アイヌ人と琉球人の同祖説考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和元).5.13日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「アイヌ人と琉球人の同祖説考」をものしておくことにする。

 2016.02.18日 れんだいこ拝


アイヌ人と琉球人の同祖説考
 アーズ’さんの2012年11月01日付けブログ「アイヌと琉球人は同じ!?DNA解析でわかった意外な事実」その他を参照する。
 日本人に関するDNA研究を行なっていた大学チームによると、日本人のルーツに関する意外な事実が明らかになった。アイヌ人と琉球人のルーツが同じことが判明した。日本人をアイヌ人、本土人、琉球人の3つに分け血液から抽出されたDNAを解析したところ、アイヌ人と琉球が遺伝的に最も近いことが分かったアイヌ人は、日本に元々住んでいたとされる縄文人の遺伝子を多く引き継いでいる。同時に、本土人は弥生人の遺伝子を引き継いでいることが判明した。アイヌ人はオホーツク海沿岸住民とのハーフであることも判明した。もともと「アイヌ・琉球人が似ている説」は存在していた。アイヌと琉球人の身体的な特徴が似ていた刺青などの文化も似ているアイヌと琉球の刺青文化には類似している箇所が多数発見されている。東大医学部の教官を務めたドイツ人のベルツが1911年に初めて論文発表している以前にもミトコンドリアの分析結果などでそれぞれが近いことが分かっていたミトコンドリアだけでは不十分とされていたが、今回のDNA研究結果によってこの説は「裏付けが確定した」と言われている。ミトコンドリアとは:エネルギーを生産する細胞の一種。

 「アイヌと琉球人の源流 」の「入れ墨から見た同祖論」。
 今からおよそ1万2000年前に、一夜にして太平洋に沈んだと言われているのがムー文明である。その時、東の大陸・南北アメリカに渡った人々の末裔がインカ族、マヤ族、ホピ族である。一方、西を目指して逃げ延びた人々は、琉球諸島や日本本土、それに台湾や東南アジアへ渡り、その地の先住民となった。埴原和郎氏が1991年に提唱した日本人の起源に関する「二重構造説」では、次のように述べている。
 「日本人は現日本人と渡来人との混血によって生じたものである。前者は数万年前に日本列島に渡来した後期旧石器時代人から生まれた縄文人で、後者は弥生時代以降に大陸から新たに渡来した集団である。両者の接触によって、九州や本州では両者の混血が進んだが、北海道と沖縄では縄文人の系統が比較的純粋な形で残り、アイヌと沖縄の人々になった」。

 私は、埴原氏が東南アジア系の縄文人と述べている人々こそが、ムー大陸から移住して来た人々であったのではないかと考えている。元々日本列島にはすでに原住民が暮らしていたに違いないが、ムー文明の高度の知識をもった移住者たちが主導権を握って、 地球規模の大異変で原始時代に戻った文明を、再び開花させてきたものと思われる。その末裔を代表するのが、卑弥呼が率いる邪馬台国であった。しかし、弥生時代に入って大陸から東北アジア系の人々が渡来し、彼らは次第に追い払われて南九州から琉球諸島へ、また一方は北の地へと 移り住んでいった。南に下った種族の内の一つが熊襲(くまそ)と呼ばれる一族で、彼らはしばらくの期間、南九州の地で留まっていた らしく、古事記には古代九州の西南部にいた勇猛な豪族として登場している。一方、次第に北へと追いやられた種族は蝦夷(えみし)と呼ばれ るようになり、彼らは東北から北海道へと移住し、アイヌの祖先となった。そうした時の流れを裏付けるように、マヤや沖縄、アイヌの人々はその顔形、彫り の深い目鼻立ちや体毛や髭の濃い点、頬骨の張り出し方が強い点、やや長頭型である点などがよく似ている。

 入れ墨文様の相似性

 下の図はムー大陸からの移住者と考えられる琉球諸島(沖縄本島、奄美大島、宮古島、八重山島)の人々と台湾の高砂族、アイヌ人の女性が指や手の甲、甲からひじにかけ彫った入れ墨の一覧である。個々の文様は異なっているが、全体像はよく似ているのに驚かされる。宮古島の針突き(入れ墨)は、アイヌと同じように甲からひじにかけて長く彫られている。また、模様の派手さでは高砂族の文様がアイヌに似ているように感じられる。一方、アイヌ人の手の甲の中心に彫られた文様に酷似しているのが、奄美大島と八重山島の「サスカ」と呼ばれる文様である。

 アイヌの服飾文様と琉球諸島の入れ墨文様の相似性

 今回、アイヌ人に関する書物を読んでいて、はたと気づいたことがあった。それは、アイヌの衣服を調べていたとき、彼らが用いていた服飾文様の幾つかが、琉球諸島の女性たちの針突き文様に酷似していることであった。驚いて、色々な関係書籍を調べてみたが、この点については全く触れているものがなかった。しかし、アイヌの服飾文様の大半が、琉球諸島(特に宮古島)の針突きの中に登場していることは、とても偶然の一致とは思えない。思うに、宮古島では個々の 図柄を小さな針突文様として数多く残した一方、アイヌの人々は高砂族同様、大柄の図を大胆に描いたために、個々の図案は女性の衣装に服飾文様として残したのではあるまいか。 専門家の学者の先生方はどうしてこういった点に目をつけないのか不思議である。読者は下記に示した両者の相似性を見てどのように感じられるだろうか。

 入れ墨と服飾文様は宇宙を表現している

 服飾文様や入れ墨(針突き)の文様の中には、宇宙の姿や星を表現したのではないかと思われるものが幾つか存在している。アイヌの服飾文様・図Bの②~④は渦巻き銀河を表現しているように見える一方、下段の文様、特に⑧は光り輝く星の姿そのものである。

