ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)40

 (最新見直し2011.12.25日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)40、アツタ神世を辞む紋」を説き分ける。原文は和歌体により記されている。「」、「」、「ホツマツタエの解読を楽しむ40綾40綾、「40 熱田神(あつたかみ)世を辞(いな)むアヤ」その他を参照しつつ、れんだいこ訳として書き上げることにする。ホツマツタヱ最終綾で、景行天皇は我が息子「ヤマトタケ」に先立たれ、「ヤマトタケ」を熱田神として祀る。その後、景行天皇が「ヤマトタケ」の東征で平定(むけ)した国々を巡った記述で終わっている。

 2009.3.19日 れんだいこ拝


【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)40、熱田神世を辞む文】
 ヤマトタケ 白鳥の挽歌
 あつたかみ よおいなむあや      熱田神 世を辞む文
 まきむきの ひしろのこよみ よそひはる      纏向の 日代の暦 四十一年春 
 やまとたけきみ きそちより     ヤマトタケ君 木曽方より 
 いたるおはりの たけとめか      至る尾張の タケトメが 
 まこのむらしの いゑにいる   孫の連の 家に入る 
 つまみやすひめ みやこより      妻宮津姫 都より 
 おくりてちちか ゐゑにまつ     送りて父が 家に待つ 
 いまきみここに つきおこす     今君ここに 月を越す 
 きみのたまはく        君曰(のたまわ)く  
 さかおりの みやはむかしの はらのみや なおなからえり 「サカオリの 宮は昔の ハラの宮 なお永らえり
 わかねかひ うつしてひめと たのしまん  我が願ひ 遷して姫と 楽しまん」 
 むらしもうさく       連申さく 
 とみゆきて ゑかきうつさん  「臣行きて 描き写さん」
 きみゑゑす  君愛笑す
 むらしくたりて さかおりの     連下りて サカオリの 
 みやおくわしく ゑにうつし      宮を詳しく 絵に写し 
 かゑことすれは やまとたけ   返言すれば ヤマトタケ 
 あらふるかみの あるおきき     荒ぶる神の あるを聞き 
 つるきときおき かろんして 剣解き置き 軽んじて 
 いたるかみちに にきてなく     至る神路に 和幣(にぎて)なく
 ゆきすくみちに いふきかみ  行き過ぐ道に 息吹神 
 をおろちなして よこたわる     大オロチなして 横たわる 
 かみとはしらす やまとたけ  神とは知らず ヤマトタケ 
 おろちにいわく  オロチに曰く 
 これなんち あれかたかみの つかひなり         「これ汝 あれかた神の 使ひなり 
 あにもとむるに たらんやと  あに求むるに 足らんや」と 
 ふみこえゆけは いふきかみ    踏み越え行けば 息吹神
 つららふらして かおうはふ     氷柱(つらら)降らして 光(か)を奪ふ 
 しいてしのきて おしあゆみ      強いて凌ぎて 押し歩み 
 わつかいてゆく こころゑひ     僅か出で行く 心酔ひ 
 もゆることくに あつけれは      燃ゆる如くに 熱ければ 
 いつみにさます さめかゐや      泉に冷ます 冷が井や 
 みあしいたむお ややさとり      御足傷むを やや悟り 
 おはりにかえり みやつめの     尾張に帰り 宮津姫の 
 ゐゑにいらすて いせのみち     家に入らずて 伊勢の道 
 おつのひとまつ これむかし ほつまくたりの        尾津の一松 これ昔  
 ほつまくたりの みあえとき     ホツマ下りの 御饗(みあえ)時 
 ときおくつるき まつのねに     解き置く剣 松の根に 
 おきわすれしか なからえり     置き忘れしが 永らえり 
 かれにあけうた    故に上げ歌(捧歌・讃歌)
 おわすれと たたにむかえる ひとつまつ  「置忘れど 直(ただ)に迎える (そのままに) 一つ松 
 あはれひとまつ ひとにせは     あはれ一松 人にせば 
 きぬきせましお たちはけましお      衣着せましを  太刀佩けましを」
 いささかに なくさみゆけと あしいたみ    伊坂(いささか)に 慰み行けど 足傷み  
 みゑにまかれは みゑむらそ    三重に曲がれば 三重村ぞ
 つゑつきさかも ややこえて    杖つき坂も やや越えて 
 のほのにいたみ おもけれは    のほのに傷み 重ければ
 とりこゐたりお うちにやり    虜五人を  宇治に遣り
 かしまみことの そえひとそ    鹿島命の 添人ぞ  
 きひたけひこは みやこちえ     吉備タケヒコは 都方へ  
 のほせもふさく そのふみに        上せ申さく その文に 
 はなひこもふす とみむかし  「花彦申す 臣昔 
 みことおうけて ほつまうち 御言を受けて ホツマ討ち 
 あめのめくみと いつにより    天の恵みと 稜威により
 あらふるかみも まつろえは  荒ぶる神も 服えば
 ふつくをさめて いまここに     悉く治めて  今ここに
 かえれはいのち ゆふつくひ    帰れば命 夕付く日 
 こひねかわくは いつのひか みことかえさん 乞ひ願わくは 何時の日か 御言返さん 
 のにふして たれとかたらん     野に臥して 誰と語らん 
 おしむらく まみゑぬことよ あめののりかな      惜しむらく ま見えぬことよ 天の法かな」
 ふみとめて きみいわくわれ    文留めて 君曰く「我
 きつおむけ ことなれはみお ほろほせる     東西を平け 事成れば身を 滅ぼせる
 かれらやすます ひもなきと   僕等休ます 日もなき」と
 なつかはきして はなふりお みなわけたまひ     ナツカハギして 花降りを 皆分け賜ひ
 うたよめは    歌詠めば
 あつたのかみと はやなると    「熱田の神と 早なる」と   
 ゆあみはおかえ さにむかひ    湯浴み衣を替え 南に向ひ
 ひとみいなむの うたはこれそと     人身辞(いな)むの 歌はこれぞと 
 あつたのり  熱治宣
 いなむとき きつのしかちと たらちねに  「辞む時 東西の使人と 父母(たらちね)に  
 つかえみてねと さこくしろ   仕え満てねど サコクシロ 
 かみのやてより みちうけて   神の八手より 道受けて  
 うまれたのしむ かえさにも    生れ楽しむ 還さにも  
 いさなひちとる かけはしお  誘ひちどる 懸梯(かけはし)を 
 のほりかすみの たのしみお     登り霞の 楽しみを 
 くもゐにまつと ひとにこたえん    雲居に待つと 人に答えん」
 ももうたひ なからめおとち かみとなる      百歌ひ ながら眼を閉ぢ 神となる 
 なすことなくて いとなみす うたはおはりえ      為すことなくて 営みす 歌は尾張へ
 
 きひのほり ふみささくれは     吉備上り 文捧ぐれば
 すへらきは ゐもやすからす あちあらす      天皇は 気も安からず 味あらず 
 ひめもすなけき のたまわく      終日(ひめもす)嘆き 曰く 
 むかしくまそか そむきしも     「昔熊襲(くまそ)が 背きしも 
 またあけまきに むけえたり     まだ揚巻に 平け得たり
 まてにはへりて たすけしに    左右に侍りて 助けしに 
 ほつまおうたす ひとなきお    ホツマを討たす 人なきを      
 しのひてあたに いらしめは     忍びて仇に 入らしめば     
 あけくれかえる ひおまつに     明け暮れ帰る 日を待つに     
 こはそもなんの わさはひそ    こはそも何の 禍ぞ        
 ゆくりもなくて あからめす  縁もなくて 天から召す     
 たれとみわさお をさめんや  誰臣御業を 治めんや」     
 もろにのりして かみおくり             諸に宣して 神送り
 ときにおもむろ なるいとり               時に骸 なる斎鳥    
