ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)32

 (最新見直し2011.12.25日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)32、悉と央海 見つの文」を説き分ける。原文は和歌体により記されている。「」、「33綾 目次」、「富士山と不老長寿の仙薬」その他を参照しつつ、れんだいこ訳として書き上げることにする。

 2011.12.24日 れんだいこ拝 


【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)32、悉と央海 見つの文】
 カンタケ・都鳥の歌 神武の御世
 ふしとあわうみ みつのあや 悉(ふし)と淡(あわ)海 見つの文                    
 ときあすす よもふそやとし はつそふか 時天鈴 四百二十八年 一月十二日
 あまつひつきお うけつきて 天つ日嗣ぎを  受け継ぎて
 やまとふとにの あまつきみ いむなねこひこ ヤマトフトニの(孝霊天皇) 天つ君 諱(いみ名)ネコ彦
 もろはかり あめのみまこの のりおもて 諸議り 天の御孫の 法を以て
 たみにおかませ ははおあけ 民に拝ませ 母を上げ 
 みうえきさきと こそしはす 御上(みうえ)后と 去年十二月
 よかにくろたの いほとみや  四日に黒田の 廬(いほ)戸宮
 うつしてことし はつこよみ 遷して今年 初暦
 ふとしきさらき そひにたつ 二年二月 十一日に立つ
 しきのおおめか ほそひめお 磯城の大目が ホソ姫を
 きさきそかすか ちちはやか  后ぞ春日 チチハヤが
 やまかひめなる すけきさき  ヤマカ姫なる  スケ后
 といちまそをか ましたひめ ここたえとなる 十市マソヲが  マシタ姫 ココタエとなる
 うちよたり おしももよたり 内(侍) 四人 乙侍(おしも)も四人
 みとしはる おおみなくちと おおやくち ともにすくねと   三年春 オオミナクチと オオヤクチ 共に宿禰(すくね)と  
 なつうちめ やまとくにかか みつこうむ 夏内侍(うちめ) ヤマトクニカが 三つ子生む
 なはみなやまと ももそひめ  名は皆ヤマト 百襲(ももそ)姫 
 ゐさせりひこに わかやひめ  ヰサセリヒコに ワカヤ姫 
 ははもやまとの おおみやめ  母もヤマトの 大宮姫 
 そひふゆいもと はえおうち  十一年冬妹 ハエお内(侍) 
 そみしはすはつ はえひめも またみつこうむ  十三年 十二月一日 ハエ姫も また三つ子生む 
 なはゑわか たけひこのなか 名は兄ワカ  タケ彦の中
 ひこさしま とわかたけひこ 彦サシマ 弟ワカタケ彦
 ははもあけ わかおおみやめ 母も上げ 若大宮姫
 そやほはる はつもちきさき 十八年春  一月十五日后
 うむみこは やまとねこひこ 生む御子は ヤマトネコ彦
 くにくるの いみなもときね 国クルの 諱モトキネ
 ふそゐはる いつもはつそひ 二十五年春  出雲一月十一日  
 あかためし みなものたまひ みことのり  県召し 皆物賜ひ 詔
 もしひはらみこ うむものは みかとにつけよ 「もし一孕三子 生む者は 御門に告げよ
 したたみも たまものあるそ  下民も 賜物 あるぞ
 そのゆえは あめのみまこの さくやひめ  その故は 天の御孫の サクヤ姫    
 みつこうむより のちきかす  三つ子生むより 後聞かず 
 われいまみつこ うむにつき  我今三つ子 生むに付き 
ほのかにきけは みつこおは 仄かに聞けば 三つ子をば 
まひくとなつけ ころすとや  間引くと名付け 殺すとや 
いまよりあらは つみひとそ  今よりあらば 罪人ぞ 
わかこもひとは あめのたね  我が子も人は (己が子とて人たるは皆) 天の種
しかいぬちより ひとひとり 鹿犬千より 人一人」
たけみなかたの のりなりと みことさたまる  タケミナカタの 法なりと 御言定まる
くにつかさ たみにふれんと もろかえる 国司 民に触れんと 諸帰る
 あすそふかあさ すわはふり   翌十二日朝 諏訪ハフリ
 はらやまのゑお たてまつる きみこれおほむ  原山の絵を 奉る 君これを褒む  
 おなしとき しらひけのまこ あめみかけ  同じ時 白髭の孫 天御陰(あめみかげ) 
 あわうみのゑお たてまつる  淡海の絵を 奉る 
 きみおもしろく たまものや  君面白く 賜物や 
 あるひかすかに のたまふは     ある日春日に 曰(のたま)ふは
 われむかしこの ゑおみれと      「我昔この 絵を見れど 
 あてなてたかく これおすつ     艶(あで)なで貴く これを棄つ 
 いまやまさわの ゑあわせは      今山沢の 絵合せは 
 わりふたあわす よきしるし      割札合わす 吉き兆 
 はらみのやまの よきくさも      原見の山の 吉き草も 
 ゐもとせまえに やけうせし      五百年前に 焼け失せし 
 たねもふたたひ なるしるし     種も再び 生(な)る兆(しるし) 
 におうみやまお うるほせは      匂う御山を 潤ほせば 
 ちよみるくさも はゆるそと たのしみたまひ      千代見る草も 生ゆるぞ」と 楽しみ給ひ 
 みそむとし はつはるそかに  三十六年 初春十日に 
 もときねお よつきとなして みてつから      元キネを 世嗣ぎとなして 御手づから 
 みはたをりとめ さつけまし      御機織留め 授けまし 
 これあまかみの おしてなり      「これ天神の ヲシテなり
 あさゆふなかめ かんかみて たみおをさめよ      朝夕眺め 鑑みて 民を治めよ」  
 よそほひお たみにおかませ     装ひを 民に拝ませ
 やよひなか はらみやまえと みゆきなる      三月七日 原見山へと 御幸なる 
 そのみちなりて くろたより     その道なりで 黒田より   
 かくやまかもや たかのみや      香久山賀茂や 多賀の宮  
 すわさかおりの たけひてる みあえしてまつ     諏訪サカオリの タケヒテル 御饗して待つ 
 やまのほり くたるすはしり すそめくり      山登り 下るス走リ 裾巡り  
 むめおおみやに いりゐます      梅央宮に 入り居ます 
 かすかもふさく みねにゑる     春日申さ 「峰に得る  
 みはのあやくさ ちよみかや     御衣の紋草 千代見かや 
 もろくわんとて にてにかし たれもゑくわす        諸食わんとて 煮て苦し 誰も得食わず」
 なかみねの あてはあわうみ     中峰の 充ては淡海
 やつみねは すそのやつうみ みつうまり     八峰は 裾野八つ湖 三つ埋まり
 やくれとなかは かわらしと     焼くれど(噴火しても) 眺(なが)は 変ら」と 
 みつくりのうた     御作りの歌
 なかはふり なかはわきつつ  「半ば旧(ふ)り 半ば湧きつつ
 このやまと ともしつまりの このやまよこれ         このヤマト 共鎮まりの この山よこれ」 
 かくよみて やまのさらなと おほすとき     かく詠みて 山の新名と 思す時 
 たこのうらひと ふちのはな     田子の浦人  藤の花 
 ささくるゆかり はらみゑて     捧ぐる縁(ゆかり) 孕み得て 
 なおうむみうた     名を生む御歌
 はらみやま ひとふるさけよ    「原見山 ひとふる咲けよ
 ふしつるの なおもゆかりの このやまよこれ      藤蔓の 名をも縁の この山よ これ」
 これよりそ なもふしのやま     これよりぞ 名も藤の山
 みなみちお みやこにかえり     南道を (東海道)  都に帰り
 むめみやの はふりほつみの おしうとに      梅宮の ハフリ穂積の 治人(おしうど)に 
 いつあさまみこ やまつみの     稜威浅間御子 ヤマツミの 
 よかみうつして やすかわら        四神遷して 野洲川原  
 ときたけひてる たまかわの     時タケ日照 玉川の
 かんたからふみ たてまつる     神宝文 奉る   
 これあめみまこ はらをきみ     これ天御孫 原央君   
 そのこかみよの みのりゑて いまになからえ     その子神代の 御法得て 今に永らえ 
 きみゑみて このたけとめお とみにこふ         君笑みて 子のタケトメを 臣に請ふ   
 たけつつくさの まつりつく たけたのをやそ       武筒草の 祀り継ぐ 武田の祖ぞ   
 かんたから いつもにおさむ     神宝 出雲に納む
 ゐそみとし にしなかおえす     五十三年 西中(西中国) おえす
 ちのくちと はりまひかわに     ちの口と 播磨ヒ川に
 いんへぬし やまとゐさせり これにそえ      斎瓮(いんへ)主 ヤマトヰサセリ これに添え 
 ゑわかたけひこ きひかんち      兄ワカタケ彦 吉備上方 
 とわかたけひこ きひしもち      弟ワカタケ彦 吉備下方 
 そのわけときて まつろわす      その訳説きて 服わす   
 いささわけえは ひこさしま こしくにおたす         イササワケへは 彦サシマ 越国を治す 
 なそむとし きさらきやかに     七十六年 二月八日に
 きみまかる としももそやそ     君罷る 歳百十八ぞ
 みこのもは よそやにぬきて とみととむ     御子の喪衣 四十八に脱ぎて 臣留む  
 むとせたつまて みあえなす    六年経つまで 御饗なす 
 いますことくに うやまひて     居ます如くに 敬ひて  
 とみもよおさり かりとのに      臣も世を去り 仮殿に 
 をやにつかふる まことなるかな      親に仕えふる 誠なるかな
 ときあすす ゐもよほむつき そよかきみ      時天鈴 五百四穂一月 十四日君
 あまつひつきお うけつきて     天地つ日嗣ぎを 受け継ぎて 
 やまとくにくる あまつきみ       ヤマト国クル 天つ君 
 あめのみまこの ためしなり     天の御孫の 例なり   
 かさりおたみに おかませて     飾りを民に 拝ませて 
 みうえきさきと ははおあけ     御上后と 母を上げ 
 そふのつほねに きさきたつ     十二の局に 后立つ    
 よとしのやよひ にいみやこ かるさかひはら        四年の三月 新都 軽境原     
 ゐほせみな うちうつしこめ     五穂六月 内(侍) ウツシコメ
 うむみこは やまとあえくに おおひこそ      生む御子は ヤマトアエクニ 大彦ぞ    
 むほなつきむか いほとみや     六年九月六日 廬戸(いほと)宮  
 おもむろおさむ むまさかや     骸(おもむろ)納む 馬坂や  
 なほきさらふか うつしこめ うちみやとなる       七年二月二日 ウツシコメ 内宮となる
 うつしこを なるけくにとみ     ウツシコヲ なるケクニ臣
 しわすはつ ひのてにきさき     十二月一日 日の出に后
 うむみこは いむなふとひひ     生む御子は 諱フトヒヒ
 わかやまと ねこひこのみこ     ワカヤマト ネコ彦の御子
 こほのなつ あめよそかふり     九年の夏 雨四十日降り
 やましろた あわうみあふれ    山背田 淡海溢れ
 さもみもち なけきつくれは みことのり      さもみもち 嘆き告ぐれば 詔
 みけぬしをしに いのらしむ     御食主御使に 祈らしむ    
 あわくにみおに たなかかみ     淡国三尾に 田中神 
 はれおいのりて はらひなす   晴れを祈りて 祓なす 
 かせふまつりは おおなむち      カセフ祭は オオナムチ
 いつもたなかの ためしもて     出雲田中の 例し以て  
 みなつきそむか まつりなす そのをしくさの     六月十六日 祀りなす その教草(をしくさ)の
-----(異文)
 かせふなす これおおなむち たなかのり      カセフなす これオオナムチ 田中法(のり) 
 みなつきそむか おこなひは みもむそうたひ      六月十六日 行ひは 三百六十歌ひ
 おしくさに いたみもなおる     押草に 傷みも直る
---------
 まもりもて たにぬかつけは よみかえり      守り以て 田に額づけば 甦り
 やはりわかやき みつほあつ      やはり若やぎ 瑞穂あつ  
 たみかてふゑて にきはえは     民糧増えて 賑えば 
 おほみけぬしの まつりをみ     大御食主の 祀り臣    
 なつくそれより やましろも     名付くそれより 山背も  
 つくしなおりも いつもにも いせはなやまも       筑紫直りも 出雲にも 伊勢花山も   
 としことに まつるかせふそ      年毎に 祀るカセフぞ 
 そひやよひ もちにまたうむ        十一年三月 十五日にまた生む
 ととひめは ともにみゆきや    トト姫は 共に御幸や
 へそきねか やまといけすに みあえなす      ヘソキネが ヤマトイケスに 御饗なす 
 めのいかしこめ かしはてに めすうちきさき    姫のイカシコメ 膳方(かしはて)に 召す内后
 ことしそよ そみほはつみか いかしこめ         今年十四 十三穂一月三日 イカシコメ 
 うむみこのなは おしまこと いむなひこふと        生む御子の名は オシマコト 諱彦フト
 そよふつき はにやすめうむ     十四年七月 ハニヤス姫生む
 はにやすの いむなたけはる     ハニヤスの 諱タケハル
 これかうち あおかきかけか     これ河内 青垣カケが
 めのおしも なるうちきさき     姫の乙侍(おしも) なる内后
 ふそふとし むつきそふかに よつきなる      二十二年 一月十二日に 世嗣ぎなる
 ふとひひのみこ ことしそむ のちおしまこと        フトヒヒの御子 今年十六  後オシマコト
 おうちかと たかちめとうむ     オウチが妹(と) タカチ姫と生む
 うましうち これきうつかと     ウマシウチ これ紀ウツが妹
 やまとかけ めとりうむこは たけうちそ    ヤマトカゲ 娶り生む子は タケウチぞ   
 ゐそななかつき ふかまかる       五十七年九月 二日罷る
 すへらきのとし ももそなそ     天皇の歳 百十七ぞ   
 みこのもはいり いきませる ことくみあえし       御子の喪衣入り 生き坐せる 如く敬えし  
 よそやすき まつりこときき         四十八過ぎ 政り事聞き    
 むとせのち おもむろおさむ つるきしま      六年後 骸納む 剣島  
 なつきすえよか めともやむなり             九月二十四日 侍臣(めと)も罷むなり
 ときあすす ゐもむそほふゆ     時天鈴 五百六十穂冬
 めのそふか かすかいさかわ    十月の十二日 春日率(いさ)川
 にいみやこ みことしゐそひ    新都 御子歳五十一
 ねのふそか あまつひつきお うけつきて      十一月の十二日 天つ日嗣ぎを 受け継ぎて  
 いむなふとひひ わかやまと    諱フトヒヒ ワカヤマト   
 ねこひこあめの すへらきと たみにおかませ      ネコヒコ天の 天皇と 民に拝ませ    
 ははもあけ そふのきさきも さきにあり      母も上げ 十二の后も 先にあり  
 あくるきなゑお はつのとし なとしはつそふ       明くるキナヱを 初の年 七年一月十二日  
 いきしこめ たててうちみや       イキシコメ 立てて内宮  
 これのさき きみめすときに     これの先 君召す時に
 おみけぬし いさめもふさく     大御食主 諌め申さく
 きみきくや しらうとこくみ ははおかす      「君聞くや シラウドコクミ 母犯す 
 かないまにあり きみまねて かなおかふるや         汚名(かな)今にあり 君真似て 汚名を被るや」
 うつしこを こたえめいなり ははならす      ウツシコヲ 答え「姪なり 母ならず  
 いわくいせには めとつきて うみのをやなし         曰く「伊勢には 女婚ぎて 生みの親なし
 むかしおは めいいまはつつ うむこあり      昔叔母 姪今は続(つつ) 生む子あり 
 つらなるゑたの おしまこと はははたかひそ       連なる枝の オシマコト 母は違ひぞ」
 またこたえ あにつきひとつ はははつき      また答え 「天に月一つ 母は月
 しもめはほしよ これおめす      下侍(しもめ)は星よ これを召す」    
 なけきていわく ををんかみ あめのみちなす    嘆きて曰く 「大御神 天の道なす   
 よよのきみ つきうけおさむ         代々の君 継ぎ受け収む  
 あめひつき なんちかまつり いさめすて  天日嗣ぎ 汝が政り 諌めずて 
 おもねりきみお あなにする こころきたなし       阿(おもね)り君を あなにする 心汚なし  
 きみいかん わかみをやかみ はなれんや      君如何ん 我が御祖神  離れんや 
 けかれはますと いいおはり      穢(けが)れ食まず」と 言い終り 
 かえれときみは これきかす      帰れど君は これ聞かず 
 みけぬしをやこ つくみおる 御食主親子 噤(つぐ)み居る
 しはすそみかに ゆきりのめ たけのひめうむ  十二月十三日に ユキリの姫 タケノ姫生む
 ゆむすみの いみなこもつみ  ユムスミの コモツミ
 やほやよひ かすかおけつめ すけかうむ   八年三月 春日オケツ姫 スケが生む 
 いむなありすみ ひこゐます    諱アリスミ 彦ヰマス 
 そほさのそふか うちみやの うむみこみまき 十年五月の十二日 内宮の 生む御子ミマキ
 いりひこの いむなゐそにゑ イリ彦の(崇神天皇) 諱ヰソニヱ   
 みなつきの そふかへそきね かるおとと  六月の 十二日ヘソキネ カル大臣 
 ねにうつしこを いわいぬし  十一月にウツシコヲ 斎主 
 そみむつきゐか きさきまた うむみまつひめ 十三年一月五日 后また 生むミマツ姫
 めすうちめ かつきたるみか 召す内侍 葛城 タルミが
 たかひめか さのもちにうむ タカ姫が 五月の十五日に生む
 はつらわけ いむなたけとよ ハツラワケ 諱タケトヨ
 ふそやとし むつきのゐかに よつきたつ  二十八年 一月の五日に 世嗣ぎ立つ 
 ゐそにゑのみこ ことしそこ  ヰソニヱの御子 今年十九  
 むそとしのなつ うつきこか  六十年の夏 四月九日 
 きみまかるとし ももそひそ  君罷る歳 百十一ぞ 
 みこのもはいり よそやのち まつりこときき 御子の喪衣入り 四十八後 政り事聞き
 とみととめ いますのみあえ 臣留め 居ますの御饗え
 めつきみか おもむろおさむ いささかそこれ  十月三日 骸納む 率坂ぞこれ