 また、琉球諸島の針突きの中にも、夜空に輝く星々や渦巻き銀河を表現しているものが多い。喜界島の左手首の文様(下図・文様C-1)や奄美大島の名瀬市や竜郷町の針突き(下図・文様 C-2~4)は、銀河宇宙やそこに輝く星々を表現しているように見える。 

 このように、宇宙や星々の姿を針突きの文様に使っているのは、彼らの遠い祖先の宇宙との関わりの歴史を伝えようとしているのではないかと思われる。私は琉球諸島やアイヌの人々の祖先はムー文明の生存者たちだったと考えているが、もしそうだとしたら、高度の文明を築き、宇宙の人々とも接触があったムーの子孫が、宇宙や星々に関する知識を、針突きの形で残そうとしたことは、十分に考えられることである。どうやら、マヤ人やアポリジニーたちが祖先の記憶を伝承や壁画に残してきたように、アイヌや琉球の人々は入れ墨や針突きの形で、それを記憶に留めようとしてきたようである。琉球諸島の針突きを研究している人々が、一様に不思議に感じる点は、なぜ、彫られている文様が、これほどまでに多種多様にわたっているのかということである。しかしこの謎も、ムー文明時代の宇宙との関わりを様々な形で伝えようとしたからだと考えれば、解けてくる。(人類と宇宙人との関わりについては、拙著『5次元入門』 (徳間書店刊)に記載) 宇宙からやって来た人々の故郷が遠い銀河であることを伝えようとした結果が、文様Cー1になり、銀河系には人の住むたくさんの星々が存在していることを知らそうとしたのが、文様C-3ではなかろうか。マヤにはムー文明滅亡後に、離散した人々の再興を支援するためにプレアデス星団からやって来た宇宙人との交流の歴史が残されている。先般来日した、マヤの最高神官・ドン・アレハンドロはプレアデス星人たちがユカタン半島やエジプト、インド、カンボジアなどの幾つかの地に降りたって、 人類の文明再興に手を貸してくれたことを話してくれた。文様C-2の左手の文様は、そうした人類と宇宙人との交流の歴史を伝えようとしているのではないだろうか。 もしかすると、5大陸に散った人類の源流が銀河系宇宙・プレアデスにあることを伝えているのかもしれない。

 九州から琉球諸島にかけて残るアイヌ語の地名

 アイヌ人と琉球諸島の人々の同祖論の根拠は入れ墨だけではない。北海道の各地にアイヌ語の地名が数多く残されていることは、「アイヌ人の尊厳回復へ」に記したが、九州や琉球諸島にも、アイヌ表示の地名が残されている。 『九州の先住民はアイヌ』の著者・根中治氏は、アイヌ語は関西から四国、九州にかけて広範に残されているが、中でも九州が最も多く、その中でも北九州の福岡・佐賀・熊本にかけてが特に多いと述べている。

 福岡県

 福岡では、筑後川の上流およびその周辺地区、那珂川、多々良側上流、遠賀川上流地区にアイヌ語地名が存在しており、いずれも先土器遺跡、海図かを含む縄文遺跡のあるところ、もしくはその周辺に散在しているようである。具体的に例を挙げると、

① 米冠(シリカンベまたはシリカンゲ) アイヌ語で「海際の山」、または「水面に浮かぶ丘」の意である。語源と なる 「シリ」は元々、土地、地の意味であるが、高地、山、崖(水際の)、島といった意味がある。カンベとは水面とか水際という意味である。北海道には「尻別川(シリベツガワ)、「シリナイ」、「尻場(シリパ)」などの地名が残されて いる。

② 下代久事(ケタイクジ)  アイヌ語の意味は、「川向こうの山の頂に密集した森のあるところ」。現在でも那珂川上流の右岸の山手には、鬱蒼とした原始林があり、その一部は杉林になっている。アイヌ人の住まいは、那珂川の左岸にあったものと思われる。
③ 釣垂(ツタル)  「川岸の切り立った2つの尾根」という意味。 「ツ」は二つという意味と、尾根または峰という意味がある。タル(タオル)は川岸の高所の意味。現在、釣垂(ツタル)には市の水道用水の南畑ダムがあるが、そこには、二つの切り立った岸壁があって、その間を渓流が流れている。

④ 背振山(セブリヤマ)  「高く、広い山」の意。 福岡県と佐賀県の県境を延々と連なる標高1055Mの背振山の名前の由来については飛竜が背を振ったとか、弁財天の竜間が背を振ったとか色々の説があり、中には、周辺に「白木」のつく地名が多いことから、朝鮮の「新羅」を類想し「ソウル」が転訛したものだという説まである。しかし、アイヌ語のセブリ(高い、広い)が一番納得感がある。

 佐賀県

 佐賀県でアイヌ語の地名が最も多いのは、有明海に面した嘉瀬川(かせがわ)、六角川、塩田川の流域、火口地帯である。個々の地名は抜きにして、ここでは最も興味深い地名「ヅーベット山」を取り上げてみる。

① 「ヅーベット山」  県内の東背振村の田手川上流にある標高730メートルの山がヅーベット山である。この山の名前は地理院の5万分の1の地図にカタカナで表示されているが、カタカナ記載の山というのは珍しい。おそらく、先住民の言葉として伝えられてきた名前が、漢字表示が出来ずにそのままカタカナで表示されてきたものと思われる。

 アイヌ語で「ヅー」は、「峰」という意味と「たくさん」という意味がある。ベットに該当するアイヌ語が見当たらな いが、このあたりの谷間は小さい川がたくさん集まっているので、恐らく「たくさんの川の集まったところ(峰)」という意味ではないかと思われる。