 いつれはもろと みささきの    出づれば諸と 御陵の       
 みひつおみれは かんむりと     御棺を見れば 冠と        
 さくとみはもと ととまりて    笏と御衣裳と 留まりて 
 むなしきからの しらいとり     空しき殻の 白斎鳥       
 おひたつぬれは やまとくに    追ひ尋ぬれば ヤマト国       
 ことひきはらに おはよえた     琴弾原に 尾羽四枝      
 おきてかわちの ふるいちに    置きて河内の 古市に       
 またよはおつる そこここに   また四羽落つる そこここに     
 なすみささきの しらとりも     なす御陵の 白鳥も       
 つひにくもゐに とひあかる    遂に雲居に 飛び上る      
 おははあたかも かみのよの よはきしそこれ  尾羽は恰も 神の世の 世掃しぞこれ      
 きつもみな たせはまかれる あめのりそ     東西(きつ)も皆 治せば罷れる 天法ぞ     
 このきみひしろ すへらきの               この君日代 天皇の
 ふのみこははは いなひひめ    二の御子母は 稲日姫
 しはすのもちに もちつきて    十二月の十五日に 餅つきて
 もちはななして ふたこうむ    餅花なして 双子生む
 をうすもちひと とはこうす   ヲウスモチヒト 弟はコウス
 はなひこもこれ あめのなそ    花彦もこれ 天の名ぞ
 ひとなるのちに くまそまた     人なる後に 熊襲また
 そむけはこうす ひとりゆき     背けばコウス 一人行き
 おとめすかたと なりいりて     乙女姿と 成り入りて
 はたのつるきて むねおさす     肌の剣で 胸を刺す 
 たけるしはしと ととめいふ なんちはたれそ      タケル「しばし」と 止め言ふ 「汝は誰ぞ」
 われはこれ いさすへらきの このこうす      「我はこれ いざ天皇の 子のコウス」
 たけるかいわく やまとには     タケルが曰く 「ヤマトには
 われにたけたは みこはかり     我に長けたは 御子ばかり 
 かれみなつけん ききますや      故御名付けん 聞きますや」 
 ゆるせはささく やまとたけ     許せば捧ぐ ヤマトタケ
 みこなおかえて うちをさむ あめのほまれや     " 御子名を代えて 討ち治む 天の誉れや  
 やまとたけ いますのまこの     ヤマトタケ イマスの孫の  
 たんやかめ ふたちいりひめ           タンヤが女 フタヂ入姫  
 うむみこは いなよりわけの たけひこと     生む御子は 稲ヨリワケの 武彦と
 たりなかひこの かしきねと         タリナカ彦の カシキネと
 ぬのおりひめと わかたけそ           布オリ姫と ワカタケぞ
 きひたけひこか あなとたけ        吉備武彦が アナトタケ 
 うちつまにうむ たけみこと ときわけとなり            内妻(うちづま)に生む 武御子と トキワケとなり
 おしやまか おとたちはなお すけつまに    オシ山が 弟橘を スケ妻に 
 わかたけひこと いなりわけ           ワカ武彦と 稲入ワケ
 あしかみかまみ たけこかひ       アシカミカマミ 武コカヒ
 いきなかたわけ ゐそめひこ いかひこらうむ           イキナカタワケ ヰソメヒコ 伊賀彦等生む
 おはりかめ みやつひめまた     尾張が女 宮津姫また
 のちのつま たけたとさえき     後の妻 武田と佐伯
 ふたりうむ そよをひめあり     二人生む 十四男一女あり
 さきのつま みなかれいまは みやつひめ    先の妻 皆枯れ今は 宮津姫 
 ひとりあわんと はらみより         一人会わんと 原見より
 こころほそくも かけはしお         心細くも 懸梯を
 しのきのほれは みやつひめ               凌ぎ上れば 宮津姫
 ねまきのままに いてむかふ      寝巻のままに 出で迎ふ 
 ひめのもすそに つきをけの        姫の裳裾に 月汚血の 
 しみたるおみて やまとたけ みしかうたして          染みたるを見て ヤマトタケ 短歌して 
 ひさかたの あまのかくやま    「久方の 天の香久山
 とかもより さわたりくるひ     遠離方より 岨渡り来る日
 ほそたはや かひなおまかん     細嫋(たわや) 腕(かいな)を巻かん
 とはすれと さねんとあれは おもえとも      とはすれど 添ねんとあれば 思えども 
 なかきけるその つきたちにけり       汝が着ける裾の 月立ちにけり」
 ひめかえしうた           姫返し歌
 たかひかる あまのひのみこ やすみせし    「高光る 天の日の御子 安みせし 
 わかおほきみの あらたまの          我が大君の 新玉の 
 としかきふれは うへなうへな           年が来ふれば 宜(う)べな宜べな 
 きみまちかたに わかきける         君待ち難に 我が着ける
 おすひのすそに つきたたなんよ          襲(おすひ)の裾に 月立たなんよ」
 やまとたけ おはよりたまふ むらくもお     ヤマトタケ 叔母より賜ふ ムラクモを 
 ひめかやにおき いふきやま             姫が家に置き 伊吹山
 かえさのいせち いたはれは             帰さの伊勢道 労われば 
 みやこおもひて かえりいせちに いたむとき 都思ひて 帰り伊勢道に 傷むとき 
 やかたおうたひ          館を歌ひ 
 はしきやし わきへのかたゆ くもいたちくも  「愛(は)しきやし 我家の方ゆ 雲出立ち雲」  
 のこしうた   遺(のこ)し歌 
 みこやうからに おりあいの 「御子や親族に 居り合いの
 つすはやかたて いてたつは         十九(つす)は館で 出で立つは
 たひやにあえる まろひとと まよひのこさぬ 旅屋に会える 客人(まろびと)と 迷ひ残さぬ」
 さとしうた     諭(さと)し歌
 ふかきこころの みちひきそこれ  「深き心の 導きぞこれ
 のほのにて かみなるときに     能褒野にて 神なる時に」
 のこしうた   遺し歌 
 みやつひめえと あいちたの     「宮津姫へと 愛知田の 
 おとめかとこに わかおきし 乙女が床に 我が置きし
 いせのつるきの たちわかるやわ         伊勢の剣の 断ち別(わか)るやわ」
 このわかは いもせのみちは     この和歌は 妹背の道は
 つらなりて たちわかるれと     連なりて 断ち別るれど
 つりのをは きれはせぬそと     連りの緒は 切れはせぬぞと
 みちひきお たつるあめのり     導きを 立つる天法
 みやすひめ もたえたえいり ややいけり     宮津姫 悶え絶え入り やや生けり
 ちちははらみの ゑおうつし         父はハラミの 絵を写し 
 みやこにのほり わかみやの         都に上り 若宮の
 ねかひのままお もうしあけ            願ひのままを 申し上げ 
 あいちたにたつ みやなりて        愛知田に建つ 宮成りて
 わたましこえは みことのり          渡座し請えば 詔
 たたねこいはふ さをしかと むらしかふとの            「タタネ子祝ふ 直御使人(さをしかと) 連神殿(むらしかふとの)  
 みこたちお みゆきのそなえ おこそかに        御子達を 御幸の供え 厳かに   
 ことひきはらの みささきに おちしおはよつ           琴弾原の 御陵に 落ちし尾羽四つ 
 ふるいちの おはよつともに もちきたり         古市の 尾羽四つ共に 持ち来たり 
 のほののかふり さくみはも        能褒野の冠 笏御衣裳  
 みたまけにいれ しらみこし       御霊笥に入れ 白神輿
 ひしろよそよほ やよひそひ          日代四十四穂 三月十一日  
 たそかれよりそ みこしゆき       黄昏よりぞ 神輿行き  
