ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)39

 

 (最新見直し2011.12.25日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)39、ホツマ討ち連歌の文を説き分ける。原文は和歌体により記されている。「」、「39綾 目次」、「39 ホツマ討ち(日本武尊やまとたける東征)十九歌(つずうた)のアヤ」その他を参照しつつ、れんだいこ訳として書き上げることにする。

 2011.12.24日 れんだいこ拝


【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)39、ホツマ討ち連歌の文】
 ヤマトタケルの東征とオトタチバナ姫
 ほつまうちつ すうたのあや      ホツマ討ちつ 連歌の文
 まきむきの ひしろのよそほ せみなつき     纏向の 日代の四十穂 六月      
 ほつまさわけは さかおりの        ホツマ騒げば サカオリの  
 たけひのほりて みかりこふ    タケヒ上りて 御狩り請ふ 
 きみもろあつめ のたまわく        君諸集め 曰(のたまわ)く
 ほつまのゑみし かすめると          「ホツマの蝦夷 掠(かす)めると 
 たれひとやりて むけなんや        誰人遣りて 平(む)けなんや」
 もろひといわす やまとたけ        諸人言わず ヤマトタケ 
 さきにはとみら にしおうつ        「先には臣等 西を討つ
 ひかしおうつは もちひとそ           東を討つは モチヒトぞ」 
 ときにおほうす わななきて        時に大臼(おおうす) 慄(わなな)きて 
 のにかくるるお よひめして           野に隠るるを 呼び召して
 きみせめいわく         君責め曰く 
 いましあに しいてやらんや 「汝あに 強いて遣(や)らんや
 おそるるの あまりとみのお まもらしむ     恐るるの 余り」と美濃を 守らしむ  
 ときやまとたけ おたけひて        時ヤマトタケ 雄猛びて  
 にしむけまなく またひかし いつかおよはん     「西平け間なく また東 何時及ばん
 たとえとみ いたわるとても むけさらん       たとえ臣 労るとても 平けざらん」
 ときにすへらき ほこおもち               時に天皇 矛を持ち
 われきくゑみし むねしのき   「我聞く蝦夷 胸凌(しの)ぎ 
 あれおさもなく むらきみら あひおかしえる     村長(あれおさ)もなく 村君等 相侵し得る
 やまあらし かたましものや     山荒し 佞(かた)まし者や
 ちまたかみ なかにゑみしら めをませて    ちまた守 中に蝦夷ら 女男混ぜて 
 しむみちかけて あなにすみ      血脈道欠けて 穴に住み
 けししおはみて けころもき           毛肉(けしし)を食みて 毛衣着
 めくみわすれて あたおなし           恵み忘れて 仇を為し
 ゆみもよくいる たちまいも          弓も良く射る 立ち舞いも
 たくいあつめて かくれんほ  類集めて かくれんぼ
 のやまおはしる わさおえて          野山を走る 技を得て
 あまなるみちに まつろはす           天なる道に 服わず 
 いまわれおもふ いましこそ            今我思ふ 汝こそ 
 すかたきらしく ももちから           姿煌(きら)しく 百力 
 ゆくにさわらす せめはかつ          行くに障らず 攻めば勝つ
 すなはちしれり みはわかこ              則ち知れり 身は我が子  
 まことはかみの われくらく  真は神の 我暗く 
 むけさるみよお つかしめて      平けざる御世を 継がしめて
 たえさらしむる なんちこそ         絶えざらしむる 汝こそ
 あめかしたしる くらひなり           天が下治(し)る 位なり  
 ふかくはかりて いつにふせ          深く謀りて 稜威(いつ)に伏せ
 めくみになつけ ほつまなし          恵みになづけ ホツマ為し    
 かたましものお かんつよに      佞(かた)まし者を 神つ世に 
 まつろはせよと さつけます           服わせよ」と 授けます
 みほこおうくる やまとたけ 御矛を受くる ヤマトタケ
 むかしみたまの ふゆにより       「昔御霊の ふゆにより 
 くまそおむけぬ いまもまた 熊襲を平(む)けぬ 今もまた 
 みたまによりて ふゆおかり      御霊に依りて ふゆを借り
 あたのさかいに ゆきのそみ          仇の境に 行き臨み   
 まつろはさらは うつへしと       服わざらば 討つべし」と
 おかみてきひの たけひこと         拝みて吉備の 武彦と
 おおともたけひ したかえり          大伴武日(タケヒ) 従えり  
 ななつかはきお かしはてと          ナナツカハギを 膳部(かしはで)と
 かなつきふかに かとてして みちおよこきり              十月二日に 門出して 道を横切り    
 なかいせの かみにいのりて いそのみや  七日伊勢の 神に祈りて 磯の宮 
 やまとひめにも いとまこひ  ヤマト姫にも 暇乞ひ  
 きみのおおせに あたうちに             君の仰せに 仇討に
 まかるとあれは やまとひめ    罷るとあれば ヤマト姫
 にしきふくろと つるきもち           錦袋と 剣持ち 
 をみこにいわく           親王(をみこ)に曰く 
 あめみまこ そめしひみつの ををんはらひ 「天御孫 染めし火水土の 御祓い  
 ひみつのさわり はらふへし            火水土の障り 祓ふべし   
 むかしいつもの くにひらく        昔出雲の 国開く   
 むらくもつるき これなるそ         ムラクモ剣 これなるぞ
 つつしみうけて あたむけよ          謹み受けて 仇平けよ  
 なおこたりそと さつけます           な怠りそ」と 授けます
 さきにたしまか のこしふみ               先に田道間(タジマ)が 遺し文    
 くにそまされは かくのきお       「国染まざれば 橘の木を
 ゑんとおもえは たちはなの  得んと思えば 橘の  
 もとひこかやに としふりて           元彦が家に 年経りて  
 なしみてめくる ひたかみと         馴染みて巡る 日高見と   
 しまつのきみに あひしりて   島津の君に 会ひ知りて
 ややゑてかくお ひかぬまに きみかみとなる やや得て香久を 引かぬ間に 君神となる
 ちちくやみ いまわかみやに たてまつる     散々悔み 今若宮に 奉る
 きみやつかれか もとひこに            君僕(やつがれ)が 元彦に 
 むすふしつくの みなもとお         結ぶしづくの  源を    
 おほしてほつま しろしめせ           思して ホツマ 領(し)ろし召せ」
 ここにすへらき たけうちと               ここに天皇 竹内と 
 かたりあわせて ほつまくに         語り合わせて ホツマ国 
 かくもとひこお みになして         香久元彦を 味になして
 たちはなひめと ほつみてし        橘姫と 穂積てし  
 さくらねましお さきにやり          桜ネマシを 先に遣り 
 いくさくたれは ひたかみか        軍下れば 日高見が 
 まねくもとひこ うなつかす      招く元彦 頷(うなづ)かず 
 さかむのおのに しろかまえ          相模の小野に 城構え   
 てしとましらと もりかたむ           テシとマシ等と 守り固む
 ゑみしのやから せめのほる               蝦夷の族 迫め上る 
 すそのにてあふ やまとたけ           裾野に出会ふ ヤマトタケ
 ゑそらあさむき ののしかか            蝦夷(えぞ)等欺き 「野の鹿が
 いききりたちて ふみしたく      活ききり立ちて 踏みしだく  
 しもとゆひして みちおしる      細枝(しもと)結(ゆ)ひして 道を知る
 のそみめくりて かりたまえ        望み回りて 狩り給え」 