 熊本県

 熊本でアイヌ語が関係する名称といえば、真っ先に思い出すのが「チプサン (tibusan)古墳」である。私のHPのトップページを飾っている写真である。古墳の壁画のキャプションにも書いたように、考古学者は古墳名「チプサン」を女性の乳房(チブサ tibusa)からつけられた名前だと述べている。しかし、それは壁画の一部に丸い円が二つ描かれていることからそう主張しているだけで(下図参照)、それでは、二つの円がなぜ乳房を表しているといえるのか? また、「チブサ」がなぜ「チブサン」となっているのか? それらの理由をまったく説明できていない。これでは見る人を納得させることは出来ない。古墳のメインの壁画は、トップページに掲載した絵柄を見れば分かるように、そこには7機のUFO(空飛ぶ円盤)を迎えている冠をかぶった王の姿が描かれており、それは女性の乳房とは全く関係がない絵柄だ。ところが、古墳名がアイヌ語の名称であるとすれば、 古墳名の納得のいく説明が出来るのだ。先日、北海道の白老(しらおい)にあるアイヌ民族博物館を訪ねた際に、アイヌ人の方に「チプサン」というのはどういう意味でしょうかと、尋ねたところ、それは「船を降ろす儀式」を意味する「チプサンケ(chipusanke)」のことではありませんか、きっと長い歴史の間に「チプサンケ」の「ケ」が抜けてしまったのだと思いますよと言われた。「チプ」はアイヌ語で「船」を意味し、「サンケ」は降ろすとか降臨させるという意味である。冬の間陸に揚げておいた丸木船を、春になって漁をするため海や湖に降ろすのだが、その時に執り行う儀式が「チプサンケ」、つまり、「船を降ろす儀式」というわけである。そう考えると、壁画の絵は、まさに「チプサン(ケ)」(宇宙船を地上に降ろす(着陸)させる際の儀式)そのものではないか。読者の心眼は、学者先生の説く「乳房説」と私の言う「船降ろし儀式説」と、どちらを選ばれるだろうか? 

 琉球諸島

 朝倉書店発行の『 日本地名大辞典 』の「屋久島」の項を見ると、「島には野生の鹿と猿が多数(約2万匹)生息すると書かれている。が屋久(ヤク)はアイヌ語の鹿という意味である。また沖縄本島も日本書紀や隋書などの古い文献には「屋久」、「流求」、「夜久」(やく)と表記されている。また、小野妹子が随に留学していた時代には、沖縄は夷邪久国(イヤクコク)と呼ばれていたようであるが、この「イヤク」もまた、アイヌ語で熊や鹿、ムジナなどを含めた「獲物」という意味である。 因みに、「琉球」という呼称は、沖縄が隋と交通していた時代に、中国側で「流求」(やく)という漢字を「リュウキュウ(琉求)」と読んだことから、そう呼ばれるようになり、後に1372年に明の太祖が「琉球」と改めてからは、それが外交上の正式名称となったものである。種子島には南部の宇宙センター近くに「茎永」(クキナガ) 、海泊(アマドマリ)があるが、前者は、「断崖がある所」、後者は「稲田のある港」の意である。海泊以外にも、島には、「唐泊」など「港」や「入り江」を意味する「トマリ」のつく地名が大堰が、北海道にも泊原発のある泊(とまり)市がある。奄美大島にも、冠岳(カムイダケ)や「久慈」などの名称が残されている。「カムイ」は「神」を表すアイヌ語の代表的な言葉で、「久慈」は「クジ」や「串」、「狗子」、「久師」と呼ばれる地名と一緒で、アイヌ語の「超える」という意味の「クシ」から来ているようである。ここで取り上げた九州や琉球諸島の地名を表す言葉は、大和言葉では全く意味不明のものばかりである。例えば下代久事(ケタイクジ)と言う単語を見たとき、漢字表記であろうが、カタカナ表記であろうが全く意味不明の言葉である。しかし、アイヌ語で訳すと、「川向こうの山の頂に密集した森のあるところ」となって意味が通じるばかりか、その場所の状況が、鬱蒼とした原始林が 生い茂り、その一部は杉林になってい て、その土地の情景を見事に表している。また、たくさんの鹿が生息していた屋久島の語彙を鹿のいる島、つまりヤク島とすれば島の特徴をそのまま表現している。

 こうしてみてみると、読者にも、取り上げた地名が無理矢理アイヌ語を当てはめたものでないことと同時に、アイヌ人が遠い過去に日本全土に住んでいた事実を理解することが出来るに違いない。その彼らが中南米のマヤ人やインカ人、オーストラリアのアポリジニー、台湾の高砂族などと体型や顔形だけでなく、入れ墨などの生活習慣で類似した点を持っていることを考えると、彼らの先祖が同じ一族で、滅びたムー文明から東西に散った人々であることが分かってくる。

 私はアイヌ語の専門家ではないので、これ以上のことは分からないが、日本という国の生い立ちや民族の由来を調べるのに、アイヌ語という言語学の面から考えてみるのは大変有意義なことのように思われる。ただ、それを学者が調べようとすると、邪馬台国の九州説、関西説が先に出てきてしまう。そうすると、東大派と京大派のどちらに加担するかどうかで悩ましい問題が生じてしまい、一つ一つの事例を、偏見で判断することになってしまう。現にアイヌの研究に関しては、外国の研究者の方が進んでいるように思われるのも、そういった弊害があるからではないだろうか。そうなると、学閥や考古学とは門外漢の人間が、時間と資財を投入して、こつこつ調べるしか手がなくなってくる。このHPで取り上げた、『 九州の先住民はアイヌ 』 の著者・根中治氏などはその代表的な人物といえよう。町村合併などで土地の名前が消えない内に、本気で調べる人が出てきて欲しいものである。


