ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)33

 (最新見直し2011.12.25日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)34、ミマキの御世 任那の文」を説き分ける。原文は和歌体により記されている。「」、「33綾 目次 神を崇めて、疫病を退治する綾」、「33 神崇(かみあが)め疫病(エヤミ)治(た)すアヤ」その他を参照しつつ、れんだいこ訳として書き上げることにする。

 2011.12.24日 れんだいこ拝


【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)33、神崇め疫病治す文】
 富士山と不老長寿の仙薬みかど崇神(すじん)の御世(みよ)―伝染病を退治し、初めて平和国家を樹立する
 かみあかめゑやみたすあや      神崇め 疫病治す文
 ときあすす むもふそひとし     時天鈴 六百二十一年
 きなゑはる むつきねしゑは そみきしゑ      キナヱ春 一月ネシヱ初(は) 十三日キシヱ 
 ゐそにゑのみこ としゐそふ      ヰソニヱの御子 歳五十二 
 あまつひつきお うけつきて        天つ日嗣ぎを 受け継ぎて
 みまきいりひこ あまつきみ     御マキ入彦 天つ君 
 みくさつかひも あめためし たみにおかませ    三種使も 天例し 民に拝ませ 
 ははおあけ みうゑきさきと     母を上げ 御上后と
 ももふそひ おおははのとし     百二十一 大母の歳
 ももむそふ おおんきさきと   百六十二 大御后と 
 はつとしの きさらきさうと     初年の 二月サウト
 そむつみゑ おおひこのめの ことしそひ      十六日ツミヱ 大彦の姫の 今年十一 
 めしてきさきの みまきひめ      召して后の 御マキ姫 
 きあらかとへか とおつあひ      紀(紀の国造) アラカトベが トオツアヒ
 めくはしうちめ おおすけに    メクハシ内侍 大スケに 
 あふみかやさか ふりいろね かりすけとなる    近江が八坂 フリイロネ 仮スケとなる
 おはりかめ おおあまうちめ     尾張が姫 オオアマ内侍
 なかはしの をしてとるもり     長橋の ヲシテ執る守
 これのさき めくはしかうむ とよすきめ      これの先 メクハシが生む 豊スキ姫
 おおあまかうむ ぬなきひめ     大アマが生む ヌナギ姫 
 めくはしかうむ やまとひこ いむなゐそきね        メクハシが生む ヤマト彦 いむ名ヰソキネ
 やさかうむ やさかいりひこ     八坂生む 八坂入彦
 おおきねそ かれははおあく     大キネぞ 故母を上ぐ
 みほなつき しきみつかきに にいみやこ      三穂九月 磯城(しき)瑞籬(みつかき)に 新都 
 よほめすえみか みことのり      四穂十月二十三日 詔
 みをやのさつく みくさもの  「御祖の授く 三種物 
 くにとこたちは かんをして    クニトコタチは 神ヲシテ 
 あまてるかみは やたかかみ      天照神は 八タ鏡 
 おおくにたまは やゑかきと つねにまつりて   大国玉は 八重垣と 常に祀りて 
 みとかみと きはとほからす     身と神と 際遠からず
 とのゆかも うつはもともに すみきたる      殿床も 器も共に 住み来る 
 ややいつおそれ やすからす      やや稜威畏れ 安からず」 
 あまてるかみは かさぬひに      天照神は 笠縫に 
 とよすきひめに まつらしむ     豊スキ姫に 祀らしむ 
 おおくにたまは ぬなきひめ 大国玉は ヌナギ姫 
 やまへのさとに まつらしむ    山辺の里に 祀らしむ 
 いしこりとめの まこかかみ     イシコリトメの 孫鏡 
 あめひとかみの まこつるき さらにつくらせ     天ヒト神の 孫剣 新に造らせ 
 あまてらす かみのをしてと このみくさ      天照らす 神のヲシテと この三種 
あまつひつきの かんたから     天つ日嗣ぎの 神宝
 ゐとしゑやみす なかはかる むとしたみちる                五年疫病す 半ば枯る 六年民散る
 ことのりに たしかたしかれ     詔に 「治し難し故
 つとにおき つみかみにこふ     夙に起き 罪神に請ふ」
 ふたみやお さらにつくらせ     二宮を 新に造らせ
 むとせあき おおくにたまの かみうつし      六年秋  大国玉の神遷し 
 なつきそむかよ あすのよは 九月十六日夜 翌の夜は
 あまてるかみの みやうつし     天照神の 宮遷し 
 とよのあかりの いろもよし     豊の明りの 色も好し
 いさともかみは くたります     いざとも神は 降ります 
 いろのつすうた    イロの連(つす)歌
 いさとほし ゆきのよろしも おほよすからも      「いざ遠し 幸の喜(よろし)も 大夜すがらも」
 なほきさら みかみことのり     七穂二月 三日詔
 わかみをや ひらくもとひは さかんなり     「我が御祖 開く基は 盛んなり 
 わかよにあたり をえあるは          我が世に当り 汚えあるは
 まつりととかぬ とかめあり        祀り届かぬ 咎めあり
 けたしきわめて よるなりと           けだし究めて 寄るなり」と 
 あさひのはらに みゆきして       朝日の原に 御幸して
 やもよろまねく ゆのはなの         八百万招く 湯の花の
 ももそひめして のりこちに さつさつすうた            百襲姫して 宣言(のりごち)に サッサッ連(つず)歌
 さるたみも つすにまつらて をゑにみたるさ   「去る民も 連に服らで 衰えに乱るさ」
 きみとふて かくおしゆるは たれかみそ    君問ふて 「かく教ゆるは 誰神ぞ」   
 こたえてわれは くにつかみ おおものぬしそ  答えて「我は 国津神 大物主ぞ
 きみまつる ことしるしなし     君祀る こと徴(しるし)なし」
 ゆあひして すかにいのりて つけもふす    湯浴して 清に祈りて 告げ申す   
 われうやまえと うけさるや       「我敬えど 受けざるや」    
 このよのゆめに われはこれ    この夜の夢に 「我はこれ 
 おおものぬしの かみなるか きみなうれひそ         大物主の 神なるが 君な憂ひそ   
 たせさるは わかこころあり       治せざるは 我が心あり
 わかはつこ おおたたねこに まつらさは    我が裔(はつこ) 太田タネ子に 祀らさば    
 ひとしくなれて とつくにも まさにまつらふ      ひとしく平(な)れて 外(とつ)国も 真に服ふ」
 はつきなか とはやかちはら     八月七日 トハヤがチ原
 めくはしめ おおみなくちと いせをうみ      メクハシ姫 大ミナクチと 伊勢ヲウミ 
 みたりみかとに つけもふす         三人帝に 告げ申す  
 ゆめにかみあり たたねこお         「夢に神あり 田タネ子を 
 おおものぬしの いはひぬし        大物主の 斎(いわい)主  
 しなかおいちお おほやまと          磯長尾市(しながおいち)を 大ヤマト 
 くにたまかみの いわひぬし なさはむけへし         国魂神の 斎主 なさば平(む)けべし」   
         
