【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)33、神崇め疫病治す文】 |
神崇め 疫病治す文 |
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「時天鈴 六百二十一年」、「キナヱ春 一月ネシヱは」、「十三日キシヱ ヰソニヱの御子 歳五十二」、「天つ日月を 受け継ぎて」、「ミマキイリヒコ 天つ君」、「三種使も 天例 民に拝ませ」、「母を上げ 御上后と」、「百二十一 大母の歳」、「百六十二 大御后と」。 |
時は「あすず暦」の六百二十一年キナヱ(きのえさる 甲申)年の春、新年の一月のネシヱ(みずのえうま 壬午)の月の十三日のキシヱ(きのえうま 甲午)の日、ヰソニヱの皇子(みこ)は、年令は五十二歳で皇位を継承して即位された。前例にならって天つ日月を受け継いで、ミマキイリヒコ天君となった。上代の例にならって三種の神器((日・月・星の使い))を民に拝ませた。(即位の礼であり以降歴代続いている)
母(先帝の中宮)を太上皇后に上げたてて、御上妃(みうえきさき)となった。歳は百二十一歳。「大母」(先先帝の中宮)の歳は実に百六十二歳で、大御上妃(おおんきさき)となった。 |
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「初年の 二月(きさらぎ)サウト」、「十六日ツミヱ オオ彦の姫の 今年十一」、「召して后の ミマキ姫」、「紀アラカトベが トオツアヒ」、「メクハシ内侍 大スケに」、「近江がヤサカ フリイロネ 仮スケとなる」、「尾張が姫 オオアマ内侍」、「長橋の ヲシテ執る守」。 |
崇神天皇の「みずかき宮」元年の二月(きさらぎ)サウト月の十六日ツミヱの日、オオ彦の姫の年が今年十一歳になり妃(中宮)に召され、ミマキ姫と呼ばれた。
紀の国のアラカトベ親王のトオツアヒメクハシ姫が「うちめ」から「おおすけ」の妃になった。近江のヤサカフリイロネ姫は仮すけ妃になった。尾張の連の娘のオオアマは「うちめ」という位になり、長橋の(事務所を示す)で「おして」(文書・おしで文字)を取り扱い守る責任者になった。 |
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「これの先 メクハシが生む トヨスキ姫」、「オオアマが生む ヌナギ姫」、「メクハシが生む ヤマトヒコ 斎名ヰソキネ」、「ヤサカ生む ヤサカイリヒコ」、「オオキネぞ 故母を上ぐ」。 |
これの先(崇神天皇が各姫を娶ったこの後)、メクハシ姫」が生んだ子はトヨスキ姫。(トヨスキ姫は後に初代天照大神を生涯独身で守る斎女になる) オオアマ姫(尾張の連の娘)が生んだ子はヌナギ姫。メクハシが二番目に生んだ子はヤマトヒコでいみ名をヰソキネと云う。(後の垂仁天皇の兄にあたります) ヤサカ姫(近江の「やさかふりいろね姫」)が生んだ子はヤサカイリヒコでいみ名はオオキネ。男の子を産んだので母(やさか姫)は階級が上がった。 |
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「三年九月 磯城(しき)瑞籬(みつかき)に 新都」、「四年十月二十三日 詔」、「上祖の授く 三種物」、「クニトコタチは 神ヲシテ」、「天照神は ヤタ鏡
」、「大国玉は 八重垣と 常に祀りて」、「身と神と 際遠からず」、「殿床も 器も共に 住み来る」、「やや稜威畏れ 安からず」。 |
崇神天皇御代三年九月、磯城(しぎ)の瑞籬(みつかき)に新しい都を造った。四年十月二十三日に崇神天皇の詔があった。上祖(みおや、先祖神)から授かって受け継いできた三種の神器は、クニトコタチの神璽(かんおしで・天なる道を示した法・書かれたもの)と、天照大神のヤタ鏡と、大国玉の八重垣の剣の三つである。この三種の神器を宮中に祀り常に拝礼し、身を神に添わせてきた。寝起きする殿の床(寝床)も近くにして、食事の器も神と同じようにして住んで来た。しかるに、未だ稜威(いず、神の意向)に添えていないのではないかと畏れている。そのことが不安でならない」。 |
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「天照神は 笠縫に」、「トヨスキ姫に 祀らしむ」、「大国玉は ヌナギ姫 」、「山辺の里に 祀らしむ」、「イシコリトメの 孫鏡」、「アメヒト神の 孫剣 新に造らせ」、「天照 神のヲシテと この三種」、「天つ日月の 神宝」。 |
