ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)37 |
(最新見直し2011.12.25日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)37、鶏合せ橘の文」を説き分ける。原文は和歌体により記されている。「」、「37綾 目次」、「37 鶏合わせ(とりあわせ)但馬守橘樹(たちばな)のアヤ」その他を参照しつつ、れんだいこ訳として書き上げることにする。 2011.12.24日 れんだいこ拝 |
【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)37、鶏合せ橘の文】 | |
タジマモリ、常世国(とこよくに)と橘樹(たちばな) | |
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とりあわせ たちはなのあや | 鶏合せ 橘の文 |
たまきみや ふそなほはつき なかをみと | 珠城宮 二十七穂八月 七日ヲミト |
いくさうつわお みてくらに うらとえはよし | 兵器(いくさうつわ)を 幣(みてくら)に 占問えば吉 |
ゆみやたち もろのやしろに をさめしむ | 弓矢太刀 諸の社に 納めしむ |
かんへさためて よりよりに | 神部定めて 度々(よりより)に |
うつわにまつる はしめなり | 器に祀る 初めなり |
ふそやほかんな ゐかまかる | 二十八穂十月 五日罷る |
あにやまとひこ ねつきふか おもむろおくる | 兄ヤマトヒコ 十一月二日 骸(おもむろ)送る |
つきさかに はへるひとらお | 築坂に 侍る人等を |
いきなから うつめはさけひ つひにかる | 生きながら 埋めば叫び 終に枯る |
いぬとりはむお きこしめし | 犬鳥食むを 聞こし召し |
あわれにおほす みことのり | 哀れに思す 詔 |
いきおめくまて からするは いたましひかな | 「生きおめくまで 枯らするは 痛ましいかな |
ふるのりも よからぬみちは やむへしそ | 古法(ふるのり)も 好からぬ道は 止むべしぞ」 |
みそほはつむか みことのり | 三十穂正月六日 詔 |
みこゐそきねと たりひこと | 御子ヰソキネと 足彦と |
のそむところお もふすへし | 「望む所を 申すべし」 |
ゐそきねいわく ゆみやゑん | ヰソキネ曰く 「弓矢得ん」 |
たりひこいわく くらいゑん | 足彦曰く 「位得ん」 |
きみふたみこの のそむまま | 君二御子の 望むまま |
ゆみやたまわる あにのみや | 弓矢賜わる 兄の宮 |
おとはくらいお つくへしと | 「弟は位を 継ぐべし」と |
みそふほふつき むかまかる | 三十二穂七月 六日罷る |
きさきひはすの みおくりは | 后ヒハスの 御送りは |
もろとみめして みことのり | 諸臣召して 詔 |
さきのおひかれ よからねは | 「先の追枯 好からねば |
このおこなひは いかにせん | この行ひは 如何にせん」 |
のみのすくねか もふさくは | 野見のスクネが 申さくは |
いけるおうつむ ためしとは | 「生けるを埋む 例しとは |
あによからんや はからんと | あに良からんや 諮らん」と |
いつものはしへ ももめして | 出雲の埴仕侍(はしへ) 百召して |
はにてこおよひ くさくさの | 埴偶(はにてこ)および 種々の |
かたちつくりて たてまつる | 形造りて 奉る |
いまよりのちは はしものお | 「今より後は 埴仕物(はしもの)を |
いけるにかえて みささきに | 生けるに代えて 御陵(みささぎ)に |
うえてためしと なすへしや | 埋えて例しと 成すべしや」 |
きみよろこひて みことのり | 君喜びて 詔 |
なんちかはかり わかこころ | 「汝が諮り 我が心 |
よしとはにわの たてものお | 好し」と埴生の 奉物(たてもの)を |
のちのためしと さたまりて | 後の例しと 定まりて |
のみのすくねお あつくほめ | 野見のスクネを 篤く褒め |
かたしところお たまわりて はしのつかさそ | 鍛し所を 賜わりて 埴仕(はし)の司ぞ |
みそみとし みわのたたねこ | 三十三年 三輪のタタネ子 |
やましろか たちにいたれは さらすとふ | 山背が 館に到れば サラス問ふ |
むすめひとりお みやにこふ | 「娘一人を 三家に乞ふ |
たれにやりても ふはうらむ こめさしたまへ | 誰に遣りても 二は恨む 極め指し給へ」 |
こたえいふ | 答え言ふ |
あすかもかみの みまえにて | 「明日賀茂神の 御前にて |
こめさためんと ともにゆく | 極め定めん」と 共に行く |
みをやのかみに にきてなし たてまつるわか | 御祖の神に 和幣なし 奉る和歌 |
みそみとし 一月六日 | 三十年一月六日 |