 きみこれに ゆめあわせして ふれもとむ      君これに 夢合せして 触れ求む 
 おおたたねこお ちぬすえに ありとつくれは         太田タネ子を 茅渟(ちぬ)陶に ありと告ぐれば
 きみやそと ちぬにみゆきし     君八十と 茅渟に御幸し
 たたねこに たかこそととふ     田タネ子に 「誰が子ぞ」と問ふ
 こたえには むかしものぬし すえすみか    答えには 「昔物主 スエスミが  
 いくたまとうむ ものぬしの       イク玉と生む 物主の
 おおみわかみの はつこなり         大三輪神の 裔(はつこ)なり」
 きみさかえんと たのしみて 君 「栄えん」と 楽しみて 
 いきしこをして うらなはす これまことよし         イキシコヲして 占わす これまこと吉し   
 よそかみお とえはふとまに うらわろし    他神を 問えばフトマニ 占悪ろし  
 めつきはつひに いきしこを        十月初日に イキシコヲ
 やそひらかなし これおもて         八十平瓮(ひらが)なし これを以て 
 おおたたねこお いわひぬし おおみわのかみ         太田タネ子を 斎主 大三輪の神
 なかおいち おおくにたまの いわいぬし           長尾市 大国魂の 斎主 
 あまねくふれて かみあかめ かみなふみなす          遍く触れて 神崇め 神名文なす
 かんへして やもよろかみお まつらしむ     神部して 八百万神を 祀らしむ
 ゑやみむけいえ そろみのり たみゆたかなり          疫病(えやみ)平け癒え ソロ実り 民豊かなり
 やほうよか たかはしいくひ みきつくり     八穂四月四日 高橋イクヒ 酒造り
 みわおおかみに たてまつる そのあちうまし          三輪大神に 奉る その味うまし 
 しはすやか かみまつらせて     十二月八日 神(ミワ大神) 祀らせて
(異文)
 やほさみと うよかたかはし    八年サミト 四月四日 高橋
 むらいくひ うまささつくり     村イクヒ うま酒造り 
 みわかみに そのみきうまし     三輪神に その酒 うまし
 しはすやか たたねこやりて     十二月八日 田タネ子遣りて
 みゆきなる いくひかさけに みあえなす      御幸なる イクヒが酒に 御饗なす 
 きみのみうたに このみきは わかみきならす      君の御歌に 「この酒は 我が御酒ならず
 やまとなる おほものぬしの かみのみき     ヤマトなる 大物主の 神の御酒  
 いくひさつくる すきはいくひさ          イクヒ授くる 杉葉幾久」
 みあえおえ とみらうたふて     御饗終え 臣ら歌ふて
 うまさけや みはみわのとの    「うま酒や 身は三輪の殿
 あさとにも いててゆかなん みわのとのとお     朝戸にも 出でて行かなん 三輪の殿戸を」
 ときにきみ これかえうたに     時に君 これ返(かえ)歌に
 うまさけに みはみわのとの    「うま酒に 身は三輪の殿
 あさとにも おしひらかねよ みわのとのとお   朝戸にも 押し開かねよ 三輪の殿戸を  
 とのとおし ひらきかえます     殿戸押し  開き帰ます」
 こほやよひ もちのよゆめに かみのつけ    九穂三月 十五日の夜夢に 神の告げ  
 かしきほこたて かみまつれ          「赤白黄(かしき)矛立て 神祀れ    
 うたすみさかも おおさかも       宇陀墨坂も 大坂も
 かわせさかみお のこりなく           かわせ邪霊(さかみ)を 残りなく   
 これつみひとの しいととむ ゑやみなすゆえ           これ罪人の 魄(しいと)留む  疫病なす故」
 うすえふか をとみかしまと たたねこと  四月二十二日 大臣鹿島と 田タネ子と
 たまかえしのり まつらしむ かれにあかるき        魂返し法 祀らしむ 故に明るき
 そほねやと ふつきすえよか みことのり    十年ネヤト 七月二十四日 詔
 たみたすをしえ かみまつり           「民治す教え 神祀り  
 ややをゑされと とおつくに         やや汚穢去れど 遠つ国  
 あらひとのりお またむけす          荒人法を まだ平(む)けず 
 かれよもにをし つかはして のりをしえしむ       故四方に治人(をし) 遣はして 法教えしむ」 
 なつきこか おおひこおして こしのをし      九月九日 大彦をして 越の治人 
 たけぬなかわお ほつまをし      タケヌナガワを ホツマ治人 
 きひつひこして つさのをし     吉備津彦して 西南の治人 
 たにはちぬしお たにはをし    丹波(たには)道(ち)主を 丹波治人 
 をしえうけすは ほころはせ     教え受けずば 綻ばせ 
 をしてたまはり いくさたち      璽(ヲシテ)賜り 軍(いくさ)立ち  
 おのおのたては もちのひに おおひこいたる              各々発てば 望の日に 大彦至る
 ならさかに おとめかうたに     奈良坂に 少女が歌に
 みよみまき いりひこあわや    「みよ 御マキ 入彦あわや
 おのかそゑ ぬすみしせんと     己が副(そえ) 盗み殺(し)せんと
 しりつとお いゆきたかひぬ     後(しり)つ門を い行き違ひぬ
 まえつとよ いゆきたかひて うかかわく    前つ門よ い行き違ひて 窺わく
 しらしとみまき いりひこあわや             知らじと御マキ 入彦あわや」
 おおひこは あやしくかえり これにとふ      大彦は 怪しく帰り これに問ふ 
 おとめかいわく     少女が曰く
 われはうた うたふのみとて きえうせぬ    「われは歌 歌ふのみ」とて 消え失せぬ
 むなさわきして たちかえりけり          胸騒ぎして 立ち帰りけり