天照大神の御霊は笠縫の地に移して、トヨスキ姫に祀らせた。大国玉の御霊は山辺の里に移して、ヌナギ姫に祀らせた。イシコリトメ(鋳物師)の子孫に鏡を、アメヒト神の子孫に剣をそれぞれ新たに作らせた。天照大神の神璽もあわせて新しい三種の神器として皇位継承の日嗣(ひつぎ)の神宝とした。 |
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「五年穢病す 半ば枯る 六年民散る」、「言宣に 治し難し故」、「夙に起き 罪神に請ふ」、「二宮を 新に造らせ 」、「六年秋 大国玉の神遷し」、「九月十六日夜 翌の夜は」、「天照神の 宮遷し」、「豊の明りの 色も好し」、「いざとも神は 下ります」、「イロの連(つす)歌」、「いざ遠し
幸の喜も 栄よ優らも」。 |
みずかき宮五年、疫病が流行り、民の半分が死んだ。翌年の六年には、民は散り散りになってしまった。天皇曰く、「民を治められず政治がうまくいかない故に夜中に突然(つとに)起きて目が覚め、罪(助け)を神に願った」。これにより、
二つの宮を本格的に再建させることにした。六年目の秋、大国玉の御霊を山辺の里に移した。九月十六日の夜、明日の夜(九月十七日の夜)は天照大神の宮を遷した。神前の豊の明かりが色よく燈った。
これにより神が降臨され易くなった。「いろ」の「つずうた」が詠まれた。( 「つずうた」は十九音からなっており、「続く」の語源にもなっている。十九音の後、次の人が二十音目から続いて言の葉を発する(はたち・初の音を発する)事から、二十歳のことを「はたち」と呼ぶようになったと考えられる) 「これで事がなった訳ではない。これからも多難と思われる。とはいえ、さい先の良さを祝い、共に悦び合おう」。 |
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「七年二月 三日詔」、「我が上祖 開く基は 栄んなり」、「我が世に当り 衰え粗るは」、「祀り届かぬ 咎めあり」、「けだし究めて 寄るなり」と」。 |
みずかき宮七年二月三日、詔。「我が上祖(みおや)が開いてきた国は偉大で栄えてきた。 しかし、我が御世になって、「おえ」(不浄なこと、けがれ、疫病を示す)があって悲惨な状況になっているのは、神祀りが不充分な咎めであろう。今後はもっと道を窮め神の意向に寄り添わなければならない」。 |
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「朝日の原に 御幸して」、「八百万招く 湯の花の」、「モモソ姫して 宣言に サッサッ連歌」、「散る民も 連に服らで 衰えに惨るさ」、「君問ふて 「かく教ゆるは 誰神ぞ」、「答えて我は 国津神 大物主ぞ」、「君祀る 殊徴(しるし)なし」。 |
「あさひの原」(今の京都丹波、比沼麻奈為ひぬまない神社)に御幸され「とよけ」神に詣でた。 君(崇神天皇)は八百万の神々を招く「湯の花神事」をモモソ姫に奉納させた。そうすると「モモソ姫に神が乗り移って、神から「さつさつずうた」が告げられた。「去っていった民の原因は、神を共に祀らなかったからであり、これにより道が衰え乱れてきたのですよ」。
このご神託を聞いて驚いた君は問うた。「このように教えてくださる神は一体何と言う神様ですか」。 すると、「我は国津神の大物主である」という答えがあった。君は神祀りをしたが、神の意向は得られなかった。 |
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「湯浴して 清に祈りて 告げ申す」、「我敬えど 受けざるや」、「この夜の夢に 我はこれ」、「大物主の 神なるが 君な憂ひそ」、「治せざるは 我が心あり」、「我が裔(はつこ) オオタタネコに 祀らさば」、「ひとしく平(な)れて トツ国も 真に服ふ」。 |
「ゆあみ」(斎戒沐浴して滝に打たれる?)して心身を清め神に告げ申し上げた。「私は神をこれほどまでに敬っておりますが、まだ受けていただけないものなのですか」。
そうすると、その夜の夢に、「我は大物主の神である。君よ、そんなに憂えることはない。世の中が治められないのは我が意があってのことである。 我が子孫のオオタタネコを斎主(いわいぬし)にして神を祀らせば平穏になって、遠い国も心の底から服するようになろう」。 |