 のほのおひかし もろつかさ かたむたひまつ          能褒野(のほの)を東 諸司 掲む松明
 さきかりは さかきにふそり そえかふと             先駆は 榊に二十人 副神人  
 さるたひこかみ みかほあて  猿田彦神 御顔当て  
 かふとやたりは やもとはた     神主八人は 八元幡
 おおかふとのは かむりみは     大神殿は 冠御衣
 みはしらもちて とみやたり     御柱持ちて 臣八人 
 おしやますくね かふりみは    オシ山宿禰 冠御衣
 よはきしもちて とみむたり     世掃し持ちて 臣六人 
 きひたけひこも おなしまえ    吉備武彦も 同じ前
 おおたんやわけ かふりみは            オオタンヤワケ 冠御衣  
 つるきささけて とみそたり         剣捧げて 臣十人  
 みこしあおほひ をさのとみ いえはとみそり          神輿天覆ひ 長の臣 家侍人三十人
 みをすえは きぬふたなかれ よたけやた     御緒末(みおずえ)は 絹二流れ 四丈八尺
 みこみをすえに すかりゆく           御子御緒末に 縋り行く 
 あまてるかみの のこるのり       天照神の 遺る法 
 いわひさをしか とみそふり      祝ひ直御使 臣十二人
 つきみゆきもり もろつかひ みなおくりゆく         次御幸守 諸使ひ  皆送り行く
 よなかまて かくむよいたり     夜中まで かく六夜至り
 はらみやの おほまのとのに みこします      原宮の オホマの殿に 神輿坐す
 よにますことく みやすひめ              世に在す如く 宮津姫 
 きりひのかゐお もるひらへ         切り火の粥を 盛る平瓮(ひらべ)
 いたたきさきに いりまちて         頂き先に 入り待ちて 
 みまえにそなえ もうさくは         神前に供え 申さくは
 このみけむかし いふきより かえさにささく              「この御食(みけ)昔 伊吹より 帰さに捧ぐ
 ひるめしお みつからかしき まちおれと    昼飯を 自ら炊ぎ 待ち居れど 
 よらてゆきます ちちくやみ           寄らで行きます 千々悔み 
 いままたきます きみのかみ       今また来ます 君の神    
 むへうけたまえ ありつよの        むべ受け給え 在りつ世の  
 あひちたにまつ きみかひるめし        愛知田に待つ 君が昼飯」
 みたひのり いさよふつきの ほからかに      三度宣り 十六夜月の 朗ら光に 
 しらいとりきて これおはみ         白斎鳥来て これを食み 
 なるしらくもに かみのこえ         なる白雲に 神の声 
 こたふつつうた           応ふ十九歌
 ありつよの はらみつほしき ちりおひるめし    「在りつ世の 腹満つ欲しき 霊在(ちり)を昼飯」  
 くしひるお まことにおそれ おかみさる    奇日霊(くしひる、天照大神)を 真(まこと)に畏れ 拝み去る
 おほまとのより みやうつし         オホマ殿より 宮遷し
 さをしかにきて みことあけ            直御使和幣 御言上げ   
 このときをしか たたねこと       この時御使 タタネ子と  
 おはりむらしと にいはらの        尾張連と 新原の 
 おほまのかみと なつくなり         オホマの神と 名付くなり
 かみおくるとき よおいなむ         神送る時 世を辞む
 ちりひるめしと のこるなり             散り昼飯と 遺るなり
 いせにそえいる ゑそゐたり                伊勢に添え入る 蝦夷五人 (津軽陸奥の国造5人) 
 いやまいあらす やまとひめ         敬いあらず ヤマト姫
 とかめみかとえ すすめやる         咎め御門へ 進め遣る 
 みもろにおけは ほともなく    御諸に置けば 程もなく    
 きおきりたみお さまたける      木を伐り民を 妨げる  
 きみのたまわく     君曰く  
 ゑみしらは ひとこころなく   「蝦夷等は 人心なく  
 おきかたし ままにわけおく        置き難し ままに分け置く」
 はりまあき あはいよさぬき さえきへそ       播磨安芸 阿波伊予讃岐 佐伯部ぞ
 よそむほのはる ななくさの              四十六穂の春 七種の  
 みあえにうたの ひかすへる             御饗に歌の 日数経る
 わかたりひこと たけうちと       ワカタリ彦と 竹内と 
 うちにまいらす かれめして とえはもふさく       内に参らず 故召して 問えば申さく
 えらくひは あそひたわむれ ことわする  「愉(え)らく日は 遊び戯れ 子と忘る
 くるえとあらは うかかはん     狂え人あらば 窺はん 
 かれにみかきお まもりおる    故に御垣を 守り居る」  
 きみきこしめし いやちこと あつくめくみて       君聞こし召し 「いやちこ」と 篤く恵みて 
 はつきよか わかたりひこお よつきみこ           八月四日 ワカタリ彦を 世嗣御子
 たけうちすくね むねのとみ       竹内宿禰(すくね) 棟の臣
 みことたけうち おなひとし           御子と竹内 同ひ年
 ゐそふほさつき すえやかに              五十二穂五月 二十八日に 
 きさきいらつめ かみとなる         后イラツ姫 神となる  
 みおくりのりは あつたのり        神送り法は 熱田法 
 おほたんやわけ みけかしき          オホタンヤワケ 御食炊ぎ  
 ちりひるめしと もるひらて        霊在(ちり)昼飯と 盛る平皿
 ぬのおしひめに いたたかせ          ヌノオシ姫に 頂かせ     
 そふたんやわけ さきかりに      添ふタンヤワケ 先駆に   
 つきはひめみこ すけうちめ        次は姫御子 スケ内侍  
 おしもあおめら みそりそふ         乙侍青侍ら 三十人添ふ  
 つきもともとの やいろはた      次元々の 八色幡
 かみのとよそや わけそめて           神祝詞四十八 分け染めて
 きひのいゑとみ もちならふ     吉備の家臣 持ち並ぶ
 たてものくもに かけはしと かすみにちとり           奉物雲に 懸梯と 霞に千鳥   
 きひはりま ゑとのたけひこ         吉備播磨  兄弟のタケヒコ 
 よはきしお まてにならひて        世掃しを 左右に並びて 
 みはしらは うちみやのとみ みこしまえ         御柱は 内宮の臣 神輿前
 みこはみをすえ をしかとは      御子は神緒末(みをすえ) 御使人は
 うつしひのおみ こしにのる もろおくりけり         写し日の臣 輿に乗る 諸送りけり 
 あふみなか やさかいりひめ うちつみや       七月七日 八坂入姫 内つ宮
 ゐそみほほつみ みことのり              五十三穂八月 詔
 かえりおもえは やむひなし          「返り思えば 止む日なし
 こうすかむけし くにめくり          コウスが平けし 国巡り
 なさんといせに みゆきなり            なさん」と伊勢に 御幸なり  
 おはりつしまに いたるとき           尾張津島に 至る時  
 むらしむかえは このことく       連(尾張連) 迎えば 子の如く
 ともにおほまの みやにいり           共にオホマの  宮に入り
 みつからつくる にきてたて             自ら作る  和幣立て
 いわくをやこの ゆくりなふ        曰く「親子の 縁なふ (交わりなく)   
 わかれあわねは わすられす        別れ会わねば 忘られず  
 みつからきたり にきてすと     自ら来たり 和幣すと
 ややひさしくそ いたましむ         やや久しくぞ 悼ましむ  