【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)32、悉と央海 見つの文】
 富士(ふじ)と央(あわ)海 瑞(みず)の文                    
 「時天鈴 四百二十八年 一月十二日」、「天つ日月を  受け継ぎて」、「ヤマトフトニの 天つ君 いむ名ネコ彦」、「諸議り 天の御孫の 法を以て」、「民に拝ませ 母を上げ」、「御上(みうえ)后と 去年十二月」、「四日に黒田の 廬(いほ)戸宮」、「遷して今年 初暦」。
 時はあすず歴の四百二十八年の正月十二日、天日嗣(あまつひつぎ)を受け継いだ。ヤマトフトニは天つ君になられ、いみ名ネコ彦(根子日子、後の孝霊天皇)と申した。諸大臣は、天の御孫(みまこ)の法に則って万民に拝ませた。先帝の母(尊御母)を中宮にたて、御上(みうえ)妃(大政皇后)と呼んだ。 昨年十二月四日、黒田(奈良県磯城郡田原本町)の廬(いほ)戸宮に新居を移した。そして暦も新しくし、初暦(いほど宮元年)になった。
 「二年二月 十一日に立つ」、「磯城のオオメが ホソ姫を」、「后ぞ春日 チチハヤが」、「ヤマカ姫なる スケ后」、「十市マソヲが マシタ姫 ココタエとなる」、「内(侍) 四人 乙侍も四人」。
 二年二月十一日、磯城のオオメの娘のホソ姫を妃(中宮)にたてた。春日チチハヤの娘のヤマカ姫をスケ妃にした。十市マソヲの娘のマシタ姫はココタエ役になった。その他に内女(うちめ)が四人、乙侍(おしも)が四人付いた。
 「三年春 オオミナクチと オオヤクチ 共にスクネと」、「夏内侍(うちめ) ヤマトクニカが 三つ子生む」、「名は皆ヤマト モモソ姫」、「ヰサセリヒコに ワカヤ姫」、「母もヤマトの 大宮姫」、
 三年の春、オオミナクチとオオヤクチは、二人とも宿禰(すくね)役職になった。同年夏、内侍(うちめ)のヤマトクニカ姫が三つ子を産んだ。名前は皆ヤマトがき、モモソ姫、ヰサセリ彦、ワカヤ姫。母親もヤマトがついて大宮姫になった。
 「十一年冬妹 ハエを内(侍) 」、「十三年 十二月一日 ハエ姫も また三つ子生む」、「名は兄ワカ  タケヒコの中」、 「ヒコサシマ 弟ワカタケヒコ」、「母も上げ 若大宮姫」。
 十一年の冬、やまとくにか姫の妹のハエ姫も内女になった。十三年十二月初め(初日)、ハエ姫もまた、姉と同じように三つ子を産んだ。生まれた三つ子の名前は、兄がエ(兄)ワカタケヒコ、真ん中がヒコサシマ、弟がト(弟)ワカタケヒコ。母親も位が上がり若大宮姫になった。
 「十八年春  一月十五日后」、「生む御子は ヤマトネコヒコ」、「クニクルの 斎名モトキネ」。
 十八年の春、正月の十五日、妃(中宮のホソ姫が産んだ皇子はヤマトネコヒコクニクルで、いみ名をモトキネと云う。(後に第八代孝元天皇になる)
 「二十五年春  いつも一月十一日」、「アガタ召し 皆物賜ひ 詔」、「もし一孕三子 生む者は 帝(みかど)に告げよ」、「下民も 賜物 あるぞ」、 「その故は 天の御孫の サクヤ姫」、「三つ子生むより 後聞かず」、「我今三つ子 生むに付き」、「仄かに聞けば 三つ子をば」、「"間引く" と名付け 殺すとや」、「今よりあらば 罪人ぞ」、「我が子も人は (己が子とて人たるは皆) 天の種」、「鹿・犬千より 人一人」、「タケミナカタの 宣なりと 御言定まる」、「国司 民に告れんと 諸帰る」。
 二十五年春、いつも通りに新春の十一日、君はアガタ (県主)を呼び出して皆に賜物をされ、詔を出した。「もし、一回の受胎で三つ子を産んだ者は帝(みかど)に告げるように。下民であっても褒美をつかわそう。その理由は、天の御孫(みまこ)のサクヤ(このはなさくや姫)が三つ子を産んだ以降、三つ子を産んだという話を聞いたことがない。我は今、三つ子を産んだが、風の噂に聞くところによると、三つ子が生まれたら間引くと称して殺すらしい。今日よりは間引きする者は罪人にする。我が子も人の子も同じく天の授かりものである。鹿や犬の千匹より、人一人の方が大事である」。タケミナカタの宣(法律)として御言が定まった。国司達は万民にお触れを出すために、皆、国に帰った。
 「翌十二日朝 諏訪ハフリ」、「ハラ山の絵を 奉る 君これを褒む  」、「同じ時 シラヒゲの孫 アメミカゲ」、「アワ海の絵を 奉る」、「君面白く 賜物や」。
 二十五年一月の十二日の朝、諏訪の神主(はふり)がハラ山(富士山)の絵を奉った。君(孝霊天皇)はこの絵を大層お褒めになった。全く同じときに、近江の白髭(しらひげ)の子孫のアメミカゲがアワ海(琵琶湖)の絵を奉った。君は、この二つの賜わり物を大変面白いと思った。
 「ある日春日に 宣給ふは」、「我昔この 絵を見れど」、「艶なで貴く これを棄つ」、「今山沢の 絵合せは」、「割札合わす 吉き兆」、「ハラミの山の 吉き草も」、「五百年前に 焼け失せし」、「種も再び 生(な)る兆(しるし)」、「ニオ海山を 潤ほせば」、「千齢見る草も 生ゆるぞと 楽しみ給ひ」。
 ある日、君(孝霊天皇)が春日姫に申された。「私は、昔この絵を見たことがありましたが、風化(劣化)がひどく捨ててしまった。今、山(はらみ山)とさわ(琵琶湖)の絵が合わさるとは、割符を合わせたような吉祥の印である。ハラミ山に生えていた良き草(千代見草)は五百年前に噴火で焼けて失せてしまった。この二枚の絵合わせによって千代見草の種が再び生えてきたかも知れない吉報のように思える。「におうみ」(琵琶湖)の水が富士山の峰を冠雪となって潤せば千代見る草(長生きする草)も生えてくるだろうと楽しく期待された。
 「三十六年 初春十日に」、「モトキネを 世嗣となして 御手づから」、「御機織留 授けまし」、「これ天神の ヲシテなり」、「朝夕眺め 鑑みて 民を治めよ」、「装ひを 民に拝ませ」。
 三十六年初春、正月十日にモトキネを世継ぎ皇子とした。皇の御手づから直接、御機(みはた)の織留(おりと)めを授けられた。「これは天神の璽(ヲシテ)である。このヲシテを朝夕眺め鑑みて民を治めよ。装い(出来あがった衣装)を民に見せて拝ませなさい」。
 「三月七日 ハラミ山へと 御幸なる」、「その道なりで 黒田より」、「香久山賀茂や 多賀の宮」、「諏訪サカオリの タケヒテル 御饗して待つ」、「山登り 下るスバシリ 裾巡り」、「梅央宮に 入り居ます」。
 三月七日、君はハラミ山へ御幸された。その道中、黒田の宮を出て、香久山(奈良県桜井市)を通り、賀茂神社(京都)へ行き、淡海(滋賀県)の多賀神社を経由して、木曽路を経て諏訪・酒折に行ったところ、タケヒテル(タケテル)が宴(うたげ)の用意をして待っていた。君(孝霊天皇)は、はらみ山に登山し、登頂後は須走り口から下山し、裾野を廻った。そして、梅央宮(富士宮市本宮浅間大社)にお入りになられた。
 「春日申さ 「峰に得る」、「御意の紋草 千齢見かや」、「諸食わんとて 煮て苦し 誰も得食わず」、「中峰の 充てはアワ海」、「八峰は 裾の八つ湖 三つ埋まり」、「焼くれど(噴火しても) 眺は 変らじと」、「御作りの歌」、「半ば旧(ふ)り 半ば湧きつつ」、「九のヤマト 共鎮まりの 九の山よこれ」、「かく詠みて 山の新名と 思す時」、「田子の浦人 藤の花」、「捧ぐる縁 孕み和て」、「名を生む御歌」、「ハラミ山 一ふる咲けよ」、「藤蔓の 名をも縁の 九の山よこれ」、「これよりぞ 名も藤の山」。
 春日が申した。「はらみ山の峯に待望の千代見草を得ることができました。それは、染めると青色、緑、黄色と光り加減でいとも美しい綾草のことでした。この千代見草を食べようとしましたが煮ても苦くて誰も口にすることができませんでした」。はらみ山の中峰の高さは淡海(琵琶湖)の大きさ(広さ)にあてはまります。廻りの八つの峰(外輪山)は裾野の八つの湖(海)に相対しています。しかし、三つの湖が溶岩流で埋まってしまいました。噴火があったけれど眺めは変わっておりません」。そこで、お歌を作られた。「半ば旧り 半ば湧きつつ 九のヤマト 共鎮まりの 九の山よこれ」。かく詠みて 山の新名をつけようと思われた時、田子の浦人(海縁の人)が藤の花を捧げた縁にちなんで名前がつけられた。御歌は「ハラミ山 一ふる咲けよ 藤蔓の 名をも縁の 九の山よこれ」。これより、名を藤の山と云うようになった。
 「南道を 都に帰り」、「梅宮の ハフリ穂積の 治人に」、「イツアサマ御子 ヤマツミの」、「四神移して ヤス川原」、「時タケヒテル たまかわの」、「神宝文(秘蔵) 奉る」、「これ天御孫 ハラ央君」、「その子神代の 御法得て 今に永らえ」、「君笑みて 子のタケトメを 臣に請ふ」、「タケヅツクサの 祀り継ぐ 武田の祖ぞ 」、「神宝 出雲に納む」。
 君(孝霊天皇)は富士山を下山され、南路(東海道)を経由して都に帰った。途中、梅宮(富士浅間神社)」のハフリ(神主)穂積(おおやまずみの子孫:祝主)の治人(おしうど)に、いづ(天孫ニニキネ)、 浅間(このはなさくや姫)、 御子(むめひと:ほのあかりむめひと)、 やまつみ(おほやまつみ:このはなさくやひめの父親)の四神を野洲の川辺(淡海富士:琵琶湖)に移して、ねんごろに祀った。 まさにこの時、タケヒテルは、玉川(神々の御霊、意向が川の流れのように拡がる)の神宝文を奉った。 この文は天御孫(あめみまこ)、ハラ央君、その子の神代の御法(みのり)を得て今に永ら今日まで続いています。君は笑みて 子のタケトメを臣に請いました。タケヅツクサの祀り継ぐタケダの祖である。神宝は出雲の杵築宮に納められた。
 「五十三年 西中(西中国) 汚穢す」、「繁の口と 播磨ヒカワに」、「斎瓮(いんへ)主 ヤマトヰサセリ これに添え」、「兄ワカタケヒコ 吉備上方」、「弟ワカタケヒコ 吉備下方」、「その訳説きて 服わす」、「イササワケへは ヒコサシマ 越国を治す」。
 五十三年、西の方に反乱があり、争い事が絶えなかった。繁の口(ちのくち、山陰道)と播磨、斐伊川(島根、山陰)に韻部主のヤマトヰサセリ(やまとくにか姫と考霊天皇の子供)を派遣し、これに添えて兄のワカタケヒコ(はえ姫と考霊天皇の子供)を吉備の上方(山陰道)へ、弟のワカタケヒコを吉備の下路(山陽道)へ送り、道理を説いて降伏(服従)させた。イササワケへ(福井敦賀)にはヒコサシマ(はえ姫と考霊天皇の子供)を派遣して越の国を治めさせた。
 「七十六年 二月八日に」、「君罷る 歳百十八ぞ」、「御子の喪罷 四十八に脱ぎて 臣留む」、「六年経つまで 敬えなす」、「居ます如くに 敬ひて 臣も世を去り」、「仮殿に 親に仕(つが)ふる 誠なるかな」。
 七十六年二月八日、君(考霊天皇:やまとふとに)は崩御された。年齢は百十八歳。御子の喪衣(喪服)は四十八日目の夜(四十九日の喪に服す始まり)に脱いだ。臣たちはそのまま留まった。仮の宮にとどまって、六年間親に仕えるように敬い、生きているかの如く敬って、その後に臣が去った。この間、仮殿に親に仕えた誠があっ晴れである。
 「時天鈴 五百四年一月 十四日君」、「天つ日月を 受け継ぎて」、「ヤマトクニクル 天つ君」、「天の御孫の 例なり」、「飾りを民に 拝ませて」、「御上后と 母を上げ」、「十二の局に 后立つ」。
 時はあすず歴の五百四年の一月十四日、君は天日嗣(あまつひつぎ)を受け継いだ。ヤマトクニクルという名前になり天つ君になられた。天の御孫の慣わし(前例)に従い即位の礼を執り行った。飾り(三種の神器、装束、宝飾など)を民に拝ませた。先帝の中宮を御上妃(みうえきさき)の母(尊御母)に上げ、十二の局にお妃をたてた。
 「四年の三月 新都 軽境原」、「五年六月 内(侍) ウツシコメ」、「生む御子は ヤマトアエクニ オオヒコぞ」、「六年九月六日 廬戸(いほと)宮」、「骸(おもむろ)納む 馬坂や」。
 四年目の三月、新しい都を軽境原(かるさかひばら)に移した。五年の六月、内女(うちめ)のウツシコメが生んだ皇子がヤマトアエクニオオヒコである。六年の長月(九月)六日、廬戸(いほと)宮の考霊天皇のご遺体を馬坂陵に納めた。
 「七年二月二日 ウツシコメ 内宮となる」、「ウツシコヲ なるケクニ臣」。
 七年二月二日、内女であったウツシコメは内宮(うちみや:妃)に昇格した。ウツシコヲはケクニ(神に食事を捧げる役であり政務にかかわるご意見番)の役職に付いた。
 「十二月一日 日の出に后」、「生む御子は いみ名フトヒヒ」、「ワカヤマト ネコヒコの御子」。
 十二月一日、日の出とともに妃(内宮:うつしこめ)が生んだ皇子はいみ名フトヒヒでワカヤマト ネコヒコの御子。(後の九代開化天皇になる)
 「九年の夏 雨四十日降り」、「山背方 央海溢れ」、「稲もミモチ 嘆き告ぐれば 詔」、「ミケヌシ御使に 祈らしむ」、「央国水尾に 田慰守」、 「晴れを祈りて 祓なす」、「カセフ祭は オオナムチ 」、「出雲田慰の 例し以て」、「六月十六日 祀りなす」、「その教草の カセフなす これオオナムチ 田慰祈」、「これオオナムチ 田慰祈」。
 九年の夏、雨が四十日降り続いた。山城や田に降った雨で淡海(琵琶湖)が溢れ、南(田)の稲はいもち病になったことを歎き申し出た。詔が発せられ、ミケヌシが勅使に祈らせた。淡国の三尾(水尾)の「たなか」神に晴れるよう祈った。カセフ祭は、その昔、オオナムチが出雲で田の神に祈った例による。この前例に則って、六月十六日に祀りをした。そのおし草(ごまの葉草)の祓いによって稲は再び蘇った。これをオオナムチの田の祈りと云う。