【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)33、神崇め疫病治す文】
 神崇め 疫病治す文
 「時天鈴 六百二十一年」、「キナヱ春 一月ネシヱは」、「十三日キシヱ ヰソニヱの御子 歳五十二」、「天つ日月を 受け継ぎて」、「ミマキイリヒコ 天つ君」、「三種使も 天例 民に拝ませ」、「母を上げ 御上后と」、「百二十一 大母の歳」、「百六十二 大御后と」。
 時は「あすず暦」の六百二十一年キナヱ(きのえさる 甲申)年の春、新年の一月のネシヱ(みずのえうま 壬午)の月の十三日のキシヱ(きのえうま 甲午)の日、ヰソニヱの皇子(みこ)は、年令は五十二歳で皇位を継承して即位された。前例にならって天つ日月を受け継いで、ミマキイリヒコ天君となった。上代の例にならって三種の神器((日・月・星の使い))を民に拝ませた。(即位の礼であり以降歴代続いている) 母(先帝の中宮)を太上皇后に上げたてて、御上妃(みうえきさき)となった。歳は百二十一歳。「大母」(先先帝の中宮)の歳は実に百六十二歳で、大御上妃(おおんきさき)となった。
 「初年の 二月(きさらぎ)サウト」、「十六日ツミヱ オオ彦の姫の 今年十一」、「召して后の ミマキ姫」、「紀アラカトベが トオツアヒ」、「メクハシ内侍 大スケに」、「近江がヤサカ フリイロネ 仮スケとなる」、「尾張が姫 オオアマ内侍」、「長橋の ヲシテ執る守」。
 崇神天皇の「みずかき宮」元年の二月(きさらぎ)サウト月の十六日ツミヱの日、オオ彦の姫の年が今年十一歳になり妃(中宮)に召され、ミマキ姫と呼ばれた。 紀の国のアラカトベ親王のトオツアヒメクハシ姫が「うちめ」から「おおすけ」の妃になった。近江のヤサカフリイロネ姫は仮すけ妃になった。尾張の連の娘のオオアマは「うちめ」という位になり、長橋の(事務所を示す)で「おして」(文書・おしで文字)を取り扱い守る責任者になった。
 「これの先 メクハシが生む トヨスキ姫」、「オオアマが生む ヌナギ姫」、「メクハシが生む ヤマトヒコ 斎名ヰソキネ」、「ヤサカ生む ヤサカイリヒコ」、「オオキネぞ 故母を上ぐ」。
 これの先(崇神天皇が各姫を娶ったこの後)、メクハシ姫」が生んだ子はトヨスキ姫。(トヨスキ姫は後に初代天照大神を生涯独身で守る斎女になる) オオアマ姫(尾張の連の娘)が生んだ子はヌナギ姫。メクハシが二番目に生んだ子はヤマトヒコでいみ名をヰソキネと云う。(後の垂仁天皇の兄にあたります) ヤサカ姫(近江の「やさかふりいろね姫」)が生んだ子はヤサカイリヒコでいみ名はオオキネ。男の子を産んだので母(やさか姫)は階級が上がった。
 「三年九月 磯城(しき)瑞籬(みつかき)に 新都」、「四年十月二十三日 詔」、「上祖の授く 三種物」、「クニトコタチは 神ヲシテ」、「天照神は ヤタ鏡 」、「大国玉は 八重垣と 常に祀りて」、「身と神と 際遠からず」、「殿床も 器も共に 住み来る」、「やや稜威畏れ 安からず」。
 崇神天皇御代三年九月、磯城(しぎ)の瑞籬(みつかき)に新しい都を造った。四年十月二十三日に崇神天皇の詔があった。上祖(みおや、先祖神)から授かって受け継いできた三種の神器は、クニトコタチの神璽(かんおしで・天なる道を示した法・書かれたもの)と、天照大神のヤタ鏡と、大国玉の八重垣の剣の三つである。この三種の神器を宮中に祀り常に拝礼し、身を神に添わせてきた。寝起きする殿の床(寝床)も近くにして、食事の器も神と同じようにして住んで来た。しかるに、未だ稜威(いず、神の意向)に添えていないのではないかと畏れている。そのことが不安でならない」。
 「天照神は 笠縫に」、「トヨスキ姫に 祀らしむ」、「大国玉は ヌナギ姫 」、「山辺の里に 祀らしむ」、「イシコリトメの 孫鏡」、「アメヒト神の 孫剣 新に造らせ」、「天照 神のヲシテと この三種」、「天つ日月の 神宝」。
 天照大神の御霊は笠縫の地に移して、トヨスキ姫に祀らせた。大国玉の御霊は山辺の里に移して、ヌナギ姫に祀らせた。イシコリトメ(鋳物師)の子孫に鏡を、アメヒト神の子孫に剣をそれぞれ新たに作らせた。天照大神の神璽もあわせて新しい三種の神器として皇位継承の日嗣(ひつぎ)の神宝とした。
 「五年穢病す 半ば枯る 六年民散る」、「言宣に 治し難し故」、「夙に起き 罪神に請ふ」、「二宮を 新に造らせ 」、「六年秋 大国玉の神遷し」、「九月十六日夜 翌の夜は」、「天照神の 宮遷し」、「豊の明りの 色も好し」、「いざとも神は 下ります」、「イロの連(つす)歌」、「いざ遠し 幸の喜も 栄よ優らも」。
 みずかき宮五年、疫病が流行り、民の半分が死んだ。翌年の六年には、民は散り散りになってしまった。天皇曰く、「民を治められず政治がうまくいかない故に夜中に突然(つとに)起きて目が覚め、罪(助け)を神に願った」。これにより、 二つの宮を本格的に再建させることにした。六年目の秋、大国玉の御霊を山辺の里に移した。九月十六日の夜、明日の夜(九月十七日の夜)は天照大神の宮を遷した。神前の豊の明かりが色よく燈った。 これにより神が降臨され易くなった。「いろ」の「つずうた」が詠まれた。( 「つずうた」は十九音からなっており、「続く」の語源にもなっている。十九音の後、次の人が二十音目から続いて言の葉を発する(はたち・初の音を発する)事から、二十歳のことを「はたち」と呼ぶようになったと考えられる) 「これで事がなった訳ではない。これからも多難と思われる。とはいえ、さい先の良さを祝い、共に悦び合おう」。
 「七年二月 三日詔」、「我が上祖 開く基は 栄んなり」、「我が世に当り 衰え粗るは」、「祀り届かぬ 咎めあり」、「けだし究めて 寄るなり」と」。
 みずかき宮七年二月三日、詔。「我が上祖(みおや)が開いてきた国は偉大で栄えてきた。 しかし、我が御世になって、「おえ」(不浄なこと、けがれ、疫病を示す)があって悲惨な状況になっているのは、神祀りが不充分な咎めであろう。今後はもっと道を窮め神の意向に寄り添わなければならない」。
 「朝日の原に 御幸して」、「八百万招く 湯の花の」、「モモソ姫して 宣言に サッサッ連歌」、「散る民も 連に服らで 衰えに惨るさ」、「君問ふて 「かく教ゆるは 誰神ぞ」、「答えて我は 国津神 大物主ぞ」、「君祀る 殊徴(しるし)なし」。
 「あさひの原」(今の京都丹波、比沼麻奈為ひぬまない神社)に御幸され「とよけ」神に詣でた。 君(崇神天皇)は八百万の神々を招く「湯の花神事」をモモソ姫に奉納させた。そうすると「モモソ姫に神が乗り移って、神から「さつさつずうた」が告げられた。「去っていった民の原因は、神を共に祀らなかったからであり、これにより道が衰え乱れてきたのですよ」。 このご神託を聞いて驚いた君は問うた。「このように教えてくださる神は一体何と言う神様ですか」。 すると、「我は国津神の大物主である」という答えがあった。君は神祀りをしたが、神の意向は得られなかった。
 「湯浴して 清に祈りて 告げ申す」、「我敬えど 受けざるや」、「この夜の夢に 我はこれ」、「大物主の 神なるが 君な憂ひそ」、「治せざるは 我が心あり」、「我が裔(はつこ) オオタタネコに 祀らさば」、「ひとしく平(な)れて トツ国も 真に服ふ」。
 「ゆあみ」(斎戒沐浴して滝に打たれる?)して心身を清め神に告げ申し上げた。「私は神をこれほどまでに敬っておりますが、まだ受けていただけないものなのですか」。 そうすると、その夜の夢に、「我は大物主の神である。君よ、そんなに憂えることはない。世の中が治められないのは我が意があってのことである。 我が子孫のオオタタネコを斎主(いわいぬし)にして神を祀らせば平穏になって、遠い国も心の底から服するようになろう」。
 「八月七日 トハヤがチハラ」、「メクハシ姫 オオミナクチと イセヲウミ」、「三人帝に 告げ申す」、「夢に神あり タタネコを」、「大物主の 斎(いわい)主」、「シナガオイチを 大ヤマト」、「クニタマ神の 斎主 なさば平けべし」。
 八月七日、「とはや」の娘(ちはら)の「メクハシ姫とオオミナクチとイセヲウミの三人が帝(みかど、崇神天皇)に告げ申されるには、「夢に神のお告げがありました。 お告げは、まずタタネコを大物主の斎主(いわいぬし)に取り立てなさい。 次に、シナガオイチを山辺の大ヤマトクニタマ神の斎主に取り立てなさい。そうすれば世の中が治まります」。
 「君これに 夢合せして 告れ求む」、「オオタタネコを 茅渟陶に(茅渟県の陶村)  ありと告ぐれば」、「君八十と 茅渟に御幸し」、「タタネコに 誰が子ぞと問ふ」、「答えには 昔物主 スエスミが」、「イクタマと生む 物主の」、「大三輪神の 裔なり」。
君はこれを聞き、自分の夢とこの三人の夢が合ったことを喜び、全国にオオタタネコを探すお触れを出した。 そうすると、茅渟陶(ちぬすえ、陶荒田神社・堺市)村に居るとの情報を得たので、君は八十人衆の供を連れて御幸された。 君はオオタタネコに「誰の子孫か」とお聞きになった。答えて、「昔、物主とスエスミの娘のイクタマ姫との間に生まれたもので、物主を祀る大三輪神の子孫(はつこ)です」。
 「君 「栄えん」と 楽しみて 」、「イキシコヲして 占わす これまこと吉し」、「他神を 問えばフトマニ 占悪ろし」。
 これを聞き、君は、これで我が御世も栄えて安泰になるであろうとホッとされた。イキシコヲに占わせたところ、「実に良い(大吉)」と出た。他の神に祀らわせることをフトマニで占わせたところ凶(悪い)とでた。
 「十月初日に イキシコヲ」、「八十平瓮成し これを以て」、「オオタタネコを 斎主 大三輪の神」、「ナガオイチ オオクニタマの 斎主」、「遍く告れて 神崇め 神名文成す」、「神部して 八百万神を 祀らしむ」、「穢病(えやみ)平け癒え ソロ 実り 民豊かなり」。
 十月一日、イキシコに八十枚の平瓮(ひらか・お皿)を作らせた。 これをもってオオタタネコを斎主(いわいぬし)に定めて大三輪の神を祀らせた。 ナガオイチを斎主(いわいぬし)に定めてオオクニタマ(大和神社)の神祀りをさせた。 あまねく天下にお触れを出して、両神を崇める神名文を編纂した。神部(かんべ)を定めて八百万の神を祀らせた。 この結果、疫病も癒えて、御心も天に通じて稲穂もたわわに稔り、民の生活も豊かになった。
 「八年四月四日 高橋イクヒ 酒造り」、「三輪大神に 奉る その味うまし」、「十二月八日 神(ミワ大神) 祀らせて」(異文「八年サミト 四月四日 高橋」、「村イクヒ うま酒造り」、 「三輪神に その酒 うまし」)、「十二月八日 タタネコ遣りて」(異文和仁估安聰写本「神祀らせて」、小笠原写本「タタネコ祀り」)、「御幸なる イクヒが酒に 御饗なす」。
 みずかき宮八年四月四日、高橋イクヒが神酒を作り、三輪大神に奉った。その、神酒の味は大変美味しいものであった。(異文、 みずかき宮八年「さみと」の年の四月四日、高橋村のイクヒが美味い神酒をつくり三輪大神に奉った。その、神酒は大変美味しいものであった)。 師走十二月八日、神祭りをしました。「おおたたねこ」は神祭りをしました。君(崇神天皇)が御幸をされた時、「いくひ」(たかはしいくひ)が作った酒で御饗(みあえ・宴会・もてなし)をした。
 「君の御歌に 「この酒は 我が酒ならず」、「ヤマトなる 大物主の 神の御酒 」、「イクヒ授くる 繁(すき)は幾久」、「御饗終え 臣ら歌ふて」、「うま酒や 身は三輪の殿」、 「朝方にも 出でて行かなん 三輪の殿戸 (三輪鳥居)を」、「時に君 これ返(かえ)歌に」、「うま酒に 身は三輪の殿」、「朝方にも 押し開かねよ」、「三輪の殿戸を 殿戸押し  開き帰ます」。
 御饗(みあえ)の時、君(崇神天皇)が歌を詠まれた。「この神酒は私のための神酒ではなく、ヤマトなる大物主の神の神酒である。幾久しく作る、杉葉(酒林)の幾久しと同じである」。 御饗(みあえ)が終わり、今度は臣たちが歌った。「美酒(うまさけ)や、我が身は、この三輪の殿中で宴会をして、朝戸(あさど)の時間(開門時間)になったので、もう出て行かなければならない。三輪の殿中の戸を押し開けて」。君が即座に返し歌を歌われた。「美酒(うまさけ)に、我が身は、この三輪の殿中で朝戸(あさど)の時間(開門時間)になったけど、根が生えて押し切ることが出来ない(帰りたくない)三輪の殿中の戸です」。 まだ、帰りたくなかったが、覚悟を決めて、朝戸を押し開き、御幸の宮を後にお帰りになられた。
 「九年三月 十五日の夜夢に 神の告げ」、「赤白黄(かしき)矛立て 神祀れ」、「宇陀墨坂も 大坂も」、「かわせ邪霊(さかみ)を 残りなく」、「これ潰人の 魄(しいと)留む  穢病成す故」。
 みずかき宮九年三月十五日の夜、夢の中に神のお告げがあった。「赤(か)白(し)黄(き)の矛を立てて神を祀りなさい。宇陀(うだ)の墨坂(柏原地方)も、逢坂(大坂)も、この地を祀り邪霊(さかみ)を払いなさい。ここで亡くなった人の死霊が迷い留まっており、穢病(えやみ、疫病)を引き起こしている原因になっています」。
 「四月二十二日 大臣鹿島と タタネコと」、「魂返し宣り 祀らしむ 故に明るき」。
 四月二十二日、大臣(おとみ、両翼の臣・左大臣・右大臣)の鹿島(伊勢神宮神臣・初代神主・左大臣)とタタネコに、魂返し(死者を甦らす)の法(のり)を祀り祈らせた。 その結果、やっと明るい世が訪れた。
 「十年ネヤト 七月二十四日 詔」、「民治す教え 神祀り」、「やや汚穢去れど 遠つ国」、「荒人法を まだ迎けず」、「故四方に治人 遣はして 法教えしむ」。
 みずかき宮十年(ねやとの年)七月二十四日、詔。「民を治める教えをもって神祀りした。これによりやや汚穢は去ったが、遠方の国では、荒人が依然として法(のり)を受け入れていない。故に、四方の国々に勅使を派遣して法(のり)を教えに行かせることにする」。
 「九月九日 オオ彦をして 越の治人」、「タケヌナガワを ホツマ治人」、「吉備津彦して 西南の治人」、「タニハチ主を 丹波治人」、「教え受けずば 綻ばせ」、「璽(をして)賜り 軍(いくさ)立ち」、「各々発てば 望の日に オオ彦至る」。
 九月九日、オオ彦(八代目孝元天皇の子供)を越の国、タケヌナガワをホツマ(関東地方)の、吉備津彦を西南(西(つ)南(さ)、山陽道)、タニハチ主を丹波の治め人として派遣した。 教えに従わない国津神がいれば武力で討ち滅ぼせとの璽(をして、命令)が下り軍(いくさ)に発った。九月十五、オオ彦は京都へ向かう途中。
 「奈良坂に 少女が歌に」、「みよ ミマキ イリ彦あわや」、「己が副(そえ) 盗み殺せんと」、「後つ門を い行き違ひぬ」、「前つ門よ い行き違ひて 窺わく」、「知らじとミマキ イリヒコ あわや」、「オオ彦は 怪しく返り これに問ふ」、「少女が曰く」、「われは歌 歌ふのみ」とて 消え失せぬ」、「胸騒ぎして 館(たち)帰りけり」。
 奈良坂に乙女が現われて歌を歌った。「御世(みよ)のミマキイリ彦(崇神天皇)が危ない。副(そえ、部下)が政権を盗もうと国盗りを企んでいる。「後つ門」(背後、奥方のことを示す)からいったりきたり様子をうかがっていて君に背いている。[前つ門]からも行ったりきたり様子をうかがって国を奪おうとしている。知らないのはミマキイリ彦方だけで危ない」。オオ彦は怪しんで引き返して乙女に問うた。 乙女は、「私はただ歌っているだけです」と言いながら消えた。オオ彦は胸騒ぎして館(たち)に帰った。