 きみはけにとや ゆきもとむ         君は「実(げ)にとや」 行き求む
 あたのおやきて あさむけは          仇野を焼きて 欺けば  
 しりてきりひの むかひひに          知りて鑽火(きりひ)の 向ひ火に      
 ひみつのはらひ みたひのる       火水土の祓 三度宣る
 こちふきかわり にしけむり  東風(こち)吹き変り 西煙
 あたにおふえは くさおなく      仇に覆えば 草を薙ぐ
 もえくさとひて あたいくさ      燃え草飛びて 仇軍 
 やきほろほせは やけつのや     焼き滅ぼせば 焼けつ野や 
 つるきのなおも くさなきと   剣の名をも 草薙と 
 あしからやまに せめいたる 足柄山に 迫め至る 
 さかむのおのの しろせめお               相模の小野の 城攻めを  
 かたくまもれは あたやから         固く守れば 仇族    
 よもにたききお つみあけて        四方に焚木(たきぎ)を 積み上げて   
 なそかひてりに ひせめなす       七十日日照りに 火攻めなす 
 かわきもゆれは やまとたけ        乾き燃ゆれば ヤマトタケ  
 やくらのたけに のほりみて        矢倉の岳に 登り見て   
 きひたけひこお おおいそえ         吉備武彦を 大磯へ 
 おおともたけひ おおやまの          大伴武日 大山の 
 きたにめくりて しろにいれ          北に回りて 城に入れ  
 さねにわかちて やまとたけ         南北に分ちて ヤマトタケ  
 かみすききよめ しらかしの        髪梳き清め 白樫(かし)の  
 たちおはらみの みはしらと         太刀を原見の 御柱と 
 いのるひみつの きよはらひ           祈る火水土の 清祓い   
 たつたのかみの あらわれて         竜田の神の 現れて   
 このしろゐけの たつのあめ         高聳(このしろ)池の 竜の雨   
 ふりひおけせは みやいくさ         降り火を消せば 宮軍   
 いさみてあたお なかはうつ          勇みて仇を 半ば討つ
 みなにけちれは ときおあけ             皆逃げ散れば 閧(とき)を上げ
 むかひいるとき おとひめは        迎ひ入る時 弟姫は  
 きみのておとり やすんせて  君の手を取り 安んせて
 やつかれはしめ おのおのか           「僕(やつがれ)始め 各々が   
 まさにやけんお いのりまし  まさに焼けんを 祈りまし 
 いまさいわひに おかむとて          今幸に 拝む」とて    
 よろこひなんた そてひたす      喜び涙 袖浸す
 ここにもとひこ もろにふれ         ここに元彦 諸に触れ   
 まつろはされは ころすゆえ       「服ろはざれば 殺す故   
 おおんたからか みかりこふ        大御宝が 御狩り請ふ」
 ことはしめとて しはすやか          事始め とて 十二月八日
 かくかこたてて しるしとす           橘篭(かくかご)立てて 標とす
 ときやまとたけ おおいそお             時ヤマトタケ 大磯を 
 かつさえわたす いくさふね  上総(かづさ)へ渡す 軍船    
 たたよふかせお しつめんと            漂ふ風を 静めんと
 おとたちはなは へにのほり       弟橘は 舳(へ)に上り 
 あめつちいのり    天地祈り
 わかきみの いつおやまとに たてんとす 「我が君の 稜威(いつ)をヤマトに 立てんとす 
 われきみのため たつとなり          我君のため 竜となり 
 ふねまもらんと うみにいる         船守らん」と 海に入る 
 もろおとろきて もとむれと   諸驚きて 求むれど  
 ついにゑされは なみなきて みふねつきけり         遂に得ざれば 波凪(な)ぎて 御船着きけり  
 やまとたけ かつさにいれは     ヤマトタケ 上総に入れば
 さかきゑに かかみおかけて むかひます      榊枝に 鏡を掛けて 向かひます
 かとりときひこ ひてひこと  鹿鳥時彦 秀彦と  
 いきすおとひこ かねてまつ       イキス弟彦 予(かね)て待つ  
 おおかしまより みあゑなす         大鹿島より 御饗(みあえ)なす
 あしうらこえて なこそはま                 葦浦越えて 勿来(なこそ)浜  
 かりみやにます ひたかみの      仮宮に坐す 日高見の  
 みちのくしまつ みちひこと       道奥(みちのく)島津 道彦と  
 くにつこゐたり あかたぬし           国造五人 県主
 ももなそよたり よろやから       百七十四人 万族 
 たけのみなとに こはむとき           タケの湊に 拒む時  
 たけひおやりて これおめす       タケヒを遣りて これを召す
 しまつのかみは あらかしめ            島津の神は あらかじめ
 いさわにおそれ ゆみやすて        威多(いざわ)に恐れ 弓矢棄て    
 みまえにふして まつろひぬ          御前に伏して 服ひぬ
 たけひまたゆく ひたかみの みちのくにつく                 タケヒまた行く  日高見の 道奥に告ぐ  
 さをしかと みちのくかとに いてむかえ        直御使人 道奥 門に 出で迎え   
 みちのくいわく            道奥曰く
 いまなんち ひとのすへらき きみとして         「今汝 人の天皇(すべらぎ) 君として
 つかえるなんち おとろえり          仕える汝 衰えり 
 いまきてくにお うはわんや           今来て国を 奪わんや」 
 たけひのいわく         タケヒの曰く 
 かみのみこ なんちおめせと  「神の御子 汝を召せど 
 まつろはす かれにうつなり          服わず 故に討つなり」
 こたえいふ   応え言ふ
 これなんのこと なんのいゐ  「これ何の言(こと) 何の謂(いい)
 それわかくには おおみをや          それ我が国は 大御祖(おおみおや)  
 たかみむすひの このくにお         高御ムスビの この国を 
 ひらきてななよ これおつく          開きて七代 これを継ぐ  
 ひのかみここに みちまなふ かれひたかみそ        日の神ここに 道学ぶ 故日高見ぞ  
 あめのみこ ちちひめとうむ みこふたり      天の御子 チチ姫と生む 御子二人   
 ゑはあすかみや とははらみ        兄は飛鳥宮 弟は原見
 そのときくにお たまわりて         その時国を 賜わりて   
 そよのはつこの われまては よそのたうけす        十四の裔(はつこ)の 我までは 他所の治(た)受けず
 それのきみ あすかおうちて くにおとる      それの君 飛鳥を討ちて 国を盗る 
 かみにたかえり かれなれす          神に違えり 故馴れず
 いままたきたり とらんとす         今また来たり 盗らんとす
 これもかみかや すへきみよ                   これも神かや 皇君よ 
 たけひほほゑみ                タケヒほほえみ
 これなんち ゐなかにすんて さわおみす     「これ汝 井中に住んで 沢を見ず  
 ことよきににて あたらすそ     言善きに似て 当らずぞ 
 しかときくへし これとかん         確と聞くべし これ説かん
 むかしあすかの なかすねか          昔飛鳥の ナガスネが  
 ふみぬすめとも あすかきみ たたさぬゆえに        文盗めども 飛鳥君 糺(ただ)さぬ故に
 のりくたせ ほつまちひろむ    乗り下せ ホツマ地広む
 あまもいわふね よにうたふ          天下斎船(あまもいわふね) 万に謳ふ 
 しほつをきなか これゆきて       塩土翁が 「これ行きて   
 むけさらんやと すすむゆえ     平けざらんや」と 勧む故
 やまとたたせは ををんかみ          ヤマト糺せば 大御神  
 かしまのかみに みことのり ゆきてうつへし             鹿島の神に 詔 「行きて討つべし」