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「八月七日 トハヤがチハラ」、「メクハシ姫 オオミナクチと イセヲウミ」、「三人帝に 告げ申す」、「夢に神あり タタネコを」、「大物主の 斎(いわい)主」、「シナガオイチを 大ヤマト」、「クニタマ神の 斎主 なさば平けべし」。 |
八月七日、「とはや」の娘(ちはら)の「メクハシ姫とオオミナクチとイセヲウミの三人が帝(みかど、崇神天皇)に告げ申されるには、「夢に神のお告げがありました。
お告げは、まずタタネコを大物主の斎主(いわいぬし)に取り立てなさい。 次に、シナガオイチを山辺の大ヤマトクニタマ神の斎主に取り立てなさい。そうすれば世の中が治まります」。 |
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「君これに 夢合せして 告れ求む」、「オオタタネコを 茅渟陶に(茅渟県の陶村) ありと告ぐれば」、「君八十と 茅渟に御幸し」、「タタネコに 誰が子ぞと問ふ」、「答えには 昔物主 スエスミが」、「イクタマと生む 物主の」、「大三輪神の 裔なり」。 |
君はこれを聞き、自分の夢とこの三人の夢が合ったことを喜び、全国にオオタタネコを探すお触れを出した。 そうすると、茅渟陶(ちぬすえ、陶荒田神社・堺市)村に居るとの情報を得たので、君は八十人衆の供を連れて御幸された。
君はオオタタネコに「誰の子孫か」とお聞きになった。答えて、「昔、物主とスエスミの娘のイクタマ姫との間に生まれたもので、物主を祀る大三輪神の子孫(はつこ)です」。 |
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「君 「栄えん」と 楽しみて 」、「イキシコヲして 占わす これまこと吉し」、「他神を 問えばフトマニ 占悪ろし」。 |
これを聞き、君は、これで我が御世も栄えて安泰になるであろうとホッとされた。イキシコヲに占わせたところ、「実に良い(大吉)」と出た。他の神に祀らわせることをフトマニで占わせたところ凶(悪い)とでた。
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「十月初日に イキシコヲ」、「八十平瓮成し これを以て」、「オオタタネコを 斎主 大三輪の神」、「ナガオイチ オオクニタマの 斎主」、「遍く告れて 神崇め 神名文成す」、「神部して 八百万神を 祀らしむ」、「穢病(えやみ)平け癒え ソロ
実り 民豊かなり」。 |
十月一日、イキシコに八十枚の平瓮(ひらか・お皿)を作らせた。 これをもってオオタタネコを斎主(いわいぬし)に定めて大三輪の神を祀らせた。 ナガオイチを斎主(いわいぬし)に定めてオオクニタマ(大和神社)の神祀りをさせた。
あまねく天下にお触れを出して、両神を崇める神名文を編纂した。神部(かんべ)を定めて八百万の神を祀らせた。 この結果、疫病も癒えて、御心も天に通じて稲穂もたわわに稔り、民の生活も豊かになった。 |
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「八年四月四日 高橋イクヒ 酒造り」、「三輪大神に 奉る その味うまし」、「十二月八日 神(ミワ大神) 祀らせて」(異文「八年サミト 四月四日 高橋」、「村イクヒ うま酒造り」、 「三輪神に その酒
うまし」)、「十二月八日 タタネコ遣りて」(異文和仁估安聰写本「神祀らせて」、小笠原写本「タタネコ祀り」)、「御幸なる イクヒが酒に 御饗なす」。 |
みずかき宮八年四月四日、高橋イクヒが神酒を作り、三輪大神に奉った。その、神酒の味は大変美味しいものであった。(異文、 みずかき宮八年「さみと」の年の四月四日、高橋村のイクヒが美味い神酒をつくり三輪大神に奉った。その、神酒は大変美味しいものであった)。
師走十二月八日、神祭りをしました。「おおたたねこ」は神祭りをしました。君(崇神天皇)が御幸をされた時、「いくひ」(たかはしいくひ)が作った酒で御饗(みあえ・宴会・もてなし)をした。 |
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「君の御歌に 「この酒は 我が酒ならず」、「ヤマトなる 大物主の 神の御酒 」、「イクヒ授くる 繁(すき)は幾久」、「御饗終え 臣ら歌ふて」、「うま酒や 身は三輪の殿」、 「朝方にも 出でて行かなん 三輪の殿戸
(三輪鳥居)を」、「時に君 これ返(かえ)歌に」、「うま酒に 身は三輪の殿」、「朝方にも 押し開かねよ」、「三輪の殿戸を 殿戸押し 開き帰ます」。 |