(私論.私見)


 アスズ六百二十一年一月十三日、皇太子イソニエは五十二才の時即位して、ミマキイリヒコ天皇(アマツキミ)となられました。

 三年九日 磯城(シギ)のミズカキ宮を新都としました。
 四年十月二十三日、詔のり。
 私が天神皇祖から授かって受け継いだ三種神器は、クニトコタチの神璽(カンオシデ)とアマテル神のヤタ鏡、オオクニタマのヤエガキの剣です。
 この神器を宮中に祭りミト神(御トの教え、帝王学)として、常に敬い拝礼してきました。寝起きする殿床(とのゆか)も一緒なら、食事の器も同じくし、神と共に暮らしています。しかし近頃は、このように身近に気安く祭るのは、逆に神の威光を損なうのではないかと畏れを感じるようになり心が安まる日とてありません。
 アマテル神は笠縫(カサヌイ)の地に移しトヨスキ姫に祭らせ、オオクニタマは山辺(ヤマベ)の里に移してヌナギ姫に祭らせよう。鏡造りのイシコリドメの子孫と、剣打ちのアマメヒトツの子孫には、新たに鏡と剣を造らせてアマテル神の神璽(おしで)も合わせ三種神器として、今後はこの新しい三種(ミグサ)を皇室の日嗣(ひつぎ)の神宝と決めよう。