 そのこたえ      その応え
 われゆかすとも くにむけの つるきくたして  「我行かずとも 国平けの 剣下して
 たかくらに これささけしむ     高倉に これ捧げしむ」
 たけひとは きみたるいとの あるゆえに     タケヒトは 君たる威徳(いと)の ある故に 
 あめよりつつく かみのみこ よよにあまてる    天より続く 神の御子 代々に天照   
 なんちよよ きみなくこよみ  いつれそや        汝代々 君なく暦 何れぞや」   
 こたえていせと   答えて「伊勢」と 
 またいわく      また曰く    
 あまてらすかみ こよみなし  「天照神  暦なし 
 そろうえさせて かてふやし みおたもたしむ          ソロ植えさせて 糧(かて)増やし 身を保たしむ
 ももなそこ よろみちつつく     百七十九 万三千続く
 このよみて いまひのわちに おわします      この世見て 今日輪内に 御座します
 みまこのよよの たみをさむ         御孫の代々の 民治む
 ひになつらえて あまきみそ         日に擬(なづら)えて 天君ぞ   
 なんちはよよに みのりうけ         汝は代々に  実り受け
 いのちつなきて いまたその          命つなぎて 未だその  
 きみにかえこと もふさぬは         君に返言 申さぬは     
 そのつみつもり いくらそや      その罪積もり 幾らぞや      
 ぬけみちありや わかきみは かみならすやと    抜け道ありや 我が君は 神ならずや」と
 このときに みちのくおよひ みなふして      この時に 道奥及び 皆な伏して
 まつろひくれは やまとたけ          服ひ来れば ヤマトタケ   
 みちのくゆるし なこそより       道奥許し 勿来より   
 きたはみちのく くにのかみ        北は道奥  国の神 
 もかたのはつほ ささけしむ  百県の初穂 捧げしむ
 つかるゑみしは みちひこに          津軽蝦夷は 道彦に     
 なそかたはつほ ささけしむ     七十県初穂 捧げしむ    
 みなみはひたち かつさあわ       南は常陸(ひたち) 上総(かづさ)安房   
 みかさかしまに たまわりて        三笠鹿島に 賜りて 
 かしまひてひこ ときひこも           鹿島秀彦 時彦も 
 おとひこみたり みはたまふ         弟彦三人 御衣賜ふ    
 くにつこゐたり かみのみち                  国造五人 神の道   
 しいてもふせは めしつれて いたるにはりえ 強いて申せば 召し連れて 至る新治(にはり)へ
 ゑみしから かそにしきとは  蝦夷から 上錦(かそにしき)十衣(とは) 
 わしのはの とかりやももて たてまつる  鷲の羽の 尖矢(とがりや)百手 奉る   
 みちのくよりは きかねとを          道奥よりは 黄金(きがね)十重(とを)
 くまそやももて たてまつる          熊襲矢百手 奉る 
 このゆきおもく ふもをあり           この靫(ゆぎ)重く 二百重(を)あり 
 おいてもとむる おおともの            負い手求むる 大伴の  
 さふらいよたり おいかはり     侍四人 負い替り 
 つくはにのほり きみとみも          筑波に登り 君臣も  
 つさへていたる さかおりの          西南(つさ)経て至る サカオリの
 みやにひくれて たひおそく         宮に日暮れて 松灯(たひ)遅く    
 しかれはこたえ ゆきおもく            叱かれば応え 「靫重く
 つかれねふりて くれしらす      疲れ眠りて 暮れ知らず」
 またいふよたり あひまちそ        また言ふ四人 「合ひ待ちぞ   
 なんちはかりか なとつかる      汝ばかりが など疲る  
 ちからいとはは うたおよめ          力厭はば 歌を詠め」 
 こたえてかみの みよはうた いまはちからよ       応えて「神の 御代は歌 今は力よ」 
 ときにきみ これきこしめし     時に君 これ聞こし召し
 つすはつね うたみにそめて     十九初音(つすはつね) 歌見に染めて
 かえせよと なかえたまはる    返せよと なかえ給はる
 にゐはりつ つくはおすきて いくよかねつる    「新治出 筑波を過ぎて 幾夜日寝つる」
 もろなさす ひとほしよすな     諸なさず 火灯し(ひとほし) ヨスナ
 きみのうた かえしもふさく     君の歌 返し申さく
 かかなえて よにはここのよ ひにはとおかお   「かがなえて 夜には九の夜 日には十日を」
 やまとたけ ひとほしほめて たけたむら     ヤマトタケ 火灯し褒めて 武田村
 ほかははなふり たけひおは           他はハナフリ タケヒをば  
 ゆきへおかねて かひするか        靫部(ゆきへ)を兼ねて 甲斐駿河
 ふたくにかみと ことおほむ            二国神と ことを褒む
 きみやまのひは ゆきやすみ              君山の日は 靫休み
 わかきみにいふ          我が君に言ふ    
 すへらきみ やつらはなふり 「皇君 僕等ハナフリ  
 そろりには たけたたまはる なんのこと     ソロリには 武田賜はる 何のこと」
 たけひのいわく うたのこと           タケヒの曰く 「歌のこと」   
 またとふかれは あわならす なにのうたそや       また問ふ「彼は アワならず 何の歌ぞや」
 またいわく つつうたむかし    また曰く 「連歌(つつうた)昔
 さゆりひめ としそこのとき     サユリ姫 歳十九の時
 たきしみこ したひこふゆえ     タギシ御子 慕ひ恋ふ故
 そのちちか よひたすときに     その父が 呼び出す時に
 ひめさとり のそくつつうた     姫悟り 除く連歌
 あめつつち とりますきみと なとさけるとめ  「天つ地 娶ります君と 何ど割けるとめ」
 そのつつす かそえてなかお つほかなめ       その連子(つつす) 数えて中を 壺要 
 このうたつつき かそえもの           この歌続き 数え物  
 おりあわせめに けりもあり         折合せ目に けりもあり
 きみとわれとは つつきけり       君と我とは 続きけり    
 よこかめとるお さかしまに       よこかめ(やっかむ)取るを 逆しまに   
 るとめにとめて たちきれは        るとめに止めて 断ち切れば 
 まめもみさほも あらわせり         忠も操も 表わせり   
 かれそこもつす ものもつす つつきうたなり        故十九もツズ 物もツズ 続き歌なり
 なつかはき ここにゐてとふ つきありや     ナツカハギ ここに居て問ふ 「継ぎありや」 
 たけひこたえて やそありて はつはおこりと       タケヒ答えて 「八十ありて 初は起りと
 つきはうけ みつはうたたに よつあわせ      次は受け 三つは転たに 四つ合せ
 ゐつはたたこと むつはつれ         五つは立言 六つは連れ
 ななはつきつめ やつはつき        七は尽詰(つきつめ) 八つは継ぎ
 おもてよつらね まめみさほ  表四連ね 忠操(まめみさほ) 
 まてにかよはす うらよつれ 両方(まて)に通わす 裏四連れ
 はつはかしらの ゐをしてえ めくらしつらぬ    果つば頭の 五ヲシテへ 巡らし連ぬ
 そのつきは うちこしこころ     その継ぎは 打ち越し心
 うたたさり もとにむらかる    転(うたた)去り 本に群がる
 ひとつらね そむおひとおり     一連ね 十六(そむ)を一織
 すへゐおり やそおももとし     総べ五織 八十を百とし
 おりはふそ かれおりとめの     織は二十 故織留の
 つすはたち おりはつのつす     ツズハタチ 織初のツズ
 あひかなめ おりつめのつす     合い要 織詰のツズ
 みそこはな みのつめゐそこ     三十九ハナ 三の詰め五十九
 つすさつめ よのつめなそこ     ツズサツメ 四の詰め七十九
 つすふつめ ゐのつめこそこ     ツズフツメ 五の詰め九十九
 つすつくも ゐふしにほひの はなはゆり      ツズツクモ 五節匂いの 花は百合 
 もとうたはきみ そのあまり  元歌は君 その余り 