あめつちの みよのさかえお いわはるる | 「天地の 弥の栄えを 祝はるる |
めをのみをやのか みそたふとき | 夫婦の御祖の 神ぞ貴き」 |
ときにかみ つけのみうたに | 時に神 告げの御歌に |
よのなかに ものおもふひとの | 「世の中に もの思ふ人の |
ありといふは われおたのまぬ ひとにそありける | 有りと言ふは 我を頼まぬ 人にぞありける」 |
かみうたお ききてたたねこ | 神歌を 聞きてタタネ子 |
いわくこれ まよふゆえなり | 曰く「これ 迷ふ謂なり |
いまよりそ ももかもふてて | 今よりぞ 百日詣でて |
きたりませ われはからんと | 来たりませ 我 図らん」と |
ゆくきふね たたねこかうた | 行く貴船 タタネ子が歌 |
あわうみの あつみのかみと | 「淡海の 安曇(あつみ)の神と |
すみのゑも ともにきふねの まもりかみかな | 住之江も 共に貴船の 守り神かな」 |
かもにゆき わけいかつちの | 賀茂に行き ワケイカツチの |
かみもまた にきてとわかと | 神もまた 和幣(にきて)と和歌と |
ひとくさお わけいかつちの まもるゆえ | 「人草を ワケイカツチの 守る故 |
みよはおさまる かものかんかせ | 御世は治まる カモの神風」 |
たたねこは しるしささけて | タタネ子は 璽(しるし)捧げて |
かものみや あるるおふして おもみれは | 「賀茂の宮 荒るるを伏して 思みれば |
かもといせとは みをやなり | 賀茂と伊勢とは 御祖(みおや)なり |
すてにやふれて いつほそし | 既に破れて 稜威細し |
まもりほそきは おとろひか | 守り細きは 衰ひか」 |
きみきこしめし たたねこか | 君聞こし召し タタネ子が |
まこくらまろお いわひぬし | 孫クラマロを 斎主 |
なもおおかもと かもやしろ さらにつくらせ | 名も大賀茂(大鴨積命)と 賀茂社 新に造らせ |
ねつきもち みをやわたまし | 十一月十五日 御祖渡坐(わたま)し |
あすそむか わけいかつちの みやうつし | 翌十六日 ワケイカツチの 宮遷し |
おおたたねこお さおしかの にきておさむる | 太田タネ子を 直御使(さおしか)の 和幣納むる |
つきのとし かもにみゆきの みちつくり | 次の年 賀茂に御幸の 道造り |
さらにうちはし つくりきの きつはかりはし | サラに宇治橋 作り東の 木津は仮橋 |
やよひはひ やそともそろえ | 三月初日 八十供揃え |
みやこてて たまみつやとり | 都出て 玉水宿り |
ふかかあひ みてくらおさむ | 二日河合 幣(みてぐら)納む |
みをやかみ やましろふちか みあえなす | 御祖神 山背フチが 御饗(みあえ)なす |
みかきふねより かもにゆき | 三日貴船より 賀茂に行き |
わけいかつちの おほかみに みてくらおさめ | ワケイカツチの 大神に 幣納め |
かもすみか にいとのまえに とりけあふ | カモスミが 新殿前に 鶏蹴合ふ (鶏合せ) |
きみたのしめは わらんへか | 君楽しめば 童んべが |
いろよきとりお ほめいわく いよかまはたよ | 色良き鶏を 褒め曰く 「いよ カマハタよ」 |
きみとけす まてにとふいま | 君解けず 左右に問ふ「今 |
わらんへか かまはたはなに | 童んべが カマハタは何」 |
いわくこれ はやりうたなり | 曰く「これ 流行り歌なり |
おほくにか むすめかまはた うつくしく | 大国が 娘カマハタ 美しく |
あめにかかやく これなつく | 大に輝く これ名付く |
よかうちにゆく みちすから | 四日宇治に行く 道すがら |
よきひとえんは しるしあれ | 「好き人得んば 徴あれ」 |
ほことりいのり おほかめお つけはなるいし | 矛取り祈り 大亀を 突けば成る石 |
これしるし うちのかめいし | これ徴 宇治の亀石 |
かえるのち さらすかむすめ よひのほせ | 帰る後 サラスが娘 呼び上(のぼ)せ |
かまはたとへお きさきとし | カマハタトベを 后とし |
いわつくわけの みこおうむ いむなとりひこ | イワツクワケの 御子を生む 斎名トリヒコ |
ふちかめの かりはたとへも | フチが女の カリハタトベも |
みをやわけ ゐいしたりひこ | ミヲヤワケ ヰイシタリヒコ |
ゐたけわけ みたりうむなり | ヰタケワケ 三人生むなり |
みそゐほの なつきゐそきね | 三十五穂の 九月ヰソキネ |
たかいしと ちぬのいけほる | 高石と 茅渟(ちぬ)の池掘る |
めつきほる さきとあとみと | 十月掘る 狭城(さき)と迹見(あとみ)と |
もろくにに やものいけみそ つくらしむ | 諸国に 八百の池溝 造らしむ |
なりわひふえて たみとめる | 生業(なりわい)増えて 民富める |
みそなほはつひ をみゑたつ | 三十七穂初日 ヲミヱ立つ |
たりひこはそや よつきみこ | タリ彦は十八 世嗣御子 |