 五年 疫病(えやみ)が流行(はや)る。民の大半が死す。
 六年 万民離散し、国乱れる。
 君は神に敬けんな祈りを捧げます。このような人知を超えた疫病が再三襲って民を苦しめ政を危うくするのも、全ては罪深き己の至らぬ由縁である。今後は益々神を崇めて、民の生活(くらし)に思いをいたし、敬い、慎んで政治(まつり)を執ろう。どうか、己の罪をお許しください。
 早速、オオクニタマとアマテル神の二宮を新しく造らせて、遷宮の準備を整えます。
 六年 秋、遂に念願かなってオオクニタマの御魂(みたま)を山辺(ヤマベ、大和神社、奈良)にお移しになりました。
 翌九月十七日は、いよいよアマテル神を笠縫(カサヌイ、桧原神社、奈良)の社にお遷しする盛大な遷宮祭です。
 参拝者は引きも切らず続き、夜ともなると神前の豊(とよ)の明りが色良く灯り、天上からアマテル神が供の神々とそろって降りてまいります。神官は神饌を捧げてよっぴいてイロのツズ歌を唄い奉じました。(最初の一音がイ、折り返しの十音がロ、ツズは十九音で一小節)
 神の御饗(みあえ)は華やいで尽きることを知らず明け方まで続きます。
(イ)ざ遠し  悠基(ゆき)のよ(ロ)しも 大夜(おおよ)すがらも

(豊の明りは夜通し神を迎え、遠き天上の神々は宜しく下ります。)
 七年二月三日、詔のり。
 我が代々の皇祖(みおや)が、国造りのために開かれた基礎は偉大である。しかしながら我が世に至り被った災害の様な悲惨な状況はかって聞いたことがない。きっと我が神祭が不十分で、天に祈りが届かず咎めを受けたものと思う。今後は神の御心のままに極めねばならない。と宣いて、アサヒノ原天宮(現・比沼麻奈為神社、ヒヌマナイ、京都)に御幸されトヨケ神に詣でました。
 又、君は八百万の神々を招く湯の花神楽をモモソ姫に奉納させると、姫は神懸(かみがかり)になり、サッサツズ歌が告げられました。(初音のサ、折り返しにツ音、終わりの音がサのツズ歌) 去(サ)る民も ツズにま(ツ)らで 汚穢(おえ)に乱るさ(サ)

(オオタタネコの祖父オオミケヌシは九代ワカヤマト・ネコヒコ天皇(開化天皇)に対して、前天皇(八代ヤマトクニクル・孝元天皇)の后のイカシコメをイキシコメと名を変えて中宮に立てるのは良くないと諌言(かんげん・いさめ)するが聞き入れられず、大臣を下り民となってチヌ(茅渟、堺市、大阪)のスエ(陶器、堺市、大阪)村に蟄居した。その孫がオオタタネコ) 君はこの御神託を聞いて驚き、
 「かくお教え下さる神様は誰であるか」と問うと、
 「我は国神(くにのかみ)、大物主ぞ」と答えがありました。しかし、これ以上の神意(しんい)は得られませんでした。
 君は、斎戒沐浴(さいかもくよく)して更に告げ申すには、
 「我は神をこれほどまでに、敬えども、まだ受け下さらぬか」
 するとその夜の夢に、
 「我は大物主の神なるが、君よ憂えることなかれ。国が治まらないのは、我が意あっての事、我が裔(はっこ)のオオタタネコを斎主(いわいぬし)にして神を祭らせれば、国も無事治まり、海外の国(とおつくに)も自ら帰伏するであろう」
 八月七日、トハヤの娘のチハラメクワシ姫とオオミナクチとイセオウミの三人がミカドに告げ申すには、
 「夢に神託がありました。タタネコを大物主の斎主(いわいぬし)にして、シナガオイチをオオヤマトクニタマ神の斎主にすれば、疫病(えやみ)も去り国は天下泰平となります」
 君は、自分の夢と三人の夢が一致した夢合わせを大層喜んで、早速全国にオオタタネコを探す様お触れを発します。
 と、間もなくオオタタネコがチヌのスエ邑(むら)(スエアラタ・陶荒田神社 堺市、大阪)に居りますとの報告があり、君は八十人の供を引き連れチヌに御幸され、タタネコに直接問いかけました。
 「誰が子であるか」とお尋ねになるとタタネコの答えるには、
 「昔、物主(コモリ神)がスエツミの娘のイクタマヨリ姫との間に生んだオオミワ(カンタチ)神の子孫(はつこ)で、代々このスエ邑に住んでいます」これを聞いた君は、
 「この者こそ夢に見たオオタタネコに間違いない。これで我が世も天下泰平、栄えるであろう」と、大変喜んで親しくご歓談されました。
 十月一日、イキシコオに太占(フトマニ)を占わせ結果も吉兆と出たので、イキシコオに八十枚の平瓮(ひらか)を作らせて神祭りの用意を整え、オオタタネコをオオミワオオモノヌシ(大三輪大物主神 大神神社、奈良)の斎主に命じ、ナガオイチは、オオクニタマ(大和神社)の斎主を命じ、あまねく天下にお触れを出して、今度初めて神名帳も編纂して備えると神地神戸も定めて、八百万神(ヤオヨロズノカミ)を祭らせました。

 これをもって、神を崇める御心も天に通じて、やっと疫病(えやみ)も平癒(へいゆ)し、この年は、稲穂もたわわの豊作となって民の生活も豊かになり、再び平和がよみがえりました。
 八年四月四日、タカハシ邑のイクヒという者が、ミワ大神のために初めてお神酒(みき)を造り奉りました。その酒の味は大層美(うま)いとの評判です。
 十二月八日、オオタタネコにオオミワ神を祭らせて御幸されました。御饗(みあえ)の席でイクヒの造った酒を献上した所、君は心地良く歌われて、
この神酒(みき)は 我が神酒ならず
ヤマトなる 大物主の 神の神酒
イクヒサ造る 杉葉幾久(すぎばいくひさ)
(いつまでも造り続けよ 杉葉(酒林)よ 永遠に)
 御饗が終わると、今度は臣等が歌って
美酒(うまさけ)や 身はミワの殿(との)
朝戸(あさど)にも 出でて行かなん
ミワの殿(と)の戸(と)を
 この時、君は即座にこれを受けて返歌(かえしうた)を歌われました。
美酒(うまざけ)に 身はミワの殿
朝戸(あさど)にも 押し切らかねよ
ミワの殿(と)の戸(と)を
 美酒(うまざけ)と太平の世に酔いしれた君、臣等は一気に朝戸を押し開くと、御幸の宮を後にお帰りになりました。

 九年三月十五日夜、君の夢に神のお告げがあり、
 「赤、白、黄の幡矛(ほこ)立てて、神を祭れ。ウダのスミサカ(墨坂)も、オオサカ(逢坂)も、カワセサカ(河瀬坂)も、この三尾を残りなく祭れ。ここは罪科人(つみびと)等の死霊が迷い留まって、疫病を引き起こしている」と。

 四月二十二日、補佐役のオオカシマ(大暁島・伊勢神宮 神臣、初代神主)とタタネコ(大直根子・三輪臣、初代神主)に魂返しの法(のり)を祈らせました。その結果やっと明るい世が訪れました。

 十年七月二十四ネヤトの日、詔のり。
 民を治めるため教化に勤め、神意のままに神祭りを盛大におこない、やっと災いをほぼ克服することができたが、遠国(とおつくに)の荒人等(あらびと)は未だに法(のり)を守らず、我が詔のりを受けようとしない。故に、四方の国々に教使(おし)を派遣して、法(のり)を教化し、国の安定を計りたいと思う。
 九月九日、詔のり。
 オオヒコをコシ(越)の教使(おし)に、タケヌナガワケをホツマ(東海・関東)の教使(おし)に、キビツヒコをツサ(山陽道)の教使(おし)、タニワチヌシをタニワ(丹波)教使(おし)に任命する。
 もしも教えに従わない国神あらば、武力をもって討ち滅ぼせとの命が下りました。それぞれ神璽を賜わり、各将軍は兵を引きいて四方面に軍立(いくさだち)しました。
 十五日、オオヒコがヤマシロ(山背)ソエアガタ(添県神社・別名歌姫神社)のナラサカ(奈良坂町、奈良)に至った時のこと、どこからともなく少女の歌が聞こえてきました。
御世ミマキ イリヒコあわや 己が添人(そえ)
盗みしせんと 後(しり)つ戸を
い行き違(たが)いぬ 前つ戸よ
い行き違いて 窺(うかが)わく
知らじとミマキ イリヒコあわや(危急)
 オオヒコは、この意味ありげな歌を怪しんで、馬を引き返して少女に歌の訳を聞きました。少女が答えるには、
 「私は歌を唄うだけです。なにも存じません」と、言うやいなや又どこえともなく消え失せました。