 ゑたやはつこお やそつつき      枝や裔を 八十続き
 なおふかきむね ならいうくへし   なお深き旨 習い受くべし」
 またとふは やそおももとす かすいかん       また問ふは 「八十を百とす 数如何ん」
 こたえはかなめ またくはる もとうたおふそ        答えは「要 また配る 本歌を二十」   
 かえしとふ ゆりかはしめか     返し問ふ 「ユリが初めか」
 こたえいふ かみよにもあり     答え言ふ 「上代(かみよ)にもあり
 みをやかみ つつのをしてや     御祖神(みをやかみ) 連(つつ)のヲシテや
 あめみこの ひうかにいます     天御子の 日向に坐す
 やまとちの はやりうたにも     ヤマト地の 流行り歌にも
 のりくたせ ほつまちひろむ あまもいわふね      「乗り下せ ホツマ地広む 天も斎船」
 しほつつを すすめてやまと うたしむる      塩土翁 勧めてヤマト 討たしむる  
 これおりかえに あひつあり       これ折返に 合図あり
 かれうちとるお よしとなす       故討ち取るを 好しとなす 
 ゆりひめもつつ うたもつつ         ユリ姫も十九 歌も十九 
 まめとみさほと あらわせは      忠と操と 表わせば  
 つつきうたよむ のりとなる        続き歌詠む 法となる  
 ついにほつまの まつりこと       遂にホツマの 政り事
 あめにとほれは ことことく まつろふときそ           天に通れば 悉く 服う時ぞ 
 うたはくに ちからはあたひ たまはりし     歌は国 力は値 賜はりし  
 きみはかみかと みなめつむ               君は神かと 皆な愛つむ
 こそよりつつき あめはれて               去年より継つき 雨晴れて
 むつきすえやか みゆきふり          一月二十八日 深(み)雪降り  
 きみそりにめし ゆきいたる         君ソリに召し 行き至る 
 さかむのたちに いりませは        相模の館に 入りませば  
 のにかたあふみ とらかしは       野に片鐙(あぶみ) トラガシは 
 ひろひかんかえ あふみさし いまたてまつる            拾ひ考え 鐙挿し 今奉る
 たまかさり ほめてたまわる     玉飾り 褒めて賜わる
 むらのなも たまかわあふみ     村の名も 多摩川アフミ
 みさしくに さかむのくにと もとひこに     武蔵(みさし)国 相模の国と 元彦に  
 なつけたまわる くにつかみ          名付け賜わる 国津神
 まちかてちかの とみふたり                マチカテチカの 臣二人  
 をとたちはなの くしとおひ      弟橘の 櫛と帯 
 うれはなけきて ひめのため    得れば嘆きて 姫のため 
 つかりあひきの まつりなす         連(つか)り天引(あひき)の 祀りなす   
 これそさのをの おろちおは        これソサノヲの オロチをば
 つかりやすかた かみとなし            連りヤスカタ 神となし  
 はやすひひめも あしなつち  ハヤスヒ姫も 足ナツチ
 ななひめまつる ためしもて         七姫祀る 例し以て 
 かたみおここに つかとなし          形見をここに 塚となし 
 なもあつまもり おほいそに         名も吾妻(あづま)守 大磯に 
 やしろおたてて かみまつり ここにととまる                  社を建てて 神祀り ここに留まる  
 はなひこは わかさきみたま しろしめし     花彦は 我が先御魂 知ろしめし
 かわあひののに おほみやお     川合の野に 大宮を 
 たててまつらす ひかわかみ         建てて祀らす 永川神     
 いくさうつはは ちちふやま      軍器は 秩父山
 きさらきやかに くにめくり               二月八日に 国巡り  
 まつらふしるし かくかこお        服ふ標 橘篭を 
 やむねにささけ ことをさめ          屋棟に捧げ 事納め   
 ほつまのよよの ならはせや                ホツマの代々の 習わせや
 うすゐのさかに やまとたけ               碓井の坂に ヤマトタケ 
 わかれしひめお おもひつつ        別れし姫を 思ひつつ 
 きさおのそみて おもひやり           東南を望みて 思ひ遣り
 かたみのうたみ とりいたしみて        形見の歌見 取り出だし見て
 さねさねし さかむのおのに    実々(さねざね)し 相模の小野に
 もゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも      燃ゆる日の 火中に立ちて 訪ひし君はも」
 これみたひ あつまあわやと なけきます あつまのもとや       これ三度  吾妻あわやと 嘆きます 東の元や 
 おひわけに きひたけひこは こしちゆく                 追分に 吉備武彦は 越地行く  
 くにさかしらお みせしむる      国盛衰(さかしら)を 見せしむる 
 たけひはさきに さかむより        タケヒは先に 相模より  
 ゑみしのみやけ もちのほり         蝦夷の土産  持ち上り 
 みかとにささけ ことことく         帝に捧げ 悉く    
 まつらふかたち もふさしむ       服ふ状(かたち) 申さしむ   
 ひとりみゆきの やまとたけ       一人御幸の ヤマトタケ
 しなのきそちは やまたかく         信濃木曽地は 山高く 
 たにかすかにて つつらおり           谷幽(かすが)にて 葛(つづら)折り 
 かけはしつたひ むまゆかす           懸橋伝ひ 馬行かず
 くもわけあゆみ うえつかれ           雲分け歩み 飢え疲れ  
 みねのみあえに なるしらか     峰の御饗に なる白鹿 
 まえにいきはき くるしむる         前に息吐き 苦しむる 
 きみはしろして ひるひとつ        君は知ろして  蒜(ひる)一つ
 はしけはまなこ うちころす          弾けば眼 打ち殺す 
 なおくもおおひ みちたつお         なお雲覆ひ 道断つを
 ひみつのはらひ みたひのる         火水土の祓ひ 三度宣る    
 しなとのかせに ふきはらふ      シナトの風に 吹き払ふ
 かみのしらいぬ みちひきて          神の白狗(しらいぬ) 導きて
 みのにいつれは たけひこも           美濃に出づれば 武彦も  
 こしよりかえり ここにあふ     越より帰り ここに会ふ
 さきにきそちの おえふすも はらいまぬかる         先に木曽地の 衰え臥すも 祓い免る
 しかのちは ひるおかみぬり     鹿の霊は 蒜(ひる)を噛み塗り
 さかいきに あたらしものと かたりたまひき    邪気(さかいき)に 当らじものと 語り給ひき

【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)39、ホツマ討ち連歌の文】
 ホツマ討ちつ 連歌の文。
 「纏向の 日代の四十年 六月」、「ホツマ騒げば サカオリの」、「タケヒ上りて 恵(みか)り請ふ」、「君諸集め の給わく」、「ホツマの蝦夷 掠(かす)めると」、「誰人遣りて 平(む)けなんや」、「諸人言わず ヤマトタケ」、「先には臣等 西を討つ」、「東を討つは モチヒトぞ」、「時にオホウス 慄(わなな)きて」、 「野に隠るるを 呼び召して」、「君責め曰く」、「汝あに 強いて遣らんや」、「恐るるの 余りと美濃を 守らしむ」、「時ヤマトタケ お猛びて」、 「西平け間無く また東 何時及ばん」、「たとえ臣 労るとても 平けざらん」。
 纏向(まきむき)の日代40年の蝉が鳴く6月、サカオリを管轄している「大伴の武日」が上京し、ホツマ地方(関東・東北)が騒々しいので一刻も早く軍を差し向けてくださいと頼みに来た。君(景行天皇)が諸臣を集めて宣はく、「ホツマにいる蝦夷(ヱミシ)が領土をかすめとっている。誰を将軍にして向けようか」。 誰も何も言わなかったので、ヤマトタケ(小ウス)が「私は先に部下を引き連れて西(九州・熊襲)を討ってきました。東を討つのは、今度は兄のモチヒトの番ではないですか」と進言した。 大ウス(兄)は、慄(わなな)いて姿を隠してしまった。連れ戻して、君が責めて言うには、「お前がそれほど嫌がるのに強いて派遣するつもりはない。お前は臆病過ぎる」。かくて美濃を守らせた。 君の言葉を聞いたとき、ヤマトタケが大声で、「私は西(九州熊襲)で戦ってきて休む間もありませんが、今度も私が東に行きます。いつでも覚悟ができております。我が臣下にはまたひと苦労かけますが、行って必ず平定してみせます」。