みそこほめつき ゐそきねは | 三十九穂十月 ヰソキネは |
うちみてつくる ちつるきお | 打ちみで造る 千剣を |
あかはたかとも なおつけて おしさかにおく | 赤ハタカとも 名を付けて 忍坂(おしさか)に置く |
このときに しとりへたてへ | この時に シトリ部タテ部 |
おほあなし ゆみやはつかし | オホアナシ 弓矢刃造仕 |
たまへかみ あまのおさかへ ちのへきへ | 玉部神 天の刑部(おさかべ) 地のヘキ部 |
たちはかせへの としなへお あはせたまわる | 太刀ハカセ部の 十品部を 合わせ賜わる |
にしきみこ ちつるきうつす | ニシキ御子 千剣移す |
いそのかみ かみかかすかの | 石上(いそのかみ) 神が春日の |
いちかわに つけおさめしむ | 市川に 告げ納めしむ |
にしきみこ つかさとなせる | ニシキ御子 司となせる |
むそよとし さみたれよそか ふりつつき | 六十四年 五月雨 四十日 降り続き |
いなたみもちに いたみかる | 稲田みもちに 傷み枯る |
きみにもふせは みつからに | 君に申せば 自らに |
かせふのまつり なしませは | 風フの祀り なしませば |
やはりわかやき みつほなる | やはり若やぎ 瑞穂なる |
かえりもふての ほつみおも | 帰り詣での 穂ツミをも |
みつからまつり たまふゆえ くにゆたかなり | 自ら祀り 給ふ故 国豊かなり |
やそなほの きさらきゐかに | 八十七穂の 二月五日に |
にしきみこ いもとにいわく | ニシキ御子 妹に曰く |
われをひぬ みたからもれよ | 「我老ひぬ 御宝守れよ」 |
をなかひめ いなみていわく | 大中姫 辞(いな)みて曰く |
たおやめの ほこらたかくて | 「手弱女(たおやめ)の 祠高くて」 |
またいわく たかけれはこそ | また曰 「高ければこそ |
わかつくる かみのほこらも | 我が造る 神の祠(ほこら)も |
かけはしの ままとうたえは | 懸梯の まま」と歌えば |
をなかひめ ものへとちねに またさつく | 大中姫 物部トチネに また授く |
たにはみかそか いゑのいぬ | 丹波ミカソが 家の犬 |
なはあしゆきか くひころす | 名はアシユキが 食ひ殺す |
むしなのはらに やさかにの | 狢(むじな)の腹に 八坂ニの |
たまありおさむ いそのかみ | 珠あり納む 石上 |
やそやふみそか みことのり | 八十八年七月十日 詔 |
われきくむかし しらきみこ | 「我聞く昔 新羅御子 |
ひほこかつとの たからもの | ヒボコが苞(つと)の 宝物 |
たしまにあるお いまみんと | 但馬にあるを 今見ん」と |
ひほこかひまこ きよひこに | ヒボコが曽孫 清彦に |
さおしかやれは たてまつる | 直御使遣れば 奉る |
はほそあしたか うかかたま | ハホソアシタカ ウカカ珠 |
いつしこかたな いつしほこ | 出石小刀 出石矛 |
ひかかみくまの ひもろけす | 日鏡熊の ひもろけす |
いてあさのたち やつのうち | イテアサの太刀 八つの内 |
いつしこかたな のこしおき | 出石小刀 残し置き |
そてにかくして はきいつる | 袖に隠して 佩き出づる |
すへらきこれお しろさすて | 天皇これを 知ろさずて |
みきたまはれは のむときに | 御酒賜はれば 飲む時に |
はたよりおちて あらわるる | 肌より落ちて 露わるる |
きみみていわく それなんそ | 君見て曰く 「それ何ぞ」 |
ここにきよひこ かくしゑす | ここに清彦 隠し得ず |
ささくたからの たくいなり | 「捧ぐ宝の 類なり」 |
きみまたいわく そのたから | 君また曰く 「その宝 |
あにはなれさる たくいかと | あに離れざる 類か」と |
よつてささけて おさめおく | よって捧げて 納め置く |
のちにひらけは これうせぬ | 後に開けば これ失せぬ |
きよひこめして もしゆくや | 清彦召して 「もし行くや」 |
こたえもふさく さきのくれ | 答え申さく 「先の暮 |
こたちみつから きたれとも | 小太刀 自ら 来たれども |
そのあすのひに またうせぬ | その翌の日に また失せぬ」 |
きみかしこみて またとわす | 君畏みて また問わず |
おのつといたる あはちしま | 自づと至る 淡路島 |
かみとまつりて やしろたつ | 神と祀りて 社建つ |
こそほきさはひ みことのり | 九十穂二月一日 詔 |
かくおもとめに たしまもり とこよにゆけよ | 「橘を求めに タジマモリ トコヨに行けよ |
わかおもふ くにとこたちの みよのはな | 我が思ふ クニトコタチの 御代の花」 |
こそこほさしゑ あふみはひ きみまかるとし | 九十九穂サシヱ 七月初日 君罷る歳 |
ももみそな みこのもはいり | 百三十七 御子の喪衣入り |
よそやよる はにたてものし | 四十八夜 埴奉物し |