 十年九月十七日、コシの教使(オシ)のオオヒコは、この歌に胸騒ぎを覚えて急ぎ軍を引き返し、ミズカキ宮に帰り着き君に申し上げるには、
 「ヤマシロのナラサカの少女が唄った歌は、しかじかかような内容の歌で悪い事の前兆ではないかと不安です。早急にご検討を願います」と申し上げました。
 君が、侍臣と協議を重ねている折に、常に君の政事(まつりごと)を助けて生まれつき聡明で予知能力に優れた姉のモモソ姫が君に申し上げました。
 「これは、タケハニヤスが謀反を起こす前兆です。彼の妻アダ姫がカグヤマの埴(はに・土)を領巾(ひれ)に入れ大切に持ち帰り、国の物実(ものざね)と称して、国を乗っ取ろうと祈っているのを知っています。この事に間違いありません。緊急事態です。早く決断を下してください」

 諸将が出発を延期して宮に留まって緊急作戦会議を始めるとまもなく、
「タケハニヤスはヤマシロから、妻(アダ姫)はオオサカ(現・逢坂、奈良)から、二人は共謀して二手に分かれ都を落とさんと反乱を起こし攻め上って来ます」との、ハヤキジ(伝令)が飛び込んできました。
 詔のりにより、イサセリミコをオオサカに追討の将として向かわしめ、ついに敵を打ち破りアダ姫(阿陀比売神社、奈良)を殺しました。
 オオヒコとヒコクニフクは、ハニヤスヒコ迎撃に向かわしめました。ヒコクニフコはヤマシロのワニタケスキ坂に斎瓮(いんべ)をすえ、戦勝祈願をして後、軍を引きいて軍立(いくさだち)して早々に、草木を踏み分け平(なら)しての白兵戦となり、まず手合い(勝負を試す)の戦いに軽く勝利を納めたこの地をナラザカ(現・奈良坂)と言います。オオヒコは下道(しもみち)を進み、川を挟(はさ)んで対戦し、兵供(つわものども)は我(ワ・地)から吾(ア・天)からと相挑みました。敵将のハニヤスヒコは川北(川上)に陣取って、ヒコクニフクを見下していわく、 「汝、何故邪魔だてするか」と。クニフクは答えていわく、
 「これ汝、天(あめ)に逆らう賊を成敗せんと、君の勅命により義兵を上げて討ちにまいった」と。言い終わるやいなや先を競ってお互い矢を放ったところ、ハニヤスが射る矢は当たらず、クニフクが射った矢はハニヤスの胸を貫通して討ち殺しました。大将を討たれたハニヤスの兵達は、混乱して我先にと逃げ惑います。その者達に追い討ちをかけると、
 「我君(わきみ)、我君」と悲痛な叫びを残しながら流れ去りました。ハニヤスの反乱も無事鎮圧し、全員宮に凱旋しました。

 十月一日、詔のり。
 大和国内は無事平定したが、遠国(とつくに)は未だにまつろわぬ乱暴者の騒動が絶えない。四道将軍達よ、今速やかに発つべし。二十二日、各将軍は四道に分かれて出発しました。この四方に派遣された将軍達を四方のオシエド(教導人)とも言います。

 モモソ姫が大物主の妻となる。
 夜になると主は来て、どうしたわけか昼には姿が見えません。
 ある日のこと、姫は何とか主人の尊顔を見たいと願い、明け方にお帰りを留めようとしますが、神の告げるには、
 「姫の願いはもっともなことだ。我は明朝必ず櫛笥(くしげ)に入っているので、我が姿を見ても決して驚かないでくれ」と言って去りました。
 モモソ姫は、この申し付けを不思議に思い、朝が来ると早速櫛笥(くしげ)を開けて見ると、小さな蛇がとぐろを巻いて入っていました。姫は驚きのあまり、おもわず泣き叫んでしまいました。 大神は、これを大変恥じて、人の姿になって現われて言うには、
 「汝は私の言いつけを守れず叫んでしまった。私には取り返しのつかない恥になった」と言うやいなや大地を蹴り大空跳んで駆け上り、ミモロの山(三輪山)に消え失せました。
 妻は、夫の去る方を仰ぎ見ながら、後悔のあまり後を追い箸(はし)で身陰(みほど)を突いて自害しました。モモソ姫の遺骸(いがい)を埋葬したのがオイチ(大市)の箸塚古墳(はしずか)です。
 この塚は、昼は人力により、夜は神の力でオオサカ山の石を運び築きました。諸人が並び継いで、手から手に石を渡して運び、ついに墓を築き上げました。
 墓が完成した時の喜びの歌。
オオサカ(逢坂)も 継(つぎ)の顔揃(ソ・添)え 石群(いしむら)を
手越(たごし)に 越さば 越(こし)がてんかも

(遠いオオサカ山の石も皆で次々と顔をそろえる様に手渡しして運べば乗り越えられぬ事はないさ) 十一年四月十六日、四道将軍が未開地征討から帰還して、各々が復命しました。
 「乱暴者等は、皆平和裏に朝廷に帰伏しました」との報告があり、君は安堵して国の安寧を確信しました。
 秋、君はオオタタネコに今度の軍立ちの犠牲者の供養を命じ、苦しみの霊(たま)の緒を解く祭りをハシズカ古墳上で盛大に行いました。群れ押し寄せる民の上に、神の法(のり)は照り輝きオイチ(大市)は大いに賑わいました。

 十二年三月十二日、詔のり。
 私が天(あま)つ日嗣(ひつぎ)を受けてからというもの、一日一日が追われるごとくで平穏な日とてなかった。天は陰(メ)と陽(オ)が乱れて天候不順が続き、ついには疫病が大流行して罪なき多くの国民を死亡させてしまった。
 私はこの罪や汚れを祓い清めんと心を改めて神を崇(うやま)い、神祇の教えに努めてきたおかげで、今やっと八方の乱暴者供もまつろい、平和で豊かな、民が楽しく暮らせる世の中に戻すことができた。
 この平安の世に感謝し深く考えた末、この度は成人と未成年者の区別を法をもって定めて若者を守るとともに、民に負担となる課役(かえき)を廃し、いとま明け(休養)としよう。又、男の弓端(ゆはず)の調(みつぎ)や、女の手末(たずえ・織物類)の調(みつぎ)も止めて、民の生活(くらし)に余裕を持たせて、豊かで賑わう国を造ろう。
 この秋には稲穂も大豊作となり、民の家屋も美しく整って、人々の暮らしや風俗も華やぎました。
 今、君の御心も安らかに、国の繁栄を心から楽しまれました。誰言うとなく、初めて国を平和に治めた御肇国(はつくにしらす)ミマキ天皇の世と称えました。

 四十八年一月十日、皇子(みこ)のトヨ君とイクメ君とに詔のり。
 「今日まで、汝等二人に平等に恵みを与えてきたが、今どちらか一人を日嗣(ひつぎ)皇子に選ばなければならない。ついては夢をもって占うので、二人とも沐浴(ゆあみ)して身を清め、日嗣の夢を見るべし」と、申されました。
 翌朝、兄のトヨギが申しあげるには、
 「ミモロの山に登って東を向き、八度矛遊戯(はちたびほこゆげ)をしました」
 次に、イクメが申さるは、
 「ミモロ山に登り、四方に縄を張って雀を追う夢をみました」と答えました。
 君は考えて、兄の夢は唯、東を向いているだけなのでホツマ(東海・関東)を治めよ。弟は四方の民を治める世嗣としよう。