 「時に皇 矛を持ち」、「我聞く蝦夷 胸凌ぎ 粗長(あれおさ)もなく 」、「村君等 相侵し得る」、「山荒し 佞(かた)まし者や」、「ちまた守 中に蝦夷ら」、「女男交ぜて シム道欠けて 穴に住み」、「穢肉(けしし)を食みて 毛衣着」、「恵み忘れて 仇を為し」、「弓も良く射る 立ち舞いも」、「類集めて かくれんぼ」、「野山を走る 技を得て」、「天なる道に 服わず」。
 時に、景行天皇は矛を持ってこう宣べた。「私が聞いたところによると、蝦夷は度胸が良く、村長もおらず、村君たちは互いに領土を取り合っており、山賊と化している厄介な者達である。岐(ちまた)の神となっており、蝦夷の中には父子男女の差別なく乱婚して穴に住んでいる。四足の動物を食べ毛皮を着ている。天への感謝を忘れて悪事を働いている。弓を得意とする名手であり、剣武に優れている。一族を集めて野山に隠れた生活をしている。野山を駆け巡る格別の能力を持っている。古来よりの天なる道に服さず反抗し続けている」。
 「今我思ふ 汝こそ」、「姿煌しく 百力」、「行くに障らず 攻めば勝つ」、「則ち知れり 身は我が子」、「真は神乗 我暗く」、「平けざる世を 継がしめて」、「絶えざらしむる 汝こそ」、「天が下領る 位なり」、「深く謀りて 稜威に伏せ」、「恵みに懐け ほつま為し」、「佞(かた)まし者を 神つ治に」、「服わせよ」と 授けます」、「御矛を受くる ヤマトタケ」。
 君はここまで話すと再びヤマトタケを見据えて、「今改めて我思う。汝(いまし)こそは容姿りりしく百人力の勇者である。行く処、敵はなく戦えば必ず勝つ。そなたの身は我が子だが、本当は神が遣わした子であると思っている。乱世に登場させて平定せしむる役割を持つ汝こそ天が与えた位であろう。とはいえ深謀を良くし、神の威光を持って説き伏せよ。我らが治世に手なづけ秀真(ほつま)道で相手に対しなさい。獰猛な者たちを神の治世に服従させよ」。かく宣べて御矛(ホコ)を授けた。ヤマトタケは御矛を受け取った。
 「昔御霊の 映(ふゆ)により 熊襲を平(む)けぬ」、「今もまた 御霊に依りて 映を借り」、「仇の境に 行き臨み」、「服わざらば 討つべしと」、「拝みて吉備の 武彦と」、「大伴武日(オオトモタケヒ) 従えり」、「ナナツカハギを 膳方(かしはで)と」。
 ヤマトタケは、「昔、御霊(みたま)の御加護により熊襲を退治しました。今、再び御霊の御加護・恵みを借りて、敵国(あだ)の前線(境)に向かいます。もしも従わなければ戦って討ち負かしてきます」と誓った。深く拝礼して君の御前を辞しました。いつも身際に控える吉備武彦と大伴武日を武将として従えた。ナナツカハギを膳方(かしはで、食事係)に決めた。
 「十月二日に 門出して」、「道を横切り 七日伊勢の」、「神に祈りて 磯の宮」、「ヤマト姫にも 暇乞ひ」、「君の仰せに 仇討に」、「罷るとあれば ヤマト姫」、「錦袋と 剣持ち」、「親王に曰く 「天御孫」、「染めし火水の 御祓い」、「火水の障り 祓ふべし」、「昔出雲の 国開く」、「ムラクモ剣 これなるぞ」、「謹み受けて 仇平けよ 」、「な怠りそ」と 授けます」。
 10月(神無月)2日に門出(出発)した。寄り道して、7日に伊勢神宮に戦勝祈願をした後、伊勢の磯辺(イソベ)の伊雑(イサワ)宮に坐す斎宮のヤマト姫にも暇乞い(いとまごい)の挨拶に行った。ヤマトタケは、君の仰せにより仇討ちに参りますと報告した。ヤマト姫、ヤマトタケに祓いの呪文が書かれている錦袋と剣を持ち出してヤマトタケに語った。「錦袋の中は、昔、天御孫(あめみまこ)が自ら記した火水の祓いです。これで火の災難水の災難の障害を払いなさい。又この剣は昔、スサノウが出雲の国を開いた時に使ったムラクモ(叢雲剣)の剣(やまたのおろちの尻尾から取り出した剣)がこれである。この二種とも吉を呼ぶ宝物です。謹んで拝領して敵を退治してきなさい。くれぐれも注意を怠らないようにと言って授けた。
 「先にタジマ(田道間守)が 遺し文」、「国染まざれば 橘の木を」、「得んと思えば 橘の」、「モト彦が家に 年経りて」、「馴染みて巡る 日高見と」、「島津の君に 会ひ知りて」、「やや得て橘を 引かぬ間に 君神となる」、「散々悔み 今若宮に 奉る」、「君僕が モト彦に」、「結ぶしづくの (友好・同盟) 源を」、「思してホツマ 領ろし召せ」、「ここに皇 タケウチと」、「語り合わせて ホツマ国」、「橘モトヒコを 己になして」。
 昔、シラギ(新羅)の王子アメヒボコが来朝し、天皇に服つらい帰化した五代孫のタジマモリ(田道間守)が、かぐもとひこ(橘元彦)に会いに行った時の遺言書(のこしふみ)。「私は、天皇(垂仁)の勅を受けて東国(ほつまえみし)へ視察に赴いた。講和を結びに行ったが、東夷の国々を巡り見ての感想は残念ながら一朝一夕に天朝に服すのは難しいことを悟りました。先方のプライドが高いので、少なくとも表向きは「かぐの木」をもらいに行くことにした。橘元彦の館で、じっくりと土地に馴染み親しんでいるうちに年数を経てしまいました。その間やっと日高見君陸奥(仙台)と島津道彦(青森)と馴染みになり、念願の「かぐの木」を得ることができて宮中に帰りましたが、時すでに遅しで君(11代垂仁天皇)は御罷り神となっていました。何故もう少し早く帰京できなかったかと大層悔やみ、今の新しい天皇(12代景行天皇)に奉った。「君よ(天皇)、どうかやつかれ(私)が元彦の家で結ばれた兄弟の滴(しずく)の源流(みなもと)を思しめして、ほつま国と平和裏に国を治めて下さい。自分からは戦いをしないでくださいと願っています」。この遺言書を読んで景行天皇は、竹内宿禰(タケウチノスクネ)と相談してホツマ国対策を練り、かぐもとひこ(橘元彦)を味方につけることを申し合わせた。
 「タチハナ姫と ホツミテシ」、「サクラネマシを 先に遣り」、「軍下れば 日高見が」、「招くモトヒコ 頷かず」、「相模の小野に 城構え」、 「テシとマシ等と 守固む」。
 今は亡きタジマモリの一粒だね、実は今はヤマトタケのスケツマ(典侍)のおとたちばな姫とホズミテシ(穂積臣)とサクラネマシ(桜本臣)を先駆けとして東国に遣わした。ヤマトタケは「やまと姫」に挨拶のため伊勢の宮を経由しての別行動であった。(尾張までは後妻である4番目の宮津姫を、尾張の実家迄送っていった記述が後に出てくる) 行軍開始となり、みちのくの日高見が橘元彦を味方に引き込もうとしたが、元彦は頷かなかった。橘元彦は相模の小野に館を構えて、「テシ」と「マシ」等(右近・左近)将兵を率いて守りを堅めていた。
 「蝦夷の族 迫め上る」、「裾野に出会ふ ヤマトタケ」、「ヱゾ等欺き 野の鹿が」、「活ききり立ちて 踏みしだく」、「細枝結ひして 道を知る」、「望み回りて 狩り給え」、「君は実にとや 行きもとむ」、「仇野を焼きて 欺けば 」、「知りて鑽火(きりひ)の 向ひ火に」、「火水の祓 三度宣る 」、 「東風吹き変り 西煙」、「仇に覆えば 草を薙ぐ」、「燃え草飛びて 仇軍」、「焼き滅ぼせば 焼けつ野や」、「剣の名をも 草薙と」。
 蝦夷の対応が素早く攻めてきた。富士の裾野でヤマトタケはエゾ等と対峙した。 エゾ等は言葉巧みに計略を図り、「この辺りの野性の鹿が活発に行動して野山を痛めております。木の枝の乱れ絡みで鹿の道が解ります。どうぞ存分に狩りを楽しんでください」。これを聞いた君は、「げに」とと言って野に入りました。蝦夷が、頃合いを計って辺りの野に火をつけた。ヤマトタケは欺かれたことを知るとすぐに切り火を起こして迎え火を放って、ヤマト姫から授かった錦袋から取り出した火水埴(ヒミヅ)の祓(はら)いを三度唱えた。と間もなく東風が西風へと転じた。仇(敵の頭上)に火が覆った。ヤマトタケはムラクモ(叢雲剣)の剣で草を薙ぎ払ったので、燃え草は仇軍の方に向かい焼き滅ぼした。これにより、焼けた野原を焼津と言うようになった。むらくもの剣の名前も草薙の剣と云うようになった。
