ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)36

 (最新見直し2011.12.25日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)36、ヤマト姫神鎮む文」を説き分ける。原文は和歌体により記されている。「」、「36綾 目次」、「36 ヤマト姫(大和)伊勢皇太神(かみ)鎮座(しずむ)のアヤ」その他を参照しつつ、れんだいこ訳として書き上げることにする。

 2011.12.24日 れんだいこ拝


【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)36、ヤマト姫神鎮む文】
 ヤマト姫、伊勢宮を定む
 やまとひめ かみしつむあや      ヤマト姫 神鎮む文
 たまきみや こほなつきそむ きさきゆめ      珠城宮 九穂九月十六日 后夢 
 やまとおおくに かみのして      ヤマト大国 神の垂(しで)
 たまえははらみ つきみちて      賜えば孕み 月満ちて 
 うますにやめて みとせのち     生まずに病めて 三年後 
 なつきそむかに うむみこの なはやまとひめ      九月十六日に 生む御子の 名はヤマト姫  
 あとやみて かなつきふかに ははまかる    後病みて 十月二日に 母罷る  
 つづきかばいの つきのかみ なげきまつりて つづきかばいの 月の神 嘆き祀りて
 そゐとしの きさらきもちに    十五年の 二月十五日に
 めすたには みちのうしのめ     召す丹波 道の治人(うし)の女
 ひはすひめ ぬはたにいりめ     ヒハス姫 ヌハタニ入姫
 まとのひめ あさみにいりめ たけのひめ      マトノ姫 アサミニ入姫 竹野姫
 はつきはつひに ひはすひめ きさきにたてて       八月初日に ヒハス姫 后に立てて     
 いとみたり すけとうちめに たけのひめ      妹三人 スケと内侍に 竹野姫
 ひとりかえせは はつかしく          一人返せば 恥かしく 
 こしよりまかる おちくにそ      輿より罷る オチ国ぞ
 そやとしさつき そかきさき              十八年五月 十日后  
 うむみこにしき いりひこの いむなゐそきね   生む御子ニシキ 入彦の 諱(いみ名)ヰソキネ
 ふそまふゆ うむみこやまと     二十年真冬  生む御子ヤマト
 をしろわけ いむなたりひこ     ヲシロワケ 諱タリ彦
 つきにうむ おおなかひめと     次に生む 大中姫と
 わかきにの いむなはるひこ    ワカギニの 諱春彦
 すけぬはた うむぬてしわけ     スケヌハタ 生むヌデシワケ
 つきにうむ いかたらしひめ     次に生む イカタラシ姫
 あさみうむ いけはやわけと あさつひめ       アサミ生む イケハヤワケと アサヅ姫
 ふそみほなつき つみゑはの ふかみことのり              二十三穂九月 ツミヱ初の 二日詔
 ほんつわけ ひけおひいさち     「ホンツワケ 髭生ひ騒(いざ)ち
 ものいわす これなにゆえそ     もの言わず これ何故ぞ」
 もろはかり やまとひめして いのらしむ      諸議り ヤマト姫して 祈らしむ
 かんなやかきみ とのにたつ             十月八日君 殿に立つ
 ときほんつわけ とふくくひ       時ホンツワケ 飛ぶ鵠(くくひ) 
 みていわくこれ なにものや          見て曰く「これ 何ものや」
 きみよろこひて たれかこの とりとりゑんや          君喜びて 「誰かこの 鳥捕り得んや」
 ゆかわたな とみこれとらん     ユカワタナ 「臣これ捕らん」
 きみいわく とりゑはほめん     君曰く 「捕り得ば褒めん」
 ゆかわたな くくひとふかた おひたつね     ユカワタナ 鵠飛ぶ方 追ひ尋ね 