 2006年3月21日付けブログ「沖縄人=アイヌ人=縄文人??」。
 沖縄人(ウチナーンチュ)の身体の特徴は、毛深い・色黒・顔の彫りが深い・ガッシリしてる…などがあげられます。本土の日本人(ヤマトンチュ)と比べてもその違いが一目でわかりですね。北に目を転じてみると、アイヌと呼ばれた人々もまた、沖縄人とよく似た身体的特徴があると言われます。この理由は一般的に、日本列島にいた原日本人(縄文人)のなかに、大陸からやってきた渡来人(弥生人)たちが本土に住みつき、北と南で縄文人たちが残ったと考えられています。つまり沖縄人=アイヌ人=縄文人ということですね。しかし最近の形質人類学や遺伝学の研究では、別の説が出されています。沖縄人は本土日本人(ヤマトンチュ)の系統だというのです(※再追記)。そんなバカな!と思う方もいるかもしれません。まず1万8千年前の沖縄にいた有名な港川人を見てみましょう。復元画像を見るとたしかにウチナーンチュっぽく見えますね。その骨格は縄文人と共通する部分もあり、縄文人の先祖になったといわれています。しかし、港川人とその後の時代の沖縄で発見された人骨は1万年もの長い空白があり、沖縄人の直接的な先祖かどうかは、この空白を埋める発見がないと確かなことは言えません(港川人は絶滅した、と考える説もあります)。 現在の沖縄人の直接的な先祖といわれるのがグスク時代の人々です。実は、この時代になって沖縄人の人骨の形質が劇的に変わります。これ以前の貝塚時代の人々は縄文人と若干似ているようですが、やはり同一といえるほどではなく、縄文人とは別の「南島人」とされています。貝塚時代の南島人の形質はグスク時代になると中世日本人の形質とほとんど変わらなくなってくるのです。この背景には日本本土からのヒトの流入があったとされます。現代につながる沖縄人の形質は本土日本人のグループに入るということです。しかし本土日本人と全く同じということではなくて、本土日本人には見られない東南アジア方面の形質も見られ、遺伝的にも南アジアからの遺伝子が沖縄人にあるといいます。沖縄人の形質は本土日本人をベースに様々な地域の人々の特徴も見られるということです。

最近、浦添ようどれで英祖王の一族の骨が調査されました。その結果、王族には中世日本人に近い特徴(顔がのっぺりで平坦、出っ歯)が見られたのみならず、中国南部のDNAを持つ者もいたことがわかりました。交易で様々な人々が行き来していた沖縄の状況を反映するものといえるのではないでしょうか。 ウチナーンチュがヤマトンチュのグループに非常に近い関係にあることはほぼ間違いなさそうです。ただし、たとえ同一人種・同一民族だからといっても、同一国家であるべきだ、とはただちになりません。たとえグスク時代以降の沖縄がヤマトの影響を強く受けたとしても、琉球諸島に住む人々は「琉球」という自らの国家と文化を形成し、島津氏に征服されるまでは一度たりとも外国の実効支配を受け入れたことはありません。沖縄が「日本」なのは、純粋な日本を残してるからでもなく、同一人種だからでもありません。政治的・歴史的な動きの結果にすぎません。現在の歴史学では、単一民族=単一国家史観はすでに過去のものになっています。僕は今生きている現在の沖縄を否定するつもりはありませんが、全ての現在の状況は最初から「あるべき姿」が決定されていたのではなく、歴史の変動のなかで形成され、つくられた結果なのだと思います。

【追記】多くの方がこちらの記事を参照されているようですが、注意してほしい点は、遺伝上の起源や「血」で直接「民族」を定義・分類できるわけではないということです。民族は「科学的」に定義できるものではないのです。人類学的な形質が相似していることで単純に大和民族=琉球民族とならないことに注意。民族とは究極的にいえば「われわれは独自の集団だ」とその人々が考えるだけで成り立つものです。この問題については【こちら】を参照のこと。良記事です。

※【再追記】2012年11月1日、DNA配列の解析により琉球人とアイヌとの近縁性が高いことが証明されたとの報道がありました。日本人の二重構造モデルが裏付けられたかたちになったわけですが、本ブログで述べたような沖縄人と本土日本人との近縁性があること(今回の研究結果がこの事実自体を否定することにはなりません)との関連をどう評価すればいいのでしょうか。

今回の研究では同時に「琉球人は、九州からもたらされた稲作農耕を受容するとともに、本土日本人との遺伝子交流が歴史時代を通じて存在した」とも述べており(こちら参照)、近縁関係の距離の図式を見ると、確かにアイヌは本土人と比較して沖縄人のほうが近い。しかし近縁関係の距離でみると、沖縄人と本土人は近く、アイヌはかなり離れています(こちら参照)。

 つまり「アイヌは本土人と比較して沖縄人と近い」のですが、同時に「沖縄人はアイヌと比較して本土人と近い」といえます。「起源」ではなく現代までの「混血の様相」の過程に注目したのが、本ブログで述べた一連の研究なのではないかと考えますが、いずれにせよ今回の研究結果について専門家の意見を待ちたいところです。

 ※沖縄人ルーツ「日本由来」との調査結果も(2014年9月17日)【こちら

 参考文献:安里進・土肥直美『沖縄人はどこから来たか』、浦添市教育委員会「浦添ようどれ石厨子と遺骨の分析結果について」

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 琉球犬は縄文時代に沖縄のみならず日本列島に存在する縄文犬の一種で、起源には諸説あるが猟犬として用いられ、南方アジア系とも言われる。沖縄県では琉球犬をトゥラー(虎毛の琉球犬)あるいはアカイン(赤毛の琉球犬)と呼び、イノシシ猟や鳥猟の猟犬として使役した。トゥラーの場合その毛の色に応じて赤トゥラー(赤虎毛)、黒トゥラー(黒虎毛)、白トゥラー(白虎毛)と呼ばれる。弥生時代に入ると、日本列島の北海道と南西諸島を除く地域には、渡来人とともに縄文犬とは形質の異なる北方系の弥生犬が流入した。本州の日本犬にはそれらの犬の血が多く混じっている。その一方で、北海道と沖縄県では大陸系の犬の影響はわずかで縄文犬の血統が維持された。最近の研究で、北海道の北海道犬と琉球犬は遺伝子的に非常に近い関係にあることが証明されている