小笠原長弘本では、「かぜふなす これおおなむち たなかのり みなつきそむか おこなひは みもむそうたひ おしぐさに いたみもなおる」。
 「六月十六日 行ひは 三百六十歌ひ」、「押草に 傷みも直る」、「守り以て 田に額づけば 甦り」、「やはり若やぎ 瑞穂充つ」、「民糧増えて 賑えば」、「大食主の 祭臣」、「名付くそれより 山背も」、「筑紫直りも 出雲にも 伊勢・花山も」、「年毎に 祀るカセフぞ」。
 六月十六日、祈りの儀式が三百六十回歌われた。そうしたら、おし草(ごまの葉草)で、稲の傷みも治った。。おしくさ(ごまの葉草)のお祓いの守りによって、いもち病になって下に伏していた稲は元気を取り戻し再び蘇った。水穂(うるち米)は豊作になり、民の食糧が増えて賑わい国が裕になりました。大食主(おおみけぬし、おおたたねこの父・祖父)は「祀り臣」に昇格した。山城も筑紫、直入も、出雲、丹裳、伊勢、花山(和歌山)も毎年「かぜふ」の祓いを祀るようになった。
 「十一年三月 十五日にまた生む 」、「トト姫は 共に御幸や」、「ヘソキネが ヤマトイケスに 御饗なす」、「姫のイカシコメ 膳方に」、「召す内后 今年十四」、「十三年一月三日 イカシコメ」、「生む御子の名は オシマコト 斎名ヒコフト」。
 十一年三月十五日、またお子さんが生まれた。トト姫は 共に御幸や。ヘソキネ(物部氏)がヤマト生け簀(いけす)で御饗をされた。その時にお生まれになったのがトト姫(魚:とと)です。物部氏の娘のイカシコメが膳方(かしわで、食事のお皿・膳・食事の席)にはべって応対した。君は、イカシコメを内妃(うちきさき)に召された。御年十四才。二年後の、十三年正月三日、イカシコメが生んだ皇子はオシマコト、いみ名ヒコフト。
 