 たしまちいつも うやゑにて ついにとりゑて       但馬路出雲 ウヤヱにて 遂に捕り得て
 ねつきふか ほんすのみこに たてまつる     十一月二日 ホンズの御子に 奉る
 みこもてあそひ ものいえは       御子持て遊び もの言えば 
 ゆかわおほめて とりとりへ かはねたまわる ユカワを褒めて 鳥取部 姓賜わる
 ふそゐほの きさらきやかに みことのり 二十五穂の 二月八日に 詔
 たけぬかわけと くにふくと  タケヌカワケと 国フクと   
 みかさかしまと といちねと たけひらもろに       三笠鹿島と  トイチネと タケヒ等諸に
 わかみをや みまきはさとく ほつましる   「我が御親 御マキは聡く ホツマ知る   
 あやまりたたし へりくたり      誤り正し 謙(へ)り下り   
 かみおあかめて みおこらす        神を崇めて 己を懲らす
 かれそろあつく たみゆたか          故繁(ぞろ)篤く 民豊か     
 いまわかよにも おこたらすか みまつらんと    今我が世にも 怠らず 神祀らん」と   
 やよいやか あまてるかみお とよすきは  三月八日 天照神を トヨスキは
 はなちてつける やまとひめ           放ちて付ける ヤマト姫
 むかしとよすき かみのつけ               昔豊スキ 神の告げ 
 みたまけかつき よさにゆく          御霊笥(げ)担ぎ 与謝に行く  
 このはしたては かさぬいの        この橋立は 笠縫の(相成山傘松) 
 ゑよりみやつの まつにくも たなひきわたす 江より宮津の 松に雲 棚引き渡す 
 みつかきの みそこやよみか みことのり 瑞籬(みつかき)の 三十九年三月三日 詔
 けくにのおとと たけみくら いわひぬしとし              ケクニの大臣 タケミクラ 斎主とし  
 いますのこ たにはみちうし みけのもり       イマスの子 タニハミチウシ  御食の守  
 あめのひおきは かんぬしに      天のヒオキは 神主に
 ふりたまはねき とよけかみ            振魂は禰宜 豊受神
 あまてるかみお まつらしむ          天照神を 祀らしむ  
 みちうしみけの かんめくみ よきみこゑたり            ミチウシ御供の 神恵み 良き御子得たり
 とよすきは ささはたみやに かえります        豊スキは 佐々波多宮に 帰ります
 またかみのつけ ををかみの かたみいたたき       また神の告げ 大神の 形見頂き
 あふみより みのおめくりて いせいいの     淡海より 美濃を巡りて 伊勢飯野
 たかひおかわに すすととむ           高日小川に 鈴留む    
 たかみやつくり しつめます         高宮造り 鎮めます
 ふそふほしはす すえやかに               二十二穂十二月 二十八日に  
 やまとめよしこ ことしそひ       ヤマト姫良子 今年十一
 かみにみつきの みつえしろ            神に貢ぎの 御杖代 
 わかこをやこか ともなひて    ワカゴ親子が 伴ないて 
 うすめかみくし あくるとて            ウスメが御櫛 上ぐるとて
 おとすくしたに としこえて   落す櫛田に 年越えて  
 いてたつはつひ あけのはら         出で立つ初日 明けの原   
 いせたかみやに いりませは       伊勢高宮に 入りませば   
 おはとつかえて なつきひめ       叔母と仕えて 九月(なつき)姫
 かゐもてあにの こといのる かれいゐのみや           粥以て兄の こと祈る  故飯野宮
 みとせのち とよすきよはひ ももみつて       三年後 豊スキ齢 百三つで  
 みつえならすと みならわせ           御杖ならずと 見習わせ  