  • 1990年(平成2年)、「琉球犬保存会」を設立。
  • 1995年(平成7年)、沖縄県の天然記念物に指定される。

 特徴

  • 中型犬
  • 体高 : オス49〜55cm、メス46〜52cm
  • 体重 : 15〜20kg
  • 耳 : 逆八の字状の小さな立ち耳で左右の間隔が広い
  • 目 : 瞳の色は茶色もしくは青色
  • 尾 : 半円形の差し尾
  • 被毛 : 硬く短い毛の二重構造(ダブルコート)で、密生しておらず耐暑性に優れる。色は赤、白、黒、虎、焦げ茶等
  • 性格・性質
    • 人なつっこい
    • 縄張り意識が強い
    • 暑さに強い
  • 寿命 
  • 価格 
 「生きた文化遺産“琉球犬”ブログ」。
 「生きた文化遺産“琉球犬”ブログ」。
 縄文時代の古い犬の形質を残す“琉球犬”について、種の保存や増殖に永く携わってきた獣医の立場から発信する本家本元の“琉球犬”ブログです。
プロフィール
名前:新垣義雄
職業:獣医
ウェブサイトURL:http://okinawa-dog.seesaa.net/
メールアドレス:okinawa-dog@zpost.plala.or.jp
一言:沖縄県動物愛護センター 元所長
琉球犬保存会 初代会長
琉球犬ヘルス&ブリーディングセンター所長

 2006年02月07日

“琉球犬”の血液検査からみた特徴~その5

 2月3日以降続いていた「血液検査の結果」シリーズは今回で終了です。専門的用語が飛び交い、面白くなかったと思いますが、「“琉球犬”の特徴」の説明として、ご容赦戴きたいと思います。

 遺伝子頻度分析による“琉球犬”の認定
 イヌの血液タンパク質遺伝子のうち、多型を示した16座位の遺伝子について、それぞれの犬種ごとに遺伝子頻度を調べて、その遺伝子頻度から分散共分散行列を作り、コンピューターで主成分分析を行いました。データは分かりにくくなるので省略しますが、この結果日本犬種は、下記の3種類に分けられました。
・北海道(アイヌ)犬と“琉球犬(山原系・八重山系)”、西表在来犬、屋久島在来犬の集団
・韓国の珍島犬、済州島在来犬群と近い三河犬、山陰柴犬、対馬犬群の集団
・これらの中間に位置する多くの日本犬種の集団

 特に、
イヌ血球ヘモグロビンA型遺伝子(HbA)
イヌ血球ガングリオシドモノオキシゲナーゼg型遺伝子(Gmog)
イヌ血漿プレトランスフェリンA型遺伝子(PtfA)
という3つの座位の遺伝子は、その分布から、日本犬には朝鮮半島を経由して入ったに違いない、という結論に達しました。さらにこれらの遺伝子頻度が朝鮮半島のイヌでは高く、日本にいるイヌでは低いという結果が出ました。これは、これらの遺伝子の流入前に、その対立遺伝子を持ったイヌが、既に日本にいたことを示す重要な手がかりだと思われるのです。以上のことから、本最南端の“琉球犬”と、日本最北端の北海道(アイヌ)犬は、縄文時代に縄文人に連れられて南方から来た、古い型のイヌの子孫であると考えられるのです。

同時に、他の多くの日本犬種は、南方由来のイヌと、弥生時代以降に弥生人および古墳時代人に連れられて、朝鮮半島から来たイヌとの、混血によって成立した犬群の子孫であると考えられます。このように、イヌの遺伝子の導入ルートから、日本列島へのヒトの渡来ルートも推定されるのです。また、北サハリンの在来犬は、遺伝子分析の結果、日本犬種の成立には直接関係が無いことも明らかになりました。

以上の結果から「血液検査」に基づいて、
イヌ血球ヘモグロビンA型遺伝子(HbA)
・イヌ血球ガングリオシドモノオキシゲナーゼg型遺伝子(Gmog)
の朝鮮半島から浸透した遺伝子を保有しない在来犬を“琉球犬”として認定することにしたのです。

 琉球犬保存会による琉球犬血統書を交付した犬は、全て純粋な南アジア系の遺伝子であるHbAGmogを持つもので、今から13年前の平成5年12月当時で134頭を認定したのです。当時認定された琉球犬で、現在、生存が確認されているのは約20頭になりました。現在は、それらの子や孫が主流となって引き継いでいるのです。これらの純粋な血を絶やさないように後世に伝えたいと思っているのです。

 アイヌの征服と日本における人種主義(1)」、「アイヌの征服と日本における人種主義(2)」、「アイヌの征服と日本における人種主義(3)」。
 アイヌの征服と日本における人種主義(2)
 アイヌに対するステレオタイプ

 アイヌの人々への既存のステレオタイプの多くが社会ダーウィン主義の新しい人種理論に組み入れられた。アイヌの人種に基づく階層化に先だって、アイヌの肖像は、毛深く、攻撃的な、非人間としてしばしば彼らを描いた(Siddle)。日本社会によって、アイヌが半分人間半分犬であると一般的に受け入れられた。日本人はしばしばアイヌを軽蔑語アイノ(混血児の意)に悪用した。社会ダーウィン主義の到来で、これらのステレオタイプは全く悪化させられた。この新しいアイヌの研究における研究の範囲は、ステレオタイプを先在させながら、これらによって定義された。Siddleは言明した。「支配の枠組みの中で、学者は彼らのアイヌの劣等分類を洗練し始めた」。アイヌの知的劣等に関する研究のいくつかが、アイヌの計数システムに対する昔からの偏見から建てられた。