 そのよのゆめに つしまもり       その夜の夢に 津島杜  
 しらいとりなる やまとたけ       白斎鳥現る ヤマトタケ
 いわくををかみ そさのをに          曰く大神 ソサノヲに 
 いわくいかんそ くにのそむ           曰く「如何んぞ 国望む」 
 あめのりなせは くにのかみ        天法なせば 国の神 
 をしえのうたに あめかした            教えの歌に 「天が下 
 やわしてめくる ひつきこそ  和して廻る 日月こそ 
 はれてあかるき たみのたらちね      晴れて明るき 民の父母」
 これとけす つみにおつるお     これ解けず 罪に落つるを
 いふきかみ ひきてかみとす     息吹神 率きて神とす
 ににきねは このこころもて     ニニキネは この心以て
 ほつまゑて あまきみとなる     ホツマ得て 天君となる
 うらやみて かりのをやこそ     羨みて 仮の親子ぞ
 みことうけ きつむけかえる     御言受け 東西平け還る
 かみしつか まみえてほそち     神静か 見えてほそち
 あつさたす たらちのめくみ うまさるや     熱さ治す 父母の恵み 倦まざるや
 おりかそえうた         折り数え歌
 わかひかる はらみつにしき あつたかみ      「我が光る 晴みつ錦 熱田神 
 もとつしまはに おれるかひかわ          元つ島衣に 復れるか永川」
 みたひのへ しつのすかたに     三度宣べ 賎の姿に
 くもかくれ きみさめいわく     雲隠れ 君覚め曰く
 かみのつけ われはいやしき ひかわかみ       「神の告げ 我は賎しき 永川神 
 もとにかえると めくみこる      元に返ると 恵み凝る
 まよひおさとす しめしなり   迷いを諭す 示しなり
 むかしいわくは ひとはかみ かみはひとなり           昔曰くは 人は神 神は人なり  
 なもほまれ みちたつのりの 名も誉れ 満ち逹つ典の (成長発展の目標・模範である)
 かみはひと ひとすなほにて     神は人 人素直にて
 ほつまゆく まことかみなり     ホツマま行く 真神なり」
 つけにより なもあつたかみ     告げにより 名も熱田神
 みやすひめ いつきにくらへ     宮津姫 斎宮(いつき)に比べ
 かんぬしも みやつかさなみ     神主も 宮司並み
 あつまちえ ゆけはさかむに みあえなす     東路へ 行けば相模に 御饗なす
 ましてしおかみ なきいわく          マシテシ拝み 泣き曰く 
 ひめほろほして まみえゑす         「姫滅ぼして まみえ得ず」
 きみもなんたに とらかしは        君も涙に トラガシハ   
 さかきみすかた たてまつる      榊御姿 奉る   
 きみみたまえは やまとたけ          君見給えば ヤマトタケ
 いけるすかたに あふことく           生ける姿に 会ふ如く    
 ひとたひあいて よくにたる      「一度会いて 良く似たる」
 かれはめくろと そのさとお       故は目黒と その里を   
 なつけたまわる  かみすかた        名付け賜わる 神姿  
 おほやまみねに やしろなす            大山峰に 社なす
 みふねかつさえ あほのはま              御船上総(かづさ)へ 安房の浜 
 みさこゑはむお たみにとふ         鶚(みさこ)餌食むを 民に問ふ
 あれはうむきと しつかはむ               「あれは海蛤(うむき)と 賎(しづ)が食む
 なますもよしと むつかりか     膾(なます)も好し」と ムツカリ(六雁)が
 かまたすきして とるうむき           蒲襷(かまたちき)して 獲る海蛤(うむき) 
 なますになして すすむれは          膾になして 勧むれば 
 かしはともへと なおたまふ       膳伴部(かしわともべ)と 名を賜ふ
 おほひこのまこ いわかなり           大彦の孫 イワカなり
 かしまかくらの ししまひお とえはときひこ  鹿島神楽の 獅子舞を 問えば時彦
 これむかし いよにわたりて  ししはむお      「これ昔 伊予に渡りて 獣食むを
 つちきみとりて たてまつる        地君(つちきみ)捕りて 奉る」
 きみたのしみの かくらしし           君楽しみの 神楽獅子
 やよろかしまに あるかたち           弥万(やよろ)鹿島に ある形
 さわりなかれと もてあそふ            障りなかれと 弄ぶ 
 さるたのかみの なにしあふ            猿田の神の 名にし負ふ
 しはすにのほり いせのくに                十二月に上り 伊勢の国
 いろとのみやに おわします         愛妹の宮に 御座します 
 ゐそよほなつき みそかには         五十四穂九月 三十日には
 ひしろのみやに かえりますかな           日代の宮に 帰りますかな
 このときに みわのたたねこ みよのふみ     この時に 三輪のタタネ子 御代の文
 あみてかみよの ほつまちと            編みて上代の ホツマ道と
 よそあやなして くになつに       四十綾なして クニナツに
 しめせはたかひ みかさふみ         示せば互ひ 三笠紀
 みはえしめして あいかたり          見映え示して 合い語り 
 あらたにそめて ふたやより あけたてまつる         新たに添めて 二家より 上げ奉る  
 このふみは むかしものぬし みことのり     この文は 昔物主 詔
 うけてつくりて あわみやに           承けて作りて 阿波宮(琴平宮)に
 いれおくのちの よよのふみ             入れ置く後の 代々の文
 まちまちなれは みんひとも       まちまちなれば 見ん人も  
 あらかしめにて なそしりそ           予めにて な謗りそ  
 ももちこころみ はるかなる    百千試み 遥かなる
 おくのかみちえ まさにいるへし          奥の神道(かみち)へ まさに入るべし
 ときあすす やもよそみほの あきあめか     時天鈴 八百四十三穂の 秋天日
 これたてまつる みわのとみ    これ奉る 三輪の臣
 すゑとしおそれ つつしみてそむ     スヱトシ畏れ 謹みて添む

【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)40、アツタ神世を辞む文】
 熱田神 世を辞む文
 「纏向の 日代の暦 」、「四十一年春 ヤマトタケ君」、「木曽方より 至る尾張の タケトメが」、「孫の連の 家に入る」、「妻宮津姫 都より」、「送りて父が 家に待つ」、「今君ここに 月を越す」、「君宣給わく 酒折(さかおり)の」、「宮は昔の ハラの宮 なお永らえり」、「我が願ひ 移して姫と 楽しまん」、「連申さく 臣行きて 絵描き写さん」、「君愛笑す」、「連下りて サカオリの」、「宮を詳しく 絵に写し」。
 景行天皇朝御世の纏向(まきむき、奈良県桜井市)の日代の41年の春(新年)、ヤマトタケの君は木曽路より尾張にたどり着き、タケトメ(たけひてるの息子)の孫の連(むらじ)の館(現在の熱田神宮)に滞在した。妻の宮づ姫は都(纏向)よりヤマトタケを美濃まで送った後、実家で待ち続けていた。このたびは君はこの館で一月以上滞在した。君が宣(のた)まうには、「酒折(さかおり)の宮は昔のハラの宮(蓬莱宮:天照大神が生まれた所)で今に続いている。我が願いは、宮をこちらに移して、姫(宮簀姫)と一緒にこの地で楽しく住みたいものだ」。連(むらじ)が申した。臣(とみ、大臣)が「現地に行って館を写生してきます」。君は喜んだ(ゑゝす)。早速、連(むらじ)は出向いて行き、酒折の宮を詳しく写生して持ち帰った。