 かねてねかえは このたひは            予て願えば この度は
 よしこおうちの をみことし          良子を内の 大巫女(をみこ)とし   
 みたまけかつき いゐのより       御霊笥(みたまげ)担ぎ 飯野より 
 いそへにうつし しつめます          磯辺に移し 鎮めます 
 よきみやところ さにありと          「良き宮所 南に在り」と  
 わかこおやれは ゐすすかわ      ワカゴを遣れば 五十鈴川
 ふもやよろほの さるたひこ わかこにいわく             二百八万歳の 猿田彦 ワカゴに曰く
 われむかし かみのたまもの さこくしろ         「我昔 神の賜物 サコクシロ   
 うちみやにいれ あらみたま           宇治宮に入れ 荒御魂 
 やよろほまちし かんたから           八万穂待ちし 神宝
 あまつひつきの さかほこき             天つ日嗣ぎの サカホコキ  
 うつくしきすす わいきたち かかんのんてん        美しき鈴 地生(わいき)太刀 カカンノンテン  
 ときまちて みちあらわせと    時待ちて 道現わせと
 おほろけの ものならすかれ     朧げの 物ならず故
 こにもゑす そのぬしおまつ     子にも得ず その主を待つ
 これさつけ なかたうまれの つちきみは      これ授け 長田生まれの 辻君は (サルタヒコ)
 もとにかえらん もちかえり つけよとてさる         「元に還らん 持ち帰り 告げよ」とて去る
 おおわかこ かえりもふせは     オオワカゴ 帰り申せば
 やまとひめ うちにいたりて みていわく      ヤマト姫 宇治に至りて 見て曰く 
 これかんかせの いせのみや     「これ神風の 伊勢の宮 
 みくさはまつる みなもとと         三種は祀る  源」と 
 いやまひかえす あくらいし           敬(いやま)ひ返す あぐら石
 おおはたぬしと やそともに           オオハタ主と 八十供に
 ゐそすすはらの くさからせ           五十鈴原の 草刈らせ   
 おちこちやまの きおきらせ        遠近(おちこち)山の 木を伐らせ
 もとすえもとし まなかもて          本末戻し 真中以て
 おおみやはしら しきたてて           大宮柱 敷き立てて
 ちきたかしりて みやなれは           千木高知りて 宮成れば  
 みかとにもふし みことのり      帝に申し 詔
 みかさのをとと いわひぬし          「三笠の大臣 斎主    
 わたらひとみは かんぬしに  度会(ワタラヒ)臣は 神主に
 あへたけぬかお みかわりと            アべタケヌガを 御代りと 
 わにくにふくお うちかわり        ワニクニフクを 内代り 
 ものへとちねお みうえから           物部トチネを 御上から  
 たけひあさとお みこかわり            タケヒ(大伴タケヒ)朝臣を 御子代り」
 おのおのもふて ふそむほの なつきそむのか       各々詣で 二十六穂の 九月十六の日
 ををんかみ ゐそすすかわの さこくしろ     大御神 五十鈴川の サコクシロ
 うちにわたまし そなかのよ           宇治に渡まし 十七日の夜  
 みたけはしらお をさめしむ      御丈柱を 納めしむ
 これすへらきの みつからの          これ天皇の 自らの 
 たけのみやこに そろいのり           丈の都に 繁祈り 
 あめかせのふし ほとよくて          雨風の節 程良くて 
 ゆたかになれと ふしやすみ          豊かに実れと 伏し窶(やす)み   
 いやまひもふす みめくみや         敬(いやま)ひ申す 御恵や  
 かみもよろこひ つけいわく         神も喜び 告げ曰く