 四月十九日ツミエ、詔のり。
 イソサチを立てて日嗣の皇太子とし、トヨギイリヒコをホツマツカサ(東国司)に任命しました。


ミマキイリヒコ天皇(人皇十代、崇神)
ツノガアラシトをミマナ(任那)国王に任命する。

 五十八年八月、君はツルガに御幸されケヒ大神(現・気比神宮)に詣でました。
 諸臣や北陸の国守達が集い、君に祝いの御饗をささげている処に、頭に角が一つある人物が、この北の津(現・敦賀市、福井)に船で漂い着きました。
 言葉が全く通じないので、ハラ(蓬莱山・現・富士山)のサカオリ宮(現・浅間神社、富士宮市、静岡)に使いを出し、外国語に詳しいハラの臣ソロリヨシタケを呼び寄せて、この者に質問させました。

 その答えは、こんな物語です。
 私は韓国(カラクニ・伽耶)の君の王子で、名はツノガアラシトと言います。父の名はウシキアリシトです。
 私が国に居た頃伝え聞いたところによると、日本国(やまと)には聖(ひじり)の君が居られると知り、君に服(まつら)おうと船出して、アナト(穴門国、山口県)に着きました。そこのイツツヒコなる者が、私にいわく、
 「この国の君は我なり。ここに居なさい」と申しました。しかし、その人となりがどう見ても品性卑しく君には見えませんでしたのでいったんは帰還して船出し、都への路を探して津々浦々を巡り、イズモを経てやっとこの地に着きました。
 幸い君が神祭りのためにご当地に御幸(みゆき)と聞き参上いたしました。どうか私をお召し下さい。

 君はツノガアラシトを召して仕えさせて見ると、忠義に厚く勤勉で、大変有能である事も解り、五年目には君ミマキイリヒコの名前の頭の二音をつけてミマというナ(名)の新国名をミマナとして賜いました。
 後、君はたくさんの国の産物やカゾミネ(緑の山々の模様)の綾錦織(あやにしき)を土産に持たせてアラシトを本国に送り出しました。これがミマナ(任那)建国の初めとなりました。

 アラシトの昔し話。
 黄牛(あめうし)に荷物を背負わせ、アラシトが旅行中のことです。少しの間、木陰で微睡(まどろ)んでいるうちに、いつしか牛の姿を見失ってしまい、たまたま近くに一軒の家があったので、そこの老人に聞いたところ、老人いわく、
 「荷物はもうとっくに盗まれちまい、牛もバレたら後で金を払えばいいとして、とっくに殺して食べられてしまったろうよ」
 「もしも、先に行って牛の値段を聞かれたら、この地の祭神(まつるかみ)が欲しいと答えりゃいい」
 牛の後を訪ね行くうち、この村の君が、牛の値段を聞いてきました。アラシトは老人に言われるままに、祭神(まつるかみ)が欲しいと答えると、村君が神の白石(しらいし)を牛の値(代金)として差し出したので、城中に持ち帰って寝室に大切に置いておくと、いつのまにか美しい少女の姿に変身しました。
 大変喜んだアラシトは、いつか必ず結婚しようと心に誓いました。しかししばらくの間、外国に行っている間に少女は消え失せていなくなりました。
 帰国して驚いたアラシトが、妻に問い正してみると、妻は、
 「少女は東南の方に去った」と言いました。アラシトは少女の行方を訪ねて追い求め、船旅の果てについに日本国(やまと)ナニワのヒメコソの宮(比売許曽神社、大阪)にたどり着きました。が、そこにも少女はすでになく、宮より出でてトヨの国のヒメコソ宮(比売語曾神社、姫島、大分)ですでに神上がっていました。

 時に、アラシトは自国に帰る途中、日本(やまと)からの土産をシラギ(新羅)人に奪い取られた事が原因で、シラギ国と戦いが起こりました。
 この一件で、ミマナ国王の使者が日本国に遣わされ、君に奉じていわく、
 「我が国の東北地方に三巴群(ミハエ)有り。上、中、下に分かれた土地は、土も肥えていて四方の広さは三百里に及び、民も豊かに暮らしています。しかし、今すでにシラギの敵との戦いが長く続いて、治めることも難しくなっています。農民は皆、戦いに明け暮れして農作業を欠き、今では国民の死活問題となっています。臣(とみ)、願わくば国平定のために、貴国の遠征軍を派遣されんことを切に乞うのみでございます」
 君は、この申し出を大変喜ばれて、早速、臣(とみ)等と相談したところ、皆がいわく、
 「クニフクの孫のシオノリツヒコこれ吉(よし)」と答えました。
 頭の三瘤(みこぶ)から松の君とも呼ばれ、背は何と一丈五尺にも及び力量は八十人力で勇壮で激しい性格です。

 詔のり。
 シオノリヒコをミマナ国に派遣する将軍に任命する。又、別名を外国遠征道司(ユキトクニムケミチツカサ)の名を授ける。
 ついに敵地をくまなく平定し、凱旋将軍として意気揚々と帰朝しました。

 君は帰れば吉(よし)と、吉(よし)姓をシオノリヒコに賜わりました。




(私論.私見)

『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十三〔神祟め疫病治す紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P374-393 )