 「足柄山に 迫め至る」、「相模の小野の 城攻めを」、「固く守れば 仇族」、「四方に焚木を 積み上げて」、「七十日日照りに 火攻めなす」、「乾き燃ゆれば ヤマトタケ」、 「矢倉の岳に 登り見て」、「キビタケヒコを 大磯へ」、「オオトモタケヒ 大山の」、「北に回りて 城に入れ」、「南北に分ちて ヤマトタケ」、 「髪梳き清め 白樫の」、「太刀をハラミの 御柱と」、「祈る火水の 清祓い」、「龍田の神の 現れて」、「高聳池の 竜の雨」、 「降り火を消せば 宮軍」、「勇みて仇を 半ば討つ」、「皆逃げ散れば 閧を上げ」。
 相模の小野の城の窮状を知った皇軍が急いで足柄山に向かった。城攻めを必死で守る皇軍に対し、仇族は、四方に薪を積上げて七十日間も日照りの続いた後に火攻めを仕掛けた。 相模の館の方面が乾ききって燃え広がているのを、ヤマトタケは矢倉岳に登って遠望して、緊急の作戦を取った。 まず吉備武彦の軍を南側の大磯に向けて出発させて、大伴武日の軍を大山の北側から回って入城させ、南北に分かれて敵を挟み撃ちにして追い詰めた。 ヤマトタケは髪をすき身を清め、死を覚悟した白樫の木刀を富士山の御柱に見立てて火水祓いした。すると、龍田の神(波沈めと火を沈める神)が現われて、高聳(このしろ)池に竜の雨を降らせて火を消し止めた。皇軍は勇み立って反撃に打って出て、敵を半ば撃ち殺しした。敗残兵は皆逃げたので、閧(とき)のこえ(戦勝宣言)を上げた。
 「迎ひ入る時 オト姫は」、「君の手を取り 安んせて」、「僕始め 各々が」、「まさに焼けんを 祈りまし」、「今幸に 拝むとて」、「喜び涙 袖浸す」。
 城門が開き入城した時、オトタチバナ姫は君(ヤマトタケ)に走りより、手を取り、労いの声をかけた。ヤマトタケは、「火攻めににあって焼け死ぬ状況の中で君の祈りが通じたのか何とか無事に帰ってこれた。 今、こうして君のお顔を拝むことができる」と感謝の言葉を申した。オトタチバナ姫はうれし涙で袖を濡らした。
 「ここにモトヒコ 諸に告れ」、「服ろはざれば 殺す故」、「大御宝が 恵り請ふ」、「事始め とて 十二月八日」、「橘篭立てて 標とす」。
 ここでモトヒコがお触れを出した。「以後従わない者があれば殺す」。百姓たちが帰順し、恵みを請うた。事の始めとして12月8日に橘(みかん)を籠に入れて帰順の証とした。
 「時ヤマトタケ 大磯を」、「上総へ渡す 軍船」、「漂ふ風を 静めんと」、「オトタチバナは 舳に上り 天地祈り」、「我が君の 稜威をヤマトに 立てんとす」、「我君のため 竜となり」、「船守らんと 海に入る」、「諸驚きて 求むれど」、「遂に得ざれば 波凪ぎて 御船着きけり」。
 時にヤマトダケは大磯(吾妻神社)から上総国(かずさ湊)に向けて軍船(大亀船)に乗っていた。この時暴風に遭った。暴風を鎮めようとしてオトタチバナ姫は舳先に上り、天地神に祈り、我が君(ヤマトタケ)の稜威がヤマトに立つよう願い、自身が君のために竜の身代わりになって船が無事に着くようにと祈念し、海に身を投げた。皆が驚き、オトタチバナ姫の身を探し求めたが如何ともし難かった。 その後、波は凪いで船は無事に着いた。
 「ヤマトタケ 上総に入れば」、「榊枝に 鏡を掛けて 向かひます」、「カトリトキヒコ ヒデヒコと」、「イキスオトヒコ 予て待つ」、「オオカシマより 御饗なす」。
 ヤマトダケは上総に入って、榊(さかき)の枝に鏡を掛けて霊飾(たまかざり)とし、これを君の御印としておし立てて日高見国へと進軍した。香取神社の神主の香取時彦と鹿島神社の大神主の鹿島秀彦と息栖社の神主の息栖乙彦が既に待っていた。大鹿島国の大鹿島は、多くの兵のために御饗(みあえ)を盛大に開いてもてなした。
 「葦浦(阿字ヶ浦) 越えて 勿来浜」、「仮宮に坐す 日高見の」、「ミチノクシマツ ミチヒコと」、「国造五人 県主」、「百七十四人 万族」、「タケの水門に 拒む時」、「タケヒを遣りて これを召す」、「シマツの神は あらかじめ」、「威多に恐れ 弓矢棄て」、「御前に伏して 服ひぬ」。
 皇軍は、葦浦(あしうら)を越えて、勿来(なこそ)浜に着き、ここに行宮を仮造営して滞在した。日高見の陸奥(みちのく)シマツと島津道彦と国造五人、県主(あがたぬし)等計百七十四人と数万の兵士が竹の水門(湊)に結集して行く手を拒んでいた。ヤマトタケは大伴の武日を勅使として遣わし、両首領を呼び寄せた。島津の神は、事前に君の威勢に恐れをなし、て勝ち目はないと知り、弓矢を捨て、君の御前に降伏して服した。
 「タケヒまた行く 日高見の ミチノクに告ぐ」、「直御使人 ミチノク 門に 出で迎え」、「ミチノク曰く 今汝」、「人の皇 君として」、「仕える汝 衰えり」、「今来て国を 奪わんや」、「タケヒの曰く 神の御子」、「汝を召せど 服わず 故に討つなり」、「応え言ふ これ何の言(こと) 何の謂(いい)」、「それ我が国は 大上祖」、 「タカミムスビの この国を」、「開きて七代 これを継ぐ」、「日の神ここに 道学ぶ 故日高見ぞ」、「天の御子 チチ姫と生む 御子二人」、「兄はアスカ宮 弟はハラミ」、 「その時国を 賜わりて」、「十四の裔の 我までは 他所の治受けず」、「それの君 アスカを討ちて 国を盗る」、「神に違えり 故平れず」、「今また来たり 盗らんとす」、「これも神かや 皇君よ」。
 大伴武日は、再び出向いて、日高見陸奥に告げた。勅使が陸奥門で出迎えた。日高見神陸奥は言った。「今、汝は神ではなく人間の天皇(すべらぎ)に仕えて君(天皇)と言っているが、仕える汝も衰えたものだ。 今頃、ノコノコやって来てわが国を奪うつもりか」。大伴武日は答えて言った。「神の皇子(みこ)が汝を召せど、服(まつろ)わないため、故に討ち滅ぼしに参った」。日高見陸奥が答えて言った。「何を云うか。 それ我が国日高見は、大御祖神(おおみおや)の高皇産霊神(たかみむすび)がこの国を開いて以来、七代の豊受神(伊勢神宮祭神)がこれ嗣(つ)いだ。 日の神の天照神もこの地日高見のヤマテ宮(仙台)で天なるの道を学ばれた。それ故に格別尊ばれるのが日高見である。天の御子は、タクハタチチ姫(豊受の娘)との間に二人の御子を儲けた。 兄(ゑ)はアスカの宮で大和国に封じ、弟(と)はハラミの宮でホツマ国(はらみ山=富士山)に封じた。 その時、天照神から日高見国を賜ったのが我が先祖のタカギ神で、十四(そよ)代の裔(はつこ)の我までは他国の援助を受けず守ってきた。依然、君の君タケヒト(神武)が正統なアスカ宮を討って、ヤマト国を奪った。我々は、それが神の道に反している故に汝らの統治を認めないのだ。 今また突然現われて、国を取らんとする。神足る者の為すべきことではない。皇君よ返答してみよ」。
 「タケヒほほえみ これ汝」、「井中に住んで 沢を見ず」、「言善きに似て 当らずぞ」、「確と聞くべし これ説かん」、「昔アスカの ナガスネが」、「文盗めども アスカ君」、「糺さぬ故に 宣下せ ホツマ方平む」、「天下斎船 万に謳ふ」、「シホツ翁が これ行きて」、「平けざらんや」と 勧む故」、「大和正せば 大御神」、「鹿島の神に 御言宣 行きて討つべし」、「その応え 「我行かずとも」、「国平けの 剣下して」、「タカクラに これ捧げしむ」、「タケヒトは 君たる威徳の ある故に」、「天より続く 神の御子 代々に天照」、「汝代々 君無く暦 何れぞや」、「答えて伊勢と」。
 日高見陸奥の言い分を黙って聴きおえた大伴の武日は微笑んで、次のように述べた。「これ汝、井の中に住んで沢を見ずという言葉を知っているかな。汝の言い分は尤もなことのように思えるが、当たっていないぞ。その訳を説いて聞かせるからしっかりと聞け。昔、アスカの臣のナガスネが無断で春日の神庫から世嗣紀(よつぎふみ)を盗み出したのに、アスカ君が糺さなかった。それ故に、君が宣り下し 「秀真地を平定せよ。天下斎船 万に謳ふ」ことになった。シホツチ翁が、タケヒト(神武)に「今こそ立って国を治めなさい」との進言により、ヤマトを討った。 道中で、天照大神が夢枕に現われて、鹿島神(タケミカヅチ)に向かって詔して「皇軍が苦労しているようだから、お前が行きて討つべし」と命じた。鹿島の神の答えは、「私が行くこともないでしょう。国を成敗する剣を神武天皇に捧げれば済むことです」。夢から覚めたら高倉に剣が捧げられていました 。タケヒト(神武)は君としての人格を充分にそなえて、威徳もあるので天神より続く神の御子として代々に天照(あまてら)しておられる。汝、代々君無くして、暦をいったい誰から受け取っているのか」。こう問うたところ伊勢からであると答えた。
 「また曰く 「天照神  暦成し」、「ソロ植えさせて 糧増やし 身を保たしむ」、「百七十九 万三千続く」、「この世見て 今日輪内に 御座します」、「御孫の代々の 民治む」、「日に擬えて 天君ぞ」、「汝は代々に  実り受け」、「命つなぎて 未だその」、「君に返言 申さぬは」、「その罪積もり 幾らぞや」、「抜け道ありや 我が君は 神ならずや」。