 むかしわかすむ さこくしろ   「昔我が住む サコクシロ
 しきなみよする いせのみや  しきなみ寄する 伊勢の宮
 なかくしつまり まもるへし           永く鎮まり 守るべし   
 とよけのかみと もろともそ        豊受の神と 諸共ぞ」 
 やまとひめより これおつく          ヤマト姫より これを告ぐ
 きみよろこひて にきてなし          君喜びて 和幣(にぎて)なし    
 とよけのかみえ さおしかは       豊受の神へ 直御使は 
 みわのみけもち いわひとは たにはみちうし           三輪の御食持ち 斎人は タニハミチウシ  
 くにぬしの かみのおしえは            国主の 神の教えは  
 ををんかみ つきおおほして いせのみち                 「大御神 嗣を思して 伊勢の道   
 やもひとくさお いけめくむ            八方人草を 活け恵む  
 かれかつをやき ちきのうち        故カツヲ八木 千木の内 
 そくはうちみや うちかろく やたみゆたかに 削ぐは内宮 内軽く  八民豊かに
 またとよけ さかほこののり     また豊受 逆矛の法
 あめのほし こくらあらわし     天の星 九座表し
 かつをこき ちきはとおそく     カツヲ九木 千木は外を削ぐ
 かれとみや うちあつくいつ     故外宮 内厚く厳
 たみのちち おそれみちゑよ     民の父 畏れ道得よ
 うちみやは きみははのこお めくむのりかな       内宮は 君母の子を 恵む法かな」

【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)36、ヤマト姫神鎮む文】
 ヤマト姫 神鎮む文
 「珠城宮 九年九月十六日」、「后夢 ヤマトオオクニ 神の垂」、「賜えば孕み 月満ちて」、「生まずに病めて 三年後」、「九月十六日に 生む御子の 名はヤマト姫」、「後病で 十月二日に 母罷る」。
 たまき宮(垂仁天皇)の九年九月十六日、二度目の中宮の妃の夢にヤマトオオクニ(大国魂)が現われ、神の垂(しで)を賜わった。その途端に孕んだ(懐妊した)が月が満ちても(月を経ても)生まれなかった。その後、三年経った十二年九月十六日に生まれた御子の名前をヤマト姫と名付けた。 しかし、母のツヅキカバヰ姫は産後病になってしまい、十月二日にお亡くなりになった。
 「ツヅキカバヰの 十五年の 二月十五日に」、「召す丹波 道の治人(うし)の女」、「ヒハス姫 ヌハタニイリ姫」、「マトノ姫 アサミニイリ姫 タケノ姫」、「八月初日に ヒハス姫 后に立てて」、「妹三人 スケと内侍に」、「タケノ姫 一人返せば 恥かしく」、「輿より罷る オチ国ぞ」。
 たまき宮十五年二月十五日、垂仁天皇は新しいお妃(三代目)を召された。さほ姫が自分の後見に薦めた丹波道治人(うし)の五人姉妹娘を長女ヒハス姫、次女ヌハタニイリ姫、三女マトノ姫、四女アサミニイリ姫、五女タケノ姫と云う。八月一日に、ヒハス姫を妃(中宮)に向かい入れた。そして、妹の三人を、「すけ妃」と「うちめ」にそれぞれ取り入れた。五人目のタケノ姫は宮中に入れず、一人だけ国に帰した。タケノ姫は自分だけ皇に気に入られなかったことが恥ずかしく、一人だけ国へ帰る道中で、御輿から身を投げて自殺してしまった。その地を落ち国と云う。
 「十八年五月 十日后 」、「生む御子ニシキ イリヒコの いむ名ヰソキネ」、「二十年真冬  生む御子ヤマト」、「ヲシロワケ 斎名タリヒコ」、「次に生む オオナカ姫と」、「ワカギニの 斎名ハルヒコ」、「スケヌハタ 生むヌデシワケ」、「次に生む イカタラシ姫」、「アサミ生む イケハヤワケと アサヅ姫」。