しはすそか すからふしみに | 十二月十日 菅原伏見に |
みおくりの たひもかかやく かみのみゆきそ | 御送りの 松明(たひ)も輝く 神の御幸ぞ |
あくるはる やよひにかえる たしまもり | 明くる春 三月に帰る タジマモリ |
ときしくかくつ ふそよかこ | ときじく橘つ 二十四篭 |
かくのきよさほ かふよさほ | 橘の木四竿 株四竿 |
もちきたるまに きみまかる | 持ち来たる間に 君罷る |
みやけなかはお わかみやえ | 土産半ばを 若宮へ |
なかはおきみの みささきに ささけもふさく | 半ばを君の 御陵に 捧げ申さく |
これゑんと はるかにゆきし とこよとは | 「これ得んと 遥かに行きし トコヨとは |
かみのかくれの およひなき | 神の隠れの 及びなき |
ふりおなしむの ととせふり | 風習(ふり)を馴染むの 十年経り |
あにおもひきや しのきゑて さらかえるとは | あに思ひきや 凌ぎ得て 更帰るとは |
すへらきの くしひによりて かえるいま | 天皇の 奇し日によりて 帰る今 |
すてにさります とみいきて | 既に去ります 臣生きて |
なにかせんとて おひまかる | 何か為ん」とて 追ひ罷る |
もろもなんたて かくよもと | 諸も涙で 橘四本 |
とのまえにうゑ かふよもと すかはらにうゆ | 殿前に植え 株四本 菅原(菅原伏見陵)に植ゆ |
のこしふみ みこみたまひて かくきみか | 遺し文 御子見給ひて 香久君が |
はなたちはなは かれかつま | 花橘は 故が妻 |
おしやまやりて よはしむる | オシ山遣りて 呼ばしむる |
ちちもとひこと のほりくる | 父元彦と 上り来る |
みこよろこひて もとひこに | 御子喜びて 元彦に |
ゆるしはたまひ もおつとむ | 許し衣賜ひ 喪を務む |
はなたちはなか さつきまつ | 花橘が 五月末 |
よはにうむこに みことのり | 夜半に生む子に 詔 |
むかしのひとの をおととむ | 「昔の人の 緒を留む |
をとたちはなと なおたまひ | 弟橘」と 名を賜ひ |
にたるすかたの おしやまに | 似たる姿の オシ山に |
とつくははこも をんめくみ | 婚ぐ母子も 御恵み |
ふかきゆかりの ためしなるかな | 深き由縁(ゆか)りの 例しなるかな |
鶏合せ 橘の文 |
「珠城宮 二十七年八月 七日ヲミト」、「兵器(いくさうつわ)を 幣(みてくら)に 占問えば吉」、「弓矢太刀 諸の社に 納めしむ」、「神部定めて 度々(よりより)に」、「器に祀る 初めなり」。 |
垂仁天皇の代、たまき宮二十七年八月「なか」(中旬)、「ほつま暦」の「おみと」に、武器(いくさうつわ:弓・矢・刀など)を神殿に捧げものとして占ったところ(ふとまに:今のおみくじの基になったもの)、「良し」と出た。弓・矢・刀を沢山の社(やしろ)に納めさせた。神部(かんべ、神社に属して、租・庸・調や雑役を神社に納めた民戸)を定めて(現在の住民票の始まり)、「よりより」(寄り合いの度ごと、季節の節々)に「いくさうつわ」(武器)を神器として祀る始めとなった。 |
「二十八年十月 五日罷る 」、「兄ヤマトヒコ 十一月二日 骸(おもむろ)送る」、「築坂に 侍る人等を」、「生きながら 埋めば叫び 終に枯る」、「犬鳥食むを 聞こし召し」、「哀れに思す 詔」、「生きおめくまで 枯らするは 痛ましいかな」、「古法も 好からぬ道は 止むべしぞ」。 |
たまき宮28年十月五日、垂仁天皇の兄のヤマトヒコ(崇神天皇と「めくうし姫」との間に生まれた御子)が亡くなられ。十一月二日、葬儀(おもむろ:死体を送る)が行なわれた。築坂(つきさか、柏原の北側)に埋葬された。この時、御子に従ってきた人々を生き埋めにして殉死させた。苦しがって泣き叫び続けて遂に死んだ。野犬や鳥が食いついているのを見、突付くのが聞こえきて哀れに思った。そこで、垂仁天皇が詔を発した。「生きたまま死に至らせるのは痛ましい限りである。古い法典であっても好ましからざる道は止めるべし」。 |
「みそほはつむか 詔」、「御子ヰソキネと タリヒコと」、「望む所を 申すべし」、「ヰソキネ曰く 「弓矢得ん」、「タリヒコ曰く 位得ん」、「君二御子の 望むまま」、「 弓矢賜わる 兄の宮」、「弟は位を 継ぐべしと」。 |
たまき宮三十年一月六日、垂仁天皇の詔。「御子のヰソキネ(兄、にしきいりひこ)とタリヒコ(弟、やまとおしろわけで後の景行天皇)よ、何が望みか」。兄のヰソキネは弓が欲しいと言った。弟のタリヒコは位が欲しいと言った。君(垂仁天皇)は、二人の御子の望みを聞いて、その望みどおり叶えた。兄の宮(いそぎね)には弓矢を賜り、弟には位(天皇の位)を継ぐようにと申された。 |