三穂(みほ)九月(なづき) 磯城(しぎ)瑞籬(みづがき)に 崇神3年、天鈴623年9月。
「磯城」は、奈良県磯城郡。
「瑞籬」は、『大和志』によると「古蹟在三輪村東南、志紀御県神社西」と見える。
現在の奈良県桜井市金屋付近のこと。
第10代崇神天皇 磯城瑞籬宮伝承地の史貴御県坐神社がある。
実際の宮跡はこの神社の境内ではなく、境内の西側にある天理教会の建物とその北隣りの三輪小学校のあたりにあったと推定されている。
新都(にいみやこ) 四穂(よほ)メ二十三日(すえみか) 崇神4年、天鈴624年10月23日
勅(みことのり) 「御祖(みをや)の授(さづ)く  
三種(みぐさ)もの 国常立尊(くにとこたち)は 神璽 → 国常立尊の依代
神璽(かんをして) 天照神(あまてるかみ)は 八咫鏡 → 天照神の依代
八咫鏡(やたかがみ) 大国魂神(おおくにたま)は 八重垣剣(叢雲剣) → 大国魂神の依代
八重垣剣(やゑがき)と 常に祭りて 「八重垣剣」とは叢雲剣のことか?
『秀真伝』(御機27-27)「この叢雲剣は 生れませる 御子の祝いに ささげよ」と第5代大物主の蕗根命が第6代櫛甕玉命(鰐彦)に託す。
『秀真伝』(御機27-32)「八重垣剣は鰐彦に 授くお姫が 預かりて 別雷宮に 納め置く」
倭姫が御杖代になったとき、八咫鏡と叢雲剣(八重垣剣)を捧持され、伊勢の地にもたらされた。
身(み)と神(かみ)と 際(きは)遠(とほ)からず  
殿床(とのゆか)も 器(うつわ)もともに  
住(す)み来(きた)る やや稜威(いづ)恐(おそ)れ  
安(やす)からず 天照神(あまてるかみ)は  
笠縫(かさぬひ)に 豊耜入姫(とよすき)に 崇神4年、天鈴624年10月23日の勅命。
豊耜入姫が檜原神社(ひばら)で天照神(八咫鏡)を祀る。
その後、天照神(八咫鏡)は倭姫の手によって伊勢の地に遷された。
祭(まつ)らしむ 大国魂神(おおくにたま)は  
渟名城姫(ぬなぎひめ) 山辺の里に 崇神4年、天鈴624年10月23日の勅命。
渟名城姫が大和神社で大国魂神(八重垣剣)を祀る。
祭(まつ)らしむ 石凝留命(いしこりどめ) 石凝留命の孫に、鏡を造らせ複製を宮中に留める
孫(まご)鏡 天目一箇神(あめひとかみ)の 天目一箇神の孫に、剣を造らせ複製を宮中に留める。
孫(まご)剣 さらに造(つく)らせ  
天照(あまて)らす 神(かみ)の璽(をして)と 天照神の顕された神璽(国常立尊)は、複製が造られることなく、そのまま宮中に留め置かれた。
この三種(みぐさ) 天(あま)つ日嗣(ひつき)の 崇神4(天鈴624)年に複製された八咫鏡と八重垣剣、複製されることがなかった天照神の顕された神璽(国常立尊)が三種神宝。
神宝(かんたから)」 五年(ゐとし)疫病(ゑやみ)す 崇神5年、天鈴625年。
疫病が流行り、半数近くの人民が死に絶えた。
半(なか)ば枯(か)る 六年(むとし)民(たみ)散(ち)る 崇神6年、天鈴626年。
民の離散。
勅(ことのり)に 治(た)し難(がた)し枯(か)れ  
つとに起(お)き 罪(つみ)神(かみ)に請(こ)ふ  
二宮(ふたみや)お 新(さら)に造(つく)らせ  
六年(むとせ)秋(あき) 大国魂(おおくにたま)の 崇神6(天鈴626)年秋
神遷(かみうつ)し 九月(なつき)十六日夜(そむかよ) 崇神6(天鈴626)年9月16日夜、
大国魂神の宮遷し、
 大和神社
明日(あす)の夜(よ)は 天照神(あまてるかみ)の  
宮遷(みやうつ)し 豊(とよ)の明(あか)りの 崇神6(天鈴626)年9月17日夜、天照神の宮遷し、
→ 檜原神社(ひばら)へ。
色(いろ)もよく いざとも神(かみ)は  
降(くだ)ります イロのツズ歌  
いざ遠(とほ)しゆきのよ  
ろしも大夜(おほよ)すがらも  
七穂(なほ)二月(きさら) 三日(みか)勅(みことのり) 崇神7(天鈴627)年2月3日
「わが御祖神(みをや) 開(ひら)く基(もとひ)は  
盛(さか)んなり わが世に当(あた)り  
汚穢(おえ)あるは 祭(まつ)り届(とど)かぬ  
咎(とが)めあり 蓋(けだ)し極(きわ)めて  
寄(よ)るなり」と 朝日(あさひ)の原(はら)に 朝日原(真名井原)
行幸(みゆき)して 八百万神(やもよろ)招(まね)く  
湯の花の 百襲姫(ももそひめ)して 「湯の花」とは湯立ての神事
宣(のり)ごちに サツサツズ歌(うた)  
去る民(たみ)もツズにま  
つらで汚穢(おゑ)に乱(みだ)るさ  
君(きみ)問(と)ふて 「かく教(をし)ゆるは  
誰(た)れ神(かみ)ぞ」 答えて「われは  
国(くに)つ神(かみ) 大物主命(おおものぬし)ぞ」 三輪山に祭られている。
ここでいう大物主は、大物主の奇杵命・奇彦命・蕗根命・櫛甕玉命のどちらであろうか?
三輪山の祭祀の始まりが、奇彦命が三輪山で神上がったことに求められるとすれば、ここの大物主命は奇彦命であろう。
君(きみ)祭(まつ)る こと兆(しるし)無(な)し  
斎浴(ゆあ)びして 清(すが)に祈(いの)りて  
告(つ)げ申(もふ)す 「われ敬(うやま)えど  
受(う)けざるや」 この夜(よ)の夢(ゆめ)に  
「われはこれ 大物主(おおものぬし)の  
神(かみ)なるが 君(きみ)な憂(うれ)ひぞ  
治(た)せざるは わが心(こころ)あり  
わが裔(はつこ) 大直根子(おおたたねこ)に 大御毛主命の孫か?
大御毛主命のあとをうけ、『秀真伝(ほつまつたゑ)』29紋から40紋までを書き加えた全紋の撰者。
祭(まつ)らさば 等(ひと)しく均(なれ)て  
外国(とつくに)も まさに服(まつら)ふ」  
八月(はつき)七日(なか) 迹速命(とはや)が茅原(ちはら) 崇神7(天鈴627)年8月7日
眼妙姫(めくはしめ) 大水口命(おおみなくち)と  
伊勢麻績命(いせをうみ) 三人(みたり)帝(みかど)に 三人が同じ夢を見た。
迹速命の娘・茅原眼妙姫
大水口命
伊勢国の麻績命
告(つ)げ申(もふ)す 「夢(ゆめ)に神(かみ)あり  
大直根子命(たたねこ)お 大物主神(おおものぬし)の 三輪山に祭られている。
ここでいう大物主は、大物主の奇杵命・奇彦命・蕗根命・櫛甕玉命のどちらであろうか?
三輪山の祭祀の始まりが、奇彦命が三輪山で神上がったことに求められるとすれば、ここの大物主命は奇彦命であろう。
斎主(いわいぬし) 磯長尾市命(しながおいち)お 市磯長尾市とは、神武東征のとき水先案内を勤め、即位後、大倭国造に任ぜられた椎根津彦(シイネツヒコ・神知津彦-カミシリツヒコ・宇豆彦-ウズヒコともいう)の子孫で、大倭直氏(大和連・大和宿禰)の祖とされる。
新撰姓氏禄には、「大和国神別(地祇) 大和宿禰 神知津彦命より出ず
(神武の水先案内を務めたとの記事の後に)天皇之を嘉し、大倭国造に任ず。是大倭直の始祖也」
「摂津国神別(地祇) 大和連  神知津彦命十一世孫御物足尼之後也」
が見える。
大倭直氏は奈良時代を通じて当社の祭祀を司ったが、平安時代には衰微し、中世になると史上から消えたという。
大日本(おほやまと) 国魂神(くにたまかみ)の 大日本国魂神とは第2代大物主・奇彦命に与えられた尊称であるが、崇神天皇のとき大日本国魂神が奇彦命とは別の神格をもって現れたようだ。
天之逆矛の神格化を大日本国魂神と捉えておく。
神代の昔、奇彦命が天之逆矛をもって三輪山で神上がられたが、時を経て、天之逆矛が神格化されて現れてきたのだ。
斎主(いわいぬし) なさば平(む)けべし」  
君(きみ)これに 夢(ゆめ)合(あ)わせして  
触(ふ)れ求(もと)む 大直根子命(おおたねこ)お  
茅渟陶村(ちぬすゑ)に ありと告(つ)ぐれば  
君(きみ)やぞと 茅渟(ちぬ)に行幸(みゆき)し 茅渟は和泉国一帯の古称。
陶村は和泉国大島郡陶器荘。
現在の大阪府堺市東南部、陶器山からその西方にかけての地。
『延喜式神名帳』に「大島郡陶荒田神社」がみえる。

大直根子命(おおたたねこ)に 「誰(た)が子(こ)ぞ」と問ふ  
答えには 「昔(むかし)大物主(ものぬし) 大物主の子守神のこと。
陶津耳命(すえすみ)が 活玉依姫(いくたま)と生む 活玉依姫は子守神の后
大物主(ものぬし)の 大三輪神(おおみわかみ)の ここの大物主は子守神の子の第4代大物主の神立命のこと。
大三輪神とは、第6代大物主の櫛甕玉命のことか?
裔(はつこ)なり」 君(きみ)栄(さか)えんと  
楽(たの)しみて 伊木色雄命(いきしこお)して  
占(うらな)わす これまことよし  
よそ神(かみ)お 問(と)えば太占(ふとまに)  
占(うら)悪(わる)し メ月(つき)初日(はつひ)に 崇神7(天鈴627)年10月1日
「メ月」は、他の箇所に載るその記述と『紀』の記述を比べると10月に相当すると考えられるが、確証を欠くので、本文・口語訳ともにしばらくカタカナ名で表記する。
伊木色雄命(いきしこを) 八十瓮(やそひらか)なし  
これお以(も)て 大直根子命(おおたたねこ)お  
斎主(いわひぬし) 大三輪(おおみわ)の神(かみ)  
長尾市命(ながおいち) 大国魂神(おおくにたま)の  
斎主(いわひぬし) あまねく触(ふ)れて  
神(かみ)崇(あが)め 神名文(かみなふみ)なす 「神名文」とは後の神名帳の原型
神部(かんべ)して 八百万神(やもよろかみ)お  
祭(まつ)らしむ 疫病(ゑやみ)平(む)け癒(い)え  
ゾロ稔り 民(たみ)豊(ゆた)かなり 「ゾロ」稲および畑の穀物