 「返言すれば ヤマトタケ」、「荒ぶる神の 現るを聞き」、「剣解き置き 軽んじて」、「至る神方に 和幣(にぎて)なく」、「行き過ぐ道に 息吹神」、「大オロチ成して 横たわる」、「神とは知らず ヤマトタケ」、「オロチに曰く これ汝」、「あれかた神の 使ひなり」、「あに求むるに 足らんやと」、「踏み越え行けば 息吹神」、「氷柱(つらら)降らして 明を奪ふ」。
 ヤマトタケは、荒ぶる神がいるとの知らせを聞き、軽率にも剣を持たないで(解き置いたままで)神路(伊吹山)に入った。(この剣こそ先祖神のソサノオノ命(素戔鳴命)が八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から取り出したアメノムラクモノ剣(天叢雲剣)で、蝦夷(えみし)が放った野火から守り、クサナギノツルギ(草薙剣)と名を変えた守護の剣である) 和幣(にぎて)も持っておらず、行過ぎてしまった道に、伊吹神が大オロチに化けて横たわっていた。オロチが神とは知らぬヤマトタケは、オロチに向かって言い放った。「これ汝、お前はどうせ荒ぶる神の召使だろう。どうせ取るに足りないだろう」。踏み越えていくと、伊吹神が氷柱(つらら)を降らして。光を奪い行き手を遮った。
 「強いて凌ぎて 押し歩み」、「僅か出で行く 心酔ひ」、「燃ゆる如くに 熱ければ」、「泉に冷ます 冷が井や」、「御足傷むを やや悟り」、「尾張に帰り 宮津姫の」、「家に入らずて 伊勢の道」、「尾津の一松 これ昔」、「ホツマ下りの 御饗(みあえ)時」、「解き置く剣 松の根に」、「置き忘れしが 永らえり」、「故に上げ歌 」、「置忘れど 直に迎える (そのままに) 一つ松」、「 あはれ一松 人にせば」、「衣着せましを  太刀佩けましを」。
 ヤマトタケが無理して凌いで押し進むや、心が酔ったようにふらつき、燃えるような高熱に襲われてしまい、泉で冷ました。この冷ました所を冷が井泉と云う。御足が痛み、重症であると悟ったヤマトタケは尾張に帰った。宮津姫の家(熱田神宮)にも寄らず、直接伊勢路へと向かった。 

 昔、ヤマトタケがホツマ国へ下っていた折の食事をした時、松の根元に剣を解いたまま置き忘れたまま旅立ってしまい、再会したったことがあった。この時の挙(あ)げ歌(献上歌)は、「この剣は、その昔置き忘れて行ったものだが、誰にも見つからなかったのか、今私を迎えてくれた。置忘れど一途に守ってくれた一本松の健気(けなげ)さがあっ晴れである。お前が人ならば、誉めて衣着(きぬ)を着せ太刀佩けまして褒美するのに。褒美もなしにひたすら待ち続けた汝が不憫でならぬ」。
 「伊坂(いささか)に 慰み行けど 足傷み」、「三重に曲がれば 三重村ぞ」、「杖つき坂も やや越えて」、「のほのに傷み 重ければ」、「虜五人を 宇治に遣り」、「鹿島命の 添人ぞ」。
 伊坂(いささか)まで労り労り進んだものの足が更に痛み、二重の足も三重に曲がるほど痛み始めた。故にこの地をを三重村と云う。杖をついて歩いた坂を杖衛坂(つえつき)と云う。これを過ぎた時、堪えられぬ痛みで重症となった。ヤマトタケは、何を思ったか日高見から連れてきていた捕虜の五人(津軽・陸奥の国造5人)を釈放して、宇治に送り、大鹿島命(初代伊勢神宮)の添え人にした。
 「吉備タケヒコは 都方へ 上せ申さく」、「その文に ハナヒコ申す」、「臣昔 御言を受けて ホツマ討ち」、「天の恵みと 稜威により」、「粗ぶる神も 服えば」、「悉く治めて 今ここに」、「帰れば命 夕付く日」、「乞ひ願わくは 何時の日か」、「御言返さん 野に臥して 誰と語らん」、「惜しむらく 見えぬことよ 天地の法かな」。
 吉備武彦は都路(景行天皇のまきむき宮)へ参上してヤマトタケの手紙を手渡した。景行天皇に宛てたその手紙の内容は、「はなひこ(ヤマトタケの幼名)は申し上げます。臣は昔、君(景行天皇のこと)の詔(みことのり)を受けて東夷のホツマ討ちに行きました。天の恵みとご加護を受けて、逆らう神も服従させ、全て収めて今ここに帰って参りました。しかし、私の命は夕暮れの落日で余命幾ばくもありません。乞い願わくは、いつの日か、自ら父上にお目にかかってご報告したい気持ちで一杯です。病に倒れ野に伏した今、語り合える人がいないのが辛(つら)く口惜しくてなりません。お目にかかることもできずに死んでいくのが無念ですが、これも天命なのでせうか」。
 「文とめて 君曰く我」、「東西(きつ)を平(む)け 事成れば身を 滅ぼせる」、「僕等(かれら)休ます 日もなきと」、「ナツカハギして ハナフリを 皆分け賜ひ」、「歌詠めば」、「熱田の神と 早なると」、「斎浴(ゆあみ)衣(は)を替え 南(さ)に向ひ」、「人身止むの 歌はこれぞと」。
 二信の文は次のように書かれていた。「私は、東西を平定し遂げたものの遂に病に倒れてしまいました。この間、従者たちも含め一日たりとも休むことありませんでした」。これを読んだ君は、ナツカハギに命じて軍資金の花降り(砂金、銀)を皆に分け与えるよう指示した。 歌を詠んで曰く、「ヤマトタケは早くも熱田の神となったのか。早過ぎる」。斎浴(ゆあみ、みそぎ)を済ませ衣(は)を着替えて、南(さ)に向かって正座し、ヤマトタケの時世の歌を詠んで知らせた。
 「熱治宣」、「辞む時 東西の使人と 父母に」、「仕え満てねど サコクシロ」、「神の八手より 道受けて 生れ楽しむ」、「還さにも 誘ひちどる 」、「懸梯を 登り霞の 楽しみを」、「雲居に待つと 人に答えん」、「百歌ひ ながら眼を閉ぢ 神となる」、「為すことなくて 営みす 歌は尾張へ」。
 熱治宣(あつたのり)。「今はもう死に臨んでおります。思い返せば、東西の奔走に関わった多くの従者と母(たらちね)に十分なことをせぬまま、48神の坐すと聞く天上の精奇城(さごくしろ)に向かいます。八神(と・お・か・み・え・ひ・た・め)から八相(やて)の導き(みち)を受けて、人生(むまれ)をそれなりに楽しんで参りました。この世に戻ろうにもしつこく誘われております。こうなった以上、あの世に召されるべく御神の誘いのままに天の懸梯(かけはし)を登ります。きっとこの霞の彼方にも楽しみがあると思います。人には先に行って雲居に待つと答えておきます」。ヤマトタケは何度も繰り返して歌いながら、目を閉じて神となった。側近の者はなすすべもなく、葬儀の準備に向かった。ヤマトタケの時世の歌は尾張の宮簀姫へ届けられた。
 「吉備上り 文捧ぐれば」、「皇(すへらき)は 気も安からず」、「味あらず 終日(ひめもす)嘆き 宣給(のたま)わく」、「昔熊襲(くまそ)が 背きしも」、「まだ揚巻に 平け得たり」、「左右(まて)に侍りて 助けしに」、「ホツマを討たす 人なきを 」、「忍びて仇に 入らしめば」、「明け暮れ帰る 日を待つに」、「こはそも何の 禍ぞ」、「ゆくりもなくて 天(あ)から召す」、「誰と御業を 治めんや」。
 吉備武彦は上京して、遺し文を奉げたところ、すべらぎ(景行天皇)は落ちつけず、食事ものどが通らず(何を食べても味がなく)、終日嘆いてばかりおられた。 そして、おっしゃるには、「昔、熊襲が反乱を起こした時、ヤマトタケはまだ揚巻(総角姿)だったのに平定することができた。本来なら、私の近くにいて補佐させたかったが、ホツマを討つには他に適任者がいなかったからである。今にして思えば、使い勝手が良過ぎたので仇に(あだに)使い過ぎた。戦に明け暮れてもきっと無事で帰って来る日を信じて待っていたのに、これは一体何たる禍いぞ。ゆっくりさせることもないままに天に召されてしまった。こうなると、君の政務を誰と組めば良いのだろうか」。
 「諸に宣して 神送り」、「時に骸 なる斎鳥」、「出づれば諸と 御陵の」、「御棺を見れば 冠と」、「笏と御衣裳と 留まりて」、「空しき殻の 白斎鳥」、「追ひ尋ぬれば 大和国」、「琴弾原に 尾羽四枝 」、「置きて河内の 古市に」、「また四羽落つる そこここに」、「成す御陵の 白鳥も」、「遂に雲居に 飛び上る」、「尾羽は恰も 神の世の 世掃しぞこれ」、「東西も皆 治せば罷れる 天法ぞ」。