 たまき宮十八年五月十日、妃(中宮のヒハス姫)が皇子を産み、ニシキイリヒコ、いむ名をヰソキネと名付けた。(景行天皇の兄になる)。二十年の真冬に生んだ皇子はヤマトオシロワケで真名(いみな)がタリヒコ。(後の十二代景行天皇になる) 次に生まれたのがオオナカ姫とワカギニで真名(いみな)がハルヒコ。すけ妃になった二番目のヌハタ姫が生んだ皇子がヌデシワケで、その次に生んだ姫がイカタラシ姫。四番目のアサミ姫が生んだ子供はイケハヤワケ皇子とアサヅ姫。
 「二十三年九月 ツミヱ初の 二日詔」、「ホンツワケ 髭生ひ騒ち」、「もの言わず これ何故ぞ」、「諸議り ヤマト姫して 祈らしむ」。
 たまき宮二十三年九月二日、君(垂仁天皇)の詔があった。「我が子のホンツワケ(垂仁天皇と最初のお妃「さほ姫」との間に生まれた子)は髭が生える年になってもまだ子供のように物も言えない。これは一体どうしたことだろう」。諸臣たちは協議して、やまと姫に祈らせた。
 「十月八日君 殿に立つ」、「時ホンツワケ 飛ぶ鵠(くくひ)」、「見て曰く これ何ものや」、「君喜びて 誰かこの 鳥捕り得んや」、「ユカワタナ 臣これ捕らん」、「君曰く 捕り得ば褒めん」、「ユカワタナ 鵠飛ぶ方 追ひ尋ね」、「但馬路出雲 ウヤヱにて 遂に捕り得て」、「十一月二日 ホンズの御子に 奉る」、「御子持て遊び もの言えば」、「ユカワを褒めて 鳥取部 姓賜わる」。
 十月八日、君(垂仁天皇)が、高殿に立たれた時、ホンツワケが、空を飛ぶ白鳥(くぐい:鵠)を見て曰く「あれは一体何ものだ?」。君は喜び、「誰か、この鳥を取ってはくれないか」と申された。ユカワタナ臣(武将)が、私が取りましょうと申し出たところ、君曰く「もし取ってきたら誉めてつかわそう」。ユカワタナは白鳥(くぐい:鵠)が飛んでいった方を追い尋ね行き、但馬路を経て、出雲のウヤヱという所でやっと取らえることができた。十一月二日、白鳥をホンツワケ皇子に奉った。ホンツワケ皇子は喜び、白鳥と楽しく遊び、ものを言うようになった。君は、ユカワタナ臣を誉めて、鳥取部の姓を賜れた。(「とりとり」が鳥取の語源となる)。
 「二十五年の 二月八日に 詔」、「タケヌカワケと クニフクと」、「三笠鹿島と  トイチネと」、「タケヒ等諸に 我が御親」、「ミマキは聡く ほつま知る 」、「誤り正し 謙(へ)り下り」、「神を崇めて 己を懲らす」、「故繁篤く 民豊か」、「今我が世にも 怠らず 神祀らんと」。
 たまき宮二十五年二月八日に、垂仁天皇の詔があった。タケヌカワケ親王とクニフク親王と三笠鹿島(三輪春日系くになずおおかしまの命)と トイチネ(神武天皇の兄の系統、弟はスイゼイ天皇)、タケヒ等諸人に申された。「我が先代のミマキイリ彦(崇神天皇)は聡明(さとく)で、ほつまを知り、正しい政治をされ、誤りを正した。驕ることなく謙虚で、神を崇めて己を厳しく律した。そういう政治を行ったので稲穂も豊作になり、民が豊かになった。今我が世にあっても怠ることなく、神を祀るぞ」。
 「三月八日 天照神を トヨスキは」、「放ちて付ける ヤマト姫」、「昔トヨスキ 神の告げ」、「御霊笥担ぎ 与謝に行く」、「この橋立は 笠縫の」、「上より宮津の 松に雲 棚引き渡す」。
 三月八日、天照大神の斎女(いつきめ)として奉祀していたトヨスキ姫は、身につけていた御霊(みたま)を解き離し、新たにヤマト姫に託した。昔、トヨスキ姫が、天照大神のお告げを受けて、御霊笥(みたまげ)を担いで、丹後の国の与謝宮(現、籠(この)神社)に行った。この橋立は、笠縫の村のゑ方向から宮津の天の橋立に向けて、松に空高く雲がたなびいて美しく渡されている。
 「瑞籬(みつかき)の 三十九年三月三日 詔」、「ケクニの大臣 タケミクラ 斎主とし」、「イマスの子 タニハミチウシ  御供の守」、「アメノヒオキは 神主に フリタマは禰宜」、「トヨケ神 天照神を 祀らしむ」、「ミチウシ御供の 神恵み 良き御子得たり」、「トヨスキは 佐々波多宮に 帰ります」、「また神の告げ 大神の 形見頂き」、「央海より 美濃を巡りて 伊勢飯野」、「高日拝に 進止む 」、「高宮造り 鎮めます」。