「三十二年七月 六日罷る」、「后ヒハスの 御送りは」、「諸臣召して 詔」、「先の追枯 好からねば」、「この行ひは 如何にせん」、「ノミのスクネが 申さくは」、「生けるを埋む 例しとは」、「あに良からんや 図らんと」、「出雲の埴仕侍(はしへ) 百召して」、「埴偶(はにてこ)および 種々の」、「形造りて 奉る」、「今より後は 埴仕物(はしもの)を」、「生けるに代えて 御陵に」、「埋えて例しと 成すべしや」、「君喜びて 詔」、「汝が図り 我が心」、「好しと埴生の 奉物(たてもの)を」、「後の例しと 定まりて」、「ノミのスクネを 篤く褒め」、「鍛し所を 賜わりて 埴仕(はし)の司ぞ」。 |
たまき宮三十二年七月六日、中宮の后ヒハス姫がお亡くなりになられた。葬儀(見送り)について諸臣を集めて詔。「今までの追い枯れ(殉死すること)は良くないことなので、今度の葬儀はどのようにすべきだろうか」。ノミのスクネが申し上げるには、「生きたまま埋めるという例(お手本、見本、前例)は良くないので止めませう。何か他の方法を考えませう」。これにより、出雲の土師部(はしべ)を百人召して、埴でこ(土人形)及びいろいろ(くさぐさ)な形のもの(馬・舟・建物など)を作ってお納めした。「今後は、埴仕物(はしもの、土で作ったもの)を行きた人間に代えて陵に埋めて納め、今後の例と為すべしです」。君(垂仁天皇)は大層喜ばれ、詔を発した。「汝(のみのすくね)が計画したものは、私の思う心と同じである。これを好しとして、今後は埴生(はにわ)の奉物(たてもの)を後世への手本にするよう定める」。発案者のノミのスクネを大変誉めて、鍛し所(かたしところ)という称号を賜わり、土師部(はしべ)の司とした。 |
「三十三年 ミワのタタネコ」、「山背(山背国造)が 館に到れば サラス問ふ」、「娘一人を 三家に乞ふ」、「誰に遣りても 二は恨む 極め指し給へ」、「答え言ふ 明日賀茂神の 御前にて」、「極め定めん」と 共に行く」、「御祖(みおや)の神に 和幣成し 奉るワカ(和歌)」。 |
たまき宮三十三年、三輪のタタネコ(おおたたねこ)が、山背(山背国造)の館(たち)に行ったとき、おおくにのサラス(兄)がこう問うた。「私には一人娘がいますが、豪族三家から嫁に欲しいと請われている。三人の内の誰に娘をやっても後の二人が恨みますので困っております。如何したら良いか指図して(決めて)ください」。タタネコが答えて言うには、「明日、賀茂神社に行くので、神前で決めましょう」。一緒に行き、御祖(みおや)の神に和幣(にぎて)を成し、和歌を奉った。 |
「三十年一月六日」、「天地の 弥の栄えを 祝はるる」、「夫婦の御祖の 神ぞ貴き」、「時に神 告げの御歌に」、「世の中に もの思ふ人の」、「有りと言ふは 我を頼まぬ 人にぞありける」。 |
三十年一月六日、天地のみよのさかえを祝い「夫婦の御祖の 神ぞ貴き」と歌った。すると、神から歌で返事があった。「世の中に、物思う人がいるのは、その人は我を信じることができない可哀想な人であろう」。(この歌は、娘を誰に嫁がせるか迷っている、「おおくにのさらず」の相談の答えになっている) |
「神歌を 聞きてタタネコ 」、「曰くこれ 迷ふ謂なり」、「今よりぞ 百日詣でて」、「来たりませ 我図らんと」、「行く貴船 タタネコが歌」、「央海の 安曇(あつみ)の神と」、「スミノヱも 共に貴船の 守り神かな」。 |
神のこの返しの歌を聞いて、タタネコ曰く「これは心の迷いがあるからである。今日から百日の詣でる行をしに来なさい。そうすれば自ずと決まるでせう」。そして貴船神社の尊厳を称えて歌を詠んだ。「央海の安曇(あつみ)の神とスミノヱも 共に貴船の守り神かな」。 |
「賀茂に行き ワケイカツチの」、「神もまた 和幣(にきて)と和歌と」、「人草を ワケイカツチの 守る故」、「御世は治まる カモの神風」、「タネコは 璽捧げて 帰り申さく(小笠原写本は「たゝねこは しるしさゝげて」)」、「賀茂の宮 荒るるを伏して 思みれば」、「賀茂と伊勢とは 御祖(みおや)なり」、「既に破れて 稜威細し」、「守り細きは 衰ひか」、「君聞こし召し タタネコが」、「孫クラマロを 斎主」、「名もオオカモ(大鴨積命)と 賀茂社 新(さら)に造らせ」。 |
その後、賀茂神社へ行き、「ワケイカツチの神にも和幣(にきて)と和歌を奉納した。 「人草を ワケイカツチの守る故 御世は治まる カモの神風」。タネコが璽捧げて、たまき宮に帰って天皇に申し上げた。「賀茂の宮に行って見たところ大変荒れていました。心を伏して(神を崇めて謙虚に)重んじて考えて見ると、賀茂と伊勢とは御祖(みおや)神であります。 しかし、賀茂の宮は既に壊れていて稜威(いづ)が細くなっています。こういうことでは尊ぶ心が細くなり衰えてしまうのではないかと憂います」。君(垂仁天皇)は、それを聞きて、タタネコの孫のクラマロを斎主にして、名前をオオカモ(大鴨積命)と賜わり、賀茂の社を修復させた。 |
「十一月十五日 御祖渡坐(わたま)し」、「翌十六日 ワケイカツチの 宮遷し」、「オオタタネコを 直御使(さおしか)の 和幣納むる」、「次の年 賀茂に御幸の 道作り」、「サラに宇治橋 作り木の 木津は仮橋」。 |