 「十四年七月 ハニヤス姫生む」、「ハニヤスの 斎名タケハル 」、「これ河内 アオカキカケが」、「姫の乙侍 なる内后」。
 十四年七月、ハニヤス姫が生んだのがハニヤスで、いみ名タケハル。タケハルは河内の「青垣かけ」(春日大社系)の豪族の娘の「はにやす姫」が「おしもめ」の時に生み、位が上がり内妃になった。
 「二十二年 一月十二日に 世嗣成る 」、「フトヒヒの御子 今年十六」、「後オシマコト オウチが妹 タカチ姫と生む 」、「ウマシウチ これ紀ウツが妹」、「ヤマトカゲ 娶り生む子は タケウチぞ」。
 二十二年一月(睦みあう)十二日、世継ぎの立太子礼が行なわれた。フトヒヒの御子は今年十六歳。後にオシマコトは葛城豪族のオウチの妹のタカチ姫を娶って生んだ子がウマシウチ。ウマシウチは紀(紀州)のウツ彦の妹のヤマトカゲ姫を娶り、生んだ子がタケウチである。
 「五十七年九月 二日罷る」、「皇の歳 百十七ぞ」、「御子の喪罷入り 生き坐せる」、「如く敬えし 四十八過ぎ 政り事聞き 」、「六年後 骸(おもむろ)納む 剣池嶋」、「九月二十四日 侍・臣も罷むなり」。
 五十七年九月二日、君が崩御された。皇(すべらぎ、考元天皇)の年は百十七才。皇子(十六才で立太子になられたフトヒヒ、後の開化天皇)は喪衣入りした。先帝が生きておられるかのように御饗をささげた。四十八日目の夜を過ぎて(四十九日の喪に服す始まりが日本の仏教に取り入れられた)、祀りごと(政治)を再び復活した。六年後に骸(おもむろ)を剣嶋(つるぎしま、剱池嶋上陵)にに納めた。九月二十四日(末の四日)、侍・臣たちが喪を止めた。
 「時天鈴 五百六十年冬」、「十月の十二日 春日率川」、「新都 御子歳五十一」、「十一月の十二日 天つ日継ぎを 受け継ぎて」、「いむ名フトヒヒ ワカヤマト」、「ネコヒコ天の 皇と 民に拝ませ」、「母も上げ 十二の后も 先にあり」。
 時は、あすず歴五百六十年の冬、十月(雌の月)十二日、「かすがいさかわ(春日之地率川)」(奈良市内)に新しい都をつくった。皇子の年は五十一才で即位した。十一月十二日、天つ日継ぎを受け継ぎ皇位を継承した。いむ名フトヒヒワカヤマトネコヒコ。天(あめ)の皇(すべらぎ)となられ民の前にお立ちになられ即位を民に知らしめた。先帝のお妃は皇太后に格上げされ、十二人のお妃が既に揃っていた。
 「明くるキナヱを 初の年 七年一月十二日」、「イキシコメ 立てて内宮」、「これの先 君召す時に」、「オミケヌシ 諌め申さく 」、「君聞くや シラウド・コクミ 母犯す」、「汚名今にあり 君真似て 汚名を被るや」、「ウツシコヲ 答え姪なり 母ならず」、「曰く伊勢には 女婚ぎて 生みの親なし」、「昔叔母 姪今は続(つつ) 生む子あり」、「連なる枝の オシマコト 母は違ひぞ」、「また答え 天に月一つ 母は月」、「下侍は星よ これを召す」。
 あくる年の「きなえ」(ほつま歴えと)の新年として七年目の一月十二日、イキシコメを内宮(うちみや)に立てた。(先帝(父親)のお妃であったイカシコメをイキシコメと名を変えて、子供(母親は「うつひこめ」で、実の母親ではない)が母をお妃にしたことになる。これにより大問題が生じる) 中宮に立てる以前には、君(開化天皇)が「いきしこめ」を召される時に、オミケヌシ (ミケヌシの子)が天皇に諌めて申し上げた。「きみきくや しらうどこくみ ははおかす」(天皇よ、お聞きください。かって神代に先帝の「くらきね」(いさなぎの弟)が「しらうど」(白山出身の方)と「たみのさしひめ」の兄「こくみ」に問題を起こさせました。つまり、先帝の奥さん(母)と子を同時に犯して侮辱しました。悪(闇)名は今も伝えられています。君は同じことを真似て悪名を被ることになりますが、それで良いのですか」。ウツシコヲ(先帝の中宮の兄)が天皇の代わりに答えて、「姪であり母ではありません。(腹違いなのでこれも一理ある)」。オミケヌシが反論し、「伊勢の道の教えには、女性が嫁となって夫に嫁いだら、自分の生みの親はもう親としては認められない。夫の父母が自分の親になるという掟がある。昔は確かに伯母であったので「めい」にあたるかも知れない。しかし、今は違う。実子が生まれているので、天皇との関係は血がつながっているオシマコトがいるではないか。母であるということは間違っている」。ウツシコヲが反論する。「天(あ)に月は1つ(中宮は1人)である。母は月である。他の下女は星で母ではない。これ(星)を召したのだ」。
 「嘆きて曰く  大御神」、「天の道成す 代々の君 継ぎ受け収む」、「天つ日継ぎ 汝が政り 諌めずて」、「阿り君を 穴にする 心汚なし」、「君如何ん 我が上祖神 離れんや」、「穢れ食まずと 言い終り」、「帰れど君は これ聞かず」、「ミケヌシ親子 噤み下る」。
 オミケヌシが歎いて曰く、「天照大神は天なる道を示し、 代々の君は代々引き継いできて国を治めてきた。天つ日継ぎは汝が政務である。その汝が君を諌めず、君に阿り同じ穴に入っている。その心は汚い。君(開化天皇)はどう思われますか? 我が上祖神 (みおやかみ、大物主)は、頑として筋を通しました。止めてください。このように汚れたことは受け入れられません」。かく述べて帰ってしまったが、君(開化天皇)は、この忠告を聞き入れてくれなかった。ミケヌシ親子は蟄居した。
 「十二月十三日に ユキリの姫 タケノ姫生む 」、「ユムスミの 斎名コモツミ 」、「八年三月 春日オケツ姫 スケが生む」、「斎名アリスミ ヒコヰマス」、「十年五月の十二日 内宮の 生む御子ミマキ」、「イリヒコの 斎名ヰソニヱ」。
 (いさかわ七年)十二月十三、丹波のユキリの姫の娘のタケノ姫がユムスミ、いみ名コモツミを生んだ。いさかわ八年三月、春日・オケツ姫が生んだ皇子は、いみ名アリスミ、ヒコヰマス。いさかわ十年さつき(五月)十二日、内宮いきしこ姫(旧称いかしこ姫)が生んだ皇子はミマキイリヒコ、いみ名ヰソニヱ。(後の崇神天皇になる)
 「六月の 十二日ヘソキネ カル大臣」、「十一月にウツシコヲ 斎主」。
 いさかわ十年)六月十二日、ヘソキネが大臣(おとど)にった。十一月にはウツシコヲがいわい主になった。
 「十三年一月五日 后また 生む ミマツ姫」、「召す内侍 葛城タルミが」、「タカ姫が 五月の十五日に生む」、「ハツラワケ 斎名 タケトヨ」。
 いさかわ十三年一月五日、妃(中宮のいきしこ姫)が二人目の子供の ミマツ姫を生んだ。新たに内侍(うちめ)に召された葛城タルミの娘のタカ姫が五月(さつき)の十五日に生んだ子がハツラワケ、いむ名を タケトヨと云う。
 「二十八年 一月の五日に 世嗣立つ」、「ヰソニヱの御子 今年十九」。
 いさかわ二十八年一月の五日、世継ぎに立ったのがヰソニヱの御子(みまきいりひこ)で今年十九才。
 「六十年の夏 四月九日」、「君罷る歳 百十一ぞ」、「御子の喪罷入り 四十八後 政り事聞き」、「臣留め 居ますの敬え 」、「十月三日 骸納む 率坂ぞこれ」。
 いさかわ六十年の夏、四月(卯の花の月)九日、君(開化天皇)が崩御された。御歳百十一才。御子の喪衣入りが行なわれ祀りに入り、四十八日目の夜が明けて後に政事を受け付けるた。前帝の臣たちもそのまま留め、先君が生きておられるように敬った。十月三日、ご遺体を納めた。率坂(いささか、春日率坂上陵)がこれである。