 君(景行天皇)は、諸臣、民(もろとみ、たみ)に詔(みことのり)して、盛大な神送りを執り行った。時に、ヤマトタケの遺骸(おもむろ)は白い斎鳥(いとり)に化けて舞い上がった。気になって陵(みささぎ)の御棺(みひつ)を見に行ったところ、 御棺の内には冠と笏(さく)と御衣裳(みはも)だけが残っていて、死体は既に消えて空っぽだった。追いかけて尋ねていったら、大和国の琴弾原(ことひきはら、奈良県御所市)に、尾羽が四枝置き残されていた。次に、河内の古市にも又、四羽落ちていた。ヤマトタケに縁(ゆかり)の深かった所に陵を築き祀ったら、白鳥は遂に天高く舞い上がり雲のなかに隠れてしった。白鳥の尾羽はあたかも神の世の世箒花(よはきし)のように思われた。東(き)西(つ)の乱れを平定した後、死んでいったのはヤマトタケの天命であったに違いない。
 「この君日代 皇の」、「二の御子母は イナヒ姫」、「十二月の十五日に 餅搗(つ)きて」、「餅花成して 双子生む」、「ヲウスモチヒト 弟はコウス」、「ハナヒコもこれ 天(あめ)の名ぞ」。
 景行天皇の日代朝、皇(すべらぎ)の二人の御子の母妃はイナイ姫(吉備津彦の娘で播磨稲日太郎姫)と云う。このイナイ姫が師走の15日の餅つきのお祝いで餅花を作っていた時、産気づいて双子を生んだ。兄を大碓(おおうす)望人(もちひと)、弟(と)を小碓(こうす)花彦(はなひこ)と名付けた。花彦の名は、餅搗(つ)きにちなんで天がつけた名前である。
 「人成る後に 熊襲また」、「背けばコウス 一人行き」、「乙女姿と 成り入りて」、「肌の剣で 胸を刺す」、「タケルしばしと 止め言ふ」、「汝は誰ぞ」 「我はこれ」、「いざ皇の 子のコウス」、「タケルが曰く ヤマトには」、「我に長けたは 御子ばかり」、「故御名付けん 聞きますや」、「許せば捧ぐ ヤマトタケ」、「御子名を代えて 討ち治む 天の誉れや」。
 成人した後、熊襲が再び背いたので、コウスが一人で行くことになった。コウスは、乙女の姿に変装して肌の剣で熊襲タケルの胸を刺した。 クマソタケルは暫し待てと述べ、次のように言った。「汝は何者だ」。コウスは、「我は今の天皇(すべらぎ)の子のコウスなり」。 クマソタケルが曰く、「大和には我に勝けた皇子がいることを今知った。故に、名前を付けてしんぜよう」。コウスが許すと、 クマソタケルは、「ヤマトタケと名乗れよ。以降、このヤマトタケを名のるなら、各地の平定もままになるだろう。ならば、私は殺されても本望だ」。
 「ヤマトタケ イマスの孫の」、「タンヤが女 フタヂイリ姫」、「生む御子は イナヨリワケの タケヒコと」、「タリナカヒコの カシキネと」、「ヌノオリ姫と ワカタケぞ」、「吉備タケヒコが アナトタケ」、「内妻に生む タケミコと トキワケとなり」、「オシヤマが オトタチバナを スケ妻に」、「ワカタケヒコと イナリワケ」、「アシカミカマミ タケコカヒ」、「イキナカタワケ ヰソメヒコ イカヒコ等生む」、「尾張が女 宮津姫また」、「後の妻 武田と佐伯」、「二人生む 十四男一女あり」。
 ヤマトタケの 1番目のお妃はイマスの孫のタンヤワケの娘のフタジイリ(両道入)姫。姫が生んだ御子は長男としてイナヨリワケ(稲依別王)のタケ彦と、次男としてタリナカ(足仲)彦(仲哀天皇)のカシキネ(香椎杵)。長女としてヌノヲシ(布織)姫と三男のワカタケ(稚武)です。吉備武彦の娘のアナトタケ(穴戸武)が内妻として生んだのはタケミコ(武見児)とトキワケ(十城別)。 3番目のお妃としてオシヤマ(穂積氏忍山宿禰)の養女のオトタチバナ(緒止立花、紀:弟橘媛・記:弟橘比賣)姫が典妻(すけつま)になって生んだ御子は長男ワカタケヒコ(稚武彦)と次男イナリワケ(:稲入別)、三男アシカミカマミ(葦敢蒲見)、四男タケコカヒ(武養蚕)、五男イキナカタワケ(息長田別)、六男ヰソメヒコ(五十目彦)、七男イカヒコ(伊賀彦)らである。 4番目のお妃として尾張の姫の宮津姫が後妻としてが生んだ御子は長男として武田、次男として佐伯の二人を生んだ。ヤマトタケは合計十四男と一女を儲けた。
 「先の妻 皆枯れ今は 宮津姫」、「一人会わんと ハラミより」、「心細くも 懸梯を」、「凌ぎ上れば 宮津姫」、「寝巻のままに 出で迎ふ」、「姫の裳裾に 月穢(つきをけ)の」、「染みたるを見て ヤマトタケ 短歌して」、「久方の 天の橘山」、「遠離方(とかも)より 岨(さ)渡り来る日」、「細嫋(たわや) 腕(かいな)を巻かん」、「とはすれど 添ねんと吾は」、「思えども 汝が着ける襲の 月立ちにけり」、「姫返し歌」、「高光る 天の日の御子 安みせし」、「我が親君の 新玉の」、「年が来ふれば 宜な宜な」、「君待ち難に 我が着ける」、「襲の裾に 月立たなんよ」。
 先の妻の三人は皆死んで(かれる)亡くなり、今は宮津姫一人となっていた。宮津姫がハラミより心細くとも天の懸け橋をやっとの思いで登って来た。君(ヤマトタケ)が尾張の宮へ帰って来られた時、宮簀姫はうれしさの余り寝巻き姿のまま出迎えた。ところが、姫の寝巻きの裾には月経血(つきおけ)が染みていた。これを見てヤマトタケは即座に歌を作って知らせた。「 久方の天の香具山、遠鴨よりさ渡り来る日 細手弱や 腕(かいな)を巻かんとはすれど さ寝んとあれば 思えども 汝が着ける裾の 月経ちにけり」。宮津姫は直ぐに返歌をされた。「高光る 天の日の皇子 休みせし 我が大君の新玉の 年が来、経れば 宣えな宣えな 君待ち難たに 我が着ける 襲いの裾に 月経たなんよ」。
 「ヤマトタケ 叔母より賜ふ ムラクモを」、「姫が家に置き 伊吹山」、「帰さの伊勢道 労われば」、「都思ひて 帰り伊勢道に 傷むとき」、「館を歌ひ」、「愛(は)しきやし」、「我家の方ゆ 雲出立ち来も」、「遺し歌」、「御子や親族に 居り合いの」、「十九(つす)は館で 出で立つは」、「旅屋に会える 客人と 迷ひ残さぬ」、「諭し歌」、「深き心の 導きぞこれ」、「能褒野にて 神なる時に」、「遺し歌」、「宮津姫へと アイチタの」、「乙女が床に 我が置きし」、「伊勢の剣の 断ち別(わか)るやわ」、「この和歌は 妹背の道は」、「連なりて 断ち別るれど」、「連りの緒は 切れはせぬぞと」、「導きを 立つる天法」、「宮津姫 悶え絶え入り やや生けり」。 
 ヤマトタケは、伯母(ヤマト姫)より賜った草薙の剣を宮津姫の家に置いたまま伊吹山に登り足を痛めてしまい、宮津姫の家に寄らぬまま伊勢路に向かった。労わりつつ早く都に戻りたいとの思いを馳せて歌ったづづ歌(十九音)。 「愛(は)しきやし 我家の方ゆ 雲出立ち来も」。遺し歌は「御子や親族に 居り合いの 十九は館で 出で立つは 旅屋に会える 客人と 迷ひ残さぬ」。諭し歌は「深き心の 導きぞこれ 能褒野にて 神なる時に」。遺し歌は、「宮津姫へと アイチタの 乙女が床に 我が置きし 伊勢の剣の 断ち別(わか)るやわ」。この歌は妹背(愛し合う女と男。夫婦)の道は連綿と続いて、たとえ我が剣のように、別れても吊りの緒は決して切れはしない、という導きをはっきりさせた神の教示である。「宮津姫 悶え絶え入り生けり」(宮津姫は悲しみのあまり息も絶え絶えに悶え泣き、生きているのがやっとだった))。
 「父はハラミの 絵を写し 都に上り」、「若宮の 願ひのままを 申し上げ」、「愛知田に建つ 宮成りて」、「渡座し請えば 詔」、「タタネコ祝ふ 直御使人(さをしかと) 連神殿(むらしかふとの)」、「御子達を 御行(みゆき)の供え」、「厳かに 琴弾原の」、「 御陵(みささき)に 落ちし尾羽四」、「 古市の 尾羽四つ共に 持ち来たり」、「能褒野(のぼの)の冠 笏御衣裳(さくみはも)」、「御霊笥(みたまげ)に入れ 白神輿(しらみこし)」。
 宮津姫の父は、ハラミ宮(蓬莱宮:浅間神社)の建物を絵に書き写し都に上った。若宮(ヤマトタケ)の願い通りに申し上げ、愛知田(愛知県)にハラミ宮と同じような宮殿を建てた(熱田神宮)。宮殿が出来上がり、新築落成(わたまし)を祝って、景行天皇は詔をされた。大直根子(タタネコ)は斎主(いわいぬし)として、勅使人(さおしか)は連(むらじ)神殿(かんどの)を務めなさい。御子たちは御行(みゆき)の備えに当たりなさい。こうして、厳かに琴弾原(ことひきはら、奈良県御所市)の陵(みささぎ)に落ちた尾羽四枚と、河内の古市の陵に落ちた尾羽四枚も、共に持って来ました。能褒野(のぼの:三重県地名)の君(ヤマトタケ)の冠、笏(さく)、御衣装(みは)の三点も御霊笥(みたまげ)に入れて白神輿(しらみこし)に納めた。