たまき宮三十三年十一月十五日、賀茂神社で御祖渡坐(わたま)し(建て替え工事のため神様の御霊を仮屋へお移しする行事)があった。明くる十六日、賀茂神社のワケイカツチ神の宮を移した。オオタタネコを天皇の勅使(さおしか)として和幣(にぎて)を納めた。翌年の三十四年、垂仁天皇が賀茂に御幸されるための道を作った。そして、新しく宇治橋を作り、木の集積所であった木津には仮橋を架けた。 |
「三月初日 八十供揃え」、「都出て 玉水宿り」、「二日河合 幣納む」、「御祖神 山背フチ (山背国造)が 御饗(みあえ)なす」。 |
たまき宮三十四年三月一日、垂仁天皇は八十神を引き連れて、都(たまき宮)を出て、玉水に一泊した。二日目、河合(高瀬川と賀茂川が合流する所)で、みおや神に幣(みてくら)を納めた。御祖神の山背フチ (山背国造)が歓迎の御饗(みあえ)をした。(みかきぶねより )「かもにゆき わけいかつちの おほかみに みてぐらおさめ」) |
「三日貴船より 賀茂に行き」、「ワケイカツチの 大神に 幣納め」、「カモスミが 新殿前に 鶏蹴合ふ (鶏合せ) 」、「君楽しめば 童んべが」、「色良き鶏を 褒め曰く いよカマハタよ」、「君解けず 左右に問ふ今」、「童んべが カマハタは何」、「曰くこれ 流行り歌なり」、「大国が 娘カマハタ」、「美しく 大に輝く これ名付く」。 |
三日、貴船から上賀茂に行き、ワケイカツチの大御神に幣(みてくら)を納めた。カモスミ(おおたたねこの孫のくらもの)が、新殿の前で闘鶏をやっていた。それを見て、きみ(垂仁天皇)は楽しんだ。その時、子供たちが、美しい鳥を褒めて「いよーっ!かまはだよーっ!」と声をかけた。しかし、君(垂仁天皇)は何のことだかわからず、両側にいた臣たちに問うた。「今、子供が言ったカマハタとは何のことを言っているのか」。答えて曰く、「今の流行語(はやりうた)です。おおくにの娘のカマハタが大変美しく、天に届くほど知れ渡っている絶世の美人だと聞いております。このことから名告げられたものと思われます」。
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「四日宇治に行く 道すがら」、「好き人得んば 徴あれ」、「矛取り祈り 大亀を 突けば成る石」、「これ徴 宇治の亀石」。 |
四日目は宇治に行った。道すがら、この良き美人カマハタを自分のものにしたいと願い、しるしあれと、矛を取り出して、天に祈った。その時、大亀が出てきたので突付いた。そうすると、その亀は石になった。これが、宇治の亀石の謂れである。 |
「帰る後 サラスが娘 呼び上せ」、「カマハタトベを 后とし」、「イワツクワケの 御子を生む 斎名トリヒコ」、「フチが女の カリハタトベも」、「ミヲヤワケ ヰイシタリヒコ」、「ヰタケワケ 三人生むなり」。 |
都へ帰った後、おおくにさらずの娘のカマハタトベを呼んで上京させ、妃とした。その後、イワツクワケの御子をんだ。ふちがめの娘カリハタトベも宮に入り、「ミヲヤワケ、ヰイシタリヒコ、ヰタケワケの三人の御子を生んだ。 |
「三十五年の 九月ヰソキネ」、「高石と 茅渟(ちぬ)の池掘る」、「十月掘る 狭城(さき)と迹見(あとみ)と」、「諸国に 八百の池溝 造らしむ」、「生業(なりわい)増えて 民富める」。
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たまき宮三十五年の九月、ヰソキネ(にしきいりひこ、後の景行天皇(たりひこ)のお兄さんにあたる)は、河内の高石と茅渟(ちぬ)のため池を掘った。十月(陰月:めづき)、狭城(さき)と迹見(あとみ)を掘り池とした。続いて諸国に八百ものため池を作らせた。これによりお陰で稲の収穫が増えて、民の生活が豊かになった。
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「三十七年初日 ヲミヱ立つ」、「タリヒコは十八 世嗣御子」。 |
たまき宮三十七年元旦、タリヒコは皇太子になられた。十八歳で世継ぎ皇子になった。(タリヒコは後の景行天皇になる) |
「三十九年十月 ヰソキネは」、「打ちみで造る 千剣を」、「アカハタカとも 名を付けて 忍坂(おしさか)に置く」、「この時に シトリ部タテ侍」、「オホアナシ 弓矢刃造仕(はつかし)」、「珠瓮守(たまべかみ) 天のオサカ侍 地のヘキ侍」、「タチハカセ侍の 十品侍(としなへ)を 合わせ賜わる」。 |
たまき宮三十九年十月、ヰソキネ(にしきいりひこ、後の景行天皇のお兄さんにあたる)は、打ちみで造った千本の剣をアカハタカという名前をつけて忍坂(おしさか、昔、神武天皇が苦戦した場所)に奉納した。この時、ヰソキネは、 「しとりべ」(古代布、麻木綿の古代の織物を司る部)、 「たてべ」(楯をつくる専門職)、 「おおあなし」(すもう神社、つわもの主、後の兵頭を司る部)、 「ゆみ、や、刃」(弓矢刃つくり部)、「たまべ」(珠を作る部)、 「あまのおさかべ」(天に逆らうものを取り締まる部)、 「へきべ」(千本の剣を置く部)、 「たちはかせべ」(太刀を佩(は)かせる部)、以上の十部を合せて賜われた。 |