(私論.私見)

 日本初代の天皇は、神武天皇とされています。その神武天皇が認める天皇の大元といえば、天孫ニニギ(ニニキネ)です。ニニキネは、その生涯を新田開発に捧げます。

 その頃、一部の湿地帯や川下の限られた土地での稲作を、今日見られるような近代的大規模な水田に全国展開します。国民の食糧も豊かになると自然に人口も増え国力も上がって、政治も安定し永く平和が続きます。アマテル神は、御孫(みまご)ニニキネの功績を大層お誉めになり、御祖神の精神の再来であると喜ばれて、別雷天皇(ワケイカズチアマキミ)という称名(たたえな)をお与えになりました。この名前は、災いの元である雷を光と水に分けて制御し、その水を水田開発に活かして国民の生活を豊かにし国を繁栄に導いたという意味を込めたものでした。この栄えある実績に対して、アマテル神から直々に授かったのが、三種神器です。

 この度、カンヤマトイワワレヒコ天皇の即位式に先立ち、急いで神儀(かみばかり)が開かれました。本来、太上(だいじょう)天皇が居られて三種神器を御手ずから、君と左右の臣にそれぞれ分けて授ける習わしでしたが、今は先君のウガヤも神上がられて居られないので、その式次第と役割分担を相談するためでした。

 君と左右の大臣を中心に諸神が協議したところ、皆異口同音に答えるには、
 「日の神の使者はミチオミに。月の使者はアタネなり。星の使者はアメトミに」と。
 アメトミは今度特にイシベ(司祭)の姓を賜わり、禊(みそぎ)をし身を清めて晴れの儀式に臨みました。
 時は正に橿原(カシワラ)の天皇の御世(みよ)元年、年はサナト(辛酉・しんゆう)の初日に、天皇は初めて新築なった御正殿にお立ちになりました。諸臣は殿に昇って新年の寿(ことほぎ)を君に捧げました。続いて、ウマシマジが昇殿して、十種の神宝を君に奉りました。
 この十種神宝(とくさたから)は、天孫ニニキネの兄のクシタマ・ホノアカリテルヒコが天神(あまきみ)から授かった御宝で、アスカに都を置き大和を治めてきたニギハヤヒ王朝の正統制の証しでした。
 次に、カスガの臣アメノタネコは、新年のお祝に、偉大なる神代の古事来歴を紀(ふみ)に記して奉りました。

 7日の七草粥も済み、15日にはとんど焼きと粥占(かゆうら)の神事も無事行われた後、いよいよ21日、宮中で即位式が盛大に挙行されました。
 アメトミは14日、式に先立ち先代のウガヤ時代からずっと京都の賀茂別雷(ワケズチ)宮に預けてあった八垣の剣を持ち来り、アタネは河合(カワイ)宮(下賀茂神社)に祭っておいた鏡を一緒に持って上京しました。
 
 君は高御座(たかみくら)に厳かに入られ、九重の褥(しとね)を敷いてお座りになりました。左大臣のクシミカタマは、二重の褥を敷いていました。
 ミチオミ(日の臣)が都鳥の歌を静かに、やがて朗々と唄い始めました。君と臣は、褥をお降りになって正座し直し、お身を三重に折ってうやうやしく聞いておりました。
 この歌は、正に皇孫(こうそん)ニニキネの三宝(みくさ)の授受の様子を彷彿させるものでした。

天地(あわ)を治(た)す  天皇(あますめらぎ)の  両翼臣(もろはとみ)
カスガとコモリ  君臣の  心ひとつに  都鳥  形は八民(やたみ)
首は君  鏡と剣  左右(まて)の翼(はね)  物部(もののべ)は足
鏡臣(かがみとみ)  継ぎ滅ぶれば  民離れ  日継ふまれず
剣臣(つるぎとみ)  継ぎ滅ぶれば  武人(もろふ)破れ  世を奪われる
八呎臣(やたおみ)は  稲負(ぞろお)う者の  農作業(たみわざ)を
鑑みる目ぞ  八重垣臣(かきおみ)は  邪魔(よこま)を殺(から)し
武人(もののふ)の  力護(ちからも)る手ぞ  この故に  三宝(みくさ)を
分けて  授くるは  永く一つに  なる由を  綾に記して 御手ずから
紀(ふみ)を皇孫(みまご)に  授けます  セオリツ姫は  御鏡を
持ちてカスガに  授けます  ハヤアキツ姫(め)は  御剣を
持ちてコモリに  授けます  三度(みたび)敬(うやま)い  皆受くる
ヤマト日嗣(ひつぎ)の  都鳥かな

都鳥の歌(抄訳)
今度天下を治める天皇(ニニキネ)の左大臣はカスガで、右大臣はコモリです。君と左右の大臣の三人は、いつも力を合わせて政事(まつりごと)を行い、そのお姿は都鳥(みやこどり)と呼ばれました。鳥の体は国民が形作り、頭は君であり、鏡(左)大臣と剣(右)大臣は両翼を担い、武人達は国を支える足に例えられます。もしも左大臣が滅びるようならば、民心も国を離れて皇室も滅びます。又、右大臣が滅びれば、武人(ものふ)達は内乱となり、国を奪われることになります。鏡臣の役目は農民の作業を良く指導して国民の生活豊かにすることです。剣臣の役割は悪を懲らしめて平和を守り、国の生産を上げる手助けをすることです。
このように、三種神器(三権分立)を分けて授ける理由は、三者が未来永劫に渡り常に一体となって、正しく国政に努めるよう計ったのです。この事を文章に記して、私(アマテル神)自ら孫のニニキネに手渡します。この時、中宮のセオリツ姫は、アマテル神に代わって鏡をカスガに授けました。ハヤアキツ姫(后)は、剣をコモリに授けました。
皆、うやうやしく三度礼をして神器を受けました。これこそヤマトの皇位を引き継ぐ都鳥のお姿です。