 アイヌを数学の能力がないとステレオタイプ化する習慣は、毛皮と魚の取引において「始め、1、2、9、10、終わり」という勘定に同意しないアイヌには誰に対しても倭人が屈辱を与えるかまたは、またはうち負かしていたような、植民地化と優越の文脈の中で、特徴的に始まった。この方法で、倭人は「10の価格でいつも12個の商品を手に入れることができた」(Arbuthnot)。この残酷な習慣を再確認する結果となったこのステレオタイプは、すぐに倭人の常識の一部になった。優生学と血清学における研究はすぐ以下のように続いた。すなわち、感知されたアイヌの攻撃性が、倭人の大部分がAおよびAB型であることと比べて、人口の中における血液型Oの優位の結果と考えられた。アイヌの衛生に関する研究さえすべてのアイヌには「耐え難い体臭」があったという一般的な信念に由来した(Siddle)。そのような研究(1950年代さえ)の人気はアイヌの研究のどんな人類学的な図書目録でも明白である。そこに、人はほぼ確実に「アイヌ、日本人、そして、混血アイヌの小学生に関する人体測定学の事実」や、「日本人とアイヌの下肢の毛」や、(最も明らかに)「アイヌの人種的な歴史とそれらの人口構造」などの研究を見つけるであろう(Gusinde)。絶えず人種理論の「科学的正当性」を再び断言することによって、日本人は人種的な階層構造のはしごの最上段上の彼らの場所を確認した。

 西洋人からの蔑視に耐えた日本人

 確かに、アジアの国によって征服された失われた「白色人種」のイメージは「白い」西洋人をすぐに煩わした。しかしながら、この困った精神・政治的な見解は、「異教徒の」国から「文明的な」国への日本の西洋的誘導に不可欠であったかもしれない。活発に西洋の人種的な考えを当て始める前に、日本人自身は、彼ら自身がアイヌに課したのと同じ、冷たく軽蔑的、疑似科学的で政治的に高圧的扱いを受けることに耐えた。結局、日本人自身は、フランス人の外交官のアーサー・ドゥ・ゴビノーによって、彼の作品「人種の不平等についてのエッセイ」における「黄色人種」として最初に転写され、西洋の人種的な階層構造の中央横木を占領し、それ以来、支配と搾取のゲームにおいて有望な領土であった(Koshiro)。「従順、素直、小さい」という日本人の戦後の占領軍の感想は、日露戦争の開始の前にもう少しで消されるところであった概念を増幅させただけである(Koshiro)。それにもかかわらず、日本がますます際立った帝国主義者の強国として現れたとき、西洋世界が人種的な分類を再定義しなければならないだろうというのはすぐに明確になった。日本人が西洋の文化を自分のものにしたので、次第に近代的であると考えられるようになった。そして、西洋人は、この同化を評価する必要があった、「精神、身体、言語、思想、様式、制度、そして精神的なイニシアチブにおいて、日本人は、アジアで最も非モンゴリア的であった」から(Henning)。本当に、ロシアより日本がさらに文明化され西洋化されると考えられた。「東洋であるが、日本は、近代西洋文明を支持し、その成功は…東洋の西洋化を意味する。」「他方、ヨーロッパであるが、東洋的な絶対主義を支持し、そして、その成功は無知の永続化と力の治世を意味する」。

 アイヌと日本人どちらが「白人」か

 日本の新しい地位と妥協するために、アメリカ人は日本人と白人のアメリカ人の間の類似性を、彼らの違い以上に示し始めた。彼らは他のアジア人と日本人を区別しようとした。彼らの人種理論が完全にたわごとであったわけではないという疑惑を完全になだめるために、あるものは日本人が「何とかしてクリスチャンの、白人」であるという証拠を求めさえした。日本人を人種に関する文脈で完全に理解するために、白人種アイヌは考慮に入れられなければならなかった、そして、「アイヌ人種」についての対話は日本人の人種的な分類の重要な要素になった。日本に旅行した多くの西洋の学者は、酔っぱらっていて、毛深く、攻撃的で、ほとんど非人間としてアイヌを漫画化する際に、日本人のアカデミー会員と共に馴れ合うのが迅速であった。アイヌの問題を扱うとき、人種が非常に際立った問題であったので、あるアメリカ人の作家は「『石鹸の全くの無知と水への反感』で、彼らの皮膚色を決定するのは難しくなった」と弁解した。1904年に、アイヌは、「人種的、民族的、そして、文化的なタイプの30以上の生活集団」を表示した民族学的展示において、ルイジアナ国際購買博覧会の一部になるように、セントルイスに連れて来られた。これはアメリカでのアイヌ研究の興味の爆発を生じさせた。アイヌの展示をセントルイスまで持って来るのを助けた、シカゴ大学の人類学教授フレディリック・スターは、「人種の身体的な特性」を書き、「ここで、私たちは戦って、敗北した白色人種を見つける」ということに不本意ながらしたがった。