 「神人八人は 八元幡」、「大神殿は 冠御衣」、「御柱持ちて 臣八人」、「オシヤマ宿禰 冠御衣」、 「世掃し持ちて 臣六人」、「吉備タケヒコも 同じ前」、「オオタンヤワケ 冠御衣」、「剣捧げて 臣十人」、「神輿天覆ひ 長の臣 家侍人三十人」、「御緒末(みおずえ)は 絹二流れ 四丈八尺」、「御子神緒末に 縋り行く」、「天照神の 遺る法」、「斎直御使 臣十二人」、「付き神行守 諸継がひ  皆送り行く」、「夜中まで かく六夜至り」、「ハラ宮の オホマの殿に 神輿坐す」。
 日代の宮の四十四年三月十一日の黄昏より、神輿が能褒野(のぼの、三重県)を発って東の愛知田の宮(後の熱田神宮)へと進んだ。大勢の司(つかさ、国史)が松明で白神輿を囲んで守った。先駆けは榊を持った二十人の副神主(そえかふど)。猿田彦神の天狗の面を当てた神主八人が八元幡(と・お・か・み・え・ひ・た・み・八神を祭る八色の幡)を掲げて進んだ。大神主殿(おおかふどの)では冠をつけた正装の大臣八人が御柱(天国へ送るため)を持って進んだ。穂積氏忍山宿禰(おとたちばな姫の親になった)も冠をつけ正装して進んだ。大臣六人は世箒(よはきし:世を清める)を持って進んだ。 吉備武彦も同じ衣装で進んだ。大多牟爺別(おおたんやわけ)も冠をつけ正装して進んだ。剣を捧げた大臣十人は、神輿に傘(あ:天を覆う)を掲げていた。長老(おさ)の大臣に使用人三十人が従っていた。御緒末(みおずえ)は神輿に四丈八尺の絹で括って玉の緒の先(御子御緒末)に縋りついて送って行った。天照神をお送りした時と同じ典(のり、法典)に従った。葬儀(いわい)を仕切る勅使(さおしか)は大臣十二人が務めた。御幸の時の道路奉行、大勢の司達が列なって送った。行列は夜中まで続いた。 このようにして六日の夜を過ぎて(初七日)、ハラ宮の大間の殿に神輿を据えた。
 「世に在す如く 宮津姫姫」、「鑽り火の粥を 盛る平瓮」、「頂き先に 入り待ちて」、「神前に供え 申さくは」、「この御食昔 伊吹より 帰さに捧ぐ」、「昼飯を 自ら炊ぎ 待ち居れど」、「寄らで行きます 千々悔み」、「今また来ます 君の神」、「むべ受け給え 現つ世の」、「アヒチタに待つ 君が昼飯」、「三度宣り 十六夜月の 朗ら光に」、「白斎鳥来て これを食み」、「現る白雲に 神の声」」、「応ふ十九歌」、「現つ世の 腹満つ欲しき 霊在(ちり)を放る飯」、「奇日霊(くしひる、天照大神)を 真(まこと)に畏れ 拝み去る」。
  生前と同じように世に在(いま)す宮津姫は、自ら切り火を起こして、神饌用のご飯を炊いて、平瓮(ひらべ)に盛って頭上に捧げた。先導して大真殿に入って、皆が揃うのを待って、神前にお供えして申し上げた。 「この御食(みけ)は昔、伊吹山からのお帰りの時に捧げるつもりだった昼飯です。あの日、自ら食事を炊いでお待ち申し上げたのにどうして、私の元にお立ち寄りされずに遠くへ行ってしまわれたのでしょうか。私も君の後を追って行くべきだったと今は千々(ちぢ)に悔やまれてなりません。今宵は又、君は私の元に神の君となってお帰り下さるのですね。どうぞごゆっくりお召し上がりください。君が生前(ありつよ)の居られるままの愛知田で待ち続けた私の作った日霊飯(ひるめし)でございます」。

 宮津姫は霊前で三度宣(のり)して渡した。空には十六夜月が明るく照らして透き通っていた。何処からともなく白斎鳥(しらいとり)が舞い降りてきて御食(みけ)をついばみ(はみ)、再び舞い上がって白雲の彼方に消えて行った。その時、神の声の十九歌が聞こえてきた。「生前の世(ありつよ)の腹一杯食べたかったが、霊在(ちり)を盛る日霊飯(ひるめし) あの心のこもった食事を頂きたかった。奇日霊(くしひる、天照大神)の霊妙を恐れかしこみ、拝み去った」。
 「オホマ殿より 宮遷し」、「直御使和幣 御言上げ」、「この時御使 タタネコと」、「尾張連と 新ハラの」、「オホマの神と 名付くなり」、「神送る時 世を辞む」、「散り日霊飯(ひるめし)と 遺るなり」。
 大真殿より新宮(現在の熱田神宮)へ霊を移して勅使が和幣(にぎて、しで)を持って詔(のりと)をあげた。このときの役をたまわったのが大田根子と尾張の連の二人で、この二人を新しい宮(熱田神宮)のオホマ(大間)の神と名付けた。神送り(葬儀)のとき世を辞む 散り日霊飯(ひるめし)と 遺るなり」と祝詞を唱えた。
 「伊勢に添え入る 蝦夷五人 敬いあらず」、「ヤマト姫 咎め御門へ 進め遣る」、「御諸(大神神社)に置けば 程も無く」、「木を伐り民を 妨げる」、「君宣給わく 「蝦夷等は」、「人心なく 置き難し ままに分け置く」、「播磨・安芸 阿波・伊予・讃岐 佐伯部ぞ」。
 大鹿島命(初代伊勢神宮)の添え人になった伊勢にいる蝦夷の五人 (津軽陸奥の国造5人)は敬いの心がないので、ヤマト姫は咎めて帝へ送り直接監視した。 御諸(大神神社)に置いていたところ、理由(ほど)もなく木を切り、住民に迷惑をかけた。君(景行天皇)がおっしゃるには、蝦夷には人としての心を持ち合わせていないのでこのまま置いておく訳にはいかない。分散させて置くことにする」。こうして播磨、安芸、阿波、伊予、讃岐に一人づつばらばらに配置した。これが佐伯部になっている。
 「四十六年の春 七種の」、「御饗に歌の 日数経る」、「ワカタリ彦と タケウチと」、「内に参らず 故召して 問えば申さく」、「愉(え)らく日は 遊び戯れ 異忘る」、「狂え人あらば 窺はん」、「故に御垣を 守り居る」、「君聞こし召し いやちこと 篤く恵みて」。
 まきむき四十六年の春(新年)、七草がゆのお祝いの時、歌で遊んで何日も経った。ワカタリ彦(後の成務天皇)とタケウチがこのお祝いに参加しなかったので、二人を呼んで来なかった理由を問いただしたところこう返事した。「宴会で遊び戯れていると、人の心もなえて大切なものを忘れてしまいます。葬儀後まだ一年も経っていないのに遊びに耽ると狂ったもの(悪魔)が隙を狙うかも知れません。 というわけで御垣(垣根)を守っていました」。君(景行天皇)はこれを聞いて「いやちこ」(まさにその通り、同意)と心から誉め褒章を与えた。
 「八月四日 ワカタリ彦を 世嗣御子」、「竹内宿禰 棟の臣」、「御子と竹内 同ひ年」。
 八月四日に「わかたりひこ」を皇太子(世継ぎ皇子)に昇格しました。(後の13代成務天皇になる) 「たけうちすくね」を棟梁(統率者、むね)の臣に取り上げました。皇子(わかたりひこ)と「たけうちすくね」は同い年です。
 「五十二年五月 二十八日に」、「后イラツ姫 神となる」。
 まきむき宮五十二年五月二十八日(末の八日)に中宮(きさき)の播磨おいらつ姫(ヤマトタケの母親)が亡くなった。
 「神送り法は 熱田法」、「オホタンヤワケ 御食炊ぎ」、「霊在(ちり)日霊飯(ひるめし)と 盛る平皿」、「ヌノオシ姫に 頂かせ」、「添ふタンヤワケ 先駆に」、「次は姫御子 スケ内侍」、「乙侍青侍ら 三十人添ふ」、「次元々の 八色幡」、「神祝詞四十八 分け染めて」、「吉備の家臣 持ち並ぶ」、「奉物雲に 懸梯と 霞に千鳥」、「吉備播磨 兄弟のタケヒコ」、「世掃しを 左右に並びて」、「御柱は 内宮の臣 神輿前」、「御子は神緒末 御使人は」、「写し日の臣 輿に乗る 諸送りけり」。
 葬儀の典(のり、式典)は熱田典(ヤマトタケの時と同じやり方)で行った。オホタンヤワケ(崇神天皇の子供)は御食炊ぎして、霊在(ちり)日霊飯(ひるめし)を平皿に盛りました。そして、ヌノオシ姫(景行天皇のお嬢さん)が神に捧げた。祖父のタンヤワケが行列の先頭(さきがり)に立ち、次は姫御子が続き、スケ内侍、乙侍、青侍(あおめら)ら三十人が添うように続いた。次は元々の八本の八色で染めた幡に神様の名前四十八(よそや)音(あ・か・は・な・ま・・・・・・・し・ゐ・た・ら・さ・や・わ)を書きとめた。吉備津彦の家臣たちがこの幡を持って並んだ。立ち並んだ幡(旗)は天(雲)への架け橋のように思われ、空には霞みに千鳥が鳴いていた。吉備武彦と弟の播磨おと(弟)武彦は世を清める世箒(よはきし)を持って左右に並んだ。霊が行き来する御柱は内宮の大臣が持って神輿前に位置していた。御子は遺体の後に続いた。勅使の写し日の大臣は神輿に乗って参列した。諸民が続いてお送りした。
 「七月七日 ヤサカイリ姫 内つ宮」
 七月七日 やさかいり姫は中宮(うちつみや)に昇格した。