 瑞籬(みつかき)の宮、たまき宮三十九年三月三日、垂仁天皇の詔があった。ケクニ(神に食事を捧げる役職)の大臣(おとど)としてタケミクラを斎主(いわい主)に指名した。イマスの子のタニハミチウシは御供の守、アメノヒオキは神主、フリタマは禰宜(ねぎ)職にそれぞれ任命された。トヨケ神は天照大神を祀った。ミチウシ(ひはす姫のお父さん)は神饌を捧げることで神の恵みを受け良い皇子(後の景行天皇)を得ることができた。トヨスキ姫(斎女)は役目を終えて佐々波多宮(奈良県宇陀の山奥)に帰られた。再びトヨスキ姫に神の告げがあり、天照大神の形見(かたみ)をいただき(身に付けて)、近江から美濃へ行って最後に伊勢の飯野の高樋小川(たかひおがわ、今の鈴鹿川)へと辿り落ちついた。ここに高宮をつくって天照大神を鎮めた。
 「二十二年十二月 二十八日に」、「ヤマト姫ヨシコ 今年 十一」、「神に貢ぎの 御杖代」、「ワカゴ親子が 伴ないて」、「ウスメが御櫛 上ぐるとて」、「落す櫛田に 年越えて」、「出で立つ初日 明けの原」、「伊勢高宮に 入りませば」、「叔母と仕えて 九月(なつき)姫」、「粥以て兄の 殊祈る  故飯の宮」。
 たまき宮二十二年十二月二十八日(末の八日)、ヤマト姫ヨシコは今年で十一才になった。そして、天照大神にお仕えする身を捧げ貢ぐ御杖え代(しろ)となられた。ワカゴ親子が付添い人としてヤマト姫に伴った。あめのうずめが持っていた櫛(くし)を神に捧げよう(奉納)と伊勢に向かう途中で落としてしまった。年を越え、たまき宮二十三年の元旦になった。新年の初日を迎えた場所を明けの原と呼ぶ。その後、ヤマト姫は新しい伊勢の高宮に入られた。ヤマト姫はとよすき姫の伯母にお仕えした。たまき宮二十三年九月、ヤマト姫は粥占いの神事を行って、兄ほんずわけの事を祈った。それ故に、この宮を飯野宮と呼ぶようになった。
 「三年後 トヨスキ齢 百三つで」、「御杖ならずと 見習わせ」、「予て願えば この度は」、「ヨシコを内の 御神子とし」、「御霊笥(みたまけ)担ぎ 飯野より」、「磯辺に移し 鎮めます」、「良き宮所 南に在りと」、「ワカゴを遣れば 五十鈴川」。
 三年後(たまき宮二十六年)、トヨスキ姫が百三歳になり、これ以上御杖(みつえ)の役が務まらないと、やまと姫に見習わせて、かねてからの願いを申し上げた。この度は、ヨシコ(やまと姫よしこ)を内宮の御神子として、御霊笥(みたまげ:天照大神の御霊)を担いで飯野宮からイソベ(いそのみや:伊蘇宮)に遷(うつ)して鎮めた。ヤマト姫は、もっと良い宮の候補地が南(さ)にあると聞き、ワカゴを遣って調べさせたところ、五十鈴(いすず川)川で。
 「二百八万歳の 猿田彦」、「ワカゴに曰く 我昔」、「神の賜物 サコクシロ」、「内宮に入れ 荒御魂」、「八万年待ちし 神宝」、「天つ日月の サカホコキ」、「美しき鈴 地生(わいき)太刀 カカンノンテン」、「時待ちて 道現わせと」、「朧げの 物ならず故」、「子にも得ず その主を待つ」、「これ授け 長田生まれの」、「辻君は (サルタヒコ) 元に還らん」、「持ち帰り 告げよとて去る」。
 二百八万歳の翁の猿田彦に出会った。猿田彦は遣いに来たワカゴにこう言った。「私は昔、天照大神から授かった賜物をサコクシロの内宮(後の伊勢神宮)に入れて荒御魂とした。八万年待ち続けた天照大神から授かった神宝である天つ日嗣(ひつぎ)の逆矛木(さかほこぎ)と美しい鈴と、地生(わいき)の息吹を持った剣を携え、カカンノンテン。時至らば正しい道を現わせと待ち続けていた。由緒の分からないものではない故に、例え我が子と言えどもこの神宝は渡し得ない。この神宝を授けられるに相応しい主を待っていた。今ここに汝に授けよう。長田生まれの辻君はようやく帰ることができる。この三種の神宝を持ち帰って主にこの旨つげなさい」と言って去った。
 「オオワカゴ 帰り申せば」、「ヤマト姫 宇治に至りて 見て曰く」、「これ神風の 伊勢の宮」、「三種は祀る 源と」、「礼(いやま)ひ返す あぐら石」。