「ニシキ御子 千剣移す」、「石上(いそのかみ) 神が春日(県主)の」、「イチカワに 告げ納めしむ」、「ニシキ御子 司となせる」。 |
ニシキ御子が、この千本の剣を「おしざか」から「いそのかみ」に移した。天の告示があって、「にしみこ」から、春日の「いちかわ」に移した。春日のニシキ御子がこの千本の剣を守る直接の担当になった。 |
「六十四年 五月雨 四十日 降り続き」、「稲田みもちに 傷み枯る」、「君に申せば 自らに」、「カセフの祭 なしませば」、「やはり若やぎ 瑞穂成る」、 「返り詣での 果実をも」、「自ら祀り 給ふ故 国豊かなり」。 |
たまき宮六十四年、五月雨が四十日間降り続いた。稲が稲熱(いもち)病になって、傷んで死んでしまった。君(垂仁天皇)に申し上げたら、天皇が自ら「かせふ」(しなとべの神に祈って、雨雲を吹き掃う)の祀りをしたら(為す)、再び(やはり)稲穂が若返って、水穂(稲穂)ができたた。「かえりもうで」(お礼参り)の穂積(初穂)も、自ら奉納して祀り(旧暦の八月一日に)賜わったので国が再び豊かになった。 |
「八十七年の 二月五日に」、「ニシキ御子 妹に曰く」、「我老ひぬ 御宝守れよ」、「ヲナカ姫 辞みて曰く」、「嫋女(たおやめ)の 祠高くて」、「また曰 高ければこそ」、「我が造る 神の祠も」、「懸梯の ままと訴えば」、「ヲナカ姫 モノベトチネに また授く」、「丹波ミカソが 家の犬」、「名はアシユキが 食ひ殺す」、「狢の腹に ヤサカニの」、「珠あり納む 石上」。 |
たまき宮八十七年二月五日、ニシキ御子(いそぎね、景行天皇の兄)が、妹の「おなか姫」に、「私はもう老いたので十種(トクサ)の御宝を私に代わって守ってくれ」と申した。 「おなか姫」が辞退して(いなみて)言うには、「私はかよわくて(手弱女、たおやめ)、ほこらが高い(責任が重過ぎます)ので、とてもお引き受けできません」。再びニシキ御子が言うには、「ほこらが高いからこそ、私が作ったものだからこそ尊いものなのだ。かみのほこらも かけはしのまま」。つまり、迷うことなく、神の意向のままに任せなさい。天と地を結ぶかけはしを守って下さいと歌った。「いその宮」の「おなか姫」は、「にしきみこ」から受け継いだこの十種(トクサ)の御宝を、更に「ものべとちね」に譲った。「たにはちみちうし」の家の犬が、名前は「あしゆき」と言いますが、食い殺したタヌキ(むじな)の腹から「やさかに」の勾玉(まがたま)が出てきたので、石上(いその神)に納めた。 |
「八十八年七月十日 詔」、「我聞く昔 新羅御子」、「ヒボコが苞(つと)の 宝物」、「但馬(出石神社)にあるを 今見んと」、「ヒボコが曽孫 キヨヒコに」、「直御使遣れば 奉る」、「ハホソアシタカ ウカカ珠」、「イツシ小刀 イツシ矛」、「ヒ鏡奠(くま)の 胙陶(ひもろけす)」、「イテアサの太刀 八つの内」、「イツシ小刀 残し置き」、「袖に隠して 佩き出づる」、「皇これを 知ろさずて」、「御酒賜はれば 飲む時に」、「肌より落ちて 露わるる」、「君見て曰く 「それ何ぞ」」、「ここにキヨヒコ 隠し得ず」、「捧ぐ宝の 類なり」、「君また曰く その宝」、「あに離れざる 類かと」、「よって捧げて 納め置く」。 |
タマキ宮の八十八年六月十日、君(イクメイリヒコ・イソサチ)が詔して、 「私が聞いたところによると、昔、新羅の皇子のヒボコが土産に持参した大事に包まれた神宝が宝物が但馬にあると云う。今、その宝物を見たい」。ヒボコの曾孫のキヨヒコに勅使(さおしか)を使わしたところ、キヨヒコは、君の詔を受けて以下のものを献上した。 「はぼそ」(葉細玉)、 「あしたか」(足高玉)、 「うかがたま」(鵜鹿玉)、 「いつしこがたな」(出石小刀)、 「いづしほこ」(出石矛)、 「ひかがみ」(日像鏡)、 「くまのひもろげず」(熊神籬)、 「いてあさのたち」(出浅の太刀)の八品。昔、新羅の皇子のヒボコが持参したものでした。 キヨヒコはこの八つの内、「いつしこがたな」(出石小刀)だけ残し、袖に隠し持って、何食わぬ顔で太刀を自ら佩いて昇殿した。皇はこのことに気がつかなくて、お神酒を賜ったところ、キヨヒコが飲もうとした時、肌身につけていた小刀が落ちて露見した。 君は、落ちたものを見て、「それは何ぞや」と聞いた。キヨヒコは隠し切れないと悟り、「献上すべき宝の一つです」と答えた。 君が再び言うには、その宝はそんなに離し難い物なのですかと問われた。 このような経緯があって、「いつしこがたな」(出石小刀)は結局捧げられ、宮中の神蔵に納められた。 |