 「五十三年八月 詔」、「返り思えば 止む日無し」、「コウスが平けし 国巡り」、「なさんと伊勢に 御幸なり」、「尾張ツシマに 至る時」、 「連(尾張連) 迎えば 子の如く」、「共にオホマの  宮に入り」、「自ら作る  和幣奉て」、「曰く親子の 縁無ふ (交わり無く)」、「別れ会わねば 忘られず」、「自ら来たり 和幣すと」、「やや久しくぞ 悼ましむ」。
 五十三年八月、君の詔があった。顧り思えば悲しみが一日として止む日はない。コウス(ヤマトタケ)が平定した国々を巡ってみようと思い立ち、まず伊勢に詣でた。次に尾張の津島に着いた時のこと、尾張の連(むらじ)が出迎えに伺うと、君(景行天皇)は我が子に再会できたようにお喜びになられた。お二人でヤマトタケ(景行天皇の息子)が祀られているオホマ(愛知田:熱田神宮)の宮に入り自らお作りになった和幣(にぎて)を御前に奉った。曰く「親子でゆっくり過ごすこともなく先立たれてしまい、もはや会うことが叶わない。それにしてもコウスのことが忘れられない。今お前に会いにやって来たぞ」。和幣(にぎて)を捧げ、長い間、神の前に居られて追悼された。
 「その夜の夢に ツシマ杜」、「白斎鳥現る ヤマトタケ」、「曰く大神 ソサノヲに」、「曰く如何んぞ 国望む」、「天法成せば 国の神」、「教えの歌に 天が下 和して廻る」、「日月こそ 晴れて明るき 民の父母」、「これ解けず 罪に落つるを」、「息吹神 率きて神とす」、「ニニキネは この心以て 」、「ほつま得て 天君となる」、「羨みて 仮の親子ぞ」、「御言受け 東西平け還る」、「神・賤が (上と下)  見えてほそち」、「熱さ治す 父母の恵み 倦まざるや」。
 その夜の夢の中で、津島守(社)にヤマトタケが白斎鳥になって現われ次のように述べた。「天照神が、ソサノウにどのような国造りを為そうとするのかと問われ、天の法(のり)を伝えた。国の神を治める教えの歌とは、『国の指導者たる者は、天が下をあまねく巡る太陽や月のように晴れて明るく照らして民の父母と慕われるようでなければならない』。ソサノウはこの教えが解らず罪を重ね宮中から追放された。放浪の末に伊吹神に拾われて神になり帰り咲いた。天孫ニニキネは天照神の精神を持って民を豊かに国を平和に導いたのでホツマの国の天君(あまきみ)となられた。この例を羨やみ倣うことで仮の親子となることができる。ヤマトタケは、この御言を受けて東西を平定(むけ)して天の元に帰った。神賤(上と下)の者が互いに補佐するような思いで政治を執り行うことで、父母の恵みが及び、いつまでも平和な世の中になるというものである。
 「折り数え歌」、「我が光る 晴みつ錦 熱田神」、「元つ粗衣に 復れるか ヒカワ」、「三度宣べ 賎の姿に 雲隠れ」、「君覚め曰く 神の告げ 我は賎しき ヒカワ神」、「元に返ると 恵み凝る(恵みの凝集した)」、「迷いを諭す 示しなり」。
 折り数え歌。「我が光る 晴みつ織(はらみつにしき)は熱田神に納まっていますが、本当は貧しい氷川の放浪者に似つかわしい綴れ(つづれ)布を織ってもらいたかった。こう三度述べ賤(しず)の姿に身を変えて雲へ隠れた。君(景行天皇)が夢から覚めておっしゃるには、これは神のお告げである。本当は私は賤しい氷川神です。望みを達した今、元の所(氷川)に帰ります。親子の恵(溺愛、拘り)に凝り固まっているのを断ち切るために、私の迷いを諭す啓示です。
 「昔曰くは 人は神 神は人なり」、「名も褒まれ 満ち逹つ典の 」、 「神は人 人素直にて」、「ほつま行く 真神なり」、「告げにより 名も熱田神」、「宮津姫 斎に比べ」、「神主も 宮司並み」。
 昔よりの言い伝えに、「人は皆、神であり、神は人である」。天の道法を極めた者が神と崇められる。神は人であり、素直にほづまの道に従った者が本当の神である。君(景行天皇)は夢の中で神の告げを受けてヤマトタケを熱田神と名付けた。宮づ姫(ヤマトタケの後の妻)は伊勢の斎(いつき)に相当し、神主も伊勢神宮の宮司と同格にされた。
 「東方へ 行けば相模に 御饗なす」、「マシテシ拝み 泣き曰く」、「姫滅ぼして まみえ得ず 君も涙に」、「トラガシハ 如()かき御姿 奉る」、「君見給えば ヤマトタケ」、「生ける姿に 会ふ如く」、「一度会いて 良く似たる」、「故ハメクロと その里を 名付け賜わる」、「神姿 大山峰に 社成す」。
 景行天皇が東路へ旅立ち、相模の小野の館(おとたちばな姫の実家、厚木市)で接待を受けられた。「さくらねまし」(左大臣、左近)、「ほつみてし」(右大臣、右近)は拝謁して泣きながら申し上げるには、「姫(おとたちばな姫)を亡くしてしまいました」。景行天皇もこれを聞いて涙しました。ここで、虎柏(とらがしわ)が景行天皇の前に現われ、ヤマトタケの御姿の人形を献上した。景行天皇がこれを見て「ヤマトタケがまるで生きているようによくできている。まるで再会したようだ。今会ったばかりなのによく似ている」。しかるが故に、この地を目黒(はめくろ)と名付け、そしてこの土地を賜った。ヤマトタケの榊御姿を大山の峰に祀って社を建てられた。
 「御船上総(かづさ)へ アホの浜 」、「鶚(みさこ)餌食むを 民に問ふ」、「あれは海蛤(うむき)と 賎(しづ)が食む」、「膾(なます)も好し」と ムツカリ(六雁)が」、「蒲襷(かまたちき)して 獲る海蛤(うむき)」、「膾になして 勧むれば」、「膳伴部(かしわともべ)と 名を賜ふ」、「オホヒコの孫 イワカなり」。
 御船は上総湊へ向かい富津付近のアホの浜へ着きました。鶚(みさこ)が餌を取っているのを見て漁民に聞いたところ、あれはうむぎ(ハマグリ)といって貧しい(しづ)人が食べる(はむ)ものです。膾(なます)すると美味しいと云った。「むつかり」(おおひこの孫、崇神天皇の孫)が、がまの穂でたすきを作り海に入ってうむぎ(はまぐり、う:大きい、むぎ:むき貝、二枚貝)を取り、なますを作って差し上げたら、「かしわともべ」という名前を賜った。おおひこの孫のイワカの祖である。
 「鹿島神楽の 獣舞を 問えばトキヒコ」、「これ昔 妙に渡りて 獣食むを」、「地君(つちきみ)統りて 奉る」、「君楽しみの 神楽獣」、「弥万鹿島に ある形」、「障りなかれと 弄ぶ」、「猿田の神の 名にし負ふ」。
 鹿島神楽の獅子舞をご覧になり、景行天皇は香取時彦に問いたところ、これは昔伊予に渡ったとき、獅子が人を食い殺すというので、猿田彦が捕まえて天照大神に献上した。天照大神は大変喜んで神楽(神様を喜ばす)獅子とした。八万年鹿島に伝わった。景行天皇は食いつかないでくれと言って遊んだ。これは猿田神の名にふさわしい逸話です。
 「十二月に上り 伊勢の国」、「愛妹の宮に 御座します」、「五十四年九月 三十日には」、「日代の宮に 帰りますかな」、「この時に 三輪のタタネコ 御代の文」、「編みて上代の ほつま道と」、「四十文成して クニナツに」、「示せば互ひ 三笠文」、「見映え示して 合い語り」、「新たに添めて 二家より 上げ奉る」。
 十二月に上京して、伊勢の妹の宮に着いてしばらく滞在しました。五十四年九月末(ここなづき=なづき)には、まきむきの日代の宮にお帰りになりました。この時、三輪のタタネコが神代からの文を編纂してほづまの道を四十綾にまとめました。この編纂したものをクニナツ大鹿島命(春日系)に示し、一方クニナツが纏めた「みかさふみ」をタタネコに示し合いました。内容をあい語り合い確認しました。新たに書き直して二家より献上した。
 「この文は 昔物主 詔」、「承けて作りて 阿波宮(琴平宮)に」、「入れ置く後の 代々の文」、「まちまちなれば 見ん人も」、「予めにて な謗りそ」、「百千試み 遥かなる」、「奥の神道へ まさに入るべし」。
 この文(天の巻き・地の巻き)は、昔物主が詔を受けて作ったものを阿波宮に奉納した後、多くの文がまちまちになってしまい、見る人も困っている。百回、千回と正しく読めば奥の神の道に近づくことができるでしょう。
 「時天鈴 八百四十三年の 秋天日」、「これ奉る 三輪の臣」、「スヱトシ畏れ 謹みて添む」。
 あすず暦(神武天皇)八百四十三年、秋吉日(あめ:吉)にこれを景行天皇に献上奉りました。三輪の大臣すえとし(おおたたねこの実名)が謹んでこれを書き上げ提出した。






(私論.私見)