 オオワカゴは、いさわの宮(磯辺町)のヤマト姫の元に帰り申し上げた。ヤマト姫は宇治に行き、この地を見て曰く「この地は神風の吹いた伊勢の宮の跡で、三宝(三種の神器)が祀られる源(本来の場所)の場所である」。かく述べて、その昔、猿田彦が座ったと伝えられている「あぐらいし」に拝礼した。
 「オオハタ主と 八十供に」、「五十鈴原の 草刈らせ 」、「遠近山の 木を伐らせ」、「本末戻し 真中以て」、「大宮柱 敷き立てて」、 「千木高知りて 宮成れば」、「帝に申し 詔」、「ミカサの大臣 斎主」、「ワタラヒ臣は 神主に」、「アべタケヌガを 御代りと」、 「ワニクニフクを 内代り」、「モノベトチネを 御上から」、「タケヒ(大伴タケヒ)朝臣を 御子代り」。
 その後、オオハタ主(もののべ)と八十人もの供達に命じて、いそすず原の草を刈らせ、遠近(おちこち)山の木を切らせ整地させた。木材は上の方を下に、根の方を上に逆さまにして、木材の中心の良い所を使って、大きな宮の柱にした。千木(ちぎ)の高さも定め、宮が完成した。完成を帝(すべらぎ、垂仁天皇)に報告すると詔があった。「以降、ミカサの大臣を斎主、アべタケヌガを天皇の代参、ワニクニフクを内宮の代参、モノベトチネを太上后の代参として、タケヒ(大伴タケヒ)朝臣を 御子代りにせよ」。
 「各々詣で 二十六年の 九月十六の日」、「大御神 五十鈴川の サコクシロ」、「内に渡まし 十七日の夜」、「御丈柱を 納めしむ」、「これ皇の 自らの」、「丈の都に 繁い祈り」、「雨風の節 程良くて」、「豊かに実れと 伏し窶(やす)み」、「礼(いやま)ひ申す 御恵や」。
 各々詣で 二十六年の 九月十六の日」、大御神 五十鈴川の サコクシロ、内に渡まし。明くる十七日の夜、御丈柱(背丈に合った天の御柱)を納められた。これは、垂仁天皇のご自身の背丈に合わせたものです。たけひ朝臣は「みこ」(皇子)の代参として、それぞれの役を命じて詣でた。たけの都(たけ神社:伊勢)に御幸して、豊作を祈った。雨、風の節目も程よく(天候不順にならないよう)、国が豊かになれとの気持ちを込めて、節休みを設けた。民は心からこの休みを敬い、天皇のこの御恵みに感謝した。
 「神も喜び 告げ曰く」、「昔我が住む サコクシロ」、「繁和(しきなみ)寄する 伊勢の宮 」、「永く鎮まり 守るべし」、「トヨケの神と 諸共ぞ」、「ヤマト姫より これを告ぐ」。
 この新しい宮の完成を神(天照大神)も喜ばれてお告げがあった。「昔、我が住む(天照大神の時だから千年以上の昔になる)さごくしろには、しきなみ(重波)寄せる伊勢の宮であり、未来永劫、鎮座して守るべし。とよけの神も一緒に祀れ」。天照大神の言葉はやまと姫に乗り移って、垂仁天皇に告げられた。
 「君喜びて 和幣(にぎて)成し トヨケの神へ」、「直御使は 三輪のミケモチ」、「斎人は タニハミチウシ」、「国主の 神の教えは」、「大御神 嗣を思して 伊勢の道」、「八方人草を 活け恵む」、「故カツヲ八木 千木の内」、 「削ぐは内宮 内軽く  八民豊かに」。
 君(垂仁天皇)は喜ばれて、自ら和幣(にぎて)をなし、とよけの神へ。さおしか(勅使)として大三輪の「みけもち」を定めた。いわいど(斎主)はタニハミチウシ(丹波みちうし)が任命された。大国主の神の教えるところは、天照大神は継ぎが多くなるよう(子孫繁栄を願って)、いもせ(妹背:男女の)の道を定め、八百万人民を生き生きと生活できるよう(いけ)恵まれてきました。
 「またトヨケ 逆矛の法」、「天の星 九座表し」、「カツヲ九木 千木は外を削ぐ」、「故外宮 内厚く厳」、「民の父 畏れ道得よ」、「内宮は 君母の子を 恵む法かな」。
  一方、トヨケ宮は逆矛(さかほこ、刑罰)の法により、天の九星座(こくら、天にある九神)を表します。鰹木(かつおぎ)は九本(こ)です。千木は外側を削いでいるので「とみや」(そとみや、外宮)と云う。内はとても厳粛であり、民の父の役割を果たしている。その道を敬い学ぶのが良い。うちみや(内宮)は、君母の子供を慈しむ恵みの法である。






(私論.私見)