 「白人」の優位を守るためには何でもあり

 スターは、アイヌは「コーカサス人種」が生物学的に優越へ運命づけられてはいないことの生きた証拠であると提案した。しかしながら、スターの解決策は学会の主流によって退けられた。学会の主流は、まだ、滑らかな色の漸次的変化という人種理論で倭人-アイヌの関係を正当化しようとした。展示を訪れたポール・カルス教授は、もしアイヌが白人であるなら、彼らはアーリア人の人種のスラヴの支族の一部であると結論を下した。また、日本人自身が、一部から、イギリス住民と非常に同様の「人種的ストック」のものであると本当に思われた。「大和民族」が全く人種の合成物であったという西洋の理論が現れた。すなわち「アイノ、マレー、モン・クメール語族ニグリト系、朝鮮人、および大和の融合」であると。この人種を混ぜることは、イギリスの遺産の下の「人種的な」混合物に匹敵し、「全人種のうちで最上」に賛成する側に立っていた。
 この道、日露戦争およびアイヌへの倭人支配の観測の両方の中に、「アングロサクソンの優越」の信用を回復するのは簡単であろう。それにもかかわらず、アイヌの征服は西洋の人種理論に異議をとなえ、アメリカ・イギリス人の学者と作家は、無理なく彼らの人種的イデオロギーにこの異常を含めるために、彼ら自身の人種的な理解をねじ曲げなければならなかった。(H19.8.10)
 アイヌの征服と日本における人種主義(3)

 日本における人種理論

 科学的に認可された人種的な優越は、日本における人種理論と日本人自身の人種的な構成の継続的な固定に影響を及ぼした。もちろん、第二次世界大戦への米国の参加の前の急速に増大する戦争の期間の前後に、これは大和の血統排他性の再興を意味した。これから、日本人の自身の「人種的な遺産」についての日本人の意見と多くの西洋人によって提供されたアングロサクソンのそれが正反対であるように見える一方、人種の2つの構造が日本人の「人種的な優越」を正当化する同じ目的に役立つのがわかる。戦時の日本人のアイデンティティは人種的なアイデンティティへの執着によって大いに影響を及ぼされた。日本の社会科学者は、血液型、皮膚色、髪の織り方などの人種の身体的な特性を指示するのに「人種」という単語を使用した。民族には、よりゆるい含意があった、およそethnos(エスニック・グループ)と同等である。(ethnosは「共通の血統、文化、言語、習慣、および宗教」などの特性を含んでいた)(Weiner)。戦前、社会科学者は2つの用語を区別し、異なった文脈で保持した。しかしながら、戦時の間、2つの意味の間の線はぼけた、民族と人種の概念がますます日本の宣伝機関の中で区別がつかなくなるにしたがって。民族の新しい定義は「一般的な運命を共有した有機的な集合体…自然で霊的な共同体」を表すようになった(Dower)。そのような過程は日本に独自ではない。社会理論家ロバートアッカーマンは述べている:「『市民』は、異星人あるいは反逆者かもしれない人々および国家目標に不利に働く人々の反対と定義されるだけではない」;「また、市民は民族の理想、あらゆる民族形成の中で内部的人種差別の潜在的論理を発生させる手段として提示される。」(Ackerman)。そのような戦時に固まった民族・人種の考えは、天皇に対し民族の長(人々の頭)という肩書を与えた。「日本人」の評価基準の確立は、日本人論の形式および国粋などの用語との提携による、人種に基づいて階層化された民族の考えから出現した。

 仮想血統共同体

 血統はこの「仮想の日本人社会」の定義において不可欠になった(芳野)。芳野は、また、「日本人の血」の考えが社会的構造であると強調する。確かに、日本人の血統の創造は、アイヌの人種に基づく階層化からくる、旋回軸とみなすことができる。人種の新しい定義に関連して、「もう一方」(アイヌ、韓国人、部落民の様な)の存在は、「土着の純粋さ」の考えを支えるのを助けた(Dale)。日本人の血の対話の中では、著名でよく教育された学者でさえもが、日本の「世界の'主な人種'として神々しく、そして遺伝学的に予定である」運命を宣言した中において、学者はかつて完全にヨーロッパ中心の分野であった遺伝子の決定論のトーンを補強し始めてさえいた。(Dower)。日本の遺伝子決定論とアイヌの征服のイデオロギーを採用する必然的な結果は、弱いアイヌが急速に消え失せるだろうということであろう(Siddle)。その点で、「日本人」の民族の純粋性を保つための手段は、異種族結婚に対するタブーの促進を含んでいさえするであろう。この仮想血統共同体は、現代の日本人のアイデンティティにおける排除と包含の社会的定義を形成し続ける。中曾根が、1986年に日本には人種的少数派が全くないと述べたとき、多くの「日本人」が同意し、その称するところによれば「同質社会」に生きて、日本人が今日までさえ、人種差別に関係しないという神話を保持し続けた(Macintyre)。

 アイヌのアイデンティティ

 Milesによって示唆されたように、アイヌのアイデンティティは倭人との関係によって影響を及ぼされた。容易にアイヌが日本文化に同化するための努力をアメリカの「黒人」の「白人文化」への同化と抵抗の話に間違えることができた。両方において、人は文化的に特有の要素の創造と、一部の者による、「主流の社会」に受け入れられるためのそれらの文化的な区別の放棄に気付く。新しいアイヌの儀式は倭人優位への心理学的な抵抗として展開した。よく知られている倭人神話にもかかわらず、アイヌは彼らの二十進法(日本の十進法の数学的方法から明らかに発達した)の複雑な会計システムを誇っていた(Siddle)。より重要なことには、アイヌの積極行動主義の近年、アイヌの人種的な分類はアイヌの共同体の中でプライドの動因になって、「確実な確認と権利拡大の手段」に変えられた(Siddle)。アイヌは、公的にそれら自身のアイデンティティを取り戻していて、そうアイヌ-倭人関係のプリズムを通さないことを試みているが、Siddleは現代の学者がほとんど「民族の新しい会話における文化と政治の融合」を試みる現在のアイヌの運動を記録することへの関心を示さないと指摘している(Siddle)。