 歌が終わると、日の臣ミチオミは厳かに神璽(しるし)の御筥(はこ)を天皇に奉り、月の臣アタネは鏡をアメタネコに授け、星の臣アメトミは八垣剣(やえがき)を捧げ持ってクシミカタマに授けました。
 他の臣や大勢の司達はそれぞれ言祝(ことほぎ)を済ませた後に、全員は万歳(よろとし)を何度も何度も唱え、神武の御世を称える歓喜の声は、天地を永く震わせました。やっと落ち着いた頃合いをみて、御鏡を中宮のイソスズ姫にお預けになり、八重垣剣(やえがき)は、后のアヒラツ姫にお渡しして、神璽は後に、君自ら肌身離さずお持ちになりました。
 この三種(みくさ)は、高く掲げられ、皆三拝してから丁重に内宮(うちつみや)に一旦納めました。
 これらの儀式は、皇孫ニニキネの即位そのままに再現されて、この御宝(みたから)を納めた所を内宮(うちみや)といい、又、宮中でも内々と呼んで尊ばれました。
 翌日には、三飾り(みかざり)を国民にも拝観させて、君・臣・民(きみとみたみ)一体となった都鳥は、君が代の永からんことを祝福しました。
 
 この年11月半ばの冬至の日には、いよいよ神武(カンタケ)の一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)が厳粛に行われました。 君は天の悠紀(ゆき)宮と、地の主基(すき)宮を仮設して、元明(もとあけ)の四十八神をお祭りして、天神地祗に祈ると共にアマテル神を天からお招きして、国民には図りしれない神事が夜もすがら執り行われました。
 この様に、晴れて神々との契りも成立して、天・地・人の信任を受けた天皇としてここに正式に即位されました。
 この大嘗祭での臣達の役割は、先ずアメタネコとクシミカタマが左と右の大臣でした。御食供国政奉上臣(みけなえくにまつりもうすおみ)のウマシマジは、物部(ものべ)等と一緒に宮城外守護の任務につきました。ミチオミとクメとは力を合わせて御垣守(みかきもり)として、宮城内の護衛にあたりました。神への祝詞をあげたのは、インベ臣のアメトミでした。

 翌年の新春十一日、君は論功行賞の詔りをされます。
 「思えばこのように平和な新春を迎えられるのも、元はといえば、ウマシマジの忠義(まめ)あったればこそ叶えられたのだ。故にウマシマジは、代々物部の職を継ぐように。ミチオミは汝が望みのままにツキザカ(築坂、橿原市鳥居町付近)の館と、クメの土地を与えよう。ウツヒコは、この戦で船の水先案内を買って出たことと、祈り用のカグ山の埴(はに)を難儀して採ってきた事の功は大であった。よって、ヤマト国造(くにっこ)に任命する。弟(おと)ウガシは、タケタ(宇陀郡多気)県主に、かつ、その弟のクロハヤは、シギ(磯城)の県主に、アメヒワケにはイセの県主を任命する。アタネには山城のカモの県主を、カッテ神の孫のツルギネはカツキ(葛城・かつらぎ)の国造としよう。最後にヤタカラスには、汝の道案内で無事ウガチ村にたどり着くことができたので、ウガチ村の直頭(あたいのかみ)を与えよう。そしてその孫にはカドノ(葛野郡、京都市左京区太泰付近)県主を任命する」

 三年目のことです。
 五月雨が40日間も降り続き、国民の間に疫病が流行し、稲に稲熱(いもち)病の被害が広がり始めました。早速君に状況を報告した後、アメタネコとクシミカタマの両大臣は共に、ヤス河原に赴き、仮宮を建てて風生(カゼフ)の祓いを行ってお祈りしたところ、疫病も治り、稲も再び元気になり立ち直りました。君は大層喜ばれて詔りがありました。「ワニヒコの先祖のクシヒコは勇気ある忠義のイサメ(諌言)により、アマテル神からヤマト神の名を賜わった。三代輪(みよわ)に及ぶ実直な功を称えて直り物主神(なおりものぬしかみ)の名を与えよう。又、タネコの先祖のワカヒコも直き鏡の忠告の功により、直り中臣神(なおりなかとみかみ)の名を授けよう。この尊い家名を共に子子孫孫継いで、国政を正すように」とのお言葉でした。

 四年二月に詔りがありました。
 「思えば、御祖の神の都鳥は、金の鳥に姿を変えて我と我が軍を照り輝かせてくれた。お陰で今は、敵も味方も同胞としてここに集い平和になった。アメトミには、鴨をこの地に移させて御祖神をハリワラのトリミ山に祭ることにしよう。又、アタネにカモタケズミの祭りを継がせて、ヤマシロの国造にしよう」と告げました。

 橿原宮八年の秋に、総勅使のタカクラシタがやっと帰京されて、君にご報告されました。
 「臣は昔、君の命を受けて先ず西方の遠い国、ツクシに遠征して三十二県を巡視して全て治めてまいりました。次に山陰地方を巡り見て、問題無きよう無事治めてから後、越後に行き、ヤヒコ山辺のツチグモ共が、君のご禁制に背いて立て札を打ち割って謀反を起こしましたので、矛を用いて五度戦いを交えて遂に敵を全員殺し鎮圧いたしました。この度二十四県の県主とその民を治めることができました。その記念として、カンタケの御世知らしめす全国の地図を作成しましたので奉呈いたします」と申し上げると、君はタカクラシタの功を労い称えて、新たにキ(紀伊国)の国造に取り立てて、大連(おおむらじ)の称号を与えました。

 橿原宮二十年、治まっていたコシウシロ(越後)が再び反乱を起こして初穂(年貢米)を納めませんでした。又、タカクラシタが鎮圧に向いましたが、今回のタカクラシタは一度も剣を抜かずに話合いで平和裏に敵を服(まつら)わすことができました。 この報告を受けた君は、タカクラシタを大層誉めて詔りし、今度は越後国守に取り立てて、ヤヒコ神の称号を与えました。又、君は心遣いされてタカクラシタが越後の国造になった後に、現地に永く住むことを思い、タカクラシタの婿のアメノミチネに、キ(紀伊国)の館を賜い国造としました。

 二十四年、君には未だ世嗣子と定める御子がいませんでした。
 そんな折、クメの娘で美人の誉高いイスキヨリ姫を后に召そうとおぼして密かにお通いになられたところ、中宮のイソスズ姫に咎められてしまいました。このような事情で、姫を入内させることを断念したものの、実はユリ姫と名を替えさせてクメの館にお忍びで交わっておられました。その後、中宮は妊娠して、翌年の夏無事カンヤイミミの御子をお産みになり、実名をイホヒトと名付けました。

 二十六年冬、ヤスタレのヌナ川に祭事があって君と中宮は、お揃いで御幸された折、カヌカワミミの御子がお生まれになりました。実名(いみな)をヤスギネとつけました。

 三十年夏のことです。
 ヤヒコ神となられたタカクラシタが4年ぶりに上京し、君に拝謁しました。この度はこれといった大事も無く、いつになく打ち解けた二人の酒盃の数も進んで大変盛り上がった君臣でした。君は微笑みながら何気なくお聞きになりました。
 「そういえば、汝は昔あまり飲まなかったのに、こんなに強くなったのは何故じゃ」
すると、タカクラシタが答えるには、
 「何しろ越後は寒くてついつい毎日飲んでしまい自然に強くなってこのざまです」
それを聞いた君は、笑って言うには、
 「汝は酒が強くなってから急に若返って、男前も大分上がったぞ。ようし、ここは一つ私に任せてくれ」
 この時、酒の勢いも手伝って賜わったのが美人で評判のクメの娘のイスキヨリ姫で、今のユリ姫です。タカクラシタも突然の話に、嬉しいやら、戸惑うやらで、
 「七十七の老体に二十才の姫では不釣り合いで、姫がかわいそうに存じます。どうかこの件ばかりはご容赦を」と、拒めば拒むほど顔はますます上気して、笑みを押さえ切れないご様子でした。
 ユリ姫は、タカクラシタの妻となって越後に嫁いでから、立派に一男一女をもうけて、共にヤヒコの女男(めお)神となられました。

 次のお話は、ユリ姫十九才の時のエピソードです。
 君はサユリの花見と称してサユ川の上流に御幸しました。クメは急遽館内に殿宮(かりみや)を造ってお迎えをし、一泊された時のことです。君の夕食(ゆうげ)の御饗(みあえ)の席で御饌(みかしわ)を捧げたのはイスキヨリ姫でした。君はお美しい姫をいとおしく思われ、お召しになろうと歌を作って御心を告白されました。

葦原の  繁茂殿宮(しげこきこや)に  清畳(すがだたみ)
いやさや敷きて  我が二人寝ん

 この様なわけで、すでに君の局となられたユリ姫ですが、後にタギシ皇子(みこ)が深くユリ姫に恋焦がれて、父のクメに自分の思いをしつこく訴えて、姫との仲立ちを乞い迫りました。父もタギシ皇子の一途な訴えに遂に心を動かして承諾してしまいました。タギシ皇子の思いをかなえようと、先ず父が姫の所に行き、姫を呼びながら室に入ったところ、父の異常な目つきに気ずいたユリ姫は、即座に操(みさほ)ツツ歌を作って父に差し出しました。

天(あめ)つ地(つち)  娶(と)ります君と
など割(さ)ける  利目(どめ)

 後から続いて室に入ったタギシ皇子は、姫の固い操に気ずいて、自ら進んで即座に返歌を返します。

にや乙女  唯に会わんと
我が避ける  利目(どめ)

 ユリ姫の操と忠義の心を知った父は、タギシ皇子にやむなく、「追って返事をしよう」と言うと、皇子も諦めてお帰りになりました。
 この一件を、女官が右大臣のクシミカタマに告げ、クシミカタマが天皇に申し上げるには、
 「これは、子の恥じであり、親の恥じにもなりますので、どうか内々に密かに願います」と言うと、天皇も諾かれてタギシミミの一件は、不問に付されました。

 翌三十一年、四月一日、君はワキカミ(現御所市、国見山)のホホマの岡に御幸され、美しい大和の国を見渡して感激のあまりに、このようにおおせられました。

あなにえや  得つは打木綿(うつゆう)  真幸国(まさきくに)
形  蜻蛉(あきつ)の  交尾(となめ)せる  これ秋津洲(あきつしま)
天皇(あめかみ)は  大和浦安(やまとうらやす)  扶桑根国(こえねくに)
大和日高見(やまとひたかみ)  細戈千足(そこちたる)
磯輪上秀真(しわかみほつま)  オオナムチ
玉垣内宮(たまがきうちつ)  ニギハヤヒ  空見つ大和(やまと)