 更に諭した。「天照神が最初に暦を作り授けたので、田植えの時期も正確に出来るようになった。お陰で、民の糧(かて)も増えて、皆、命を保っている。この道は今も百七十九万三千年続いている。この世の治め方を見習って、今、我が君が日輪内(ひのわち、太陽の中心)に御座されて、御孫(みまご)の代々の民を治めている。今や日に擬(なぞら)えて天君(あまきみ)と呼ぶようになっている。 汝は、代々実りを受けて、命を保ちながら、未だにそのことに気づかず、君に感謝の返礼も申さぬ。その罪が積もり積もって計りしれない。君に服する以外の他の方法(抜け道)はない。我が君を神でないとまだ云うのか」。
 「この時に ミチノク及び 皆伏して」、「服ひ来れば ヤマトタケ」、「ミチノク許し 勿来より 」、「北はミチノク  国の守」、「百県の初穂 捧げしむ」、「津軽蝦夷は ミチヒコに」、「七十県初穂 捧げしむ」、「南は常陸 上総・安房」、「ミカサカシマに 賜りて」、「カシマヒデヒコ トキヒコも」、 「オトヒコ三人 御衣賜ふ 」、「国造五人 神の道」、「強いて申せば 召し連れて 至る新治へ」、「蝦夷から 上錦十機 鷲の羽の」、 「尖矢百手 奉る」、「陸奥よりは 黄金十重 」、「クマソ矢百手 奉る」、「この靫重く 二百重あり」、「負い手求むる オオトモの」、「侍 四人 負い替り」。
 この時、武日の説得に応じ、日高見陸奥はじめ全員がひれ伏して服(まつら)い来たので、ヤマトタケは日高見陸奥の罪を許した。 勿来(なこそ)より北を陸奥(みちのく)と名付け賜り、国神(クニツカミ)に新たに任命して、百県(あがた)から初穂(はつほ、年貢)を捧げさせた。 津軽蝦夷(えみし)を島津道彦に与えて、七十県から初穂を捧げさせた。 南は常陸(ひたち)、上総(かずさ)、安房(あわ)をミカサカシマ(大鹿島)に賜わった。 鹿島秀彦、香取時彦、息栖乙彦の三人にはヤマトタケの御衣(みは、着物)を賜わった。国造(くにつこ)の五人が、神の道を学びたいと強いて願い出るので、召し連れてニハリの宮へ向かった(後にこの5人はトリコ(捕虜)という記述になっており、40綾-13で宇治で釈放されることになる)。蝦夷は、上錦十機と、鷲の羽根の尖り矢(石のやじり)を百手(ももて)を奉った。ミチノク(日高見陸奥)からは、黄金を十斤と熊龍矢(クマソヤ)を百手(ももて)奉った。この靱(ゆき、矢を入れる入れ物)が重く強力な負い手を捜した。大伴の武日の侍から四人が代わりばんこで背負った。
 「筑波に登り 君臣も」、「西南経て至る サカオリの」、「宮に日暮れて 灯遅く」、「叱かれば応え 「靫重く」、「疲れ眠りて 暮れ知らず」、「また言ふ四人 「合ひ待ちぞ」、「汝ばかりが 何ど疲る」、「力厭はば 歌を詠め」、「応えて上の 「御代は歌 今は力よ」、「時に君 これ聞こし召し」、「十九初音 歌見に染めて」、「返せよと 詠え給はる」、「新治出 筑波を過ぎて 幾夜日 寝つる」、「諸済さず 火灯しヨスナ」、「君の歌 返し申さく」、「かがなえて 夜には九の夜 日には十日を」。
 君臣は筑波山に登った。そこから西南へと向かい、諏訪の酒折宮(大伴武日の本拠地:甲府市)に着いたときには日が暮れてしまっていた。松明(たびまつ)を持ち、重いものを担いできたから遅くなってしまった。遅くなったことを叱ったら、靱(ゆき)が重たくて、疲れてしまい、つい寝てしまい、日が暮れたことに気がつかなかったと弁解した。すると、四人で交互に持ったのに、なぜ、お前だけが疲れるのだ、力仕事が嫌なら歌を読みなさい。これに対して、重たい靱(ゆき)を持つことになったその侍が、神の代は歌であったかもしれないが、今は重たいものを持つ力が要るのだと訴えた。この会話を聞いていた君(ヤマトタケ)は十九歌の発句を歌札(うたみ:短冊)に染めて(書いて)、返歌しなさいと皆の中(侍者中)へ捧げた。「にいはり(新治:水戸線にある地名)地区から、筑波を通過して、幾晩寝た事だろう」。諸侍(皆)返し歌が出来なかったら、「ひとぼしよすな」が君の歌に返し歌を申し上げた。「かがなえて 夜には九の夜 日には十日を」(考えてみると、夜は九泊(九の夜)なのに、昼(日)は十日たっています)。
 「ヤマトタケ 火灯し褒めて タケタ村」、「他はハナフリ タケヒをば」、「靫侍を兼ねて 甲斐・駿河」、「二国守と 殊を褒む 」。
 ヤマトタケは、返し歌を聴いて、「ひとぼしよすな」を誉めて、タケダ村(笹子峠を出た所)を賜わった。その他の侍たちは賃金(花降り:砂金・銀)を賜わつた。大伴の武日はお宝(ゆきべ)を兼ねて、甲斐、駿河を賜り、両国の国神(守護神)として事を褒め称えた。
 「君山の日は 靫休み」、「我が君に言ふ 統君 僕等ハナフリ」、「ソロリには タケタ賜はる 何の殊」、「タケヒの曰く 歌の殊」、「また問ふ彼は アワならず 何の歌ぞや」、「また曰く 連歌昔」、「サユリ姫 歳十九の時」、「タギシ御子 慕ひ恋ふ故」、「その父が 呼び出す時に」、「姫悟り 除く連歌」、「天つ地 娶ります君と 何ど割ける止」、「その連子 数えて中を 壺要」、「この歌続き 数え物」、「折合せ目に けりもあり」、「君と我とは 続きけり」、「よこかめ(やっかむ)取るを 逆しまに」、「るとめに止めて 断ち切れば」、「忠も操も 表わせり」、「故十九 もツズ 物もツズ 続き歌なり」。
 君が山に入った日は 靫担ぎも休みとなった。この時、休み中の侍が、不満をぶちまけた。わが君(ヤマトタケ)に言ってくれ。皆は賃金しかもらえないのに、「そろり」(ひとぼしよしなの実名)にはたけだ村を賜ったのはなぜだ。不公平過ぎるではないか。大伴の武日は、それは歌を作ったからだと答えた。そうしたら、再び問うた。それ(かれ)はアワの歌((5・7調)になっていないではないか。一体何の歌なんですか? ここで、大伴武日が昔、つずうたが発祥した経緯の説明を始めた。

 昔、神武天皇の隠しお妃であった早百合(さゆり)姫が19歳のときのこと、神武天皇は恐妻家であったので早百合姫とは密会していました。神武天皇が九州を統治していた頃、アビラツ姫(中宮:正妻で三島と伊予の両国を管轄していたかなりやり手の出身)との間に生まれた長男「たぎしみこ」がこの早百合姫に横恋慕してしまった。分かりやすく言えば、父親の先妻との間に生まれて成人した男の子が、父親の年もまだ若くてかわいい隠れ妻に手を出そうとしたことになる。早百合姫の父親(久米)が、呼び出したので、早百合姫は悟って、災いを取り除く「つづうた」を突きつけました。「あめつつち とりますきみと などさけるどめ」(天つ地 鳥り増す君と(求愛行動・つがう) 何ど(何故)裂ける止め 私と天皇とは太陽と月の関係で、もう離れることは出来ません。なぜ、私たちの間の関係を壊そうとするのですか)。

 その十九音で歌った歌の最初から数えて真ん中の10番目を折り返し点(すなわち:き)を壺要(つぼ・かなめ)と言う。この歌続きと上の句には「つず」があります。数えもの(中の句のことで十番目に「き」が君のことが入っています)。そして、折り合わせ目(下の句のこと)には蹴りも入っています(蹴り返すの意味で此処では「ける」になっている) 故にに十九もツズ「もの」(人物)もツズ(十九歳) よって、続き歌(連歌)なりけり。
 「ナツカハギ ここに居て問ふ」、「継ぎありや タケヒ答えて」、「八十ありて 初は起りと」、「次は受け 三つは転たに 四つ合せ」、「五つは立言 六つは連れ」、「七は尽詰 八つは尽き」、「表四連ね 忠操  両方に通わす」、「裏四連れ 果つば頭の」、「五ヲシテへ 巡らし連ぬ」、「その継ぎは 打ち越し心」、「転去本に群がる」、「一連ね 十六を一織」、「総べ五織 八十を百とし 織は二十」、「故織留の ツズハタチ」、「織初のツズ 合い要」、「織詰のツズ 三十九ハナ 三の詰め五十九」、「ツズ"サツメ 四の詰め七十九」、「ツズフツメ 五の詰め九十九」、「ツズツクモ 五節匂いの」、「花は百合 本歌は君」、「その余り 枝や裔を」、「八十続き なお深き旨 習い受くべし」。
 七柄脛(なつかはぎ:人名)がここに居て問うた。「歌の続きはあるのですか」。大伴武日は答えて言った。「一連八十句ありて、発句は『起こり』と云う。次(二つ目)の句は『受け』と云い、三つ目の句は『転たに』と云う。四つ目の句は『合わせ』と云う。五つ目の句は『只事』、六つ目の句は『連れ』、七つ目の句は『尽き詰め』、八つ目の句は『尽き』と云う。表四連ね 忠実(まめみさほ)を両手(まて)に通わせます。裏四連れの発は頭の五ヲシテを巡らし連ねます。その継ぎは 打越し心 転去元に群がり一連ねにし 十六句を一織とします。総べ五織で八十を百として一織二十句とします。故に、織留めのツズは二十機。織初のツズは合い要となり、織詰めのツズは三十九花 第三織の詰めは五十九となる。ツズ早詰の第四織の詰めは七十九 ツズ文詰の第五織の詰めは九十九。ツズツクモは五節句匂い(香花)の花は百合で、元歌は君。その余り続きは支族や子孫がうめて行きます。八十連続き 尚深遠なる旨を良く習って受けなさい。