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「後に開けば これ失せぬ」、「キヨヒコ召して もし行くや」、「答え申さく 先の暮」、「小太刀自ら 来たれども」、「その翌の日に また失せぬ」、「君畏みて また問わず」、「自づと至る 淡路島」、「神と祀りて 社建つ」。 |
後日、神蔵を開いてみると、この「いつしこがたな」(出石小刀)が消え失せていた。 君は、再びキヨヒコを召して、「あの小刀の行方を知らないか」と問いただしました。キヨヒコが答えて言うには、「昨年の暮れ、小刀が自ら帰って来ましたが、明くる日又消え失せてしまいました」。 君は、二度とこの件には触れなかった。 「いつしこがたな」(出石小刀)は、自らの落着き先を求めて淡路島に至っていた。その地にヒボコを神として祀る社が建てられた。 |
「九十年二月一日 詔」、「橘を求めに タジマモリ トコヨに行けよ」、「我が思ふ クニトコタチの 御代の木」。 |
たまき宮九十年二月一日、垂仁天皇の詔がありました。「橘樹(たちばな、みかんの木)を求めに、(来日した新羅の皇子「ひぼこ」の曾孫「きよひこ」の子供にあたる)タジマモリに常世国に行って来るように。我が思うには、橘樹(たちばな)はクニトコタチが宮前に植え国を開いたという御世の花である」。(垂仁天皇は自分の寿命を察していて、死ぬ前に一度、御世の花(橘の花)を見ておきたいと願われたと考えられる)。 |
「九十九年 サシヱ 七月初日」、「君罷る歳 百三十七」、「御子の喪罷入り 四十八夜 埴奉物し」、「十二月十日 菅原伏見に」、「御送りの 灯も輝く 神の御幸ぞ」。 |
たまき宮九十九年のほつま暦さしえの七月初日、君(垂仁天皇)が崩御された。百三十七歳。 皇太子は喪に服して、四十八日目の夜、喪が明け陵に「はに」(埴輪)を建てた。十二月十日、菅原伏見(垂仁天皇の陵)で葬送の儀が行なわれを表し、御送りの松明の灯で明るく照らして神送りした。 |
「明くる春 三月に帰る タジマモリ」、「研き優く橘果 二十四篭」、「橘の木四竿 株四竿」、「持ち来たる間に 君罷る」、「土産半ばを 若宮へ」、「半ばを君の 御陵に 捧げ申さく」、「これ得んと 遥かに行きし トコヨとは」、「神の隠れの 及びなき」、「風を馴染むの 十年経り」、「あに思ひきや 凌ぎ得て 更帰るとは」、「皇の 貴日によりて 帰る今」、「既に去ります 臣生きて 」、「何か為ん」とて 追ひ罷る」、「諸も涙で 橘四本 」、「殿前に植え 株四本 菅原(菅原伏見陵)に植ゆ」。 |
垂仁天皇が亡くなられた明くる年の春三月にタジマモリが帰ってきた。選りすぐりのかぐ(橘樹)の実を二十四籠、かぐ(橘樹)の木を四本(棹)、かぐ(橘樹)の株(根)を四本(棹)持って来たが、その道中で君はお罷りになられた。かぐ(橘樹)の土産の半分を若宮(景行天皇、まきむき日代の宮)へ捧げ、半分を君(垂仁天皇)の陵(みささぎ)に捧げて申し上げた。 「これ(かぐ、橘樹)を求めるために、はるか遠くまで行って来ました。常世とは神の住む秘境(神仙)で比べものがありませんでした。土地の習慣に馴染むのにも十年の年月がかかってしまいました。今やっとの思いで帰って来ました。皇の思いに応えんとしてやっとの思いで帰って参りましたのに、君は既にお亡くなりになっており、この世でもうお会いすることができません。君が居ない今生きていく甲斐がありません」と言って天皇の後を追い死んでしまった。諸臣たちも皆もらい泣き(涙)し、かぐ(橘樹)の木、四本を殿の前(倍塚、垂仁天皇の陵の傍)に植え、かぐ(橘樹)の株を四本、菅原(垂仁天皇を祀る菅原伏見陵)に植えた。 |
「遺し文 御子見給ひて 橘君が」、「ハナタチバナは 故が妻」、「オシヤマ遣りて 呼ばしむる」、「父モトヒコと 上り来る」、「御子喜びて モトヒコに」、「許し衣賜ひ 喪を務む」。 |
タジマモリは遺し文「(遺言)を東宮(わかみや・オシロワケ、タリヒコ)に残していた。これを皇子(後の景行天皇)がご覧になって、橘モト彦の娘の花橘姫がタジマモリの現地の妻であることを知った。 皇子は、オシヤマすくねに、呼び寄せる(連れて来る)ように命令した。花橘姫は父橘モト彦と一緒に上京した。 皇子は喜ばれて、橘モト彦に貴族としての待遇を許す官位の御衣を賜い、タジマモリの葬儀の喪主を務めさせた。 |
「ハナタチバナが 五月末」、「夜半に生む子に 詔」、「昔の人の 緒を留む」、「ヲトタチバナと 名を賜ひ」、「似たる姿の オシヤマに」、「婚ぐ母子も 御恵み」、「深き縁りの 試しなるかな」。 |
花橘姫が五月末の夜中に生んだ子供に皇子(後の景行天皇)が詔をした。「亡くなったタジマモリの御霊の緒を留めているので、生まれた子供の名をヲトタチバナにするが良い」と名前を賜わられた。ヲト橘は面影がタジマモリに似ていた。花橘姫母子は、生前のタジマモリに似ていたオシヤマに婚ぎ、幸せに暮らした。深いゆかり(エミシ)の前例(ためし)となった。
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(私論.私見)