように」と天照大神にお願いされた。

 八百万の神は議論し罪過をスサノウの尊に告げて千座の置戸を科し供物を取り立てた。また鬚を抜き爪を抜いて罪をあがなわせた。また、手の爪をよき供え物とし、足の爪をあしき供え物とした。また、唾を白和幣とし、よだれを青和幣とした。天児屋命に祓いの祝詞をあげさせた。世の人が自分の爪を大事にし、他人に渡らないようにするのはこれが始まりである。

 諸々の神はスサノウの尊を責めて云った。「お前の行いは非常に悪い。天上に住んではならない。また、葦原中国に住んでもならない。速やかに底根(そこつね)の国に行きなさい」。こうして、高天原から追放した。

 スサノウの尊は高天原から降るとき、大御食都姫神(おおみけつひめのかみ)に食物を乞うた。大御食都姫神は鼻、口、尻から種々の味覚を取り出し、種々の楽具を勧めた。素戔烏尊はその仕業を立って伺い、汚らわしい物を勧めたと言うことで大御食都姫神を殺した。殺された神の体から物が生じた。頭に蚕が生じ、目に稲種が生じ、耳に粟が生じ、鼻に小豆が生じ、ホトに麦が生じ、尻に大豆が生じた。神皇産霊尊(かみむすびのみこと)はこれを取るように指示し、種となされた。

 スサノウの尊は降り去られた。時に長雨が降っていた。素戔烏尊は束を青草で結い笠蓑とし、宿を諸神に乞われた。諸神は拒絶した。「お前は悪い事をしたので、追放されたのである。なぜ私に宿を乞うのだ」。雨風が激しくなっても留まり休むところが得られなかった。そして、辛苦に喘ぎながら降りられた。これ以降、笠蓑を着て他人の家に入る事を嫌うのである。また、束草を負い他人の家に入る事を嫌うのである。諱を犯す者は必ず、祓って償う。これは古より残れる決まりである。素戔烏尊は日の神に申しあげて仰せになった。「私が昇ってきたのは、諸神が私を根の国に追いやったからである。去り行く前にお姉様に挨拶をせずに去る事が出来ないからである。真に清い心で上って来たのです。今、それが適ったので、諸神の言う通りに永く根の国に行きます。お姉さまが天国を照らされ、平安に居られますように、願っています。我が清い心で生んだ子供をお姉さまに捧げます」。といって還り降りていかれた。
 大日靈貴。またの名は天照大神と云う。またの名は、天照大日靈尊と云う。またの名は大日靈尊と云う。高天原に居られ、高天原を統治されている。月夜見尊。またの名は月讀尊と云う。またの名は月弓尊と云う。日の神に配され、天地を治められている。また、滄海原と潮の八百重を治められている。また、夜の国を治められている。素戔烏尊。またの名は神素戔烏尊と云う。またの名は建素戔烏尊と云う。またの名は速素戔烏尊と云う。滄海原を統治されている。また、天下を治められている。

 また、豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)と櫛磐間戸命(くしいわまどのみこと)の二神に、御殿の門を守らせた。この二神はともに天太玉命の子である。

 天照太神が天の岩屋から出られたために、高天原と葦原の中国は、自然と日が照り明るくなることができた。そのときになって、天ははじめて晴れた。「あはれ」といったその意味は、天が晴れるということである。「あなおもしろ」は、古語に事態が最高潮に達したことを、すべて「あな」といい、神々の顔が明るく白くなったため「おもしろ」というのである。「あなたのし」は、手を伸ばして舞うことである。今、楽しいことを指して、「たのし」というのはこの意味である。「あなさやけ」は、笹の葉の「ささ」と鳴る音がその由来である。「おけ」は、木の名前か。その葉を揺り動かすときの言葉である。そうしてすぐさま、天太玉命と天児屋命の二神は申しあげていった。「もう、天の岩屋にはお戻りになりませんように」。





(私論.私見)