 四十二年、新年三日、カヌナカワミミの皇子を皇太子と定めて立太子礼を執り行いました。中臣のウサマロと大物主のアダツクシネを左右の大臣と定め、物部のウマシマジも
 「共に皇子を助けて国政に務めよ」と詔りされました。

 七十六年正月十五日に詔りがありました。
 「我すでに老い、政事を直り中臣と大物主の親子の臣に任すべし。諸神これと若宮を立てよ」と、遺言されると内殿にこもりきりになり、遂に三月十日に神となられました。
 この偉大な大君を信じ、共に苦しみつらい戦いを越えて歩んだ歳月が夢であったかのように、アビラツ姫とクシミカタマはいつまでもいつまでも長い喪に入っていました。それは、あたかも君がまだ生きておられる時のようにお仕えしておりました。 実は、アメタネコとクシネとウサマロは、皇太子のカヌナカワミミに葬送の儀についてご相談になられましたが、天皇の崩御以来、急にタギシ皇子が独善的に一人で政事を執ろうとなされて、直り三臣(なおりみたり)の意見を聞こうともせず、又問えど返事がなく臣とタギシ皇子の間に不和が生じていました。本来ならば、皇子は喪に入って政事は両翼の臣にまかせるべきであるのに、君の葬送も拒否し続けて延び延びになっていました。
 六月に入ると、タギシ皇子は密かに二人の弟を殺そうと陰謀を企てて、ガラリと態度を変えると、あえて弟達に友好的に振る舞うようになりました。

 タギシ皇子は、サユの花見と称してウネビ山の麓のサユ川に假室(かりむろ)を用意すると、二人の弟とその母イソスズ姫を室屋(むろや)に招待して、花見の宴を開きました。その席で、母イソスズ姫は普通ならば、高屋(たかや)か社(やしろ)で開かれる花見の歌会が、このような閉ざされた狭い室屋(むろや)で行われることに不自然さを感じとっていました。
 二人の息子達に危険が迫っていることを伝えるために、イソスズ姫は二首の歌を綴ると、急ぎ二人の皇子達に歌の添削を頼む振りをして渡しました。皇太子が歌札を取ってみたところ、色々の意味にとれる歌が記されていました。

サユ川や  雲立ち渡り  ウネビ山
木の葉さやぎぬ  風吹かんとす

ウネビ山  昼は雲問ひ  夕去れば
風吹かんとぞ  木の葉さやぎる

 この歌を読んだ皇太子は、しばし考えた末に、母の送った歌の本意を悟って、今夜にもこのサユ川辺で、我ら兄弟と母を巻き込んだ恐ろしい殺りくが迫っていることを予期しました。一刻の猶予も許されません。カヌナカワミミは、カンヤイミミの皇子にそっと耳打ちして、タギシ皇子について話しました。
 「兄は昔、君の后であったイスキヨリ姫を犯そうと企んで失敗した男だ。その時は、親子の情けで内々に済んだものの、今は政事を我がものにしようと、わがままに振る舞っている。本来なら臣(とみ)に任せておくべきではないか。どうゆうつもりなんだ。葬儀も兄が拒んで未だ行えずじまい。今日我らを招いたのも陰謀だ。先手を打って速やかに計略を練ろう」と言うや、カヌナカワミミは、ユゲのワカヒコに急ぎ弓を作らせ、マナウラにマカゴの矢尻を鍛わせると、カンヤイ皇子に靫(ゆき)を背負わせて、兄弟は一緒にカタオカムロ(磯城郡多付近十市町)に居るタギシ皇子の所に向いました。

 丁度その時、タギシ皇子は昼寝の最中で床に伏っていて、二人が来たのも知りませんでした。カヌナカワ皇太子が、小声で言うには、
 「兄弟が互いに張り合っても意味がない。我が先ず室(むろ)に入るから、汝が射殺せ」と言って、兄に功を譲り、室の戸を突き上げて乱入すると、物の気配で目を覚ました兄は、
 「靫(ゆき)を背負って踏み込むとは、ふとどき者め」と剣を抜いて二人に斬りかかってきました。
 この時、弓を射るはずのカンヤイ皇子の手足がガタガタとわなないて、突っ立つたまま弓を射ることができません。とっさに皇太子は兄から弓矢を引き取って、一の矢を胸に、二の矢は背中に当て、タギシ皇子は絶命しました。後に、死骸をこの地に手厚く葬って、皇子神社(みこのかみやしろ)を建ててお祭りしました。カンヤイは、自分の腑甲斐なさを恥じて、自ら身を引くと、トイチ(現磯城郡十市町)に住んでイホノ臣ミシリツヒコと名を変え、神道(かみのみち)に身を置いて、兄タギシミミの御霊(みたま)をねんごろにお祭りして生涯を閉じました。

 神武百三十四年、新年三が日の寿も済ませて、二十一日に、カヌナカワミミ(綏靖天皇)は、天つ日嗣(あまつひつぎ)を受け継いで、カツラギのタカオカ宮(御所市森脇)で即位しました。歳は五十才でした。
 百三十四年、九月十二日、橿原宮の死骸(おもむろ)を、カシオ(ウネビ山東北・白檮尾)の陵(みささぎ)に埋葬して、神武の葬送を無事終えました。(畝び山東北陵)

 その時の儀式の様子は、君と生涯を伴にされたアビラツ姫と、やはりカンタケ君に己の夢をかけて生涯忠義を尽くされたクシミカタマとが、問わず語りに君の御世を語り明かして、いつしかお后と臣は、君の亡がらと共に洞に入られて一緒(とも)に神となられました。
 翌朝になって、お二人の殉死を聞き知った侍女や従者達が次々と、君の後を追って殉死して、その数は三十三人にも及びました。
 この時、世の人々が唄った歌。

天皇子(あめみこ)が  天(あめ)に帰れば  三十三(みそみ)追う
忠(まめ)も操(みさほ)も  通る天神(あめ)かな
 第一話 アマテル神の千代見草と西王母(ニシノハハカミ)

 アマテル神の御心も天下くまなくゆきとおり、秋の稔りも年々増して民の生活も豊かに世はすべて事もなく移ろいました。こんなある日のことです。アマテル神は皇子(みこ)のクスヒを伴って、二見浦(フタミノウラ)の海岸に御幸されました。打ち寄せる荒潮を浴び、親子揃って禊を済ませました。クスヒは、ふと素朴な疑問を覚えて父に尋ねました。

 「父御門(みかど)は、いつも八房御輿(やふさみこし、八角形の御輿)に乗られて行幸される日本一尊い神様なのにどうして禊をなさるのでしょうか。神様でもやっぱり穢れることもあるのですか」
 こんな子供らしく微笑ましい質問にアマテル神はニッコリされると、傍の皇子と諸神に向かって静かに詔りされました。
 「汝、ヌカタダ(クスヒの真名)よ、そして諸神も良く聞いておきなさい。本来の私は心身ともに無垢な玉子の様な姿でこの世に生まれました。御祖神(みおや)の御心の殻に固く守られていたので、一切の穢れや禍を受けませんでした。しかし大切な政を司る今日この頃は、次々と伝えてくる悪い訴えを糺し教えようと努めているうちに、いつしか耳も汚れてしまいました。時には鼻もちならない話を聞かされるに及び、間違いを戒めて諭そうと胸を痛めるうちに、いつの間にか身も心も汚れて疲れていました。
 私は今、次々と押し寄せる潮(うしお)に身を沈めて心身ともに浄らかになって、元の太陽の霊の輪(ちのわ)に帰って再び神の形を取り戻しました」
 君はここまで一気にお話をされると、並み居る諸神、諸民をゆっくり見回しました。
 先程まで一心に記録を取っていた臣(とみ)や司、又、君の話を一言も聞き漏らすまいとシーンと聞き入っていた諸民の、感動の声声も消えて、今は唯、波の音だけがひときわ大きく聞こえていました。君は、皆の熱心さに促されるように再び急ぎ話を続けました。

 「それでは、清く正しく美しい神の姿を保つための食べ物の話をしましょう。何よりも忌むべきは獣の肉を食べることです。実は四つ足の肉を嗜むと、一時は精が付くように思えても、身体の血が汚れ、やがては筋肉が縮んで病に犯され、苦しんで早死にしてしまいます。例えば、濁り水が乾き付くように、血や肉も汚れれば乾き付いて病のもとになります。先ず、新鮮な野菜をたくさんお食べなさい。すると、濁った血も太陽の様に、赤く透き通った輝きを取り戻し、ここ二見浦の潮のように力強い命を宿します。

 いつも私は、臣(とみ)も民もへだてなく、天から授かった我が子の様に慈しみ、平和で豊かに、健康で長生きして欲しいと願い、天の神に祈るばかりです」
 「諸民もこの話を良く聞いてください。食べ物の一番は何と言っても、お米に勝るものはありません。太陽と月の精を一杯含んだ幸い多き食べ物です。次に良いのは魚類です。三番目は鳥ですが、悪い精が付きすぎて病の元にもなり、あまりお進めできません。鳥や獣の肉を食べることは、あたかも灯火(ともしび)の火をかき起こして、油皿の油を早く燃やし切ってしまうようなものです。
 精が勝ち過ぎると大切な命の油を減らすことになるからです。動物の肉を食べ続けると筋肉はこり縮んで空肥りして、逆に生命の油は減り、顔は痩せこけ、毛が抜け落ち、死して悪臭を放つことになります。