 しかしながら、文化の保存の現在の問題は、まだ複雑に錯綜して、「滅びゆく民族としてのアイヌ」という優位な物語の内部に対抗して絶えず位置づけられる。「滅びゆく民族」に関連していることの不快の結果、今日、多くのアイヌが単一言語の日本人である(Ostler)。自治と同化の問題は、非常に複雑であり、日本の先史の物語すなわち縄文が日本の部族の分散的な集団の物語であると単に知覚するかいなか、あるいは、日本人の物語において特有の存在を要求するか否か、を選ぶ際に起こる問題でさえある。しかしながら、優位な物語は「アイヌの文化から自治とその歴史的真実の両方を奪い、ほかの全国いたる所で現代までどうにか生き残った伝統的な地方の慣習のレベルへアイヌの文化的な習慣を減少させること」に役立つ「より広い、しかし、基本的に単一の日本の文化複合体」の考えを促進する(Levin)。ある意味で「現代化のために」アイヌの文化を消す口実として、日本社会に受け入れられることに向かった進歩が再三持ち出された。

 西洋の人種イデオロギーと日本

 西洋の人種イデオロギーは、永久的な西洋への劣等地位の可能性と「現代的」国家として受け入れられたいという願望の間に日本人を近接して並べた。セントルイス万博におけるアイヌの展示会によって、日本人には、スター教授の結論を支持して人種差別主義のイデオロギーをひっくり返す機会があった。しかしながら、採用された人種的なイデオロギーは日本人の優越思想および結局のところ、戦後の敗北のショックにおける、白人優位の人種差別の体制の支援への回帰に発展しただけである。日本の人種差別のこれらの動揺のすべては、人種差別主義の倫理的根拠の世界の中で絶え間なく定義されたアイヌの征服の裏から湧き出た。アイヌの人種に基づく階層化の残留物は、日本人の包含と除外の定義、および、まだ和解していないままに放置されたアイヌの同化の結果としての社会問題に影響し続ける。(H19.8.12)


 時事通信191 縄文人ゲノムを高精度解析=「酒に強い」特徴も-国立科博など」。

 2019.5.13日、国立科学博物館などの研究チームが、北海道・礼文島の船泊遺跡から発掘された約3500~3800年前の縄文時代後期の女性人骨から全遺伝子情報(ゲノム)を高精度に解析したと発表した。論文は近く、日本人類学会の英文誌に掲載される。国立科博の神沢秀明研究員、国立遺伝学研究所の斎藤成也教授らのチームは船泊遺跡で見つかった女性人骨の大臼歯からDNAを採取。保存状態がよく、現代人とほぼ同じ精度でゲノムを解析することができた。

 解析の結果、縄文人の祖先は約1万8000~3万8000年前に、中国大陸に住む現在の漢民族との共通祖先から分岐したと推定。ロシア極東部から朝鮮半島、台湾の先住民など東アジアの沿岸部の集団と遺伝的に近く、比較的少ない人口集団で狩猟採集生活を続けていたことも分かった。また、この女性の瞳(虹彩)が茶色く、髪の毛が細いなどの外見的特徴や、アルコールへの耐性が強いことなども判明。高脂肪食に適応した遺伝的特徴も持っており、このことは遺跡からアシカなどの骨が多数出土している状況とも一致した。研究チームにはこのほか、札幌医科大、金沢大、山梨大などの研究者が参加している。

 縄文人のすべての遺伝情報の高精度解析に成功した。国立科学博物館などの研究チームは、北海道・礼文島の遺跡から出土した女性の縄文人のすべての遺伝情報を高精度解析することに成功した。解析の結果、この縄文人はアルコールに強く、高脂肪の肉食に適した体質を持つことが明らかになったという。また、縄文人の祖先は1万8000年から3万8000年前の間に大陸の集団から分岐して日本列島に入ってきたこともわかり、研究チームでは今後、日本人の起源の解明につなげたいとしている。
 縄文人は現代の日本人と比べ肉や魚を消化しやすい遺伝子を持ち、遺伝的な多様性は低いことがゲノム(全遺伝情報)の解析で分かった。国立科学博物館などの研究チームが13日、発表した。縄文人が狩猟や漁労を中心に小集団で生活していたことが遺伝情報からも裏付けられた。

 チームは北海道・礼文島の船泊遺跡で出土した3500~3800年前の縄文女性の骨から採取したDNAを分析。その結果、肉など高脂肪食の消化を効率的に助けるタンパク質を作るよう遺伝子が変異していることが分かった。アザラシなど肉食が中心の北極圏のエスキモーに多くみられる現象で、現代の日本人にはみられないという。

 また、ゲノムの多様性が低い状態が約5万年にわたり続いていたことも判明。小集団で生活していたことを示すもので、獲物を求め移動を繰り返す縄文人の生活を反映しているらしい。

 このほか日本人全体ではゲノムの10%、アイヌ民族ではゲノムの70%が縄文人に由来することが分かった。また、縄文人は1万8000年~3万8000年前に大陸民族から遺伝的に分かれたことも判明した。

 国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長は「縄文人の特性がかなり分かってきた。今後は日本人の成り立ちとの関わりも解き明かしたい」と話している。

 この縄文女性は40~50歳代で身長140センチ台、瞳は茶色で毛髪が細く縮れアルコールに強かったことなどが既に判明している。チームは昨年、顔の像を復元し、さらに詳しく調べていた。
 現代の日本人は祖先の縄文人が持っていたDNAの約10%を受け継いでいるとする研究結果を、国立科学博物館のチームが13日発表した。縄文人のゲノム(全遺伝情報)はこれまで部分的に解析できていたが、初めて解読した全ゲノムに基づいて分析した。

 日本列島には朝鮮半島から3千年前に弥生人が渡来し、縄文人と混血したとみられている。現代人が受け継いだ「縄文人ゲノム」の割合は、北海道に住むアイヌ民族と沖縄に住む人で高かった。チームは「日本人の複雑な起源を知る手掛かりになりそうだ」としている。




(私論.私見)