御饗(みあえ)の時、君(崇神天皇)が歌を詠まれた。「この神酒は私のための神酒ではなく、ヤマトなる大物主の神の神酒である。幾久しく作る、杉葉(酒林)の幾久しと同じである」。
御饗(みあえ)が終わり、今度は臣たちが歌った。「美酒(うまさけ)や、我が身は、この三輪の殿中で宴会をして、朝戸(あさど)の時間(開門時間)になったので、もう出て行かなければならない。三輪の殿中の戸を押し開けて」。君が即座に返し歌を歌われた。「美酒(うまさけ)に、我が身は、この三輪の殿中で朝戸(あさど)の時間(開門時間)になったけど、根が生えて押し切ることが出来ない(帰りたくない)三輪の殿中の戸です」。
まだ、帰りたくなかったが、覚悟を決めて、朝戸を押し開き、御幸の宮を後にお帰りになられた。 |
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「九年三月 十五日の夜夢に 神の告げ」、「赤白黄(かしき)矛立て 神祀れ」、「宇陀墨坂も 大坂も」、「かわせ邪霊(さかみ)を 残りなく」、「これ潰人の 魄(しいと)留む
穢病成す故」。 |
みずかき宮九年三月十五日の夜、夢の中に神のお告げがあった。「赤(か)白(し)黄(き)の矛を立てて神を祀りなさい。宇陀(うだ)の墨坂(柏原地方)も、逢坂(大坂)も、この地を祀り邪霊(さかみ)を払いなさい。ここで亡くなった人の死霊が迷い留まっており、穢病(えやみ、疫病)を引き起こしている原因になっています」。 |
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「四月二十二日 大臣鹿島と タタネコと」、「魂返し宣り 祀らしむ 故に明るき」。 |
四月二十二日、大臣(おとみ、両翼の臣・左大臣・右大臣)の鹿島(伊勢神宮神臣・初代神主・左大臣)とタタネコに、魂返し(死者を甦らす)の法(のり)を祀り祈らせた。
その結果、やっと明るい世が訪れた。 |
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「十年ネヤト 七月二十四日 詔」、「民治す教え 神祀り」、「やや汚穢去れど 遠つ国」、「荒人法を まだ迎けず」、「故四方に治人 遣はして 法教えしむ」。 |
みずかき宮十年(ねやとの年)七月二十四日、詔。「民を治める教えをもって神祀りした。これによりやや汚穢は去ったが、遠方の国では、荒人が依然として法(のり)を受け入れていない。故に、四方の国々に勅使を派遣して法(のり)を教えに行かせることにする」。 |
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「九月九日 オオ彦をして 越の治人」、「タケヌナガワを ホツマ治人」、「吉備津彦して 西南の治人」、「タニハチ主を 丹波治人」、「教え受けずば 綻ばせ」、「璽(をして)賜り 軍(いくさ)立ち」、「各々発てば 望の日に オオ彦至る」。 |
九月九日、オオ彦(八代目孝元天皇の子供)を越の国、タケヌナガワをホツマ(関東地方)の、吉備津彦を西南(西(つ)南(さ)、山陽道)、タニハチ主を丹波の治め人として派遣した。
教えに従わない国津神がいれば武力で討ち滅ぼせとの璽(をして、命令)が下り軍(いくさ)に発った。九月十五、オオ彦は京都へ向かう途中。 |
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「奈良坂に 少女が歌に」、「みよ ミマキ イリ彦あわや」、「己が副(そえ) 盗み殺せんと」、「後つ門を い行き違ひぬ」、「前つ門よ い行き違ひて 窺わく」、「知らじとミマキ イリヒコ
あわや」、「オオ彦は 怪しく返り これに問ふ」、「少女が曰く」、「われは歌 歌ふのみ」とて 消え失せぬ」、「胸騒ぎして 館(たち)帰りけり」。 |
奈良坂に乙女が現われて歌を歌った。「御世(みよ)のミマキイリ彦(崇神天皇)が危ない。副(そえ、部下)が政権を盗もうと国盗りを企んでいる。「後つ門」(背後、奥方のことを示す)からいったりきたり様子をうかがっていて君に背いている。[前つ門]からも行ったりきたり様子をうかがって国を奪おうとしている。知らないのはミマキイリ彦方だけで危ない」。オオ彦は怪しんで引き返して乙女に問うた。
乙女は、「私はただ歌っているだけです」と言いながら消えた。オオ彦は胸騒ぎして館(たち)に帰った。 |