 ある冬、スワの神からこんな訴えがありました。
 「シナノは冬大層寒いのです。諸民は鳥や獣の肉を食べ寒さを凌いでおります。何とか大目に見て下さい」と。

 私はスワの神に厳しく申しつけました。
 「その間違った考えを改めなさい! 魚類の四十物(あいもの・合物)は四十種もあるではないか。魚を食べなさい。これとて食後三日間はスズナを食べて毒を消すべきです。今日唯今から鳥獣を食うのを戒めよ! 天下にあまねく触れよ!
 たとえ自分の命はいらないなどと言っても、結局血が汚れれば、魂の緒(たまのお)が乱れて魂とシイが迷い苦しみ、長患いして、ついには巷で肉体(シイ)の苦痛に耐え兼ねて、鳥や獣の霊と求め合って、ついには鳥獣になってしまい、人として二度とこの世に帰れませんぞ。
 人は本来、太陽と月の精霊の支配を受けて生きているものです。善行を積み、清く美しく長生きして自然体で死ぬことができればこそ、天はその意に応えてくれます。獣になるのを防ぎ、御霊(みたま)を天上のサゴクシロに届けてくれ、神々は新たに人間の命を与えてこの世に戻してくれます」
 「実は、私が常に食している御食(みけ)は、千代見草(ちよみぐさ)です。この菜は世間一般の苦菜(にがな)の百倍も苦いものです。
 この恐ろしく苦い御食(みけ)のお陰でこの様に長生きして、民の暮らしを豊かにしようと、日々国を治めてきました。私の歳は今年で二十四万才になりますが、未だ盛りのカキツバタの様に花やいでいます。これから先まだ百万年も長生きして、先の世を見届けるつもりです」

第二話 天孫ニニキネ(ニニギ)とハラミ草

 「汝、クスヒよ、ココリ姫(白山姫)が、私に語ったことを良く聞いておきなさい。それは、むかし昔、この国の創造神クニトコタチが、この地球(クニタマ)の八方を巡狩した時、西方の地に行かれ、荒野を開拓して建国したクロソノツミテ国とは、現在の夏(カ)の国に相当し、ここを赤県神洲(アカガタシンシュウ・中国)といいます。
 クニトコタチの一子、カのクニサッチをその国の国王にして、彼の地で生まれ即位したアカガタのトヨクンヌ以来代々国を治めてまいりました。しかし長い年月が経つうちに、人が人として守るべき「天なる道(あめなるみち)」も衰えて、遂に道も尽きてしまいました。
 心配した一族出身のウケステメが我がネの国(北陸)に来朝して、タマキネ(伊勢外宮 祭神・豊受神)に師事します。良く仕え深く学ぶ一心さに感激したタマキネは、ココリ姫(白山姫)の義理の妹として姉妹関係を結ばせて、遂に神仙の秘法(ヤマノミチノク)を授与しました。
 大変感謝し喜んで中国に帰国したウケステメは、その後、コロビン君(崑崙王・コンロンオウ)と結婚して、クロソノツモル皇子を生んで、ニシノハハカミ(西王母)となられました。

 再び来朝したニシノハハカミが申すには、
 「コロ山本国では、愚かにも動物の肉を食べていますので、皆早死にしてしまい、平均寿命はせいぜい百才か二百才程度です。毎日の肉食が命を縮めているのです。
 私は、シナ国王が一族から輩出し即位した時、肉食の習慣を改めるよう進言しましたが今だにこの悪習は止みません。シナ国王はホウライの国の千代見草が欲しいと八方手をつくして、いつも徒労に終り、なんとか手に入れたいと未だに嘆き暮らしています」
 と、訴えてきました。
 私は、常に汚れた心身を禊して天道を守り、長寿を保ってきたことに感謝して、早死を恐れ悩むシナ国王に同情して奥義を授けました。
 思ってもみなさい。命こそは身の宝ですぞ。この事を諺とすべきです。たとえ、一万人の憂えた国王が居たとしても、一人として命を代われる者はないのです」

 天孫ニニキネは、ツクバのニハリの宮から遷都して、ここハラミ山(現・富士山)の麓にハラ宮を建てて、恋する妻のコノハナサクヤ姫ともども、秀でた真の政を執り、人呼んで、秀真国(ホツマノクニ)と称えられました。
 この山の火口湖の名を子代池(コノシロイケ)と呼ぶようになりました。この由来は、コノハナサクヤ姫が、身の潔白を証明しようと三人の子供と一緒に空室(うつむろ)に籠って火を放ち自殺を計った時、子供達が熱さで苦しんでいるのを知った竜田姫(タツタヒメ)の神が、この山の池に棲む竜に代わって水を吹きかけ、母と三人の子を救い出したことから、この名が付けられました。

 又、ある日ニニキネは、子代池の都鳥にラハ菜を投げ与えたところ、ラハナに鳥が戯れ遊ぶその様子を見て大変面白く思い、臣下のコモリに絵を描かせて、綾織物に織った模様が鳥襷文(とりだすきぶん)となりました。
 ラハは、艾(もぐさ)や蕪葉(かぶろは)の様で、血を増して老いも若やぐと言い伝えられています。
 この日、ハオ菜が君の御衣裳(みはも)に染まったままの姿で政(まつり)をきこしめされたところ、その年は例年になく稲の実りが厚く、豊作になりました。
 このハオナを食べれば、千年の長寿を得るという言い伝えがあります。一般に若菜の中にも苦いものがありますが、このハオナは百倍も苦くて、千年も長生きできると解っていながら、民は一人も食べようとしません。その根の形は人間の身体の様でもあり、葉は嫁菜(よめな)に近い葉で、その花は八重咲きです。
 又、ある日ニニキネは、北陸地方に巡狩に行かれました。北の峰で身体を冷やして腹を痛めて病んだことがありました。その折り、右大臣のコモリが君に参草(みくさ)を煎じてお進めして、腹痛を治しました。この参(み)とは、三種の薬草の総称でもあり、人参草(ひとみぐさ)もその一つです。人参草は小さな根をしていて薄黄色です。茎は一本で四つに枝分かれしてそれぞれ五葉で、人の身に似ていて、花は小白(こじろ)、秋には小豆(あずき)に似た実をつけて、味は甘苦くて、薬効は脾臓(ヨコシ)を潤し、肺病(ムネ)を療養(ひた)します。

 現在、世に百種もの薬草がありますが、ハ・ラ・ミ三草(さんぞう)に勝る仙薬は他にありません。君はこの三草を誉めたたえてこの山の名をハラミ山と名付けました。

第三話 ヤマトフトニ(孝霊天皇)の富士登山と千代見草

 ヤマトフトニの即位後、二十五年目の正月十二日の朝のことです。
 信州スワの祝人(はふり)が都に上り、新春のお祝にハラミ山(富士山)の絵を献上しました。君はこの絵が大層気に入られて、秀麗な山容は天下無類と、霊峯ハラミ山を誉めたたえました。丁度その時、今度は淡海(オウミ)の白髭(シラヒゲ、現・白髭神社)の子孫のアメミカゲが、淡海(あわうみ)の絵を奉りました。君はこの山と湖が対をなした奇遇を大変面白く思われ二人にたくさんの贈り物をされました。
 ある日のこと、君がカスガ親王(オキミ)・(人皇五代、孝昭天皇の皇子アメタラシヒコクニ)に申されるには、
 「実は、私は昔一度このハラミ山の絵を見たことがあったが、立て長であまり良い絵とも思わず、これを捨ててしまった。今こうして偶然に、山と湖の絵合わせができたのは、割札(わりふだ)を符号したようで大変良い瑞兆であろう。ハラミの山の千代見草も、五百年前の噴火で焼け失せたと聞いていたが、もう草木の種も復活した兆しに違いない。この絵にある美しい淡海(オウミ)の湖が養分を蓄えて、ハラミの山を潤せば、千代を見るという千薬も生え出てきたに違いない」
と、大変ごきげんのようすでした。

 それから早や十年が過ぎ、ある新春の十日のことです。
 皇子(みこ)のモチキネを世嗣(よつぎ)御子に立て、立太子礼も無事終えて肩の荷をおろした君は、三月半ばいよいよ念願のハラミ山登山を決意して行幸(みゆき)されました。事前にお触れが発せられて、その行く道の整備もすでに完成しています。その行程は先ず、クロダの宮から御輿に乗ってカグヤマを目指して進み、カシオの神武天皇(カンヤマトイワワレヒコ)の陵(みささぎ)にお参りして後、山城(ヤマシロ・京都)の鴨神社に向かい、ここで天孫ニニキネと御祖天皇(みおやあまきみ・ウガヤフキアワセズ)の社に詣でた後、国の開拓神を祭る淡海(オウミ)の多賀神社に、にぎてを捧げました。木曽路を抜けてスワに行き、甲斐のサカオリ宮に入られました。
 ここでは、タケヒテルが盛大な御饗(みあえ)を用意してお迎えいたしました。
 早速、あくる日から高齢をおして登山に挑み、遂に山頂に立たれた君は、お鉢巡りもされて大八州(おおやしま)を巡り見、生涯一度の念願を果たされ感慨無量の様子でした。
 下山はスバシリ口を一気に降りて、裾野を南回りに巡って梅大宮(ムメオオミヤ、現・浅間神社)にお着きになりました。宮でお待ちしていたカスガ親王(おきみ)は、君が旅の疲れをいやす間もなく、
 「今度、山の峰で採ったこの御衣(ミハ)の綾草(アヤクサ)が、本当に千代見草でしょうか」と、聞きました。そこで、諸神が早速煮て食べようと試みましたが、苦くて苦くて結局誰もまともに食べる者はいませんでした。
 ハラミ山の中峯(なかみね)は、ひときわ高くそびえたって雪をいただき、丁度深い淡海(あわうみ)に対比することができます。昔のハラミ山には裾野に八湖海(ヤツウミ)がありましたが、前回の大噴火で三つが埋ってしまいました。溶岩の流出で焼けたとはいえ、未だに火口湖の子代池(このしろいけ)は、天孫ニニキネ時代の昔のままの姿で残っていました。
 神代(かみよ)の時代の物語に思いをはせた君は、この喜びを御製(みつくり)の歌にされました。

噴火(なか)口は歴(ふ)り  中(なか)は湧きつつ  このヤマト
共鎮(ともしず)まりの  この山よこれ
 この歌を詠まれた後に、君はこの栄えある登山を記念して、この山に新しい名を付けようと思された丁度その時、田子(タゴ)の浦人が君の御前に進み出て、一抱えの咲き誇った藤の花を奉りました。
 この藤を捧げた縁りに想(そう)を得た君は、新しい山の名を織り込んだ秀歌(しゅうか)を詠まれました。

ハラミ山  一降り(ひとふり)咲けよ  藤蔓(ふじつる)の
名おも縁(ゆか)りの  この山よこれ

この歌により、その後ハラミ山の名をフジの山と讚えるようになりました。