 「また問ふは 八十を百とす 数如何ん」、「答えは要 また配る 歌を二十」、「返し問ふ ユリが初めか」、「答え言ふ 上代にもあり」、「御祖神 連のヲシテや」、「天御子の 日向に坐す」、「ヤマト方の 流行り歌にも」、「乗り下せ ホツマ方平む 天も斎船」、「シホツツヲ 勧めてヤマト 討たしむる」、「これ折返に 天日西あり」、「故討ち取るを 好しとなす」、「ユリ姫も十九(歳) 歌も十九(音)」、「忠と操と 表わせば」、「続き歌詠む 法となる」。
 また問う。「八十の句を百句に数えるのはどういうことですか」。大伴武日の答えは、閉じる側(要側)には各歌の元歌が配される。元歌は毎回出るので合計一織二十句になる云々。再び質問した。「歌は百合姫(早百合姫)が初めてですか」。大伴武日が答えた。「もっと昔からある。御祖神の連のヲシテがそうである。神武天皇(あめみこ)が日向にいた時、中央(ヤマト)が荒れてきたという流行歌(はやりうた)にもある。「乗り降せ ホツマ方平む 天も斎船」(天皇よ、やって来て、ホツマ地方を治めてください。天も斎船)。しほつちの翁(はやみ県主:九州の豪族)がヤマトを討たしめた。この歌を逆に読むと「あ」・「ひ」・「つ」が含まれており、「あまひつぎのきみよ」を意味しています。故に、討ち取るを好しとしております。百合姫もつづ(十九)、歌もつづ(十九)であり、まめ(忠義)と操の両方を織り込んでいるのがつきうた(連歌)の法となりました。
 「遂にホツマの 政り事」、「天に通れば 悉く 服う時ぞ」、「歌は国 力は値 賜はりし」、「君は神かと 皆愛つむ」。
 ついに真秀の政治が天下に行き渡ったので、全てのハタレ(反逆者たち)や全国の神も従う時が来た。戦いが終わって平和になった。歌は国と引き換えになるほど重要な価値のあるものです。力仕事は単なる賃金です。ヤマトタケから賜り、配下の八十神たちは君(ヤマトタケ)を神として敬い皆愛でた。
 「去年より継つき 雨晴れて」、「一月二十八日 み雪降り」、「君ソリに召し 行き至る」、「相模の館に 入りませば」、「野に片鐙 トラガシハ」、「拾ひ考え 鐙挿し 今奉る」、「珠飾り 褒めて賜わる」、「村の名も タマカワアフミ」、「ミサシ国 相模の国と モトヒコに」、「名付け賜わる 国津神」。
 昨年より引き続き天気は快晴であったが一月二十八日は大雪が降った。君(ヤマトタケ)はソリにお乗りになって相模の館に入った。トラガシワが、野戦で失った君の片方の馬具の鐙(あぶみ)を拾って考えた末、榊の枝にさして、御霊飾(みたまかざり)として、君の御前に奉った。君はトラガシワを誉めて、玉川あぶみ村(現厚木市)と名付けて褒賞として賜った。戦歴の地をミサシ(献上:武蔵)国と命名し、サガム(相模)国と一緒にタチバナモトヒコに与え国津神に取り立てた。
 
 「マチカ・テチカの 臣二人」、「ヲトタチハナの 櫛と帯」、「得れば嘆きて 姫のため」、「連り天引の 祀りなす」、「これソサノヲの オロチをば」、「連りヤスカタ 神となし」、「ハヤスヒ姫も アシナツチ」、「七姫祀る 例し以て」、「形見をここに 塚となし」、「名も吾妻守 大磯に」、「社を建てて 神祀り ここに留まる」。
 マチカ、テチカの臣(とみ)の二人は漂着したオトタチバナ姫が身に着けていた櫛と帯を得たことにより嘆き悲しんだ。オトタチバナ姫の為に連り天引(連雁天引、雁がつながって天を引くように御霊を天に届ける)の祀りをした。これは昔、ソサノウがヤマタノオロチを退治したとき、連りヤスカタを神として、ハヤスヒ姫やアシナツチ、七姫を祀った例にならったもので、形見の品はオオイソの山に塚を造って埋め、名も吾妻守(アヅマモリ)と名付けた。マチカ、テチカの二人はオトタチバナ姫の御霊をお守りして代々ここ大磯に留まった。
 「ハナヒコは 我が先御魂 知ろしめし」、「川合の野に 大宮を」、「建てて祀らす ヒカワ神」、「軍器は 秩父山」、「二月八日に 国周り 」、「服ふ標 橘篭を」、「屋棟に捧げ 事納め」、「ホツマの代々の 習わせや」。
 ハナヒコ(ヤマトタケ、日本武尊、倭建命)は 先祖の御霊がスサノウであると固く信じたので、川と川の合流地点の野に、先祖スサノウを奉るため氷川神社を建てて祀った。(昔、スサノウがヤマタノオロチを退治した場所がヒカワであったためヒカワの名を付けたことになる。氷川神社という神社は関東地方以外ではほとんど見受けられない)。用済みになった軍器(いくさうつわ」は秩父山(武甲山)に収めた(埋めた)。そして、2月8日にこの近辺の国(武蔵の国など)に、未だ反乱分子がいないかどうか巡回して廻った。みかんの籠を家の棟に捧げているのを従っている印にさせた。これがホツマの国の代々の慣わしになった。(しめ飾りにみかんを使うようになった始めと考えられる)
  
 「碓氷の坂に ヤマトタケ」、「別れし姫を 思ひつつ」、「東南を望みて 思ひ遣り」、「形見の歌見 取り出だし 見て」、「実々し 相模の小野に 」、「燃ゆる日の 火中に立ちて 訪ひし君はも」、「これ三度  吾妻あわやと 嘆きます」、「あづまのもとや」。
 武蔵の国を後にして、いよいよ関東に別れを告げようと、箱根の碓氷峠(日本書紀では碓日坂)に来た時、ヤマトタケは、オトタチバナ姫(日本書紀では弟橘媛、古事記では弟橘比賣命)が嵐を鎮めようと入水したときの情景を思い出して感無量になった。峠から「きさ=東南」の海に向かって、今は亡き妻のオトタチバナ姫が詠んだ形見の歌冊(うたみ)を胸からそっと取り出し、「実々し 相模の小野に 燃ゆる日の 火中に立ちて 訪ひし君はも」と歌を3度詠んで、「あづまあわや」と悲しみ嘆き涙した。これがあづま(吾妻、私の妻)の語源である。(それまでは、「ホツマの国」と呼ばれていた。なお、ホツマツタエの「これ三度  吾妻あわやと 嘆きます」の記述に対して、日本書紀は、「三歎曰、吾嬬者耶。故因號山東諸國、曰吾嬬國也」(みたびなげきてのたまわく、かれよりて、やまのひがしのもろもろのくにをいふ、あづまのくにとなり)。古事記は、「三歎詔云、阿豆麻波夜。故、號其國謂阿豆麻也」(みたびなげかして、のりたまひき、あづまはやと。かれ、なづけて、そのくにを、いふ、あづまと、なり)と記している)。
 「追分に 吉備タケヒコは 越方行く」、「国盛衰を 見せしむる」、「タケヒは先に 相模より」、「ヱミシの土産  持ち上り」、 「帝に捧げ 悉く」、「服ふ形 申さしむ」。
 追分(旧軽井沢、信濃追分)に、吉備武彦は越路へ向かった。そして越前・越中・越後の国々で、謀反を起こすものがいないかどうか査察して行った。大伴の武日は先に相模よりエミシの土産(みやげ、戦利品)を持ち上り、みかど(まきむきのひしろの宮)に捧げた。そして、エミシらが従った様子を説明申し上げた。
 「一人御幸の ヤマトタケ」、「信濃・木曽方は 山高く」、「谷幽(かすが)にて 葛折り」、「懸橋伝ひ 馬行かず」、「雲分け歩み 飢え疲れ」、「峰の御饗に 現る白鹿」、「前に穢気吐き 苦しむる」、「君は知ろして  蒜一つ」、「弾けば眼 打ち殺す」。
 ヤマトタケが一人で行かれた信濃木曽路は山は高く、谷は深く、道は九十九折(葛)で懸け橋を伝って行った。馬(むま)は行かない道で、雲の中を行くようであった。恵那山の所は難所であった。餓えて疲れはててしまった。峯での食事のとき突然山の神が白鹿が現われ、君の前で息を吐いて(毒気を吐いて)苦しめた。君は悟ってひる(行者にんにく)を投げつけたら目に当たって殺してしまった。
 「なお雲覆ひ 道断つを」、「火水の祓ひ 三度宣る」、「シナトの風に 吹き払ふ」、「神の白狗 導きて」、「美濃に出づれば タケヒコも」、「越より帰り ここに会ふ」、「先に木曽方の 衰え臥すも 祓い免る」、「鹿の霊は 蒜を噛み塗り」、「邪気に 当らじものと 語り給ひき」。
 それでも、雲はおおっていて、道をふさいでいたので、火水の祓いを三度唱えた。風の神が現われて、雲を吹き払ってくれた。神が白犬となって導きだしてくれて無事、美濃にたどり着けた。吉備武彦も越中より帰り美濃で会った。木曽路(みさか峠)でのけがれ(毒気)に苦しんだが、打ち払って命からがら抜け出しました。その後は、行者にんにくを噛んで体に塗って毒気に当たらないようにしようと語りあった。





(私論.私見)